はてなキーワード: ビッグネームとは
書いてることは概ね間違ってないけど、結論は間違ってる。
大衆がシンプルでキャッチーな音楽を求めるという見方は全く間違っていないし、実際にその理屈のもとで大成功を収めたベリー・ゴーディ・Jrという人物がいる。彼はもともとジャズが好きで、ジャズ中心のレコードショップを開いていたのだけれど、売れるのはより音楽的に簡素で演奏技術も高度でないドゥー・ワップやダンス向きのジャンプ・ブルースやロックンロールで、自分が売りたいものが全く売れなかったという苦い経験があり、そこから“リズムが豊かでわかりやすく楽しい音楽を作る会社”であるモータウン・レコードを創設し、ミラクルズ、スプリームス、ジャクソン・ファイヴといったミュージシャンを輩出していったという経歴がある。
音楽理論的に高度であるということが音楽的に優れている、という見方は極めて安直で、音楽理論的に高度な音楽は音楽理論的に高度な音楽なのであって、優れた音楽であることとは直結しない。
アメリカ、及び現代の音楽史を語る上で、アメリカの黒人奴隷(強制労働者)が生み出したブルースは欠かせないけれど、ブルース自体はごく僅かなコード進行からなる、元増田の言葉を借りて言うなら“音楽理論的に低レベルな”音楽だ。けれども、ブルースが持つ音楽的価値というのは極めて大きなもので、黒人がより高度な音楽教育を習得するようになった1950年代以降においてもシンプルなギター演奏だけで音楽を作り続けるレッドベリーやライトニン・ホプキンスといった黒人ブルース・シンガーの評価は続いていたし、更には彼らの直系の影響下にはウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったビッグネームがいて、彼らについてはもはや言うまでもない。
それに、理論的高度さを追求する人間はシンプルな音楽を“低レベル”であると見做している、というのも違う。
例えば増田の言う現代音楽の分野で成果を残しているフランク・ザッパのキャリアはドゥー・ワップやリズム&ブルースといったシンプルな黒人音楽の内面化から始まっているし、生涯に渡ってこうした音楽に興味を持ち続けていた。ロックの文脈ではアヴァンギャルド、ノイズ、シューゲイザーの先駆者であるルー・リードもボビー・ルイス、アイズレー・ブラザーズ、ファッツ・ドミノ、フレディ・キングといった50年代の黒人ポップスの愛聴者だったし、日本でも山下達郎のジェームズ・ブラウンはじめ60年代のソウル・ミュージックの愛好ぶりはよく知られているところ。
というように、わざわざ結論を書き直すまでもないけど「音楽理論的に高度な音楽だけが優れた音楽であるというわけではない」ってこと。
>アーティストでも、若いころは電子音バリバリの歌を歌っていたのが、歳を取るにつれアコースティックな静かめの曲ばかり歌うようになったとか
これのわかりやすい例にロッド・ステュアートがいて、彼も年齢を重ねるに連れてビバップ以前、あるいはポップス寄りのジャズ・スタンダード(わかりやすい音楽)を積極的に採り上げてカヴァーしてます
なんか、ひょんなことから月蝕歌劇団(という小劇団が都内にあると思ってほしい)の公演を見に行って、それ以来なんか芝居づいている。
これまで演劇なんてぜんぜん興味がなかったのに。
いくつか劇場に足を運んだところで、もう1回くらい観ればもっと色々と見えてくるものがあるかと思い、また月蝕歌劇団に足を運んでみた。
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演目は『ねじ式・紅い花』と『盲人書簡−上海篇』の2本立て連続公演
(前回の観劇の記録は
https://anond.hatelabo.jp/20170925212923
を参照のこと)
ということで、自分のログを兼ねて、また観劇記を残しておくことにする。
御用とお急ぎでない方は、しばしお付き合いを。
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ただし。
自分は舞台観劇についてはとことん素人なんで、これから書くのは、通りすがりの素人が見た印象批評くらいのつもりで、紹介文としての情報は期待しないでほしい。
(というか印象批評というワードも小林秀雄みたいで偉そうだな。ほんとに感想文くらいの感じで、ひとつ)
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■全体として
歴史の長い劇団というのは知っていたけれど、今回は公演100回記念とのこと。
で、旗揚げ時代からのライバル劇団その他のビッグネームが集結した大プレミアム公演だったらしい。
普段は若い女性主体の “少女歌劇団” っていう感じの劇団なんだけど、今回はキャストの年齢が大はばに高めだった。
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ちょっと変わった構成をしていて、1つのシーズンというか公演期間を前後に分けて、2種類の演目を上演する。
さらに各演目について前座というか露払いというか、出演キャストの歌唱ショー、寸劇、詩の朗読その他をまとめたパフォーマンスとして “詩劇ライブ” というのがある。
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なので、フルで鑑賞すると1シーズンで合計4演目。
これを多いと思うか、アリだと思うか。
いろんな作品世界が見られてオトクだとも言えるし。
リハーサルやシナリオの練り込み等々のリソースは分散されるから内容的に落ちるものになるかもしれないし。
自分が見たところ、器用な高能力キャストと、まぁそうでもないキャストでうまく仕事を振り分けて、不満を感じさせない作りにしている感じだった。
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順番に見ていってみると。
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先に不満点を言わせてもらうと。
演目『老人と子供のポルカ』の歌唱。
左卜前役のベテランキャストがカンペ片手に左右のキャスト(岬花音菜、慶徳優菜)を振り回して大暴れ。
休みなく次の曲『本牧メルヘン』が始まり、そのまま岬花音菜がマイクを握るが、息の上がった彼女にはキーが低すぎた。
おかげで貴重な戦力(岬)を空費。
トリの白永歩美がキッチリと『バフォメット(と、あとなにか悪魔がもう一柱)の歌』(詳細不明)で締めてくれたのが、せめてもの救い。
ハプニングなら再発防止策を取ってほしいし、プロットなら、申し訳ない、あれに快哉を送るハイなセンスは自分は持ち合わせていない。
しかし。
詩劇ライブというのがファンミーティング兼同窓会だというのなら。
いとしの大スターがいつにないハジケっぷりを開陳したほうがファンサービスとしてのお値打ち感は高いのかもしれない。
と、思って周囲を見回してみると、自分と同じか、あるいはさらに年配の観客がホクホク顔で舞台を見守っている。
ハテ、招カレザル客ハ自分ノホウデアッタカ。
うん、わかった。
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■後半の前座『詩劇ライブ 暗黒少年探偵団』
詩劇三傑(←たったいま自分が決めた。はるのうらこ、岬花音菜、そして白永歩美の3人)のパフォーマンスがたっぷり見られたので実に良し。
はるの嬢は前回と同じギター伴奏かと思ったら、ギターからキーだけもらって、ほぼ独唱。それでいてピッチは正確、ハイノートも申し分なく出ていたし、なんというか、 “このヒト、ひょっとして劇団の隠れた屋台骨なのではないか?” という予感がさらに強まる。
(↑それは本編でガツンと証明されるんだけど)
なぜ合唱のときは控え(それはもう、あからさまな控え)にまわるんだろう?
