はてなキーワード: 帰結とは
男の胸に男は性を感じない人が多いけど、女の胸には女も性を感じる。
女性:男性 の sexy point が 2:1 の対応なので、男は股間に言及するしかないんだろ。
それを女は不公平だと騒ぐ。
性ってば、子孫へと世代を繋げるための大事な要素で、でも普段から意識する必要性は低いし、おおやけにするものでもない。
子を産み育てるには、女の2つの sexy point が必要なのだ。
男が普遍的に自分のおっぱいをあげることは、どうやったって無理なのだ。
だから女は女を隠せと言う。
一方で、乳首を隠さなければならないのは女性の人権侵害であると言う。
コロナ「ばらまく」男性捜査へ 飲食店の従業員感染 愛知県警(時事通信) - Yahoo!ニュース
ついに威力業務妨害等の容疑で捜査が始まるらしい。ところでブコメでは傷害罪に問うべきという意見も多かったと思う。
ブコメでも出た性感染症の事例(昭和25(あ)1441)を見れば確かに傷害罪は成立しうるとも見える。
ただ個人的には今回の件と同一視できるのかという疑問もある。刑法に関してド素人中のド素人である自分が語っても仕方ないのだが、詳しい人がいたら意見をください。
(1) 因果関係
基本的に刑法では「その行為がなければその結果が生じないであろう」(コンディチオ公式)という条件関係が成り立たねばならないとされている。もちろん単純にこの公式が成り立てば因果関係が成立するというわけではない。例えばAが交通事故を起こして傷つけた相手Bが救急車に運ばれている最中に地震が起きてBが倒壊したビルに下敷きになり死亡した場合にAがBの死まで刑事責任を負うというのは考えにくい。まあ、このあたりは相当因果関係説やら客観的帰属論やらの領分だろうと思うので重要だろうが今回は無視する。
ところで、性感染症の事例ではこの公式は比較的容易に確かめやすい。飛沫感染や接触感染するわけでもなくほぼ性的行為やその類似行為をした場合に感染すると分かる。対象も絞れるしそこから性感染症の持ち主を同定するのも必ずしも難しいわけではない。要するに「その性的行為がなければ感染は起こらなかっただろう」というのがほぼほぼ分かると言ってよい。
一方で、新型コロナの場合はそうとも限らない。飛沫感染では可能性を絞り切れない。もちろん現状濃厚接触者の絞り込みはできていると言えなくもないが、もしかしたら自覚症状のない感染者と接触していた恐れがないとも言えない。実際今回は直接接客していない店員の感染が認められたという。すると結局「被告人の利益」ということで無罪推定原則の対象になるかもしれない。
一応関連して疫学的因果関係(疫学的条件関係)という考えもある。疫学的証明や病理学的証明により合理的疑いを超える確実な事実を認定するという考えで今回の件でも使えなくもないかもしれない。ただ、これが採用された判決の多くはさつま揚げ中毒事件のような広義の公害事件である。また千葉大チフス事件のようなものもあるが、こちらは医師が赤痢菌やチフス菌を食品に添付したり注射で投与したりしたというとんでもない事件なので、今回のように感染者個人が濃厚接触を試みるといった程度の話に援用できるかは微妙な気もする。
では、今回の女性のように、「故意に感染させるつもりがなかった」場合はどうなるのか。鈴木弁護士は、「過失と認定するのは難しく、感染させる可能性を認識しつつ認容していたら『未必の故意』があったと判断されるケースが多いのでは」と述べ、傷害罪が適用される可能性が高いと指摘した。
次の論点に行く前にここを押さえておきたい。要するに性感染症の場合に感染の認識があるのに感染リスクのある行為を行った時点で未必の故意が認められ傷害罪が適用されるだろうということが書かれている。では、少し話は変わるがインフルエンザの場合はどうだろうか?感染のリスクがある行為を行っただけで傷害罪となるだろうか?とすれば、インフルエンザに罹っているにも関わらず出勤するような行為は傷害罪に当たるのではないかという話が浮上する。だが、これは一般には認められないだろう。性感染症の感染リスクのある行為は性的行為でありしかも一般にそうした行為を行えばほぼ確実に感染するであろうという認識(実際にそうかはさておき)が存在する。例えば性感染症者と性行為をしたと判明した時と同僚がインフルエンザと判明した時を比べてみればいい。前者の方が感染しているかもと思うだろう。それなりにお気楽な気持ちで通勤してくるインフルエンザ患者がいる(しそれを許容ないし強要する会社がある)のはそういう理由である。つまり感染リスクといっても程度に差があり、性感染症の場合は結果の発生を認容しているだろうから未必の故意が認められインフルエンザのような場合は結果の発生を認容しているとまでは見ていないだろうから未必の故意が認められないということになるのではないか。しかし、だとしてもまだ問題がある。
素人考えだが実はこちらの方が問題なのではないかと思っている。刑法には過失傷罪の規定がある。これは逆に傷害に該当する行為を特定する際に過失傷害のことを念頭に置いておかなければならないという意味ではないか。言い換えれば、故意を伴う特定の行為を傷害罪と認定した場合、故意はなくとも過失を伴う同様の行為をしても過失傷害として刑罰を与えなければならないということになるのではないか。例えば今回の新型コロナの事例では移す故意を持って濃厚接触した男性を傷害罪とした場合にインフルエンザを移す過失を犯した人も過失傷害で罰さなければならないという帰結になりはしないかということである。
自分が性病に感染していることに気付いていない場合には、理論的には過失傷害罪の成否も検討されますが、感染に気付くべきだったという注意義務の違反(過失)というものはなかなか観念しにくく、また立証の困難さを考えても現実にこれを処罰することは難しいと思われます。
