はてなキーワード: windows 2000とは
俺の一番の長所は運の良さで、幼少期から35歳の今までずっとツイてきた。
なぜだか分からないが、本当にずーっと人生に追い風が吹いており、思い返すと不思議なほどにツイている。
俺ほどに強運が継続している人間は日本にほとんどいないと思うし、運の良さで生きてこれたので自慢したい。
長い文章だが、とにかくずーっとツイているので長くなるのは仕方がない。
夏目漱石の「坑夫」という小説に、主人公たちの腹が減ったらたまたま近くに飲食店があり「大袈裟に云えば天佑である」とコミカルに述べた部分があって妙に印象に残っているのだが、俺の人生はまさに天佑の連続なのだ。
WinNTSetup は、主に大規模展開を目的として、Windows オペレーティング システムをインストールする前にカスタマイズするように設計されています。
インストール中に、約 2MB の Microsoft アプリである Windows アセスメント & デプロイメント キット (Windows ADK) をダウンロードするように求められます。
インターフェースは非常にユーザーフレンドリーなようです。このタブは 2 つのタブに分かれており、1 つは Windows 7 以降用、もう 1 つは Windows 2000、XP、および 2003 のみ用です。理解できないものの上にマウスを置くと、バルーン ヒントが表示されます。
Windows インストール ファイルの場所、ブート ドライブの場所、およびインストール ドライブの場所を選択する必要があります。パッチ UxTheme.dll、無人インストール、ドライバーの追加、ドライブ文字の事前割り当て、モード、微調整、VHD (仮想ハード ディスク) などの追加オプションが提供されます。
25 の追加調整を備えた設定ボタンがありますが、それらは古いオペレーティング システムに適用される標準的な調整に重点を置いています。例としては、「へのショートカット」矢印の削除、システムの復元の無効化、XP スタイルのタスクバー ボタン、クイック起動の表示などが挙げられます。 Windows 10 と 11 のユーザーは、Cortana やその他の不足している設定を削除することによりプライバシーに関心を持つようになりました。私たちの多くが使用しているもう 1 つの不足しているオプションは、ドライブのアクセスを高速化するためにインデックス作成を無効にすることです。
與謝野 馨(よさの かおる、1938年〈昭和13年〉8月22日 - 2017年〈平成29年〉5月21日[1][2])は、日本の元政治家。勲等は旭日大綬章。通常は新字体で与謝野と表記。
趣味はゴルフ、パソコンの自作、囲碁、写真撮影、天体観測、釣りなど多岐にわたる。
囲碁の腕前はアマ七段で、政界最強とも評されている。2007年10月に実力者の小沢一郎と勝負したが敗北した。小沢はアマ六段なので「政治的配慮ではないか」との憶測も流れたが、与謝野本人は「本当に負けた」と認めている[45]。最近はインターネットの囲碁対局サイトも利用し、ハンドルネームは「かおる」を使用しているため対戦相手から女性と誤解されることが多いらしく、麻生太郎にネタにされている[46]。
Linuxやオープンソースの動向など情報技術に造詣が深い、と称している。1999年から2013年時点で自作パソコンを合計20台以上組んでおり[47][48][49][50][51]、うち一台はMicrosoft Windows 2000、Microsoft Windows XP、TurbolinuxなどのOSを使い分けている。パソコン自作の技術について「部品が梱包から解かれて机の上においてあると、1時間くらいで組み立てられちゃって、OSのインストールまで2時間くらいでできてしまう」[38] と語っている。秋葉原で部品を買うのが趣味だったというが、通っていたのがオウム真理教関係のPC店マハーポーシャだったと後で気付いた[52]。ビックカメラやTWO TOP、USERS SIDE、T-ZONEなどの各店舗もよく利用している[38]。老眼の影響もありモニターとキーボードについては、人間の眼と指とが生身で接する重要なヒューマンマシンインタフェースという持論から、IPS液晶とキーボードについては国産メーカーのものを評価している。
与謝野が情報技術に詳しいと聞いたニワンゴは、2008年自由民主党総裁選挙に際し議員会館で「ニコニコ生放送」へ出演を打診した[53][54]。与謝野本人は不在だったが与謝野の秘書が応対し、後日、出演依頼を断っている[53][54]。
増田の知りたいWindows 2000ではないが、開発部署でWindows1000がたくさんいる部署にいるのでその話をしよう。
私は大手SIerでWindows 1000が見渡す限りあちこちにいる部署で働いている。
渡されるPCは2GBのPCどころかシンクライアントというモッサリモサモサのIEとOfficeしかまともに動かないPCもどきである。