リハーサルの負荷をソロに集中させるためか。
岬花音菜はカッパの舞。そして小阪知子を舞台に引き出してカッパの相撲。
あいかわらず、この人は歌って動いてが実に良い。
そしてトリは白永歩美。
朗読、歌唱と大活躍。
いつ見ても、この人は安定しているなぁ。
はかなげで、あやうげで、その状態のままガッチリ安定しているという不思議なキャラクター。
そういえば『Those ware the days』に日本語歌詞をつけたものを歌ってたんだけど、受付で立ち読みしたセットリストにそんなのなかったぞ、と思って調べてみたら、『悲しき天使』なんていう日本語版があったのね。
知らなかった。
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さて本編。
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■前半の本編『ねじ式・紅い花』
つげ義春の原作、『ねじ式』『紅い花』『女忍』『沼』『狂人屋敷の謎』をまとめて1つのストーリーにしてある。
実を言うと、前回の公演を見たあとに、某氏から、
「なに、月蝕歌劇団が面白かったって? それじゃアレだ。主催の高取英のアレ読んどけアレ」
といって勧められたのが、『聖ミカエラ学園漂流記』(小説版と戯曲版)。
前回の公演を観たときに、
「この人の持ち味は “奔放に見えて実は緻密な複数世界のマッシュアップ” だろうな」
と感じていたのが、この本で確信に変わったのだけど。
原作が2作品や3作品なら、例えば2つの世界の登場人物が呉越同舟で共闘する、みたいな展開もあり得るけど、さすがに5作品同時となるとメドレー形式にならざるを得ない、という感じ。
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さて、もう1つ、高取氏の特長と思ったのが、ストーリーに必ずクライマックスを用意する、という点で。
(それが、エンターテイナーとしての氏の本性によるものか、それとも “客にはなんとしてもカタルシスを持ち帰ってもらわないと次につながらない” という興行師としての冷徹な計算によるものか、そこまではわからない)
それが、つげ義春の茫漠としたアンチクライマックスな世界とどう折り合いをつけるのか、そこに興味があったんだけど。
これが『紅い花』を中心に最小限の改変を加えただけで、見事に全ての原作が一斉に収束に向かうオチといえるオチになっているのは、さすが。
最後にはねじ式青年が『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』(P. K. ディック)みたいに無限増殖するあたりの幻想テイストが高取氏らしい。
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あと、前回公演みたいな「身捨つるほどの祖国はありや」的な大きな主題は今回は抑制されている。
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助成金云々の楽屋落ちは生臭いので忘れたことにする。
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そして、この劇団特有の時間がゆがむ感覚をまた味わう。
今回は、サヨコの祖父の楽屋オチ的な台詞。
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「最近、嵐山光三郎が書いたんですがね、松尾芭蕉は忍者だったんですよ」
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えーと、嵐山光三郎の “芭蕉忍者説” は2000年代なんですが。
高取氏の作品世界が戦前、戦後、昭和30年代、1960年代、1980年代みたいに複数の時代を放浪するように、劇団自体も、60年代、80年代、そして2000年代の全ての時代に存在しながら、どの時代にも存在しないような不思議な立ち位置。
それが、この劇団の持ち味でもあり。
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あ、あと、狐舞の意味がやっとわかった。
なんのことはない、 “ここから現実感と見当識がゆるんで、心象風景と象徴劇が始まりますよ” という演出効果だ。
多色発光LEDを掲げた葬列も、夜光塗料の試験管をもった少女たちも、おそらく同じ。
少女漫画で「なんでクライマックスに花びらが飛び回ってるの?」とか訊かないでしょ? アレと同じだ。
そういえば、最近の子供は漫符(怒りの青筋とか緊張の汗とか)がわからないケースが多いらしい。
つまり自分は月蝕の鑑賞において子供だったわけだ。
というあたりで。
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そして、問題の↓
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■後半の本編『盲人書簡−上海篇−』
あー、うん。
むかし『草迷宮』(寺山修司)を観て途方に暮れたことを思い出した。
あるいは、さらにむかし『原始人』(チャーリー・ミンガス)を聴きながら、
「これは良い音楽なんだ、良い音楽なんだ、みんながそう言ってるから良い音楽なんだ」
と歯を食いしばっていたことを思い出した。
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はっきりしたこと。
自分に “前衛” を受け止める感受性はない。
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それでも、なんとか受容を試みてみる。
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(1)1930年代の第二次国共合作を背景にした不穏で混沌とした上海共同租界。
(2)明智小五郎と小林少年という、戦前・戦後の言ってみれば “陽のヒーロー” をどす黒く改変したキャラクターと、堕落した母親としての小林少年の母。
(3)白痴の少年と娼窟の姉妹がからむ、不快にユーモラスな人物群。
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この3つの人物群を主なストーリーラインとして、失明した小林少年を中心に “目明きと盲(めしい)、世界が見えているのはどちらか” という問いを主題として話はすすむ(ように見える)んだけど。
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途中、影を喪失した少女、みたいな挿入話をはさみながら、ひたすらグロテスクなストーリーとも言えないストーリーの断片が続く。
クライマックスは小林少年と恋人(?)のマサ子の再開を中心にしながら、全てが虚構の中の虚構、悪夢の中の悪夢、という入れ子の構造をあからさまにするところで、唐突に終わる。
最後の最後には第四の壁も突破して現実のキャストの名前まで出てくる。
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うーむ、書いておいてなんだが、なんの説明にもなっていない。
ねぇ、寺山修司って、ホントに70年代、80年代の青少年のカリスマだったの?
(今度、『書を捨てよ云々』でも読んでみるか……)
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可能性としては、今どきの若者がP. K. ディックやら筒井康隆やら読み慣れてるせいで、 “崩壊する現実” やら “虚構の中の虚構” を普通においしく摂取しているのに対して、当時はその種の超現実的な幻想悪夢ワールドが知的にトガった青年だけの愉悦であったとか。
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ま、さておき。
これ以上はどうにも言いようがない。
自分にとって確かなことは。
ということ。
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さて。
キャスト、演出その他については、以下の通り。
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■白永歩美
女忍コジカの息子、宗近と小林少年を好演。
このヒトが、登場するだけで舞台が猟奇的でビザールな空気になるような、言ってみれば “嶋田久作” 的な怪優でありながら、それでいて結構な美人サンである、というのは劇団にとって大きなアドバンテージなんじゃなかろうか。
劇団のカラーを一人で体現しているような。
ビジュアル、演技、歌唱、トップの名称は伊達じゃない、って感じ。
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というか。
実のところ、トップというネーミング自体はどうでもいい。
それがプリマドンナでもソリストでもエースでも四番でも同じことで。
その種の人に求められるのは才能でも鍛錬でも、ましてやプロデューサー/ディレクターの寵愛でもなく。
それは「いつ、いかなるときでも、自分が前に出ていってなんとかする」という思考形態だと思う。
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例えば才能、というか生まれつきの資質なら。
前回の公演には高畑亜美という彼女に負けず劣らずのビザール美人さんがいた。
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例えば技能なら。
前回の公演で、白川沙夜というキャストは、ストーリーテラー、コメディリリーフ、仇役という3つの仕事を3本の腕で同時につかんでブンブン振り回して大暴れしていた。
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でも、彼女たちは今回はいない。事情は知らない。
いっぽうトップには「事情により今回は出演しません」という選択が無い。
脚光も浴びる、注目もされる、そのかわり劇団の出来が悪ければ矢オモテ、火ダルマ、槍ブスマと。
群像劇主体の劇団で、ある程度は負荷が分散するにせよ、あの細っそい体にかかっている重責を想像すると、なんというか、なんというか。
長くなった。
ともあれ、健康にお気をつけて。
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■川合瑞恵
前回までは “作りようによっては、いかめしく見える” ビジュアルを活かしたワンポイント役だったのが、今回は『女忍』パートのキーとなる女忍コジカに大抜擢。
これが大根だったら目もあてられないところを、実に器用に演じきってしまった。
本職はモデルさんだと思ってたんだけど。違うの?
