はてなキーワード: 対称性とは
言葉足らずだったかもしれないけれど、造形的美しさと、生殖的な美というか魅力は、必ずしも一致しないことが多いので、造形的に美しい形だからと言って必ずしも生殖に有利とは限りませんね。
多くの種において、左右対称性はきわめて重要な身体的美しさの指標である。42の種を含む約65の研究が、異性を惹きつけてパートナーを獲得するのに身体の対象性が重要な役割を果たすことを示している。通常は左右対称になるモノが非対称になる要因は、発達の過程で食物の量や質の不足などといった環境的要因が働いたことにある。つまり左右対称であるということは、その個体が発達の過程でそうした悪影響を受けなかったことを証明しているのだ。
岐阜県現代陶芸美術館で開催されているデンマーク・デザイン展と
デンマーク・デザイン展では、椅子をはじめとしたおデンマークの家具を
拝見することができましてよ
センスを感じさせながらも実用性を失わないところにデンマーク・デザインの真髄があるそうですわ
最後の方の展示室では実際にデンマークの椅子に腰掛けることができました
立ち見に疲れた後の補正込みですけど、座り心地はよろしかったですわ
持続可能な森から樹齢200年の木を切ってきて作っている椅子があるそうですの
素敵ですわね
シンプルな銀食器もあって並べられたステンレスとの微妙な輝きの違いが観察できました
普段は焼き物を展示しているだけに立体物の展示には自信ありとお見受けしましたわ
第二展示会場ではデンマークの家具を唯一ライセンス生産されている
マットレスの中を見せてくださっていて興味深かったですの
蛇腹状の扉で正面が完全に戸締まりができる本棚は欲しくなりましたわ
蝶番の扉と違って本棚に完全収納されて開いても邪魔になりませんの
「近代美濃陶芸」は明治150周年とのことで、明治期の作品が展示されていました
ポスターを飾っている西浦焼は、すぐお隣の美濃焼ミュージアムから借りたものでしたわ
富本憲吉様の作品「色絵金銀彩四弁花模様飾壷」が完璧な対称性をもっていて
惚れ惚れと鑑賞してしまいましたわ
門工房の「千点紋食器一式」は名前通り千の点が絵付けされていて
ミュージアムショップでデンマークのミントチョコレートを買いましたわ
いざとなればデンマークまで泳いでまいればよろしいのですけどね
おほほ
おさばらですわ
低学歴は高学歴と接することが日常でゼロだけど、高学歴は已む無く低学歴とも接する必要がどうしても出てくる。
高学歴は低学歴と高学歴とを比較できるが、低学歴はそれができないという対称性がある。
しかし、必ずしも学歴が強い影響を与えるとは限らない分野もあり、そこはもちろん学歴を重視する必要はない。
とはいえ、それも高学歴の人間が低学歴の人間と比較した上で始めて理解できる境地であり、低学歴の言うそれは信用には値しない。
なぜならば、低学歴の言う「学歴関係ない」という言葉は腕力で黙らせれば高学歴なんかコレモンよ、と言ってるに等しいからだ。
つまり、比較できる側の「学歴関係ない」とは、評価尺度のあくまでひとつの軸に過ぎない、他にも評価できるところはいろいろあるという多面的な見方をしているが、
比較できない低学歴側のそれは、ひとつの軸だけ振り切れば他はどうとでもなる、ということを言っているのだ。両者は同じ言葉を使うが、意味の中身が異なっているのである。
この同じ言葉を使うが意味が異なる、というのがいわゆる「IQは20違うと会話が成立しない」ということの本質である。
会話が成立しない者同士を同じ器に入れるのをよしとするか、分けるのをよしとするかはまた別の話である。もっとも、同じ器に入れたところでほっといても水と油のように分離してしまうだろうが。
セクハラやパワハラは常に権力勾配を利用して行われる。「職場の上司が」「その権力を利用して」「受け入れないと立場が悪くなる」ことを暗示(或いは明示)して行われる搾取である。これが問題の本質だ。だからこそ逆らえないし、被害者は泣き寝入りするしかない。卑劣な犯罪だ。はあちゅうの告発も正にそのようなものだった。今回metooのムーブメントは、そうして黙らされてきた女性たちが実名で声を上げるというところに大きな意義があった。
でも童貞たちはその構図を、はあちゅうの童貞いじり発言にそのまま適用し、まるでそこに対称性があるかのように捉えて「お前が言うな」運動を始めた。これらは全く別の問題であるにも関わらず。まず、はあちゅうと童貞は上司と部下の関係ではないし、権力勾配は存在しない。はあちゅうの童貞いじりを受け入れていないと業界を追放されるとか、出世の道が閉ざされるとかそんな事もない。抵抗できない立場にあったか? ——ないよね。ずっと黙らされてきたか? ——いやお前らははあちゅうが嫌いだとずっと言い続けてきたよね。声を上げまくっていたよね。これらの問題には一切、対称性が存在しないのだ。でも何故か童貞たちは「これは同じ問題!」と叫び続けた。こうして声の大きい童貞たちがmetooのムーブメントを掻き消しました。後に続いて声をあげる人たちの言葉を封殺しました。それでもやはり童貞たちは「謝らないはあちゅうが悪い!」と言っている。