まず性感染症の場合に過失傷害を想定するのは難しい。これは以上と(2)で引用した文に沿えば、(a)感染に気付くべきという注意義務が考えづらく(b)感染を認識した上で感染リスクのある行為(性的行為)をした場合には過失ではなく未必の故意があると認められる、という2点にまとめられる。しかしこれは性感染症の特質ゆえではないか。
例えばインフルエンザの場合を考えてみよう。インフルエンザの場合は大抵熱が出る。特に冬であれば少なくともこの時点で風邪かインフルエンザかという発想になるし、熱が高ければインフルエンザかもしれないと感付くだろう。つまり(a)感染に気付くべきという注意義務が想起されにくくとも感染の認識自体は朧気なりとも持っていることが多い。感染の認識をしやすいとも言えるかもしれない。新型コロナの場合は逆に風邪に似ていて逆に感染の認識をしづらいかもしれないが…。一方で、(b)先ほど(2)で述べたように未必の故意までそうそう認められないだろう。しかし、これは性感染症では未必の故意が認められる範囲が過失として認定されるという可能性を排除しない。
そこで新型コロナやインフルエンザに過失傷害の問題が生じる。性感染症と違い未必の故意をそうそう認めず「移してやる」という意思があると立証できた場合のみを故意とするよう厳格に解釈しても結局過失傷害の範疇から逃れられない。インフルエンザや高熱の認識があるのに通勤してきた人間は恐らく過失を認められるのではないだろうか。特に咳エチケットを守らないようなのは他者への感染という結果を全く回避するつもりがないと言わざるをえない。こういった事情を法令解釈に読み込んでよいのかという意見はあるだろう。しかし裁判官も人間であるから同程度に説得力のある解釈が2つあればいたずらに社会不安を招くような解釈でない方を(因果関係論など他の理由をつけて)選択しやすいというのもまた事実である。
(4) 以上のような指摘を回避できるか
と言っても上手く構成すればここまで書いてきた問題を回避できるかもしれない。
第一に新型コロナのような新しい感染症とインフルエンザのような日常的に存在する感染症を分けることができればよい。例えば次のような文章は風邪やインフルエンザであっても傷害罪の可能性はあるという前提の元で書かれているが、因果関係の問題で現実に処罰は困難だろうとしている。
また、誰からうつされたかという点についても、よほどの閉鎖空間で、特殊な病気を持っているのが加害者しかありえないということであれば、特定の人からうつされたと証明することも可能かもしれません。
しかし、多くの人は日常生活を送る中で膨大な数の人と接触していますから、病気をうつされたとしても、誰からどのように感染したかは分かりません。
そのため、現実的にはただの風邪やインフルエンザといった感染症をうつしてしまったとしても、傷害罪として処罰されることはないと考えてよいでしょう。
私は(1)で、因果関係について性感染症とインフルエンザ・新型コロナの間に線を引いたわけだが、インフルエンザと新型コロナの間に線を引ければ今回の新型コロナ患者を傷害にしようと多くの人に問題は生じない。つまり新型コロナは濃厚接触者が現段階でもある程度把握できることが多くこの程度の蓋然性の高さであれば因果関係を認めてもよいだろう。一方もはやよくあるインフルエンザでは飛沫感染とはいえ絞り切れないから蓋然性が高いと立証するのは現実に困難だとさえ言えればよいわけである。とはいえ、新型インフルエンザが突然生じて感染した場合にはおおよそ感染ルートが特定されてしまうので過失傷害罪で罰せられる可能性は否定できなくなってしまうようにも思える。
第二に過失犯の成立が困難であれば問題がない。要するに故意による傷害罪が新型コロナやインフルエンザで認められても過失が認められる要件が厳しければ多くの人には特に問題が起こらない。1つには過失傷害が親告罪であることを利用し一般市民の善性を信じるというわけである。もう1つには実際に理論上過失犯が成立する条件が厳しければよい。過失論はよく分からないが大抵義務違反などを想定するはずなのでそのあたりで何かできたらいいんじゃないか的な話で、まあそこは詳しい人に任せる。
以前増田にてゲーム制作者増田(猛虎弁だった)と面白さの要素とは何かという話になった。自分はとりあえず面白いゲームには繰り返し要素がある、とだけ返しておいた。しかし繰り返し要素が必ずしも面白さに直結しないのは自明で、繰り返すから飽きられるゲームと、繰り返したくなるゲームの違いは論じることができなかった。
実のところ、ゲームの繰り返しを行う上で脳内では「試行錯誤」が繰り返されている。何を当たり前のことを、と思うかもしれない。しかしゲームにおける試行錯誤を更に還元すると「着地点/完成」を探している自分がいることに気づく。例えばハクスラやRPGの場合、プレイヤーは沢山の装備や魔法、職業を取捨選択して最適解を探す。言ってみれば安定するかどうかを探していると言っても過言ではない。なぜならこの鉄則は全てのゲームに当てはまるからだ。格ゲーもそうだ。格ゲーはコマンド入力、フレーム、リーチ、ディレイなどを頭に叩きこんで安定して勝てるパターンを作り上げてゆく。パズルも連鎖を頭に叩き込んで最も安定して高得点を出せるかどうかを練り込んでゆく。
ゲームが面白いと言えるシンプルな要素がある。それは「未知」だ。人は未確定で未知なるものを探求する脳の構造をしている。とりわけこれは狩りに必要だったらしく、やはりゲーマーの殆どは男性である(断じてジェンダー論に帰結するつもりはない)。未知のものを安定させる間が面白さになっている。曰くどう立ち回るか。曰くどう早解きするか、どうすれば早くアイテムを回収できるか。どうすればイベントが進行できるか。このときプレイヤーは未知を楽しみながら未来の着地地点を夢想している。この夢想が更にプレイへの希望をもたせることに一役買っている。まるで人生設計のようだが、実のところ未来への希望を抱いて確定できる「かも知れない」チケットを購入する時点で人生はまさにゲーム的である。