芸能関係って器用な人が多いのよね。
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■岬花音菜
演技はさておき、まずは狐舞。
今見ているのがカラダのオモテなのかウラなのか、腕なのか脚なのか分からなくなってくる超絶変態空間機動がひっさびさに大炸裂!!
これだ! これが観たかった!
いや、じつは、このところモヤモヤしていた。
「いや、たしかに踊りも歌も演技も良いけど、ここまで追っかけるほどか?」
でも、たしかに思いちがいじゃなかった。
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そこには、たしかに岬花音菜がいた。
およそ2ヶ月前、片目の猫の舞で自分の脳味噌をブチ抜いた岬花音菜が。
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ちなみに。
あとから取材を試みたところ。
あの一連の動きは、ボランティア(アルバイト?)のダンス教室で子供たちに最初のウケを取るために編み出した動物踊りがオリジナルだとのこと。
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するとなにか。
自分の鑑賞眼は子供レベルか。
まあいいけど。
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というか、彼女の狐舞に視線をもぎ取られ、ねじ式青年と女医のベッドシーンの大半を見逃していたことに、劇場を出てから気がついた。誠に申し訳ない。
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さて。
キャストとしては『紅い花』パートのシンデンのマサジ、『盲人書簡』で白痴の少年を担当。
この演技、周囲の評価はウナギ昇りだろう。
じっさいTwitterを中心にネットを見ると、彼女と慶徳優菜の評価はウナギ昇っている。
ただ。
自分としては評価は保留としたい。
なぜって?
あまりに、あまりにもハマり役すぎて、いま見ているのがキャラクターなのか、それともキャスト本人なのか、観劇素人の自分には判然としないから。
(これ、自分の中では笠智衆と同じ位置づけだ)
大竹しのぶがアニーを演じたり、同じ劇団でいえば白永歩美がピーターパンを演るのとは、意味が違う。
『紅い花』ではプレ思春期の少年のいら立ちを、『盲人書簡』ではスケベなアホの子を、と、いろいろ打ち出しているのは分かる。
分かるけど、いずれも、まずは本人あっての効果であって。
このあと彼女は “月蝕きっての永遠の少年役” として存在感を増していくのだろうか。
それもアリだと思うけど。
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■慶徳優菜
『紅い花』キクチサヨコ役。
だけど彼女の評価も保留。
理由は岬花音菜と同じで本人そのものだから。
その意味では、娼窟の妹と小林少年の想い人のほうが、本人のポテンシャルがよく分かる気がする。
そっちの方はというと、うん、悪くない。
ただ、これは自分の思い込みかもしれないけど。
なんというか彼女は “月蝕、次世代のプリマドンナ育成枠” というのに完全に入っている気がする。
この直感が正しければ、それはおそらく本人の十分な資質と劇団の目算があってのことだろうけど。
なんかモヤっとする。ほかの新人も若手も、ひとしく頑張っている(ように見える)のに。
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■はるのうらこ
なんというか、詩劇ライブのときは “ひかえめな、でもシャレのわかるおねーさん” というオモムキの彼女。
キーとなる配役のキャスティングが多いから、信頼の厚いキャストなんだろうな、という以上の認識はなかったんだけど。
(そしてそれは、ねじ式青年という大役を見ても動かなかったんだけど)
これが。
『盲人書簡』娼窟姉妹の姉役。実にすごい。
あのフワっとしたキャラが、女の嫌なところを全部集めて煮詰めたようなキャラクターに大変身。
慶徳優菜をサポートに娼窟パートのカラーというか空気を完全に支配していた。
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あと、些細なことだけど。
キーアイテムとなるタバコをチャイナドレスに入れ忘れたか、取り出せなくなったか。
取り出そうと悪戦苦闘して2秒。
見切りをつけてアタマの中でプロットを切り替えるのにコンマ2秒。
架空のタバコをふかして場面転換の決め台詞につなげるまでの時間の空費がわずか2.2秒。
はるの氏にとっては迷惑な賞賛かもしれないけど、ここの所作の切れ味に地味に鳥肌が立った。
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■宍倉暁子
彼女が登場すると、そこだけ別の照明があたってるようだった。
さらに今回の千本桜ホールより少し大きめの劇場向けにチューニングされた、よく通る発声。
今回集結した “夢のベテラン勢” の中では、彼女が出色だった。
彼女だけは気になって調べたら、舞台を中心にTV、映画と活躍の現役大ベテラン。
たしかに分かる。
自分の外見と所作が人にどう見えるか、何十年にもわたって掘り下げていないと、ああは行かないと思う。
『紅い花』では漂泊の釣り人。すこし困り顔の茫漠とした旅客でありながら、マサジのカウンターパートとして要所を締める。
『盲人書簡』では軍人と密通する小林少年の母として、実に汚ならしい堕落した母親像を体現。
教科書的に言えば寺山修司の作品世界に通底するコンプレックスというかオブセッションというか、ともかく “その部分” を実に彼女一人で背負って担当していた。
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■大久保千代太夫
今回最高の当たり役の一人。
犬丸は尾張織田と敵対している設定だけど、人物造形はおそらく美濃のマムシこと斎藤道三がベースだと思われ。
自分に襲いかかった刺客を手籠めにして側室にする一代の梟雄らしい悪太郎ぶりと、戦国武将の透徹した死生観が、もう全身からみなぎっていた。
『盲人書簡』の方は。
うーん、自分の中では “生ける舞台装置” としての黒い苦力(クーリー)の集団は、なんというか、全員が均質な筋肉質の没個性の集団だったんで、あの巨躯が逆にマイナスにはたらいた気がする。
こればっかりは、いたしかたなし。
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■小阪知子
影の殊勲者にして功労者。
前説とカッパ相撲のときから(自分の見立てでは)この人は切れ者だろうな、と思ってたんだけど、今では確信に近い。
馬鹿をやる、それもビビッドに馬鹿をやれる人間は、なんというか、切れる。これは自分の持論。
自分が見るかぎりでは、月蝕歌劇団キャストのベテラン高位職者(?)には2つのカテゴリがあって。
1つは白永歩美、岬花音菜のように “スタア” 役を仰せつかってスポットライトを浴びる職種。
もう1つは、前回公演の鈴乃月葉や今回の彼女のように “ひとり10役をこなしてストーリーラインを維持する” という重責の担当者。
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■若松真夢
薄い眉、暗く沈んだ眼。白永歩美が陽のビザールだとしたら、彼女は陰のビザール美人。
もっといろんなキャストで見てみたいと思った。できれば和装で。
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■城之崎リアン
詩劇ライブのみに登場。OGか。
そりゃ、男女問わず固定ファンがガッツリと付いたことは想像にかたくない。
問題は、貴公子以外にどんなキャストをやっていたのか、想像がしにくいことで。
もっと昔から見ていなかったことがくやまれる。
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■登利忌理生
前回の中村ナツ子に続き、今回の「なにものだ! このひと!」ワクに期待のダークホースが登場。
自分は茶髪に偏見があるようで、「えっとぉ、学校卒業の記念にぃ、オーディション受けちゃいましたー!」みたいなハスッパな外見と、そこから飛び出す恐ろしい長セリフと演技巧者ぶりのギャップに舌を巻いた。
本当に何者だ! と思って調べてみたけれど、月蝕以前の芸歴がまったく引っかからない。
あれか。学生演劇出身か。
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■音無ねむ
今は、まだ大部屋女優といった立ち位置。
(たぶん。自分が調べた限りでは、まだ無名)
何者でもない。
何者にも、まだなっていない。
だけど、あの男に引けを取らない長身とキリっとしたマスクには、絶対に活きる使いみちがあるはず。
実際、『盲人書簡』の “新聞朗読笑い男” には何とも言えない味があった。
(キャスティングの認識、間違ってないよね?)