そもそも、はあちゅうは無罪だよ。お前らいつも「Yesロリコン、Noタッチ」って言ってるじゃん。それと同じだって。童貞蔑視の意識を持つだけなら無罪。それによって実際に人に危害を加えるのはダメ、というだけ。お前らがいつも主張してることじゃん。自分が不快に感じたことだけ大問題にして騒ぎだす。ダブスタだよなお前ら。
二次元のエロに不快感を示し、排除しようものなら、伝家の宝刀「表現の自由」を振りかざして騒ぎ立てる癖に、はあちゅうの発言は許さない。自分の都合だけじゃんそれ。小児性愛を持つだけなら無罪じゃないのか?twitterにエロ画像貼りまくるのも、実際の被害者がいないならいい、「見なけりゃいい」で片付けてるんだろ?だったら童貞蔑視の意見を発言するだけなのも無罪だろうが。
童貞だからという理由で、職場の上司であるはあちゅうにハラスメントを受けた、今までずっと黙っていたという人間がいるなら、#metooタグを付けて今こそ発言すればいい。それで初めて対称性を持った問題になる。でもお前らそんな被害受けてねえじゃん。
2017年10月14日(土曜日)に、「Ray'z Music Chronology」が無事に配達されました。
いい機会なので、レイシリーズの楽曲ランキングをまとめておこうと思います。
今まではこういうことをやると、ランキングに入った曲を全て聞くためにはいくつもアルバムを揃える必要があったわけですが、これからはクロノロジーをひとつ買えば全て揃いますからね。これは買うしかないですね。
注意事項
購入したのが「通常版」のため、Disc11は聞いてないので、選考からは外されています。なぜ特典版ではないかというと、購入手続きを面倒がって後回しにしていたら売り切れていたからです。その程度なのです、はい。
ランキングといっても、データを集計したり投票を募ったりしたわけではく、ひたすら私が独断と偏見により順位をつけていきます。ひとつの順位に一曲とは限りません。明確な上下を決められない場合、複数曲が入ることがあります。また、同率の場合に後ろの順位を下げるやつ(たとえば1位に2曲入った場合、次の曲が3位になるやつ)はやりません。あれは同率が例外の場合はうまくいきますが、本ランキングでは多用するので、数字が穴だらけになって意味不明になりそうなので。
音楽用語の使い方は適当です。
メロディもさることながら、音色が素晴らしい。突き抜けるような寂寥感。あの寂しい感じは、フォルクローレに通じるものがあるような気がします。そういえば rayons de l'Air でも民族楽器がフィーチャーされていました。
破滅する運命に向かって突き進んでいく荘厳な感じがして、エモいです。エモすぎて死ぬかと思いました。
それと、ラストちょい前にコイン投入音がするのがよいアクセントです。ラスボスを倒す前に全機なくなってコンティニューしたとか考えるとまた一段とエモいですね。
この曲の構成は1位の曲と似ている気がします。開始からしばらくはビートの反復が主体で、途中に一回劇エモなメロディーを挟み、またビート主体になり、最後に劇エモメロディーの無限ループに入り、フェードアウトして終わり。ということで、自分の中でこの二曲はシリーズになっています。
1位と2位の曲は最後の盛り上がりが一番ですが、この曲は盛り上がる箇所が多いです。
この曲には強烈な「飛翔」のイメージがあり、レイシリーズで最も「高度が高い」曲です。飛翔感というのが重要で、高度が高いといっても宇宙空間まで行くと浮遊感が出てきてしまいます。大気圏内にいて、それで一番高度が高い、というのがポイントです。
この曲が似合うといえば、なんといっても空中ステージのボスですね。
レイシリーズの終わりを過去形で感じる曲です。もう終わってしまった、と。
悲壮感はあるのですが、ゲーム設定やタイトルから、人がワラワラいてデスゲームをやっている光景が想起されます。悲しげだけど賑やか、という。
プレステ版レイストームをプレイしているとき、この曲聞きたさに面セレで何度も選んでいました。1分30秒あたりから始まる曲のサビとゲームの進行のシンクロ具合がとても好きです。
50秒から始まるサビの部分が好きすぎる。
ところで冒頭のほうで「クロノロジーをひとつ買えば全て揃います」と書きましたが、あれは嘘です。クロノロジーに入っているこの曲の音源は、セガサターン「レイヤーセクション」用のマスターテープと、レイフォースの基盤なわけですが、私が一番いい音だと思うのは「Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-」のアルバム音源のやつです。はい。というわけでビヨンドも買いましょう。やや出費は増えますが、レイシリーズの楽曲は出会って以来ずっと私のプレイリストで現役なので、あなたも今後ずっと聞き続ければ元はとれます、誤差のようなものです。
真っ暗な空間で水晶(クォーツ)がRayの光に照らされてキラキラしているような、そんなイメージ。
アンビエントを基調としつつ、5分15秒あたりや7分10秒あたりに派手に盛り上がる部分があるのもよいです。
レイシリーズで最も「巨大さ」を感じる曲です。とても巨大なものと対峙しているような、かつ、浮遊感のあるイメージ。まあ、つまりはレイストーム4面ボスです。
