はてなキーワード: 不断とは
(2023.11.1 決議)
立命館大学学友会は日本最大の学生自治組織である。というよりも、勝手に日本最大になった。
早稲田大学は自治を放棄し、日本大学にはそもそも自治組織が存在しなかった。
私は学友会が進んでいるとさえ思っていた。他の大学が諦めたことを立命館は不断の努力によって続けてきたのだ。最近になって自己批判に晒されている。それがまやかしなのかという疑問が沸々と湧いてきて、組織として上手に隠して運営されていると結論に至る。
学友会と関わりが深かった先輩の言葉を思い出した。「学友会とは時代遅れの組織である」と。
なぜ多くの大学が学生自治を放棄したかは自明の理である。それが生徒会に堕落してしまったからだ。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2014/0331.html『雑談(105)今時の学生たち(2)――大学に生徒会?,2014年3月31日』
この文献が端的でわかりやすい。大学で学位取得を目指す人間は学生なのである。決して生徒ではない。自らの力で、学生の地位向上のために動く組織が自治組織たりえるのだ。生徒会とは、学校の小間使いでしかない。近年、多くの大学が生徒会になった。私は単にナショナリズムの欠如だと思っている。大学に不満を抱いても、インターネットでそれを補完できてしまう。大学側も少子化によって学生を選抜するのではなく、お客さんとしてきてもらうためにサービスを拡充させて学生数の維持及び向上を目指している。今の学生に学生全員が一致団結して争議できる議題は何もない。かくいう立命館大学学友会も前年度、これまで一致団結のスローガンとしてきた学費争議からリタイアした。値上げ反対の姿勢を崩し、学費増額を致し方ないとした上で「未来に向けた議論をしたい」と言い切った。最後まで学費増額に反対する立場を取り続けたのは教職員組合だった。
いまの立命館大学学友会を学生組織として機能させているのは、会費の代理徴収制度である。大学の学費と同時に自治会費を徴収し、学生のみで扱える金銭を自治会に差分するものだ。他の大学は権限を放棄させられた。学生に責任を握らせることはできないと。立命館大学学友会は、代理徴収の権限をひたすらに守った。代理徴収がなくなれば学生で学生を自治する、学生自治で無くなるために、必死に制度を守った。その頃はまだ学費増額への提議、反対勢力の一翼を担う力があった。だが、大学の融和政策に堕ちた。学費増額への反対は、もはやハリボテだったから理念を変えた。その先は学園共創という大学に都合の良い存在にしかなりえない未来である。
学園祭・新歓行事、スポーツなども含む課外活動、学生間の互助活動、大学との学園共創活動、財政の公開、それら役員の選挙。
その全てを、
無給で、
取り組んでいる。
なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰、歴史の勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。
もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範を疑問視するのと、ごく一部の強者の欲求を抑圧して大多数の弱者に恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。
自然法則は神様が決めた絶対のルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口からは絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。
なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権はお気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカなネトウヨか冷笑系です。
誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?
そんな事を言ってるオマエだって人権の利益を享受してるだろって?
それは話がすり替わってますよね?私が人権の利益にあやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。
いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権が絶対かという問いからはズレてる。
疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。
他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快の問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感の問題だ。
意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情に論理を乗せたというよりは、感情の多数決そのものではなかろうか。
とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。
別に論拠なんかなくても快不快の多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。
人権の「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。
人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的に絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。
まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断の努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルでしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。
……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。
「普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。
あるなら出してください。
そうだよね?
日本国憲法 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
『内心の自由は絶対的に保護される』と主張する人がいるが、それは『実際に憲法に書いてある』わけではなく『解釈として』そうなっているだけに過ぎない。『自衛隊は日本国憲法に違反しない』というのと同レベルに過ぎない
弱者男性が性欲を持つこと自体が女性の幸福追求権に反していると考える人もいる。となると最終的には公共の福祉の問題になる。
「なぜ図書館で本を借りることは恥ずかしいのか?」
https://blog.tinect.jp/?p=82951
図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
1.日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
2.すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
3.図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
4.わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
5.すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
6.ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
「図書館の自由に関する宣言」とやらにはこんな大層な宣言がされているようだが、実際に図書館に置かれている本は小説や教育的な本ばかりで偏りがたいへん大きい。
国民の知る自由を謳うのであれば漫画や週刊SPA!、週刊プレイボーイなんかも置くべきでは?