流石にこれでコードを書かせることはないが、IEの使いにくい社内システムを使って事務作業をする毎日である。
ただWindows 1000は別に残業時間が短いというわけではない。恐ろしく低い生産性のもとで月40時間ぐらいは残業しているのである。
実は大手SIerのWindows 1000や、商社のWindows 2000 (おそらく部下なしで課長相当のポジションが多いだろう)が
1000万や2000万を働かずに貰えるのはからくりがある。
ここには管理職があまりいないので実感がわかないかもしれないが、管理職以上の間は古い大企業においては
未だに異常なパワハラやセクハラが横行している事が多い。飲み会での暴力や休日での強制ゴルフ、女性であればセクハラといった
表沙汰にならない事件は日常茶飯事なのである。しかしWindows 1000やWindows 2000は、年上ということもあり、
そのような〇〇ハラスメントの常連と言った連中(特に上級管理職に多い)の扱いが非常に上手い。
こういう人たちがいるからこそ、上級管理職の各種ハラスメントが一般社員に被害を及ぼさずに業務を円滑に推進出来るのである。
またこのような人たちは潤滑油として、ネットサーフィンをしつつ毎日残業して社内に存在していることが重要である。
2000年前後のインターネットを知っている老人会の皆さんは知っているだろうけれど、それまでパソコン通信では確認されていたオタク女というのは極少数だった
それは様々な理由があるだろうけど、オタク女が少なかった要因の1つには「コミック・アニメカルチャーとコンピュータカルチャーが今ほど混ざり合って居なかったから」というのはあると思う
少なくともPC98シリーズなどである程度のライトなオタクにまで花開いた日本のコンピュータカルチャーの時代では、まだまだコミック・アニメはアナログの時代だった
発色数がこうだの発音数かどうだのとパソコン通信でオタク女と語り合った記憶はほぼ無い(パソコン通信の頃は実名で活動しているユーザも多かったのでハンドルと実名がイコールで結ばれていることも少なくなかった)
オタク女がバッシングされるようになった経緯を知らないユーザも今では多くなっただろうけれども、その契機はWindows 2000とWindows XPの時代まで遡る
これらMicrosoftのOSがリリースされるとインターネットの人口は一気に増え、主にコミック・アニメを取り扱う電子掲示板のコミュニケーションで衝突が起きるようになる
それはネットワークを介したコミュニケーションに慣れていない新規ユーザーが一気に増えたことにより、住み分けという意識がなく今で言うBLネタを投下しまくったという歴史的事実がある
これがまた悪いことに新規ユーザーの大半は若い世代だったので直情的な傾向があり、注意を受けても反発する、ほんの少しの時間を置いて繰り返すなどの行動を頻発させた
あまりにもBLネタがヘイトを集めすぎたため、そこで起きたのが電子掲示板の分割である「BL隔離板」の発生だ
例えばわざわざBL系同人サイトにまで嫌がらせがあったというのを当時リアルタイムで確認しているが「なぜそこまでのヘイトを集めていたのか?」というのが語られていないので上記しておく
そしてそれだけじゃない、ほぼ同時期に問題視されていたネットミームがある
こちらはオタク女の皆さんも「そんなのは極一部」「私達は関係ない」と言うだろうが、大きな属性として同じ括りに居る人間として歴史を直視してもらいたい
「女神」はネットミームで言うところの「神」から派生した言葉だが、その内容は「女としての特徴を活かした人気集め」だ
内容としてはそれらよりも過激な面はあったが大体の認識として、少し前の「女生主」や、現在の「女性Youtuber」とほぼ変わらない
例えばオタク女へ対して「まーん」という蔑称ミームが使われること過去(もしかしたら今も)あるかも知れないが、これは大半は「女神」属性を持ったオタク女へ使われた言葉だった
これら住み分けの杜撰さと女神を契機としてインターネットの雰囲気は一気に変わった
これを無視してオタク女はオタク男にイジメられていたなどという発言は厚顔無恥と言わざる得ない
付け加えて言うが、これは「オタク女の先輩たちがインターネットでやらかした過去の失敗であって、その反省は多少されており、反省したあとのインターネットに触れた新しい世代オタク女は昔ほど酷くはない」と強調しておく
年齢で言えば若くても30代より上の世代の話なので「先輩もやらかしてたんですね」と笑ってあげて欲しい
このエントリはオタク女をバッシングするために書いたものではない
ただ厚顔無恥な連中へ対して当時のことを思い出させようとしているだけだ
Windows 95 Alt+漢字。秀Capsなどサードパーティのユーティリティを使うことで漢字だけでオンオフできるようにしていた。
Windows NT 3.51 ?