特に高音のパートは、自分の能力の極限まで搾り出すような緊張感があり、バトルBGMの白眉ですね。
レイシリーズの終わりを進行形で感じる曲です。終わる、終わってゆく、と。
ゲームの進行的には「聖母マリアよ、二人を何故別々に」であるとか「童話の消えた森」の方が後なのですが、なぜかこっちの方が終わりを感じます。この曲はプレステ版アレンジモードで流れるので、ノーマルモードからプレイしていった場合に、はじめて聞くのはこっちの方が後になりますから、それもあるかも。
そして、レイシリーズで最も「暗い」曲です。他に暗い曲としては「彼女の目的」もありますが、あれは光の無い暗さで、こっちは心理的にも暗いです。4分6秒付近の、ピアノのデン↓デン↓と下がっていくのなんかもうどん底ですよ。
コンヒューマンのためのレクイエム、といったところでしょうか。
この曲を初めて聞いたのはプレステ版レイクライシスをプレイしたときですが、ちゃんと聞き込んだのは「Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-」を購入したときで、その際、これに歌声が乗ったら良さそうだなあ、と思って歌詞を考えたりしました(出来が良くなかったので削除しましたが)。もしも公式に歌がのるならビヨンドみたいに BETTA FLASH がやるだろう、と思っていたので、クロノロジーでまさにそれが実現すると知ったときは震えました。ひょっとして私は TAMAYO 氏の楽曲を聴き続けることにより、氏との思考のシンクロニシティを獲得したのではな(以下略)。
Intolerance のプロトタイプのように感じます。個人的にレイストーム→レイフォースの順に触れたので。
ところでアルバム上では「The Fates」「Doomsday」「Q.E.P.D.」の並びなわけですが、この三曲はなんだかクラシック音楽っぽいなと感じる部分があります。
レイシリーズの楽曲には「アーバンで退廃的なムード」を強く感じるものがあります。アーバンと言っても、都会の中にいるのではなくて、都会を遠くから眺めているような、それも黄昏に、という感じです。なんのことかわからない方もいるかと思いますが大丈夫です、私の中でもフワっとしています。なんというか、この曲のような雰囲気ですよ。
ジャジーですよね。この曲のような、ベースがドゥンドゥンいってる感じは好物です。
おー、テクノだ、って感じですね。
レイシリーズのゲームをプレイしていて、最初に衝撃を受けた音楽はこの曲でした。まだスタート画面なのにすげえの来たぞ、なんだこれ、と。
普通にゲームプレイをしていると絶対に聞けないところでなんかとんでもないことになってるぞ、と、衝撃を受けました。ステージクリア後に次はどこへ行くのだろうというワクワク感を増幅させたような曲。
クロノロジーのロングバージョンではこれまで無かったパートがあって、それもポイント高いですね。
A,Cについては概ねアルバム版に取り込まれているわけですが、このBの後半のループは跡形もなくなっています。聞けてよかった。
アルバム版を聴いてきた経験が長いので、このバージョンは何か、歌謡曲のカラオケバージョンを聞いているような肩透かし感がありますね。
クロノロジーの新曲であり、まだ自分の中で消化できてないので、暫定的にこの順位です。(と書いてて、ふと「消化できたと言い切れる曲などあるのだろうか?」という疑問が湧いてきましたが、さておき。)
7分33秒あたりは「むーにゃにゃー」って歌っているように聞こえるのがちょっとかわいい。
Metaphor とは違った巨大さを感じる曲です。巨人がズンズン近づいてくるみたいな。
曲のタイトル見てると、アストロシティ(1990年代を代表するゲーセン用の筐体)を思い出します。
ジャジーですよね。
一番好きなのは、3:55付近からはじまる「ラーラー」の部分です。
初めて聞いたとき「原曲の音を変えただけのようなものか」と思ってました、すみませんでした。
アルバムの最後の曲がフラッシュフォワードしていたり、レイストームのメニュー操作音みたいな音が聞こえていたりと、小ネタも面白い。
ずっとノイタンツ版を偏愛していましたが、ビヨンドのボックスで改めて聞いてたら、やっぱりいい曲だなあと。
明るい曲調なのですが、「楽しい遊びの時間は終わりだよ、もうお家に帰りなさい」感があって、寂しくなる一曲です。セラミックハートよりもエンディング感があるような気がします。
アコースティックな曲はこれまでにもありましたが、フラメンコを踊ってる現場で録音しているような趣があり、意外な場面でレイ楽曲を使ってるなあという驚きを疑似体験できて面白いです。
セラミックハートのアレンジバージョン。通常版よりもこちらのピアノの方が好みです。
冒頭のほうで「クロノロジーをひとつ買えば全て揃います」と書きましたが、あれはやはり嘘で、このバージョンはレイストームの通常アルバムにしか入っていません。iTunesで普通に売ってるので入手難易度は低いです。買いましょう。
レイシリーズで最も「アーバンで退廃的なムード」の曲です。また、最もアーメンブレイクな曲です。
最も「深さ」を感じる曲です。まったく光のない深海のような。
