はてなキーワード: ビッグネームとは
アニメ本編はちょっと袋小路だなあと思うけどアニソンもぬるくなってるかな
ジュディマリもそうだし、増田だとAIKOのアナライズが話題になってたけど
誰でもできるとは言わないまでも、かなり敷居が下がってきて
最近のアニソンはみんな普通に一時転調入れてスケールカチカチ切り替えてる印象
音符配置的にはこれでもかと詰め込んでインパクトはあるんだけど
悲しいかなオケもミックスも安いので繰り返し聞いてると割とすぐ飽きちゃう
まあぬるいっちゃぬるいかもなあ
まあでも、いい楽器と奏者とスタジオとエンジニアが揃った「いい音」ってのは
当然金がかかるわけで、そういうところに拘れるご身分のビッグネームの方々は
引き続きがんばっていただきたいなと
どうも、矢沢です。昔、キャロルで矢沢が日比谷でワオワオやってたころにさ、
楽屋でさジョニーなんかとスライム欲しいよね、つってたらボーヤが気を利かせて
「買ってきましょうか」っていうわけ。
「おおサンキュ」つって買いにいかせたら街中売り切れだったみたいでさ
「すいません、コンニャクで代わりで」ってそいつ、こんにゃく買ってきたわけよ。
オレやジョニーでこんにゃく顔に乗っけたり、ぶつけ合ったりしてね遊んでたんだ。
そしたらさ。ムッシュっていうの?かまやつがバーンと楽屋入ってきてさ
「おまえら何してんの?」。
「いやあ、かまやつさんコレだよ噂のスライム!」。
オレ、まだ駆け出しだったし、向こうはもうビッグネームでしょ?「はあ?」みたいな感じ。
「おまえ、矢沢、これはこんにゃくだろ?」って。ちぎって床に捨てた。
オレはそれを黙ってみてたね。
しばらくしてムッシュが帰ってさ。
そしたらジョニーがそのちぎられたこんにゃく持って震えてんのよ。
「エーちゃん、これ弁償モンだよ!」って。
「こんにゃく弁償してもらうべ!」ってさあ。
「あのさっきのこんにゃくだけど、絶対そのうち弁償してもらいますんで」。バッキリいってきた。
それから、1週間くらい後かな、モノホンのスライムが届いたよ。ムッシュから。
そのとき思ったね。「ああ、これがスーパースターのやることだな」って。
途中で汗すって粘液になってたーらたーらいと引いて落ちてくんのよ。
たまたま来日してたH.R.ギーガーがそれ見てエイリアン思いついたんだって。
これマジよ。エイリアンのあの頭、矢沢のリーゼントの形なんだって。
へえ、と思ったね。
そこの先生はプロのミュージシャンとしても活動している人だった。
「適当にやって、それでお金を稼げるようになるために、みんな努力しているんです」というもの。
言われたときはまったく理解できなかった。
適当にやってお金を稼ぐだなんて。なんて不真面目な考え方だ、そんなのおかしいと思った。
けど最近、その言葉の意味が少しだけわかるような気がしている。
10年以上、毎年欠かさず参加している夏フェスがある。もちろん、今年も参加した。
そのフェスでは、ベテランミュージシャンから、新進気鋭の若手バンドまでさまざまな世代のミュージシャンが出演し、それぞれのパフォーマンスを繰り広げる。
私が見た限りの印象だけれど、若手のバンドは、数曲演奏するだけのステージでもものすごく気合いが入っている感じがする。
MCでは『僕たちの名前だけでも覚えて行ってください』と叫び、膨大なエネルギーをそのまま音に変換したような演奏をする。
一方、ビッグネームなベテラン勢には、若手みたいな気迫は感じられない。
もう、本当に何百回、下手したら1000回以上演奏しているのかもしれない。
だから必要以上に気合いとか気迫とか、いちいちこめなくてもステージはしっかり成り立つし、客側からしても、十分に観る価値があると思える。
ベテランの人たちは別に、最初から気合いとか気迫といったものを放棄していたわけではないだろう。
彼ら・彼女らが若い頃は「最近(現代)の若者にうけてるバンド」と同じような熱量を、何十年も通して繰り返しライブやレコーディングで発揮してきた。
「グローバル社会に伍して行けるマルチ人間に仕立てなきゃならない」という強迫観念があるのでは?