陵南の田岡監督ふうにいえば、「体力や技術を身につけさせることはできる。だが、彼女をでかくすることはできない。立派な才能だ」ということ。
まずは、その長身を恥じるような猫背をやめて、胸郭を開いてまっすぐ立つところから、カンバレ!!
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■J・A・シーザー(と音響)
ふむ。ふむふむ。
エンディング、こんな感じかにゃ? 間違ってるかもだけど。
(いま手元にGarage Bandしか無いんで大変)
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Bm....................BmM7(←Daugかも)
寺 の 坊 ん さ ん 根 性 が 悪 い
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Bm.............Bm........F#m..GM7
守 り 子 い な し て 門 し め る
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F#m.........Bm........F#m......Bm.E
ど し た い こ り ゃ き こ え た (か)
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(間奏2+4小節)
E.................Bm.......Bm.......Bm.......Bm
+--------+--------+--------+--------+--------+--------+
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Bm.......D/A...GM7..........Bm.D/A..E..
守 り が 憎 い と て 破 れ 傘 き せ て
.
Bm.......D.....GM7.......Fm#......GM7
か わ い が る 子 に 雨 や か か る
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Fm#.........GM7.......Fm#......GM7
ど し た い こ り ゃ き こ え た か
.
(間奏4小節)(以下同じ)
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メジャーセブンに合わせて変えたか。
採譜するまで気が付かなった。
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えー、日本のニロ抜き音階(いわゆる田舎節)で作られた民謡/童謡に、7th、9thがタップリ乗ったモダンコードをあわせて。
さらに、それを流行りのリズムパターンに乗せると、こう、実にカッコいいニューエイジ/ワールドミュージックになるのは皆さんご存知のとおり。
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こういう音楽はみんな大好き。ボクも大好き!
この種の音楽の嚆矢は自分が知る限りYMO(実質、坂本龍一)で、80年代ではあるけど、このスタイルが「教授(坂本)のパクリじゃ〜ん!」と言われなくなったのはEnigmaやDeep Forrestが日本でワサワサ紹介されて一般化した90年代のような感じがしていて。
(“姫神せんせいしょん” や喜多郎については、当時ノーマークだった自分に語る資格はない)
問題は、J・A・シーザー氏が、何故この時期にこの種のスタイルをぶつけてきたか、だ。
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本公演エンディングの『竹田の子守歌』はJ・A・シーザー氏の手になるものではないとの指摘がありました。
お詫びして、訂正します。
以下、上記の誤りを前提にした言及をカットします。
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でも、今回のエンディングが実にイイ感じだったことは確かで、これからもこの路線はアリなんじゃないか、と思った次第。
うん、自分に言えるのはそれだけ。
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最後に音響について。
なんか、今回の殺陣は斬撃の効果音のタイミングがやたらと良かった。
何か条件が変わったんだろうか。
ただ、いつもながら思うのは、客席一番奥にコントロールブースを置かないで、それでもあのレベルの音響を維持できているのは、それ自体が奇跡に近いことだ。
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ただ、生きている動物の仕込みはさぞかし苦労しただろうな、と。
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んー、今回の月蝕歌劇団はこんな感じでした。
全体としてどうなのかって?
うん、良いところもあれば、首をかしげるところもある。
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まずは。
自分はもともと聖子ちゃん、キョンキョンのころから、それほどアイドルが好きではないので、フレッシュなキャストのライブ感、というのにはそれほど重きをおかない。
なので、(おそらくは)キャストそのものに入れ込んでほしい、という劇団の方針には同意しかねる。
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しかしながら。
高取英氏の作品世界。これにはどーしても、どーしても不思議な引力を感じでしまう。
結果として、スケジュールが合って演目の印象が良ければ、これからも足を運ぶような、そんな感じがしている。
というあたりで。
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また機会があれば。
、
はてブが確実に面白い奴がいなくなってツマラナイ奴が残ってる現実 https://anond.hatelabo.jp/20170805202753
面白いやつがいなくなったのかどうかまでは分からない。おそらく面白いやつは残っていると思う。ググってたどり着いた面白いページに数個のじわじわ付いたブクマが残っていることが多いからそう思っている。
はてブが変になっているメカニズムはまた別なのではないだろうか。
はてブの人口が3倍くらいになった結果、ある程度勢い良くブックマークが付かないと目立つ位置に出てこれない。
その結果AKBやジャニーズばりの組織票を持ったサイトしか新着、ホットにたどり着けなくなる。増田、NHK、朝日などは熱心なウォッチャーが常時見ていてくれるが、そういう人のいないサイトはつらい。
音楽ヒットチャートでも後のビッグネームが初めて注目されるときは30から50位くらいの中途半端な位置に長期間とどまり続ける。そういう実力はあるが固定ファン層をまだ獲得していないサイトを拾い上げるアルゴリズムがはてブには欠けているのではないだろうか。
もっともおっしゃる通りはてなに新しく増えた人口ははてブのレコメンド能力に期待はしているが、自分でレコメンドする力が乏しく、隠れた名サイトの掘り出しに役立ってないのかもしれない。研鑽を期待したい。
こういう「ジブリ好き」自称する人って多いけど、一部の作品を論外などと言って憚らないのに好きっていう気持ちを疑わないのって歪んでるでしょ〜って思うんだが
ゲドもアリエッティも他のアニメ映画に比べて評価できる価値が存在していたからそれ故に宮崎駿や高畑勲というビッグネームとは別にジブリというブランドが担保されていたわけじゃん
そのブランドを支えていたメインスタッフのほとんどが集まってつくったメアリが受け入れられなかったのなら、「あっ私が好きだったのってジブリじゃなくて宮崎駿と高畑勲だったんだな〜」ってなるはずでしょ
多くのジブリ好きの人たちはゲドとアリエッティとコクリコ坂とマーニーを経てすでにその分別をつけてるのよ
宮崎駿や高畑勲の影がうすいときのジブリ作品にどのような価値があるかということについて映画からちゃんと受け取って、咀嚼しているはずだもの
それでも未だにかつての「ジブリ」に囚われてる「ジブリ好き」たちをみると、お前の好きってそういうのかよ〜〜って思ってしまうよ
ただでさえ山田くんはクソとかいうようなことを言って憚らない「ジブリ好き」の人もいるのに、ジブリ好きを自認人がアリエッティとかメアリの良い部分を認識して評価できないなんてどういうことなの〜〜マジで
今更だけど、俺SMAP好きだったんだなーって思う。
俺はまったくアイドルとか興味ないし、芸能人の誰が消えても何も思わないけど、SMAPは好きだった。
週明けの会議に向けて、ネタ出ししてると本当に唯一無二の存在だったってつくづく感じる。
だってビックネームなのに、どんだけ叩いても本人たちは訴えるとか言いださないし、事務所からも怒られない。
