はてなキーワード: 下町とは
たぶん今の都内(=23区)の中学進学事情をよく知らない人が多いと思うので、概説してみたいと思う。
昨年、61465人の中学卒業者のうち、45678人が都内の公立中学校に進学した(都の公立学校統計調査報告書より算出)。それ以外を、ここでは中学受験をして中高一貫校に進学した者とみなしてしまおう(実際には単に引っ越ししただけの人も多くいるはずだが、簡単のために)。
都内で均すと、一貫校進学率は25.56%である。四人に一人だが、これを個々の区に分けていくと違う光景が見える。
各区の一貫校進学率は以下のようになっている。
>40%: 3区
>30%: 9区
>20%: 5区
<20%: 6区
都内で最高の一貫校進学率を誇るのが、港区。48.17%で、つまり同級生の半分が地元の中学校に進学しない。一方で最低の江戸川区は12.44%だ。都内でも区によって四倍の差が出ているのだ。
なにがこの違いを説明するのかというと、単一の原因はおそらくないと思われる。が、ちょっと面白い統計がある。一貫校進学率と、住民の大卒率(大卒者÷(人口-在学者))(2010年の国勢調査より算出)には強い相関があるのだ(決定係数0.835)(もちろん区の平均年収とも相関があるのだが、平均年収が極端に高い区がいくつかあるせいであんまりうまくフィットしない(決定係数0.536))。
匿名ダイアリーにはグラフが載せられないので、大卒率47.54%, 進学率48.17%の港区と、同22.44%, 12.44%の江戸川区を線で引いて、その他の区を適当に散らばらせたようなグラフを思い浮かべていただければと思う。
このように、都内の大卒者では「資力があって教育方針に強いこだわりがなければ、中学受験をするのが普通」という環境になっているのだ。
そこには既に公立校に対する蔑視や警戒心すら無いかもしれない。
さて、教育方針に強いこだわりがあり、積極的な意思を持って公立中学校を選ぶことを考えてみよう。つまり、十分な資力と最高の学力があってですら、あえて公立中学校を選ぶような状況だ。
一貫校に対する公立中学校のメリットとして「多様な生徒と三年間を過ごすことができる」と言われる。だが、既に都内の公立中学校からは多様性は失われているのだ。
例えば、都内最大の人口を抱えるのは世田谷区(77.7万人)だ。もし地方に住んでいるあなたが都内に引っ越すとしたら、ここに住む可能性は十分高い。そして、この区の一貫校進学率は36.81%だ。クラスの中で成績の良い子や資力のある家の子が、中学に進学するにあたって上から順に1/3ほどまるごと抜けてしまうのだ。
おそらく中学校における多様性というと、頭のいい子から勉強の苦手な子、お金のある家の子から給食代が払えない子まで、進学や就職をしてしまったらなかなか接することのできないタイプの人間と付き合えることができる、そういう状況が期待されているだろう。
しかし、都内の公立中学校では、そういう状況は期待できない。望ましい条件を満たした1/3の子がすぽーんと抜けてしまった状態をもって、多様性があるといえるだろうか?
