はてなキーワード: 田楽とは
ちぎっては投げ、ちぎっては投げって言葉あるじゃない。
あれお餅でやってみたくない?
ちぎっては投げちぎっては投げって。
今週はお昼どきが多い感じね。
なにか忘れてることあるかと思ったらここ書かなきゃ!ってもう今回もキャハとキャピを盛って書くわよ!って意気込みだけはあるその勢いは、
お昼ランチなににしようかなと思ったら、
ライフ・オブ・パイってあの虎と一緒に漂流する映画じゃなくて、
クオリティ・オブ・ライフをしれっと上げていこうって話しなのよね。
御味御汁も付けちゃって、
ふとさ、
私草餅は好きでよくいただくんだけど
なんか塩大福で中に入ってる小粒のちょうどいい歯ごたえの小さい豆が美味しくて、
う、う、鰻が食べたい!って
余計に鰻食べたくなっちゃうじゃない。
あたかもたまたま目の前にあったお店に偶然を装って下調べはしておいたことは内緒にしている体裁で、
もうこのお店は美味しいのは間違いないのに、
このお店は美味しいよね!このお店の雰囲気が!って盛ってコメントしなくちゃいけない演者も大変だけど、
一時期は鰻鰻って銀シャリの人が言ってるほど、
鰻不足だったけど、
この時期になったら鰻の話題すら出てこなくって、
本当にみんな白状!って思うわ。
あの鰻不足ニュースは世間に出回る鰻がピンチだから逆に食べたくなるようにけしかけられてたらまるで電通ね。
そう思ってやまないぐらい、
木綿豆腐をフライパンで焼いてキツく焦げ目を付けてお肉だー!って言ってる場合じゃないのよ。
でも結局は木綿豆腐に戻るのよね!
あーそれ分かるわー木綿豆腐の方がお料理するときお料理しやすいのよね。
もしかしたらさ、
鰻風豆腐田楽!ってクックパッドで調べたら1万件ぐらい出てきて、
やっぱりみんな鰻食べられないから、
鰻に憧れてそれに寄せる、
まるでサザンオールスターズさんの歌の寄せては返すみたいに
店員さんに面と向かって恥ずかしくって鰻を注文できなくなるわけなのよ。
なんか通が食べる鰻の肝も憧れるわー。
苦味が旨みになったら大人だし、
最近では味覚の種類に痺れって言うカテゴリーも加わったって言うから花椒がそりゃ人気になるわけだわって。
これもなるほど合点よね。
甘い辛い苦い塩っぱいに加えて、痺れる!ってのが加わるなんて、
山椒もどちらかというとそう言う痺れにカテゴライズされる味覚の種類よね?きっと。
だから本番の花椒がなかったら山椒で!って言うのが世の中の通説みたいよ。
お弁当の歌のように、
おにぎりはまあともかく、
あれを美味しい!美味しい!って食べる子どもちゃんがいたら結構渋いわよね!
「やれやれ、じゃオレが本物を食べさせてやりますよ!」ってどこに連れてってくれるのかな?って期待しちゃわない?
