はてなキーワード: 力学とは
数学や科学などの用語を日常的な文脈で暗喩として用いるのはやめてほしい。ものすごく頭が悪そうで、見ている側が恥ずかしくなる。
公共の場所で、「ウチの地元でタクさん知らない人なんかいねえよ。三中のフジモトとタメ張ってたからね」なんて言ってる人がいたら、学の無い人なんだなあ、と思うだろう。それと同様。
もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。
なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。
歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。
そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。
コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!
でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券でヨーロッパに渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料にアクセスできなくなるかもしれない。
明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学が日本に持ち込まれた。だが初期の日本の歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。
オリジナルな史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語とフランス語とドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。
けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本の歴史学が独り立ちするためには。
やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナルな史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語を習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行が安価になるにつれ、国外の文書館にアクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本の歴史学のレベルはどんどん上がっていった。
2000年代から2010年代にかけての日本の歴史学界で生み出された外国史研究のレベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナルで面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。
留学の予定も史料収集の計画も、すべてが白紙になってしまった。
分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程か博士課程で留学をする。これは現地で史料を収集したり、現地で言葉を勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要なプロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国の歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。
COVID-19直撃世代は、この留学の経験を持てない。彼らは外国史研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。
2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することなく博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることなく任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振の研究費のかなりの割合を出張費に充てている)。
けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査のハードルがものすごく高くなってしまっていたら、日本の外国史研究は大きな打撃を受けるだろう。
そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在で史料もたっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国の研究者とオンライン会議すればいい。
でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国語能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端な研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。
もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料をウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国の雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達はドイツ語の学術書をkindle版で引用していた。
だから、研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。
どのような種類の史料が必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージの歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツの政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館の史料を見なければお話にならない。
現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相がメディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料が全然違う。前者は新聞やネットを見ればそれでいいが、後者は情報公開請求が必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。
そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究者から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり、研究のために文書館史料を必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国史研究において、思想史や文化史、古代史の割合が高くなるかもしれない。
(いやでも、ガチの思想史や文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代の知識人の留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいるからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料がほとんど翻刻されてたりするし……)
ネット上で読める範囲の古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究のレベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベル低いね」と一蹴されてしまう。論文を英訳なり独訳なりして海外のジャーナルに投稿しても、それなりのレベルの雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)
ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代の研究水準には戻れないのだ。
ハードルを下げる?
つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?
コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。
それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史はハードルが高いから、表象の歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。
ともかく、これまで日本の歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。
日本の外国史研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。
まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学や記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在のレベルの渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニアの島国やアフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国を舞台にした文化人類学や記述言語学は消滅し、国内を対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……
(まあ、国内の伝統文化や方言を保存するために、一度外国の文化や言語を記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学で修行する若手研究者が離島や山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)
デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。
第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだ。マトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体の公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベルの文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係の公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマを研究しようと思ったらそれでは困る。
第2に、困るのは外国人研究者だけで、本国の研究者はそんなに困らないのだ。
日本人がイギリスやドイツに調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館にアクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国人研究者の姿が消えたとして、いったい日本人研究者になんの不都合があるのだろう?
(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国に拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本の大学で教鞭を執っている中国人の日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米の大学に就職しちゃった日本人研究者は大変だ。また、日本を研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係の歴史を研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府の公文書管理がザルすぎるせいで重要な史料が日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)
つまり、全世界的に、自国を研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国を研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国人研究者への配慮が、果たして自国の公的施設のデジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。
第1に、それ本国の研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費は渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど……
第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書の形式の違い」みたいなのも当然論文のテーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。
ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録に面白そうな史料があったから地方の文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人にコピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語でしかない。
第3に、そもそも論としてなんで自分の研究のオリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要な史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料の存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)
日本史であっても一次史料が海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスのハードルが以前から言及されていたのを思い出した。
なおアジア・アフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史を研究する日本人の歴史家は日本国内で研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリスに(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本に(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……
そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?
それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンやロナルド・ドーアやケネス・ポメランツやイアン・ニッシュやJ・ヴィクター・コシュマンやブレット・ウォーカーにも言ってきて!