しかも本当か嘘かわからんネタを事務所から提供してくれたりするし。嵐叩いたら速攻怒鳴り込んでくせに。
だから今週ネタ少ないな~あと2,3本足りないっていうときにテキトーにSMAPネタ混ぜ込んどくのが、常態化してた。
こんなくだらないネタ誰が読むんだよっていう推測・憶測記事みたいなのでも割と採用されるし、SMAPって名前出しただけで売れるしPVもあがるのよ。
そんで上司から褒められちゃったりするのよ。そしたらくだらないネタでもとりあえずSMAPいれとけってなるじゃん。
でも年明けからネタ出しするときに、いちいち「あ~SMAPもうちょっと引っ張れるけど、この先どうなるんだろ」とは不安になるよね。
SMAPは美味しい美味しいごちそうで、いくら食い散らかしてもなくならないと思ってたけど、さすがに乱獲しまくったら絶滅しちゃったっていうかんじかな。
捕鯨禁止されたらマグロ食べればいいよってなるみたいに、別のターゲットがいるかっていったらそうじゃないしさ。ビッグネームは皆がっちり守られてて、少しでも叩いたら事務所が煩いんだよ。
業界全体のこととか将来性のこと考えずに、好き勝手したらこうなるんだよなーってしみじみ感じた。
でも俺はこの仕事がだめだったら転職すればいいって思ってるし、業界全体のことなんかより嫁と子どもが可愛いし、目の前の仕事終わらせて給料もらえればそれでいいのよ。あと極力上司に怒られたくない。
http://tyler-7.hatenablog.com/entry/2016/09/04/120214
ツイッタを眺めていたら、はてぶユーザーによるディアスポリス映画版の感想が上がってて、結論は似通っていたものの、途中の視点が真逆で面白かったので、別の感想を書いてみる。
東京に住む不法滞在外国人が身を寄せ合った住むコミニュティで、殺人事件が起きる。殺されたのはマッサージ嬢、殺したのは中国から来た留学生崩れコンビ。2人は日本での外国人犯罪のビッグネームであるダーティー・イエロー・ボーイズへの入会を夢見るが、彼らの計画は狂い出し、引き返せぬまま西へ西へと流れなから凶行を重ねる。
みたいな内容。
いろんなところで言われてるように、原作の漫画でも人気の高いエピソードで、自分も映画化は楽しみにしてた口。
だだ評価としては「5点満点で3.5位かなぁ」というところ。
はてぶ主と感想が共通で面白かったのが、「物語を順序立ててみせるので精一杯」と言うところ。この映画は「社会から弾かれた若いアウトローが自分たちを止められないまま破綻に向かって突き進む」という、映画では定番のジャンルなので、後半の破綻までに、どう加速していくかが重要なように思う。
でも、それが為に重要な前半は、不吉な予感とか周・林の空気感とかを伝えるより、まず状況説明にバタバタしすぎ、中盤は逆に間延びした感じ。
名古屋の一連のエピソードとDYBs大阪支部の所は特にテンポ悪かったなぁ・・・・
「映画がシナリオに無理矢理従わされてる感」が見えてしまうのが、ちょっと乗れない。
そして感想が真逆だったのが「周と林のエピソードがクドかった」。
表現方法のテイストはもうちょっとスマートにやって欲しいと思ったものの、自分はココこそが終盤の破綻への重要な前振りであり、物語でもっと描くべきところであったと思った。
原作の受け取り方はあるのだが、自分にとって、ダーティー・イエロー・ボーイズ編の主役は周と林であって、久保塚は無力を味わわされる傍観者、伊佐久は周と林を受け入れない社会の冷厳さの代理人に過ぎない。
社会のすべてに弾かれた2人が、お互いだけの楽園を生きようとするが、破綻していく、その輝きと絶望の対比、破綻に突き進む幼い2人と、追う久保塚達の別の関係性の対比が重要なのだ。
周を突き動かすものも、要するに「林に良いところを見せたい」という、幼稚だが、純粋で、ある見方では輝いたものであり、それさえ守れずにすべて壊れていく様が哀しく美しい。
似た感想でも真逆の部分があって面白かったから書いたけど、この映画を見て一番の感想は、「原作ものだからって、原作に忠実であればオッケーって訳ではないし、核となるエピソードの為には入りきらないエピソードは切ったり改変しても良いんじゃないか」って事。
そんなわけで、「ちょっと自分でハードル上げ過ぎたかなー」と感じる映画ではったけど、本当の主役である周、林役の2人はホントよかったし、破滅に向かって西に流れていくダーティー・イエロー・ボーイズの4人は全体的に好演だった。
引退したスポーツ選手をマネージメントする会社に勤めています。
テレビ出演→芸能人の方より少ないですが出演料が支払われます。
新聞社、通信社共にとても不思議なのですが、弊社所属の元選手が野球の選手だったとして何故かサッカーのワールドカップについてコメントを求めてきたりします。
また当該元選手が海外出張に行っている場合でもしつこく専門外のコメントを求めてきたりします。
そのスポーツ業界にスキャンダルがあった時にはアポイント無しでやってきてコメントを取ろうとします。
アポイントを入れて頂ければ出来る限り対応しますがお断りすると弊社の入居しているビルの前で煙草の吸い殻を撒き散らしながら当該元選手が来るまで待っています。
対してスポーツ新聞やスポーツ雑誌等は本を出版したことなども記事にしてくれますし必ず取材費を支払ってくれます。
取材対象がどの程度のビッグネームかによって対応は違うのでしょうが、
追記:
返信いただいて申し訳ないのですが、あの記事を擁護する気は起きなかったけど、同レベルの記事でも別系統なら正直擁護の立場をとるかもなあという程度のふにゃふにゃな態度なので、納得しつつも今回の件は同調できない…というような感じです。そういう姿勢があかんというのももちろんわかりますし、仰ることは正論だと思っております。
ただ、ファッション層…というか安易にTVに迎合した結果が撮影所の力や技術のなくなった現在の邦画界だとも思いますので、これに関してはちょっと微妙なのではないかという気持ちです。実際はそこまで真剣に考えているわけでもなく元はといえば個人がジャキブラ好きかどうかなので、話を大きくしすぎ脱線しすぎとは自分でも思いますが…キルビルについては、そんなに察しがよくないので偶然でした。
タランティーノに限りませんが、ビッグネームの好き嫌いの問題は寂しくなることが多々ありますね… 自分はヒッチコック作品の多くを楽しめないので最高レベルで肩身が狭いです。
都道府県魅力度ランキングで、毎度ワースト争いをするのも致し方ないといえる程度にはダサい。
そもそも、律令国の時代には「武蔵国」として、埼玉県は東京都と一体だったのだ。
で、武蔵国から東京を分離した「あまりの部分」が現在の埼玉県なのだから、これがダサくなくてなんであろう。
(余談ながら、ことあるごとに埼玉はおろか、東京すらも下に見る、あの鼻持ちならない「横浜」という地域の大半も、
かつては「武蔵国」であって、そういう意味では、横浜と埼玉は兄弟であって、ペリーの来航による開港がなければ、
かつての城跡あたりに県庁やら市役所やらNHKやらが集まっている地域が多い。
そこには、それぞれに領主がいて、城下を繁栄させ独自の文化や産業をはぐくんでいたのだろうが、
さしたる文化的な蓄積がない。
そもそも幕府の直轄領だったらしいから、まあ、東京(江戸)の一部みたいなもので、独自性もへったくれもない。
実際、小江戸と言われたこの街には、日本百名城の一つがあるし、寺社仏閣や蔵造の街並みが観光資源として使える程度には残っている。
にもかかわらず、今一つ存在感が薄いのは、この地をがっちりと育ててきた大名が存在しないからではないか。
大坂の陣で江戸留守居役を務めた酒井重忠とか、家光・家綱に仕えた酒井忠勝とか、
知恵伊豆こと松平信綱とか、綱吉の寵愛を受けた大老の柳沢吉保とか
これは要するに、徳川政権の高級官僚が、江戸の手近のところに領地を与えられたという話であって、
「優秀な人ほど、東京に通勤していて、地元にそんなに愛着がない」という
西武線沿線、東武東上線沿線、JR東北・高崎線沿線、東武伊勢崎線沿線と、
東京と各地を結ぶ鉄道沿線沿いに都市圏が発達し、住民はなにかと東京のほうを向いていて
県内の各地域の「横の連携」が弱く、それ故に県としての一体感が弱いのも埼玉県の特徴だ。
たとえば「埼玉西武ライオンズ」といっても、さいたま市あたりの住民などは、ほとんど愛着がない。
なにしろ、ライオンズの本拠地たる所沢に行こうにも、鉄道で行くとなると、
いったん、池袋(埼玉県であるとの説もあるが、行政区画としては東京都)に出なければならないのだ。
愛着なぞ沸くはずもない。
なぜなら、各地域の基盤となっている前述の鉄道路線が、おおむねかつての街道筋に沿っているからである。
大阪は言わずと知れた関西最大の都市であり、奈良や京都と並んで歴史のある土地だが、
「大阪出身の偉人といえば?」と言われると意外に思い浮かばない。
しかし「大阪を代表する偉人は福沢諭吉です」というのもなぁ、という感じがする。
江戸時代、元禄文化からは井原西鶴や竹本義太夫などが思い浮かぶが、どうもパンチが足りない。
有名人の宝庫である戦国時代でも、有名なエピソードといえば大阪冬の陣・夏の陣くらいのもので、
もちろん豊臣秀吉も真田幸村も大阪の生まれではないし、秀頼では駄目だ。
戦国時代では他に、顕如、荒木村重、高山右近など…いずれも知名度が致命的に欠けている。
千利休!