となれば次なる問題は自ずと浮かび上がってくる。ゲームバランスだ。
ゲームバランスは基本的にな何が破綻せず、何がノーマライズされているかを突き詰める作業ではないかと考えている。いわゆるバランスだけに絞れば出てくるアイテムや能力も平均的なものにならざるを得ないし、一点突破させるには他の強さも並列して上昇させなければならない。実はこの問題には解決策がある。破綻した強さに弱点をつけるのである。これを国内で有名たらしめたのはかのFFシリーズだ。FFの画期的な要素の一つとして弱点属性なるものがある。これは完全にじゃんけんになっており、いずれかが一方的に強いわけではない(もっともホーリーやフレアなど規格外の無属性も存在するが)。この完璧ではないもどかしさが重要である。数あるカードゲーをプレイした人はわかるかも知れないが、壊れカードには必ず致命的な弱点が存在する。弱点は完璧性の欠けであり、未来を夢見るプレイヤーにとってできうる限りの完璧を目指すきっかけとなる。ここで多くのプレイヤーが夢中になるのである。完璧ではない現状に多くのプレイヤーは満足せず、何がしかの補助手段で弱点を埋めようとする。しかしゲームバランスが優れたゲームはその補助も渋い仕様になっており、そう安々と運用させてくれない。
だが一方で、やりこまないタイプの人もいる。例えばバイオで一周すれば無限ロケランが手に入ると聞かされても、イージーでクリアすれば十分弾薬も足りるだろうという心境の人たちだ。
こうした人たちの楽しみとは、ゲームに一度きりだけ没入できる演出や飽きるまでの操作感、そして何よりストーリーだろう。
ストーリーは未知に対する動機の一つとなる。プレイヤーはまだ見ぬ着地点であるエンディングに向かってひた走る。少なくともゲームという体感する分野においてストーリーは体験して消化する最も大きな要素の一つだ。しかし多くのゲームはシナリオがメインではない。あくまでもその世界でプレイヤーが何をするかが主軸になる。したがってシナリオのクリア後、前述の彼らはゲームパッドを床においてしまう。なぜなら彼らにとってシナリオの完結はゲームという体感世界における完成形であり、それ以上のやりこみに意味を感じられないからだ。実はこの問題には以下のような仕組みがある。
例えばプレイヤーが一周目をクリアして隠し要素が姿を現したとしよう。この場合隠し要素を観るためにプレイヤーはゲーム性のみならず「シナリオを含めて」続きをプレイすることになる。この隠し要素の方向性はとても大事だ。なぜなら新しい要素があることと、今までやりこんだ高難易度版が敵配置を変えて登場する、などでは意味が変わってくるからだ。後者の場合基本的にはやってもやらなくても知ってることだらけであるし、前者の場合未知は残されている。また、マルチエンドのゲームの場合でも別ルートは未知であり、多くのプレイヤーは分岐を試したくなってしまうだろう。
まとめるならば、ゲームを面白くしたいならば、「完成形に向かって未知を突き詰めようとするが、実際には完成形などない」状態を作り出すことだと言える。先程は人生に似ていると言ったが、この感覚は習い事にも通底する。プレイヤーは学校や会社から帰ってきて、学習効率の良い箱庭でまるで仕事のような成長を楽しんでいるのだ。
良いとか悪いとかじゃなくて。「これからは人を傷つけない笑い」とか聞いて考えた。
表現には「幅」がある。ある表現方法を規制されても、他の表現をすることは可能である。
しかしそれは幅を狭めているのは間違いない。だってタブーゾーンがあるんだから、その分は狭まっているのである。
「その分深堀すればよい」という人もいるが、それは詭弁だと思う。深掘りったって、そこには飽きがあるよ。一部のマニア向けならいいけど。そのなかでたまに光る石も拾えるけど、それって絶対数少ないよね。
で、幅が狭まると、今度は別のものが気になってくるよね。例えば不快指数が
とかあったとして、これ2000やべーだろとそれを規制する。まあそれはいい。
そうすると、次は50が気になってくるわけ。excelで表書いてみ。気になるから。
そうするとしばらくすると50を規制しようとするよね?以降繰り返し。どこかのごく細い幅に帰結する。その幅だって、小数点まで気になってくるかもね。
こんなこと大昔からわかってるはずで、だから規制って慎重にならなきゃならないね~みたいな話があったはず。(規制に慎重という理由はそれだけじゃないけど)
だけど、規制ってやっときゃ文句も出なくなるから、文句そんな言ってない人も「やりゃいいじゃん」でやっちゃうんだよね。
規制は麻薬なんだよね。そうしていつの間にかスッカスカの体になっちゃう。
でも悪いものを規制しないと、それはそれで肥大化して死んでしまう。
バランスが大事なんだよね。バランスってなに?主観でしかないよね。
規制ってのは、広くとって、好みともいえるよ。どつき漫才みて笑ってた人でも、ひとたびステレオタイプにさらされれば、もう逃げられない。同じもの見たって、「うーんこれはダメでしょ」となって笑えない。
ただ欲求だけは中々解消しないんだよね。そうするとアングラがどんどん膨らんでいく。はけ口がないからね。
アングラにも階層ができるかもしれない。地獄と大地獄みたいに。
でもアングラはアングラで、上にいるつもりのきれいなつもりの人々からは結局蓋されるんだよね。欲求は存在しているのに、あたかも無いかのように扱われる。
そうして抑圧の先に何があるのか?なんだろうね、新人類の誕生かな?
