はてなキーワード: 稽古とは
そのいろいろとは何かというと、まずブログ黎明からのブロガーの歴史を学ぶということがある。
また人気ブログの掟、定石などを学ぶということがある。
またいろいろのデザインやプラグインなどを主に学ぶということがある。これをかたちから入る学という。
また各無料ブログ、サーバーをはじめ、手当たり次第に学ぼうとすることもあるだろう。
このほかにも、種類を細かく分けていけば、学び方はもっといろいろあるだろう。
それにもアフィリエイトの貼り方を学ぶものと、アフィリエイトを貼りたい者のためにアフィリエイトそのものを講義しているものと二通りあるようだ。
ざっと上記のごとくブログ道にはいろいろあって、めいめい好む種類を学ぶにあたって、めいめいがどのようにして学ぶかが問題である。
その方法はといえば、これまた教える師の思惑、そして学ぶ者の思惑がそれぞれ違うので、様々である。
ブログ道を志して、学びに入ろうとする人々の中には、初めからこれぞという当人の思い込んだ方向があって、その方法も当人が独自に見つけるというケースもある。
しかし、それほどまで特別に思い込んだ方向もなく、方法も自ら探り当てるに至らぬような人は、ものを知った人の言葉を読み、どこから入ればよいか、初めての稽古の仕方はどのブログをまず見るべきか、あれこれ問い求める。これは世の常であるが、誠にそうあるべきことである。
自分が追求したいブログの性質を正しく見定め、それを学ぶ方法を確かに掴んで、ゆくさき横道の悪い方に落ちないように、業績も早く出来上がるように、効率的であるようにと、初めからよく考えめぐらせて、学びに入りたいものである。同じく努力していても、その学びの方法によっては、得失の差が出て来ることだろう。
そうはいっても、ブログの種類はさまざまであるから、特にこれをと、はたから押し付けるのはよくない。たいていは、当人みずからが思い込んだほうにまかせてよい。
いかに初心者といえども、ブログ道を志すほどの者は、まさか子供のような料簡でもあるまいし、分に応じて当人の考えは必ずあろうというものである。
めいめい好むこと好まぬことがあり、また生まれつき得意なことと苦手なことがあるのだから、苦手なことを努めても、効果を上げることは少ない。
またどういうタイプのブログにしても、どのようにして書くかという手順を一応の理屈によって、これはこうだからと示し教えることは簡単であるが、その示し教えた通りにやることが果たして本当に良いものかどうか。それは案外、悪いのではないか。ブログというものは、いかにベテランといえども知りがたいことも多いのだから、やはり鵜呑みは良くはなく、実は当人のこころまかせにするのが一番良いのだ。
結局、ブログはただただ年月長く、止まらず怠らず、励み努めることが肝要である。
学び方はいかようにしてもよいだろう。それほどこだわることはない。方法がどれほど良くても、怠って努めなければ効果はない。
また、それぞれの者の才能によって、効果は非常に違ってくるが、才能のあるなしは生まれつきのことだから、手のつけようがない。
しかしたいていは、才能の無いひとにしても、怠らずに努めさえすれば、それだけの効果はあるもの。
また、歳を取ってしまったひとも、努めて励めば、思いの外、効果を上げることがある。
また、暇の無いひとも、思いの外、暇の多いひとよりも効果を見せもする。
それだから、才能の乏しいこと、学ぶことのおそいこと、暇の無いことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。
なににしても、努めさえすれば、事はできると思ってよい。
一年半ほど前、若手俳優厨界隈にもリツイートで回ってきた匿名ダイアリーの内容が結構話題になった。
と、勝手に思ってる。
http://anond.hatelabo.jp/20150209010459
これを見てよっしゃ私も俳優に認知された話でも書いてみっかと思ってはてなIDを取得して早数ヶ月…
お盆休みに暇なので久しぶりにパソコンをつけたのでこうして文章をしたためている。
上記の匿名ダイアリーを読んでからなんとなく私も追っていた俳優への興味が薄れつつあってようやく自分の中で完全に降りたと思えるようになった。
ここでいう若手俳優というのはテレビより舞台がメインの仕事でぶっちゃけ世間的には無名の若さとオタクへのアピールしか取り得のない役者ですらないタレントのことを指す。
(失礼なことを書いていると重々承知しているが顔なり演技なりコミュ力なり何かしら飛びぬけている人ならいつまでもそんなところに燻ってなんかいないのは見ていれば分かる)
それでも私は舞台が大好きだ。
応援していた(私は推しという言い方が嫌いなのでここでは応援という)俳優には服や時計などプレゼントもしたし、今思うと怖いくらい長い手紙も書いていた。
一応認知もされていたと思う。
自意識過剰丸出しでキモイので認知という言葉を使用したくないが、なぜ認知されたと思うようになったかというと無視されるようになったからだ。
私は入り待ち出待ちなんてしたこともない。ただ座って公演を見るだけ。
客席降りのあるときは降りのパターンを見出して通る通路を押さえたし、降りないパターンのときは積んで前のほうの席に座るようにした。
遠征もした。
DVD発売イベントがあるときは同じDVDを何本も買って応募した。
握手会のためにCDも買った。話すことなんて無いし覚えて欲しくもなかったけどレーンが空いてると見栄えが悪いと思い何周もした。
そんなことばかりしてたら避けられるようになった。
考えすぎかと思うだろうが公演に一緒に入った友人にも言われたから確かだと思う。
それが原因で降りたかというと違う。
若手俳優を追っている人なら分かると思うが俳優にもいろいろなタイプがいて、
・分け隔てなくファンサする
・そもそもファンサしない
細かく分けるとこんなもんじゃないがざっくり分けるとこんな感じ。
そして私の応援していた俳優は認知したファンには構わないタイプだと判断した。
まあ関係ない一回くらいしか行かない人からしたら知ってる顔ばかり構ってる俳優なんて嫌だからいいんだけど。
このことに気付き、覚えられたという喜びが一瞬芽生えたが次の瞬間にはそれならばどうにかしてファンサが欲しいと思うようになった。
彼の視界に入るための席を次々と買った。
公演や俳優を見るためではなく、自分が見られるために通うようになった。
回数入っていることをアピールするために手紙も毎回書いたし少しでも対応が良くなればとプレゼントを贈る頻度も一回に遣う金額も増えた。
手紙も回数を重ねると書くことがなくなるからプレゼントでごまかしてたのもある。
服は結構着て貰えていたと思う。
雑誌の取材とか稽古場の映像、写真で形として残るのは素直に嬉しかった。
それなのに公演では反応がないのが悔しくてまたチケットを増やす、の悪循環だった。
毎日仕事終わりに行く公演は眠くて内容は頭に入らないしアンコールの前奏が始まれば緊張で気持ち悪くなる。
それでも同厨より多く公演に入ることがステータスだと信じていたので通った。
こんな観劇姿勢なのにネットで晒されなかったのは我ながら地味でよかったなと今更ながら思う。
いわゆる卒業が来る。
終わりが来るのは最初から分かっていたがそれでも最後の公演の千秋楽は驚くくらい泣いたし次の日会社も休んだ。
もう二度と舞台でこの姿を見ることができない寂しさもあったが辛くて仕方なかった公演通いからやっと開放されるという思いのほうが強かった。
その後に舞台出演が発表された。
今までお金を掛け続けて追っていた自分を否定したくないので勿論行く。私を突き動かすのはもはや意地だけだった。