国民の知る自由などと御大層なことを言っておきながら、実際には体よく国民を教育したいだけではないか?
図書館は図書館が本気で国民の知る自由を守る立場にあると思っているのなら、あらゆる書籍から平等に本を選定して収蔵すべきでは?
YoutuberにSyamuって人がいる。
彼は「歌ってみた」やゲーム実況など、おおむねほかのYoutuberと似たり寄ったりなことをやっている。異世界ものの小説を書いたりもしている。
彼の知名度は低くはない。とはいえ、匿名掲示板やSNSの利用者などは彼に対して否定的な評価を下している。正視に堪えない言葉で悪罵されることも少なくはない。
とはいえSyamuさんはネットの住民が言うほど愚鈍とは思えない。彼の動画を見ることもあるが、少なくとも三十路過ぎの自分よりかは能力が高いことは間違いない。
それどころか知性・感性などの能力は同世代平均から見ても高いレベルにあるのでは?とすら思えるのだ。
例えば彼は、30歳を過ぎてもボーカロイドの曲(「ハッピーシンセサイザ」など)を歌ったりそれで踊ったりしている。いうまでもなくボカロ文化は新しいものである。
そういう新しい文化を30過ぎても虚心坦懐に取り入れる彼の柔軟性、あるいは感性のみずみずしさには舌を巻くばかりだ。
ボカロ文化に関していえば、自分が高校に入学した2007年ぐらいから話題になりだしたという印象がある。
高校のころぐらいに一度ボカロの曲を耳にしたことがあったが、はっきり言って黒板をひっかく音のような不協和音にしか聴こえず、結局10秒も聴くことはできなかった。その後もボカロ系には触れていない。
ましてや30歳を過ぎると人は頑迷になるというか、新しい音楽文化には抵抗を示しだすようになる。
そんな中、Syamuさんは30歳を過ぎても新しい文化をどん欲に吸収し、それを咀嚼してインターネットで発信した。みずみずしい感性のなせる業である。
他にもSyamuさんは小説を書いている。正直文体に関しては粗削りというか、英文を逐語訳したみたいなぎこちなさはある。
とはいえ、文体のぎこちなさと中身は必ずしも比例しない。彼が執筆した小説『ゾット帝国』に関しては、ファンタジー分野に関する蓄積をそれなりに理解しないと書けないのではないか?と思う。
確かに、『ゾット帝国』などのいわゆる「なろう系」は、一部で揶揄の対象として消費されているきらいがある。
ただ、その手の小説を書くにあたっても、「なろう系」の読者が共有する「魔法」や「(ファンタジー風の)異世界」という共通概念をある程度理解しないといけない。
いうまでもなく、魔法も異世界も現代社会に生きる我々が実際に認識できる代物ではない。それらは創作物を介し、ある程度抽象化された形で(書き手の中で)認識・体系化される。
その認識と体系化というのは知的営為に他ならない。知的営為を続けるための不断の努力がなければ『ゾット帝国』のような「なろう系」は執筆できない。
そう考えると、Syamuさんが『ゾット帝国』のようなハイブロウな小説を書けたのは、ひとえに彼の知的レベルの高さをあらわすものではなかろうか。
自分の場合、魔法も異世界も理解できる域に達するほどの知的レベルはない。その手の作品(最近だと『転生王女と天才令嬢の魔法革命』)を見ようとしても、何が何だか理解できないので10分ももたない。
それはひとえに、「なろう系」のような高度な知的営為から逃げ続け、昔から即物的な情報の断片の収集に血道をあげていたからだろう。