Bye-Bye ピープル。
これは便利やな
まあWHOも右往左往して無様だったがなに言ってるのか把握はしておきたいし
COVID-19ウイルスは、感染力が強く、急速に広がる可能性があり、あらゆる状況において健康、経済、社会に多大な影響を及ぼす可能性があると考えられなければならない新しい病原体である。SARSでもインフルエンザでもない。
COVID-19ウイルスは、高い伝達性、いくつかの高リスク群における重大な致死的帰結、および大きな社会的および経済的混乱を引き起こす可能性があること、の組み合わせにおいて、ヒトコロナウイルスの中で独特である。
国際社会の多くは、中国においてCOVID-19を封じ込めるために採用された措置を実施する準備がまだできていない。これらは、ヒトの感染伝搬を阻止または最小化することが現在証明されている唯一の方法である。これらの対策の基本は、迅速に症例を発見するための非常に積極的なサーベイランス、迅速な診断と迅速な症例隔離、濃厚接触者の厳密な追跡と隔離、およびこれらの対策に対する例外的に高いレベルの住民の理解と受容である。
あれ、財務諸表にたとえる意味がよくわからんのだが、話そうとしてる内容自体は大変有意義なものなので、なんとかもうちょっと財務諸表寄りにさせるにはどうしたら良いものかと考えてみた。
まず前提として、財務諸表について押さえておきたい前提は、「貸方で調達した資金を、借方のどこに貼るとリターンが得られるか」という構造。金利5%の借入金を1%未満の金利の定期預金にぶっこむのがナンセンスなのであって、少なくとも5%を上回る資産に充てるべき、みたいな話。普通は事業の利回りが粗利率20%だの30%だのってなるわけなので、しっかり資本が回転してれば、棚卸資産だとか事業の前提となる固定資産に貼るわけだよね。(費用に貼る話はちょっと置いておく)
確かに、資産又は負債の定義は、将来の資金流入又は流出可能性とはされているのだが、財務諸表が会計処理、もっと言うと仕訳の構造からの帰結であることからすれば、上記の前提は依然として覆らない。
以上の視座から言えば、かの記事でGPとされているものは、資産サイド、すなわち、プロダクトに充当させることでリターンの最大化を目指すべきとされるリソースのことなのだから、財務諸表の埒外ではなく、単純に貸方に持ってくるべきものなんじゃないかと思う。
貸方のGPが、借方の正のプロダクトに充当されることで適切なリターンが得られる。じゃあどのプロダクトに貼れば良いかというのは、あの記事で言うと、CTOじゃなくてプロダクトマネージャなのだ、となるわけ。CTOはGPの最大化を目指す、これは財務部が他人資本と自己資本とのバランスの中でどうやって資金を調達するかということに比定できる。
で、そうしたときに技術的負債はどう表現されるかというと、これは、負債とか言われてるけど、貸方サイドではない。やはり借方に表現すべきなのだ。つまり、当初はリターンを得るべく貸方から調達したGPの貼り先として資産に計上されたが、適切なリターンが得られるべくもないものに成り下がった、と見るべきということ。こうした資産のマイナスは、財務諸表でも貸倒引当金だとか減価償却累計額とかで見られる。つまりは資産の減損として見るべきということ。資産サイドを2象限に分けてあげて、当初正の資産にGPが貼られてるんだけど、いつしか資産サイド側で、正の資産から負の資産へと振替えがなされるということね。
ひとまずは以上なんだけど、うーんそれでもまだ全部表現できんね。
好きなことをやるっていうか、要は適正を見つけるゲームでしょ。
誰にだって向き不向きはある。
そしてそれは遺伝的に決められてる要素だから、学校の均質化したカリキュラムで個々人の資質が見い出せることはないってこと。
たまたま突出した才能があって遺伝子的に向いてることやって、さらにやれる環境が整っていれば誰でもそうなる。
でも多くの人は向いていることも見つけられず埋没してしまうから、学校という環境が下支えになって底辺への転落を防ぐ役割になっているわけで。
だから結局のところ、個々人でそれぞれの遺伝的要素に向いていることを見つけるゲームだってこと。
そもそもパラメーターも人それぞれ違うし、当然目に見えないから本当に向いてることなんてそうそう見つけられない。
まずは好きなことからチャレンジして、適正を見極めるっていうのは効果的な方法だよね。
ある程度できてるから楽しんで続けられるわけで。
吸収も早いから成長が楽しめる。結果続けられるという因果関係。
本当はみんながそうできればいいけど、適正だけじゃなく環境も人それぞれだから結局格差が出てきて複雑になっちゃうんだけどね。
だから適正を発揮できるのは一部の才能と環境に恵まれた個人って一般的な帰結に着地する。
難しいよね。
ウォーホールの「未来では、誰でも15分だけ有名人になれる」を体験した気分だ。
いろんなコメントがあったが、ほとんど読まなかった。でも、レスポンスを少しだけ。
・内容がつぎはぎのよう。嘘松。
→増田で真贋を確認したい面々がいることに少々驚く。真実だが、増田とはいえ個人を特定されかねない生々しい話は、離婚協議中にあれば書けない。「私は傷ついた、だから子どもに会わせない」という超理論が今の日本では成り立つ以上、そんなリスクは取らない。
俺個人についても、書いたよりもっとクソみたいなことがたくさん起きた。知りたいならググれば似た話はいくらでも出てくる。
なお、俺より辛い思いをしてるのは女性の別居親だ。これは男が女がという話ではなく、等しく多くの離婚家庭で起きている悲劇だ。いまの制度では、DVや虐待していた親が親権を獲得する場合もある。それがあるから、同居親による児童の虐待事件が後を絶たない。
・専念したとあったが、専業主夫じゃなかったのか。手伝ったというような感覚だからいけないのだろう。
→酔って書いたものにレスがつくと、書いた瞬間から書き手を離れるということがよくわかる。
「専念」が辞書でいう「心をその事に集中すること」なのであれば、働き方、住環境、家計、休日の使い方、家事育児の分担など全てにおいて、妻の負荷を分散し、子を育てることに集中させてきたことをもってしても専念したといえないならそれはヘビーじゃないかと思う。
そりゃ、共働きの母親が引目を感じるのも当たり前だ。俺と同様に「子育てに専念してない」と言われかねないのだから。そうして子育てをヘビーにした結果、現役世代が感じたのは子を持つ重責であり、その帰結が少子化なんじゃないか?
