はてなキーワード: あおりとは
一時停止義務違反がいかに有害な交通犯罪かを知らせる動画はとても社会的に有意義であり、重大事故を減少させるという点で大きな貢献になります。
ちなみに自動車等には歩道進入前に一時停止の義務があり(道路交通法第17条)
信号のない横断歩道で歩行者自転車の為に停止する義務もあります。(道路交通法第38条)=横断歩行者等妨害等違反
https://www.think-sp.com/2014/04/09/tw-hodou-ichijiteishi/
http://qa.jaf.or.jp/accident/rule/04.htm
あおり運転がいかに凶悪な犯罪行為かを示す動画も素晴らしかった。
今後においても道路交通法をすべてのドライバーらに守らせる交通安全啓発動画の投稿を願っています。
自動車乗車中の年間死者数は警察庁統計によると1200人以上にもなり、同等の保有台数である自転車利用中の約3倍も自動車乗車中に車内で死者が発生している現実がありますから。
また、交通刑務所懲役囚人のほぼ全員は自動車運転手という現実もある。正直、賢く堅実な者ほど車離れしていると私は見ています。
自動車の運転は加害、被害リスク的に割に合わず、マイカーは基本的に負債でもありますから。自転車と違って運動にもなりませんしね。
わたしはお気に入りのダサかっこいいGAFAのワンピースに身を包み、彼氏の到着を今か今かと待っている。
高学歴・高収入・高プロの三拍子が揃った自慢の彼はeスポーツ界の有名人だ。
彼の「ジタハラ持ち」から繰り出される悪質タックルと金足農旋風のコンボは半端ないってと恐れられているし、シューティングでの奈良判定の見極めやグレイヘアの巧みな使い方は災害級の暑さだと絶賛されている。
年の差のせいで、おっさんずラブだとあおり運転されるのは腹立たしいが、そんな時短ハラスメントで彼への想いが計画運休することなどあり得ない。
「だーれだっ!」
突然、視界がブラックアウトした。
「ざーんねん。ボーっと生きてんじゃねえよ! 正解はオレでしたー!」
目隠しを外して、彼がひょっこりはんと姿を現す。
「もう。バカばっかり。わたし、お腹空いたんだからね。さっさとご飯論法に行くよー!」
歳の割に幼稚な彼の手を引いて、わたしたちはもぐもぐタイムへと繰り出した。
たっぷりのなおみ節で出汁を取った洋風スープは、翔タイムの香りが微かに効いて食欲をそそる。
けれど。
何がキッカケだっただろう?
今では思い出すこともできないほど、ほんの些細な首相案件のせいで。
「だから! 君たちはどう生きるかって話だろっ!」
「そだねー」
「おいっ、肉ばっか食ってねぇで真面目に話を聞けって」
「うんうん(もぐもぐ)」
「だから、何で噛み続けてるんだよ。止めろって! おい、カメ止めっ!!」
……そうやって。
残された私は、ただひたすらにステーキを噛み続ける。
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐ……。
頬に涙の雫が伝って落ちる。
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐ……。
好物の赤身肉が、今はとてつもなく硬く感じる。
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐ……。
それでも、わたしは肉をひたすら噛んだ。
きっと彼は戻ってくる。
このステーキを食べ終われば帰ってくる。
戻ってきた彼はわたしにこう言うはずだ。
「ゴメン。オレが悪かったよ」と。
わたしはそれを知っている。
――#MeToo――
去年
https://anond.hatelabo.jp/20171109235515
一昨年
あーOK。それは失礼。
今社会問題になってて法律上うまく取り締まれないものにあおり運転がある。多分、2〜3年で新しく法律ができると思う。後学のためにこの経過はよく覚えておくといいと思う。
国会発の場合もあれば、最高裁発のものもあるし、行政発の場合もあるけど、法律は社会問題のあと三権のいずれかが動いて制定されることが多い。社会問題にしているのは誰で、騒いでいるのは誰で、三権との関係はどうなのか。よくよく観察すれば、自分が守りたいものも守れるようになるかもね。
あおり運転 | 前方を走行する車に対して威嚇・嫌がらせをする行為のこと。2017年にあおり運転を原因とする死亡事故が起きたことなどで社会問題に。 |
悪質タックル | 日本大学のアメフト選手が悪質なタックルを繰り出して相手選手を負傷退場に追い込んだ事件。監督の指示があったことやパワハラ的な上下関係が問題となった。 |
eスポーツ | コンピューターゲームをマインドスポーツと捉えた場合の呼称。今年は日本eスポーツ連合(JeSU)が発足するなどした。 |
(大迫)半端ないって | 2008年の全国高校サッカー選手権大会で活躍した大迫勇也を相手チームの選手が讃えたときの言葉。ロシアW杯で大迫選手が活躍したことで再び脚光を浴びた。 |
おっさんずラブ | テレビ朝日系の深夜ドラマ。年配の男性の同性愛を描いて話題となった。 |
GAFA | Google・Apple・Facebook・AmazonというIT系四大企業の頭文字を取った略称。 |
仮想通貨/ダークウェブ | 日本では実質的にビットコインのような「暗号通貨」が仮想通貨とイコールとなっている。ダークウェブ は、Torなどの匿名化技術を用いないとアクセスできないウェブサイト群のこと。今年、大々的な仮想通貨の盗難が相次ぎ、ダークウェブで換金されたことなどが話題になった。 |
金足農旋風 | 「金足農」は「秋田県立金足農業高等学校」の略称。その野球部がエース・吉田輝星を中心に夏の甲子園で決勝まで勝ち上がり「旋風」を巻き起こした。 |
カメ止め | 映画「カメラを止めるな!」の略称。低予算映画ながら口コミで広まり大ヒットを記録した。盗作騒動なども話題に。 |
君たちはどう生きるか | 1937年に発行された吉野源三郎の小説。2017年の漫画版発売をきっかけにベストセラーとなった。宮崎駿が次回作のタイトルに引用したことも話題に。 |
筋肉は裏切らない | 俳優・武田真治、庭師・村雨辰剛、弁護士・小林航太が出演するNHKの5分番組「みんなで筋肉体操」の決め台詞。 |
グレイヘア | 白髪染めをしない髪を肯定的に捉えた呼称。2016年に出版された主婦の友社「パリマダム グレイヘア スタイル」から広まった。 |
計画運休 | 災害に備えて計画的に電車の運休を決めること。今年9月の台風24号接近時に首都圏全域の計画運休が初めて実施された。 |
高プロ(高度プロフェッショナル制度) | 労働基準法の改正に伴い、一部の高収入な専門職を労働時間規制から外すというもの。 |
ご飯論法 | 質問に答えない安倍総理の答弁手法への批判。「朝ごはんは食べましたか?」「ご飯は食べていません」「何も食べなかった?」「一般論では食べたほうがいい」…といったもの。 |
