はてなキーワード: 日本語表現とは
増田はこの14年ほど、海外情勢に強い関心を抱くようになり、毎日ストリーム配信で海外ニュースをチェックすることと、ニュース記事などを乱読することを続けている。(もちろん、新しい単語や表現の勉強も欠かしていない)
その成果あってかなり英語がスムーズに読み、聞き、また喋れるようになって来たのだが、困ったことに、次に上げるような弊害が出てきた。
写真をとる to take a picture を「撮る」に変換する考え方とかが凄くめんどくさいと感じるようになった。音で聞いても文脈で聞き分けられるものに、いちいち違う漢字を当てる意味とは? とどうしても思ってしまう。
「何故ならば」「というのも」みたいに、日本語表現だと持って回ったものとしてあまり多用されないargumentation(理由付け)をいちいちつける癖がついてしまったり、翻訳調の言い回しにどうしてもなってしまう。
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない、あるいはそこまで重視されない。
↑という文を、例えば日本語で
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない。あるいはそこまで重視されない。
しかし、英語では元々、口語でも後付けで which is など関係代名詞の複文を継ぎ足していくことが出来るような構造をしているため、短文の連続とひとつに連なった複文で、イントネーションをしっかり変えるというルールがない。だから、英語をスムーズに読む訓練をするときは、日本語と逆に、「,」だから音を上げたままにする、「.」だから音を下げる、などのルールに拘らず、「,」でも適当に音を下げてしまう。「.」でも音を上げっぱなしにしてしまうというイントネーションになれる方が良い。そうしないと、ネイティブのニュースリーダーなどのイントネーションで文の切れ目に変な先入観が入って上手く聴き取れない。
これになれてくると、今度は日本語の「、」と「。」のイントネーションのコントロールが難しくなってくる。
書いていても、なんとなく複文の途中で音を切ってしまう感覚で「。」を入れたり、日本語としては読みにくい句読点の使い方が出てきてしまったりする。
増田は学生時代小説など書いていて、「、」「。」の使い方にまで結構拘る方だったのだが、最近はこのせいであんまり日本の小説などの味わいもよくわからない感覚にとらわれ始めている。翻訳で失われるものってどれだけ重要なのか、と考えて自己正当化を図ろうという衝動も起こりさえする。
言語の隔たりって、難しい。
虹の橋を渡る
読み方:にじのはしをわたる
「虹の橋を渡る」とは、ペットの死を意味する婉曲的な表現。愛犬や愛猫を亡くした飼い主により「今日【ペットの名前】が虹の橋を渡りました」といった言い方で用いられることが多い。
「虹の橋を渡る」という表現は、「虹の橋(Rainbow Bridge)」と題する詩が念頭に置かれている。同詩はペットの死を題材とする散文詩であり、《飼い主に先立って死んだ愛犬や愛猫の魂は、虹の橋を渡って天国へ昇る》という趣旨の叙述がある。
なお、同詩では「ペットの魂は虹の橋を渡らずに飼い主を待っており、飼い主が亡くなった後、魂は再会を果たし、連れ立って虹の橋を渡り、天国へ向かう」と述べられている。ペットが先に単独で「虹の橋を渡る」となると、もともとの詩の内容とは食い違ってしまうが、そこには暗黙の了解がある。おそらくは、原作との齟齬よりも、「天国へ旅立つ」イメージや日本語表現としての自然さが優先されたものと推察される。
ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。
この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。
夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか。
まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。
ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿だ馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。
でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?
この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。
最初の場面にはただこう書かれている。
つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。
次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。
もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ。
spiritually
そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。
普通の向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。
これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。
environmentally correct
環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?
普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境に配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。
それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスをもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。
結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現の問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。
「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語の名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語の意味内容をそのまま適用して、その名詞の事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。
しかしここに何故、もっと皮肉なニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。
君たち的にはどう思う?