公演がない間も花も贈る準備をするしプレゼントを事務所に送るし手紙も書く。
客降りとかファンサが無かったからとかではない。むしろ無くて良いと思っていた。
そこで初めて自分は俳優の彼では無く、キャラクターを演じている彼が好きだったんだと気付いた。
あんなに見るのが辛かった舞台だけど、キャラクターを演じるためにカンパニー一丸となって作る世界観を追いかけていたのだ。
気付いたとたん魔法が解けるように彼の全てに興味が無くなった。
自分でも薄情だと思うほどに熱が引いていくのが分かった。
世界観が好きとは言ったが、新しいキャストが演じている同じ公演を見ても前と同じように一人のキャストに夢中になることは無くなった。
今はファンサとかそういう感情無しで見るステージは凄く楽しい。
本当に何を見ても楽しいしみんな輝いて見える。
時々思う。たまたまあの公演で彼では無く別の俳優が目に付いていたらまだ俳優厨を続けていたのかと。
それでも私はきっと同じように追いかけて同じように降りていたと思う。
ここまで散々ネガティブなこと書いておいておかしいが、俳優をただがむしゃらに追いかけた日々は凄く充実していた。
ファンサを求めてからは地獄だったけどいろんな地方に行ったり美味しいご飯を食べたのは楽しかった。
今、手元には半券くらいしか残ってないが時間とお金を掛けた最高の道楽だったので後悔はしていない。
お金の無い俳優が自分たちオタクのあげた服で少しずつ洗練されていくのも結構面白かった。
【挨拶厨】受けを渡すわけでもなく、お疲れ様で~すといった声かけのみをするギャラリーのこと。
【歩き受け】出待ちなどにおいて俳優の横を一緒に歩きながら話す行為。
【受け/受け取り】手紙のこと。また手紙を俳優が受け取る行為を指す。ジャニオタ由来であり、主にジャニーズから流れてきた厨が使う。
【受け禁】手紙、プレゼントなどを出待ちで受け取れないこと。事務所や舞台によって禁止されている場合と俳優本人が拒否している場合がある。ジャニオタ由来の語。
【駅待ち】入りや出において駅で俳優を待つ行為。可とするかどうかは俳優による。
【オンリー】俳優1人に対して出待ちが1人しかいないこと。転じて、目当ての俳優の出待ちが自分だけであること。
【カット】俳優から厨を引きはがす行為。マネージャーがよくする。また、嫌いな厨をつかせないために身内などを使って厨を厨が妨害する場合、リアストを阻止するために厨が厨に行う場合など用法は多岐にわたる。ジャニオタ由来の語。
【空電】本当は電話をしていないのに電話をしているようなそぶりをしながら歩いてくること。出待ちが嫌いな俳優がよく行う。
【観劇待ち】俳優が他の俳優の舞台を見にきているときの出待ち。
【観劇連絡】身内などから推しが他の俳優の舞台を見に行っている旨の連絡を受けること。また、その連絡をすること。
【ガンダ】ガンダッシュの略。俳優厨用語ではないが、厨はやたらと使う。
【ギャラリー】町厨ではあるものの、俳優に凸らず眺めているだけの厨。俳優が町禁や凸禁であるが出ていく様子を眺めていたいという場合と、個人的に凸る勇気がない、また凸りたい気持ちはあるものの周りをとりまくさまざまな事情により凸れない場合のふたつに大別することができる。
【公開】舞台本番、イベントなど世間一般にスケジュールが公開されている現場のこと。ジャニオタ由来の語。
【サイン厨】誰彼構わず俳優にサインを求める厨を指すが、どちらかといえばミーハーや一般人に対して使われることが多い。映画現場、特撮現場などによく現れるとされる。
【〜時集】〜時集合の略であり、キャストの集合時間/入り時間を指す。ジャニオタ由来の語。
【~周辺】~の部分には中心人物の人名が入り、厨によって形成されたいわゆる身内の仲良しグループを表すことが多い。
【対応】出待ち対応の略。厨に話しかけられ、受け取りをしたり会話をしたりすること。
【大公開】出待ちの場所が道路などに面しており、出待ちでない厨や一般人に晒し者になる現場のこと。また、出待ちが多い現場のこと。ジャニオタ由来の語。
【ちゃっかり】遭遇、偶然を装って俳優との接触を試みようとする厨。またその行為。
【茶の間】もともとは出待ちではない厨全般を指したとされるが、用法の変化により現在では舞台を見に来ない、イベントに来ない、回数が少ないなどの厨を指して言うことが多い。定義は明確に決められておらず、しばしば厨のあいだで論争を引き起こす。
【手伝い】出口が複数あるなどの理由から人数を使って目当ての俳優の場所を捕捉したい場合、またその他の諸事情によって本来は関係のない身内を現場に駆り出したり、逆に駆り出されたりすること。及び、そうして連れてきた厨を指す。
【凸る】「突撃する」が省略された形。目当ての俳優に話しかけることを指す。
【はける】出待ちなどが終わり、帰ること。ジャニオタ由来の語。
【はまる】喫茶店などに行き、休憩したり時間をつぶしたりすること。なぜか一部の厨の間で頻繁に使われているが、語源は不明。
【張る】出待ちをすること全般。狭義では、非公開や観劇など目当ての俳優が本当に来るかわからないときに予想を基にして可能性にかけて待ってみること。
【非公開】稽古など世間一般にスケジュールが公開されていない現場のこと。ジャニオタ由来の語。
【暇電】狭義においては、諸事情で出待ちや入り待ちが長時間に及ぶとき身内などに電話をかけて暇をつぶす行為。
【プレ禁】プレゼントを贈ることが禁止されていること。一部のイベントや舞台、俳優によっては禁止になっていることがある。
【没る】出口が違った、自分より早く来ていたなど様々な理由により目当てにしている俳優に会えず、入り待ち/出待ちに失敗すること。
【町禁】出待ち禁止の略。舞台によっては稽古期間中、本番期間中にツイッターなどで繰り返し注意されることがある。「ーになった」「ーくらった」
【町厨】出待ちをしている厨のこと。「出待ち厨」が省略された形。
【マネージャー】出待ちに厳しく対応するマネージャーもいれば、歓迎モードのマネージャーもいる。町厨と仲が良い場合もあれば仲が悪い場合もある。
【ユダ】身内の中にいる裏切り者。鍵垢やLINEのスクショを晒し上げる、同厨や推しに秘密をぶっこむなどの行為に及ぶことが多い。友達だと思っていたが、そもそも最初からスパイとして近づかれていたという事例もある。
【リア】中高生の厨を指し、概ねの場合蔑称として使われる。リア中=リアル中学生、リア工=リアル高校生が語源。ジャニオタ由来の語。
【リアスト】出待ちの範疇を超え、ストーカーに発展している行為。また、それをしている厨。どこからがリアストになるのかについては俳優個人や厨個人の解釈に委ねられているので一概に言うことはできないが、同じ電車に乗る、最寄り駅に行くなどの行為を指して言うことが多い。
「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。」
およそ、能の名望を得る事、品々多し。上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬこと、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん爲手ならならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん爲手をば、花を極めたるとや申すべき。されば、この位に至りたらん爲手は、いかに年寄りたりとも、若き花に劣る事あるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも許され、また、遠國・田舎の人までも、遍く、面白しとは見るべけれ。この工夫を得たらん爲手は、和州へも、江州へも、もしくは田楽の風體までも、人の好み・望みによりて、いづれにも亙る上手なるべし。この嗜みの本意をあらはさんがため、風姿花傳を作するなり。