プログラミングでやっていることは、本質的にはデータの変換だ。
たとえば、
a b c d
という横一列のデータを
a b c d
みたいに2行2列にするとかな。もちろん、これは分かりやすいがつまらない例だ。もう少し意味のある例としては、たとえば100万個の数が与えられたとして、それらの合計や平均を求めたり、各数を2倍したり、条件に合う数のみを抜き出したり、といったことだ。
プログラミングというのは、どんなに専門的になろうが、本質的にこれしかやっていない。これは何も、「この世の現象はすべて物質間の相互作用に過ぎない」みたいなナンセンスな話をしているのではない。MicrosoftやGoogleのエンジニアだろうが、「プログラミング」に関しては本当にこれしかやっていないのである。そして正直、これはつまらない。
もちろん、あらゆる仕事は究極的に言えば、上と同じような単純作業の組み合わせかも知れない。しかしそれでも、一定以上の知的労働なら、好奇心や創造意欲をかき立てられるものがあるだろう。たとえば力学を応用して機械を設計するとか、回帰分析で将来のデータを予測するとかは、それなりに面白いと思う。一方、プログラミングにそういうものはない。ひたすら、原理的には小中学生でも理解できるデータ変換器を書くだけである。
プログラミングが他の科学技術と最も異なる点は、技術の進歩がないことである。だいたいどんな領域でも、「今まで無かった技術が発見されて、昔できなかったことができるようになる」ということがある。しかし、プログラミングにはそういうことは一切無い。たしかに、スマートフォンなどは昔は無かったが、それらはすべてハードウェアの進歩である。
かわりにプログラミングの世界にあるのは、「やり方」の流行り廃りだけである。つまり、上の小学生でも分かるデータ変換を「どう書くか」が時代によって変わる。この「どう書くか」っていうのは、書き方によってソフトウェアの性能が著しく変わるとかではない。たとえば、日本語の文章で3つの項目を並列するときに、
A、B、C
と読点で区切って並べるか
- A
- B
- C
と箇条書きにするか、というレベルの話である。これによって、伝わる内容自体が変わるわけでも、文章がより洗練されるわけでもない。プログラミングの進歩というのはこういうレベルのことしかない。
誤解のないように言っておくと、プログラミングに進歩がないからと言って、新しい技術を学ばなくて良いことにはならない。2020年現在に、BASICとか初期のJavaなんかでソースコードを書く意味は無いし、そんなことは迷惑だからするべきではない。プログラミングの新技術は、プログラミングの範疇では昔の技術より優れていることが多いし、組織で開発をする上で共通知識になり得るから、積極的に学ぶべきである。ここで言っているのは、プログラミング自体に進歩が無いということだ。
Amazonのレビューなどに書くと過去のレビューから身バレする可能性があるのと、わざわざ別アカウントを作ってまで批評するほどのものではないと思ったので、こちらに書きます。
初めに断っておきますが、本稿は別に加藤文元先生の人格や業績などを否定しているわけではありません。また、IUT理論やその研究者に対する批判でもありません。「IUT理論が間違っている」とか「望月論文の査読体制に問題がある」などと言う話と本稿は全く無関係です。単純にこの本に対する感想でしかありません。
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加藤文元先生の「宇宙と宇宙をつなぐ数学 - IUT理論の衝撃」を読みました。結論から言って、読む価値の無い本でした。その理由は、
「ほとんど内容がない」
本書は、RIMS(京都大学数理解析研究所)の望月新一教授が発表した数学の理論である、IUT理論(宇宙際タイヒミューラー理論)の一般向けの解説書です。
1~3章では、数学の研究活動一般の説明や、著者と望月教授の交流の話をし、それを踏まえて、IUT理論が画期的であること、またそれ故に多くの数学者には容易には受け入れられないことなどを説明しています。
4~7章では、IUT理論の基本理念(だと著者が考えているアイデア)を説明しています。技術的な詳細には立ち入らず、アイデアを象徴する用語やフレーズを多用し、それに対する概念的な説明や喩えを与えています。
まず、数学科の学部3年生以上の予備知識がある人は、8章だけ読めばいいです。1~7章を読んで得られるものはありません。これはつまり「本書の大部分は、IUT理論と本質的に関係ない」ということです。これについては後述します。
1~3章は、論文が受理されるまでの流れなどの一般向けに興味深そうな内容もありましたが、本質的には「言い訳」をしているだけです。