これは良い線なのではないだろうか。
茶道の大成者であり、豊臣秀吉を通して戦国史にも多大な影響を与えた。
楠木正成!
ビッグネームだ。
戦前の大楠公ageの反動で最近は影が薄い気もするが、それでも知名度は高かろう。
日本史的には超有名人だが一般的な知名度はどうか。それとやはり出生地不明。
というか河内源氏は河内を捨てて鎌倉なんぞに行きやがったからな。
ということになるのではないか。
・とにかく学習指導要領解説読め。「話す聞く」「書く」「読む」で、それぞれ何をどう指導しろと丁寧に書いてる。ぶっちゃけ、それをちゃんとやるだけで終わるくらい書いてある。多分、ぜんぶはできない。
・巷の参考書類とかは糞だから読まなくていい。エビデンスのない本で読んで良いのは、増田の言うようにほんとのビッグネームの本だけ。ちなみに指導書書いてる人間は、真面目に学習指導要領読んでないから、本当のところは役に立たない。
・国語には、増田の言うような「実用国語路線(きちんと内容を読み取り、考え、簡潔にまとめて表現する)」と「情操国語路線(感動をベースに感性を育てる)」の二つの流れがあるんだが、これは、「どちらか」ではなく「どちらも」だと考えるのが一番分かりやすい。でもって、現実的には、「話す聞く」「書く」「読む」の3領域それぞれ×2(実用&情操)の具体目標を1こずつ、低中高学年それぞれで設定して、1年目は仕込み、2年目で実現、て考えると、やるべきことは見えてくる。
・たとえば低学年ならこんな感じ
実用 | 情操 | |
話す聞く | 大きな声でしっかり話す | 人の話に注意する |
書く | 文法的に正しい文を書く | 気持ちを表す言葉を使う |
読む | 一定の速度で音読する | 一冊の本に感動する |
・国語は、体育と同じでトレーニングが大事だから、知識も大事だが、実際に眼と手と口を動かす作業を飽きるほど繰り返さないと身に付かない。かといって飽きたらやらないので、飽きないように手を変え品を変え目先を変えながら、実は同じ事を何度も繰り返しやらせるのが大事。たとえば、低学年の話す聞くの力の実用の目標を達成させるために、毎日の授業から色々な遊びっぽいことをさせる中で常に「大声でしっかり話す」ための基礎訓練をひたすら2年間やらせる。OK?
・これをやるためには、やらせる側が、目先にとらわれることなく「いま何をやらせているのか」を揺るぎなく把握していることが絶対必要。そこを分からないまま人真似でアレやコレやいろいろな「指導法」だけ取り入れても、効果のあるなしがさっぱり分からないのは当然。
・まあ、国語はぶっちゃけデタラメにやってもそれなりには効果が上がる。それは、体育の時間と称して運動場でただひたすら遊ばせていても、運動好きな子は適当に走り回って、結局体が鍛えられる。アレと同じ。だから、適当にやってる教師でもそれなりになんとかなってるみたいに「見える」…でも、それは「教育」ではない。ただの給料泥ボーだわな。いやしくもプロならば、出来ない子を出来るようにし、自分からはやらない教科嫌いな子を好きにさせて、はじめて胸を張ってお金を受け取れるってモンだろ。そのためには、シンプルかつ具体的な目標をもち、そして、教育の内容だけでなく、教育計画そのものを体系化しなくてはならん。
国語は漢字、作文、音読、語彙、読み取りといろいろやることがある
全体的にできるようにさせてあげるのがいいんだろうけど難しい
そもそも俺の授業で子どもが本当に伸びてるのか分からなくて不安
無駄なことやってるんじゃないかと思う
を読むと、物語の授業展開例に「気持ちを想像しよう」系の活動が多くてなんか頼れない。
こういう気持ちを問うやつは現職の先生からもけっこう批判されてる。
物語文でも「ちゃんと内容を理解させる」ことが国語力に繋がると考えてる教師は多い。
それで、そのための授業展開を解説した本もけっこうあるけど、これも取り入れづらい。
まずクラスには文章の内容が頭に入ってないのがそれなりにいて、読み取りの授業についてこない
その教材に入る前にたくさん音読をさせておいても頭に入ってない
かといってそいつらに合わせたようなクラスの多数が当たり前に分かるような授業してもつまらない
逆にやたらと理解力のあるやつもいる
そういう格差がありすぎる集団に対してどういう授業をしたらいいのかが分からない
読む書く話す聴くをどのくらいの配分でやるのがベターなのかわからん
(一応配分は決められているけどそれを忠実に守ってる人はいないと思う)
漢字もやたらとある上にそれを授業内でやると10分とられてきつい
文章を書くのがうまくなってほしいけどなかなか難しい
ひな形を与えて書かせたりすることは多いけど成長してるのかどうかわからなくて不安
視写もときどきやって子どもは集中してるし嬉しいけど力ついてるのかな
この間、エビデンスベースの教育経済学が話題になってたけどああいうのは嬉しい
教育技術にも根拠が欲しい 子どもが伸びるという確信が持てる活動をさせたい
すごい(?)先生たちが書いた教育技術の本はたくさんあるが、思いつきで書いてんじゃね?と思うことが多い
教育現場でスタンダードになってる授業方法もそれが本当に効果的なのか謎
授業の流れが一目でわかる板書がいいからそうしろって言われたけど本当にそうなんかなとも思う
ずっとこんなんで悩んでるから俺は教師に向いてないのかもしれん
以下ブコメへの返答
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若手です。授業法を参考にするときはビッグネームの先生の書籍を読みます。
でも、あれが大事これが大事と人によって大事にすることが違っていたり、時には指導法に関して正反対の考えが書いてあることもあるので「これだ!」と確信して取り入れられません。
あと、ベテランの先生はそれぞれ流派というか主義みたいなのがあってバラバラだしわかんないもんです。
それって矯正不可なんですかね。
もしも大人になっても矯正できるのであれば、低学年で字の美しさに気をとられるあまり他の面が養われなかったらもったいなくないですか?