今度小学校の授業参観に行ったら、頭の良い子や育ちの良さそうな子を1/3ほどピックアップしてほしい。そして、その子らを除いた状態で脳内でクラスを編成してほしい。それが公立中学校でのクラス編成になるだろう。
実際、中学受験時には偏差値50(上位1/2が入れる)だった学校は、高校受験時には偏差値60(上位1/6)から65(1/15)あたりにランクインする。多様だった小学校の教室から優位にある生徒をごそっと引き抜いて、残った生徒で成績をつけると、こういうことになるのだ。
更に、多くの一貫校が高校からの編入を取りやめつつある。いくら公立中学校で多様性を満喫し、高い成績を得たところで、進学の選択肢は既に限られたものとなっているのが実情だ。
そういったわけで、おそらく、都内において公立中学校を積極的に選ぶ理由は既に無くなっている……というのが2020年の状況だ。
(余談だが、学力資力に勝る生徒が数多く抜けてしまうとはいえ、都内の公立中学校の治安は悪くない。いじめ・暴力件数が私立と大幅に違うということはないし、ひと目で分かる不良中学生というのも(自分が住んでいる貧しい下町ですら)見たことがない。ガラス窓は割れない、火災報知器も鳴らない、タバコの不始末で学校が燃えることもない、家庭のお金を数十万円にわたって貢がせる生徒もいないし、万引した品の交換会も開かれない。治安だけが理由で一貫校進学を考えているなら、公立でも問題ないと思う)
東京での人の道でのすれ違う時の様子には時代の変化も感じます。
私は昭和の高度成長期育ちなのですけど、子供の頃は都内の狭い道を大人同士が交差する時に「すみませんな」、「ごめんなさいよ」、「どうもね」等と声を掛け合って体を捻じ曲げるようにしてでも衝突を避けている人が大勢いましたね。下町だったからまだ江戸期から明治、大正、戦前の昭和までの庶民文化の片鱗が残っていたのかも知れません。衝突率は酔っぱらい以外はほぼほぼゼロです。
まぁ、無愛想な人もいるので頭を気持ち下げて片手をちょっと上げて無言の「どうも」サインの人も沢山いたけれど。個人的には、この時期に東京は地方からの大量の集団就職とかで来た人々が暮らしていて、地方のなまりを聞かれるのが嫌で黙っている人が増えたのかなと感じていました。そして、この無言派の人々が増えたよね。結果、無言同士の「どうも」サイン交差がメジャーになってたな。まだ聞こえるか聞こえないか位の小さな声かけが残ってたけど。
平成の中頃になってから気がついたのは「おや?日本人(東京でだけど)は全く無言で交差するようになったなぁ」と言う変化。ベビー・ストーラー(ベビー・カー)を押して来るお母さんや松葉杖の人に道を100%譲っても、かなりの人は無言「どうも」サインもないんだなー。まぁ、感謝して欲しいから道を譲ってる訳でもないし、個人主義とやらの時代なんだろうが、知らない人同士のコミュニケーションや潤滑油は消えたと感じたかな。悪意で解釈するとそれが当然の権利だとか主張されてる感じ。善意で解釈すると、そこまでシャイで内向的な人が増えちゃったの?と言う感想。そんなんだと結婚生活やら家庭生活大変だろうなとか余計な事を思ったりする。さらに雨の日なんかには「傘かしげ」すらしない人も激増しているから、無言のぶつかり合いをよく見るようになった。私はそういうの嫌なんで速攻逃げてますが。。そのうち、出るんじゃないかな、「お前の傘で怪我したろ治療費払えよ」詐欺。
因みに、米国とか雑多な民族が一緒に暮らしてる国だと、知らない人同志の声掛けやあいさつは常識レベル。日本で暮らし始めた米国人とかと目があうだけであいさつしてきたりする、あれ。あんな感じ。ビジネス街ではいちいち挨拶なんかしないけど、郊外の住宅街とかだと知らない人同士でも挨拶してた。日本ではバス待ちとかでは皆黙って静かに待ってるけど、米国(といってもワシントンDC近辺)では結構、知らない人同士でも会話する。ある時、赤ちゃんをだっこしたお母さんと私だけでバスを待ってたら、そのお母さんがいろいろ話しかけてくる。私もそういうのに慣れて返していると、途中で、そのお母さんとっても安心した表情になったんだよね。その時の雰囲気である事を悟った。あなたはヤバイ人じゃないよね、安全な普通の人だよね、私達親子に手出ししないでお互い何事もなくバス乗っていきましょうね、と確認してるんだなぁ、と。因みにこの国では通行で体がぶつかるなど絶対禁忌だからまず無い。もしそれが起こったらかなり面倒くさい。
米国から日本に帰ると、日本を良くも悪くも感じた。デパートのガラスドアの向こうに女性がやってくる。私が慣れたのは男性がドアを開けてあげて、女性をまず通してあげる文化。女性はニコッと微笑んで「ありがとう」と言ってくれる社会。日本でこれをやると女性が戸惑うか、極度に恐縮される。もしくは一部は過剰に喜ばれる。まぁ、早いもの勝ちで通ってく文化に、そう文句がある訳ではないけれど。
私は特に今の日本の悪口を言いたいわけでは無くて、その特徴や変化を述べたかっただけ。今の日本、暮らしやすくなったところもたくさんありますよ。例えば、昔は赤ちゃんを「おんぶひも」するのはお母さんの役割で、お父さんがこれをすると周りから奇異な目でみられて大変なプレッシャーがあった。我が家ではお母さんが疲れたら、赤ん坊のおんぶは犯罪ではないと社会の逆風に逆らってお父さんがおんぶしてたのですが、隣から物笑いの種にされたりでもう大変。今は普通にお父さんも「だっこひも」できる時代で良いよなーと感じます。
昔は良くも悪くも男尊女卑の時代。この時はみんなが喜んで暮らせる鍵は男にあって、男が周りを思いやって親切に努めるとかなりうまくいっていた。今は良くも悪くも女性の権利の時代。この時期にみんなが喜んで暮らせる鍵は女にあると思うな。女が周りを思いやって親切に努めると何が起こるだろうか。東京の通行で、実は女性がぶつかってくる時代の電子記録に、残しておきたい思いです。
鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士が物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまうエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士が悪党を罰するために物質伝送機であちこちに飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。