情報の断片を貪るだけしかできない自身の知的怠慢を呪いつつ、Syamuさんの知的豊饒さに万雷の拍手を送りたい。
複雑なルールの理解や高度なマネジメント技能が必要な『ウマ娘』や『原神』などのゲームができることも、彼の知的レベルの高さを如実に表している。
『ウマ娘』においても、まず「どの操作を行えばどのパラメータがあがるか」というルールを理解しないことにははじまらない。その際、現実世界の事象をフィードバックできるような生ぬるさはない。
ゲーム内世界で完結する定理などをある程度体得し、それをもとに常に最適解を考え操作しなければならないという、まさに絵にかいたようなスパルタンさである。
そういうむき出しの知的スパルタンな代物をこなし、さらにそれを「楽しい」と思えるレベルなのである。これが高度な知的レベルの証左と言わずに何と言おうか。
いうまでもなく自分は『ウマ娘』のルールが一切理解できなかった。それは知的スパルタンさに耐えられるほどの知力がなかったからだ。
他にもSyamuさんは優秀だと感じることは多々ある。
確かにネットの住民は、彼をあたかも知的競争の敗者のごとく揶揄している。むろん、それはネット特有のある種の露悪的なノリが表出した「ネタ」に過ぎないと評する向きもあるだろう。
ただ、それは彼に対する正当な評価だとは到底思えない。Syamuさんのような卓越した知性と豊かな感性を持つ人こそ、正当に評価されてほしいものだ。
増田とかはテブの人って、とりあえずルール違反に厳しい印象があるよね
それで問題が発生していたり運営が厳しく取り締まったり、そもそもそういうことをできないようプログラムしていれば話が早いんだが
この何年もポケゴーで複垢のバン報告はあまり聞かないし、それ以上に複垢もRMTも位置偽装もし放題なんだよね
一部の潔癖症の人以外は複垢程度に何の違和感も持っていないだろう
あらゆるイベントでは2端末3端末持っていることは当たり前の光景だし、運営も黙認しているようなら、それは「守るに値しないルール」といっていいよな
原理原則を持ち出す人はいるけど、ではなぜそういうルールができてそのルールを守ることで何が起きるのかを理解していないなら、何の意味もないよな
@KokkaiSheep
ツイッターで、数字1字を全角、2字以上は半角で厳密に書き分けてるやつがいたら要注意人物だから気をつけた方がいい。主語の後ろに必ず「、」を打つやつも怪しい
https://twitter.com/KokkaiSheep/status/1653007474201616384
@sabumasa
ちなみに、「数字1字を全角、2字以上は半角で厳密に書き分けてるやつがいたら要注意人物」というのはなぜでしょうか?
@KokkaiSheep
すみません、上記しょうもない系のネタツイートです(内輪ネタ)
@sabumasa
そうでしたか。
昔、雑誌編集部に勤めていた時のその雑誌の表記ルールがまさにこれだったんですよ。私はそんなものをツイートでも踏襲する律儀?な人間ではないですが、そうじゃない人もいるかもしれない・・という、素朴な疑問でした。
@sabumasa
テニス(#GoGo添田、ジョコビッチなど)/映画/立憲主義/日々のこと/目標:不断の努力、まずは行動、小異を捨てずに大同につく/嫌悪:全体主義、権威主義、同調圧力、コンテンツ、こたつ記事、矛盾/ #私たちは微力だけど無力じゃない #インボイス制度反対 #戦争反対 #肉球新党 「#憲法審査会 を全部見る」スペース
