はてなキーワード: 経営判断とは
追記。
うーん、増田の言うように「その時間の責任者」であれば施設管理権を行使できるとしたとしても、今回の問題は(多くの場合)、責任者でない、ただの接客スタッフに対するつきまといだからなあ。やはり施設管理権や不退去罪は彼女らの直接の助けにはあまりならないと思う。けっきょく立場が上の者の判断を仰がざるをえないわけで。
あと、あくまで建造物侵入罪・不退去罪は「建造物に誰を立ち入らせるか」の自由に対する罪であって、「業務の責任者は誰か、業務を妨害しているか」とは直接に関わっているわけじゃない、完全にイコールというわけではないんだよね。後者は業務妨害罪の範囲で、混同しないように注意は必要だと思う。
ま、いろいろ書いてしまったけど、「迷惑客がいなくなってほしい」という気持ちには同意できるので、別にそんなケチつけてるわけじゃないことをご理解いただければと。増田の投稿を見た、ふつーの接客スタッフの人が勝手に「退去してください」と言ってしまい、客や会社・デパートとトラブルになるのを少し心配しただけなので。
ふだんこういうことを考える機会がないから、よいきっかけになりました。「増田のコメントにも一理あるけどあくまで責任者側の意見だよなあ」とか、「店舗型の方が施設管理権は肯定しやすいな、デパートのテナント型だと施設管理権の判断がややこしくなるな」とか「賃借人の雇った従業員の退去命令権行使は、賃借人や賃貸人の経営判断と衝突するおそれがあるから、施設管理権の認定は慎重にする必要があるかもなあ」とか。
前置きとして、今回の炎上については意見が両極に分かれている印象がある。
そうなっている理由の一つに、「人権」という言葉をカジュアルに使っていたかどうかという違いがある。
ここでいう人権とは、当然法律で解釈されるような人権ではなく、勝敗を決めるゲームに参加する上での必要最低限の条件という意味で使われている。
ゲーマーは「そんなことすら知らないでゲームに参加するなよ」という牽制を込めてこの「人権」という言葉を好んで使うのだが、そこには多少の侮蔑やらエリート意識的なものが最初から組み込まれていることは否定できない。
つまりこの「人権」という言葉がカジュアルに使われていることもそれを擁護するということも、今の世の中的には容認されるべきではないよねというのがまずこの議論の始まりにある。
結論から言えば、この言葉のカジュアルさは容認されるべきではない。
個人の配信であっても言語が翻訳されて世界中に発信される世の中において、突然飛び込んでくる「human rights」という言葉はセンシティブすぎるといっていいだろう。
やり方に問題はあったが、この一件にてゲーマー界隈で「人権」という言葉がカジュアルに使われることへの終止符となった。
仮に世界的なトッププレイヤー(彼女もプロゲーマーの中ではかなりメジャーではあるが)が、海外の選手相手に挑発的な言葉として使っていたらどうなっていたかと考えれば、今回の一件は小さな犠牲で済んでよかったとも考えられるだろうと自分の中では結論づいている。
実は、ここで語りたい問題はそこにはない。
それ以上に深刻なのは、プロゲーマー、ひいてはesports産業自体の地盤の危うさにある。
自分の立場を明かすことはできないが、esports関連事業に半身以上を突っ込んですでに笑えない程度には資産を投げ売っている人間の一人と考えてもらえればよいだろう。
全てのプロゲーマーが抱える危うさとは、ずばり「生殺与奪の権利がほぼ100%他人に握られている」ということにある。
そしてこれは、いわゆる一般的になプロスポーツプレイヤーとの一番の大きな違いでもある。
その違いとは、一般的なスポーツと違って、全てのゲームがすべからくメーカーの著作物であるという点にある。
つまり、権利者の許可なくしてプロは一切の活動ができない。=プロゲーマーとしての生命は権利者の一存によって握られているといって過言ではないのだ。
例えば一般的なスポーツであれば、誰が大会を開こうともその観戦料を取ろうともどこかに許可を得る必要なんてない。
プロプレイヤーは自らの得意な競技において自由な経済活動を行える権利を持っている。
(もちろんスポンサードとの契約内容や、公認大会のほうが集客力が高いなど、自由度と収益は相反する関係にあることのほうが多い。)
極端な話をしてしまえば、プロ契約を失った後でもそのスポーツを使って自由に経済活動を行うことが許されているのだ。
そのゲームを使って少しでも収益を得たいと思うのであれば、必ず権利者の許可が必要になる。
つまり、どれだけそのゲームの実力があったとしても、権利者が首を縦に振らなければ一切の利益を得ることも許されないのだ。
これからプロゲーマーを目指す人間は、まずこの点について考えてみてほしい。
esportsの世界においても、トッププレイヤーでいるための犠牲と投資は一般的なプロスポーツと大差がないところまで来ている。
それなのに、権利者の一存で全てが奪われかねないプロゲーマーという職業をそれでも選ぶべきかという点についてはよくよく考えてほしい。
そしてこれは、業界を盛り上げるべく関連事業においても同じことが言える。