「手伝った」という表現に姿勢が表れてるというあれば、仕事をしていながら「子育てしてるなんて勘違いも甚だしい」というのだろう。言葉狩りすげー。
・子どもが本当に好きなら育児をしなければよかったというだろうか
→辛い別れに、いっそ記憶を消して欲しいと思ったことがないならば、おそらくまだ幸せな範囲の別れしか経験したことが無いのだろう。
おそらくモーレツ社員がもてはやされた時代の父親であれば、育児に大して関わらず、子どもと離れることを比較的早く受け入れられたのだろうと思う。
イクメンと広告代理店におだてられた俺たちは子どもの匂い、やわらかさ、温かみを身体で覚えてる。
子どもの笑顔が記憶のなかから薄らいでいることに気づいたとき、ときおり街で子どもの感触を思い出すとき、どんな気持ちになるかわかるだろうか。
毎月養育費を払い込むためにATMに立つ瞬間、金を払い込むという一点だけで繋がるという残酷な事実に驚く。
子どもが成人するまでの養育費と引き換えに、妻と子どもに関する一切の記憶を消すという悪魔が現れたら相当悩むだろう。
→なんでも陰謀論で捕らえられて幸せだな。俺も共同親権の国だったらこんなことにならなかっただろうと思う。また、単独親権であっても、俺は子どもが育っていく様子を見守れるなら、親権に拘らない。苗字が変わろうと、たったひとりの子どもだ。
まだ離婚が成立してない俺からすれば、日本は共同親権だろうと、子どもに同居親が会わせないということが平気で起きる不思議な国であることが身に染みてる。大して期待してない。
この国にあるのは、同居親の「お気持ち」絶対主義。子どもの気持ちも無視される。
→まさに、そのとおり。俺が酔った頭で言いたかったことはこれにつきる。
俺は妻について今更どうこう言うつもりがない。
離婚時の相手と離れたいと思う気持ちと、子の親権や監護権を獲得するために有利な方法が一致しているが故に、別居親を引き離すことが有効になっている。ゲーム理論でいうと、真っ先に裏切れる側が一番多くのものを得られる設計になっている。
諸外国は共同親権を採用している。一度別れた夫婦間でやっていくのは大変だ。それでも、紛争か断絶を容易に招く単独親権よりはかなりマシだ。
「共同親権は最悪の家族法制といえる。これまで試みられてきた、共同親権以外の全ての家族法制を除けばだが」
・結婚しなくてよかった
→残念ながらお前らのいうことはもっともだ。家庭を持ち、子を育むといったことがここまでハードになった時代もないだろう。
このハードさの背景には、然るべき収入があり、正しい(恋愛)結婚があり、正しい(若すぎず、遅すぎない)タイミングで妊娠し、正しいやり方で育児を分担し、正しいレベルの教育を受けられるべき、そして子どもは正しく育つべき、というあまりにも横並びの幸福観ではないだろうか。
私の妻も正しく離婚を選ばざるを得なかったかわいそうなシングルマザーでありたいのだろう。
インターネットは自由な社会を作るかと思いきや、この日本においては「正しさ」を強い同調圧力として生み出していった。
先日の少子化加速を総理大臣は国難だと言ったが、この国難を招いたのは、制度設計の稚拙さだ。
死ぬ思いをして親元を飛び出して10年近くになり、以後一切の連絡も取っていない。
今回はとにかく父親の悪口を言うために投稿したので、あの女のことや、されてきたことはここでは触れないが、とりあえず虐待は18歳までに児相に相談するという証拠を残しておくとのちのち有利なので、虐待親に苦しんでいる人はぜひ。住民票開示拒否は忘れずに。
私の母親は火を見るより明らかなキチガイなのだが、毒親と縁が切れて少しずつ父親にも問題があったのでは?ということを、認識するようになった。
そもそも私は自分の環境が異常だということがよく分かっていなかった。
これは虐待家庭持ちにあるあるだとおもうが、単に私がアホということ以外に、虐待家庭という非常に社会から遮断されやすい環境にいたこと、一人っ子であること、私に友人が少なく平均的な家庭環境を知る機会がなかったことなど様々な要因があるが、まあそれは置いておいて。
知人や友人に、虐待の事実をカミングアウトをしたとき言われた言葉を覚えている。
20年間ものその間の父親は何をやっていたの?という疑問の言葉である。
やつがなにをしたかというと、
「俺も苦しんでるんだ 」「俺も辛いんだ」「俺は頑張っているんだ」「あいつ(母親)はおかしいんだから、お前が我慢しろ」と言い続け、何もしなかった。
いや、こういった自己弁護ばかりしていた。
常に自分も被害者で苦しんでいる、だから自分は何も出来ない、というかこれでも自分は頑張っているんだ、そしてお前も我慢しろ。という。
少しでも責められていると感じると上記のような発言を繰り返す、形式的な謝罪をする、時に押付けがましい土下座までする、だが改善はしない、何もやらない、根本は何も変えない。
子供が母親から虐待を受けているのなら、隔離するのが父親ならばやるべき真の役目だと思うのだが。
(ちなみに虐待を受けていても母親から離れないことの多い幼少期を過ぎた思春期になっても、あの男はこの姿勢を変えなかった)
上に挙げた性質の他、あの男は、気も利かない、空気は読めない。口を開けば自分は可哀想だという話ばかりする。被害者面が大の得意で、自分から改善する努力や行動は何もしない。面倒くさいと感じることは決してやらない。ケチでとにかく金やコストをかけることを嫌がる。心が狭い。不愉快なクチャラー。仕事は出来ない。
顔はティッシュ箱並にデカく、エラが張り、ほお骨は前にパンパンに突き出して、目は細くアホほど垂れ下がっていて、鼻は特大の団子鼻、青髭だらけ。
友人がいないのも当然だ。
挙句にスーパーでマネキンなどをしている若い女にはクソどうでもいい世間話やら愚痴やらで下心を持って話しかける。
(私もマネキンのアルバイトをした経験があるから言うが、キャバクラじゃねえんだよ帰れ仕事の邪魔だ失せろ と思う。←私の父親のようなケチクソジジイはこういう所には金がかかるからいかない)
職場の女性たちに徹底的に嫌われていたそうだが、娘ながら納得する。
私もこんな汚らしいオッサン(今はジジイ)とはかかわり合いになりたくない。
私が失笑した話をしよう。