話の屑籠
@kuzukago2013
ああ、法律の条文が、まさにそれですね。。
ひさまつ
@h83JHX4RAWXl9x0
有価証券報告書とか財務報告関係でも数字1桁は全角とかありましたけど、フォントも読みやすくなって、今では半角に統一した方が良いですね。
@livefuchu
近年来,郭文贵的无耻不断的刷新着大众对骗子的认知,挺郭者中理智尚存的纷纷清醒,而残余蚂蚁帮扭曲的三观让吃瓜群众叹为观止。他们对漏洞百出的谎言深信不疑,对显而易见的真相置若罔闻,沉浸在郭文贵的谎言中无法清醒。郭文贵的谎言是大众的笑料,却是他自己和小蚂蚁们赖以生存、为之疯狂的毒品。如果郭文贵的喜马拉雅是疯人院,那么恭喜郭文贵和蚂蚁帮已提前到达终点。
谎言毒品——权贵
上层权贵是郭文贵一直求而不得的身份,是爆料革命不可或缺的部分,也是诱惑小蚂蚁的重要毒品。每当谎言被戳得惨不忍睹时,他就会幻想出一些神秘事件和人士抬高身价。以前的我盟、老领导、特情局、神秘会议、全球反CCP联盟组织、大军火商、前元首、美国政坛未来的高层。而小蚂蚁们也尤为喜欢这一套,为郭文贵的“独立顾问”沾沾自喜。至于故事中的商人干预政治、总统跨党派选参谋、未来领袖关键时刻不操心中期选举却管他国闲事这些与常理相悖的情节,小蚂蚁们一概忽略。郭文贵这些只为效果不顾常理的权贵故事,确实能让贪慕虚荣的无脑蚂蚁们失去理智,但这也是绝路上自欺欺人的海市蜃楼。
谎言毒品——阴谋
郭文贵眼见权贵故事被砸得粉碎,就立马换药,蹭热点爆假料,曾经为重庆公交车坠江事故塑造阴谋的面纱。这起事故的起因有黑匣子的监控视频为证,整个事件过程的回溯详细完整,强大的网友也扒出了女乘客和司机的身份,这确实是一出悲剧,但显而易见的与阴谋绝对无关。可郭文贵偏要借题发挥,杜撰出阴谋的味道,而性喜阴谋的小蚂蚁们果然无中生有的恶意揣测出了各种疑问。这是对证据确凿、事实脉络清晰的事件百般质疑,他们已经完全丧失了对真相的追求,只要有阴谋,真相完全不重要。郭文贵为了阴谋而阴谋,确实能让性喜阴谋的小蚂蚁们兴奋异常,却让大众更加看清了这出名为民主实为闹剧的所谓爆料革命的真面目。
谎言毒品——金钱
财产被冻,债台高筑,而股票又连连失利,郭文贵的财产和爆料革命一样风雨飘摇,但为了残存的蚂蚁帮,郭文贵只能硬着头皮炫耀财富。“越南制造”的战袍送不起,以次充好的领带被打脸嘲笑,不得已郭文贵编出个专业摄影师摆阔,还不忘奉上几张照片作为证明。满眼闪着金光的小蚂蚁只看得见郭文贵的虚假炫富,却看不见他对全球经济趋势的一无所知,他的巨额财富来源于罪恶终结于法律,在国外偷生的逃犯除了做梦,现实中绝不会再次侥幸成为挥斥方遒的金融大鳄。郭文贵的炫富,只能吸引无脑的小蚂蚁趋之若鹜,却无法掩盖他捉襟见肘的财务危机。
郭文贵的爆料是为了政庇,无料可爆就只能靠谎言维持,政庇遥不可及,谎言却成了郭文贵苟且度日、笼络蚁群的精神毒品,但谎言成不了现实,惩罚终将会来临,郭文贵必将自食恶果。
风光一时的郭文贵,在蚂蚁们的吹捧下,俨然成为了救苦救难的菩萨,为何郭文贵能一度辉煌无比,一度忽悠了成百上千的无知群众,其实就是在他不停的为自己抹上一层“意见领袖”的外衣,让我们扒开他的这层外衣,看看里面到底藏了一些什么鬼东西。
一、材料再加工的大忽悠