などの言い訳が繰り返し述べられているだけであり、前述の論文発表の流れなどもその補足のために書かれているに過ぎません。こういうことは、数学者コミュニティの中でIUT理論に懐疑的な人達に説明すればいい話であって、一般人に長々と説明するような内容ではないと思います。もっとも、著者が一般大衆も含めほとんどの人がIUT理論に懐疑的であると認識して本書を書いたのなら話は別ですが。
4~7章は、「足し算と掛け算の『正則構造』を分離する」とか「複数の『舞台』の間で対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズが繰り返し出てくるだけで、それ自体の内容は実質的に説明されていません。
のように、そこに出てくる「用語」にごく初等的な喩えを与えているだけであり、それが理論の中で具体的にどう用いられるのかは全く分かりません(これに関して何が問題なのかは後述します)。そもそも、本書を手に取るような人、特に1~3章の背景に共感できるような人は、ここに書いてあるようなことは既に理解しているのではないでしょうか。特に6~7章などは、多くのページを費やしているわりに、数学書に換算して1~2ページ程度の内容しか無く(誇張ではなく)、極めて退屈でした。
8章はIUT理論の解説ですが、前章までに述べたことを形式的につなぎ合わせただけで、実質的な内容はありません。つまり、既に述べたことを並べて再掲して「こういう順番で議論が進みます」と言っているだけであり、ほとんど新しい情報は出て来ません。この章で新しく出てくる、あるいはより詳しく解説される部分にしても、
複数の数学の舞台で対称性通信をすることで、「N logΘ ≦ log(q) + c」という不等式が示されます。Θやqの意味は分からなくてもいいです。
今まで述べたことは局所的な話です。局所的な結果を束ねて大域的な結果にする必要があります。しかし、これ以上は技術的になるので説明できません。
のような調子で話が進みます。いくら専門書ではないとはいえ、これが許されるなら何書いてもいいってことにならないでしょうか。力学の解説書で「F = maという式が成り立ちます。Fやmなどの意味は分からなくていいです」と言っているようなものだと思います。
本書の最大の問題点は、「本書の大部分がIUT理論と本質的に関係ない」ということです(少なくとも、私にはそうとしか思えません)。もちろん、どちらも「数学である」という程度の意味では関係がありますが、それだけなのです。これがどういうことか、少し説明します。
たとえば、日本には「類体論」の一般向けの解説書がたくさんあります。そして、そのほとんどの本には、たとえば
奇素数pに対して、√pは三角関数の特殊値の和で表される。(たとえば、√5 = cos(2π/5) - cos(4π/5) - cos(6π/5) + cos(8π/5)、√7 = sin(2π/7) + sin(4π/7) - sin(6π/7) + sin(8π/7) - sin(10π/7) - sin(12π/7))
4で割って1あまる素数pは、p = x^2 + y^2の形に表される。(たとえば、5 = 1^2 + 2^2、13 = 2^2 + 3^2)
のような例が載っていると思います。なぜこういう例を載せるかと言えば、それが類体論の典型的で重要な例だからです。もちろん、これらはごく特殊な例に過ぎず、類体論の一般論を説明し尽くしているわけではありません。また、類体論の一般的な定理の証明に伴う困難は、これらの例とはほとんど関係ありません。そういう意味では、これらの例は類体論の理論的な本質を示しているわけではありません。しかし、これらの例を通じて「類体論が論ずる典型的な現象」は説明できるわけです。
もう一つ、より初等的な例を出しましょう。理系なら誰でも知っている微分積分です。何回でも微分可能な実関数fをとります。そして、fが仮に以下のような無限級数に展開できたとします。
f(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ... (a_n ∈ ℝ)
このとき、両辺を微分して比較すれば、各係数a_nは決まります。「a_n = (d^n f/dx^n (0))/n!」です。右辺の級数を項別に微分したり積分したりしていい場合、これはかなり豊かな理論を生みます。たとえば、等比級数の和の公式から
1/(1 + x^2) = 1 - x^2 + x^4 - x^6 + ... (|x| < 1)
arctan(x) = x - x^3/3 + x^5/5 - x^7/7 + ...