だから、政府自民党内の議論で「大学生全員にTOEIC義務付け」とか、「文系大学生にも数学入試義務付け」とか、
「いや、理系学生にも、国際社会に出ても恥ずかしくないよう、日本史や古典を学ばせるべきだ」
と、とかく科目の積上げに議論が流れてしまう。
「文系大学生が、原子の崩壊方程式(って言うのですか?)を知らないのはオカシイ、義務付けるべきだ」と
吼えていたそうだが、文系の自分は、その意味がわかりません、ええスミません。
まあ曽野綾子は「文系に方程式を教育するのは不要」と語ったそうだが。
「自分の専門分野は、全学生、全日本人が知っておくべきだ」と視野狭窄に陥りがち。
こんな専門家の意見を真に受けて、学習科目を積上げていけば、日本の小学生中学生高校生は
「どのレベルの学習が、理系大学生には必須か?」という「積上げ方式」で設計すると、必ずパンクする。
無理やり詰め込みすぎると、消化不良を起こして、後々の躓きになる。
こういうのは、積上げ以上に「捨てる技術」「仕分ける技術」が欠かせないと思う。
「ここまでのレベルの学習が、理系大学生には不要では?」という引き算も定期的に行って、
あと、日経朝刊に
「大学を出たが就職できない日韓と比べ、ドイツは大学を目指さない若者が専門学校に進み、
それがドイツのグローバルニッチな中小企業に入って、ドイツ技術のレベルアップを支えている」という記事があった。
言われて見れば、ドイツには「オックスフォード、ケンブリッジ」「ソルボンヌ」
「ハーバード、スタンフォード」のようなビッグネームの大学は乏しい。
しかし、超名門大学は乏しいのに、ドイツの技術水準は高く維持されている。
どんどんやればいい
場をきれいにするのは大賛成だ
こういう袋叩きのような状態では、「はてサ」がどれだけ言葉を尽くして釈明をしても無駄だ。
むしろいま「はてサ」がなすべきは、自分たちの人格権を侵害している連中を粛々と告発していくことだ。
ここで告発とは、そういう連中を批判する記事を書く、などということではない。はてななり、場合によっては警察なりに通報する、ということだ。
名誉毀損や侮辱、差別的表現行為は、「はてサ」のビッグネームが記事を書けば高い確率でブックマークコメントに現れるが、これらははてなの利用規約上禁止されている(6条1項3号、同条2項2号。前二者については刑法上の犯罪でもある)。
こうした利用規約違反を通報することによって、「はてサ」ならばいくら叩いても良いと思っている愚かな連中に思い知らせてやることもできるし、多少なりともヘイトスピーチを減らすことも出来るのではないか。
週現の元木氏、WILLの花田氏が東電の接待旅行を受けていたことが明らかになった。巨大な利権の動く原発事業だけあって、やはりメディアへの根回しは抜かりないといったところだろう。
だが、元木氏花田氏とも雑誌業界のなかではもはやOBといえる存在で、この2人を押さえたからといって週刊誌が黙るわけではない。同様に、スポンサー契約で縛ってきたはずの民放各局も日に日に東電へのプレッシャーを強めつつある。
しかし東電、抜かりなし。今度は日テレ氏家氏と講談社野間氏という、超ビッグネームを手にかけた。これは明らかに、「これ以上騒げば、誰でも殺せるぞ」という東電側からメディアへのメッセージに違いない。これでテレビと雑誌は文字通り死に体となるだろう。エレクトリックマフィアの本領発揮だ。
島田洋七のがばいばあちゃんってどうなんだろ。
読んでないんだけど。おもしろいの?
もう色んな人が言ったことかもしれないけど、なんだか作られたベストセラーっていう気がしてならないんだ。
売れ始めた頃からずっと、なんとなくそう思ってた。
うなづかれトリオ、ビートたけしはスーパーメジャーになった。島田紳助もビッグネームになった。
で、洋七だけがちょっと取り残されている風潮があって、だからみんなで作り上げたベストセラーなんじゃないかと。
よくさ、大阪人はみんな笑いのレベルが高い、とか言う人いるじゃない。
子供の頃から新喜劇を見て、ボケとツッコミを叩き込まれ、学校でいくら頭が良くても足が速くても、おもしろくないと認められない。
だから大阪人は笑いのレベルが高いし、芸人も地方の人より大阪のほうが売れっ子になりやすい、とかね。
ビートたけしは東京だろ。あたりまえだけど。タモリは博多だし。
明石家さんまは奈良、島田紳助は京都、ダウンタウンは兵庫だよな。
タレントが酔った勢いで全裸になって逮捕されて損害が1000億とかいう見出しをみたが、ほんとなの? その金は、分類すると、1)人に何かを伝えるためのコスト(広告) 2)単に注意を引くためのコスト(広告と広告の間の番組) の2つでいいの?