……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズの言葉に使われているからだよね。
でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般の形容詞を作る場合、特に外国語を訳して作られた言葉の場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数の意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。
こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来の意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉な意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧な意味ではない。
増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。
お知らせ、速報にしか使えないなんてことはなさそうやね
取り急ぎ
読み方:とりいそぎ
取り急ぎ(とりいそぎ)とは、一時的に急いで対処することや、緊急性が高い事柄に対して優先的に行動することを指す言葉である。主に、時間的制約がある状況下で、最も重要な事項に焦点を当てて対応する際に用いられる表現である。また、取り急ぎは、他の事項に対する対応が後回しになることを意味することが多い。
取り急ぎの語源は、古くから使われている日本語の言葉で、「取り」は「取り上げる」、「急ぎ」は「急ぐ」の意味を持つ。これらの言葉が組み合わさって、「取り急ぎ」という言葉が成立し、現代の日本語でも広く使われている。
取り急ぎの使い方は、主にビジネスシーンや日常生活での緊急時に適用される。例えば、会議で重要な決定事項が発生した際に、その事項に対して速やかに対応することを意味する場合や、災害発生時に避難所への避難を優先することを示す場合などがある。また、取り急ぎは、メールや手紙の冒頭に記載されることがあり、その場合は「取り急ぎの連絡」として、緊急性の高い情報を伝える意図がある。
設定というか、善意の解釈のひとつね。真実は傲慢カップルだった可能性もぜんぜんあるよ。でもわたしは、善意の解釈が大好きだって言うだけ。
で、先制攻撃と解釈しているのは、私ね。カップルにとっては単に「自分たちにはわからない日本語」だったんじゃないかな。
ただし、元ツイートの雰囲気から察するに、店主が温厚な雰囲気で発言したとは思いにくい。善意の解釈が大好きな私でさえ、店主のことを善意には解釈しにくい。残念だけど。
なので、カップルも「入店したらいきなり日本語でまくし立てられた」と感じたんじゃないかなあと言うのが、私の解釈。「ポカン」というのも、「びっくり面食らった」という解釈ね。
そして、「ええと、日本語がわかんなくて申し訳ないんですけど、"nihongo"だけはなんとか聞き取れたし、ひょっとして(日本語メニューしか置いてない=)英語メニューがないという意味でしたか…?」ということを言いたくて、でもそんな高度な日本語表現はできなくて、でもでも今までの日本での経験から、「no english menu?」くらいは通じるんじゃないかと期待して、おそるおそる尋ねてみた…という解釈。
これは、ポケモン社はいま現在、“侵害行為が存在している” とみてることを表してると思う。
一般的な権利侵害に対する態度を表明してるのなら、「していきます」とはならないだろう。
「しています」が日本語表現として妥当だ。すなわち、~適切な対応を取っております、となるはず。
問題の文章は、侵害行為の存在を前提として、それについてこれから対応を取る、と言ってると読める。
文章の順番にも注意してほしい。
「調査したのち、侵害行為には対応する」であれば、侵害行為が現時点であるかないかは不明瞭だ。
「侵害行為は、調査した上で対応する」になってるのだから、侵害行為の自体はあると見てると思う。
皆さんはどう思いますか。
「推し」って感覚が未だにまったくわからない。なんだよ推しって。
俺はみくるたん萌え~とか、あーみんは俺の嫁!って世代のオタクだ。二次元・V含めアイドルには一切興味がない。
だがなんとなくわかった気になっているだけかもしれない。なので改めて調べてみた。
推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E3%81%97
推し(おし)とは、特定の人物やキャラクター、作品、商品などに対して、熱心な支持や愛情を示す行為やその対象を指す言葉である。推しの語源は、「推す」(おす)という動詞から派生し、主に若者を中心に広まったインターネット用語である。推しは、アイドルや俳優、声優、アーティスト、アニメキャラクター、漫画、ゲーム、映画、テレビ番組など、幅広い分野において使用される。