かやうに申せばたて、我が風體の形木の疎かならんは、殊に/\、能の命あるべからず。これ、弱き爲手なるべし。我が風體の形木を極めてこそ、遍き風體を心にかけんとて、我が形木に入らざらん爲手は、我が風體を知らぬのみならず、他所の風體をも、確かにはまして知るまじきなり。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風體をも知らぬに同じかるべし。しかれば、花傳の花の段に、「物数をつくし、工夫を極めて後、花の失せぬ所をば知るべし」と云へり。
一、この壽福增長の嗜みと申せばとて、ひたすら、世間の理にかかりて、もし、欲心に住せば、これ、第一、道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには、壽福增長あるべし。壽福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、壽福おのづから滅すべし。正直圓明にして、世上萬徳の妙花を開く因縁なりと嗜むべし。
およそ、花傳の中、年来稽古より始めて、この條々を注す所、全く、自力より出づる才覚ならず。
于時應永第九之暦暮春二日馳筆畢 世阿
イベントやパーティに行った時、何に興味を示すかは人それぞれだろう。
「どんな人が来ているかな」「どんな食べ物が出るかな」などなど。
自分の場合、そういう場所だと、演出のライトにフォーカスしてしまう。
ライトの点滅を眺めながら、それがどんなパターンで動いているか見極めようとし、分かったら「ああ、なるほど」と勝手に喜んだり。
つまり、世の中のあらゆる物事について、ルールや法則性と言われるようなパターンを見出す形で理解しようとするのだ。
世界をパターン化というアプローチによって抽象的に捉えようとすると言い換えれば聞こえはいいが、自分で作った思い込みに囚われやすい性格とも言える。
そんな自分にとって、プログラミングなんて簡単な仕事の部類に入る。
コンピュータは人間と違って全く融通が効かないし、指示命令書であるプログラムはコンピュータが行間を読まないことを前提に書かないと動かないし、何よりコンピュータの側が操作する人間の気持ちを汲んでくれることは絶対にない。
こう書くと極めて面倒なシロモノに思うかもしれないが、実はコンピュータに通じる共通パターンみたいなものがあって、それさえ分かってしまえば、あとはポイントを押さえ大いに効率よくやることが可能なのだ。
とはいえ流石に家に帰ってまでプログラムを組みたいほどではないが、それでも仕事にしたのは人生の選択として自分をほめてやりたい。
もちろんシステム開発に占めるプログラミングの割合は低い方なのだが、客が本当に欲しいものと、実装が楽になる方法の両方を常に勘案するという手法で仕事を進めているので、今のところ大事故はやらかしていない。
また、「マニュアルを読んでその通りにする」のもこれまた得意。
そこに来てプログラミングの土台となるミドルウェアは「とりあえずこうすれば動くよ、そんな難しくないからやってみ?」みたいなスタートアップのための情報が必ずあるので、これまた「動かなくてギブアップ」という経験は皆無。
一方で、同じITであっても、アプライアンスやストレージの管理がメインとなる、運用の仕事は全く苦手だったり。
メーカー・機種ごとに色々違っていて標準的な手法があまりないところに、それぞれ細かいところまで見ていかないといけないこともあって、自分お得意のパターン化があまり通用しないので、その時点で攻略する情熱や興味をを失ってしまうというか。
人間はパターン化がほとんど通用しない相手の最たるもので、そんなパターン化とか考える暇があるなら、もっと目の前にいる相手のことをきちんと観察しろよって話である。
しかし脳がパターン思考に最適化してしまったせいか、相手ありきの現物合わせが全くできないのだ。
「どういう言い方や持って行き方だと、最もスムーズに意思を伝えられるか」は「相手が何を思ってその言動になっているか」という想像力の問題になるが、その想像力が自分には少しも備わっていない。
なのでマニュアルなんて読んでも時間の無駄だし、多分そういう分野はマニュアルというよりレッスンor稽古or練習がモノを言う世界なので、マニュアルそのものがナンセンスという可能性が高い。
じゃあ練習すればって?誰を練習相手に?という取っ掛かりで詰んでいたり。
そもそも「パターン化できない」時点で「うわめんどくせー」と感じてしまう時点で、これ以上のコミュ力の成長は望めないだろう。
でも、もしこういうことが上手くできたら人生更に楽しいだろうなーとも思うので、なんとも悔しい。
お陰で、自分はこのままだとリーダーや営業職をこなせる可能性はゼロだし、多分それは機会損失でもある。まあ無理にやって周囲に迷惑かけるよりはマシだけど。
これは余談だが、それもあってか、フィクションの世界で目にする「人好き系リーダー」は、自分が最も好みのキャラだったりする。無い物ねだりの変形だろう。
推しがカノバレをした。
私は若手俳優オタクをしている。大好きだった漫画の2.5次元舞台をやるという話を聞いて、最初は全然興味がなかったのだが私の推しキャラのビジュアルが公開されてからというもの、私は見事にその俳優に堕ち、その人のことを考えない日がなくなった。それほど私の推しキャラが実体として表現されていることに感動したのだ。
私は必死にチケットをとり、一公演だけ観劇した。サイドシートだったけれどすごく満足した。ライブビューイングも行こうかと思うほど魅力的な1日だった。もともとバンドの追っかけをやっていた私には舞台という形がすごく不思議で特別なものだった。バンドのライブは基本的にみんなそのバンドの音楽を聴きに行く。色んな思いを持ってライブに行くと思うが結局は音楽に帰着する人が多数だろう。舞台というものはまたライブとは違った何かがあった。生のエネルギーとか、1人のほんの少しの動きで観客の受け取り方が変わる。とても面白いと思った。
それから自分の推しが出ているDVDや雑誌を買い漁った。私は収集癖があって、特にインタビューを集めてしまう。家にはすでに好きなバンドの出ていた雑誌の山や、好きなスポーツ選手のインタビューが出ていた雑誌の山があったが、そこに山が1つ増えた。
それが3ヶ月前くらいのこと。この3ヶ月で知らないうちにお金をたくさん使っていた。お金はどんどんなくなっていったけれど心はとても満たされていたので特に後悔はしなかった。これから推しのために必死に働けるならそれでいいと思った。
舞台を見に行ったとき、プレゼントとファンレターを渡した。当時舞台のことがあまり分かっておらず、ツイッターでプレゼントや手紙の受け取り口があることをフォロワーさんに教えてもらった。その時、自分は気持ち悪いオタクだなあとは思ったけど、やっぱり幸せだった。存在している生の人を応援するのはこんなにも幸せな事なのか、と思った。
私の推しは2.5次元界では最近とても売れてきて、今はきっと5つくらい舞台を控えている。そのうちの二つは座長だ。まだ20代だがこれまでに4つ座長を務めた舞台があった。割と若手のホープだと思う。私の推しはブログやインタビューを読むかぎり、とても仕事に対して誠実な人だった。少し前まで大学生で大学の勉強と仕事を両立してまで頑張っていた。そして頭がよかった。大学はかなり名の知れた大学に通っていて、しかも中学高校はそこの大学の附属だった。偏差値を調べてみたら中学が68。恐ろしいと思った。偏差値62の高校でどんどん落ちぶれていった私には、想像できない世界だった。