報道のされ方をみるとビッグネームなんだろうけど、テレビなんてもう10年ぐらい見てないので知らないんだよね。あと、広告・テレビ業界における1000億の価値もよくわかってないし。
サラリーマンの生涯収入って数億の下の方だよね? 仮に年収1000万×30年として、サラリーマン300人以上の損害? よくわからん。
ものを伝えることは大切な仕事だと思うけど、コストをかけすぎなんじゃないかと思う。そりゃまあ、視聴者だって何十人何百人と人の顔と名前覚えてられないから、アテンション力のあるタレントってのは貴重なんだろうけど、逆にいうと知られてさえいればだれでもいいわけでしょ。
あ。
国民的アイドル=大雑把に1億人に知られているとすると、一人あたりの損害額は1000円か。良質なアテンションの対価としては妥当な気がしてきた。うーん。
しかし、そう考えるとテレビの力の源泉ってのはアテンションなんだなぁ。大きな物語の喪失、だの、帰属意識の細分化、だの、趣味の多様化だの、情報の洪水だの、力道山が活躍してたころのテレビはみんながかじりついてた、だの、アテンションのバルク性の喪失だと捉えるとメディアの未来がみえないかな?
元増田です。
論点が明確なエントリーには有用な意見が沢山集まるんだなと実感しました。
これまでの意見を見て、一番の問題は本筋の定義・コントロールであると感じた。
本筋のコントロールに関しては、「本筋を自ら引き寄せる」という考えに同意。
そして、個人的にはそれを不特定多数によって行えればと思っている。
個人だけではどうしてもid:fromdusktildawn氏のようなビッグネームによる流れを断ち切ることは難しいのではないかというのが大きな理由。
必ずしも同期・同調して行われる必要は無く「はてブやダイアリーや増田での発言によって本筋のコントロールが可能である」という認識が広まればいいのではないかと思う。
不特定多数が自らの定義によって本筋を引き寄せようとするようになれば、そこから先はブクマやスターによって本筋が淘汰・選択されるのではないだろうか。
本筋の定義はそのような形で決まっていくのがいいように思う。
本筋の定義をめぐって議論が収束することは難しいだろうから。
もちろん、当事者がそれを明確にしていれば、そもそも本筋を再定義する必要は無い。
こうやって振り返ってみると、必要なことは「はてブやダイアリーや増田での発言によって本筋のコントロールが可能である」という認識を持つというだけのような気がする。
しかもここには少しも新しいアイディアは無い。当たり前のことを再認識しようというようなことだ。
でもこの認識が広まれば、皆がそれを意識するようになれば、ソーシャル・ファシリテーションは実現するんじゃないかという気がしてきた。(「皆が」というのが難しいのだけれど)
●追伸
確かに「本筋はマッチョでは?」と考えても全くおかしくはない。
「マッチョ」というあまりにキャッチーなフレーズが持ち出された結果、以降の議論は「マッチョ論」と言ったほうが全然しっくりくる。
●追々伸
もしかしたら私は、今まさに私の定義した本筋を引き寄せようとしているのかもしれないとふと思った。
収束した議論を呼び戻すことが可能かどうかはわからないけど。
>id:n-e氏
仰るとおり。追々伸自体がノイズとなっていたため、消します。
Nine Inch Nailsがレコードレーベルを捨て、今後はアルバムを直接一般に公開するというニュースを土曜日に報じてから、OasisとJamiroquaiも同じくレコード業界を離れた。しかし、今日一番のビッグニュースは何といってもMadonnaがレコード業界を捨てたことだ。
(中略)
今回の件は、世界的女優にとってさえ、デジタルダウンロードとP2P音楽共有の時代には、もはやレコード会社は必要とされていないということを物語るものだ。
そして壁は崩れはじめた―マドンナ、レコード業界を捨てる TechCrunch
世間的には「音楽データで収入を得ている」レーベルから離反したのだから音楽はフリー(自由と無料)に近づいている、と取られているっぽい。
しかし、特に業界内部の見解を聞きたいところなのだが、これは知的創造従事者の受難“モダン・タイムス”の本格的な始まりではないのだろうか。
待っているのは世界中で作品を共有し啓発しあうユートピアなどではなく、クリエイティビティが限りなく無価値となり資本の規模だけがモノを言う世界ではないのか。
ユーザーにとっても、音楽は無料にはなるかもしれないが自由とは言い難い未来しかないのではないかと危惧する。
万人が富豪で支配者になれる最終解決などでなく、工業化に伴う50年間の市民の試練が情報化によって知的生産者に今及んだと見るべきではないか。
世間の誤解はネットとメディアの進化が本物の錬金術と思われていることにある。例えば10万円する金貨を100円分ぐらいの材料と手間で製造する方法が発明されたらどうなるのかと想像してみたらいい。我々はあっという間に千倍の資産を手に入れることができて誰もが豊かになれる?
