はてなキーワード: 帰結とは
幼少から続けているヴァイオリンにまつわる、悩ましい話である。
ヴァイオリンという楽器は、ピアノに次いで西洋音楽では今なお抜きにできない、重要な楽器に含まれる。
これは現在まで残っている楽器の中では最も歴史があるものの一つであり、加えて発展の過程で弓に劇的な近代化が施され、結果演奏上の制約が殆どない、豊かな表現力を持つようになったことが理由に挙げられる。
なので、ヴァイオリンの問題は楽器ではなく、奏者の問題に帰結すると。
どういうことかというと、象徴的な話として、曲を弾くときに最初からほぼ最後までツッコまれるのが音程、指が回ってないことだったりする。
というか、指の適正位置はもちろん、そもそもの楽器の構え方や弓の持ち方動かし方まで、「ここは絶対こうする、しなきゃ許さん」みたいな、まさに箸の上げ下げレベルで超細かいマイクロマネージメントの洗礼が、毎回のレッスンで待っている。
そしてそういう「基礎」と見なされるような訓練と並行して音楽的表現、つまり「曲の弾き方」も習うわけだが、これは先生の言う「ここはもっと大きく」「ここは突然弱く」「ここは弓たっぷり」「こっちは弓の毛3本で」といった指示を覚え、実践する作業に終始する。
つまり音楽的センスや解釈力を養う目的でやってるはずのことが、往々にして「先生の劣化コピー」育成以外の何者でもない状態になっていることが大半なのだ。
そういうレッスンを幼稚園保育園の頃から受けてきた結果どうなるかというと、プロアマ問わず多くのヴァイオリン弾きが歌わないで演奏しているのだ。
言い換えるなら、手先指先のコントロールばかりに注意と集中の殆どを費やすようになってしまい、それが演奏だと勘違いしている人が多い。
少しでも音楽やったことある人には信じがたい話だと思うが、事実である。
まあ自分の知る限り、そんなことが起きているのはヴァイオリンだけなので無理もない。
これが管打楽器やギターとかだと「歌ってはいるけど、歌い方のセンスが(ry」で残念賞というパターンがある。
しかしヴァイオリン弾きはそういう一般的な「下手くそ」以前のレベルで止まっているのだから頭を抱えてしまう。
それでよくあるのが「上手いけど、つまらない演奏」というやつである。
聞く所によるとその昔、某大物歌手と海外の某有名ビッグバンドが日本でコラボしたとき、日本人弦楽器奏者のレベルの低さにバンドマスターがブチ切れて、本国から奏者を呼び直したなんて話もあったり。
つまらないだけならまだいい。
これに奏者の自己顕示欲が加わって「上手いけど腹が立つ演奏」なんてのも存在するのだ!
しかもそういう演奏をする奴は高確率で「上手くなるのに百万回さらった」みたいな苦労話をひけらかす。
それ自慢になってないどころか、全然楽しく見えないんだけど。音楽、楽しくないの?
てか、小手先の微調整だけで弾こうとするから、百万回さらわないと弾けるようにならないってだけじゃんか。
そんなんで偉ぶること自体どうかしてる。
とどめは、こうしたヴァイオリン奏者の傾向は洋の東西を問わないということ。
すまん,語弊があったけど
という印象を持ってる.
フェミニスト諸氏の主張が正しいとすると男の価値って肉体労働しかないんだよね
男ってのは肉体以外の能力は女と変わらないくせに
子供も産めないし
ジェンダーフリーだの男女平等だの言ってたらこんな帰結になるのは皮肉だわ
恋愛コンテンツを好きでいるけど恋愛という感情にであったことはない
それはムーを読んでる人やほん怖のファンの人たちとおなじような気持ちかもしれなくて、信じることと好きでいることは違っていても良いのかも、という話
ムーやほん怖のファンも、事実だと思って読んでる(観てる)わけではなくても、「でももしかしたら…!」みたいな気持ちを持っているんじゃないかと思う。その気持ちはわたしが恋愛コンテンツを楽しんでいる時の気持ちにす〜〜〜〜ごく似ている
世の中の人たちって、エンターテイメントとしての恋愛が好きだよね
じゃなきゃ月9は流行らなかったし、少女漫画なりBL二次創作も流行らなかったし、ボーイミーツガールという言葉も生まれなかった
我々が目にしている恋愛コンテンツってすべからく美しい。関係性の帰結として成就する瞬間の多幸感といったらない
なんなら友達が誰某と付き合うことになるまでの過程を見守るだけでもやたらと楽しいし、学生の頃なんてみんながみんな誰かのこと好きだったりして人生楽しそうでいいな〜と思ってた
だけどわたしは今だに恋愛というものを知らないし今後も出会う予感もしてない
それは、ツチノコに会ったことはないし今後も会う予定はなかったり、幽霊に会ったことはないし今後も会う予定がないのと同じことなのだと思っている
恋愛というものを信じてないから見えないのか、本当に存在しないから見えないだけなのか知りたい
まあ実際問題、恋愛とかものを実感として得ている人っているの???