でも何度も言うけど、
一旦山岡さんが目指そうとしている手前のものをすでに食べてしまってからの
あの台詞じゃない、
それお腹減ってるとき食べる前に言って欲しかったなーって思うのよね。
いや、もうなんとなくなもの食べちゃったからお腹はいっぱいなんだよね!って
そんなこと言ったらきっと山岡さんは
お腹いっぱいだか知らないけど、
織田裕二さんが切なくとも力強い口調で、
レインボーブリッジ閉鎖できてません!ってまるで他人事のようにいいそうよ。
まあお昼のランチは
思った次第なのよ。
うふふ。
これしばらくハマりそうだわ。
意外とハムとタマゴとチーズの四重奏って美味しいな!って見直しちゃったわ。
今国産のレモンがいれもんに入らないぐらいたくさん買い込んでしまったので、
それをせっせと消費すべく半分に切って、
私も店頭で見かけたら七転八倒の勢いで買ってみたいと思ったわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
自分は貧乏舌なのでなんでも美味しく食べられるし、48円で200gの豆腐で満足していた。
寒くなってきましたね。
こんな寒いときにはお湯に昆布出汁を取って絹ごし豆腐を入れるだけで体の芯からぽっかぽかな湯豆腐。それに、芋焼酎のお湯割り。
やっぱこれだね。
食事を安くおいしく済ませたい自分にとって湯豆腐、水炊きなんていうとりあえずぶっ込んで美味しくいただける料理はスターダムで、湯豆腐なんて昆布出汁の素とか、出汁の素とか、コンソメとかがあれば50円もかからない自分にとっては寒い時期のエース料理なんだけど、職場の先輩と京都のほうに打ち合わせに行った時に「ええもん食わせたるわ!」とおごってもらったのが湯豆腐。
自分としては普段そんなに油を取っていないので先輩におごってもらうならラメーンとか焼肉とかがいいなぁと思いながら先輩の「ほんとハマるで」と言ってちょっと高級そうな5000円ぐらいする湯豆腐(もちろん豆腐だけの値段じゃなくて天ぷらとか田楽とかがついて)をごちそうになる。
うん、豆腐ってスゴイ。
自分が普段食べていたのは豆腐じゃない。豆乳を固めただけの何かだ。舌触りがまず全然違う。コシっていうのか、豆腐のくせに噛みごたえがある。まるで柔らかい鶏肉でも食べてるんじゃないかっていうぐらいの噛みごたえ。そのくせ、プツッと噛み切れて口の中にホロホロと茶碗蒸しのように崩れて、広がるのは大豆の旨味。
「大豆って本当に畑の肉なんですね」
豆腐がこんだけうまいと田楽もうまい、湯葉もうまい、天ぷらも全然くどくない。焼酎も進む。
異質な体験だった。
今年も寒くなり、湯豆腐を食べてるけども、やはり安い豆腐っていうのは安いんだ。
今日、貸してもらった本を返す。
だけで返せたらいいなと思う。
年下の友人が先週貸してくれた。それはもう、ありきたりなぐらいにありきたりな軽い小説で、映画化されて流行っているからという、おそらくただそれだけの理由で彼女はそれを読んでいた。本をあまり読まない人が持っているのを見たこともあるぐらいだから、乱読気味の彼女が読んでいて、それで、「面白いから読んでみ」と貸してくれたのは、まったく不自然じゃない。
けれど、本を貸すのはむずかしい。彼女はまだそれを知らない。知らないままにしておいてあげるほうがいいのかなと思う。まだそれでいい。
なぜなら、読書は人の心をかき乱す。たとえそれが安っぽいお涙頂戴式の小説であっても、思いもかけないところで心の平安に波風をたてる。
「貸して欲しい」と言われて貸す本ならかまわない。本屋で手に取っていくのと同じで、いくら取り乱そうが、それは借りていった者の責任だ。そこで完結する。しかし、「ぜひ読んで」と貸した場合、ダメージを受けた側はやはり相手に責任を求めたくなる。それを求めることをまた、求められているのではないかと思う。つまりは、なにか気の利いた感想でも言わねばならないような気になる。
だが、いかにも仕組まれたクライマックスでボロボロ涙を流した者にとって、気の利いた感想などいえるはずがない。こんなご都合主義で泣くなんて、恥以外の何物でもない。その恥を否定するために、あえてその物語をくさすのか。不治難病モノは定期的に流行するキッシュだと、知ったかぶりの韜晦に逃げこむのか。それとも、涙もろい自分を素直に認めてしまうのか。だが、それはとてつもなくややこしい。
なぜなら、年下のきみが感動した理由と、もう長いこと生きてきたぼくがやられてしまった理由は、たぶんちがうからだ。ぼくにとっては、舞台設定そのものが痛かった。その感覚は、きみにはわかるまい。