だから正直言って油断していた。
私の推しは演技力もあって仕事に対する姿勢もすごく真剣で、私が行った舞台のレポを読み漁ったけれど推しを批判するものは一つもなかった。それだけ評判もよかった人だった。
私は暇さえあれば、検索欄に推しの名前を入れ、ツイッターで検索をかけて見ていた。色んな舞台のレポで自分の推しが褒められているのをみて嬉しくなる、という行為を繰り返していた。気持ち悪いオタクだ。ただそれがひたすら楽しく、自分の生きる糧になっていた。
今年の春は忙しく、地方住みの私は推しの出る舞台に行けなかった。どうしても諦めきれずに申し込んだ、私の見に行った舞台の再演のチケットが、なんと1枚だけ当たり、泣く泣くチケットを探していた友人に譲り、推しがでる色んな舞台の物販の代行を頼んだ。そんな矢先の事だった。
いつものように推しの名前を入れてツイッターで検索をかける。すると「カノバレとかクソだ」という文字が目に入ってきた。
彼女だと思われる女性は前に私の推しが座長を務めた乙女ゲームが原作の舞台のヒロイン役で、推しの演じるキャラのルートだと2人は結ばれ、もう一つのルートだと、その2人の仲は引き裂かれ、推しの演じるキャラは狂ってしまうというものだった。その舞台ではキスシーンのようなものもあった。その子はすごくかわいかったのでお似合いだと思い私はちょっとほっこりした。
それから色々調べて、2ちゃんを覗いたり、彼女だと思われる子のブログを読み漁り、ツーショットや推しのことについて書かれた記事を見つける度にスクショした。そんなことをしていると、すぐにカノバレのソースだと言われた画像にたどり着いた。推しが付けていたものと同じヘアバンド。これだけじゃ分からないでしょ、と思いブログを読み進めていたが、ある一つの記事を読んだ後、私は確信した。この2人は付き合っている。その記事は私の推しが出た舞台を観劇したという内容だった。推しは主演ではなく、ぎりぎりメインキャスト…?と言ったところだった。がいつもの推しやいつも演じている役とは全然違うタイプの役を演じた。それに感動した、という内容の記事だった。当然ツーショットも一緒に上げられていた。私は分かってしまった。その文章をみて、推しにリア恋している私たちオタクそのものだと思った。そうだよね、かっこよかったもん。私もその舞台のDVDを観たから分かる。いつもの推しとは違う表情、鋭い目線。かっこよかった。
その記事を読んだら何故か心にぽっかり穴が空いてしまったようになった。
もともと私は推しをかっこいいという目線であまり見たことがなかった。ずっとかわいいという目線で見ていた。だいたいの人はかっこいいと言って見ていたけれど、私はかわいいとしか思ったことがなかった。
しかも友達とことあるごとに、推しには結婚して欲しい、支えてくれる彼女がいてほしい、幸せになって欲しいと言っていたし、推しが左手の薬指に指輪を付けた写真を見る度に、彼女と幸せになってくれ、と祈っていた。
前の舞台(その彼女と共演した)舞台で、推しはとても悩んで、稽古場で泣きまくり気づくと何処か1点を見つめて考え事をしていて(他のキャスト談)家に帰ってきてからもひたすら泣き、悩みすぎて眠れずに夢遊病のようになったことがあったと自身のブログで言っていた。そんな時も彼女がいたらいいのに、辛い時に支えてくれる存在がいればいいのに、私はと言っていた。(その時は共演していた親友に助けられたと言っていた)
そんな思いで見ていたのにカノバレしたのにかなりショックを受けた。
彼女はいて欲しいと思っていたのになぜだかショックだった。リア恋なわけでもなかった。ただかわいい推しを見ていられればいいと思っていたのにショックだった。
やらなきゃいけない事がたくさんあったのに、それに手がつかないくらいに混乱した。
ずっと考えてみて、ショックだった理由はきっと、推しを信用していたからだとわかった。推しは前にも書いた通り、頭もよかったし仕事に対して真剣で、プロ意識もきちんとあったし、演技力もあった。私は推しを信じすぎていたのだ。その舞台の再演も、推しより他のキャストの意識が低くとても心配していたところだった。こんなタイミングでカノバレなんてすごくショックだった。今たくさん舞台を控えている。座長の舞台もたくさんある。今が売り出し時と言わんばかりにいくつも舞台を抱えている今、カノバレするなんて。これで推すことをやめようなんては思っていない。変わらず私は推し続けていくし、グッズを集めるしたくさん舞台にも通うし、手紙やプレゼントもたくさん送るのだろう。ただ、心にぽっかり穴があいたようだ。推しが好きな気持ちは変わらないけど何故か苦しい。
そりゃ、頭もよくて真面目でいい人ですごくかっこよくて、こんな人に彼女がいない方がおかしいと思う。でも「彼女がいること」と「カノバレすること」は違う。みんな信じていただけあって、私の周りのオタクの反応は大きかった。でも、炎上したわけではなくてこじんまりとカノバレしただけだったので、それを知らずに推しを追っかけている人もいる。私の知っている中でカノバレを知っているのは3人くらいだろうか。ただ私たちは同じようにショックを受けた。
楽しみでやるんならオリジナル脚本でもいいんじゃない? 演劇って言ったって幅広いわけで、仲間内の劇団でやるならインプロブ的なものだってありだろうし。
伝統的なプロセスで、しっかりした脚本にがっつり取り組みたいっていうなら、許可ぐらい取ろうよ。アマチュアなら上演料も1~2万円だし場合によっては上演料いらないって人もいるし。
イギリスやアメリカの普通の劇場でかけられるような脚本だと、そもそも上演演目として選ばれる前に何段階ものセレクションを経ているし、何年もかけてワークショップ等でリバイズされてようやく日の目を見る。日本だと劇団付きの作家が書く場合が多いからちょっと事情は違うかもしれないけど、完成度の高い脚本てのは単にスキルの高い人が書いたっていうだけでなく、その形になるまでの揉まれ方が違うわけで。その過程を尊重するなら、許可くらいどってことないでしょう。
(逆に、「素人の書いた脚本」でも、何十本かトライしてそっから候補を選び、何回かワークショップ(稽古場でのミニ公演的なもの)をやって役者と対話しながら練り上げてみたら、かなり完成度上がると思うよ。そこまでやって初めてありものの脚本との比較対象になり得るんであって、次の公演のために何か書かなくちゃ、で一発勝負で書いたものなんてデッサンとかスケッチのようなものでしょ。)
(追記:ああ、もしかしてブレヒト絡みのアレ? ああいいうのは個別に折り合いがつかなきゃ諦めるしか。ベケットもうるさかったよね。一方で寛容な人もいるし。そこは選んでゆくしかないでしょ。)
小さい頃、俺は神童と呼ばれていた。
村のみんなからも一目置かれ、両親の誇りだった。
いずれは都に行って、立派になって、村のみんなを助けてやりたいと思っていた。
こういう場合、熊には決して背を向けず、ゆっくり後ずさりするのが鉄則だ。この村の人間なら誰でも知っている。
ところが俺は、恐怖のあまり何も考えられず、全速力で逃げ出したのだった。
熊は興奮し、全力で俺を追いかけてきた。
相撲でもかけっこでも村一番だった俺でも、山道で熊から逃げ切れるわけはない。
40歩ほど走ったところで、熊に追いつかれ、熊に叩き倒された俺は、今にも俺を殺そうとする熊の息を感じていた。もうダメだと思った。
熊が悲鳴をあげたのはその時だった。
熊の頬から熱い血が滴り落ち、俺の腕に当たった。その先に光っていたのは、爺ちゃんの草刈鎌だった。
「逃げろ!」
爺ちゃんの声。