π/4 = 1 -1/3 + 1/5 - 1/7 + ...
のような非自明な等式を得ることができます。これは実際に正しい式です。また、たとえば
dy/dx - Ay = B (A, B ∈ ℝ、A≠0)
のような微分方程式も「y(x) = a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + ...」のように展開できて項別に微分していいとすれば、
よって、
a_0 = -B/A + C (Cは任意の定数)とおけば、
- a_n = C A^n/n! (n ≧ 1)
「e^x = Σx^n/n!」なので、これを満たすのは「y = -B/A + Ce^(Ax)」と分かります。
上の計算を正当化する過程で最も困難な箇所は、このような級数が収束するかどうか、または項別に微分や積分ができるかどうかを論ずるところです。当然、これを数学科向けに説明するならば、そこが最も本質的な箇所になります。しかし、そのような厳密な議論とは独立に「微分積分が論ずる典型的な現象」を説明することはできるわけです。
一般向けの数学の本に期待されることは、この「典型的な現象」を示すことだと思います。ところが、本書では「IUT理論が論ずる典型的な現象」が数学的に意味のある形では全く示されていません。その代わり、「足し算と掛け算を分離する」とか「宇宙間の対称性通信を行う」などの抽象的なフレーズと、それに対するたとえ話が羅列されているだけです。本書にも群論などの解説は出て来ますが、これは単に上のフレーズに出てくる単語の注釈でしかなく、「実際にIUT理論の中でこういう例を考える」という解説ではありません。これは、上の類体論の例で言えば、二次体も円分体も登場せず、「剰余とは、たとえば13 = 4 * 3 + 1の1のことです」とか「素因数分解ができるとは、たとえば60 = 2^2 * 3 * 5のように書けるということです」のような本質的に関係のない解説しかないようなものです。
もちろん、「本書はそういう方針で書く」ということは本文中で繰り返し述べられていますから、そこを批判するのはお門違いなのかも知れません。しかし、それを考慮しても本書はあまりにも内容が薄いです。上に述べたように、誇張でも何でもなく、数学的に意味のある内容は数学書に換算して数ページ程度しか書かれていません。一般向けの数学の本でも、たとえば高木貞治の「近世数学史談」などは平易な言葉で書かれつつも非常に内容が豊富です。そういう内容を期待しているなら、本書を読む意味はありません。
繰り返し述べるように本書には数学的に意味のある内容はほとんどありません。だから、極端なことを言えば「1 + 1 = 2」や「1 + 2 = 3」のような自明な式を「宇宙と宇宙をつなぐ」「正則構造を変形する」みたいに言い換えたとしても、本書と形式的に同じものが書けてしまうでしょう。いやもっと言えば、そのような言い換えの裏にあるものが数学的に正しい命題・意味のある命題である必要すらありません。本書は少なくとも著者以外にはそういうものと区別が付きません。
ここまでネガティブなことを書いておいて、何食わぬ顔でTwitterで加藤先生のツイートを拝見したり、東工大や京大に出向いたりするのは、人としての信義に反する気がするので、前向きなことも書いておきます。
まず、私は加藤先生のファンなので、本書の続編が出たら買って読むと思います。まあ、ご本人はこんな記事は読んでいないでしょうが、私の考えが人づてに伝わることはあるかも知れませんから、「続編が出るならこんなことを書いてほしい」ということを書きます。
まず、上にも書いたような「IUT理論が論ずる典型的な現象」を数学的に意味のある形で書いていただきたいです。類体論で言う、二次体や円分体における素イデアル分解などに相当するものです。
そして、IUT理論と既存の数学との繋がりを明確にしていただきたいです。これは論理的な側面と直感的な側面の両方を意味します。
論理的な側面は単純です。つまり、IUT理論に用いられる既存の重要な定理、およびIUT理論から導かれる重要な定理を、正式なステートメントで証明抜きで紹介していただきたいです。これはたとえば、Weil予想からRamanujan予想が従うとか、谷山-志村予想からFermatの最終定理が従うとか、そういう類のものです。