クリアすべき法的な問題ですらまだまだ山積みだというのに、ゲームの権利者の一存で事業の存続すら危ぶまれるような事業に誰が投資できると言えるのだろうか。
自分はもう後には引けないところに来てしまっているが、メーカーの活動を見ている限りはesports自体を盛り上げたいというよりは自らの利権を独占したいという行動のほうが当然目立っている。
権利を守ることで成長してきた業界だから仕方ないことだが、それ故著作権ヤクザと言われてしまうのも仕方のないことだろう。
そう考えれば、今回の一件がゲームそのものが持つイメージに対してどのよな影響を及ぼすかも無視することはできない。
自分の知る限り、今回話題になった彼女がプレイする鉄拳というゲームは、とある名物プロデューサーによって運営・管理されている。
鉄拳というゲーム自体がコミュニティによって支えられてきたゲームであるし、彼自身もコミュニティとの関係性を大事にすることで鉄拳をここまで成長させた腕利きの人物でもある。
問題の引き金となったプロプレイヤーはそうした鉄拳コミュニティの中心にいて、内外に多くのファンを持つ存在でもあり、その点だけを考えれば寛大な判断が期待される。
しかし、世界中で課題となっているダイバシティ化について、ゲーム業界も、そしてこの鉄拳シリーズもいち早く取組んで来た事実がある。
登場キャラクターたちを見てもらえればわかるが、かつて日本ローカルな偏見の塊でしかなかった登場キャラクターは、まさにダイバシティを体現するかのようなキャラクター達に置き換わっている。
いわゆる市場のグローバル化による経営判断でしかないかもしれないが、他業界よりもダイバシティ化に対して過敏であることは事実だ。
その中において、容姿による差別発言を人権という言葉を用いて行ってしまったことの罪は重く、たとえそれが本来の意味を持たない慣例的な単語であったとしても、簡単に看過できる問題とは言えないであろう。
今現在、当プロデューサー含めメーカー側からは特に動きは見られないが、動く立場にないことにしてこのまま動かないのではないかと個人的には思っている。
いずれにせよ、これら問題において、簡単に自業自得で切り捨ててよい話ではないということだ。
双方契約書を交わし、打ち切りに該当する違反行為があれば打ち切ることができるのが契約の自由だからだ。
従来のプロスポーツと違って、あくまで一企業の著作物を扱う上でのプロ契約となれば、当然プロ契約側に著作物の許諾についても含まれるべきであり、もし仮に契約打ち切りの理由が著作物のブランドを著しく傷つけたからとなってしまえば、これは事実上の永久追放と言えてしまうからだ。
先述した通り、トッププレイヤーとして居続けるための犠牲と投資は並のものではない。
いくら一つのゲームを極めた立場だとしても、例え同じ格闘ゲームというジャンルであっても、トッププレイヤーに上り詰めることは不可能といっていい。
(一般化できる能力はもちろんある。しかし、トッププレイヤー達はそれらを持ち合わせた上で、そのゲーム独自でしかない知識や情報による攻略で競い合っている。)
つまりは、プロゲーマーの解雇は、単純に失職するだけでなく、過去積み上げてきた経験と実績全てを失うことと同じなのだ。
残念ながら、これがesportsを取り囲む現実であり、最も解決すべき課題に他ならない。
それに比べたら業界がこれから取り組もうとしているセカンドキャリア問題が風前の灯にすらなってないのは皮肉以外の何ものでもない。
今後、esportsのような一個人が突然プロになるような世界において、「人権」に限らず、翻訳が難しいセンシティブなスラングは今後使うべきではない。
今回は直接的な相手が目に見えていなかったことは不幸中の幸いであり、これをきっかけに「人権」という言葉がこうした場面で使われなくなるなら結果的には良かったと思われる。
ただ、プロ契約打ち切りも仕方ないと言われると、それは疑問だ。
なぜなら現状においてプロ契約打ち切りは文字通り永久追放にもなりえてしまうからだ。
その原因は、ゲームがどこまで行こうとも一企業の著作物に過ぎないからであって、こんな権利者の気持ち次第でどうにでもなるような産業には誰だって金も時間も投資しようだなんて思わないほうが普通だ。(自分は異常だと自覚がある。)
自社の権利を守ろうとすればするほど、産業の成長を阻害するジレンマを解決しない限り、esportsに明るい未来はこないと断言してもいい。
今回の炎上については、発言そのものよりも背景にあるオタサーの姫とかアンチの存在なんかが大きいけど、だからといって芸能人ほどのタレント性がない人間が突然今まで積み上げてきたもの全てを奪われて無職になっていいかと言われればそれは疑問。
プロチームもクビにして終わりじゃなくて、esports産業が抱える問題が端的に表れた一件として中にいる人は皆で解決しないとこの業界まじでやばいよ。
ちげーんだわ。
今回の件がプロ追及になるかどうかは全然どうでもよくて、いつでもゲームメーカーのお気持ち一存で永久追放できてしまう仕組みが危ういといっているんだわ。
仮にも「鉄拳プレイヤー」っていう一企業の商標を背負ったプロの行動に、版元がコメントするってことはそういうことなんだよ。
