小さい頃、俺は神童と呼ばれていた。
村のみんなからも一目置かれ、両親の誇りだった。
いずれは都に行って、立派になって、村のみんなを助けてやりたいと思っていた。
こういう場合、熊には決して背を向けず、ゆっくり後ずさりするのが鉄則だ。この村の人間なら誰でも知っている。
ところが俺は、恐怖のあまり何も考えられず、全速力で逃げ出したのだった。
熊は興奮し、全力で俺を追いかけてきた。
相撲でもかけっこでも村一番だった俺でも、山道で熊から逃げ切れるわけはない。
40歩ほど走ったところで、熊に追いつかれ、熊に叩き倒された俺は、今にも俺を殺そうとする熊の息を感じていた。もうダメだと思った。
熊が悲鳴をあげたのはその時だった。
熊の頬から熱い血が滴り落ち、俺の腕に当たった。その先に光っていたのは、爺ちゃんの草刈鎌だった。
「逃げろ!」
爺ちゃんの声。
そこから先は、よく覚えてない。思い出すのが嫌で、誰にも言わないようにしているうちに、本当に忘れてしまった。
わかっているのは、俺は生きて山から村に戻ってきたこと、爺ちゃんはそれ以来、帰っていないということだ。
家の手伝いもせず、母ちゃんが作ってくれるご飯を食べる以外は、畳の上で天井を見上げていた。
村のみんなが俺を軽蔑している。
俺は爺ちゃんを見捨てた卑怯者だ。
俺は何もできなかった。
頭皮がズキズキして、俺の頭の中から何かが出てくるようだった。
一週間後、痛みがなくなった。
さらに一週間後、あいかわらず天井を見上げていた俺は、頭の表面に硬いものを感じた。
手で触ってハッとした。
「角だ」
–––1000年前、この村を鬼の大群が襲った。
力にも数にも勝る鬼の大群に、村の戦士たちはなすすべもなく、たった2日間で長老が降伏に同意した。
村は10年に一度、鬼に生贄を捧げることと引き換えに、鬼は二度とこの村に攻め込まないという和平条約だった。
鬼に捧げる青年は、時が来ると頭から黒い角が生えてくる。鬼の一族の印だ–––
俺はこの話を、小さい頃によく爺さんから聞かされた。
毎年春に担がれる御輿は、祭りの最後に村のはずれにある社に備えることになっている。そうすると、10年に一度、社に備えた御輿は跡形もなくなくなり、次の年のための御輿作りが始まるのだ。
俺は、生贄になるのか?
翌朝、俺の角を見て母ちゃんは泣いていた。
こんなもの俺がとってやると、父ちゃんは言った。1000年も前の鬼との条約なんて知ったことか、と。
俺は考えさせて欲しいと言った。
4ヶ月が経った。夏になり、御輿の準備が整い始めた。
母ちゃんは毎晩のように泣き、父ちゃんは角をとってやると繰り返し言い、俺を説得しようとしていた。
「みんなの役に立ちたい」
父ちゃんと母ちゃんの前で、俺ははっきりそう言った。
「角は取らない。俺は生贄になる」
本心だった。
この3年間、俺は役立たずだった。死んだ方がマシだと思っていた。死ななかったのは、ただ勇気がなかったからだ。
御輿に乗って、10年後、鬼に取られる。そうすれば、俺はやっと、役立たずじゃなくなるんだ。
俺には他に何もない。
御輿に乗れば、村を守れる。
御輿に乗れば、みんなの役に立てる。
御輿に乗れば、俺は、俺に戻ることができる。