其实,郭文贵从一开始就想把自己打造成一个被迫害的意见领袖形象。在拉扎斯菲尔德等人提出的“两级传播”理论中,信息先由大众传媒流向意见领袖之后再流向公众,因此,意见领袖这一中介者无疑成了传播的“二把手”,将信息“解释并加工”成符合自己所属群体特性的内容并继续传播扩散。对于有利的内容,他们会主动传播,而对于不利的,则会一概去除。所以显而易见,郭文贵从不谈及自己被讨债,犯罪等问题,其总是非常擅长转移注意力,通过信息的加工和再解释,把一些广为人知的东西重新包装,附上阴谋论、迫害论,就可以快速的组装成一个抓人眼球的“爆料”。可惜,谎言经不起时间的推敲,为了维护好自己的形象,也就造成了现在我们看到的一个谎话连篇的郭文贵。
二、无信无力的大骗子
郭文贵为何总能有小蚂蚁跟随,从根源来看,就是他所给自己形象的包装和打造,有着支配引导,协调干扰的作用。他以意见领袖的形象,成为群体、人际传播中的重要角色,蚂蚁们所拥趸的对象,必须有着或权威、或可信、或专业的特性,对某一事件具有独特看法,深受大众或群体个人的信任。因此,从最早不知出处的老领导、纽约时报、班农等等,他在努力向关注他的人传播一种信息:他有强力的可信度。他通过所谓的爆料,迎合部分人群的想法,而在社会价值观解构,公众理性丧失,自身判断力减弱的情况下,其也在一段时间内,有效借助自身意见引导舆论,对已有信息产生或协调、或干扰的引领作用。但是,很快的,他的困扰缠身,导致了公信力的急剧下降,他精心打造的形象开始崩塌,用毫无根据、毫无逻辑的谎言编织而成的战神郭文贵,终究会被所有人唾弃。
三、扯着虎皮的大混蛋
在拉扎斯菲尔德的理论中,意见领袖社交范围广,拥有较多的信息渠道,对大众传播的接触频度高、接触量大,同时意见领袖常常关注那些身边的事件和新闻,并适时发表自己的观点。郭文贵的发布会、全球直播等种种做法与上述理论不谋而合,可以看出其别有用心,正所谓酒香不怕巷子深,他为何一而再,再而三的强调自己与重要人物、重量级媒体的“亲密”关系,原因就是他希望能掌握到一些信息,体现出自己的能量,从而为继续扩散和编造谎言打造一个强有力的虚拟背景墙,他希望通过扩大影响力,从而裹挟民意,为自己的政治庇护提供帮助。可惜,郭文贵拙劣的演技已经使得美国人失望,他最终的结局就是穷途末路。
想借意见领袖外衣,用民意武装自己,妄图期待以此获取美国的政治庇护,满嘴谎话的郭文贵这招看似管用,但是抛弃了最基本做人原则的他,怎么可能继续潇洒下去,越来越多的人,开始看清他的真面目,不断萎缩的蚂蚁帮就是最好的证明,他,已无路可走。
前文
国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。
自分の新婚時代を思い出してちょっと和んだ。てゆーか我が家(旦那側が年上、バターナイフは俺は使いまわす派だった、妻は毎回洗う派)と共通項あってなんか笑っちゃったんだけど。
さて、アドバイスは散々言われてるだろうし似たようなことを言ってる人がいると思うが、一言だけ言わせてほしい。
「絶対に譲れないこと以外は相手の希望に沿うように譲れ。それも無言でそうしろ」
あのね、相手を観察すんのよ。ほんで相手のやり方について絶対に嫌だ・譲れないってこと以外は「そっちのやり方にしよう」とか一々言わずに黙ってそうすんのよ。
同居してたら事実としてお互いに譲り合うもんだけど、一々「これは譲ります」とか言ってたら正直恩着せがましくなるのよ。
話し合いなんかいらねーよ。