これは設備を投資する側にも言えることで、メーカーのお気持ち一存で数千万って投資が吹っ飛ぶような事業に誰が金出すんだ?って話なんだわ。
そんなのお互いの利害がしっかり一致できているようなずぶずぶのエンコ企業しか出さねーだろ。
それで市場の健全な成長ができるか?そういうことを言っているんだよ。
スポーツ選手や芸能人が明らかな不祥事で姿を消すのとはわけが違う。
例えば野球のルールについて批判しても思想の違いだって受け入れてくれるチームはあるかもしれないけど、ゲームでそれやってメーカーに睨まれて許諾を得られなくなったらどのチームも拾ってやることはできないんだよ。
(くどいけど、今回の話は別。その理由の妥当性に関係なく、そういうことが起こり得る仕組みに問題があると言っている。)
「あれ?こちらからのお願い聞いておかなくて大丈夫ですか?じゃぁ許諾取り消しますね。」が、簡単にできる世界に、夢と希望に溢れた子どもたちをどうやって預けられるんだよって話だよ。わかれよ。
だからこそ、スポンサーではなく、チームとプロ契約を行う場合は著作権に対する許諾も含めるべきで、許諾に対しての教育や啓蒙もセットにしたほうがよいんじゃないってことだよ。
あぁーあ。そういうことをユーザーとメーカーとの間に入って権利問題を解決してくれるようなプレイヤーや各メーカー同士で作られた中立的な団体があればいいのに(棒
追記2
ごめん。もう一回ちゃんと書く。
今回は(今の所)メーカーが許諾させないとは言ってないし、おそらく言わない。
だけどプロチームはいつそのゲームを扱えなくなるかわからない状況にいつでも怯えてなくちゃいけないのは事実。
たった一つのきっかけで育ててきたプレイヤー全員無職になることだってありえるってこと。
今回の契約解除までの早さだって、それを勘ぐりせざるを得ない。(本人の素行が今までも相当にひどかったのは知っている上で。)
もちろん普通のプロスポーツだってあり得ることだけど、極論出してきてどちらも一緒は詭弁。
もっと話を単純にすれば、家庭用ゲームの許された利用範囲っていうのは、本来は個人利用のみっていうのが現実。
当たり前のように配信して収益を得ている人がいるけど、あれだって権利者がいつだって理由なく止めることができる。
もちろん経営判断ですぐにそんなことはしない。
頑張って強くなってファンも増えてきてこれから収益化だ!って思った矢先、何の説明もなくそのゲームが扱えなくなることだって十分に起こり得るってこと。
そんな危うい状態で人生かけてまでプロストリーマーになろうなんて思えるか?
著作権を放棄しろなんてことは言わないけど、最低限プレイヤー側の権利も保証しようよっていうのがこの話の全て。
ゲームを作った人間に著作権があるのは当然だけど、ゲームをプレイした人間の時間にだって権利があっていいだろ?ってことはこれからもっと議論されるべきだよ。
Jesuって団体ができたときはそういった権利者とプレイヤーの間に立って紛争回避と権利保護のガイドライン化を進めてくれるのをまじで期待したんだよなぁ。今でも彼らにしかできないと思ってるけど。
それと例えばプロ野球でも永久追放されたら終わりというけど、野球の場合は野球教室を開く自由は残ってるけど、ゲームの場合はそのゲームを使った教室を開く自由は残らない。
著作物の商用利用全てを権利者によって禁じることができるから。
他には個人としての大会参加資格があるとして、その賞金については景品表示法の問題が関わってくるから一概に言い切れないけど、一般的なスポーツなら受け取れるけどゲームだと受け取れない場合も出てくる。
というかゲーム大会で高額賞金を出すこと自体が今の所出演料という雇用契約以外に事実上無理なので、結局無理。
それを特に理由なく権利者の一存で行使できる状況の上にプロシーンを作り上げることに無理があるって思わないならもう勝手にしてください。
ごめんな。なんか俺の例えが悪かったんだろうな。
例えば、漫画の描き方でもプログラミングの言語でもものづくりのための技術でもいいんだけど。
今話題の業界でプロになるために学びませんか?って言われて、お金と時間つかって一生懸命学んで、いざお金儲け始めようとしたら「今まで学んできたものは私共の著作物なので一切の商用利用は許可しません。」って言われたらどうする?っていう話なんだよ。
自分の飯の種が突然誰かの権利でしたって言われて使えなくなるって知ってたら最初から身につけようなんて思わないだろ?
今のesport業界はそれがいつ起こってもおかしくない状態なのに、プロゲーマー!賞金大会!って騒いでるのおかしいっておもわないか?
それは学ぶ場を提供する側にも言えることで、育成施設作ろう!って投資して全部準備が揃った状態になってから突然「許諾しません。」とかってことが起こり得るということなんだって。
メーカーに確認しろって思うかもしれないけど、そんな個別のケースに対応するわけないし、回答するとしたら「許諾しない」以外ないのよ。
今のプロシーンで活躍する人たちは、みんながそういう不安定な土台の上にいるんだよってことを、今回の件をただ批判して契約解除で大勝利!って話で終わらせてほしくない気持ちでつづりました。
マイメロママのグッズが発売中止になったのはただの「経営判断」ですよ?