アルバム版においては、ラスボス曲の前座だなあという感じで印象が薄かったのですが、アーケード版はまるで印象が違います。
レイクライシスの設定的に、ダイブしていたのが現実の近くまで浮上してきて、心臓の鼓動とか医療機器の発する電子音が聞こえてくる感じがします(コンティニューするとまた潜っていく)。ビヨンドのムービーでも医療機器の電子音が鳴ってたりしてましたね。
はい。以上です。これ以降をやると大半の曲を入れることになってしまうので、ここまでです。
いかがだったでしょうか。「あの曲が入ってないのおかしいだろ」という感想を抱かれたかもしれませんが、これは私のランキングですからね、仕方ないですね。あなたも自分のランキングを発表しましょう。待ってますよ。
それにしても、客観的なランキングなぞ端から諦めていますが、主観的なランキングとしても正確なのか自信が持てません。「この曲、本当にこの順位でいいのだろうか」などと考えだすとキリがないですね。まあ、極論を言えば序列をつけること自体が不可能といえます。みんな違って、みんなRAY。ですが、それを振り切ってあえて順位を決めてしまう、そんな蛮勇を振るうのもまた、RAYと対峙する一つの方法だといえるでしょう。
レイシリーズは三部作なわけですが、音楽的にはレイフォースとレイクライシスの方が近い印象があります。ストーリーの連続性もさることながら、 RUBBING BEAT が出たのは NEU TANZ MIX よりも後というのも影響しているかもしれません。
ランキングで何度か出てきた「アーバンで退廃的なムード」の曲は、レイストームには無いと思っています。
クロノロジーを聞くにあたり、レイシリーズは、面クリア型のシューティングゲームであり、自機が戦闘機でラスボスが人工知能、というのは押さえておきたいところです。
音楽が作られる背景には、たとえば宗教の儀式のためであるとか、祭りで踊るためであるとか、戯曲の劇伴であるとか、クラブで踊るためであるとか、そういった理由がある場合がありますが、本作の場合はそれがビデオゲームだということです。
面クリア型のシューティングゲームは、いくつかのステージ(面)で構成され、ステージの中はさらに「道中」パートと「ボス」パートに分かれます。
道中は概ね固定時間で終わり、ボスは倒すまで続きます。(概ね、と書いたのはコンティニューの仕様によっては少し延びるからです。全機失うと、ゲームがポーズしてコンティニューするかどうか尋ねられますが、このときBGMは止まらないゲームもあります。)
なので、ゲームをプレイしているときは、道中の曲はいつも同じ場所で終わり、ボス曲は何度もループする、ということになります。
曲が短かったりステージが長いと道中曲でもループするのですが、そうでない場合は曲の後ろの方が聞けないため、サントラを買って聞くのが楽しみになります。(まあ、聞けている部分であっても、ゲーセンだと音が鮮明に聞こえないのが普通なので、サントラで聞きたくなるものですが。)
レイクライシスのBGMは道中とボスがシームレスに繋がっているので、Disc8のアーケード版は、道中は固定時間でボスはループ、というのが顕著ですね。
近現代の戦場においては、機械が主役です。人間は生身で存在できず、機械のアシストが必要です。
人を戦場へと運ぶ兵器のなかで、戦闘機は特権性を持ちます。人間との関係性が、他の兵器と違うのです。
まず、兵器にとって人間は部品でしかありません。戦艦や潜水艦を航行させるには多くの人手を必要とします。主役は兵器であり、人間は兵器を下から支えるモブでしかありません。
誰も搭乗している敵兵を殺そうとは思っていません。目的は敵の兵器の破壊なのですから。人が死ぬのは機械の巻き添えを食ったときです。民間の船や飛行機ではありえないような危険な運用を求められるため事故も多いでしょう。
人間は兵器の都合によってすりつぶされ死んでゆくのです。
しかし、単座の戦闘機は兵器と人が一対一なのです。そう、単座であるというのが重要なポイントで、爆撃機には複数人で乗りますし、戦闘機でも複座のものもあります。
人間が機械に奉仕させられる戦場において、戦闘機とパイロットの関係は対等に近い。そういう意味で、戦闘機にはロマンがあるというわけです。
過去において、ロマンといえば剣でした。兵器としての剣は決して最強だったわけではない。にもかかわらず(いや、であるが故に?)、力の象徴となっていました。銃の時代になって以降も、文化として継承されています。現在、剣のような象徴性をまとっているのが戦闘機なのです。
フィクションにおいても戦闘機(と剣)は他にない存在感を放ちます。(ここで具体的な作品などを論じるのは、キリがないのでやりませんが。)
レイシリーズにおける戦闘機は、ロックオンレーザーというオーバーテクノロジーを搭載した唯一無二の存在です。
面クリア型のシューティングゲームのプレイヤーキャラクターは、唯一無二の存在でなければ務まりません。敵キャラクターとの武装の非対称性が顕著ですから(対戦格闘ゲームやFPSなどは、逆に敵と味方のキャラクターに対称性がありますね)。
面クリア型のゲームでは、ステージをクリアするたびに難易度は上昇します。