そこから先は、よく覚えてない。思い出すのが嫌で、誰にも言わないようにしているうちに、本当に忘れてしまった。
わかっているのは、俺は生きて山から村に戻ってきたこと、爺ちゃんはそれ以来、帰っていないということだ。
家の手伝いもせず、母ちゃんが作ってくれるご飯を食べる以外は、畳の上で天井を見上げていた。
村のみんなが俺を軽蔑している。
俺は爺ちゃんを見捨てた卑怯者だ。
俺は何もできなかった。
頭皮がズキズキして、俺の頭の中から何かが出てくるようだった。
一週間後、痛みがなくなった。
さらに一週間後、あいかわらず天井を見上げていた俺は、頭の表面に硬いものを感じた。
手で触ってハッとした。
「角だ」
–––1000年前、この村を鬼の大群が襲った。
力にも数にも勝る鬼の大群に、村の戦士たちはなすすべもなく、たった2日間で長老が降伏に同意した。
村は10年に一度、鬼に生贄を捧げることと引き換えに、鬼は二度とこの村に攻め込まないという和平条約だった。
鬼に捧げる青年は、時が来ると頭から黒い角が生えてくる。鬼の一族の印だ–––
俺はこの話を、小さい頃によく爺さんから聞かされた。
毎年春に担がれる御輿は、祭りの最後に村のはずれにある社に備えることになっている。そうすると、10年に一度、社に備えた御輿は跡形もなくなくなり、次の年のための御輿作りが始まるのだ。
俺は、生贄になるのか?
翌朝、俺の角を見て母ちゃんは泣いていた。
こんなもの俺がとってやると、父ちゃんは言った。1000年も前の鬼との条約なんて知ったことか、と。
俺は考えさせて欲しいと言った。
4ヶ月が経った。夏になり、御輿の準備が整い始めた。
母ちゃんは毎晩のように泣き、父ちゃんは角をとってやると繰り返し言い、俺を説得しようとしていた。
「みんなの役に立ちたい」
父ちゃんと母ちゃんの前で、俺ははっきりそう言った。
「角は取らない。俺は生贄になる」
本心だった。
この3年間、俺は役立たずだった。死んだ方がマシだと思っていた。死ななかったのは、ただ勇気がなかったからだ。
御輿に乗って、10年後、鬼に取られる。そうすれば、俺はやっと、役立たずじゃなくなるんだ。
俺には他に何もない。
御輿に乗れば、村を守れる。
御輿に乗れば、みんなの役に立てる。
御輿に乗れば、俺は、俺に戻ることができる。
あの日も、東京に雪が降る、そんな予報が流れていた日だった。当時俺はとある芸事の女師匠に弟子として使えていた。稽古場兼住居に住み込みをし、師匠の身の回りから何から何まで
を管理していた。師匠には妹がおり、その妹さんと資産相続の件で揉めていたのだ。師匠の親はもう80を超える年齢で、とある上場企業の創業一族。都心の一等地に屋敷を構えていたらしく、
その屋敷と土地の分け方で姉妹がうまく行っていないというのが専らの噂であった。十数年前の寒い日だった。ニュースでは翌日から関東にも雪が降り、交通の便が乱れるだろう、そんなことを
夕方、突然師匠の妹さんが訪ねてきた。俺はお茶を準備し応接間にお持ちしたが、二人の険悪な様子は鈍感な俺にも伺い知れた。後から分かったことではあるが、妹さんは親の屋敷に住み、父の介護をしながら、
その屋敷で地域の子供相手にピアノ教室を開いていた。しかしながら、師匠はその屋敷を取り壊し、大きなマンションにすることに固執していた。勿論それは相続税上、賢い策ではあったため、
妹さんは決して反対ではなかったのだが、せめてピアノ教室のスペースをマンション内に設けてほしいと依頼していたらしい。しかし、師匠はそのお願いを断り、妹をマンション計画から追い出そうとして
いたのだった。
話し合いは平行線に終わり、妹さんは去った。師匠は俺を呼び、「清次郎(仮名)、塩をまいときなさい」と命令した。私はしょうがなく、玄関に塩を撒いたのだった。師匠のそういう部分がとても嫌いだったで、
イライラして沢山の塩を、えいっとまるで水戸泉の真似をしながら撒いた事は覚えている。
さて、翌日俺はいつも通り朝6時に起き、箒を持って、近所の掃除に向かおうとした。近所付き合いも兼ね毎日行っていた習慣だった。引き戸の玄関を開けて俺は気を失いかけた。何と師匠が玄関に
倒れていたのだ。顔に生気はなく、口から血が出ている。俺は気が動転しながらも、師匠を抱きかかえた。身体は冷たくなっていて、呼びかけにも殆ど反応が無かった。すぐに救急車を呼び、俺は近所の知り合いに
助けを求めに一旦外へ出ようとした瞬間、つるっと滑ってしりもちをついた。全く師匠と同じ場所で。雪の予報は外れ、雨が降った程度だったが、冷え込みは激しかった。扉を開けた一面がまるで
アイスリンクの様になってしまっていた。痛めた腰を摩りながらよく見ると、凍っていたのは昨日俺が師匠に言われ塩を撒いた一部分だけであった。そこだけが、まるでそこが死の世界に繋がる入り口のように、黒く艶やかに光っていた。
救急車の中で師匠に呼びかけながらも、俺の手のひらに出てくる脂汗が師匠の容体からではなく、自分が撒いた塩に関しての生体反応であることは気づいていた。師匠はその後入院をしたが、脳内出血をおこしており、
意識が戻ることはなく、数週間後にこの世を旅経つこととなった。
さて、そこから意外な事になる。俺は、そもそも、師匠の冗談で師匠と養子縁組をしていたのだ。師匠には子供はなく、まだ50代であった事もありそれほど深い考えがあって俺を養子にしたとは思えない。
しかしながら、すでに師匠はその土地の一部を生前贈与していたらしく、その土地の相続する権利が俺に発生していまい、師匠の一族(といっても殆ど死去しており、また、子も少ない一族であったので数人)、
と話し合いをすることになった。俺は勿論その相続が単なる冗談の様なものであったことは理解していたので、放棄する手もあったのだが、妹さんと話していくうちに、何故かこの人を守りたいという気持ちになり、
一部の権利は確保することとなり、マンションの建築計画に参画をすることになった。
少ない知識ではあったが、マンションを建てることで相続税も最小限に抑えることができ、勿論そのマンションの一部をピアノ教室にして、更には何とその妹と、お互い50代ではあったが慎ましく結婚をした。
一族も皆無欲な人々で、株券だとか、車だとかそういうものは皆で分けたが、土地の権利は我々夫婦で全てをもつこととなったのだった。
ピアノ教室はその素晴らしい立地もあり、多くの高所得者層のご子息が多く通う教室となり、経営は成功した。優秀な講師をどんどん雇い入れ、レベルがある程度高い割には、
牧歌的な雰囲気もあったことが成功の秘訣であった。また、数年後にはそのノウハウを生かしフランチャイズ展開も行った。今では全国に20か所の同じようなピアノ教室を運営し、
我々は経営の一線からは退いたが、妻は相変わらず子供たちにピアノを教え、俺は趣味でかつての芸事をやったり、日本全国の登山をしたりと悠々自適な晩年を送らせてもらっている。
しかし、こんな寒い日になると、俺はあの日、手にもった塩の感覚が蘇り、汗がじとっと出て一人布団で震えているのだ。人間の運命とはかくも不確かで、不安定なものである。それは、ただの偶然の積み重ねだったのだろうか、
それとも、神が定めた運命だったのだろうか。いや、きっと人間一人の人生など、大きな宇宙のうねりの中ではまるで人間にとって小さな蚊が叩いた手からすり抜けていくか、はたまた潰されてその一生を終えるのかの如くであろう。
年末に待ちに待ったスターウォーズの新作を観たが、最低だった。
※ちなみに英語でしか観れる環境でなかったので、会話の内容はほぼわかってない。帰国したらきちんと吹き替えか日本語字幕で観たいと思う。
ーファンのつぶやき。ー
大好きだからこそ言いたい。
スターウォーズはファンからしたらもはや映画ではない夢なんだ!