サンリオのブランドイメージを総合的に考えた結果であって、クレームはその一因に過ぎません。
サンリオレベルの大企業ともなれば常日頃から、ありとあらゆるクレームに晒されます。
ほんとうにくっだらないものから、傾聴の価値がある金言まで様々なものが寄せられます。
そうやって寄せられた一つ一つのクレームにどう対応するかは一企業の判断であって、法や行政によって強制されるものではないんですよ。
今回のサンリオの判断については消費者の中でも是々非々あるでしょう。
ですが、そこで問われるべきは「サンリオが下した判断と対応の是非」であって「クレーム内容の是非」ではないんですよ。
そこを勘違いしないように、ね。
いまもjQueryをWebアプリケーションの大事なライブラリとして使っている会社は少なくないと思う。
jQueryを会社で使っていると何が問題なのかを語っていこう。独断と偏見によるものなので、jQueryを使っていても問題ない会社も当然ある。たとえばペライチのサイトを作る会社とか小規模サイトなんかでは全く問題ない。
採用困難で売り手市場になっている時代、そして「jQueryを触らなければならない環境 vs モダンフロントエンド環境」という選択肢がある中で、あえてjQueryを選ぶフロントエンドエンジニアは少ない。
また、新人はもはやjQueryを学ぶことはない。彼らはES6以降のJavaScript / TypeScriptを書く。よしんばjQueryを学ぶことになった新人がいたとしても、それはただその新人が可哀想なだけで、現役なわけではない。ラガード(遅滞者)の仲間入りをさせているだけだ。新人でもキャリアをデザインできる新人は「jQueryはオワコン」という情報には触れているので、よほど就活で失敗しない限りはjQueryのところにたどり着かなくなっている。
そもそもバックエンドエンジニアでもモダンフロントエンドを書くような環境が増えてきた中で、2世代も前のjQueryだけでアーキテクチャに関する一考もないコードをメンテしなければいけないので、「jQuery」という言葉だけでフロントエンドエンジニアでなくとも入社を避けがちだ。(jQueryでアーキテクチャがしっかりしている可能性は低い。アーキテクチャがしっかりしているならばjQueryに依存しておらず、jQueryに依存していないのであれば簡単にjQueryから脱却できるはずで、簡単にjQueryから脱却できるならもう脱却しているはずだからだ)
メインストリームの部分はほとんどリプレイスが終わっているというでもなく、すべて現役でjQueryなのであれば尚更問題で、誰もメンテしたがらないコードの出来上がりだ。「弊社はCOBOLで書いてます!」とにこやかに言うようなものだ。
(ただし、さすがにjQueryだけでフロントをやっているという会社の求人をほとんど見かけることはない。無意識のスクリーニングで落としているのかもしれない)
jQueryを使っている会社には、フロントエンドエンジニアは一人もいないと言いきってもいいかもしれない。もしくは、今まさにjQueryをやめようとしているか、たまたま入ってきたフロントエンドエンジニアが今まさに辞めようと迷っているかのどれかだ。
「jQueryを使っていました」というエンジニアは、他社からはフロントエンドスキルが0とみなされる。つまり、フロントエンドエンジニアではないという意味だ。jQueryは、jQueryを使っている会社に対してしか武器にならないのだ(逆はできる)
jQueryを書ける人口自体は増えているだろうが、労働市場からは撤退し始めている。昔jQueryを書いていた人材の人数が上限で、そこから新たに学ぶ人の絶対数が減っているため、全体としては減っている。
私もjQueryは以前業務で書いていたが、もう数年書いていない。特にメリットを感じないからだ。遊びで、生のJavaScriptを書くことはある。
jQueryで入社するのは、昔からjQueryを使っている高齢のエンジニアか、なぜかjQueryを学ぶことになってしまった新人である可能性がある。
そのため、需要と供給に応じて、昔いたようなスキルレベルの人を今の市場で見つけようとすると費用がかかってしまう。jQuery書けますという人材が高年齢化しているのだ。そして世継ぎはいない。
リプレイスはハッキリ言って難しい。モダンなフロントエンドを学習するだけでは足りなくて、それを使いこなせた上でしかもjQueryを使用したカオスイベントコードも読めて、そしてアーキテクチャを考えてリプレイスしなければいけない。
時代が下るにつれて、そうしたハイスキル人材はより高価値になっていき、レア度も単価も高くなる。今そういう人を雇うという判断をしない会社が、どうして今後もっとハイスキルの人を雇えようか。
jQueryを使ったサービスがしっかり利益を出している点もリプレイスを難しくしている。全廃もできない。かと言ってコストに見合わなければリプレイスという経営判断も難しい。経営が困難な状態ならより厳しい。
何も理由がなくjQueryを使い続けたいという奇特な人は多くないはずだ。何か理由があってそうなっているわけだ。カッコよく言うと『ナッシュ均衡』という状態だろう。今会社にいる人材もいわゆる『jQuery人材』が多いため、そこを打破するのはとても困難な道だろう。
jQueryから抜け出すには、すでにいる人材がなんとかしてリプレイスするか、外から連れてきて改革するしかない。しかし大抵の場合、既存の従業員にとってはそんな大変なことをするよりも転職したほうが楽な道だ。(もちろん、「jQueryしかなかったサービスをモダンフロントエンドにした」というのが実績としてある人材はかなり魅力的な人材で引くてあまたなことだろう。その意味ではピンチをチャンスに変えるときの『チャンス』ではある)