災害級の暑さ | 今夏の記録的な猛暑について、気象庁の会見から広まった表現。 |
時短ハラスメント(ジタハラ) | 働き方改革に際して、企業が「時短」を謳うだけで長時間労働をなくす工夫をするわけでもなく、それでいて従来と同じ成果を求めることを指す。 |
首相案件 | 加計学園にまつわる疑惑について、当時の首相秘書官が愛媛県職員と面会した際に「首相案件」と発言した旨のメモがみつかって問題となった。 |
翔タイム | MLBに渡った野球選手・大谷翔平の活躍時に、現地メディアがしばしば「翔」と「Show」をかけて「SHO TIME」と表現したものの和訳。 |
スーパーボランティア | ボランティア活動家の尾畠春夫氏のこと。今年8月、行方不明になっていた男児の捜索にボランティアとして参加し、たちまち救出してみせたことが話題となった。 |
そだねー | 平昌冬季五輪で活躍したカーリング女子日本代表が試合中に使っていた掛け声。 |
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ダサかっこいい・U.S.A. | 「U.S.A.」は男性グループDA PUMPが3年半ぶりに発売したシングル曲で、1992年に発売されたジョー・イエローの楽曲のカバー。PVが「ダサかっこいい」と話題になった。 |
TikTok | ショートムービーを共有する中国発のスマホアプリで、日本の若者にも大流行している。テンポのいい音楽と合わせたり、特殊効果を簡単につけたりできることが特徴。 |
なおみ節 | テニス選手・大坂なおみの独特な語録を指す言葉。大坂なおみは今年、全米オープンの女子シングルスで優勝して話題となった。 |
奈良判定 | 日本ボクシング連盟の山根明(元)会長が、奈良に地盤を持っていることから、アマチュアボクシングの試合で奈良県出身の選手が判定で優遇されているのではないか、との疑惑が持たれた。 |
ひょっこりはん | お笑い芸人。音楽のリズムに合わせて「ひょっこり」と顔を出す、というコントでブレイクした。 |
ブラックアウト | 停電のこと。今年9月、北海道で起きた震度7の地震によって北海道全域で停電が起きたことを説明する際に、「ブラックアウト」という語がよく使われた。 |
ボーッと生きてんじゃねーよ! | NHKのクイズ番組「チコちゃんに叱られる!」にて、チコちゃんが出すクイズに出演者が答えられないと発せられる決め台詞。 |
#MeToo | 性暴力の体験談を告白する際に使用される「私も」という意味のハッシュタグ。映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラが告発されたことをきっかけに広まった。 |
もぐもぐタイム | カーリングのハーフタイムで食事をとることの通称。平昌冬季五輪で活躍したカーリング女子日本代表の食事姿が話題となった。 |
対中ODAの話になると、相変わらず実際を知らない人が多いようなので、まとめておく。
(1)ODAの中心になっているのは円借款(つまり金貸し)である。
円借款は約33,000億円(約86.1%)
技術協力は約3,800億円(約9.8%)
これらは、敗戦に対する賠償の趣旨で実施されており、1,500億円というのが国家に対する賠償の相場として異常に高額というわけでもない。
(2)中国はそれを利子付きで返済している。
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170929/Recordchina_20170929027.html
そして、「借金」であったとしても、もちろん感謝されており、円借款に関してはWin-Winだと言える。
以上を踏まえれば、「経済発展した中国にODAを払う必要があるのか」とあおっていた一部メディア(はっきり言うが産経などhttps://www.sankei.com/west/news/140505/wst1405050057-n1.html)の主張の筋のおかしさが見えてくるだろうし、ODA終了とともに問題となる一番のポイントは、これまで築いてきたODAに代わる新しい中国との関係構築であることは明白である。今後、「開発協力対話」を立ち上げてそれを維持しようという話なら、一応期待できる内容なので、今回のニュースはまあよいニュースと捉えることができるだろうが、それは産経など一部メディアが言う意味でではない。むしろ、ああやってあおり立てる報道で新聞を売り、儲けるというその姿勢は、とりあえず新しい日中関係の構築にとって百害あって一利無い態度であることは間違いない。
国沢光宏氏というモータージャーナリストがあおり運転について書いた下記の二つの記事について論評をする。
あおり運転はあおられる方にも原因がある。なぜ譲らない? その原因は…
https://clicccar.com/2018/09/25/632769/
「あおり運転はあおられる方にも原因がある」に対する反発意見への回答
https://clicccar.com/2018/09/27/633397/
国沢氏がどれほど影響があるモータージャーナリストであるのかは知らないが、少なからずメディアに出てくる以上こういった社会問題に関連する記事を書くにあたり正確な情報を書くべきではないだろうかと考えた。
記事の要点は「あおり運転はあおられる側にも原因があり、その原因は後続車のジャマをしている(=ケンカを売っている)からである。だから後続車が来たら道を譲るべきである。自分勝手なドライバーがいるのは教習所で遅く走る時は後続車に道を譲るよう教えないからである。だから教習所は教えるべきである。」である。
全てが正確ではない、間違っているというわけではない。正しいこともあり同意できる部分もある。
しかし、記事の内容が全てであるかのような書き方は、間違った部分は間違った認識を広め、場合によっては間違った行動を引き起こす恐れがある(注意してもらいたいのは間違った行動はあおり運転のことだけを指しているわけではない)。
そういったことを防ぐためにジャーナリストであるのであれば正しい情報を書くべきである。社会問題に関連する記事は一個人の感想(=主観)が入る車の試乗記事とは違うのである。
ちなみに私は何度も上記の国沢氏の記事を読み直した。それは記事の前後で矛盾があり腑に落ちない点が自分の誤解なのではないかと思ったのも原因である。
しかし、それでも腑に落ちない点は解消されなかった。二つ目の反対意見への回答の記事は国沢氏曰くもう少し解りやすく説明したにも関わらずだ。
問題は二つある、。
一つめの問題点は、国沢氏が「あおられる側にも原因をある。」とあおり運転は両方に原因があるとしている。
国沢氏の主張として、あおられる方の原因は後続車のジャマをしている(=ケンカを売っている)からである。しかし、全てを一つの原因と結論づけていいのだろうか?