それに字を丁寧に書くことがその子の将来にとってどれほど得なのか(頭が良いのに字が汚いやつがたくさんいる)、字を丁寧に書かせることで失うもの(授業が終わっちゃう)とか
いちいち考えてしまいます。字の美しさの指導はベテランの教員でも意見が分かれるところなので難しい。
文章力と関連あるかは別にして、国語の成績とか偏差値とかは全国クラスでした。それを支えたのは、公文式と乱読だと思います。公文式の最初の方って、書き取り以外だとひたすら品詞分解したりするんですが。
恥ずかしながら公文式がどんなことやってるのかよく知らないんですが
今度調べてみます
俺もそんな気がする そういう風にこしらえられた学校用の教材はないような気もするけど(自分が知らないだけかもしれない)そして作るのはつらすぎる。
手際の良い先生は、個々の能力に合わせて授業をセッティングしているように思う。跳び箱でいえば、高さ違うやつを並べて跳ばすように。
教育用語に学習の最近接領域というのがあって、その子にとって最も丁度良い学習課題が最も能力を伸ばすというものなんだけど(こういうのをうまく利用して授業組み立てたい)、
毎日の授業でうまいことそれを取り入れるのは難しい 自分が未熟だからというものあるが。
子どもとマンツーマンなら効果的に伸ばせると思うけど、担任一人じゃつらいものがあります。
ほんとそうですよ
http://u999u.info/o32m 公文式国語の「方法」を読むといいよ。絶版だけどamazon中古あるみたいだし。要約力を重視していた。文章の中から重要な要素を抜き出す能力ね。中学生相手に塾講師と家庭教師していたとき役だった。
安かったんでポチりました
…ほんと…国語は…難しいよな…。そもそも国語の「学力」が何であってどう測るのか、という時点で、理科や算数に比べて曖昧で、市販のテストの点数との乖離が大きい気がする…。
その通りで、算数は何を学ばせるかが明確で分かりやすいのであんまり悩まないです
宿題を一杯出したり漢字を死ぬほど書かせたり色々と強制する事はバッシングがやばいけど将来的にあの時やってよかったと思う時があるかな。
自分が受けた教育がよかったと思うことと、本当にその教育が良い効果をもたらしたのかということの間には、かなり隔たりがあると思いませんか?そこを間違えたくは無いです
根性主義的な学習はある程度効果をあげるかもしれませんが失うものも多いように思います。宿題をどっさり出す勇気はありません
自分の漢字学習のさせ方は、宿題は少なめにしておきつつ、小刻みにテストをしたり、作文に使ったりと、忘却曲線を利用したようなやり方で思い出させて学習させてます。
いま私も子供らの国語教えるのには試行錯誤してる。毎週読書させて簡単なあらすじと感想書かせて。無理矢理は読むの嫌いにさせちゃうし、楽しみながら習慣化させたい
同業?学級文庫や図書室の本だけだと満たされないかと思い、うちのクラスは家からの本持ち込み可にしてるんだけど、本嫌いな子は持ってこない
その通りで、余計なことをしたくないから意見は参考程度にしておいて授業で使うかはまた別
漢字の書き取りをめちゃくちゃやらされた結果、書き順とか部首名とかばっちり頭に入った。大人になった今でもしっかり覚えてる。脳の容量がもったいないからできれば全部忘れたい。
漢字めちゃくちゃやると他のことができなくなる
日本の国語教育って漢字偏重というかそれが重荷になってる気がしませんか
「新出漢字は軽めにやっておき、今後数年間で忘れたり思い出したりを繰り返してるうちに記憶が定着する」と自信をもっていえるなら俺は軽めに教えて他のことをしたいです
まあ自信をもっていないからモヤっとするんですよね。
あとこれもすごい悩ましいんだけど、書き順は正確に教えるのが当たり前になってますけど、書家の方が「正しい書き順はない」とおっしゃっていて、それ聞くとガチガチに正しい書き順を覚えさせるのがいいとは思えなくなっちゃいません?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://anond.hatelabo.jp/20150920002242
結局自分が欲しいのはエビデンスなんですよ 指導要領解説にしたってエビデンスです エビデンス厨なわけです 教育に裏付けが欲しいんですよね。
何か確かなものを頼りにして授業したいんですよ。
まあでもそんなパーフェクトに近い指導法はないですよね?だから手探りでいくしかない 指導要領解説は前任校が国語の研究をしてたんでちょっと読んでましたけどまじめに読んでなかったので読んでみます
今の日本で洋楽を聴くことなど普通だが、それは欧米の音楽に限った話であり、エジプトの、しかもインディーズ音楽を聴こうと思ったら大変だ。
まず情報収集。ググったところでネットにも情報は少なく、あっても英語である。四苦八苦しながら基本情報をゲットする。
金もかかる。TSUTAYAでレンタルなどできないから、失敗しないよう吟味した上で、覚悟をもって購入する。
自分の好きな音楽の傾向が分かってきて類似アーティストを開拓しようと思えば、また英語サイトの巡回である。
大変だったが、「苦労して欲しいものを手に入れる」プロセス自体を楽しんでいる自分もいた。苦労して手に入れた曲には、TUTAYAでまとめ借りしたアルバムにはない、不思議な輝きがある気がした。
舞台は60年代の二本、主人公の高校生が片思いする女子がサイモンandガーファンクルか何かのファンで、主人公はその子の前で「最新のアルバム持ってるよ!」と見栄を張ってしまう。その後、主人公は慌てて友人という友人を当たり、サイモンandガーファンクルファンの友人を見つけ、LPを無理矢理借りて、少女に自分のものと偽って又貸しするのである。
ググればいくらでも情報が手に入り、youtubeで違法ダウンロードできる現代とは違う。S&Gクラスのビッグネームであっても、アルバム一枚入手するのにそれだけ苦労する時代が有ったのだ。それは確かに不便だが、どこか羨ましくも感じる情景である。LP一枚手に入れる間にも、情緒が有り、ドラマが有る。
そんな風に苦労してエジプトのアーティストの音楽を楽しむ日々が少し続いた後、アップルミュージックがリリースされた。アプリが履歴から俺の嗜好を分析してエジプトだろうが中東だろうが異国のアーティストの音楽をどんどんおすすめし、高音質な音源が全て定額で聴き放題。
俺はすぐにその利便性に溺れた。
9ヶ月にわたった戦いも、はや過去のこととなり、わが清水エスパルスは、今やその任務を果して、ここに今シーズンを終了することとなった。
しかしシーズンは終了しても、そのために我らサポーターの務めや責任が、軽減するということは、決してない。
この残留で収めた成果を、永遠に生かし、さらにチームを強豪にするには、シーズン序盤、終盤の別なく、まずもってチームの主力層に対し、
重要な役目を持つ若手・ユース層が、常に万全の戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ年俸や名声の物や数によってだけ、定まるのではなく、
百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなればスタジアムに毎節行くサポーターは年間に1度しか応援に来ないサポーター34人と対抗することが
できるのであって、この理に気づくなら、われわれサポーターは無形の実力の充実、即ちリピーターに主点を置かなければならない。
先般わがエスパルスが残留を得たのは、もちろん大榎監督の奮励によるとはいえ、一面また危機的状況下のサポーターの応援によるものであって、
それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるにクラブの一生は戦いの連続であって、その責務は優勝争いであれ、残留争いであれ、
その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。スタジアムで試合があれば、声を枯らして戦力を発揮するし、
試合が無いときは、チームの状況を見つめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。
過去数ヶ月かの間、風雨と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、
考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、サポーターとして、
この上もない幸せであったというべく、なんで残留で苦労したなどど、いえたものであろう。
もし選手が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、補強の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、
ひとたび引き抜きにあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかしJリーグ創立当初無敵の強さを誇っていたヴェルディ川崎が、数年間は日本を代表するチームであったけれども、一たびオーナーが手を引くと、
たちまちこれを失い、また近世に至っては、ジュビロ磐田が太平になれ、世代交代をおこたると、数人の主力の扱いにもフロントが苦しみ、
また過去様々な下位チームは資金力のあるチームから主力をねらわれても、これに立ち向うことができなかった。
目を転じて西洋史を見ると、スペインサッカー初期から存在するレアルマドリードは、毎年一人はビッグネームを獲得することで強豪チームをゆるぎない
案泰なものとしたばかりでなく、それ以後、下部組織の後進が相次いで、よくその能力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く
伝統を守り、名門を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西のいましめは、チームのあり方にもよるけれども、そもそもはサポーターが平安な時にあっても、戦いを忘れないで、
チームを愛しているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われ等残留後のサポーターは、深くこれ等の実例を省察し、これまでの応援の上に、残留の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、
時勢の強豪チームにおくれないように努めなければならない。そして常にスタジアムに足を運び、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、
時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に王国の大任全うすることができるであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、
昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
と言われたら皆さんどうしますか?2000億でも500億でもいいけどさ。
たかが五千億ですからね。ガンバ大阪が今度建てる専用スタジアムはビジョンとか全部合わせて500億、九州のどっかが作るのは2万収容で50億かな。建てて終わる。
私が一番力を入れるべきだと感じるのは教育、ユースの育成。
スタジアムなどの環境整備よりも、ワールドカップで活躍する日本が見たい!