直感的な側面は、既存の数学からのアナロジーの部分をより専門的に解説していただきたいです。たとえば、楕円曲線のTate加群が1次のホモロジー群のl進類似であるとか、Galois理論が位相空間における被覆空間の理論の類似になっているとか、そういう類のものです。
以上です。
加藤文元先生、望月新一先生、およびIUT理論の研究・普及に努めていらっしゃるすべての方々の益々のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。
以下、センスという言葉は字義通りの意味、つまりテクニカルな要素に先立つ感覚的な要素の意味で用いる。
これは考えてみれば当然だ。
たとえば力学の質量や速度などの概念は理論的に定義されるから存在するわけではなく、それに対応するものは感覚や認識として存在しており、理論はそれを上手く反映したモデルなのだ。
いくら数式の変形が得意でも、速度という概念が日常的な感覚として理解できていなけれは、力学を理解することは不可能だろう。
もちろん、知識によって補強されるセンスもある。たとえば電磁気学の概念の多くは、力学の概念のアナロジーであるから、力学を正しく理解していることが、ここでいうセンスに該当する。
なお、センスというのはプラスアルファの特別な才能ではなく、必要条件に過ぎない。
彼らは、自分が理解できないことを話し手の説明のせいにしたがるが、ほとんどの場合、彼らのセンスが無いのである。
普通の人に何かを系統立てて説明する場合、以下のような手順を踏めば、よほど前提知識が足りていない場合を除いて、おおよそ通じる。
2番目と3番目は入れ替えても構わない。これは演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いであり、どちらか一方が優れているというものではない。
およそどんな分野にも、異常にセンスのない
奴は存在して、奴らは、どんなに言葉を変えて説明しようが、具体例を示そうが、たとえ話をしようが、絶対に理解しない。
何せ、センスの無い奴は上の工程のどの箇所も、特に(1)すら理解していないからだ。奴らはたとえば、「2次方程式を解くのは1次方程式を解くよりも難しく、別の方法が必要になる」というところからまず理解していない。こういう奴らに平方完成とか教えても無意味である。
教育にナイーブな幻想を抱いている奴は、適切に教えれば誰でも理解できると思っている。特に、分からない原因を突き止めて改善すれば分かるようになると思い込んでいる。たとえば、微分法で接線の方程式が分からないのは、2点を通る直線の方程式の立て方が分からないからだ、とか。
もちろん、これは原理的には正しいのだろうが、ほとんど現実的ではない。おそらく、小学校低学年まで遡らないと、そういう原因を解消することは不可能だろう。
センスの問題を感じる奴の多くに欠けていると思うのが、言語的なセンスだ。
たとえば、プログラミングを教えていると、「ソースコード」や「オブジェクト」という言葉の意味が分からなかったとか、フィードバックしてくる奴が結構いる。もちろん、一部はやる気が無くてそういうことを書いているのだろうが、数が多いので実際にそういう奴はいるのだろう。
普通の人はそんな感想は抱かない。その話の中でそれらの語が何を指しているのかは明らかであるし、そもそも「それらの語の厳密な定義を知らなくても内容は理解できる」ということは分かるからだ。
というより物理学からの必要に駆られた要請によって新たな数学の概念が切り開かれてきた。
したがって当然、物理を学ぶ際には現象そのものの理解とその裏に潜む数学的内容の理解が両輪となるのだが、
なぜだか日本の学校教育においては、この前提が上手く機能していない。
物理分野においてある現象を習ったその翌年に、ようやく数学分野において必要な概念が登場するといった具合だ。
具体的には、以下のようなものがある。
まあ大学まで来ると履修順もある程度好きにできるのであくまで一般的な例だが、それでも通常のシラバスでは上記時期に学ぶとされることが多い。
なぜこのようなことになっているのだろう?
はっきり言って物理が「公式の暗記ゲー」になっているのはほとんどこのすれ違いが要因だ。根本的に理解するための道具がないから、その結果だけを公式として先回りに輸入しているのだ。
単純に小学校低学年の段階で理科の履修時期を1年後送りにすれば済むと思うのだが、何か問題があるのだろうか?