お前が相手にもされないどころか嫌われるのは女側が面食いなせいではなくて、お前自身がブサイクで卑しくて性格的にも人間としての魅力が何一つ感じられないせい。当然の結果、帰結である。
余談だがこの父親は見合いを50回以上して失敗し続けたという武勇伝の持ち主だ。断った女性達は非常に懸命な判断を下したと思う。
しかし、これと結婚した頭のおかしい女がいた。つまり私の母親である。私は最悪の組み合わせから生まれてきた。一体前世で何をしたのだと疑うレベル。
思い返せば、小さな頃から、父親の『卑しさ』が恥ずかしかった。お1人さま1つという景品を鷲掴みで持っていくことや、とにかく何度言ってもくちゃくちゃものを食べることをやめないことなど。
そして、子供の頃、自分は酒やタバコ、ギャンブルをしない、のめり込まないからまともな男なんだというような話を言い聞かされ、世間から断絶された毒親家庭の一人っ子だった私は長らくそれを信じてきたが、大人になって気づく。
そ れ く ら い は 人として 当 た り 前 なのである。
私がどうしても忘れられないのは、私が母親に精神を叩きのめされ、追い詰められ、ああ、もう死ぬという直前にいたとき、あの男は「俺もあの女にこんな酷いことをされて辛くて」「かわいそうで」といつもの不幸話をし始めたことだ。
その直後、私は自殺未遂をした。
あの男は他人への共感能力が低く、自分の言動が他人にどう受け取られるかという視点が決定的に欠落している。
自分も辛いという話をすることで、自己弁護をしているつもりなのかもしれないが、お前の苦しみは子供を助ける義務の免罪符にはならない。
ポジティブな見方として、苦労話をすることで慰めているという解釈もできるかもしれないが、追い詰められており今すぐにでも助けを必要としている人間(しかも本来なら保護すべき子供)には、全くもって逆効果である。
歳を食った大の男が、俺は可哀想だ、俺も辛いんだ、とアピールし続けることが、どれほど己の無能さをひけらかし、周囲からの軽蔑を得るか。
驚きなのは、自分が何故娘に拒絶されているのか、現在進行形で理解できない・していない点である。
あまりにもゴミのような人間が親だったせいで、大人になった今でも、「え、親ってそこまでしてくれるんだ」と驚くことが多々ある。まるで異世界、テレビドラマを見ているような気持ちになる。
尊敬する人物はお父さんとお母さんですと宣う人の感覚はほぼ理解不能である。
幸運なことに、容姿に関していえば、私は父親には何一つ似なかった。
あの顔面の遺伝子から見たら、地球が逆回転を始めるくらいの奇跡、大成功の出来だ。
あの父親の顔で女に生まれていたら人生ウルトラハードモードゲームだった気がするので、こういう最悪な生まれながらも、神と自分自身に感謝したい。
3次元の事務所の選考が通ったとき、ふと妄想していた話を書き殴る
アニメやゲーム話を現実に持ってくるべきことではないし、辛い現実の話を仮定した話であることをお断り、謝罪をしたい。
セグメント別の予実管理は通常されるものと考えられる(想定ソフトは弥生Proクラス)
となると、P/Lの仕訳を切る際には切り口が複数あることになる
(科目/補助科目/部門)
または
他の業種もやっていれば
など複数の想定ができる
アイドル事務所は個人成績とユニット別に予実管理を行うとすると
仕訳例
この計上を行うと、エクセルで仕訳データを抽出した際に、ピポットテーブルで補助科目と部門で絞り込みを行うと、簡単に成績表のグラフを作ることができるということも理解頂けると思う。
共通費に関しては、
のような仕訳を切り、任意な方法にて配賦することを推奨する(プロデューサーの担当してる人数別、売上別など)
さて、この方法は明確にP/Lの責任の所在を明らかにするデータを取得できる。
プロデューサーの経費は、管理してる人に応じて配賦し各アイドルに普段からコストがかかることを認識させ
管理しているプロデューサー(=営業)の能力が強く問われることになると思われる
となると、毎年行われている人気投票は、プロデューサーにとっては死活問題であり、売上向上をすべくSSRとプレミアを作り出し
そこで、最後に使える手段はプロデューサーを引退するか、自らガチャを回す自爆営業に帰結することになる
話は変わるが
利益が発生していない某氏のアイドル名別の損益計算書を見てあの話が出てきたのではないのかと思う。
売上が立たず、配賦分やレッスン費用などがただ、計上されている様子かと想定できる。
アニメであっても、事業撤退や縁のあった会社の倒産を経験している身としては想定されるP/Lに既視感があり
某アイドルは最後の肩叩き一歩手前だったのではないかと率直に感じた。
役員として、あの場面をどうにかしないと経営責任の問題が生じていたと同情している(大きい会社だと株主から相当叩かれるはずだ)
歌詞に「夢は夢で終われない!」
とあるが、これは夢で終わってほしい。
「宇宙の中で良いことを決意する」
「神秘的」
めちゃくちゃスピリチュアルじゃん。
エコロジー運動にハマった左翼がスピリチュアルに落ちるってまんまヒッピーの帰結と同じじゃん……。
なんでこんなのをファンは喜んでるんだ。昔のオザケンが戻ってきたんじゃなくて、むしろ活動家のオザケンが先鋭化しただけだぞw
「消費」というのは現代の大量消費社会のイメージからくる概念で、〈一方向的な都合によって使い尽くすようなモノとの向き合い方〉を意味する語なのね。継続的な協働・使用関係みたいなのとは反対の概念。
それが、〈自然や事物と対話しつつ向き合ってきた〉という、仮想の「前近代」へのノスタルジーって言えばそらそうなんだけど、たとえば現代でも、職人さんが自分の道具や加工する素材と丁寧に「向き合い」ながら物作りをしているとき、その職人さんが道具や素材を「使用している」とは言っても「消費している」という言い方はしないんだよ。同じく、たとえばその製品を「購入して使用して」も、職人さんのスタンスを知りその製品を大事に使う人の行動は「使用」であって「消費」ではない。しかし、たとえば同じ製品を「購入し使用した」人が、単に自分の好みでデコったりインスタにアップして、飽きたらポイと捨てるような使い方をしたら、それは「消費」だと言えるだろう。その場合、消費しているのが商品なのか、職人ブランドによる商品というイメージ(記号)なのかは、また微妙な議論が必要になると思うけど。これはあくまで余談ね。