また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫が宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装の女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。
つまるところ、こういうスカートやレオタードのラインダンスは宝塚が起源なのだろうか?
まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。
ラインダンス(Line Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックやポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。
また日本ではポンキッキーズという番組で知名度を上げている。本番組の場合では、主に小中学生の女子は椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通のダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンスを学芸会や体育祭で取りあげる学校も多かった。
ひらけ! ポンキッキ!から視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。
それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8
ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056
ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137
名称は、米国のダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君の笑顔がいい)
ロケッツは、1925年にセントルイスで、「ミズーリ・ロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者のラッセル・マーカートは、1922年にブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国のダンス・グループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人の女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。
だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスはフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。
第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校を宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚大劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。
とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹のであるが、おおよそ同時代の写真がある。
1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。
つまり、ラインダンスは1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディアに写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい!
しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年の帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。
今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。
宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。
こうした説を補強する、次のような画像がある。
1932年、松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる。
スポーツ新聞ではラインダンスを撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近、女子スポーツの写真をことさら性的に撮影することを阻むため、JOCが対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性がスポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアのアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現もギャグが滑っている気がする。
しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。
上記の松竹歌劇団の動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/
なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなものが存在していた! こうなると、見せパンの歴史はサーカスの衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。
英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。
In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.