フィクションで得た感情は入れないでほしい、それならわたしにもわかるから
恋愛体質の人に出会うと、わたしこそがツチノコだったのか???と思う、それなら一生探しても出会えないし
そういや何かの作品で、「みんな本当は愛なんてわからないくせに手に入れたものを必死に愛だと言い聞かせて自分を納得させて生きてる」みたいなことを言ってたんだけど、そういうのを聞いちゃうと、やっぱりわたしの考えてることは世の中的にも間違ってないのかも…と思ったりもする
何よりコンテンツとして主流になっているのが、非実在の根拠のような気もする。ムーだってほん怖だって女性誌だって、触れられない世界だからみんな欲しがるんだよね?だったら恋愛コンテンツもそうなんかなって思った
でも最近少女漫画の売れ行きが悪いとか、女性誌が売れないとか、月9の視聴率悪いとかなんとかで、本当にツチノコになる日も遠くないのかもね
だって現にわたしは恋愛をしてなくてもそれなりに楽しくやってて、愛とかいうものも物語を通して知っているし、体感することはなくてもそれが大事なことだと知っている
ニュースアプリのヘッドラインが韓国のことばっかりだ。いつもの朝日や日経の記事のほかに、普段はトップに登ってこないソウルの通信社の記事とかがずらずら並んでる。
まあね、そりゃそうだ。
とはいえ、軍隊がやりあうみたいな戦争に発展する可能性はないはずだ。何しろお互い全く利益がないし、片方が軍事的に圧倒的に強力ということもなく、欧米の監視や中露の脅威もある。核兵器がなくても相互確証破壊は成り立つ。いま日韓にあるものがそうだ。
しかし、軍事力に発展しないことは、かえって別のエスカレーションを生むだろう。
近代以降の戦争っていうのは普通、片方あるいは両方の当事者が疲弊し尽くすことで終わる。たくさん身内も死んだし、国内に厭戦気分が漂って、これ以上は続けられないというムードになることでしか、戦争は止められない。
翻って、経済戦争という形態の戦争では、まあ打撃があるにせよ身内が死ぬわけでもないし、なんなら戦争しているとの実感すら国内に起こらない。
この状況下において、戦争っていうのは止まるのか?
落とし所なんて作れるのか?
実際のところは、正直わからない。
ただ、上記のように考えるのは、自分に「炎上」についての知識が多少あるからだ。ちょっとカッコよく言えばフレイミング。所謂ネット上の口論のことだ。
それは、疲れないからだ。リアルタイムで顔合わせの口論なら、少なくとも数時間もすればどちらもが疲れ果てて、それ以上喧嘩を続けられなくなり、仲直りはしないまでもその場は収まる。しかし掲示板での書き込みを通じて喧嘩をしてしまうと、別に疲れたら寝て起きてまた書き込んでもいいわけで、レスポンスの殴り合いは原理的に永遠に続いてしまう。日本で観測された最初の「炎上」は雑誌の読者投稿欄における非難の応酬だったとされている。
(なお、昨今は利用者側に、さっさと立ち去った方が勝ちだ、みたいな認識が広まってるので、お互いが余程のアホでなければ日を跨ぐような炎上は起きにくくなっている)
翻って、もう一度考える。
我々は経済戦争という状況下にあって、厭戦気分に入ることができないのではないかと思われる。
なら戦争のやめ時ってのは、どこにもなくなるんじゃあないのか。
ちょうど、疲れずにレスし続けることで単なる口論が「炎上」になってしまうように、際限ないエスカレーションに陥ってしまうのでは?