推しの行為には、対象の情報収集や作品の購入、イベントへの参加、SNSでの応援メッセージの投稿などが含まれる。また、推しを応援するファン同士が交流し、情報共有や意見交換を行うことも一般的である。推しの対象は個人の好みや価値観によって異なり、多様な選択肢が存在する。
推しに対する熱意や忠誠心は、ファン同士のつながりを深める要素となり、コミュニティの形成や発展に寄与することがある。推しを通じて、ファンは新たな友人や知り合いを得ることができる場合もある。しかし、推しに対する過度な熱狂や執着は、他者への配慮を欠く行為やトラブルを引き起こすことがあるため、適度な範囲での応援が求められる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%8E%A8%E3%81%97
う~ん、やはりピンと来ない。
と頭を捻っていたら、Pixiv百科事典にそこそこしっくりくる記述を見つけた。
そもそも「推す」が「他者に薦める」という意味の言葉のため、「推し」は自分が独占欲を持たないものに対して使う言葉である。つまり、自分が恋愛的な感情を持っている相手に対して表現するにはあまり適切でない言葉と言える。英語における「Love」と「Like」の違いで言えばLikeに当たる。
日本のことわざに「高嶺の花」があるが、花を取ろうとせずに見るだけで良いと思えるのが「推し」である。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%8E%A8%E3%81%97
ここまでをまとめると「推し」っていうのは、
存在に対して使うのか(間違ってたら教えて)。
いや~こうして改めて意味を調べてみるとよくわかるな。自分にはまったく理解できない感覚だってことが。
例えばハルヒなら俺は佐々木が好きというか俺の嫁なんだが、ハルヒを読んでいるとき俺はキョンだ。俺自身がキョンになっている。だから佐々木がキョン以外と絡むエロ同人を読んだだけで寝取られた気分になる。これは紛れもない独占欲だな。
「佐々木は俺の嫁!」ってTwitterで主張したい気持ちは無くはないが、別に他人に佐々木の良さを薦めたいわけじゃない。別に他人に佐々木を好きになってほしいわけじゃない。ただ「刮目せよ!俺の嫁を見ろ!」って言いたいだけだ。他人の好みなんてどうでもいい。いやどうでも良くはないな。俺以外で「佐々木は俺の嫁!」って言ってる奴を見かけたらイラつく。お前の嫁じゃなくて俺の嫁だって思う。交流なんてぜんぜんしたくねえ。
こうして我が身を振り返ると、昨今の「推し」文化ってのは随分と上品じゃあないか?
みんなが私の好きなものを好きになってほしいです、独占欲は持ちませ~んってか。
嘘つけやって思ってしまうのは俺が古いオタクだからかそれとも歪んでいるからか或いはその両方か?
id:p__o__n 氏の日本語表現が気になった一人としては、納得感ある。
これって両方言えて、「日本語話者に引っ張られた英語の歌」と「英語の歌っぽい発音の日本語の歌」は完全に同質なんだよな
そこを英語の歌だからって特別に気にするのは、俺としては奇異に感じるぞ
要は言語学で言うところの音韻論の話で、ネイティブスピーカーが正しいと感じる発音をより再現できている歌が、その言語の歌として完成度が高いわけ
つまるところ、音節ごとに音符をはめて、言語の区切りに休符があり、イントネーションに音階が沿うのが、”正しい”歌なわけ
若い子からしたらしょうもないかもしれないけど、小椋佳とか、すごく日本語的に正しい歌を作ってくれる
yoasobiのアイドルの英語版は確かに英語の歌として正しくないかもな
もちろん、正しいか正しくないかで、歌の価値や芸術の価値は決まらないぞ
宇多田ヒカルなんか、「な・なかいめのべ・るでじゅわきー」という日本語の区切り方をする
宇多田ヒカルのデビューは98年とか99年ごろなわけだけど、日本語の使い方に当時高校生だった俺は驚いたよね
ミスチルもそんな歌は当時よく作ってたけどさ、シーソーゲームとかね
今でこそそんなのは当たり前になっているけども当時は新鮮だった
miwaなんかはイントネーションぶっ壊しの達人で、「か↑きごおりー↓」で俺は大爆笑した
いくらその後いい歌作ってもその後「か↑き氷ー」の人って呼んでる
で、絢香だな
音節って要は音、声のまとまりなわけだけど、日本語と英語はずいぶん違う
日本語は基本的に全ての文字に母音がつくので、文字ごとに音がある
日本語以外だと子音がたくさんあるので、いろんな音が重なって1音節になる
例えばアイスクリームだと、日本語だと「ア・イ・ス・ク・リー・ム」だけど、英語だと「ice・cream」で2音だ
絢香は本来たくさん母音がある音を、子音っぽく発音して、ひとつの音符に複数の音節を乗せるスペシャリストだ
だから絢香は歌がうまいのは異論をはさむ必要はないのだけど、「日本語の歌」を「日本語表現」を損なわずに歌うのは決してうまくない、というか、そういう方向に向かっていない
絢香がやってるのは日本語を使った英語の歌い方なんだもん仕方ないよ
で、増田が言ってるのはyoasobiのアイドルのことでしょ?