Windows 98 Alt+漢字がデフォルト。MS-IME 98の設定を変えれば漢字キーのみのオンオフが可能だったらしい。
Windows NT 4.0 Alt+漢字がデフォルト。Windows 98と似たような感じだった気がする。
Windows 2000 ? 怪しい
Windows Me ? 怪しい
Windows XP 気付いたら漢字キー単体でオンオフがデフォルト動作になっていた。
分からない
・本当に人が足りない会社はある
・人が足りないからと言って技術者(労働者)が大切に扱われる事はまずない
・実情を知らずに毎年、新卒や新人が迷い込んでくるせいで潰れるほど深刻な会社は少ない
・実情を知らずに毎年、新卒や新人が迷い込んでくるせいで潰れるほど深刻な職場も少ない
・web業界は優秀な技術者が不足している・SI業界は奴隷が不足している
・人手不足な現場で学べることはプログラミング以外、今いる会社・職場限定の技術である事が多い
・人手不足な現場で学べることはプログラミング以外、今いる会社・職場限定の知識である事が多い
・人手不足な現場で学べることはプログラミング以外、今いる会社・職場限定の価値観である事が多い
・効率の悪さを技術者(労働者)の努力でカバーしている会社が多い
・不便な自社システムの素晴らしさを語る管理職のおっさんがいる
・業務量が多いわりに新卒だろうと短期で成果を求める会社や職場が多い
・名目上やる事は1つでも実際は雑用含めて50以上の業務を同時進行させてる現場が多い
・忙しさを美徳としている人が多い
・謎の社畜自慢をする人がいる(有給なんて未消化のまま消滅して当たり前だぜ)
・Windows XPが当たり前のように存在する
・Windows 2000が当たり前のように存在する
・COBOLが現役
・分厚い紙の仕様書も現役
・気に入らないことをされると間違ってなくても怒る上司が存在する
・フレックス制を導入している事が多い(コアタイム9時~18時など)
・有給を取ろうとすると怒られる
・就労に対する不満を口にすると村八分ならぬ職場八分もしくは社八分になる
・技術者(労働者)に対する社内での行動制限が人権を無視している
・なぜか技術者(労働者)の扱いが雑、客や営業から高圧的な態度を取られる事が多い
・1日の生活サイクルが出社・退社・就寝になる事が多い
・働き方改革?なにそれ
・自己都合で優秀な人がどんどん辞めていく
何なんだよMicrosoft。
どうすんだよ録画できてねーじゃねーか。
何がProなら設定できますだよクソ。
Windows Updateの設定だけで1万円以上も出せるかボケ。
まあ百歩譲って勝手に再起動する事は告知もあるし良いとするよ。
強制アップデートした挙句に不具合が出るってどういうことだよ。
内部でちゃんとチェックしてんのかよ。
ネットに全然接続できなくなって治るまで凄いストレスだったぞ。
というかシャットダウンに種類があるなんて初めて知ったぞ。
ふざけんなMicrosoft。
ただHomeを不便にしてPro買わせようとするのほんとやめろ。
見た目はWindows 2000で十分なんだよ。
コンピューターはダサくて上等だよ。
使ってて楽しいとかそんなの良いんだよ。
Windows Meユーザーを救済しなかった事もずっと覚えてるからな。
日本の伝統的な組織体系だと、だいたいPC購入の裁量権を持った人は40代後半か50代の部長、総務部長あたりである。
だいたいこのあたりの中間役職は、売上業績アップと、コストカットの数値を眺めるのが生きがいの職である。
大きなフロアに、島式の向かい合わせ席をいくつか作り、誕生席に役職が座るという、これまた日本の伝統的な職場配置で、
役職が使うPCはWindows XP、Office 2003、メモリは1GB、ハードディスクは120GBで1280x1024のモニタといったところである。
何年か前に、客先からOffice 2007のファイルが送られてきたが、さんざん大騒ぎした挙句、
ファイルコンバーターをインストールすれば読み書きできることを知ったらしい。不幸か幸いか、未だにOffice 2010以上で
作られたファイルが送られてきたことがないことから、客先も似たような現状なんだろう。
ちなみに客先の従業員PCはインターネットに繋がっておらず、閉じたイントラしかなく、XPにSP2こそ入っているようだが、
その後のサービスパックが一切当たっていないPCが殆どで、今年の1月に、いつPCのリプレースしますか?と聞いたら、来年まで予定はないそうな。
来年というのは年度なのか、文字通り2014年という意味なのかはわからないが、おそらく来年もリプレースの予定はないのだろう。
Windows 2000が現役で稼働している現場だし。
話が脱線してしまったが、部長はエロサイトを見るのが好きらしい。
この前、閉じても閉じてもポップアップウィンドウが表示されて、利用代金を支払えみたいな内容が表示されると困っていた。
「よくある架空請求の類だから無視しておいていいですよ。」と助言しておいたが、その後どうなったかは知らない。
俺氏「部長、Windows XPのサポートが今月4月8日に切れるんですけど」
部長「知ってるよ。でもまだ使えるよね?どこも厳しいんだ。使えるうちは買い換えるお金は無いよ。」
「変なサイトとか見てウィルスとかに感染しないように注意しなさい」
「「お前が言うか!」」と言いたいのグッとこらえて、まあ予想通りの答えが返ってきて安心した。
というわけで、これからもWindows XPを使い続けます!