もしそうなれば、あり得る帰結は二つだろう。
一つには、両方の政府トップが、抗戦を求める国民の声を無視した鶴の一声を発し、さっさと戦線から離脱してしまうことだ。
しかしこれはそもそも難しい気がする。両国とも今のトップにその気がなさそうだし、次のトップを選ぶ際にも敵国への譲歩を唱えて次のトップになれるような状況も考えにくい。アメリカなどが頭ごなしに両方に命令する的な状況を想定しても、なかなか厳しいのではないかと思う。
もう一つは、経済戦争のエスカレーションが行くとこまで行って、完全に交流がストップする。化学製品は韓国国内で作ればいいという奴がマジで出来てしまい、日本国内でも保護貿易が進み、その状態で経済が安定してしまう。
そうなった時にどうするか、という前提でこれからのことを考えねばならないんじゃないかと思う。
国家にあたっては、韓国自体との競争よりも中国米国との保護貿易競争に備えるとか。身近な範囲では、海外輸入品の食材で料理店をするのはリスクなので控えるとか。
周知のように、第一次世界大戦はセルビアの青年がオーストリア皇太子を射殺したのが発端だった。
これがかつてのテロリズムだった。
少数民族や反政府分子が、窮鼠猫を噛むの喩え通りに、支配層の要人を斃すことで、敵の民衆に自らの存在を恐怖と共に訴えること。
例は枚挙にいとまがないが、例えばジョン・F・ケネディを撃ったオズワルドは、護送中に射殺されたことで暗殺の目的は誰にもわからなくなってしまった。
その意味では、不幸にも自らの口を封じられたことで、テロリストとしてのオズワルドの目論見は歴史上最も成功した事例と言えるかもしれない。
だがケネディの暗殺は、おそらく、世界中の国家が要人警護の強化へと舵を切らせるきっかけになったのだろう。
その帰結は早くも1970年代、IRAとPLOそれぞれが独立に採用したソフトターゲット戦術となって現れる。
襲撃困難な政府要人より、警備の薄い無辜の市民を狙っても宣伝効果は同じ。しかも無防備な相手なら襲う方の訓練もそれほどいらない。
要人警備の強化が、テロリストに「コスパ」のいい方法を見つけさせてしまったとも言える。
そこから先はソフトターゲットをいかに大量に、派手に殺すかで諸勢力がシノギを削っているような状況だ。
派手にやれば、テレビもYouTubeもその映像を繰り返し流すからだ。
そしていつの間にか、大量殺人の報道がされるたびに我々は「テロだ」と反応するようになってしまった。
実行犯が何を訴えようとしているのかわからない。だけどこれは間違いなくテロだ。なぜなら人がいっぱい殺されているから。
なぜ狙われるのかって? そんなことは狙う奴らに聞いとくれ。
ただ分散SNSネットワークはそうなりにくいようになっているし、そうなるのは良くないと考えられている
分散SNSネットワークを形成する分散SNSサーバ毎にルールが決められ分散SNSネットワーク自体に統一ルールが存在しないためだ
Gab絶対許さない分散SNSサーバがあっても、多くの分散SNSサーバがGabをドメインブロックしていないように、Gab絶対許さない分散SNSサーバもドメインブロックされにくいと思う
分散SNSネットワークへの参入を妨害することは理論上非常に困難で現実的じゃないから、結局は分散SNSサーバやそれに参加する個人が個別に判断することへ帰結してしまうシステムになってる
「何で弱いおっさんが物語で描かれないか」っていう話が「弱いおっさんが嫌いだから」に帰結するのは妙だ
物語とは、主人公が変わる話であって、悪い状態が良い状態に向かう話が多い
・うじうじ
・弱い
・素直になれない
・粗暴
・不良
弱い男の話が少ないというのは、「別に成長進化して強い男になられても困る」からに他ならないだろう
そのままでいいって思われてる
ニート・無職とか、社会性が薄いとか、ダサい、禿げ、独身、無能
こういうのはネタにはされるが愛されてる
むしろ強くなられると妬みが出るから、憧れはするが同時に心が痛む
もちろんこれが女性視点になったり、アメリカになったりするとガラッと変わる
弱い男がそもそも敵役にしか出てこないとか、無職の落ちぶれたおっさんが主人公になるとか
そこらへんはもうどういう心境なのかわからんけど
たまに「技術を教えてやってくれ」という注文が来るんだけど、正直意味がわからない。
それこそ必要な本は会社の経費でどんどん買えばいいし、セミナーだってどんどん行けばいい。
もちろん、どっちも自分で見繕う。
先輩や上司が言うべきは「勉強しとけよ」というハッパかけと、「必要な本やセミナーは押さえたんだから大丈夫だよな?」という確認だけでいい。
むしろ組織としてもっと教えるべきは「仕事の問題は人の問題」という前提と、その解決方法でしょうが。
何しろ仕事をするにあたって創造力か問題解決力のどっちかは絶対に必須であり、このうち普通の職場では問題解決力を求められるケースがほとんど。
そして繰り返しになるけど仕事の問題というのは、紐解いていくとほぼほぼ人の問題に帰結するわけで、仕事力=人の問題の解決力だよマジで。
だから、人の問題を解決する力をメンバーがどれだけ備えているか、どれだけ組織のナレッジにっているかで、その会社の未来が決まると言っていい。
そういう意味では真っ先に、最優先で教えるべきことじゃないかな。