難易度の上昇にともない、対決する敵のスケールも大きくなってゆくことが求められ、その到達点がラスボスです。こいつを倒せば敵勢力は瓦解する、というスケールの敵でなければラスボスは務まりません。
現実においては、国家の最高責任者といえどもただの人であり、いくらセキュリティが厳重であってもゲームでいえば2面あたりで登場するような通常兵器でしかありませんし、倒したところで国が滅びるわけでもありません。
そこで人工知能です。人工知能ならば、ゲーム難易度と敵スケールの頂点であることに説得力があるような気がしてきます。
剣を携えた戦士と神や悪魔、に替わる神話的なモチーフとしての、戦闘機に乗るパイロットと人工知能。
レイフォースとレイクライシスは、主要キャラクターとして認識できるのはパイロットと人工知能だけであり、非常に個人的なストーリーだとみることができるでしょう。一方でレイストームは個人のキャラクターは用意しておらず、モブの人がたくさんいる印象があり、そのへんが「アーバンで退廃的なムード」の有無に出ているのかもしれません。(ビヨンドのムービーは、複数の作品の設定が混ざっている感じがして面白いですね。)
戦闘機を強く感じる曲といえば「生命の風が吹く場所」です。前述のとおり「飛翔」のイメージですし、ゲームの記憶から「翼」も思い浮かびます。
「The Fates」「Intolerance」はラスボス曲なわけですが、この二曲には壮大さや聖性があり、ラスボスへの畏怖の念をかきたてるようになっていると思います。一方、「安置 -Antithese-」は、畏怖よりも滅んでゆくところに重きを置いている気がします。ラスボスの終焉とレイシリーズの終焉が重なって、とても物悲しい気分になります。
最後に。
レイシリーズの音楽は、私の胸の中で決して消えることのない光です。
クロノロジーにより、その輝きはより強くなりました。
今またこうして新作が出たことに感謝します。
現職に就いてから、出勤時も退勤時もコンビニしか開いてなくて、休みはほとんど取らないし、社食が酷いので、結果的に9割以上の食事がコンビニご飯な生活を送っている。
いろんな種類の商品にスライスされたゆで卵が1/2玉分入っているので、コンビニご飯ばかりな生活が続くと、1つの不満が蓄積する。
「なぜみんな回転軸に対して垂直なスライスなんだ!」
卵型と名前が付いているように、卵には回転軸に垂直な鏡面対称性が無い。
だから、どのパッケージを選ぶかによって、白身と黄身の割合が変わってしまう(恐らく、質量は均等に分けているはず)。
私は白身の多い側を引き当ててしまった時に、とても悲しい想いをする。
もう少し黄身を食べる権利を購入したはずだったのに……と。
消費者のクレームが強いこの日本で、こんな不平等が許されて良いのだろうか?
もちろん、世間が現状のようにゆで卵をスライスしたい気持ちだって分からないわけではない。
あんな綺麗な回転対称性があったら、その回転軸を切断したくなるのが人の性だ。
しかし、ここはどうか、パッケージの平等性を保つためにゆで卵を回転軸に対して平行にスライスしてはいただけないだろうか。
ポリコレって差別反対って意味だと思うんだけど、これを使って性差別をしてはいけないっていう言葉に説得力をもたせようとしてる人が多い。
ポリコレって欠陥があって、突き詰めると共産主義になってしまう。
共産主義自体は歴史で明らかに失敗してるわけで、ほぼ同義のポリコレで戦おうとしている事自体が間違い。
現に女性の権利を高めるためにポリコレを振るった結果、男女間の溝が明らかに深くなってる。
新用語のせいでポリコレに信憑性がありそうな気がしてくるけど、対称性を保つことが資本主義である以上無理だから使う事自体が間違い。
別に女性の権利を高めるのは多様性として俺は認めるし、やりたきゃやればいいと思う。
ただポリコレであたかも論理的であるみたいに推し進めているのが間違いで、単純に「女性に苦しんでいる人が多いので男性のみなさんも協力してくれませんか?」でアプローチをかけるべきだった。
これを「なぜへりくだる必要がある!」みたいに自己主張強すぎる方々がポリコレで論理性をもたせた気になって「世界的に標準になってきている考えに乗れていないお前らはアホ、我々の考えを尊重しろ」的に強制するから争いになる。
結論を言えばポリコレを使う事自体が誤りで、協力して欲しいというスタンスを持つことが必要だし、協力することで発生するコストに対してどんな形でもいいのでリターンを払わなければいけない。なぜなら資本主義だから。
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
一般的に広告は、売りたい対象の良いところのみを伝え余り良くないところは伝えたくない、という意図のもとにつくられることが多いです。売りたいので当たり前の行動ですね。
この行動原則に則ると、一般的には、売りたい人と買おうと考えている人の間には情報量に差が発生します。売りたい人が持つ情報量の方が多い状態になりやすい。情報の非対称性という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、まぁだいたいすごく雑に言えばこんな感じです。