Windows XP + Office 2003
の組み合わせがよかったな、と思うのだけど、
自分のメイン機は
Windows 2000(&ME) + Office 2000
Windows Vista + Office 2007
だった期間が長くて、今また
の組み合わせで更新しようとしている。。。
別にそこまで致命的に使いづらいわけでもないのだけど、
明らかに割を食っている感が強い。
意地でも買うもんかという風になってしまって周期がずれたのがきっかけだった気がする。
多分今買おうとしている組み合わせも誰得機能ばっかりで使いづらいのだろうと思うけど
このタイミングで古いものを買うのも気が引けるいうのもあって、このところ悶々としている。
以上。
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。そういうことにしろください。
10年前、20代になったばかりの頃の僕は、今思えば本当に最低な生活を送っていた。高校を中退し、実家とは疎遠で、友達もなく、金もなく、夢も希望もなく、ただバイト先と自宅を行き来するだけの毎日。いつも視界には霞がかかったようで、底の見えない空虚さだけが僕の心を支配していた。
それでも趣味らしいものはあった。オンボロマシンにRedHatを入れ、ダイヤルアップの細い回線で自宅サーバを立て、Perlでガラクタのようなプログラムを動かす。そんな子供じみた遊びだけど、プログラムを組んでいるときだけは空虚さを忘れ、画面の中に没頭できた。
ただ、そのときの僕はもうすでにいろんなものに打ちのめされていて、若者にありがちな全能感などというものは霧散していた。自分がプログラミングで何かを成すだとか、それを仕事にしようなんてことは一切頭になかった。このまま夢も希望もなく人生を終えるのだと、そう思っていた。
それでも転機は訪れる。
勤めていた工場で派遣切りにあった僕は、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」とか言いながらニート生活をしていた。そろそろ翌月の家賃も払えなくなってきたころ、派遣会社から電話がかかってきた。「プログラム開発の仕事があるんですがやりませんか?」と。そういや履歴書だかスキルシートだかに、Perlがどうたらとか書いたっけ。実務経験もない中卒に仕事まわすとかwww ……とは思ったものの、このままでは本気でホームレス一直線だったので引き受けた。
派遣された先は従業員数10人くらい、パートさん含めても50人くらいの小さな会社だった。現在手書きの伝票でやっている処理をWeb化したいのだという。システム担当者はおらず、事務員さんがExcelやAccessを使える程度。すべて僕一人でやらなければならない。マジか。
ともあれ、まずはサーバである。後々の運用を考えるとLinux系は使えない。事務所の片隅に放置されていたWindows 2000マシンにApacheを入れてそれでよしとした。
次はデータベース。でもこの頃の僕は「正規化ってなんれすか?」というレベルだったので基礎から勉強した。なんかMySQLってのがいいらしい→社長に申請→「今Access使ってるからそれでいけ」→「はい」→パフォーマンスの面で問題出るだろうなとは思ったがしょうがない。
次は言語。最初はPerlで書こうと思ってたけど、PHPってのが流行ってるらしいのでこっちにした。ウホッ! いい言語……。
そして業務内容を把握するため、現場をあっちこっち駆けずり回りながらヒアリングする。ときには部長から愚痴を聞かされ、ときにはパートのおばちゃんから誘惑され、そんなこんなを繰り返し、仕様をつめていく。
そして数ヶ月かけて開発したシステムの稼働である。そのときのことは今でも忘れない。
現場の人がラインからデータを入力する。サーバにデータが送られてくる。別の事業所からも送信されてきてる。問題ない。事務員さんが伝票処理を行う。問題ない。すげえ、ちゃんと動いてる。お遊びで作ったプログラムではなく、本当に本気の業務用プログラムである。それを僕が1人で作ったのだ。このプログラムで業務がまわり、利益を生み出すのだ。社会に対して、何らかの作用を及ぼすのだ。僕みたいなクズにでも、そんなことが可能だったのだ。
そのことに気付いたときの感動を、僕は今でも忘れない。
それからちょっといろいろあって、ホームレスになった。うん、急展開なのはわかってる。でもこの間のことは語ってもあまり面白くないし、公序良俗に反する話もあるのでざっくりはしょる。どうせフィションなんだから細かいことを気にしてはいけない。