なんと、ブルマータイプの衣装の強制が21世紀になっても行われていたのである。にわかには信じがたい。以前にはビーチバレーの衣装の強制について調べたが、問題はここにもあったのである。
さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマーが強制されなくて本当に良かった。
僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。
それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事で1930年の The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyのブルマー風のものやナチス時代にブルマーにカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマーの世界的な分布についても、再考を要する。
今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代に矛盾はないが、証拠は不十分である。
また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。
ここでいう片田舎は「地方都市の外れ、駅からはかなり遠い」くらいなイメージね。
でね。うちの親はIT弱者、当然PCは使い切らないし、LINEもままならない。ご近所付き合いで店に来てくれる人はいるけれど、実質井戸端会議の会場。
そんなご近所さんも当然ながら歳をとるし、新しい客は入ってこないし、こりゃ新陳代謝も進まず朽ちゆくばかりですなぁと。
でね。そんな私がこんな記事を読んだわけ。
"福岡の下町鮮魚店がDX?シャッター街の魚屋さんがコロナ禍をプラスに変えた経営策とは"
https://blog.ncbank.co.jp/posts/152
泣いたわ。3回泣いた。
「終わってんなー個人商店なんて」
って思ってただけの自分に泣いた。
分かってた。分かってたのよ、本当は。
周りの個人商店の中にも、頑張ってネット上で販路拡大する方法を考えている人はいた。知ってた。
でね。私はそんな人を「いたーっ!あいたたー!」って見てた。「個人商店足掻いてて乙wwww」的な。
「こうすればいいのに」
机上の空論を考えるのは得意だ。でも、行動は苦手。どこか心の片隅でバカにしていることなんて、やるわけがない。
でも間違ってたなぁって。
私も一念発起して実家のDXサポートしてたら、こんな風に取材されてたんだろうなぁって思うと悔しくて仕方ない。
もう私にはできないけどね。
はぁ、
男なら(女も)だまってC定食え。
へんみ
大人数で行け。以上。
俺ここ大好き
晋香苑
運城飯店
食べ放題でとりあえずいい。
渤海飯店
コメントなし。
孔子餐店
孔子の子孫は奥さんの方な。北大界隈でしっかりしてるのはここ。
辛いの頼め。親父の釣り談義に付き合え。
深いこと考えるな。なんらかのセットを頼め。
これに関してはかつてススキノで宝来の系譜にやたら詳しい謎の親父に教えてもらったんだけど泥酔して忘れてしまった。
珠華飯店
マックスバリュというスーパーに車を停めていいのか? だめだ。
そんなことばかり気になってあんかけ焼きそばの味を覚えていない。
広龍
最近こういう店が少なくなった。出前をやってる。
進龍。
閉店になった店だが許してくれ。
平成軒。
秀円 ひでまる
聚宝
南郷通の雄。
北海楼
よく知らない。よく知らない名前の麺を食え。
元増田はおそらく札幌のかなり街中に住んでいるのではないだろうか。
街中だとブコメなどで言われる名店「香州」くらいしか出てこないのだが、実は札幌には以外にそれぞれの地域の顔というか雰囲気がある。
東区はざっくり下町だし、西区はハイソ。丘側が顕著。旭ヶ丘高校近くだと若者多くて華やか。
南はなんというかどっしり。その途中の澄川あたりも独自の文化がある。
北は北高あたりで一つのまとまりがあり、学園都市線沿線で文化圏があり、あいの里がその文化圏の周縁になる。
東は川渡った向こうで別次元で南郷通界隈はそれぞれ文化圏が違うし新札幌は一つコアになる。その向こうは昭和の新興住宅街でそれぞれ文化がある。
街中華はそのそれぞれに、それぞれの人々をお客として成り立っている。
ここに書ききれないお店はいくらでもある。
味は保証できないが。
一ついえることは、実は札幌は今述べてきたような各地域「レペゼン」の色はあまり語られてこなかったのだ。
当然、各地域の色はある。ところが、それを論ずる人はほぼいない。
これはおそらく伝統的に札幌市が博物館構想の中で歴史系を等閑視してきたことに関係があると思う。