そもそも日本語版の歌が「絢香歌い」になっている作りなので、アイドルの原語版をそもそも日本語の歌だと捉えられない
同じyoasobiでも「夜にかける」がしっかり日本語を歌っているのに対して、アイドルはそういう方向にそもそも向かっていないのは最初からわかると思う
1音に言葉詰めすぎでしょってなる
だからネイティブ日本語話者でも絶対に聞き取れないし、歌詞を読まないと何を表現した歌かすらわからない
まあ、もちろんyoasobiは音が面白ければそれだけで唯一無二のいい音楽になるという、音楽の面白みというか音遊びを突き詰めたような人たちなので、日本語表現がどうこうのせいで価値が損なわれることは全くないのだけど
しかし、そのような性質の歌を、今度は英語に直しただけで、歌に異論が出てくるのは違わないか?
え?英語がどうこうの前に、そもそもアイドルは「日本語の歌として正しい」のか?と
もちろん正しいか正しくないかで芸術としての価値は決まらないし、正しさからの逸脱が面白みになるケースも多いのよ
でも、正しくない日本語の歌をスルーして、異言語版にだけ文句が出てくるところを見ると、えー、うそー、そこ?そこなの?と思わざるを得ない
まあ、好みの話にしちゃうならもはやどうでもいいんだけどさ
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
Xの次に背の高い人は誰?という問題で、以下のような内容です。
【問題】
この5人の中で、Cの次に背が高い人は?
【選択肢】
1.B
2.D
3.どちらとも解釈できる
【結論】
私は、3.どちらとも解釈できる、が正解と思っていて、言い方を変えると「Bの方が確からしいが、問題文として不備があるのでDの可能性が排除できない」と思っています。
【解説】
これが一番大事なところです。各々の解釈で話を進めるから大変なことになるんです。日本語に関して絶対的に正しい辞書を用いて話しましょう。
次
1:すぐあとに続くこと。また、そのもの。
高い
2:数値が大きい。また、度合いが大きい
とあります。
答えは"必ずそれぞれの1,2どちらかの表現を用いて表すことができます”。
以上を踏まえて読解していきます。
【解がBになる解説】
①昇順か降順か書いてないので、問題文に書かれていないことは勝手に推測しない。(問題解釈の基本)
Cの次に高い→Cより一段劣る背が高い人、なので155cmのBがCよりも一段劣る背が高い人。
これは劣るのに背が高いと続いて日本語としてやや不自然ではあるが、いったん置いておく。
②5人の一覧をわかりやすくすると、
E170cm 最も高い
A150cm 最も低い
となり、
この中でCの次に背が高いのは?と聞けばBになることが理解しやすい。
身長の数値が大きいという評価基準で、Cのすぐあとに続くものはBで疑いようがない。
【解がDになる解説】
Cの次に背が高いのは?