ネットとかだと細かいこともちゃんと話し合って決める的な態度が持て囃されてる感じあるけど、譲れることなら一々話し合いなんかする必要ないんだよ。
元増田さんが実際どういう意図・思いで「話し合い」してたのか知らんが、話し合うという行為自体に「妥当性を評価する」みたいな要素あるでしょ。
つまり、元増田さんとしてはぶっちゃけどっちでもよかった・そこまで重く考えてなかったのかもしれんが、話し合う時点で「場合によってはこっちの主張を飲め」ということになるでしょ。
そんなん一々やられたら疲れるに決まってるでしょ。
元増田さんは、「これまでの自分の習慣、実家の習慣と違うことを嫁はんがしている」と認識した場合、黙って内心で「これは自分的に譲れないことかどうか」を検討して、譲れるなら黙って譲れ。
条件付きでなら譲れるってことで初めて「話し合い」をしろ。ただしその場合も、基本的にはお願いベースで話した方が良い。
あと絶対に譲れないことなら、それはそれで話し合いはいらないんだよ。
「申し訳ないがこれだけは絶対に譲れないので、自分のやりたいようにやらせてほしい。ただしそちらの分には口は出さない」と宣言するだけなんだよ。
健闘を祈る。
最後に蛇足も蛇足だが、我が家において俺と妻が譲り合った事例を覚えてる範囲で参考として書いておく。
ごめんちょっと盛った書き方したし言葉足らずでしたよね。トラバへの返信トラべでも書いたんだけど、俺の真に言いたかったこととしては
黙って譲れることなのか、条件付きでなら譲れることなのか、絶対に譲れないことなのか(日常生活でそんなん滅多に無いとは思うが)を、相手に「話し合い」をぶつける前に自分の中で検討しろって話。
がメイン。絶対なのに譲れるなら絶対じゃないのでは? ああそうだよ!言葉のアヤだよ!悪かったよ! てか日常会話での絶対なんてそんな絶対じゃないだろ!ごめんよ!
rajgrksalme32f コメントにもあるけど、「絶対に譲れないことで被った時は?」これがすごい気になる。譲り合いできないし、かといって話し合っても解決にならないし。
思考実験としては面白いけど生活でそんな「本当に絶対に譲れないこと」なんてほぼ無いし、「絶対」の弱い方が妥協することになるんじゃないですかね。
お気の毒に思いますが、結婚生活において配偶者様とのそこそこ円滑かつ良好なコミュニケーションを維持するために不断の努力が必要なのは言うまでもなく自明のことなので一々書きませんでしたね(そもそもフツーに仲良い夫婦ならそんなん意識しなくても当たり前にできていることであり)。
hesopenn 絶対に譲れるかそうではないかの二分法的思考、一つの論点だけで譲れるか譲れないか判断するなど、反面教師にしか思えない。論点を増やして、互いの妥協点を見出すのが王道。実践!交渉学という本が良かった。
言葉足らず等々はごめんとして、そんなことは書いてないですよね
当初から。お互いに他人の気配があると眠れないどうしだったので円満に別室になった。セクロスするときは基本ラブホ行く。
Rlee1984 それはあまり良くない気がする。ジョーク挟めば話し合いも楽しい。相互の譲れない度合いを提示勘案した方が良いし、たくさん話し合う練習しとかないと、いざって時(両者譲れない子育て引っ越し介護)に詰むと思う
なんか他にも「そんなんだといざと言う時の話し合いに困る」的なコメントしてる人いたけど、失礼ですがパープリンですか?