ReactやVue.jsに変えたいと思ったとして「じゃあお前それですぐに利益出せんのかよ?」と詰められたら、その論争をクリアしてまで変えるのはほとんど無理に近い。通常、リプレイスそれ自体は価値を生み出さない。リプレイス後に運用コストが低下したり、人材獲得がしやすくなるために利益が出るのだ。リプレイスとは長期の投資であるため、短期的には必ず損失になる。経営が困難な状態でリプレイスしようとするのは、生活困窮世帯にリボ払いをやめさせるぐらい難しい。そのため、まず自分が身銭を切ってリプレイスするしかない。そしてリターンがあるかもわからない身銭は切りにくい。そして同僚は容易に『抵抗勢力』になる。
jQueryを今も使っているということは、裏を返せば「これまでリプレイスをしてこなかった」「リプレイスしようとしたが無理だった」という実績にもなる。
jQueryを使っている会社は、昔からあるコードをもとに書いているため、今もES6以前の文法で書いている可能性がある。そうしてどんどんと情報が少なく、古く、現代で通用しにくいものになっていく。
bundlerを使っていない可能性が高いし、もしかするとCI/CDも無いかもしれない。そうすると、モダンなインフラエンジニア(もしくはモダンなインフラ知識のあるエンジニア)がいないかもしれない。SREという概念がないかもしれない。
世間一般から見ると会社の中が古いのだが、古い会社にいると「自分が古い」とはなかなか思えないものだ。太っちょの集まりの中にいたら「自分はそんなに太ってない」と思うのと同じことだ。
すべては憶測なので、実際は違うかもしれない。
さんざんdisってきたが、そもそもjQueryは何も悪くないし、大変優れたライブラリだ。ちょっとしたプロトタイプを作るときには良いものであるかもしれない。しかも今もjQuery自体はメンテされている。そのため、状態管理さえうまくできていればjQueryだろうがなんだろうが問題ない。
問題は、jQueryというライブラリを使ってきた時代からアーキテクチャが前進していない点にある。何年もずっとその状態だということだ。そこを今日に至るまで誰1人として変えられなかったということだ。特に経営陣は何の問題視もしていない可能性が極めて高い。そうした社内のしがらみが反映された結晶体、それが『使用技術: jQuery』という言葉になっているのだと思う。また、ヤバさは、jQueryのバージョンに反比例する。
jQueryを使っているアプリケーションには、jQueryが担保していなかったアーキテクチャ部分に問題があることが多い。また、どこから呼ばれているか誰もわからない複雑なイベント、SPAもクソもないページ遷移ごとのリロード、誰もどこもテストできず、HTMLにベタ書きで書かれたJavaScriptコード、その場しのぎでデタラメに書かれた関数、無視される変数のスコープ、サポートが終わったライブラリ、ドキュメントを見つけるのすら困難なよくわからないライブラリ、高齢者しか知らない伝説の機能・伝説のハック、などもある。これらはモダンフロントエンドではほとんど発生しないものだ。
そのため、一定の基準として「jQueryを使っているかどうか」で、フロントエンドエンジニアとしてのやりがいがあるかどうかを判別できる。
そうして、フロントエンドエンジニアというのはもうjQueryに見向きもしていない。書けるけど書きたくない。パラレルワールドのようなものだ。
そういうようなことを「使用技術: jQuery」という文言から感じ取ってしまうのだ。
(そしてこれは、実際の仕事の中身が違うかどうかは関係ない。jQueryとは、そういうふうなブランドと化しているのだ)
jQueryを使っている会社からしたら「そんなことはわかっている」という部分で、「じゃあどうすればいいのか?」という部分が気になるところだと思う。
そこで、後編では「どうやってjQueryを全廃すればいいのか?」「実際にどのように全廃したのかの事例」について、だいたい来週ぐらいに書くつもりだ。
お楽しみに!
業界のくくりが広くて、そういう会社にいただけっぽい。「レベル高すぎて入れない」らしい普通のやり方の会社に行くまでに、その中間の会社を何社か経由すれば好きなやり方でできそう。
インフラでもプログラミングでも技術的なことをやっていくなら 2, 3 年でポンポン転職し続けないと技術が固定化して死ぬ、というか、転職し続けられなくなるので技術が固定化する。
会社として安定しているなら同じやり方をする方が経営判断し易いので、別のやり方にトライしようとしているステージの会社に参画して一緒にやって、安定したら次って感じ。
昨今の流れに逆らって
という話。
最低賃金が上がれば自分の給与があがる。と勘違いしてるかたがたくさんいるようですから。
※あと私、40人くらいの会社を経営していますが、ポジショントークをするつもりはありません。
単純に、最低時給上がるとこうなるよ。という話です。
とはいえ実際に雇用者側ですから、そのあたりを考慮して読んでいただくのがよさそうです。
➤既に雇っている1500円以下の人の給与上げなきゃいけませんから、当然ですね。
➤失業者や生活保護受給者が増えますから、もちろん政府の社会保障費は増えるでしょう
➤あくまでも生産性が低い方に限られる。というのがミソですね。。
さて、誰が得して誰が損するのでしょうか。
この提案を推し進めているのは、このルールができたら得する人なのでしょうね。
[補足]
私は生産性が高くちゃんと働いてるのに収入が最低時給以下なのである!