話を戻そう。
ホームレスになってからの数日はひどい精神状態だった。足元から世界が崩れていく感覚。視界がぐにゃりと歪む。帰りたい。でも帰る家がない。だからホームレスというのか……というトートロジーを何度繰り返しただろうか。
もうあまり覚えていないけど、このときの僕は本当にもう何もかもどうでもよくなってたと思う。ただ、自分の全財産がバッグ1つしかないということに対する心地よさ、開放感があったのはよく覚えてる。そんな状況で地べたに座り込んで見る風景。きっと、今はもう見えない。あの頃の僕にしか見えない風景が、そこにはあった。
いろんな人と出会い、流れ流れて、最終的に西成のあいりん地区にたどり着いた。関西圏の人には説明不要かもしれないけど、よく言えば日雇い労働者の街、ぶっちゃけて言えばホームレスのメッカである。今はもう綺麗になってしまったし、治安もそこそこよくなったけど、僕がいた頃はまさに「カオス」としか表現のしようがない状況だった。
どこから持ってきたんだといいたくなるようなガラクタばかりを並べた泥棒市。簡素な骨組みにビニールシートをかぶせただけの飲み屋。「ないかーないかー」と声が聞こえてきたので見てみると、警察署の近くなのに道端で堂々と丁半博打をやっている。コンビニのトイレの張り紙には「トイレが詰まる原因になるので注射器を捨てないでください」とある。いやトイレが詰まるとかの前に気にすることがあるだろ。ケンカなんて日常茶飯事。頭から血を流したおっさんが普通に歩いてる。数百人規模で並ぶ三角公園の炊き出しは圧巻。四角公園の炊き出しでは誰もいない場所にワンカップの瓶とかがたくさん並んでる。何かと思って聞いてみたら「あれで並んどることになってん」と返ってくる。学食の席取りルールみたいだ。ああもう全然書ききれない。
でも一番印象に残っているのは、南海線の高架下、うず高く積まれたゴミ山の前でガラクタを解体していたおっちゃんのこと。奇声を発しながらハンマーを振り下ろしていたおっちゃん。その両目は、これ以上ないほどにキラキラと輝いていた。その鉄屑を売った金でビールが何本買えるか皮算用でもしているのか、あるいは幸せになる魔法の薬でもキメているのか、そのときの僕にはわからなかったけど。
そして、人生を投げ出していた僕に付き合ってくれたおっちゃん、あなたのことも忘れません。モーニングをおごってくれて、いろんな話をしてくれて、聞いてくれて、役所の福祉課まで連れて行ってくれたおっちゃん。あなたがいなければ、僕は今でも西成でぬるま湯の日々を送っていたかもしれない。
いろんな人に助けられて、ホームレスの施設に入ることになった。舞洲という人工島にあるのだけど、これがまた周囲に何もないのだ。スポーツ関連施設、ゴミ処理場、物流センターが点在するくらい。コンビニ1件ありゃしない。だけど施設での生活は意外にも楽しかった。2段ベッドが6つ並んだ12人部屋。むさくるしいけど、みんなバラエティに富んでいた。刑務所上がりのいかついおっちゃん、虚言癖のひどいおっちゃん、ほとんど一日中寝てるじいちゃん、薬のフラッシュバックがひどい兄ちゃん。そんな人達の中で過ごせば、自分がどれほどクズであっても気にならない。やはり僕はこちら側の人間だと再認識した。
市街地にある施設へ移ってからはいろんな仕事をした。生駒の山奥にドブさらいに行ったり、事務所移転のバイトで腰をやってしまいそうになったり、なんやかんやあったけど、長くなるのではしょろう。結局のところ、またプログラマをすることになるのである。
そろそろ身バレしそうな領域に入ってきたのでここでもう一度強調する。このお話はたぶんフィクションです! たぶんフィクションです! 大事なことなので2回言いました。
そう、またプログラマとして働くことになった。今度は従業員数300人くらいの大きな会社である。日本人なら誰でも知ってるであろう大企業の子会社ということもあり、本社からの出向社員は東大京大卒当たり前みたいな状況。そんな人達の前で中卒の僕が前に座ってプレゼンやら仕様検討会やらをするのだ。何の罰ゲームだよ……。
最初に思ったのは、「ここにいる人達は育ちがいい」ということだった。みんな礼儀正しい。喋り方や立ち居振る舞いまで、今まで僕がいた世界とは何もかもが違っていた。まるでドラマに出てくるような「ちゃんとした人生を送っている人達」だ。そんな人達に囲まれていると、「生きていてごめんなさい」と言いたくなる。本当に。
他に驚いたこと。社内で連絡を取り合うのにメール使ってる。やばい。社内メーリングリストとかもある。やばい。定期的にミーティングとか勉強会とかもする。なにそれ怖い。自分がいっぱしの社会人になったかのような錯覚に陥る。ちょっと前まで西成でゴミ拾いのバイトしてたのに。「勘違いするんじゃない! 西成の日々を思い出せ!」と何度も自分に言い聞かせ、自我を保った。