一方で私たち消費者もバカではありませんので、広告=売りたい人が出しているのだから不都合な情報をなるべく出さないようにしてる可能性があるよね、という共通認識があります。なので、例えば「これは広告ですよー」と明記することで、先に申し上げた情報の非対称性はある程度は解消される可能性が高い。「これは広告です」という表記は実は割と濃い情報を持っています。
それと同時に私たちは、そのような商品の情報が「報道的」であれば、より真実に近い客観的な密度の濃い情報である、と考えやすいという傾向を持っています。
消費者は、販売者のあの手この手の広告によるなだめすかしをすりぬけつつ、その商品は自分にとって必要性が高いかどうかを判断します。広告はその判断材料の一つでもある重要な情報源のひとつですが、それ以外にも情報を消費者に届ける方法はあります。
それがいわゆる記事広告、PR記事などです。あとクチコミサイトなんかもこれにあたりますが、某べログなどがクチコミデータの改ざんをやったりやらなかったり、問題になっていたりしますし、少し前に大騒ぎになったDeNAのWELQ問題なども、問題の質はまったく異なりますが構造は似ています。
「広告」であることが明確なら、受け取り手は「都合の悪いことがあらわされてない可能性があるな」という心構えで対峙できますが、まるで広告じゃないようなフリをしていると、報道的に(真実味をもって)、その実は金を出している販売者側に有利になる恣意的な情報のみを発信する、ということが起こりやすくなる。
恣意的な情報によって都合よくコントロールされている可能性があるという状態は、市場原理主義的に考えると「悪意の手心を加えられた状態」の市場となっている可能性が高い、というのが、PR表記問題の本質です。
嫌儲的な発想とは似ている、でもちょっと違う。他人が儲かっているのがムカつくということではなく、どちらかというと騙されるのがムカつく、それによって恣意性が産まれるのが健全じゃない、というのが問題。
健全じゃないよね、ということで多くの既存メディアではPR記事には「広告です」と明記してその広告メディアの情報対称性を担保しているのです。
「広告ではない形で広告しようとする」という行動は、消費者と販売者側の情報の非対称性を広げ、健全な市場原理を働かせにくくなる悪意のある行動、という風に捉えられているわけです。
これは、情報の発信者(今回のケースだとヨッピーさんですね)が、仮にいかに真摯に情報を取りまとめていたとしても、「作り手から金貰ってるでしょ」という一点で、市場の健全性が損なわれうる、「そういう構造になってしまっている」こと自体が、危ぶまれるべきポイントです。
ヨッピーの記事はおもろいなー笑うわーと思って読んでいるけど、いつどんな時でも真摯に誠実な態度を取り続けてくれる保証は、本人含め誰にもできないですし、そもそもそれは、一個人に押し付ける類のものでもない。
だから、PRならPR明記する方が、本当はヨッピーさん本人にとっても良い効果をもたらすと思うんですけどね…。
目先に積まれた金にくらくらっときていたりして、それでポジショントークしてるんですかねぇ…。
↑こういう風に受け取られてしまうこともある「構造」ということです、金貰ってPR記事書いて広告じゃない顔をするということは。
このように邪推されてしまうこと自体、「メディア」としてのヨッピーの価値を下げることになってるんだよね、ああいう戦い方をしている人にとっては結構ダメージデカいんじゃと思うんですが、どうなんでしょ。分からんその辺は。
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1609/27/news146.html
フェミニストが完全に納得する回答って、あらゆる性的なイベントを廃止する以外にないよね。そんなの実現不可能だし、やったとしてもとんだデストピアだと思うんだけど。
フェミニストが性的なものを嫌うように、性的なものを好む人だって居る。人の考えや嗜好はそれぞれで、多様な人が折り合いをつけてやってかなきゃいけない。
だけどフェミニストがやろうとしてるのは、自分の考えと合わないものを徹底的に排除するってだけ。そりゃ、白い目で見られるのは当然だってーの。
フェミニスト個人がどんな考えを持とうが自由なんだけど、それをあたかも正義のように押し付けて来るのがウンザリする。お前は正義の代弁者じゃねーっつーの。
この世にはおっぱいを揉みたい男がいっぱい居る。(そうでない男も当然居る。)それはどうしようもない事実なんだ。
その一方で、好きな人になら揉まれてもいい、好きな人の気を引くためにあえて揉ませたい、好きじゃないけどイケメンなら揉まれたい、お金を貰えたり名前を売れたりするなら揉まれてもいいっていう女もいる。
抑止しないと性が乱れるって?別にそれでいいじゃない。性行為が活発になって一体何が問題なんだ。
世の中色んな人が居て成り立ってるわけで。世の中の全員を性的なものから遠ざける権利なんて誰にも無いよ。
そりゃ合意のない性行為は当然良くないけど、合意があればいくらでも好きにすればいいでしょ。本人の意思でやるならヒッピーのようなフリーセックスだって別に構わない。
そうしたいのをダメだダメだと騒ぎ立てて止めさせる権利は一体どこにあるの?