という方もいらっしゃるでしょう。
そういった方は、ご転職なさるとよいと思います。仮に転職しても給与が上がらなかった、あるいは転職活動をしても内定がでない。
という方はつまり「生産性が低く自身の生産性よりも収入の方が高い」という状態にありますからそのままでいるほうがおトクかと思われます。
➤生産性の低い(または単価が安い)仕事を他の人に任せられるし、生産性が低い人の給与にも余剰ができますからね。
➤働いた分だけ給与がもらえる状態ですが、生産性が低いのでまぁ減りますよね。
➤特に最低賃金に満たない生産性しか持たない人にとって就業機会が間違いなく増えるでしょう。
高齢者や学歴のない方、障碍者等の社会的弱者といわれる方々にも直接的な就業機会がやってくるでしょう。
収入は少ないでしょうが、まったくないよりいくらかマシそうですね。
➤生産性の低い人の収入が減少すると同時に、生産性の高いひとの収入は増えるでしょう
➤働くひとが増えて、安い労働力も増えて、出来る人の収入があがりますから、当然ですね
➤仕事の生産性が収入に直結するルールなので、これも当然ですね。
さて、改めて見直してみると。最低賃金が上がった場合はデメリットだらけで得する人は一握りである一方で、
最低賃金を撤廃した場合はメリット沢山でデメリットは少な目に見えますね。
もし、最も重大なデメリットである”低パフォーマーの生活困窮”に対して社会保障でお手当できれば、最低賃金を撤廃したほうが社会全体にとっておトクに見えそうですね。
例えば、
実際の時給と基準時給1500円の差分を社会保障として給付する。というのはどうでしょうか。
結構お金がかかりそうなものですが、時給1500円以下の人たちが全額生活保護&雇用保険よりも、いくらかは足しになりそうですし、さらに企業内で就業機会や教育機会を得られて一石四鳥くらいじゃあないでしょうか。
また、GDPや税収に対しても好影響があるでしょうから、減税とセットでできれば完璧ですね。
ということで、「最低賃金を上げよ」という議論は、大企業の労働者が加入する労働組合が推し進めることになったわけですね。
だって生産性低いままで給与増えるし、労働組合が強いから最低時給以下の働きだったとしても辞めさせられることはない、そんな安全圏にいるんだもん。そりゃ最低賃金あげろー!ってやりますよ。
ただ問題は、この報道に対してなぜだか「自分の給与が上がる」勘違いしている方々、あるいは社会全体の富が増えると勘違いしている方々など、最低時給が上がったら損してしまう側の立場の人たちが最低時給アップに賛成してしまっているってことなんですよね。
賛否あれど、はてな民にも同様の問題意識があってすごくうれしいです。
➤社会に富を還元できない企業は滅びるべきであるという意見でしたら心の底から同意します。
しかし問題は、潰れたことで失業者が発生し、そのうちのほんの一部に時給1500円以上の生産性を持たない方がいることなのです。
最低時給を設けることで、残念ながらその方々の転職は叶わないでしょう。
最低時給さえなければ低い賃金からかもしれませんが職にありつき自身の労働資本を増やしていくことができたはずなのに。
最低時給は企業をターゲットにしているように見えて、実は弱者がターゲットになってますよ。ということです。
➤正直私もそう思うのですが、悲しいことに時給1500円以下の仕事にもつけない方々が日本にはたくさんいるのです。
そういった方々も、しっかり働けて自身のスキルアップに取組めるような社会になったらいいよねと思います。
そのためには、時給1500円以下の労働力しか持たない人もちゃんと就職できるようなルールにしたらよいのでないでしょうか。
そう、最低時給を撤廃するのです!
同時に雇用がより流動的であれば、企業間での競争によって生産性が高い方の収入は増えるでしょうから、賃金と雇用はより流動的である方が望ましいと思います。
最低賃金があると、賃金格差を付けにくくなるわけですから、賃金の自由度が下がり生産性が高い方の給与をあげにくくなるでしょう。
➤資本集約型であっても、収益性が高くても、賃金以下の働きしかできない方が雇用されることはないでしょう。
営利企業が、資本集約型ビジネスであることを理由にあえて収益マイナス人材を採用することは考えられません。
一方で、最低時給がなければ、すくなくともそれらの方々を雇用し教育するインセンティブははたらくのではないでしょうか。
※今回の投稿は私の会社について語っているのではなく、一般的な話をしているのです。ということだけお断りをしておきますね。
➤これはその通りですね。企業の収益性を高め、働く人の生活/収入、あるいは能力を上げていくことは経営者の一番重要な仕事だと思います。
ところで、今回の投稿ですが「会社の生産性の良しあし」ではなく「最低賃金アップによる経営判断の変化およびその影響」
といったところなのです。
さて、一般の労働市場において、最低時給以下の労働力しか持たない方々はどのように自身の労働力を売ったらよいとおもいますか?
時給1500円以上の価格で売らなくてはいけないという価格制限が付いてしまいますから、弱者に対して極めて非道なルールだと思いませんか?
➤上記の議論には全面的に賛成です!一方それを最低賃金で実現しようとするのは乱暴すぎやしませんか?
でしょう。3点目の社会に対して貢献できていない企業が潰れる分には問題なさそうですし、生産性の高いプレーヤーは転職してくれ。という話になりますね。
一方で1番の「時給分の働きができない人は失業してくれ」というのはあまりにもヒドイ話です。
賃金アップによる消費の増加と"最低"賃金アップによる消費増加は分けて議論する必要がありそうです。
失業者をへらさずに労働者全体の賃金があがる政策には賛成です。
ところで、最低時給を撤廃したら今まで働けなかった人たちが職にありつけますから失業率が低下し賃金の総額は増えそうですね。
➤他の方が指摘するように企業は高額な人件費を削ろうとして自動/IT/効率化を進めるでしょう。
一方、IT化によって職を追われた方々は、最低時給があるばっかりに新しい仕事に就けなくなってしまいますね。
最低時給がなければ企業に就職し職能開発の機会を得ることができたはずなのに。
2:時給1000円(+給付金500円)で企業内で職業訓練が受けられる
ほんとうに1番の方が良いとお考えなのですね。悲しいなぁ。