だから、子作りをしたフェミニスト(ちなみに、フェミニストには男性も女性もいる、というのはいいよね?)が相手を「性的に消費」したかどうかは、一般的には、人によるとしか言えないんだよ。相手のセクシャリティや相手自身と向き合いつつ継続的協働的に関わり続けているなら、それは「消費」ではないと判断していいだろうからね。もちろん、ただ「子供を作る」ためだけに相手と関わったりしたのなら、あるいは、短い一定期間の性的な関わりだけが目的で子供はその生物的な帰結に過ぎないのなら、「性的消費」と呼ぶに値することがあったかもしれない。それなら確かに批判はされるべきだろう。だが、それを判定するのはなかなか難しいよ。たとえば、結果的に離婚していたとしても「当時は真剣に向き合っていた」と言われたらそれを否定するのは難しいのだからね。
もし、以上のことを理解した上で「性的消費」と言っているのなら、それはあなたの性の価値観に「消費」以外の性的な関わり方がない、つまり他者と継続的に向き合う性的な関係を想像できてないということを意味してしまうだろうね。それはなんというか、なかなか不幸なことだとは思うけど。
例の献血ポスターの賛否については置いとくとして、アングル的におっぱいが画面の中心にでっかく描かれてる絵に対して「キャラが巨乳なだけでエロ強調ではない」って言い訳はさすがに苦しいと思う。しらばっくれるにしても下手糞過ぎて見てて恥ずかしい。— 目黒 (@nokolover) October 16, 2019
これに関しては反論が二つある。
まず「おっぱいが画面の中央に」というのはポスターで見るからそう思うのであって、元々のコミックスでは帯が巻かれるのでイラストの重心はもう少し上に来るということである。
もう一つは、煽り顔で見下しているので身体が反るような体勢になっており、必然的に顔は上方に遠く、胸を突き出すような構図になるということである。
いずれにしても「構図としては」巨乳を強調しているとは言い切れない。
とはいえ宇崎ちゃんの巨乳がチャームポイント(=魅力)として設定されており、イラスト内に巨乳を入れない選択がないという点では、「巨乳は強調されていない」とは言い難いのも事実である。
つまるところ「巨乳を強調することはエロなのか?」ひいては「男性が女性のおっぱいに性的魅力を感じることは罪なのか?」という問題に帰結するだろう。
献血ポスターのイラスト問題が、連日タイムラインを賑わせている。私のタイムラインでは大元のツイートは流れてこなかったが、オタクがオタクの献血を賞賛し、"環境セクハラ"をこき下ろすツイートがちらほら見られた。シンプルによくわからん、と思った。私自身もオタクだから人のことを言えないのかもしれないが、オタク、オタクを賞賛するのが好きすぎる。献血は確かにえらいが、そんなに過剰にオタクだけ褒めそやすのはどうなのか?それにセクハラは色々な問題を抜きにしてもまず透明化したらダメなのでは?とさまざまな思いが巡り、このオタク献血賞賛ムーヴがどこから来たものなのか調べることにした。
先に結論を述べておくと、「二つの議論を一緒くたにして考えるからダメなのだ」である。
この一文だけで察してくださる方もたくさんいることだろう。そんな方にとっては、以下の文章にさして内容はないと思う。煮るなり焼くなり好きにしていただきたい。
さて、今回の件の発端となったのは、恐らく弁護士のこの方による引用リツイート。
https://twitter.com/katepanda2/status/1183729350207623169?s=21
渦中のポスターは、漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」のヒロイン、宇崎花ちゃんと献血のコラボキャンペーンポスターである。
『文字通り絵に描いたような爆乳で困り眉の女の子が、挑発するような台詞・表情で』献血を促している。
多分、弁護士の方がここで問題にしたいのは『』の部分だけだ。献血を促すこと自体に文句を言っているわけではない。ポスターに採用されたキャラクターの造形に問題があるという話で、漫画・アニメ作品が採用されることに不服があるわけではない、と思いたい。このていで話を進める。
話は変わるが、Twitterランドはスラム街である。日々クソデカ主語や極右極左、クソリプパクツイデマツイお気持ちマシュマロと戦うオタク諸君はこのあたりよくご存知のことであろう。こんな環境で、果たしてまともな議論ができるだろうか?できるわけないのである。揚げ足取りは腐るほどいるし、文脈が読めないまま発言の一部のツイートだけが一人歩きしたり、過激な思想を持った影響力の強い人々が発信する偏った意見が多くのRT・いいねを獲得していたりするのだから。一つの議論をまともに話そうというのがそもそも無理な話だ。
ここで話を戻そう。
先のツイートは、一見すると問題提起に見えなくもない。いや、そのつもりがあってしているのかもしれない。この弁護士さんはフェミニストの方々の間では有名な方だと聞いた。だとしたらこの方の主張は、『環境型セクハラに配慮しないポスターを貼るのは無責任だが、日本の環境は麻痺していてそれを問題にする人もいない』であろうと思う。
環境型セクハラと言っているもののそもそも微妙に意味が違う気がする(気になったら各自調べてください)のだが、今回のを要約すると"生きているだけで目に(女性が客体である)性的なイラストが目に入ってくる"というところだろう。
私はこの主張にのみ関して言えば、議論されるべき問題であると思っている。女性身体の過度な客体化とアニメ文化が密に結びついた日本では、驚くほど性的アイコンが強調されたイラストがそこら中にあふれている。性的アイコンは巨乳とか服の上からでも分かるマン筋とか、困り眉赤面涙目とか、濡れてんのか?みたいなピタピタの服によるわかりやすいボディラインとかそういうものである。生きていれば上述のアイコンの何かしらを目にしたことがあるだろう。それこそ都会ならば場所や時を選ばず、どこにいても見られる。コンビニのエロ本撤去が少し前に話題になったが、あの区画に限らず様々な場所にあの手のイラストや漫画があふれているのだ。意識して見てみるとわかるが、そのイラストに感じる独特の「気持ち悪さ」はよっぽど理解がないと感じ取れないかもしれない。それだけ、この国の女性客体化思想は深く深く根付いてしまっている。