きみは信じないだろうが、こんなぼくにだって高校生だったときはあった。きみはよく「青春」なんて言葉を口にしてぼくを笑わせるけれど(たぶん意識してカギカッコ付きで使っているんだというのはわかるけど)、どんな意味においてさえ、ぼくにとって高校時代は青春なんかじゃなかった。ひたすらしんどい時代だった。そして、この小説の舞台設定は、まさにその果てしなくしんどい時代を思い出させる。
美化してしまえば、ぼくにだって「青春の思い出」みたいなものがないわけじゃない。だけど、時間のレタッチと自己正当化を取っ払ってしまったら、そこに残るのはただただめんどくさくておもしろみのない屈辱の日々だ。
典型的な場面を思い出す。それは、昼休み、グラウンドに面した廊下、ぼくはグラウンドを見て退屈している。なぜ退屈する場所にそこを選ぶのかというと、グラウンドの木陰はリア充たちが(「リア充」なんて言葉はその時代にはもちろんなかったのだけれど)占拠しているし、教室内にはまだ弁当を食っている人や早速にお勉強をしている優秀な生徒たちがいる。そういう人たちの邪魔はしたくないし、だいたい教室内の席なんて飽きるほど座っている。友だちの少ない、話題の乏しいぼくにとって、いられる場所は限られていた。そして、人の邪魔にならないわずかな隙間のようないくつかの場所の中でも、グラウンドの見える廊下は特等席だった。なぜなら、そこからはクラスでいちばんのお気に入りの女の子と、クラスでいちばんの美人と評判の女の子が眺められたからだ。親友である二人は、たいていつもグラウンドの向こうの特別教室の日陰でおしゃべりをしている。もちろんぼくは、ただ鑑賞するだけ。それだけ遠いと見ていることもあんまりわからないだろうから、まあ人畜無害な楽しみだ。
そうやってしばらくすると、ぼくと同じぐらい冴えない女子が弁当を食い終わって廊下に出てくる。いつも凄まじい寝癖のついた髪をしている。彼女もまた、昼休みにどこに行くアテもないのだろう。ぼくと彼女は少し言葉をかわす。話題のないぼくと同じくらい、彼女も話題がない。だから食い物のことばかりしゃべっている。カレーの玉ねぎは具であるべきなのか、ペーストの一部であるべきなのかみたいなことを、特に目的もなくしゃべっている。
そうこうするうちに、学級委員長が廊下に出てくる。いや、彼は正確には学級委員長ではない。彼がその役にいたのは一年生のときだから、「元」をつけるべきなんだろう。彼はぼくの数少ない友だちの一人で、というよりもぼくにとってはその高校で唯一の友だちで、だからぼくは少しホッとする。ただ、彼が加わってからの話はちょっとぎこちなくなる。彼にとっては食い物のことは重要ではない。いや、ぼくにとってもそうだよ。だけど、他に話すこともない。彼はちがう。なにか、他に話すべきことがある。けれど、ぼくにはそれが見えない。そのうちにチャイムが鳴って、ぼくらは教室に戻る。
そういうことを思い出してしまう。だから、ぼくは泣いてしまう。
なぜなら、シチューをご飯にかけるのは有りか無しか、ナポリタンスパゲッティの麺は柔らかいほうがいいのかどうかなんてどうでもいい話をする過程で、ぼくはとんでもなく人を傷つけていたからだ。
後になって、ぼくはその寝癖の女の子から聞いた。学級委員長と彼女はそのとき付き合っていた。だというのに、彼女はぼくとばかり話しているものだから、最後に学級委員長は傷ついて、そして、結局別れ話につながった。そういう展開が愉快な人はいないだろう。親友の失恋を喜ぶような奴はいないし、自分がその原因だったら焼きそばノドにつめて死んでしまったほうがマシだと思っても仕方ないんじゃないだろうか。
だから、ぼくはもう、そこから先の筋書きがどうであれ、泣く準備はできていた。そして、ヒロインが死ぬところでやっぱり泣いてしまった。
それでもあのとき、おにぎりノドにつめて死ななくてよかったなあと、いま、そんなふうに思う。
なぜなら、いま、こうやって気軽に本を貸してくれる友人がここにいる。それを感じることができる。そして、ぼくはいま、ちくわに詰めるのはキュウリがいいのかチーズがいいのか、ナスは田楽と揚げびたしのどちらを奨めるのか、寿司屋で卵焼きを食べるべきなのか否か、そんなことを熱くもなく語ることができることの嬉しさを知っている。
だからぼくは、うっかりと誰かを傷つけてしまうようなことをしたくない。気づかないうちに自分の力を超えることをしてしまいたくない。
そんなわけで、ぼくは何も感想とかいわずに、この本を返そうと思う。こんなことを喋らないために、ちょっとだけ皮肉っぽい表情も見せるかもしれない。