なんでここに力を入れるべきかと言うと、
海外からきた監督が「日本は代表選手レベルでも守備の基礎が出来ていない」と言っていた。
ザッケローニが代表の練習で、DFの身体の向きから指導してたくらい。
ザッケローニの指示は細かいとか選手がほざいてたが、そういう細かい指示はヨーロッパじゃガキのころからやってるんだよ!
海外ではユースの若い頃から守備の戦術を習う。日本はあまり教えすぎるより自分に考えさせると言って教えない。
ブラジル方式と言えば聞こえはいいが、受験でいう論文と同じで、知識がある程度ないと自分で考えることは難しい。
まあ、こういった状況を変えたい。
1.練習広くしてユースとトップの選手を同時に教える(海外から呼ぶコーチの人件費削減な)
2.トップのコーチ、U-19のコーチ、U-12のコーチ、それとは別に
各チームが無理なら札幌とか広島とか東京などユースで実績を残してるとこにコーチを付けるとか。
あとは年代別代表のコーチを横断して、守備コーチ、FWコーチ、など付けるとか。
これすれば間違いなく日本サッカー強くなるよ。つーか、最近ベルギーが強いのもスペインとかドイツからコーチ招いて、ユースから指導してるからっていうしな。
アニメ本編はちょっと袋小路だなあと思うけどアニソンもぬるくなってるかな
ジュディマリもそうだし、増田だとAIKOのアナライズが話題になってたけど
誰でもできるとは言わないまでも、かなり敷居が下がってきて
最近のアニソンはみんな普通に一時転調入れてスケールカチカチ切り替えてる印象
音符配置的にはこれでもかと詰め込んでインパクトはあるんだけど
悲しいかなオケもミックスも安いので繰り返し聞いてると割とすぐ飽きちゃう
まあぬるいっちゃぬるいかもなあ
まあでも、いい楽器と奏者とスタジオとエンジニアが揃った「いい音」ってのは
当然金がかかるわけで、そういうところに拘れるご身分のビッグネームの方々は
引き続きがんばっていただきたいなと
どうも、矢沢です。昔、キャロルで矢沢が日比谷でワオワオやってたころにさ、
楽屋でさジョニーなんかとスライム欲しいよね、つってたらボーヤが気を利かせて
「買ってきましょうか」っていうわけ。
「おおサンキュ」つって買いにいかせたら街中売り切れだったみたいでさ
「すいません、コンニャクで代わりで」ってそいつ、こんにゃく買ってきたわけよ。
オレやジョニーでこんにゃく顔に乗っけたり、ぶつけ合ったりしてね遊んでたんだ。
そしたらさ。ムッシュっていうの?かまやつがバーンと楽屋入ってきてさ
「おまえら何してんの?」。
「いやあ、かまやつさんコレだよ噂のスライム!」。
オレ、まだ駆け出しだったし、向こうはもうビッグネームでしょ?「はあ?」みたいな感じ。
「おまえ、矢沢、これはこんにゃくだろ?」って。ちぎって床に捨てた。
オレはそれを黙ってみてたね。
しばらくしてムッシュが帰ってさ。
そしたらジョニーがそのちぎられたこんにゃく持って震えてんのよ。
「エーちゃん、これ弁償モンだよ!」って。
「こんにゃく弁償してもらうべ!」ってさあ。
「あのさっきのこんにゃくだけど、絶対そのうち弁償してもらいますんで」。バッキリいってきた。
それから、1週間くらい後かな、モノホンのスライムが届いたよ。ムッシュから。
そのとき思ったね。「ああ、これがスーパースターのやることだな」って。
途中で汗すって粘液になってたーらたーらいと引いて落ちてくんのよ。
たまたま来日してたH.R.ギーガーがそれ見てエイリアン思いついたんだって。
これマジよ。エイリアンのあの頭、矢沢のリーゼントの形なんだって。
へえ、と思ったね。
そこの先生はプロのミュージシャンとしても活動している人だった。
「適当にやって、それでお金を稼げるようになるために、みんな努力しているんです」というもの。
言われたときはまったく理解できなかった。
適当にやってお金を稼ぐだなんて。なんて不真面目な考え方だ、そんなのおかしいと思った。
けど最近、その言葉の意味が少しだけわかるような気がしている。
10年以上、毎年欠かさず参加している夏フェスがある。もちろん、今年も参加した。
そのフェスでは、ベテランミュージシャンから、新進気鋭の若手バンドまでさまざまな世代のミュージシャンが出演し、それぞれのパフォーマンスを繰り広げる。
私が見た限りの印象だけれど、若手のバンドは、数曲演奏するだけのステージでもものすごく気合いが入っている感じがする。
MCでは『僕たちの名前だけでも覚えて行ってください』と叫び、膨大なエネルギーをそのまま音に変換したような演奏をする。
一方、ビッグネームなベテラン勢には、若手みたいな気迫は感じられない。
もう、本当に何百回、下手したら1000回以上演奏しているのかもしれない。
だから必要以上に気合いとか気迫とか、いちいちこめなくてもステージはしっかり成り立つし、客側からしても、十分に観る価値があると思える。
ベテランの人たちは別に、最初から気合いとか気迫といったものを放棄していたわけではないだろう。
彼ら・彼女らが若い頃は「最近(現代)の若者にうけてるバンド」と同じような熱量を、何十年も通して繰り返しライブやレコーディングで発揮してきた。