スターウォーズはSFアクションであり、ラブロマンスであり、ドキュメンタリーというかモニュメンタリーであり、愛や友情、企業連合、民主主義の欠点まで描いた全てなんだよ。
もはや映画という娯楽の領域を超えるものであり、もう一つの世界なんだよ!
だが今回、ディズニーはそれをファンタジーとして描きやがった。
いや、今までもご都合主義あったよ?ファントムメナスでもタトゥーイン離れる時にちょうどダースモールに追われたりとかさ。
けどさ、今回は後の指摘も含めてご都合主義が多すぎだろ!ボケ!
偶然主人公と脱走兵が出会うとか。ミレニアムファルコン乗ってたらハンソロに捕まるとか。戦艦内で誰にも見つからず逃げるとか。
最後、主人公と悪役が戦ってる時にちょうど二人の間の地面が割れるってどういうことだよ!
フィクションなんだから気にすんなって?映画だからいいじゃん!だって?
いや、そういう細かいことに気を配って、ミスったり間違ってたら後で設定をつけるっていうのがスターウォーズなんじゃん。
たくさんあるけど、例えばこれ。
『映画エピソード2ではジャンゴがスレーヴ1に乗り込む際にヘルメットを扉にぶつける描写があるのだが、エピソード4でストームトルーパーがデススター内の扉を通過する際に同様にヘルメットをぶつけるシーンがある。 これについてはストームトルーパーがジャンゴの遺伝子を受け継いでいたためジャンゴと同じ癖を持っていたという事が公式にアナウンスされており、クローントルーパーが旧共和国軍に採用されてから22年経過した時点でもジャンゴのクローンがストームトルーパーの中に存在していることがわかる(ジョージ・ルーカス得意のお遊び)。』
全てフォースの導きで片付けろって?
無理だね。お前はやりすぎだ。アホ。
②ライトセーバーのバトルがしょぼい。
そのまま。アクション映画と言えない。ライトセーバーバトルがないスターウォーズはスターウォーズじゃないけど、これならない方がマシ。
百歩譲って主人公は訓練を受けていないためライトセーバーを振り回すしかできない。ならまだ理解できる。ok。
でも、あの素早いバトルアクションが俺は見たいんだよ!
→③に続く
③設定無視。
主人公がフォースを使う訓練を全く受けていないのにライトセーバーやマインドトリック、フォース・プルを使う。意味がわかんない。
まず、素人がライトセーバーを起動して使うことは可能なのは知ってる。グリーバス将軍やアニメ版クローンウォーズ中でバウンティハンターも使ってたし。
ライトセーバーは刃の部分に重量がないため素人が使うと自分の腕を落としたり怪我をすることがある。
つまり扱いにくい。ジェダイは幼少の頃から訓練に訓練を積んで技術を身につける。それに何種類もの型がある。
フォースの使えないグリーバス将軍はもともと戦闘能力が高いということもあるがダースティラナス(ドゥークー伯爵)に稽古をつけてもらって、ジェダイを何人も殺せるほどになった。
それでも将軍はオビワンやフィストー、メイス・ウィンドゥレベルになると負けた。
それなのに主人公や味方トゥルーパーの黒人は敵と普通にライトセーバーバトルを繰り広げる。
主人公は百歩譲って(譲りたくはないが・・・)okとしてなんでそこらのトゥルーパーがそんなこと可能なのか謎。しかも相手はジェダイとダークサイドの訓練をしてきた敵なのに。
ライトセーバーはこれくらいにして、マインドトリックとフォース・プルだ。
なんでなんも訓練してないのに使えるの?誰からも教わってすらいないよね?
あのフォースの強いルーク・スカイウォーカーだってヨーダの訓練があって物を浮かせられるようになったよね?それも相当苦労してさ。
訓練を受けていなくても、幼少期アナキンやEzra Bridgerとかは人間離れの反射神経やかすかな未来予知はできてたけど、そこまでできた奴今までいなかったんですけど。
なんなんですか本当に?
新しくフォースを使える人が出てきて、仲間と会って、デススターみたいな巨大な兵器を壊して、宿敵を倒す。みたいな。
ほんと旧三部作をつまみ食いしました。って感じ。新しさがないし、面白くない。
なんなら今回ルーク・スカイウォーカーはほぼ出てこなさそうだなって途中で読めたし。次回に取っておこう的な。
でもそれは正解だと思う。それなかったら次見る気も起きないし。主人公含め全てのキャラに感情移入できない。感情移入や思い入れを持てるほど親しみを感じないし。
この映画SWってブランドがなくて公開してたら、B級映画だよな。B級映画でもめっちゃ面白いのあるからこの例えはB級映画に対して失礼か。すみません。
まとめ
今までSWのターゲットは男だったのを家族とか万人受けするように作ったんだなーって思った。
新しいドロイドとか「ここでこうやって感情的な表現だしとけば〜、ここで笑いを取っておけば〜、こうすればうけるんでしょ?」「ファンはこうすれば喜ぶんでしょ?」みたいな制作意図見え見え。
まぁ確かにその家族とか万人受け路線をやっとけば、グッツ販売とか好調ですもんね!ディズニーさん!さすがっす!