あおり運転が発生した状況を分析すればケースバイケースでいくつかに分けることができる。
つまりケースバイケースで原因が異なってくることを意味している。それは場合によってはあおられる方に原因が無いと考えられることもできる。
田舎の区間のせいかガラガラの高速道路の走行車線を制限速度の100km/hで走行中、同じく走行車線を走る大型トラックが3台おり、速度差があるためトラックに追い付いた。
ちなみに私はクルーズコントロールを使用して走行していた。その設定速度の誤差ははGPS速度計と比較して1km/h程度であることは事前に確認してあった。
前のトラックとは安全な距離をこれ以上、確保できない距離まであと少しという距離まで近づいたところでルームミラーとサイドミラーを確認した。
追い越し車線上には後方を商用車のライトバンが走っていがいたが、ルームミラーでは意識する必要が無いくらいの離れていた。そのライトバンが10km/hぐらいの速度オーバーで近づいてきてもそう簡単に追いつかれない距離である。
徐々に大型トラックを追い越しいく念のためルームミラーを確認したところライトバンの距離が急激に近づいていることが確認できた。大幅な速度超過をしていることが予想できた。
大型トラック同士の車間距離は大型トラックへの安全を考慮すると走行車線側に避けるには十分とは言えない。
そのため引き続き走行車線を走り続けた。もちろん大型トラックの追い越しが完了でき次第、走行車線に車線変更するつもりで走っている。
しかし、大型トラックを2台目を追い越すころにライトバンが追い付き、ナンバーが見えない距離まで車間距離を詰められた。ライトバンはあおり運転をし始めた。
そのあおり運転は3台目の大型トラックを追い越し、終わり走行車線に戻るまで続けられた。もちろん私は追い越しが完了次第、走行車線に戻っている。
ルームミラーに3台目の大型トラックの前の部分が映ったのを確認したらウインカーをだして車線変更をしている。そのまま追い越し車線を走行をし続けてはいない。
ちなみにあおってきたライトバンは走行車線が空いているにも関わらず、私を追い越した後も引き続き追い越し車線を走り続けいた。
しかも、私が大型トラックを追い越す前から走っていた。私の後ろには走っている車は無く走行車線に戻るには十分なスペースがあるにも関わらず追い越し車線を走っていた。
このような経験をしたことがある人は少なくないのではないだろうか?
ここで原因を分析したい。
結論から言ってしまえばライトバンの大幅な速度超過があおり運転が発生した原因である。
道交法に従い走行車線を走り、追い越し車線を追い越しのためだけに使用している。また、クルーズコントロールを使い制限速度で走っている。絶対そんなことはない、1km/hでもオーバーしているまたは遅いこともあるはずだって人もいるだろ。
確かにその指摘はごもっともだろう。しかし、1km/h程度の差は今回のあおり運転が発生した原因に寄与していると言えるだろうか?私にはその理由が思いつかない。そのため考慮すべきことから除外する。
最後に追い越しが完了次第、走行車線に戻り後続車に道を譲っている。これも道交法に従った行為である。しかもこの追い越しは走行車線を走っている大型トラックへの安全も配慮している。
ここまで私に何か落ち度があっただろうか?ただ道交法に従って走っているだけである。
国沢氏の記事によればマナーが良いドライバーであるのであろう。しかし、私はこの譲るという行為により自分がマナーが良いドライバーとは私は思っていない、単に道交法に従っているだけである。
先にも書いたが追いつかれた車の義務として後続車に道を譲っている。状況的にマナーとしてではない。
一方、ライトバンはどうであろうか?大幅な速度超過をしている。先にも書いたが10km/hぐらいの速度超過ぐらいでは簡単に追いつかれない、また意識する必要性も無い距離であることを確認してから私は追い越し車線へ車線変更をしている。
また、もし覆面パトカーがいたら確実に捕まる速度である。私自身、何度か覆面パトカーで捕まるのを目撃している経験からそう判断した。
ここで10km/hとしたのはメーターの誤差を考慮してである。ライトバンが制限速度で走るため誤差を考慮してメーター読みで110km/hで走っているかもしれない、しかし実際はメーターがほぼ実測に近い場合もあると考慮している。メーターには誤差があるからこれは仕方が無いことである。
もしライトバンによる大幅な速度超過が無ければ私が大型トラックを追い越し終わるまでには追い付かない、すなわちあおり運転が発生する状況は生じなかったのである。
だから原因はあおり運転をしていた後続車にあり、あおられた側にはないと結論できるのである。そしてその原因は大幅な速度超過である。
後続車の速度を見誤って追い越したのが悪いという人もいるかもれいない。しかし、結局はその原因も後続車の大幅な速度超過が悪いという結論に達するだけである。
後続車をジャマするからあおられる。だからあおられる側も原因があると国沢氏の主張は一部であっているかもしれないが、そうでない場合もあるのである。
ここに書いたのは私が書いた経験の一例である。他にも分析をすればあおられる側に落ち度が無いケースはあると考えられる。
二つ目の問題は、平然と矛盾している。誰か校正してないのであろうか?