Fondriest これが「フェミ」に対するうまい返しだと思ってる奴は脳味噌が腐ってるな。元々非対称性が問題な所に形式だけの対称性を持ち込んでもなんの反論にもならない
腐ってるのはお前だっつーの。形だけじゃなかったら中身=思想まで変えろってことを言ってるんだろ。思想統制でもしないと満足できないんだろ。お大事に。
miz999 「効いてる効いてる」と勝ち誇るコメントが多いが、これそもそも性的搾取がチャリティの建前で表に出てくることへの根源的疑問から始まってるんだから、男性の性的搾取も同じように問題にできるんだが
性的なものに「搾取」というラベルをつけて排除しようとしてるだけだよね。性的な表現やイベント、サービス等が世の中から根絶しないと、こういう人は満足しまい。
pew 以前のやり方が性差別的であったと認めるならその件について説明するべきだし、認めないならやり方を変えずに正面切って反論すればいい話。論理的でも何でもなく、「チッ反省してまーす」と変わらない幼稚な対応。
問題にするほうが問題だろこんなん。性的なイベントがダメだっていう人が居る一方で、良いっていう人も居るんだよ。いちゃもんに対する説明責任なんてものは存在しない。そもそも論理的でない指摘にどうやって論理的に返すっていうの?
tahatahon いやいや男が参加するからって、セクハラ問題は全然解決してないんだけど……。これで批判もできまい!と息巻いている主催もブコメも浅はかすぎるとしか。/セクハラが当事者だけの問題だと思ってる人も多く更に引く
性的なイベントを排除するのが正義という考えは浅はか過ぎるとしか。そしてセクハラが当事者間の問題じゃないと思ってるのにはドン引きですわ。自称リベラルは存在しない問題をあたかも存在するように言うの得意だよね。性的な表現が嫌いだから見たくないってんなら、一人で目を閉じておけ。
とにかくそれ自体は同意できる論理を述べながらひたすら相手を罵倒し見下す意見を読むのに疲れた。
とにかく差別を批判したり人権を尊んだり正義を主張したりしながら異常なまでに攻撃的な口調で対象の死を望むがごとき意見を読むのに疲れた。
もちろんそれ以前から、人種差別主義者や民族差別主義者や性差別主義者や諸々のあれには疲れ切っているのだが、それの反対者に節度を求めるのは無理筋なのだろうか。
こんな感想は、よくある批判である「一方の側にだけ節度を求める不対称性」になってしまうのだろうか。
あるいはもっとよくある「どっちもどっち」論に堕しているのだろうか。
せめて、言いたくはないが「こちら側」は毅然としようよ、は無理筋なのだろうか。
「丁寧な言葉づかいで、相手を気遣いながら発信」するのがマナーである、とできないのだろうか。例えば具体的なひとりの人物への記述であるなら、その相手がいくら気に入らなくても最低限の倫理を守ったうえでの批判を加える、とするのが共通意識にはならないのか。
とにかく汚い言葉や悪い言葉で気分を害していく中傷好きの面々――はてブの常連にもちらほらいる――に対しては、その論理がいくら正しくても「とはいえその言葉遣いは悪い」となる方向にいかないのだろうか(念のため言うが、「言葉遣いが悪いからその論理も悪い」という方向へは明確にいくべきでないが)。
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208
http://anond.hatelabo.jp/20160606131354
zu-ra ちゃんと読んでないけど、とにかく気持ち悪い。恋愛に解説はいらない。解説せずに気持ちを共有できるのがパートナーなんだよ。
じゃあ顔がキモいだのファッションセンスがゼロだの言わなくても伝わるんじゃないかな^^
Cru 確かに男女逆にしたら評価最悪だ。なるほどー。しかしそれで元増田を攻撃するのはどうか。男女関係には入れ替え可能な対称性はないとまず認めるべきなのかも。
女性のDVは男が泣き寝入りするのがあたりまえだよね~わかるぅ~
suna_kago 先ほどの記事の「怒るコメント」側ですね。駄目男を好きな女の愚痴惚気が、自分を駄目だと思いたくない無関係の駄目男のプライドを傷つけた、ということだと思います。
DVし慣れてる自分をダメだと思われたくなくて傷つけられたプライドを他人に投影しはじめたのかな?
dgen ダメ男を好きになるタイプってことでいいんじゃないの?母性本能をくすぐられて「あなたはダメな人だから私が面倒みてあげる」的な。男だってドジっ子を守ってやりたくなるとかあるでしょ?