とはいえ、萎縮してばかりもいられない。気付いたことはどんどん提案した。あちこちに散らばっている共通の処理をライブラリ化したり、サーバで負荷がかかっている部分を改善したり。却下されたものも多かったけど、採用されたものもそれなりにあった。業務の改善案を考えるのは楽しい。誰かがプログラマの三大美徳に「無精」を上げていたっけ。極度のめんどくさがりで、楽をするための苦労は惜しまない僕には、こういう仕事は天職なのかもしれない。
システム開発の方も順調に進んでいた。この頃はMicrosoftですらWeb版のOfficeを出すような状況で、デスクトップアプリに比べても遜色ないレベルのWebアプリがどんどん出てきていた。この会社で開発しているのも、そんなAjax技術を多用したWebアプリだ。JavaScriptを用いた本格的な開発に最初はとまどったけど、書けば書くほど言語が自分の手に馴染んだ。クロージャ、prototypeといった基礎をちゃんと学ぶと、書けるコードのレベルが段違いに上がっていくのが楽しかった。
仕様にもこだわった。実際に使う人がどんなふうに操作するのか、何度も何度も脳内でシミュレートし、どんなUIが最適なのか、データ構造はどうするべきか考え、実行速度とメンテナンス性の板挟みに苦しみ、何度も何度もリファクタリングを繰り返す。
そのとき開発していたシステムは、メイン画面でほとんどの処理を行うタイプのものだったのだけど、そのメイン画面のJavaScriptコードは最終的に1万行を超えた。もうこの頃にはJavaScriptでのオブジェクト指向的な開発手法というものも自分なりに構築されつつあった。そしてこのカチャカチャとした手触りの、安物のオモチャのような言語は、僕の一番好きな言語になったのだった。
そんなある日、僕が作ったシステムのメインユーザーである他部署の偉い人が来て、開口一番こう言った。
この機能が素晴らしい、とか、あの発想はなかったわ、とか、とにかくべた褒めして、そして去っていった。機能追加要望の前口上だと思って身構えていた僕は拍子抜けした。「あの人が他人を褒めることなんてめったにないよ、すごいね」と近くの席の人が言う。
どこにもはまることのない歪な歯車。その僕が、社会という大きな機械の中に組み込まれる音だったのだと思う。まあすぐに外れてしまうのだけど。その一瞬だけは、僕は確かに社会の一部になれたのだ。
これからどうするか? 今の技術力ならそれなりのところに就職できるかもしれない。でも僕にはやってみたいことがあった。半年かけて海外を旅するのだ。
今、僕の手元にはまとまったお金がある。こんなのは人生で初めてのことだ。そして僕は今、どこにも所属していない。どんなところに行ったっていいし、何をしたっていい。この先、そんな状況がどれだけあるだろうか? 人生長いのだ、そりゃあ何度だってあるかもしれない。でも今回やりたいことをやらなかったのなら、僕はきっと何度だってやらずにいるままだろう。
もちろん怖くなかったわけじゃない。なにせ海外なんて行ったことがなかったのだ。ずっと極貧の生活をしてきた僕は、国内旅行だって満足にしたことがない。
いろいろと考えた。ない頭を使って考えた。自分の英語は通じる? 病気になったときは? 荷物をなくしたら? あれこれ考えると心配事ばかりが頭をめぐって、わけがわからなくなる。
最終的に決定打になったのは、自分が何も持っていないという、この状況だった。
そう、僕は何も持っていない。家族も友達も、夢も希望も。だけど、そんな人間だからこそできることがあるんじゃないかと思ったのだ。何も持たないからこそ、どこにだって行けるし、何にだってなれる。それはタロットカードの「愚者」みたいなものだ。愚かな者は恐れも何も知らぬからこそ、無限の可能性を秘めている。
心を決めたら後は早かった。
パスポートを取得した。航空券を手配した。住民票を海外転出した。トランクルームを借りた。住んでいた部屋を引き払った。
空港へ向かう電車の中で、懐かしい感覚に襲われた。あの日、ホームレスになったばかりのころの感覚。世界が足元から崩れていく感覚。でもあのときとは決定的に違うことがあった。それは、今回は自分が望んでこうなったのだということ。流されるまま生きてきた僕が、初めて自分の人生に対して主導権を得た。それだけが決定的に違っていた。それだけで十分だった。足の震えは、これからの旅路への、期待に対する震えなのだった。