しかし少し考えを進めれば分かるようにこれは100円で10万円が手に入るのではなく、実際には10万円の価値だったものが100円に暴落するということを意味している。錬金術の発明と同時に金は無価値になるのにも関わらず、人々はその術の完成を心待ちにしているのである。
現代に町から職人がことごとく消えたのは何故か。流通の革新によって町に点在する必要がなくなったからである。現存する大工だって現実には大手住宅メーカーの下請け組立工である。例外的に飲食店の職人は居るがこれは鮮度という要素がローカリティを維持しているためだ。
音楽流通には制作環境、パッケージ、流通、広報が必要だった。つまり満遍なく金と手間がかかった。制作可能な者の偏在と流通の偏在が中小零細規模の商業作家の存在を許容したのである。
ところが制作環境とメディアおよび流通が技術的な革新によってほぼゼロにまで暴落してしまった。このことにより音楽市場におけるキーは誰でも作れて流通できる楽曲そのものではなく希少な資本そのものである「ブランド」と資本によって成り立つプロモーションに完全に主導権が移ることになる。
音楽事業「マドンナ」にとって、誰にでも作れる「楽曲」自体に意味は無い。必要な才能はサラリーでスタッフとして雇い入れればよい。イベントでの収入は音楽にではなくマドンナというキャラクターに、そのビッグネームと空間を同じくする権利の対価として入ってくる。
自動車メーカや家電メーカーと全く同じである。タレントへのシンパシーという商品の販促“カタログ”である楽曲データは複数のスタッフによって作成され、ネットで配布される。場合によっては対価を払ってコミュニティに押し込み、手にとってもらうための大量の広告を打つ。この場合楽曲はもはや財産ではなくコスト(広告宣伝費)である。
ここにいたって小資本どころか中規模ごときの音楽事業者では採算に乗せることができなくなるだろう。よく言えば近代化による産業の集約が進む訳だが、事業化するのに必要な最低資本がどんどん上がっていくからだ。
(HITOMIのヒット曲"SAMURAI DRIVE"のオリジネータバンドcuneはいかほど潤ったのだろうか。ちなみにミキシングは“エンタープライズ”HITOMIの方が遥かに洗練されていると思った。)
一方でユーザーはどうだろう。無料であらゆる楽曲へアクセスできる夢のような時代になるのだろうか?
大半の人にとってはメリットがあると思われる。いま無料のテレビやラジオのプログラムと同じだからだ。社会全体で見ても効率は高いと思われる。
「無料で動画が見られる」と言われれば好きなだけ自分好みの映画を見ることが出来る気になるが、現実は見たくもないCMとお仕着せのプログラムが待っている。今ユニクロで吊るしの服を買えば5千円で一通り揃うだろう。しかしオーダーメイドすれば10倍でも済まない。
悪い社会ではないかもしれないが、これがフリー(自由)かと言われればどうだろうか。
今までだってミュージシャンは貧乏でどうしようもなかったのだから何も変わりはしないという向きもあるだろう。現実の変化は微妙なものだ。恐らくは中抜きが進む。池田先生が言うような中間業者を中抜きしてハッピーという話ではなく、業態の空洞化で柔軟性が失われるだろうという話だ。
既にあるタレントとメディア露出という両極端な評価軸しかなくてそれ自体の価格は限りなくゼロで日常的に流通しているもの。それは対人コミュニケーション、会話である。その中で唯一換金できるのがお笑い(伝統芸能は含まない)だろう。お笑い芸人は自虐ネタにもなるように一部スター以外の待遇は悲惨としか言いようが無い。また事務所の寡占が既に起こっている。
音楽業界は吉本興業のようになるかもしれない。誤解しないで欲しいが、後進の育成とタレントの露出に力を注いでいる超優良企業という最善のケースとしてである。