atoh “ありのままのアナタが好き”って増田が思ってるってわからないってなんだかもうすごいな。
好きならDVしてもいいよね~わかるぅ~
white_rose 上から目線て言ってる人たちは、童貞でコミュ障で顔がいまいちな人は好かれる理由がないと思ってるぽいんだよな。魅力が特筆されてなくても良いところあるんだろうと普通に思うけど、彼ら自身が信じてないのだろう
「童貞でコミュ障で顔がいまいち」とわざわざ言う必然性がない、という話を全く理解できていない。「おまえが童貞でコミュ障で顔がいまいちでも気にしない」のが事実だからといって「おまえは童貞でコミュ障で顔がいまいち」と発言していい理由にはならない。それをわざわざ口にして「世間一般からしたらおまえのスペックは価値がないけどわたしに愛されてることに価値を見出してね」という典型的なDV・洗脳手法をやってることが悪だという話だ。
skgctom 「自分がしくじった事を素直に認めて謝罪し改められる誠実さ」と「プライドの捨てどころを知っている事」の2点において元増田の彼氏はその辺の男と比べ物にならない程精神が高スペックな気がするんだけど…
書いてもないことを妄想っすかいつどこで認めて改めてプライドを捨ててる描写がなされてるのか意味不明
mukudori69 うすぼんやり感じてたけど、やはり元増田に反感をもつ人は「スペックの低さ」に言及されたことに怒り、そこから全てを邪推してる。信じられないかも知れないが、人を好きになる要因てスペックだけではないんだよね!
Ayrtonism 元増田が「スペックは関係ない」っていうつもりで書いてる文を、この増田は曲解してる。アンサー増田としては低レベルで、さすがにちょっとかわいそう。
fjsk 他者向けのアドバイス記事何だからスペック解説含めた内容になるのは普通じゃ?会話の100%再現してるわけじゃなし。センシティブすぎるよ…
babi1234567890 なんでそんなひねた見方をするんだ。あれは、顔が良くないとか、作法を知らないとか、童貞とか、そういったことじゃないことを重視している女性がいることを示すエールじゃないか。
cauchym 元増田読んだけど、これ「彼氏の良いところを増田に明記してなかっただけの話」に思えた。本筋とは関係ないから。それをここまで叩けるって、偏執というかお客様体質というか。恐ろしい。
「童貞でコミュ障で顔がいまいち」を本当に気にせず愛してるなら口にする必要性がない、口にする時点で改善しろという欲望の発露と見るのは当然。わざわざスペックに触れずにはいられず、自分の好意の理由を伝えられない時点でスペックしか見てないんだなぁと思われるのは上記で述べたとおり当然。むしろ好意があるからDVをしてもいいというのがまちがっているという話だ。
pew だから最後に、相手の事情へ理解を示した上で「私が彼が(に?)自信を与えられるよう〜」で締めてるでしょ。彼氏の経験不足に起因する問題で、どうしてパートナーにばかり理想的な配慮を求めようと思えるのか。
他人に説教するときにブサイク!と叫んでから初めてもセクハラにはならないと、良い社会だなぁ
spiral ヤマアラシのジレンマを軽く思い出したけど、これに引っかかりを感じるってどれだけ自己否定?w 風船に爪楊枝生やしたヤマアラシで誰と会っても破裂して文句言うんだろうな。
morita_non 非モテ(もう死語かも)の典型的な思考、自分のような低レベル人間を好きになる低レベルな人間を好きになることは出来ない。みたいだと思った。
オリーブ油、ごま油と同じようにサラダから作られる油・・・じゃなくて!サラダに使われる油だからなんですよ!
だからサラダをあまり作らないご家庭ならサラダ油を持ってなくても仕方がないんじゃないかな~~~で終わってもいいんですけど、あまりにも短いからWikipediaでも見てみましょうか。
低温下でも長時間結晶化しないように精製されており、サラダドレッシングやマヨネーズのような製品の原料として適している。また、味や匂いにクセが無いことも特徴である。
またサラダは比較的低温で供されるので、低温で結晶化する成分が多いとざらついた食感となってしまう。油脂は多くの種類の脂肪酸を含み、その中で飽和脂肪酸がグリセリンの1、3位に付いた「対称性のよい」ものは低温で結晶化しやすい(この現象は天ぷら油を一週間冷蔵庫に入れるだけでも簡単に観察できる)。このため、サラダ油は精製した油を長期間冷蔵(ウィンタリング (wintering) という)し、固化した成分を分離(脱蝋工程)した後に出荷される。
服装の機能性なんていう「理屈」を追い求めるモチベーションは無かった。
やっぱ工学系の人には伝わらないもんなんだな〜。
服装の機能性に合理性を求めて何をしたいのかっていうと、生活を(君らの感性での意味で)改善したい、とかなわけじゃん。
なんていうか、そういう「日常生活の中に問題を見出して解決する」みたいなのには興味ないんだよね。
サイエンスの目的は自然を「理解する」ことであって、「解決する」ことじゃないんだよね。伝わらなさそうだけど。
サイエンス、特に数学とか物理だと「美しい」というのが非常に重要で、これは極めて深遠な対称性があるとか、ある種のユニバーサリティがあるとか、そういうものを指すわけだけど、その意味では「機能的であること」って全然美しくないんだよね。なんか目的ドリブンで物理的必然性の無い要素がゴテゴテついてる感じで。