自分とは異なる人種、異なる言語。街の看板すらまともに読めない。レストランの注文すらおぼつかない。ちょっと電車に乗るのも大仕事だ。それでも時間をかけてひとつひとつなんとかしていった。
見知らぬ街の匂い、喧騒、バケツをひっくり返したようなスコール、旅の中で出会う怪しい人、優しい人。僕の前でたくさんの風景が流れていく。
川辺のレストランで昼ご飯を食べた後ボケーッとしていると、猫が膝の上に乗ってくる。動くのもめんどくさくてボケーッとしてたら日が暮れてた。そのまま猫と一緒に晩ご飯を食べた。そんな日もあった。
長距離列車に乗っていたとき、車内食にピーナッツバターのようなものが付いていたので、普通にパンに塗って食べた。でも梅干的なものだったらしく、めちゃくちゃ酸っぱかった。「すっぱ! すっぱ!」とかやってたら向かいの席の女の子が爆笑していた。僕も笑った。そんな日もあった。
最初は少し移動するのにも大変な思いをした。でもいつの間にか、ローカルバスに乗って気ままに旅するようになっていた。
たどたどしかった英語も、日常会話程度なら普通に喋れるようになっていた。
いろんな国のバックパッカーにもたくさん出会った。お互いつたない英語でやりとりするのも楽しかった。今度は彼らの国にも行ってみよう。だからいつか世界一周に出ようと、僕は心に決めた。
こんな旅に出たところで自分は何一つ変わらないと思ってた。でも、何かが変わってきている。それが何なのかはわからない。たとえば図太さだったり、適当さだったり、そういうのもあるのだけど、何か違う。それよりもっとプリミティブなもの。感情になる前の感情、行動になる前の行動。マグマのような熱量を持ったドロドロとしたものが、自分の中に渦巻いているのを感じる。それがいつ形を成すのかはわからない、今はまだ。だけどいつかどこかで、忘れた頃にひょっこり出てくるんじゃないかと思う。そのときを楽しみにしていよう。
そして夢のような日々は終わる。
日本に帰ってきたとき、手持ちの金は10万以下だった。部屋は解約していたので住むところもなかった。普通にホームレスだった。僕は焦らず慌てず、西成へ向かった。
しばらくはドヤ(安宿)に泊まった。一番安いところなら500円から泊まれる。西成はいいところだ。
前の会社から戻ってこないかと誘われたけど、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」と言って断った。
いや働きたくなかったのは本当だけど、もう1つ理由があった。職業訓練で組み込み系を学ぼうと思っていたのだ。
スマートフォン含むタブレット端末の市場がこれからも拡大していくのは間違いない。そうすると必要になってくるのは組み込み系の知識。いやアプリ作るだけなら必要ないかもしれないが、そういった知識があれば、自分ができることの幅がぐんと広がると思う。
それに、今の僕には基礎的な力が圧倒的に足りない。すべてを独学で、我流でやってきたけど、やはり限界を感じる場面が多々あった。だから今回ちゃんと体系的に学んで、足元を固めようと思ったのだ。
結果的には正解だったと思う。本当に基礎の基礎から学べた。
ブレッドボードを用いて回路を組むところから始まって、アセンブラ、C言語、組み込みLinuxでのデバイスドライバ開発、アプリ開発。これまで高級言語の十分に進化しきった部分にしか触れてこなかった僕にとっては、どれも難しかったけど、どれも面白かった。これからどういう道に進むかまだわからないけど、ここで学んだことは絶対に無駄にならないと思う。
そうして職訓で勉強するかたわら、悶々と考えていたことがある。世界一周についてだ。
今はまだ金もないし、そんな金を稼げるあてもないのだけど、いつか(たぶん10年後くらいには)行こうと本気で思っている。
ルートだけでも今から考えておこうと思って、いろいろと旅程検討アプリを試してみたのだけど、どれもいまいち使い勝手が悪い。海外のものも含めて探しまくったけど、自分が思うようなものは見つからなかった。
だったらもう自分で作るしかない。せっかくだから就活のときにポートフォリオとして使えるよう、ちゃんとしたWebアプリを作ることにした。
最初の1ヶ月は地図APIの選定と、検証コードを書き捨てるだけで終わった。
2ヶ月目は基礎部分の構築だけで終わった。
3ヶ月目に本気を出し、ほぼできあがった。
そしてベータ版をリリースした。 http://planetter.com/
それが先週の話。
だからこのお話はここで終わりだ。正確に言うなら、ここから先の展開はまだわからない。
10年間を振り返ってみて思う。あの頃と比べて、何か変わっただろうか?