札幌は市内でいろいろな地域性「レペゼン」があるのだが、ついにそれを客観的に論じようとする研究者を生む余地を作ってこなかった。
大分寝不足気味な状態が続き、仕事にも支障をきたした今週だった。兎に角休んでくださいと皆に言われて早退した。
多分原因は気圧が下がったのとエアコンと外の温度差や冷えて硬直したり、あとはデスクワークをする身である為神経が固まってしまった事が原因と思う。
昨日の晩、直ぐに寝た。普段は余り早めに寝ないのだが、流石に体調不良な為か11時位に寝に落ちた。
東京ドームではジャイアンツ対広島の試合を見る事となった。コビット19の感染予防の為マスクして観戦との事で息苦しかった。試合は今回はドーム内での為ホームランダービー形式のものだった。両軍が出るとドームが直ぐに埋まってしまうので、ピッチャーとキャッチャーが出る以外後はバッターというものだった。その為直ぐにファウルボールがポンポン飛んでくる。隣の席に座るエキゾチックな女性にも飛んで来て「ウワッ!」と声が漏れる。
野球は全く見ない自分だが、今回は職場で好意を持ってる人が監督をするとの事で見にきたが、相変わらず原監督にアドバイスを貰いながらペコペコと頭を下げて選手からはワハハと笑いながら会話してる姿が観戦席から見てた。
いやぁ、凄い事になったなあと思って見てたらファウルボールが俺の所にも来た。素手で取るとボールはスクリューして飛んで来たのでキャッチしたら手が痛かった。
4トントラックに乗って高速道路を走ってた。向かうは前から気になってた古い模型屋。トラックは軽いから空も飛べる。飛べると言っても飛行機のようにではなく大ジャンプするような程度。高速の防音壁が抜けた所で大ジャンプ。眼下はバラック小屋やトタン屋根がサビついた下町が見える。一軒の家の屋根を少し擦ったけど、無事着地。少し走ってくとダンプカーが模型屋の前の古い家に頭から入って止まってた。近隣の住民に聞いたら「息子さんがお母さん呼びに行ってるのよ、もうお母さんも年だから息子さんの事わからないかもよ…」と言ってビールをくれた。ダンプカーに乗ってた息子さんは古田新太似だった。
家に入ると元カノが椅子に丸まって寝てた。お姫様だっこして食べ散らかしたお菓子を漁ってキットカットやスニッカーズを食べた。元カノはスヤスヤ寝てる。ポロポロと食べカスが落ちるので払う。また出かけないといけないので元カノを元の椅子に乗せて出かけた。
バブル崩壊前に出来た冬季特急という雪の降る時だけに走る贅沢な特急電車に乗ってスキーをしに行った。車内には当時のPRの映像が流れ、織田裕二が推していた。ほんの2〜3駅しかない線路に特急電車を走らせるとは、さぞ金に困らない頃だったんだなと思って見てた。今日でこの特急も終わりを迎え、明日から普通の電車で向うとの事。その割には電車オタク達はいない。聞くにはこの電車は邪道中の邪道で、黒歴史だの最大の汚点だの言われたものだとか。納得してスキー場へ向う。外は豪雪でPR映像の様な感じとなって皮肉っぽかった。
少しでも監督となった好きな人に会うべく、ジャイアンツのテストに行く事となった。とあるグラウンドで空は高く秋頃と思う季節だった。テストというのにジャイアンツの選手達がアップしてて、この中で受けるのか、困ったなと思ってた。
暑さ対策として水が撒かれた。グラウンドには水が溜まるが、泥水のように濁らずにキレイに水とグラウンドの土が分離していた。
次第に内容もフェスティバル状態となっていき、運動会の様な感じと賑わう感じになった。
古い屋敷で見つけた赤い電話。ダイヤル式で大分古い。色々と頂けるとの事で、この電話を貰う事とした。ふと家に電話しないといけない事を思い出して電話線に繋げる。ダイヤルを回して家にかけたと思ったら全然別の家にかけてしまったが、どうやらこの屋敷を知る人だった。お婆さんのその人は「ああハイハイ、先生の方ですねぇ。なんの御用ですかいな?」とのこと。一応事情を話してそっちの電話番号を聞く。
と、いうところで目が覚めた。
久々に深い眠りをした気がする。前は時々目覚めては寝てを繰り返してた。
頭は冴え、ふと見た夢を思い出してた。
最近好きな人が忙しく会話も向こうから切り上げられたり、肩こりが酷く続けるデスクワークに「少し運動した方がいいな」と思ったりしたのをふと思っていた。
https://anond.hatelabo.jp/20200715133957
最近、商業BLの良さっていうのは手短に完結することなんじゃないかという気がしてきた。基本的に続刊は出ない前提なのか、単行本一冊で終わるように全力で話を畳みにかかる。
私は漫画といえば終わりの一向に見えてこない連載漫画ばっかり読んできたので、ちゃんとオチがついて終わる漫画というだけで尊いと思ってしまう。えっ、もしかして、私の意識低すぎ?