↓
次に、と聞かれたので、必ずあとに続くか一段劣るものを選ぶため、何かの順番に並べる必要があり、その場合のC(基準値)の次のもの(X)が問われている。つまり、
↓
そう考えたとき、身長が何cmかはただの識別情報なので、数学的解釈は使わずに答えが出せる。
つまり、
A 背が最も低い
B 背が低い
C 背が普通
D 背が高い
E 背が最も高い
ということ。
なぜなら、"背の順″は背が低い順とは言わなくても誰しもが昇順と理解するし、高い順番から並べることは一般的な解釈とは言えないので考慮しない。
ゆえに、始点Aから始まる背の順において、Cのすぐあとに続く背が高い人はD。
「背の順でCのすぐあとに並ぶ身長が高い人はD」
→「ある順番でCのすぐあとに続く背が高い人は誰?」
→「Cより順番がすぐあとになる背が高い人は誰?」
→「Cの次に背が高い人は誰?」
となって、この文章を背の順と理解できることに矛盾が生じないと解釈する。
ここでの争点は「ある順番とは何?」で、そんなもんは知ったこっちゃないのですが、普遍的に背の順番は昇順(背の順)になることを考えて、答えは、"背の順でCのすぐあとに続くD”となります。
背が高い方から並べたB理論は、「ある順番」が何か指定されていないことに気づかずに数値が一段劣る、の意味だけで解釈をしてしまって、数値が最も高いものからの降順以外の可能性を考慮できていません。
並べ方について問われている問題なので、単純な数値としての160cmと155cmの比較だけの「160cmより一段劣る背が高い155cmの人」という表現は日本語として不自然です。
【Bの方が確からしいが、問題文として不備があるのでDの可能性が排除できない理由】
これは背の順だから起きてしまったことで、例えば以下の例ではどうでしょう。
スカイツリー 634m
東京タワー 333m
あべのハルカス 300m
横浜ランドマークタワー 295.8m
りんくうゲートタワービル 256.1m
このとき、B理論もD理論も答えは横浜ランドマークタワーです。
(B理論)
①634mが数値として最も高いので、基準値あべのハルカスのあとに続く建造物は横浜ランドマークタワー。
②300mという数値にたいして一段劣る高い建造物は295.8mの横浜ランドマークタワー。
(D理論)
256.1mを始点とした低い順は一般的に想定されないので考慮しない。
高い順であべのハルカスのあとに続く全長が高い建物は横浜ランドマークタワー。
以上のように、回答としてはどちらも同じ横浜ランドマークタワーで丸く収まっていますが、実際の思考プロセスには隔たりがあります。
他にもいくつか例を挙げて、それぞれの思考を掘り下げてみましょう。
1位 100点
2位 90点
3位 80点
4位 70点
3位の次に点数が高い人は何位?
(B理論)
①100点が数値として最も高いので、基準値3位のあとに続く点数が高い人は4位。
②80点という数値にたいして一段劣る高い点数は70点の人で4位。
(D理論)
順番が3位のすぐあとの点数が高い人は4位。
ある程度わかったかもしれませんが、大抵のものは降順ランキングになるので、思考プロセスは違っても答えは同じになります。
では、このようにしたらどうでしょう。
160cmの次に高いのは161cm、159cmのどちらでしょう?
(B理論)
161cm 最も高い
で、どちらも159cmで疑いようがない。
(D理論)
159cm 数値が最も低い
161cm 数値が最も高い
となる。
問題文を整理すると、
160cmの次に背が高いのは
↓
次に、と聞かれたので、必ずあとに続くか一段劣るものを選ぶため、何かの順番に並べる必要があり、その場合の160(基準値)の次のものが161か159か問われている、つまり
問題.〇〇の順番で基準値のあとに数値が高いのは161と159のどっち?