家族や親類とは縁が切れたままだし、いまだに人付き合いは苦手だし、金はないし、夢も希望もない。それは今でも変わらない。ただ、あの頃あれほど感じていた空虚さは、跡形もなく消えている。
西成の高架下で見た光景を思い出す。ガラクタを解体していたおっちゃん。あのキラキラした目。たぶんあの瞬間に僕は、自分にとって一番大切なものは何なのか、心の深い部分で理解したんだと思う。
世界一周だなんだというのも本当はどうでもいい。僕はただ、いつだってドキドキしていたいのだ。
初めて人を好きになったときの気持ち。知らない街で暮らし始めたときの気持ち。そして、プログラムが思い通りに動いたときの気持ち。
それを持ち続けていたいのだ。いつだって新しい世界にワクワクしていたいのだ。
ふと目を閉じれば、まぶたの裏に映る、あの日のメッセージ。
"Hello world!"
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。でも、ここに綴った僕の想いは、ノンフィクションです。
2003,2008を使ってるサーバーなら3~6は自動化できるよ
微妙にやり方は違うけどね…
2008以降
http://tarkyon.net/microsoft/os/server/win2008/event-and-task/page2.html
http://technet.microsoft.com/ja-jp/library/cc722414.aspx
パフォーマンス カウンターを監視するためのデータ コレクター セットを作成する
2003向け
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NT/WinReadersOnly/20040325/286/
Windows 2000 Serverを離れた場所に設置していますが,ディスクの残り容量が少なくなったときに自動で知らせることはできますか?
http://pnpk.net/cms/archives/2091/all/1
Windows XP、Server 2003のイベントログを監視する方法
(For Beginners)
(For Windows)
(For Mac)
(In case you are using shared computer)
(Information)
http://h50222.www5.hp.com/support/FH486PA/drivers/os_1093.html
が、このドライバだけだとまともに動かないので、英語版のページから落としてきたほうがいい
filename | schema | ver. |
sp38978 | ROMPaq for HP Notebook System BIOS (68VGU) - FreeDOS Bootable Media | F.02 (2008/04/02) |
sp38852 | Essential System Updates for Microsoft Windows XP (Service Pack 2) | 2.00 R (2008/05/07) |
sp37790 | System Default Settings for Microsoft Windows 2000/XP | 5.00 E (2008/05/07) |
sp38767 | Broadcom Wireless Utility | 7.00 A (2008/03/12) |
sp38874 | HP Software Update | 4.0.10 B (2008/03/31) |
sp39230 | ADI SoundMAX AD1984A Audio Driver for Microsoft Windows XP | 5.10.1.5740 (2008/05/08) |
sp33867 | Microsoft Universal Audio Architecture (UAA) Bus Driver for High Definition Audio (sp33867) | 1.00 B3 (2006/11/06) |
sp39153 | Chicony Camera Driver | 5.8.39004.0 A (2008/04/30) |
sp38171 | HP Quick Launch Buttons | 6.40 B (2007/12/19) |
sp39260 | HP Quick Launch Buttons | 6.40 E (2008/06/24) |
sp39378 | HP Webcam Firmware and Software Package | 1.0 (2008/06/20) |
sp38455 | Synaptics Touchpad Driver | 10.2.4 S (2008/02/06) |
sp38147 | SCR33x USB Smart Card Reader Driver | 4.40.0.1 A (2007/12/20) |
sp38923 | VIA Chipset Installation Utility | 3.00 A (2008/04/04) |
sp38766 | Broadcom Wireless LAN Driver | 7.00 A (2008/03/12) |
sp39176 | HP Universal PostScript Print Driver (32-bit) | 61.81.41.2 C (2008/06/20) |
Vistaプリインストール機だけどダウングレード権があるみたいなのでXP Proのインストールメディアを作ってみた。ちなみにLenovoから提供されているXPのリカバリーメディアは\7,350。
とりあえず、Lenovo Windows XP Professional の新規インストール方法 - ThinkPad X61 (Windows Vista 初期導入モデル) - JapanとLenovo ソフトウェアとデバイスドライバーのダウンロード・ファイル一覧 - ThinkPad X61, X61s, X61 Tablet - Japanを眺めて、必要そうなストレージ、チップセット、有線LAN、ビデオのドライバをダウンロードする。
あとはnLiteを使ってWindows XP Proのイメージにダウンロードしたドライバを統合(ディスプレイドライバの統合時にVistaのドライバを除外する)して、CD-RWにイメージを書き込んで、USB接続の外付けCD/DVDドライブからインストール。
OSのインストール後にThinkVantage System Updateをインストールしてその他のドライバやソフトウェアを導入する。