➤これはその通りですね。なので雇用をもっと流動化し、簡単に転職されてしまうようなルールと一緒に進めたい所ですね。
求職者が自身を適正に評価してもらえる企業へ入社するインセンティブが働けば、企業もまた適正な評価をせざるを得ないでしょう。
なので雇用の流動化をセットで進めたい所です。
よく街を見てみると、チェーン系はその時間でも店を開けていて「テイクアウトなら注文できます」とのこと。
ありがたい。コロナで飲食店の時短営業になってからというものコンビニ弁当ばかりだったのだ。
しかし、よく見ると路面の大きめの居酒屋から22時過ぎてもワイワイガヤガヤと酔っぱらいの歓談の声が聞こえる。
「えっ、いまって22時過ぎでも酒の提供してる?」
と、駅の飲み屋がある通りを覗いてみると、多くは閉まっているが何軒かの店は開いていて、酔っぱらいのグループが大きな声を出して楽しそうに歩いている。
一番衝撃だったのが、そのグループが「もう一軒行きてえなあ」と言っているのに居酒屋の呼び込みが「これからでも入れるお店をご案内できますよ」と言っていたことだ。
私の家のある駅は歌舞伎町のある新宿などと違い、そこまでの大きな繁華街ではない。
ちょっと駅前に小さな繁華街がある住宅地メインの駅だ。そんな駅ですらこんな状況なのかと驚いた。
ずっとリモート生活をして、仕事で人と会うとしても席をずらしてお互いマスクをしての会話しかしていない。他の人との食事はほぼしていない。
でも、もうこれは仕方ないのかもしれない。
おそらくそれなりに感染対策の意識が高い私の周りでも「仲の良い人たち同士なら」と食事を誘い合うのを見かけることも増えてきた。
その油断の反面、身の回りで家族が感染していたとか同僚が感染していたくらいの話は日常茶飯事だ。
感染対策の意識が高いと思われる私の周りでも、そんな感じで油断してきているのだから、飲食店も多くの普通の人たちも長引く感染対策に「そろそろもう良いでしょ」という気持ちなんだろう。
これは止まらない気がする。
こんな単純な話ではないが、感染者数の多い東京の人口推計1400万人日あたり0.002%のガチャを毎日引いてると考えたら「飲みにいっても当たらない方が圧倒多数」なんだから「月に2、3回くらい飲みに行ってるけど感染しない」と思ってもそれはそうだろうなと思える話だ。
当然、そう思う人の割合が高まると急速にガチャの「当選率」が高まるし、飲みに行ったらSSRの当選確率10倍キャンペーンくらいにはなるだろう(数字は適当)。
指数関数的に感染数が増えてガチャの「当選率」が100倍に高まったとしても、いまの0.002%から0.2%になるだけだから、感染しない方が多数派だ。
感染力は低いという話をしてのではない。逆に、めちゃめちゃ強力な感染力をもっている新型コロナウイルスをこんな程度で抑えきれるわけがないという話をしている。
この話を友人にしたら「そりゃ、開いてる店には客が来るんだから給付金を貰わずに稼ぐぞっていう経営判断でしょ」とのこと。
都市ではなく店単体で見たらそれはそうか。「確率論」だけで言ったら稼いだ方がいいもんな。
でもそんな話じゃないような……
飲食店の時短対策はかなり強力に効いている。「意味ない」なんて言う人が一定数いるが、効果的なのは感染の増減を見れば明らかだ。
しかし、こんな緩やかなじ対策を何度もしているうちに街はもう我慢に耐えきれなくなっている。次の波はかなり大きくなりそうだ。
これに著作権者の言うことだから聞くべきだと言っているブコメがあって驚いた。
著作権というのは憲法上の権利ではなくて、国が著作権法という法律で認めた権利だ。歴史的にも、憲法で表現の自由が規定されるようになった18~19世紀前半には著作権保護はろくすっぽされていなかった。そして、著作権を国家が保護するということは、ある著作物を利用して二次創作をつくる人を国家が抑圧する、という側面をどうしても持たざるを得ない。それが表現の自由に照らして問題ないと思うのはちょっと信じられない。それに著作者が二次創作はダメだと言ったらそれでおとなしく諦める、という淡泊な姿勢も納得がいかない。私は、(性的な表現を含めて)二次創作者は、どうしても二次創作を書きたいから書くんだと思っていた。こんな淡泊な姿勢をとる人が多いということは、実は単なる商売のネタに過ぎないのかな。訴訟になると面倒だから、ということならまだ分かるが。
私は著作権や著作者人格権が必要ないとはまったく思わない。でも、パロディ事件しかり、ときめきメモリアル(メモリカード)事件しかり、日本の著作権法や判例法理は国際的に見ても原著作者保護が極めて強いわけで、それは表現の自由に照らして非常に問題があると思っている。著作権には表現の自由が及ばない、みたいなことを言っている人がいるのは驚きではある。原著作者が権利主張を始めたらいわゆる二次創作物を壊滅させることができる(コミケは単に目こぼしされているだけ)、それを国が著作権法によって認めている、それが問題だと思わないのか。そういう問題意識を持たない人には二度と表現の自由などと口にしてもらいたくない、とすら思う。
~おまけ~
『ウマ娘 プリティーダービー』の「お願い」は、
キャラクターならびにモチーフとなる競走馬のイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮いただけますと幸いです。
本作品には実在する競走馬をモチーフとしたキャラクターが登場しており、許諾をいただいて馬名をお借りしている馬主のみなさまを含め、たくさんの方の協力により実現している作品です。
モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮くださいますようお願いいたします。
というものだった。
https://umamusume.jp/news/detail.php?id=news-0106
これは、そもそも著作権や著作者人格権から来る要求とは考えられない。競走馬は著作物ではないから、著作権や著作者人格権の客体ではあり得ない。馬主が不快に思われる表現をやめよと要求する権利があるとすれば、おそらくは馬主の名誉権などの人格的利益の保護となるだろうか。競走馬ないしキャラクターのイメージを著しく損なう表現をやめよ、と要求する権利があるとすれば、知的財産権というよりは、商品化権ないしパブリシティ権(キャラクターのイメージの毀損については著作者人格権の問題になり得るが)といったビジネス上の権利の問題になるだろう。これを概括して「著作権」による要求と解するのは粗雑に過ぎる。