(Appendix)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/1356249.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm
ブクマ返し
確かにそこで知識として触れることになっている。ちゃんとやるのは中1だが、そこは誤解を招く表現だった。申し訳ない。
大学のカリキュラムはさすがに学校ごと、個人ごとに差が大きく、必ず上記の通りと言うつもりはない。しかしベクトル解析は通常1年次の微分積分学ではやらないと思う。
また一般的に、物理の履修が数学に先んじる傾向が大学でも続くという部分は、どの大学でもおおまかには認められると思う。
思ったより各校で工夫されているらしい。それ自体はとても好ましい。
だが基本は指導要領の通り教わっているものであり自分の教わり方が「例外的に素晴らしかった」ことは認識していただきたい。
必ずしも初学者が発見順に沿って学習する必要はないと思っている。
今の体系の中で、最もわかりやすい順番に並べ直すべき。
それ自体に反論はないが、であれば上記のように物理内で微積を導入するなどして必要な数学を身に付けさせなければ意味がない。
たとえば等加速度運動の二乗公式を暗記させる必要は一切ないはず。
また、個人的には数学はそれ自体完結する学問だと思っているので、常に物理のために数学があるような受取り方になるとしたらちょっと良くない(個人の美学だが)
「物理の要請で数学が切り開かれた」というのは、そういう一事実があると言いたかっただけで「全ての数学が」というように受け取らせるつもりはなかった。
ここも誤解を招く表現でしたね。
昔のぼくは人からバカにされることを極度に恐れていたと思う.どんな人間からも全く後ろ指を刺されない完璧な人間が存在していて,そういう完璧さを求めていたような気もする.今思うと全くもって的外れである.どんな賢い人間も,最初から賢かった,あるいはスタンドアローンで考え抜いて賢くなった,わけではないのだ.数多の他者から鋭い批判を受け,それでもなお折れずに自分の知性を信じて貫き,自己批判精神を磨いていった帰結である.優れたものは批判を受けないのではない.どんなものにも粗を探すことはできる.そうではなく,想定される・されないを問わず繰り出されるあらゆる批判に対してそれを跳ね除けることができる,徹底的に糾弾されたのちに「ああ,こうするしかないんだ.これが真理なんだなあ.」と腹落ちすることのできるものである.批判に耐えられないものに価値などないのだ.
そして,これは「自分」にも言える.自分ほど我々にとってかけがえのない存在はない.自分というのはそれまで生きてきた多種多様な経験・思いが堆積した帰結,まさに作品である.芸術というのは剥き出しの純朴さ・「幼さ」を泰然と世間に対し突きつける,批判を確固たる覚悟と信念によりはねのけて己の信じる真理を突きつける,この力学にこそ尊さがある.自分という作品もまた同様である.万人に嘲笑されようが,「貴様はそもそも無能である」と罵られようが,集団から排斥されて死の淵を這いずり回ろうが,それでもなお意を介さず,自分を信じることができること.自分は「ダメ」なやつだなんて薄弱な言い訳を口にしないこと.これこそが作品を創造していく存在者として健やかなる在り方であろう.叩かれて引っ込めるぐらいなら最初からやらなければ良いのだ.そこに信念があるなら.他人から見て愚かに見えても構わない.君の中でつじつまがあっていればそれで良い.その結果,世間の生き方から外れても,社会的成功から遠のいても,あらゆる者に軽蔑されても,そのような生き方が特段劣っているとは思えない.個人の満足感・快楽には他人は介入できない.その結果が死であっても,それはそれで尊い結末である.個人の力ではどうしようもない「運命」と呼ぶべきこともある.そのような理不尽かつ強大な敵にこそ果敢に挑み,そして力及ばず散っていく.その死は英雄的であり,恐れることはない.
真に人の性 (さが) を憎む者として,神の前に立つべき英雄.君が募らせた憎しみは,いつしか祈りとなって神のもとに届くだろう.諦めれば全てが嘘になる.救いなどなくていい.