補足記事に下記のように書かれている。
"・あおるヤツがすべて悪い"
"その通りだと私も文末に書いている。"
"あおり運転はあおられる方にも原因がある。なぜ譲らない? その原因は…"
またその文末にはこう書いてある。
"そもそも3車線ある区間で大型トラックが一番右の車線を走ることは道交法で禁止されている違法行為。警察もキチンと取り締まれば良いと考える。とにかく後続車にケンカを売るような走り方を一掃することから始めるべきだろう。その後に残るあおり運転は明らかに犯罪者だと思う。遠慮や躊躇すること無く検挙し、一発免停などの厳罰処分をしていけばよい。"
何度もタイトルと文末を読み直した。
私にはタイトルと元の記事の内容からあおられ側にも原因があると国沢氏主張しているとしか読めなかった。そもそもそれを主張するための記事ではなかったのであろうか?
文末にあおるヤツだけが原因だと書かれている個所を発見することは出来なかった。
どこにあおるヤツがすべて悪いと書かれているのであろうか?あおられる側にも原因があると主張しているのが元の記事である。すなわちあおるヤツが全て悪いという主張は記事の意図とは明らかに違う。。
国沢氏が補足記事に下記のように書いているが、読解能力の問題なのだろうか?国沢氏の論理の展開力の問題か校正の問題ではないだろうか?
”よく読んで頂ければ記事に盛り込んであるのだけれど、昨今の人は読解能力の問題なのか理解出来ないようだ。”
また下記の文も不可解である。
"後続車のジャマをしなければいいだけのシンプルな事象と全く違う。"
あおられる方だけに責任があると読める文章である。なぜならひとこともあおる方を指摘する文が入っていためである。
主張が補足記事のなかで変わるためなにが本当の国沢氏の主張なのか理解し難い。この一文が国沢氏の本音の主張であり、他は建前ととらえることもできる。
また、この文を読んだときに国沢氏のあおり運転の問題に対して自分の主観だけに基づいて記事を書いたのではないかと疑った。
もし本当に国沢氏が先ほど引用した文にあるようにあおる方が悪いとと思っているのであれば「道交法を守ればいいだけのシンプルな事象」の方が本質を表しているので適切ではないか?
前を走る車も後続車も皆が道交法を守ればあおり運転は発生しない。それが出来ていないから問題なのではないだろうか?
にも関わらず国沢氏があおられる方だけ限定するのは不可解である。モータージャーナリストであるのであれば客観的に考察をしてもらいたいものである。
早い後続車が来たら道をゆずることとそれを教習所で教えるべきという点は同意できる。道路の状況次第で適切に行うことは良いことである。また一部の犯罪者気質からの防衛運転すべきという点も同意できる。
また、大型トラックが追い越し車線を走行しているのは道交法違反であり、円滑な交通を阻害しているという主張も同意できる。
社会問題となっているあおり運転に関する国沢氏の記事は正確さにかけていることを指摘した。
まず、国沢氏の主張であるあおられる方にも原因があるというのは間違っていることを指摘した。
ケースバイケースで分析をしないとあおられる方にも原因があるとは断定できない。すなわちあおられる方に落ち度が無いこともある。
一部、そうったあおられる方にも原因があることもあるとうのであれば理解はできるが、国沢氏の文章にはそう書かれてはいない。
また、国沢氏の主張には明白な矛盾があることを指摘もした。あおられる方にも原因があると主張する記事でありながら、あおるやつが全て悪いと補足されている矛盾があった。
ただし、国沢氏の主張が全てが間違っているわけではなく、正しく同意できる部分もある。
あおられる方だけに責任があると読める文が含まれていた。コンプライアンスが厳しく問われる昨今、モータージャーナリストとしてこの文がいかがなものであろうか。
モータージャーナーリストは記事を書いてお金を貰い(このお金も元を辿れば一部は自動車メーカーもしくは関連会社のスポンサーからであろう)、自動車メーカーや輸入代理店が用意した試乗車を公道もしくは自動車メーカーが高い金を払って借りたサーキットで試乗している。
言いかえれば直接的、間接的に自動車メーカーや関連会社と一緒に仕事をしているのがモータージャーナリストである。請け負っていると言う方が適切かもしれない。
そのモータージャーナリストである国沢氏のこのあおられる方だけに責任があるよめる文を記事に書くことに関して自動車メーカーや関連会社の人達はどう思うのであろうか?