↓
答え.◯◯の順番で基準値のあとに続く数値が高いものは161 or 159、となる。
答えは、160㎝のあとにつづく数値がたかいものは161cm。
しかし、「あとにつづく数値がたかいもの」という表現は日本語としては不自然で、B理論はどちらも自然な結果になっているため、Bと解釈する方が収まりがいい。
この結果は単純な数値の比較をした際、B理論の解釈が常に正しいと言えることを証明しているともとらえられます。そして、その場合の順番は常に降順(高い数値が上)です。
ようやく輪郭が見えてきましたね。問題になるのは、「単純な数値の比較ではない場合」です。
Sサイズ(数値小)
Mサイズ(数値中)
Lサイズ(数値大)
(B理論)
①Lサイズが最も数値が大きいので、基準値Mサイズのあとに続く大きいサイズはSサイズ。(大きいサイズはSサイズ、と言っているのでこれは日本語表現としてやや不自然)
(これも一段劣る大きいサイズ、という言葉は日本語表現としてやや不自然)
(D理論)
服のサイズはSサイズを始点として、S、M、Lと数えるが、L、M、Sとは数えない。
Lサイズから始まる店は存在しないし、サイズについて比較する際は必ず始点にSサイズがある。
ここまでの例題からわかったことは、「次に〇〇」で昇順/降順のどちらに動くか判断が付かない場合は、どちらの理論も試してみて、より自然な言葉になる方を選べばいいだけです。
なぜBD理論が論争になっているかというと、このケースではB理論も成立していて、D理論も成立しているからです。(どちらの結果も日本語が不自然にならない)
B理論支持者は、単純な数値の比較をした際は常にB理論の解釈が正しいことを根拠に、問題は数値について問われていると勝手に解釈して、答えはBで揺るがないと思っています。
これは、数値の比較なので数値が高い=上のものという認識があるので、降順以外は考えられていないです。
一般的に「Xの次に高いものはどれ?」という問題は凡そ全て数学の問題のため、みんな単純な数値の比較以外の用法は聞いたことがないので、D理論は意味の分からない勝手な解釈をしている例外だと判断しているのです。
続いてD理論支持者ですが、まず第一に「背を比較するときの順番は背の順(昇順)である」という解釈が前提にあります。
この前提が正しいとみんなが思ってるかはわからないですが、私の中では「大体そう」ってぐらいの認識です。
ロシアだと背が高い人が前に並ぶし、国内では自衛隊も高い順に並びます。
しかし、「背の順で一番前の人は背が高い?低い?」って聞かれたら真っ先に低い人を想像します。
また、「複数人の背を一斉に比較するために順番で並んだとき、先頭に並んでいる人の身長は一番後ろの人よりも身長が低い?高い?」って聞かれたら、うっかり低いって断定してしまいそうですが、
この問題についての正解は、「どの順番で並んでいるか知らないので、どっちもありえる」です。
一番最初の解説でも言いましたが、「次に」と言われてるので、何かの順番になるのですが、問題文からそれが確定することができません。
そのために2つ仮説を立てます。
B派は単純な数値の比較と同じ降順だと想定した場合でも、数値が高いものが上にくると仮定した降順でも結果的に答えはBで、どちらの根拠もある程度正しいと言えます。
D派は背の順だと仮定すれば正しいと言えるし、「背の順かどうかは書かれていないのでどっちもありえる」とも言えます。
比較してみるとD派の方が勝手な解釈に見えて根拠としてはやや弱い気がしますが、B派も肝心の前提条件は絞れていないので、降順という仮説が成り立たない限りは、"日本語として不自然な表現の答え”に過ぎないので、Dという答えを誤答とは"しづらい”です。
ゆえに改めて私の結論をより詳細に述べると、「Bの方が仮説を立てる根拠が確からしいが、問題文として不備があるので別解Dの可能性が排除できない」となります。
【まとめ】
BD問題は、大体の場合がどちらも先入観や勘違いをベースに論争をしているので、全く噛み合わないケースが多い。
BとDのどちらも根拠がありそうな正解を導き出せるようにしていて、あえて論争を起こそうとしてるのではないかとすら思える。
また、B理論支持者の方が論理的に正しいと言えそうで、実際は降順の並び替えについての根拠が整数の並び順でしかないことについて気づく人はあまりいない。
D派は背の順、というあやふやな根拠を理論にして戦ってるので、かなり分が悪いし、どこまで頑張っても前提条件は判明しないので、「Dが間違いとは言えない可能性がある」としか言えないので、屁理屈扱いされる。