たとえば「女の生理痛は男が金玉を蹴られた痛みと同じ」という言説から考えてみよう。
これは冷静に見れば全然おかしい言葉であることがわかるだろうか。
個人差とかもあるが、それ以前に「自分の感じる痛みを他人のそれと比較すること」はどうやっても不可能なのである。
何故なら痛みという「感覚」自体を、何らかの言葉や図表、量的な指標を用いて他人に伝えることができないからだ。
極端な話、自分の感じる【この】痛みという感覚が、他人の感じる痛みという感覚と同じなのかどうかすらわからない。
自分の見ている赤が他人の見ている赤と同じとは限らない、と言う説明がされることが多い。
ところで質問なのだが、このクオリアという心的現象は、物理現象の一種なのだろうか?
つまり、現在は脳科学が発展していないために見えていないだけで、実際のところ「心の働き」と呼ばれるもののすべては脳神経で起こっているニューロンの発火や電気信号だけで成り立っていて、それらを完全に解析さえすれば上述のような「他人の痛みの比較」も可能だし、人が何を感じ、何を考えているのかといった心的現象も追うことができるのだろうか?
もしくは、意識や感覚といった領域は物理的法則では縛られない世界にあって、ニューロンの発火だけでは絶対に説明がつけられない部分が残るのだろうか?
あなたは
あなたは、意識や感覚などの心的現象は物理法則に則った現象の一種にすぎず、人間の技術力に限界さえなければ、いずれは脳神経学によって解き明かすことのできる類のものだと考えている。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは自由意志の問題である。
心的現象が物理法則に則っているのであれば、あなたの「コーヒーが飲みたい」「あの本を読もう」「右足を前に出そう」といった意識はすべて、その直前の脳神経の物理的状態から力学・電磁気学などによって導き出される現象に過ぎない。
そうであるならばあなたの意識と行動のすべては法則に支配されており、自由意志などというものは存在しない。
あなたはこの考えを
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、そこにあなたの意志はない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎない。End
あなたは物的一元論を受け入れながらも、自由意志の存在を肯定する。
すなわち、現代科学では解明されていない領域に、自由意志の存在を受け入れる法則が隠れていると考えるほかない。
あなたの自由意志とはあなたを構成する量子の揺らぎの別名であり、シュレディンガー方程式を自在に操って、この文章を読むと言う物理的行為を成し遂げているのだった。End
あなたは、意識や感覚といった心的現象には、ニューロンやシナプスの物理的挙動だけでは理解しえない、物理法則とは別種の法則が働いている領域があると信じる。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは物理領域の因果的閉包性の問題だ。
物体が物体に衝突して相互作用を起こす時、それは純粋に物理世界のできごとであって、この現象に対して神や霊魂や祈りなどが作用することによって物理的挙動が変わることはない、と、多くの人間に信じられている。
これを適用するならば、心的現象が物理的実体である脳神経や肉体に干渉をおよぼしてその物理的挙動を変えさせることはない、と言うことができそうだ。
あなたは心の存在を肯定しながら、物理領域の因果的閉包性をも肯定する。
すなわち、心的現象は物理領域に干渉されてもよいが、逆に物理領域に心的現象が干渉することはできないと考える。
では、あなたが「コーヒーを飲みたい」と思って実際にコーヒーを飲むとき、あなたの心の動きが肉体という物理的実体を動かしたことにはならないのだろうか?
すべての前提を整合させるには、こう考えるしかない。「コーヒーを飲みたい」という心の動きと同時に、脳におけるニューロンの発火という物理的現象もまた起こっていて、それによって肉体が動作するという物理的結果を招いたのだ、と。
あるいは、心の動きと脳の物理的現象は実は同一のものの二側面と考えても良いし、心の動きは脳の物理的状態に随伴して起こると考えても良い。
いずれにせよ、この立場を取るのであればあなたは自由意志の存在を否定しなければならない。
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、その結果にあなたの意志は干渉していない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎず、あなたの中に確かに存在しているその「心」は、物理的実体に束縛された背後霊のようなものだった。End
あなたは、「物理的実体」なるものが本当に存在すると信じているだろうか?