私が自動車メーカーの人間なら一緒に仕事をするのを止めたいと思う。一緒に仕事をすることでブランドイメージが損なわれる恐れがあると考える。
何がって、黒ストッキングの話だ。
2013年から2014年がピークだっただろうか。ティーンから40代に至るまで、幅広い層で秋冬ファッションにおける黒ストッキング/黒タイツの着用が広がったのだ。
合わせる靴も、その少し前まで流行っていたニーハイブーツやロングブーツが消え、ショートブーツやパンプス、スニーカーなど、足首が見えるスタイルが多数派に。また、ボトムスもショートパンツやミニ丈のスカートなど、膝上から太ももまで見せるものが普通となっていた。
足首から太ももまであらわになった脚線。その広々としたうねりを包んでいたのが黒ストッキングである。黒ストッキングがあるから安心して脚線を露出できる。脚線を露出する服装だから黒ストッキングが必要となる。その相乗効果により、世はまさに大・黒スト時代であった。
では、その後の黒ストッキングの後退の理由はなんだろうか。現在、街を見渡すとルーズシルエットやワイドパンツが闊歩しており、その流行を理由として挙げる声は多いだろう。
しかし、本増田は、決定的な理由は別にあると考える。それは「黒ストッキング=透け感が重要」言説の登場である。
増田読者諸兄は、「デニール数が少ないほどイイ女!」……そんな記事を見たことはないだろうか。曰く、デニール数(ストッキングの厚さ)が少ない、すなわち、薄くて素肌の色が透けて見えるストッキングがセクシーでいいのだそうだ。同時に、厚手のストッキング/タイツはセクシーではない(男ウケが悪い等)、と。
調査を行なったところ、2015年初頭からそのような言説の記事が登場。単発ではなく、後追い粗製乱造ウェブ記事の増加(2016年のDeNA WELQ事件を思い返してくれればよい)が拍車をかける。
ここで疑問に思われる方もいるかもしれない。
「薄い黒ストッキング=セクシーとなれば、今度は薄手のものが流行するのではないか?」
だが考えてみてほしい。例えば、ある冬の寒い朝、高校1年のあなたの娘さんはいつものように110デニールの黒タイツを履いて学校へ出ていった。その翌日。突然、30デニールの透け感たっぷりの黒ストッキングを履いて学校へ行こうとしている。頑固親父ならずとも「どうした?」と言わざるを得ないだろう。かように、セクシーであるというのはハードルが高いものだ。単に年齢・性別の問題ではなく、セクシーであっていい場面というのは非常に限られているという意味でも。
この「黒ストッキング=透け感が重要」言説、国内老舗ストッキングメーカーのマーケティングも絡んではいるのだろう。2014年時点に立ち帰れば、黒ストッキング/黒タイツ市場はもう飽和してしまったから、「秋冬の防寒用」から「年中の基本着用」へと(ベージュを中心とした)パンストの復権、パンストのレコンキスタ、パンスト維新を企図していたことがうかがえる。しかし、「セクシー」を強調したことが仇となったか、ファッションの変化のあおりも受けてパンスト・タイツの消費自体が低迷する結果となってしまった。
(※国内供給量の推移:2013年 3400万デカ → 2017年:2800万デカ)
「デカ」とは靴下の単位で、10着(セット)のことを指すらしい。閑話休題。
かくして、我々がその攻守のバランスを愛していた80デニールの黒ストッキングは「やぼったいもの」の烙印がおされることになった。ファッション都落ちである。我々はセクシーではないことの方が多い日常を過ごし、でもほんの少しのセクシーさを求めていただけなのに。
まもなく、寒さとともに本格的な秋冬ファッションのシーズンが来る。黒ストッキング/黒タイツはどのような2018-2019シーズンを迎えるのか。あなたのワードローブに眠っている黒ストッキングはお元気ですか。
「「Kimonoは『人種差別主義』『帝国主義』」芸術イベントで理不尽な日本批判 https://www.sankei.com/west/news/180905/wst1809050009-n1.html
読めばすぐ分かることだが、ライターの方はボストン美術館に寄せられた批判に対しておっそろしく頓珍漢な反論を行っている。
事件は当時有名になったから、ご存じの方も多いと思うが、教科書なんかにも載ってるモネの「ラ・ジャポネーズ」の絵の前で着物を着せるイベントを企画したら、アジア系の人からクレームがきた、というものだ。これは、当時大変盛んだった Cultural appropriation(文化の盗用/文化簒奪)やという視点に基づく批判の典型である。つまり、「弱者であったアジアの文化を、強者だった西欧人が真似して楽しむ、というのは、西欧がアジアから簒奪してきた歴史への反省や異文化に対する敬意を欠いた尊大な振る舞いである」という主張だ。日本でも、近年ようやく「ステレオタイプな異文化理解やその模倣が、異文化に対する敬意を欠いた失礼な振る舞いになる」ということにいくらかコンセンサスが生まれつつあるが、自国内で異文化と日常的にふれあう経験が少ないせいか、これを重要な問題と理解することがなかなか日本人には難しいようだ。
個人的に、この「文化の盗用」論に100%賛同するわけではない。特に、あまりにも過敏な反応は、逆に内なる差別性の表明、あるいは強者の驕りではないかと思う場合すらある。少なくとも、モネの絵の前でその真似をしたくらいで目をつり上げるほど怒る必要はないと思う。それは、「真似をする」行為がリスペクトを意味しもするという風に感じられるからだ。