別に大したことない映画作ってもSWのブランドがあれば興行収入もがっぽがっぽですもんね!ディズニーさん!さすがっす!
ピクサーとかディズニーは嫌いじゃない。むしろ好きな方だと思うけど、神聖なスターウォーズでそれをやらないでくださいよ。
本当に勘弁してください。お願いします。
<追記 1/7>
「まだ三部作の一話なのに」とか「英語で意味わかってないのに感想かよ」という指摘は十分承知だ。
野暮な事は自覚している。
でもこのゴミのような文を感情の赴くままに書かずにはいられなかった。
新作を作ると決まった時、嬉しい反面少し怖かった。
もし全てを変えられる力が手に入るなら私は暗黒面に忠誠を誓う
今日は金曜日なのでいつもだったら週末に向けて気が抜けてダラッとしていたが、エイヤッ(IT業界語)と公園に行ってきた。
そもそものきっかけは、はてなブックマークでラジオ体操の話題を見ていたのが記憶に残っていたという点は大きいと思う。
ただ、常駐先で一挙手一投足を監視されながら定時まで嵐のように仕事をするとヘトヘトだし、緊張状態が続くので体が
凝り始めたというのが大きな理由だった。「追い込まれてもヘラヘラ笑っているIT超人」みたいな人がたまにいるが、
なるほどああいうタイプはしぶといだろうなとようやく理解出来た所もある。
本当ならば、夏休みの小学生のように朝日を浴びながら体操すれば心にも体にも良いんだろうが、現状でも基本定時帰り
とは言え6時起きで通勤しているので、現実的には厳しい。では帰ってきてから、リラックスモードに入る前にパパッと
着替えて3:16の体操をこなしてくればいい。
音源は落ちていたが、自分の逃げ道を防ぐためにiTunesStoreで購入。200円。
一日目。体操を終えてみると「なぜこんな事に?」という疑問点が出てきた。ウルトラマンである。
二日目。ある程度一日目の疑問が解けた。
三日目。かなり腑に落ちた。
アニメ刀語の主人公の姉であり、「天才」「化物」の鑢七美(やすりななみ)の特技は「見稽古」である。
大抵の技は一回見れば覚える。二回見れば盤石。
もちろん筆者は単なる凡人であってフィクションの天才とは比較にならないが、経験とは馬鹿にならない物で宮本武蔵の
五輪の書における「観の目」的な物が自動的に整理される。パターンの見切りが早くなる。おそらくゲームをあまり
やらなくなったのもその辺が原因だと思う。
まずかなりの人はラジオ体操を学生時代以来やっていないと思うし学生時代に苦になった人は余りいないと思う。
筆者も運動神経は鈍い方だったが、特に苦にはならなかった。ただ、中年の身では余裕だと思っていたが、結構しんどかった。
思い出したのは、小学校時代の運動会で保護者のやっていたラジオ体操だったのだが、それがなんだか子供心に無様に見えた。
早送り気味のチャップリンの映画のように、挙動がせっかちで芝居がかっているように見えたし、テンポも遅れている。
それから昔テレビで見た芸人のラジオ体操。余裕綽々で始めるが体操が終わってみると、半ヤケ気味に満員電車の中で
揉まれたように髪は乱れメガネがズレてシャツがズボンから出ている。オーバーアクションでもなかなか面白かったのを
記憶している。
おそらく原因は二点あって、一つは「年を取ると感情の抑制が甘くなる」という点があると思う。
動作に感情を込めると間違いなく「力む」のだが、その力みがぎこちなさや無駄な動きに繋がっている。
だから感情が豊富なオタクの言動は芝居がかっているし、機械的動きが必要な楽器演奏で情感を作り出す音楽を
やっている人は動作が軽やかで年を感じさせない。多分ラジオ体操もうまくこなすと思う。ただ、オタクも
例えば弓道のような精度を高めてくスポーツにハマれば感情を込めない動きがマスター出来るだろうし、
作品を作る方の漫画家も反復作業が膨大に発生するので技は磨かれるだろうが。
それで連想したのは「料理は愛情」と言うけれど愛情は感情だから品質にムラがあるのでは?
プロとしてそれはどうなのかな?古来からの言葉なのかな?と軽くググると、起源は
『1980年代にオールナイトフジの「結城先生の真夜中のお料理教室」や料理番組「夕食ばんざい」などに
出演していた料理研究家の結城貢のキャッチフレーズ』とある。最近の言葉だった。
どうも、どこかで「愛情を込めて歌う」という文章もあった気がするが、「心を込めて歌う」という表現の方が一般的だし、
理にかなっているような感じがある。感情を込めて歌うとロックのように力んでがなり立てるような歌い方になるか
まともに歌えなくなるだろうし、心を込めるというのは丁寧にやるということでクラシックのオペラ的な歌い方とまでは
行かないまでももっと純粋な歌唱力の問題になるのでは、とここまで考えて、筆者自身「心を込める」という言葉が
どういうことかということを厳密に理解していないなと思い、またもやググってみたが、「いかに相手に真剣に向かい合うか」
それから整理してみると、どうも感情量を増やすような構造に嵌められている気もするが、穿ち過ぎかも知れない。
閑話休題。二点目。
3日目で詳細まで分かったがラジオ体操は「前半は緩いが、ドンドンしんどくなる」ということだった。
一番始めの「腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動」。これは緩い。ここで大抵のおっさんは油断してしまう。
粛々とこなして、「前下に曲げます!柔らかく弾みをつけて3回そして、うしろそりぃぃ」。ここで「あれ?俺テンポ少し
遅れてね?」。
クライマックスはその後の「身体を回しましょ~(`・ω・´)!!」からのコンボ。上半身をグルグル回す。クラクラする。
漫画のキャラクターを笑えなくなった。三半規管が弱まっているな……。動作も遅れ気味だ。
続けて「足を戻して両足飛びぃ~」。クラクラしている中、暗い空間をジャンプする。なるほど。これが目眩か。
SFのセンスオブワンダーが目指している領域。ゲームデザインに興味のある人ならおなじみのカイヨワの
「遊びと人間」における「眩暈(イリンクス)」。4分類(他は「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」
わたしはデブだ。
ほらみろ。男なんてそんなものじゃないか。
じゃぁ聞くがお前らは本当に貧乳好きなのか?
貧乳好きと言っておきながら、スレンダー貧乳とぽっちゃり貧乳なら悩みもせずにスレンダー選ぶんだろ?
違うって言うならわたしの質問に答えてみろよ。
そうして目の前には、ぼっちゃり巨乳とぽっちゃり貧乳が立っている。
どちらをのせますか?
ほらみろ。今悩んだろ。
悪いけどこの質問に即答できた貧乳好きいまだかつていないからね。
嘘だと思うなら試してみるこったな。
貧乳好きとか豪語する男子の前で、「わたしも貧乳だけどね」と頑張ってぶっこんでるのにあからさまにコレじゃない顔される気持ちがわかるか?
いい感じになった彼とさぁこれからって時に「少年相撲の横綱みたいでかわいいね」って言われたときのフクザツな心境が理解できるか?