物理領域の因果的閉包性なるものは、単なる科学主義者の経験則にすぎず、本当は心的現象が物理的実体に干渉を与えて動作させることもできると考える。
今もまた、あなたの霊魂という非物理的実体は、あなたの肉体という物理的実体を操作して、画面をスクロールし、眼球を回転させ、あなたの自由意志のもとにこの文章を読み、それについて何か考えを抱いている。
あなたは、世界とは根本的に心の働きによって成り立っていて、物理的実体、物理的挙動、物理法則なるものはすべて心の働きがあなた自身に見せている虚像に過ぎない可能性を否定できない。
確かに、あなたの目の前にパソコンやスマホがあるといっても、それはあなたの視覚という感覚が伝えてくる像に過ぎないし、触れて確かめようとも触覚が同じことをするだけだ。
あなたは、パソコンやスマホが目の前に「実在」すると断言できない。
あなたの脳は培養液に浮かび、接続された電気コードから絶え間なく信号を与えられている存在に過ぎないかもしれない。
もしくはそんなものもなく、世界などというものは根本的に実在しておらず、観念的な情報が漂っているだけの存在、それがあなたなのかもしれない。
今もまた、あなたの自由意志は、あなたがあなたの指であると思っているものを操作し、あなたが文字であると思っているものを読み進める。
恐れることはない。あなたの実体がなんであれ、あなたという意思の主体が存在すること自体は、他ならぬあなただけは絶対に否定できないのだから。End
しかも高校で習うような力学はほとんどが物の大きさを無視した「質点」の力学であって
これも物体の粘性や弾性、ひずみや変形を無視するため現実に即してはおらず
さらに現実の物体は様々な他の物体と相互作用を及ぼし合いながら運動しているが
理論力学においては質点が3つ相互作用するとともうまともに計算できなくなるという問題も抱えており
究極的にはそれを原子や分子に適用しようと考えると到底考えられる領域ではないため
その辺は流体力学やら熱力学やらでなんとか捉えようとしているがあくまで近似に過ぎないのも確か
結局力学というのは中心に人間の解明できないもしくは原理はわかっていても計算しきれない「真実の力学」があって
それを人間の理解できるように枠取られた様々な典型的な領域に落とし込んで関係ない部分を無視した近似を
古典力学、量子力学、相対論力学、連続体力学、流体力学、熱力学としてなんとかやってきたのだ
XXは立場が強い弱いで研究と1ミクロンも関係ないところで不毛な戦い馴れ合いをやってるよ
プロジェクト:インフラをリプレイスするぞ。利便性を高めるぞ。セキュリティを高めよう
一般的にインテリと呼ばれる人『ぼくMacしか使わないから』『Macでそれできないじゃん。それじゃ困るんだよ』← お家でやろう
なお自称激務の教職と民間企業の転退職率は比べる必要すらないレベル
とはいえ、いくらイヤな辞めろ/イヤな就くな を推奨したところで、真面目系クズは、教職に限らず向いてない職をやりたがるので防ぎようが無い
なので「勉強を教える」以外は教師の仕事では無いとそもそも定義すれば良い。そして自宅でオンライン学習にすればいい
おわり
そろそろ方向性が見えてきたので、今見ているアニメの感想をメモ。今季みゃー姉みたいなみゃー姉多くない?
思いのほか金森氏人気があって面白いよなと思う。なんか金森氏的なキャラって物語の箱庭に開いた穴を通して鋭い現実が見えてるっていうか、創作物を見てるのになんか心に痛みのようなものを感じるんだよね。それは自分に「金に細かく、交渉して対価をもぎ取り、詭弁で相手を脅し、理想より現実を重視する」ことが欠けていてそれをまざまざと見せつけられているような、「ほれほれ、きちんと生きていくためにはこういう堅実さが必要なんだ」と言わんばかりの圧迫感がある。そういう現実主義者って不気味でどう解釈してよいかわからなくて苦手なんだよね。同じ景色を見ていても見出している価値観が全く違うっていう恐怖感。
もちろん、夢追い人だけじゃだめで現実に着地させてくれる現実主義者がいないといけないのはわかってる。だけれど、とにかく金森氏というキャラを見ていると心の中に不安を覚えるんだよね。
あるいはひょっとして金森氏というキャラについて自分は何か勘違いしているのか。
まあ、そんな心の中の起伏を差っ引いても映像研は面白いアニメと思います。
あと、恋する小惑星の雰囲気ってなんか空気感を表現したいと思ったら、偏差値高い進学校の部活っぽいね。ゆるきゃんとかゆゆ式とかライフル部とかそういうのと比較してってことね。