しかしながら、「相手の真似をする」という行為は、一方で相手を侮蔑したり揶揄したりするときにも行われることも考えておくべきだ。大人しく着物を羽織ってる程度ならまだしも、そのまま椅子に腰掛けたら? その程度なら問題ないだろうか。では、たとえば撮影した写真に滑稽なタイトルを付けてSNSにアップすることは? あるいは、その着物を羽織ったままわざわざ眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げる真似をしだしたら? どの時点からそれは「アウト」なのか。もちろん「リスペクトのない行為はダメです」とは言えるだろう。だが、残念ながら「内なるリスペクト」とやらを検証する方法はない。リスペクトを言い訳にすれば何をしてもいいのか。あるいは、結局、みている日本人の「お気持ち」だけが判断規準になるのだろうか。そんな明文化できない規準を我々はいちいち振りかざすべきなのだろうか。
それよりも、単純に「少なくともそういうこと(文化の盗用と疑われること)は軽々しくやっちゃだめ。少なくともダメだと言われたらすぐやめましょう。」というあたりが、今のところ落としどころになっている。今のアメリカでの「文化の盗用論」というのは、おおむねそういう風に理解しておいたらよろしいと思う。
以上の話を踏まえれば、御年73歳のこのコラムのライターの「分かっていなさ」「恥ずかしさ」がよく分かると思う。この方が引用した3人の批判者の主張はこのイベントが「アジア人に対する人種差別主義」であり、ステレオタイプが抱く「異国情緒」を楽しむ低俗なイベントであり、そして「帝国主義」的であるというものだった。そして、ライターの方はこれを「日本批判」と捉えたらしいがとんでもない誤解で、明らかに事実はその反対なのである。彼女らの主張は、「文化の盗用」と見えるイベントを企画したボストン美術館の姿勢自体に「アジア人に対する人種差別」があり、モネの絵のような「ステレオタイプ」なヨーロッパの東洋のとらえ方に基づく流行(=ジャポニズム)を今また模倣することは、かつての西欧の帝国主義の無邪気な肯定にすらなっている、ということである。そこには、日本に対する一欠片の批判の意図もなく、彼女らはむしろ「西欧帝国主義のおもちゃにされている(と彼女らが信じる)アジアと日本文化の尊厳」を守るべく、ボストン美術館に対して声を上げているわけだ。(かれらが掲げるプラカードも、体験する来館者に対して「あなたが着物をきてキュートで異国的に見えたとしても、それは差別じゃないの。美術館のイベントでなければね!(It's not racist if you look cute・exotic in it. Besides MFA support this!)」という、美術館批判の趣旨の言葉である。)
ネットに残る写真に写る方々が中国系アメリカ人なのか、日系なのかは知らないが、彼女らの出自などというつまらないことで邪推し、彼女らが「日本を批判しているに違いない」と思い込んでヒートアップして美術館に手紙まで送ったこのライターの方の行為は、相当差別的で恥ずかしい。
しかしながらもっと恥ずかしいのは、「文化の盗用」のような、現代の「差別」をめぐるごく基本的なワードや議論を全く知ることなく、このような稚拙な内容のコラムをそのまま掲載してしまった産経記者のあきれるような無知である。こういうところで「所詮は二流新聞」とあなどられることになる。それがイヤなら、産経は好き嫌いをせず、あおり記事ばかり書かせる練習をするのでなく、記者にもっときちんと勉強をさせるべきだと思う。できればライターや読者にも。
なお、参考までに、事件当時も似たような方々が大量に湧いていたらしい。こういうのなんて言うんだろう。セルフ釣り?(参考:https://togetter.com/li/845708)
横断歩道を正しく歩いてた歩行者が自動車に加害されても歩行者側を責めて加害者である自動車側を擁護したり、
車道を道交法通り走っていた自転車があおり運転や幅寄せという犯罪行為を受けた動画でもなぜか犯罪被害者である自転車側を叩いて加害者である自動車側を擁護したり。
強姦魔を擁護するキチガイと同じくっさい臭いがプンプンするんだよな車カスからは。
ちなみに自動車運転手及び同乗者の年間死者数は1200人以上であり、自転車利用者の約3倍も自動車の車内で死亡している事実は警察庁の統計でも見てとれる。
車カスは他の職業ドライバーからしても最も有害で邪魔で迷惑な公道の癌なんだよな。
車カスほど自動車ドライバーらが年間約200万件もスピード違反で摘発されており、一時停止無視違反も年間100万件以上摘発され、信号のない横断歩道での歩行者自転車を保護優先しない犯罪行為を9割のドライバーが繰り返しているモラルハザードを棚上げして被害者である歩行者や自転車を誹謗中傷するクズっぷりを見せる。
イギリス人「なんでJAP車カスは横断歩道で停まらないの?ルールも守れないのに礼儀正しいとか自慢してんじゃねーよジャップ車カス」
たまに「絵がうまくなるには」みたいな記事を見るので
私がまあまあ描けるようになるまでの経緯を載せておく。
めちゃくちゃうまくもないがなんとなくときどきpixivのランキングにはいれたりRTを稼げたりはする程度。
もともと授業中にらくがきをしてしまうタイプの子どもではあった。
二次創作絵も描くことはあったが、下手くそで自分でがっかりするのであまり熱心ではなく、もっぱらなんとなく、好きな漫画家の真似をしながら意図もなく女の子や男の子を描いていた。
なんでか意味もなく女の子の目に涙かいて泣かせるとかね、よくあったよね。
某漫画のファンサイトで300*300の大きさに狂ったようにマウスで絵を描いていた。
もちろんこの頃も下手くそだったが、同い年くらいのこどもたちがなれ合いでほめてくれた。
なにもかも人まねだったし稚拙だったし、お絵描き掲示板の機能は制限されていたが、「人に見せるため」の絵をたくさんかけたのはよかった。
自分の技術でも、すこしはかわいいとか面白いとか思ってもらえるように、モチーフや色使いや画面内の余白を意識したり、人の絵を観察する習慣がついた。