お前らが次に貧乳好きなんて名乗ろうものなら家探しだして玄関先で鉄砲稽古始めるからな。覚えておけよ。
※追記
その上で聞くがひとりとしてわたしを選ぼうとしないのは何故か。
お前ら今晩巡業な。
なぜか。それは前提となっているコミュニケーションの型が違うからだ。
たとえばフツーのコミュニケーションにおいて大部分を占める個人(自分/他人)の体験談である。これはかなり独自性が強い。抽象化すればカテゴライズ可能かもしれないが、基本的には個別的で、「事前に共有されていないこと」が前提となる。なので体験談を話すときのフォーマットは自然「知っている人間が知らない人間に教える」形におさまる。
これがみんなの身体に刷り込まれているため、「あ、私その話知ってる」と言って情報の非対称を乱すような行動はあまり好ましくないわけだ。人は情報強者っぷりに酔えなくなるので、知ってるアピールを嫌うのではない。頭のなかにあるリズムや無意識にプランニングされた流れを崩されたからイラ立つのだ。
一方読書は流派が違う。その体験が「事前に共有されている」可能性を常にはらんでいる。なので「私知ってる」といってもコミュニケーションの型が完全崩壊することはない。むしろ、そこから分岐するのだ。
つまり、体験談とは違い、「互いに知っている状態」の先がある。
えてして体験談トークのコアタイムは体験談そのものに宿っているわけだが、読書はそうとはかぎらない。
もちろん、「知っている人間が知らない人間に教える」形も多くあるわけで、その場合はいかにあらすじをネタバレせずにおもしろおかしく語るかが重要になってくる。レビューのようなものだ。
ところが「互いに知っている状態」であれば、そのフォーマットがお互いどう読んだかの討論モードに変化する。ここでいう討論モードはかならずしも怜悧な評論・批評合戦のみを指さない。ゆるい感想の言い合いも含む。
ともかく「知っている人間-知らない人間」の場合と「知っている人間-知っている人間」の場合とでルートが分岐するのが読書コミュニケーションの特性であるといえる。別に読書でなくとも似たようなコミュニケーションが発生する流派はやまほどあるはずだけれども。
http://anond.hatelabo.jp/20150416201757 へ
増田の悩みはとっくに解決済みなのだ。たった一行で解決方法を書くことができる。しかしいきなりそれを書いても素直には受け止められないだろうから、先にこんな話を紹介しよう。
「俺は入門する前から上手かった。とても上手かった。上手すぎて誰も俺の落語を理解できなかった。
稽古した結果、俺は下手になった。下手になったおかげで、客は俺の落語を理解できるようになった。
だが下手じゃ悔しい、下手なままじゃいけないと思って、もっと稽古した。そのおかげで、俺は人並みになった。
今俺は、人並みでいるために稽古している」
真剣に勉強すればするほど、自分の知識があやふやであいまいなものであることに気づく。実は自分が何も知らなかったことに気づく。
どんな分野でも、第一級の大家と呼ばれる人はみな、驚くほど謙虚なものだ。
それは彼らが、自分の業績が先人の膨大な遺産の上に成り立っていることを知っているからであり、未解決の課題が山のように広がっていることをありありと眼前にしているからだ。
中学生の頃、月一で行われる全校集会の最後の校歌斉唱が非常にかったるかったし
各種行事の事前段取り練習(運動会の行進の練習とか卒業式の全員参加のリハーサル…ミュージカルのようにストーリー仕立て?で歌うやつの通し稽古)も非常にかったるかった。
だからこそ最初から真面目にやればすんなり終わる可能性があるにもかかわらず、
グダグダと聞こえよがしに文句をつけて指導の教師の神経を逆なでする同級生たちが理解できなかった。
別にいい子という評価を貰いたいわけではなく、単純に説教の時間がもったいないと思ってた。
なんで進んで長引かせるんだろうっていつも思ってた。
うっかりミスや忘れ物が非常に多かったせいで普通に色々と説教受けてしまっていたけど。
(なぜかそこだけはちゃんとして怒られないようにしようという思考が働かなかった…)
ネット上の炎上案件にしても同様で、なんで素直に謝ってしまわないんだろうと常々疑問に思ってしまう。
さっさと謝れるところは謝ってしまって、それ以上追求したり人格否定を始める人のほうが客観的に見るとどうよ…みたいな空気に持ち込んだほうがよくない?
なぜか炎上する人ってこの謝罪をしない事が多くて不思議でならない。
どうしても譲れない点ならともかく
「感情的になってすみませんでした」「先走りすぎました」「勉強不足でした」「調子に乗りました」
これくらい言ったってそんなに評価下がらないと思うのにな。
むしろちゃんと非を認められてすごいじゃん!ってならないものだろうか。
不良が更正の効果的なあれ。
そんでそれ以上ネチネチ追求するほうが陰湿っぽ~い的な印象操作ができたら勝ったも同然だと思うのに。
まあちゃんとゴメンナサイする前にその印象操作をしようとして火に油注ぐ結果になってたりするけど。
というかそのどうしても譲れない点が『謝罪する事』なのか。
もしもそうなら生き辛そう。
僕はいわゆるIT系の会社にいるのだけど、その会社の方針だかなんだか分からないけどデブの割合がすごい。10人に1人はデブがいる。「10%ならたいしたことないじゃん」と思うかもしんないけど、その10%がすごい。「いやFKANとかITにデブはデフォでしょ」とか言うかもしんないけど某FKANとかむしろ痩せてる方だと思えるくらいすごいデブがうようよいる。
最も不思議なのが、「どうして奴らがデブを維持できるか」だ。あのくらいのデブになると、早朝に起きて稽古をしまくってちゃんこ鍋食いまくって寝るとか、そういう正しい食生活を送らないとあの体型は維持できないと思うのだが、うちの会社は弁当以外の飲食物の持ち込みはセキュリティ上の問題で禁止なのだ。そして店内の自販機には小さいドリンクしかない。んで缶コーヒーか水くらいしか売ってない。コーラも250mlくらいの小さいやつならあるが0カロリーのやつだ。会社には社食があって、弁当も売っている。どれもカロリーが明記されていてバランスの取れたものになっている。カツ丼とかラーメンとかデブが好んで食いそうなものはない。そしてうちの部課ではみんな忙しいので社食じゃなくて席で弁当を食べる。どのデブもちゃんと1人前しか食べてない。
デブを1日中観察している。飲食物は持ち込み禁止なのでピザとかハンバーガーやコーラを飲みながら仕事してるやつはいない。というかものすごい田舎に社屋があるのでマックとか車で20分くらい行かないと存在しない。ピザとかたぶん配達を断られるエリアだ。会社の自販機以外でドリンクを買おうと思ってもコンビニまで車で10分。そんなに長期間離席したらさすがの俺も感づく。たしかに奴らは昼飯しか食ってない。
それどころか、多くのデブは休憩スペースでお茶とか飲んでる。水とか。ゼロコークもあるけどあえてのおーいお茶を飲んでいる。弁当も普通のやつを普通に1人分食っている。それで、なぜあの体型が維持できるのか。誰か教えてほしい。
彼らが暴飲暴食をするタイミングは土日と11時上がりの仕事の後だけだ。それであんなに太れるのか。もう、どう見ても200kgはあるデブがふつうにうろうろしていて、トイレで隠れてラードとかサラダ油を飲んでるとしか思えないのだが。