結婚生活において配偶者様とのそこそこ円滑かつ良好なコミュニケーションを維持するために不断の努力が必要なのは言うまでもなく自明のことであり、「話し合い」以外にもコミュニケーションは色々あるでしょ……。なんで話し合いするかコミュニケーション無しかみたいな謎の分け方になってるのよ。
hope_ring 謙虚そうなアドバイスなのに妙に高圧的。自分自身の不満との折り合いが出来ないと不満が溜まって爆発するのになぁ。割と譲るけど軽く話す、希望を言うぐらいに段階付けて主張はするな。。。
折り合いをつけかねるようなことはちゃんとコミュニケーションしろよ………
ikanosuke 絶対やだ。主張が対立した途端「普段はこんなに譲ってるのに」って頼んでもいないのに引っ張り出されそうだし。譲ってやってるって思われてるのも嫌。快適な暮らしを営むためには、摺り合わせを避けるべきではない。
多分ですけど俺とあなたの「擦り合わせ」の想定内容は違いますね
なんかブコメで「ブコメへのレスっぷりを見る限り実は黙って譲ってなさそう」とかノータリンなこと言ってる人いるけど、そもそも家庭を継続維持していくパートナーに対してと、ブクマカに対してとが、同じ配慮・対応になるわけないだろ。それに俺は全部黙って譲ってるなんて一言も言ってないだろ(割合として黙って譲ってる、というか譲ってる意識すら無いことが多いとは思うが)。お前らは程度問題とか頻度とかそういうことを少しは考えろ。
あと一部の「それ違うよ」ってコメントについてはちゃんと否定しておかないと、いつの間にか既成事実化されたりするのでそうしているだけだ。
50代の男性未婚率が30%近いって記事を見て、驚きはしたけど、なんとなく納得する部分もある。
年に何回か連れだってロードバイクを持って旅行したりする仲間たちで、下は30代後半~上は40代後半まで
だいたい一回り差くらいの男どもばかり8人ぐらいのグループだけど、見事に全員が独身。
今年は、そのうち日程が合った4人で海外に走りに行ってきたり
全員で夏に北海道合宿をやったりしたけど、誰かに彼女がいるなんて話も出てこない。
このグループ全員に共通することは、優秀だしそれなりに稼いでるってこと。
海外留学して学位を取得して研究者やってるやつもいれば、同じく海外留学して経営に関わってるのもいる。
歯科医もいるし、フリーランスもいる、俺たちは程々に頑張ってやってきて、小さいながらも成功して幸せな社会人生活を送れているってのは共通してる。
そして、もう一つ共通点がある。
さすがに、こっちは全員ではないのだが。
一度は結婚相談所に登録して、結婚をしようとしてみたってこと。
登録してみると、結構すごい勢いでお見合いの要請が来たりする。何人にでも会えるし、妥協するなら結婚はできたのだろう。
だけど、そうして活動してるうちに、思うんだよな。
大なり小なり努力をしてきて、妥協なんてしなくても、それなりであり精一杯の成果を手に入れて来た人生で、結婚だけ妥協に次ぐ妥協で行っていいのか?
ふとそう思ったときに、自分のスペックと収入に群がってくる女が亡者にしか見えなくなってくる、そして嫌になる。
こんなところまで似ている。
プロサッカー選手などアスリートや、成功したベンチャー企業の経営者みたいに、めっちゃいい女を魅了できるようなスペックもない。
自分から好きになった人に受け入れてもらえなかった程度には、恋愛はうまくいかない。だから、望んだ結婚は出来なかった。
そう結婚できなかったんであって、しなかったんではないのは分かってはいる。しようと思っていた時期もあったんだし、誰かと恋人同士になったことだってある。
その延長で結婚できなかったんだよ。
でも、それなりに頑張ってきて、目標を実現することに半生を費やしてきたような努力家たちにとって、望まない相手との結婚が魅力には映らない。
中途半端に勝ってきたがゆえの、ちっぽけなプライドが、自分が望まない選択の末に幸福が待っているとは信じさせてくれない。
才能なんてなくたって不断の努力ができるなら、上位1%くらいには入れることを知ってる俺たちは妥協が難しい。
そんなことを言ってる自分たちは、もうとっくに40代で結婚なんて言っていい年でもなくなった。
だから、そんなこんなで俺たちは生涯結婚できないだろう、という結論に至ってる。
結婚が半ば義務だった時代なら、何かしらで押し付けられて押し切られていたのだろうけど、今は納得しない決断をしなくていい時代だ。
まぁ、こんな連中ばかりではないと思うけど、結婚できない30%の中には割と仲間が居そうだ。
俺は、好きになった人と一生を共に過ごす形として結婚がしたかったのであって
まず結婚をした後に、その人を好きになりたかったんではないんだよ。
子供をもつとかも好きになった人との間に持つかどうかであって、子供が欲しいから結婚したいと思ったこともない。
相談所でお見合いを繰り返すうちに、この「作業」の中から誰かを好きになるのは難しいと悟った。
結婚はそういうものではない、という人もいるだろう。それはそれで正しいのかもしれない。
だけど、結婚のための結婚は必要ない一人でいいって感想をブコメで書いてる人もいるが
その通りかなと。