とある地方の男子高校生カップルの一年間を1話につき大体4コマで描いた漫画。前回紹介した『オールドファッションカップケーキ』の作者のデビュー作。
4コマ漫画かぁ……萌えられるのかそれ? とちょっと不安だったんだが、読んでみたらとても良かった。シマもなつおも可愛い可愛い。何周も読めてしまう。なんなら一周目よりも二周目以降の方が萌えるかも。正月太りでもっちもちになってしまうなつおがことのほか可愛い。
高校受験と大学受験の間のちょうどいい時期をのびのびと過ごしながらも、将来のことを考えると辛くなってしまうシマが切ない。
ヤクザBL。ヘマをしてほとぼりの冷めるまで逃避行生活をすることになった若頭の片岡に、運転手として同行する小田島には片岡暗殺のミッションが課せられていた、という話。海沿いを町から町へと車で逃避行するロードムービーのような感じ。
ヤクザものといってもそんなに殺伐とはしていない。ヘマをやらかして逃亡生活中なのもあって、ヤクザらしいことはあんまりしないのである。行く先々での人情エピソード中心。
片岡が魅力的でいい男なのである。魅力的でいい男なのに、冒頭で唐突に小田島をレイプするのが物凄い謎行動だけど……。女には優しいのに何でだ。
江戸時代BL。確か時代は江戸後期で陰間茶屋ブームがとっくに去ってしまったくらいの頃の話。陰間上がりの百樹と元火消で笛吹きの卍が下町の長屋でイチャイチャな日常を送るさまを描いた漫画。主人公達が普通に月代・ちょんまげで果たして萌えられるのかと不安に思いつつ読んだら、とても良かった。
絵がすごくいい。1ページ1ページがアート。江戸時代の風俗をかなりマニアックに描いている。
お百と卍の仲睦まじさは見ていてほっこりする。あと卍のビジュアルがすごくいい……めちゃカッコいい……。
本作は三巻まで出版されている。
これまた江戸時代BL。こちらは寛永年間が舞台。リアル指向の『百と卍』とは逆に、本作は時代劇! って感じの時代劇。なのでメインカプは都合よく月代を回避しているのである。少年漫画と青年漫画の中間くらいやや少年漫画寄りの作風かな。
かつて凄腕の暗殺者として恐れられていた、現・剣術指南役の間宮刀爾郎の元に訪れた青年一馬。一馬は間宮に弟子入りを志願するが、間宮は弟子を取らない主義だと拒絶する。散々食い下がって下郎として間宮の元に置いてもらうことになった一馬だが、実はかつて間宮に殺された男の息子だった。父の仇討ちと家の名誉挽回の為に挑む一馬を間宮は受けて立つことに……。
ストーリー重視でしかも絵がすごく良い。背景もよく描き込まれていて凄い。非常によく出来た少年漫画といった趣きなのだが、BLなので普通に18禁ガチムチぶつかり稽古シーンは入ってくる。
こういうまとまりの良い少年漫画のようなものってそれ自体が希少だと思うので、腐女子でなくとも男同士の18禁ぶつかり稽古シーン平気な人は読んでみると良いかもしれない。
金曜ロードショーで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』見て「なにこれ面白いじゃん!」と思った人は是非これも見て欲しい。
と言っても『ショーシャンクの空』とか『ニューシネマパラダイス』みたいなのじゃなくてもっとベタなやつね。
題名は聞いたことあるし、なんかの元ネタらしいぐらいは知ってるみたいなやつ。
『ロッキー』
あーあれだろ、最後エイドリア〜ンて叫ぶやつ。階段登ってガッツポーズだろ、生卵丸呑み。悪いけどボクシングとか興味ないし。
脚本はスタローンてマジかよ。なんか実は性格も悪いらしいよね。だいたいあの脳筋男に文章なんて書けんの?