とまあこんな具合に、この問題は一朝一夕140字ちょっとでは到底語りきれない深刻な問題なのである。そして悲しいかな、今回の件について、この文脈で議論を展開している人はあまり見られない。
「萌えアニメのキャラを献血ポスターに使うのの何が悪いのか?」
「セクハラだかなんだか知らんが献血量が減ってないならなんの問題もないし知ったこっちゃない」
「我々はオタクの献血で命を救われた。オタクが献血に行くことのなにが悪いのか」
こんなもんである。そもそも論点がズレていることに、一体この話題に参加したオタクの何人が気づいているのか。指摘しているツイートも少なからずあったが、そちらはバズらずじまい。なぜだろう。原因はわからない。
そもそもこの問題の要点は『性的アイコンが強調されたポスターはセクハラだ』であり、『オタクが悪い』『アニメキャラ(クソデカ主語)はポスターに相応しくない』とは誰も言っていない。誰も言っていないのに、勝手にオタクの好きなものが批判された、こき下ろされた、エログレーゾーンのアニメキャライラストを全て規制しろということか、表現の不自由だと逆ギレしているのである。
何故?これもわからない。表現の自由が誰かを不快にするのを厭わず行われるべきだというのなら、なぜ「表現の不自由展」はあんなにバッシングを受けたのか。人に不快感を与えるという点でそこに上も下もないと思うのだが。
結局日本は右寄り日本人男性の視点優先の社会構造が浸透しすぎており、女性の視点や気持ちはほぼ透明化されているということなのであろうが、このあたりは話しだすと論文一本じゃすまないので今回は割愛しておく。右寄り日本人男性というカテゴリーも微妙なところだ。男性というだけで生きやすい国なのだ、ここは。
一方で、もし発端の弁護士の方にアニメキャラ全般をこき下ろす意図があるとするならば、それはそれで問題である。過度なミサンドリーという点でもそうだが、このご時世、アニメイラストというだけで拒絶反応を示していてはキリがないし、正当なフェミニズム思想や反論の材料にならない。アニメイラストが不快、というだけでは「個人の問題」になってしまうのだ。とにもかくにも、今回の件は議論にするには材料や前提となる問題提起の部分が弱すぎた。
長々書いたが結局のところ、今回の騒動は
①性的アイコンが強調されたキャラのポスターが誰にでも見えるところにあるのは不快だしハラスメント
②ポスターにアニメキャラが採用されることはなんの問題もなく、それを規制することは表現の自由の侵害である
という二つの問題がごっちゃになったまま拡散され、憤るオタクたちが様々なツイートをし、歪みに歪んで広まったというわけである。繰り返すが、誰もオタクがダメともオタクの血が不快とも言っていない。だから「女は献血への貢献度が低いくせにごちゃごちゃ言うべきではない」とか、「巨根男性がポスターについてたら男は嫌だろ?」とかはまた全然別の議論を立て直さなくてはいけないのだと思う。このあたりはミソジニーとミサンドリーが混ざりすぎて本来の目的を失っているようにも見える。個人の快・不快ではなく、議論はフラットな目線で行いたいものだ。私自身それができているか甚だ不安ではあるが、特大スラム街・Twitterにいるともう何が何だかわからない。そしてその辺りを踏まえて、発端の方のツイートが個人の快・不快に帰結するものかどうかについても、議論すべきかもしれない。私は社会全体の問題だと思うけれど。
ついでに今回の問題をこねくり回したツイッターの人々を十把一絡げに「オタク」と言ってしまったが、これも本来良くない話だ。まさにクソデカ主語。目につくツイッタラーが皆オタクに見えてしまうのは、ツイ歴五年になるクソオタクこと私の決定的に良くない点である。反省。
さて、散々色々とりとめなく書いたので、このあたりで渦中のポスターのメインキャラについてもひとこと。
失礼ながらタイトルも知らなかったのだが、「宇崎ちゃんは遊びたい!」はTwitter発の漫画作品らしい。現在はニコニコ静画などで連載しており、コミックスも三巻まで出ているようだ。以下あらすじ。
一人でいることが好きな先輩を「ぼっち」扱いするウザい後輩が絡んでくるドタバタラブコメディ。非日常的な要素はなく、基本は主人公とヒロインを中心に大学での青春を描く。
ヒロインはショートカット、巨乳、八重歯、~ッス口調、アホの子というキャラクター性を持つ。ただし他の女友達と過ごす時や独白では標準語で話す。(Wikipediaより引用)
清々しいほど分かりやすくオタクの好きなやつである。私も好きである。属性は盛りすぎてもいけないが、あって悪いことは一つもない。かわいいことはいいことだ。こんな後輩欲しかった。いつか思う存分揉めると、その柔らかい触り心地を夢見て大学生活を送りたかった。
この宇崎花ちゃんは今回なにも悪くない。だから過剰に擁護すべきでも、過剰にディスる必要もそのいわれも全くない。じゃあ誰が悪くて、なにがいけなかったのか。今回の話はこのあたりが議論されるべき点だったと思う。そしてすでに意見を述べている人々は、反対意見の人々の意見も詳しく聞いてみるべきだ。
最後に、今回の件で一つ良かったことがあるとすれば、献血に興味を持つ人が少なからず増えた点ではないだろうか。結果的に宇崎ちゃんのポスターは本来の目的を大幅に逸れて拡散され、献血を広めることになった。そして宇崎ちゃんの読者もさらに増えたことだろう。よかったね。
献血は人類のために必要不可欠な活動であることはわかっているつもりだし、今更その重要性について語る必要はないだろう。ツイッタラー各位は特に、今回の件で献血に救われた人間の話をたくさん見たことと思う。私はウッキウキでカントリーマアムをもらいムシャムシャ食べながら献血を待っていたら、ヘモグロビンと鉄の量が足りず献血ルームから追い出されてしまったが、今後も献血をする人が増えるよう祈るばかりである。