もしも、背の比較をするときは必ず背の順(昇順)に並ぶ、という解釈が絶対的になることがあれば(仮に)、D理論はB理論よりも確からしくなるし、BD問題の結果がB、Dどちらかの100%になったとしたら、それは日本語が変化したと言えるのかも知れません。 実際に何%になったら辞書が変わるのかとかは知りませんが、誤用が広まって定着した結果、用法として辞書に載ってしまった例はありますし、時代とともに意味が変化していった言葉はたくさんあります。 いずれ、Xより一段劣る背が高い人、という表現が当たり前に使われる日も来るのかもしれません。
しかしながら、BD問題は"問題文として”試験に出せるようなシロモノではないと思うし(最初のツイ主さんは、これは問題ではなくアンケートだと仰っていました)、もしも私の解釈がおかしいところがあるとしても、表現方法に問題があるとは思います。
もしもBかDの2択ならBの方が根拠が強いと思うので、Bを選ぶ方が正しそうです。しかし、BD問題は4択にしてしまっているので、問題文も選択肢も合わせて罠になっています。
問題文とは回答者との誤解なきコミュニケーションであるべきだというのが私の主張です。 つまり、答えに対しての問い方でなくてはいけないし、正しい根拠でのみ正しい答えが導き出せるようにしなくてならないということです。
(注意力や論理力があれば解けるひっかけ問題まで悪いと言ってる訳ではありませんよ、念のため)
テストやクイズを作る方はもちろん、この問題は日常生活でも起こりうることで、誤解なきコミュニケーションを大事にしていくべきだと強く思う結果となりました。
【おまけ」
①次に「高い」か「低い」かで昇順、降順が決まると思ってるパターン
やっかいなことに、例題のいくつかの問題はこれでも当てはまっちゃうんです。
ただし、「300mの次に高い建造物が301m以上のもの」、「160㎝の次に高い身長は161㎝」になってしまって、破綻します。
この説には根拠がありませんが、ゆえに都合の良いように解釈できてプラス方向にもマイナス方向にも行ったり来たりと便利なので用法としても広まってしまっています。
②主語/述語、装飾語/被装飾語の関係で法則性を見つけようと思っている人
これもやっかいです。体感ですが、正しく文法などのルールをきちんと勉強したことがある方でここに辿り着いた人はいないと思ってます。
(専門家である飯間先生のツイートでも言及されていなかったので。もし文法で解釈できるならご一報ください)
私も専門家ではないし、きちんと勉強した人じゃないので触りだけにしますが、
Cの次に背が高いのは?
↓
Cの(修飾語)次に(被修飾語)背が(修飾語)高い(被装飾語)人は(主語)誰(述語)?
となるので、この文章は複文(1つの単文の中に単文が組み込まれている文)です。
複文なのでまとめると、
となります。
もう少し粘ってみましょうか。
Cの〇〇に背が〇〇な人は誰?としましょう。
Cの(あとに続く、または、一段劣る)背が(大きい)人です。
あとに続くのか一段劣るのか断定できないので、「背が大きい人」とは、「Cのあとに続く背が大きい人」なのか、「Cより一段劣るけど背が大きい人」なのかの区別がつかないので無意味です。
③「次に背(身長)が高い人」と「次の高さ(身長の度合い)が高い人」を混同してる人
Cのあとに続く高さが高い人は誰?
↓
〇〇の順番で基準値のあとに続く高さが高いXは誰?
↓
昇順でCのあとに続く高さが高い人はD。
これはXのあとに続く"高さが高い人”に絞っていて、高さが低い人を排除してしまっているので、文の構造が完全に変わっています。
ちなみにこの解釈をすると、「Xより一段劣る背が高い人」は「Xより一段劣る高さが高い人」になるので、B理論は自己矛盾を抱えることになります。
特に学校教育で、(他の優先するべき学問や修学がありそうななか)学ぶ必要があるのか? こんなことが昨今話題になる。
さっき2秒くらいで考えた個人的な所感を以下にまとめてみる。
古典を捨てると、たとえば以下の様な日本語表現のニュアンスを永久に失うことになる。
これらのタイトルがなぜ、現代においてなお「風が立った」とか「過ぎ去った時を求めて」とならなかったのか。
私たちはほぼ古典文法を捨てた。けれどもそこに何か、わずかだが何か、現代文での同文の置き換えとはならないニュアンスを込めている。
おそらく古典の学習は時の流れの中で規模を縮小する運命にあるだろう。学校教育で多くの人が習わなくなるのなら、商品などの表題には付けにくくなる。
そうなるときっと「風立ちぬ」と「風が立った」、「過ぎ去りし時を求めて」と「過ぎ去った時を求めて」とのニュアンスの差異に日本語使用者が完全に不感応になる。