まあそう思うかもしれないけど、まだ売れない役者だった頃のスタローンは、少なくともこの時は奇跡のように素晴らしい脚本を書き上げたんだよ。
それに『ロッキー』のテーマはボクシングじゃない。冴えない生活を送る無名の男が一つのチャンスをきっかけに立ちあがろうとする姿。
まさかスタローンに泣かされるなんて思わないだろう?まあ見てみなよ。
『ダイハード』
2以降はクソ。1だけ見ればOK。
エンターテイメントとしてはまさにパーフェクト。アクション映画の金字塔。
あちこちに散りばめられた伏線が見事に回収されていくさまにゾクゾクする。
ブルース・ウィリス演じる主人公と黒人警官の友情とか、いかにも良きハリウッド映画って感じだよね。
これを見れば、なぜあの太ったハゲ男が『アルマゲドン』で地球の運命を託されたのかわかる。
『男はつらいよ』
あれだろ、じいちゃんばあちゃんが良くみてたやつ。下町だろ、人情だろ、マドンナだろ。昭和の話だよな。
まあそれはそうなんだけど。
これを見れば、なぜ今だに「寅さんの世界に憧れて日本に来た」という外国人が時々いるのかわかる。
昭和の下町の人情溢れる、いかにもありそうでどこにもないユートピアの物語。男はつらいね。
『ブロジェクトA』
あー、あのジャッキー・チェンがセーラーでアクションするやつだよね。コメデイでしょ。この撮影で大怪我したんだっけ。
それはそうなんだけど。それ以上何が要るっていうんだよ。
他は見なくてもせめてこれだけは見て欲しい。見ないと人生損してるよ。
これを見れば出川哲朗がなぜ内村光良をチェンと呼ぶのかがわかるよ。
見た目が似てるとかものまねをしてたとかもあるんだろうけど、それはやっぱり出川の内村に対する敬意の現れなんだよね。
ニュージェネレーションズクライマックス 見たよ
ルーブ映画版で初登場したトレギアのタイガTVシリーズを経ての最終決着。
まあ、なんつーか 悪い意味でのドラゴンボール 戦闘力が青天井でインフレしていく。
ウルトラマンサーガとか、ハイパーゼットンとかあの辺の時代の映画は、予算がなかったのか とある謎の惑星の原野 か 宇宙空間で 戦ってたんだが
今回はTV版と共通してのマーブリングファインアーツさんのご尽力で、今回 調布~稲城~秦野~横浜市港北区~ あたりでロケしていた TVシリーズでいう綾香市世田原市北川町星山市ニュータウンや下町の風景と連続性がある。
そこでやたら火力の強い映画版の光線技(ファイナルなんとか、ウルティメートなんとか)を敵味方がぽんぽん繰り出すものだから(週に1回/30分ではなく、3回/80分)町の被害が尋常じゃない。
火の七日間か、ってくらい調布~稲城~秦野~横浜市港北区の街が、コラテラルダメージで蹂躙されていく。
ティガダイナガイア8兄弟映画あたりはCG宇宙空間戦で、敵が超巨大合体怪獣(CG)なので ウルトラマンたちがハエに見えるという、オールドファンにはすこぶる評判が悪かったのだが
アラフォーの今も独身なもんで今の子供達にはこんな宿題があるか分からないけど、中学生の時に「祖父母とか身近な戦争体験者から戦争体験を聞いて作文を書いてこい」という宿題があった。
まずもってめんどくさいと思った。祖父母は戦争体験を聞き出せるほど親しくなかったし、サザエさんでもあるまいし裏のおじいちゃんみたいな人もいない。
でも宿題は出さねばならぬ。
当時の自分は、じゃそれっぽい作文を捏造して出せばいいやという結論に至った。