細部をちゃんと描くとほめられるし説得力がでることに気づいたので、服のディティールや靴や小物なんかを面倒がらず資料探してかくようになったのもこの頃。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm5s-nkmr/
しばらく小手先で描いていたものの、ガチで上手い人たちの絵がうらやましくなったので
当時流行っていたhitokakuではじめて「アタリをとる」という概念を導入した。
「上手い人たちは、顔を描くときに十字を描くらしい」
ということは知っていたが、他はなにも知らなかったので
頭のバランス、人体の骨格、全然できなかった手や足の描き方などをここで知った。
じゆうちょうを一冊買ってきてお手本を真似していると、「自分に描けるもの」が飛躍的に広がったのを感じてすごく楽しかった。
この頃にペンタブを買った。
東村アキコが「ロボット設計図」とめちゃくちゃにバカにしていたが
「写真を見て漫画絵にレンダリングして模写できる」というのは結構習熟の必要な作業だと思う。
「絵心」ってなにか、といったら、見えてるところから見えない部分を想像する能力じゃないかと思う。
立方体を見たときの底面、手のひらを見たときの手の甲、立ってる足を見たときの土踏まず、顔を見たときの眼球。
目で見えてる範囲から見えない部分へどう繋がっているか、がわからず、「目に見えたものをなぞろう」としても、絵に落としてもなんか不自然になる。
なぞり書きだってうまくいかないときがあるのに、模写となるとなおさらだ。
私には絵心がないので、それを理論的に教えてくれる「ロボット設計図」はほんとうにありがたかった。
お絵描き掲示板が下火になってくるとsaiを手に入れ、色塗りの技法や効果をお絵描き講座から仕入れて画面を華やかにできるようになった。
なんとなく上手く描けないな?というときもあったんだが、誤魔化しごまかしでなんとなくそれっぽい絵を描いていた。
ただ、漫画に挑戦してみた結果、ものすごい量の課題に否応なく気づかされた。
大きく分けて次の三つ。
2:意外と描きたいポーズが描けない。
3:白黒で見たときに絵の魅力がない。
背景を誤魔化すにも限界があった。
それまでも、ときどき思い立ってパースについての解説をぱらぱら眺めてみたが
「あー、ふーん、相似ね? なるほどね???」
ただ、人物からアイレベルを求めたりする解説がネットにいくつか掲載されるようになり、そのおかげでなんとなくそれっぽくできるようになった。
パースかんたん解説1:アイレベルの求め方 | 摩耶薫子「着物の描き方」発売中 https://www.pixiv.net/member_illust.php?illust_id=3933143
今も三点透視でばりばりに背景描けるぜ!って感じではなく
なんとなーく一点透視や二点透視のやりかたがわかったな、という程度だが
今のところそれで困ってないので、なんとなくの知識とパース定規を駆使してなんとかしている。
ビルの谷間を駆け降りるような絵が描きたくなったらまた頑張ろうと思う。
あとは、人体のパースという概念を手に入れたのはすごく大きかった。
それまでも、たとえば奥から手前にまっすぐ伸ばした腕やあぐらを組んだ足なんかがうまく描けないという自覚はあったのだが
人体のパースがわかってないからか!と気づいたときは目から鱗だった。
『やさしい人物画』のパースのあたりが楽しくてたくさん描いた。
http://loomis.sblo.jp/s/ (※原書)
それと、人物を描くとき、アイレベルより上をあおり、下は俯瞰、と意識して描くようになった。
それまではなんとなくぺらぺらしていた自分の絵に立体感が出た気がして、これも嬉しくてたくさん描いた。
漫画のなかで、どうも自分の描くポーズが硬い気がして嫌だった。
たとえば歩く人を複数人描いたときに、左右どちらの足が出ているかの違いしか出せないこと。
本当はちゃきちゃきした歩き方、靴を引きずるような歩き方、スカートとズボンの違い、ヒールと革靴とスニーカーの違い、色々あるはずなのに、絵のなかでそれが表現できない。
たとえば座ってごはんを食べる時に、背中を丸めただらしない食べ方や、へんなコップの持ち方や、そういう「絵にならない」瞬間が描きたかったし、そういう絵のある漫画は魅力的に思えた。
これについては「他人を観察する」というのを意識的にするようになった。
居酒屋のシーンを描くなら居酒屋で、電車のシーンを描くなら電車で
ばれない環境なら真似してみるのもよかった。
もちろんその場で全部覚えられるわけでもないが、インプットした分は絵を描くときになんとなくにじみ出てくる気がする。
白黒の絵の魅力はすなわち描線の魅力だと思う。
グレーで細かく陰影をつければ疑似カラーみたいにできるけど、それは私の描きたい絵ではない。
線の魅力って不思議なもんで、絵のうまさや好みとは別のところで
すごく魅力的でいきいきした線の人がいる。
もしや才能なのか…と思いつつ、ペンの設定を変えたりソフトの補正を調整したり、何より繰り返してかきながら自分の思ったような線が描けるように練習している。
hitokakuのはじめは「◯と│をひたすら描こう」と言われるのだが、当時の私はほとんど飛ばしていた。
最近またやってみている。
私は「基本から、教本にしたがって、積み重ねるように」練習をするほどまじめにはなれなくて、
その時その時で絵を描きながら、「もうちょいこういう風に描けたら楽しいのに…」というフラストレーションが自分のなかに溜まったら練習する、という感じでここまで来た。
もともと私のやる気はそういうふうにできている気がする。
道具もあまり新調しなくて、
今使ってる道具をうんざりするまで使い倒しながら
新しいソフトほしいあたらしいペンタブほしい、とフラストレーションが貯まったところで買うと