で、近所に親しいおばあちゃん(東京の下町から北関東山間の親戚宅に疎開という設定)がいることにして、巷に溢れている戦争体験をツギハギしたようなそれっぽい作文を書いて提出した。
先生は何も言わなかったけどバレていたのだろうなと今は思う。
今はどうなんだろう。
父の日母の日ですら「片親の子もいるんですよ」みたいな理由で学校ではやらなくなっているとも聞くし、もはや誰もが戦争体験を聞ける親戚が存命というわけでもあるまい。
語り部の仕事をしているわけでもなかったら話したくないという人もいるだろうし。
腐女子のお気持ち長文が増田に少なくなってきて悲しいというリクエストに応えて長文を描こうとしてみむとてするなり。
私は年季の入った腐女子でありTwitterで二次創作絵師をやっている。実力は中途半端フォロワー数も中途半端、いいね数は毎投稿大体3桁前半、時流に乗れば4桁行くこともたまにある、程度の絵師である。
そんな私であるが、オタク女お気持ち増田流行のきっかけとなった件のおけパ中島の漫画、あれは私の心に痛烈に刺さったものだった。なぜなら現在絶賛進行中で私はとある字書きを崇拝していたからだ。その字書きが、ある神絵師に声をかけられ、明らかに自分に対してのものとは違うテンションで対応しているのを見てしまった。その翌日にオパ島の漫画を読んだ。
私の心は沈んだ。
自分の心の醜さを形を取って見せつけられるというのは辛いものだ。実は以前増田で私も似たようなことをしてしまったことがある。その時私の書いた日記のツリーにぶら下がった「自分の中のモヤモヤが明確に言語化されることが辛い」というコメントが印象に残っているがこれも因果応報というものだろうか。
私の崇拝する字書きが神絵師に声をかけられている瞬間を目にした時私の心に湧いた感情はまぎれもない憎悪だった。この字書きは私より神絵師と仲良くすることを選ぶだろう。それは当たり前のことだ。大企業の役職者と下町の職人、どちらと仲良くしたいと思うかは明らかなことだ。悔しい…悔しい…私もこの神絵師並みに認められるようになれれば、皆から求められるようになるのに…
私はその神絵師をフォローした。好意からではない。その神絵師の絵の魅力は誰をも認めるところではあるし、私自身もその魅力を理解している。しかしこの際そんなことはどうでもいいのだ。
しかしここで予想外のことが起きた。その神絵師がこちらをフォローバックしてきたのだ。
予想外の事態である。私は混乱した。神絵師のフォローはフォロワー数より圧倒的に少ないものだった。なぜこの人物が私をフォローしたのか、理解不能だった。そして自分にとっては 最も悔しかった部分はここだ。私はその神絵師からのフォローバックをはからずも嬉しいと思ってしまったのだ。なんたる無様。なんたる意思薄弱。この神絵師は最も有効な手段で私の悪意を無効化してしまったのだ。
それ以来、なんとなくTwitterをのぞく気力が削がれ、絵も書くことなく日々を送っている。
オパ島の漫画は、ある意味希望に満ちたものだ。登場人物たちは悪意に溺れることもなく、お互いの情熱に折り合いをつけながら生きていく結末が示唆されているように思う。しかし現実では、多くのバラバラな事象が積み重なり、それが有効に機能することもなく、ブロック崩しのように崩れてしまうことが常である。私は崩れた自分の気持ちをいかに処理すべきか、考えあぐねながら、こうして増田に駄文を書き連ねている、とまあこういうわけである。