わー!なんてべんり!なんてすてき!!と思えて格段に楽しくなる。
と思う。
そして、好きな作品であればあるほど、顔をかわいく描くことにすごくこだわるようになる。
ひとつの作品をねっちり長く描くことも、ちょっと好きな作品をたくさんかきちらかすことも、どちらもすごく絵の練習になった。
前述のように私は今もまだまだ完全に描きたいように描けるわけではなく練習中の身だが、
狂気のゲリラ的バブル型住宅高騰が発生している横浜市は、地価の高騰が社会問題になっている川崎市と隣接している。その川崎市に隣接しているのが東京都。再開発&地上げラッシュが起きている地域だ。通常では考えられない問題が、奇しくも同時期に、近所で起きている。
都市部と地方の格差拡大問題はすでに多くの人に取り上げられてきたが、ここにきて、大きな問題として浮上しているのが、都市問題である。見えてくるのは「負のバブル化する東京圏」という問題だ。
東京圏というと、日本の中心とか、観光地のすがすがしさや、文化情緒などをイメージするものだ。そしてそういう豊かさもあれば自然も文化もあるような、勝ち組の豊富さにひかれた人々が集まった結果日本国民の20%が住む人口の規模に発展を成し遂げたのも事実だ。
ところが、そういう魅力のあった時代は、どれも2011年より前に偏っている。東京都内だって、2012年以降はハッキリ言って無機質な再開発が進むだけで、池袋にせよあるいは下町の極北として知られる23区東部にせよ、その時代は昔に偏っている。
東京圏には街ごとの序列意識がある。実際には、地価も安く店舗や交通網の多い郊外や下町地域の方が住むにはいい場所で、むしろ山手線の内側や中央線沿線の西側は治安リスクとインフラ事情の貧弱さによる問題や何より高齢化の問題を抱えているのだが、東京圏はとにかくそのような事情を無視するのである。
私は2011年以降を「東京圏の黒い時代」と名付けている。都市圏との境目までは延々と個性ある光景が広がる。境界線から都市側に行くと、ある段階で急にその流れが終わる。神奈川県を抜けたら、山手線周辺に入ったら、埼玉県や千葉県を抜けたら、急に、歴史ある土地柄とは思えないファスト的風景や無機質な風景になるのである。
地域性がハッキリしているのが日本の都市とは言われている。阿佐ヶ谷や亀戸のように、駅名だけでイメージがつく。八王子なら高尾山の風光明媚さ、立川なら公園みたいに。しかし、東日本大震災以降の、「東京圏の黒い時代」は、はっきり言って、似たり寄ったりのものが増え続けているのである。
私は東海道線で横浜から東京に行くたびに、電車を降りて駅を出て歩いたときに見かけるあの「同じ都市風景」に、思うことがあった。赤羽でも、秋葉原でも、新小岩でも、渋谷でも、練馬でも、そして東京都の外の川崎や横浜でさえも、既視感のある風景。特別な理由があるわけでもないのに妙に没個性化していて膨大な人や金が凝縮される感じ。
「たまたま職場に近かったから」「たまたま学校に出やすいから」「たまたま住みやすい家があるから」「たまたま生活に便利だから」という、都会人の生活に至る中継点としての、半端な利便性、関係性を抜きにすればあまり成立しないところに、いびつな成長を遂げた姿があるのである。
こういう場所で、このような社会問題が連鎖して起きているということが、私にはとても気がかりなのである。昭和の裏社会もののようなイメージもあるバブル期ではなく、アベノミクス時代の方が実は事態が深刻で、市民が悲鳴を上げていて、頻繁にクローズアップされる現実は、日本人として見過ごせない。
大阪などよりは景気がよく、おまけに賃金水準が日本でもトップクラスで、多様性もある。その代割り、それ以上の価値はあまりないという場所に生きる日本人たちは、いったいどのような意識を形成するのだろうか。私とその家族も、あなたたちも、ほぼ同じ環境にいるはずだ。
しかし、2010年代くらいになると、地方にしかなかったファスト風土的光景が一気に都市部に広がり、凝ったチェーン店や文化はより高次のニーズを満たす街中のそれらに客を奪われる形で潰れ、貧困の高齢化、多文化共生などのあおりを受け、都市部の繁栄の広がりは陰りをみせてきた。
オタクだったら池袋と秋葉原の関係。池袋の方が本来は規模が小さいが、力をつけている池袋側のオタク文化に歴史や多様性以外なにもない秋葉原は負けてしまう。オタク系企業も西に移っている。そして西側の方が多様化が進んでいて成長が著しい。結果秋葉原文化は6年ちょっとでどうなったか。もう、電気街さえ。
じゃあ池袋がいいかというと、多摩地域と同じで一定のインフラ群はあっても、妙にひっそりしていて、千葉の都市部をもっとオーラを悪くした感じなのである。昭和時代に無機質に造成された建物がくすんでいる。人口も減りかけているだろう。
限られた都会の極地以外は、過去のように「勝手に集まって勝手に増えて勝手にぎわう」流れは通用しないでいる。とにかく輝きといえるような流れも何一つない。
しかし、大阪と違うのは外からの「東京圏は人口が最も多く、資源に富んでいて、日本の中では一番豊かで洗練されていて上等な部類に位置している」というイメージはあるということで、やはりギャップに葛藤するのである。不都合な現実、分断、ゆるやかな荒廃。こういうのを一番痛感するのが私たちだ。
でもこの「東京圏の黒い時代」にこそ、社会の急激な流れを感じる人が多い。現在では過酷なセクハラが常態化し「セクハラされた男社会4ね」という女性の叫びがネット上に飛び交う。
この「東京圏の負のバブル化」を本気で考えなければいけないのが、今の東京圏の現状だと思う。これらの場所がオーラを改善させ、2000年代までのような自・他ともに認める固有の性質を各地が確立でき、いびつな偏りのない競争が起きるくらいまで調整する役割を、私たちは放棄してはいけない。