キャラクターのイメージの毀損については、一般的に性的な表現がすべてそれにあたると簡単に言うことはできないのではないか。たとえばどぎまぎイマジネーション事件※(ときめきメモリアルのもう一つのアレ)の東京地裁は、詩織ちゃんが「優等生的で、清純な、さわやかな印象を与える性格付けが、本件ゲームソフト及び関連商品の売上げ及び人気の向上に大きく寄与している」という一方で、被告が「清純な女子高校生と性格付けられていた登場人物の藤崎詩織と分かる女子高校生が男子生徒との性行為を繰り返し行うという、露骨な性描写を内容とする、成人向けのアニメーションビデオに改変、制作した」ということを問題にしているのであって、一般に性的な表現は許されない、と言っているわけではない。ある改変行為(性的な表現に限った話ではない!)によってイメージの毀損がなされているかどうかは、そのキャラクターがどんなキャラクターなのかということを考察してみないと始まらない。
「モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現」として、性的な表現一般がそれにあたるのではないかと考えた人がそれなりにいたことは確かに興味深い。
(もっとも、これに関するツイートを見ると、性的な表現に限らず何が「不快に思われる表現」なのかはよく考えてみないといけないはずだというものもあって、結構冷静に考えている人がいるのが分かる。
例:https://togetter.com/li/1239211 ; https://togetter.com/li/1673486)
ただ、私自身は、これは「「何にエロを感じるのは人それぞれだし、どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」と噛み付いていた人々が「ウマ娘のエロ絵は禁止」の一声で「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」をきちんと自分達で考え始めたの笑う」(https://twitter.com/rtoiuyuiotyuijj/status/1371455240143212545)というのとは正反対の事態ではないかと思う。先ほども言った通り、何がキャラクターのイメージを毀損するかというのは、そのキャラクターがどんなキャラクターで、どんな描写をしたらイメージを毀損するのかを具体的に考えなければ分からないはずである(そして、そうするべきだ、という人も確かにいた)。むしろ、性的な表現一般を諦めるという態度をとった人が少なからずいたということは、「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」を考えられないから、一般的に性的な表現はやめました、ということになったのではないだろうか? まあ、自分の描くものはあまたある性的な表現の中でも確実に人を不愉快にさせる類のものだからやめました、ということなのかもしれないが。
※どぎまぎイマジネーション事件では、東京地裁は詩織ちゃんのイメージの毀損によってどのくらいの損害が発生したのかという問題をあまり扱っていない。イメージの毀損という無形損害の賠償はどうしても裁判官の裁量、つまりブラックボックスになりがちだとはいえ、ゲームソフトの売り上げの損失(をコナミが証明することは困難だろうが)や、詩織ちゃんを使った事業にどのくらいの問題が生じたのかというような部分で争う余地があったのではないだろうか。それこそ表現の自由の観点に照らせば、「被告の行為によって受けた原告の信用毀損は少なくないと解される」という短い言葉で検討を終わらせて良いとは思えない。判決文の短さから察するに、被告の法定代理人が無能だっただけかもしれないが。
~追記~
(ブックマークより)
法解釈論と立法(法政策)論は別物だからな。増田の言うことは「日本もフェアユースを認めるべき」と前から議論されている。一方現行法上サイゲの「お願い」は正当性がありそれは尊重されるべき。
そんなに厳然と区別できるものではないと思う。ある法解釈の結果、いかなる帰結が発生するかという帰結主義的な考慮を法解釈に持ち込むことは裁判所も普通にやっているだろう※。著作者人格権については、著作権法20条は、著作物の改変について、客観的な名誉侵害等からの保護というよりも、主観的な思い入れを強力に保護しているようにも読める規定になっているわけだけれども、著作権を現実に行使するのが、著作権を管理している出版社やレコード会社といった大資本であることに鑑みれば、その解釈は非常に大企業に有利な体制を作ることになる。立法によってテクストを変更する前に、解釈の可能性が開かれているとき、まず解釈で争うことを諦めるべきではないと思う。
※もちろん、あまり政策的な考慮を重視するべきではないという立場はあり得る。特に刑法の場合、罪刑法定主義との関係上、処罰をする方向へと政策的な考慮を強力に効かせることには問題がある(古典的な例では、電気は財物にあたるかという問題が良く採り上げられる)。ただ、政策的な考慮を一切しないというのは、それはそれで異様な考え方ではないか。
なお、一見してみて、Cygamesの「お願い」が一理もないとは思わない。仮におうまさんのことは度外視しても、ファンコミュニティの維持は大事なことだろうし。単に、著作権には表現の自由は譲るという単純素朴な理解をしている人がいることが意外だっただけである。
メタボ教授「競走馬(種牡馬)は法律上『金融商品』なので単純に損害賠償請求される恐れがある」https://youtu.be/o3glYqYwsHs
金融商品とは何のことだろうか。カッコつきで書いてあるということは、金商法上の金融商品(有価証券、預金債権等、通貨)ではないということかな? キャラクターないし商品イメージ、ブランドイメージの毀損について不法行為による損害賠償請求がされうるというのはその通り。パブリシティ権との関係では馬名の使用について許諾はいらないということになるとしても、後からゲーム中の描写がイメージの毀損になっているとケチをつけられると訴訟を抱えて面倒になるから、馬名の使用を拒否する場合はその馬名を使わない、というゲーム会社の経営判断は理解できる。ただ、この金融商品という言葉遣いは唐突に感じる。
憲法上の権利である財産権と幸福追求権を著作権と著作者人格権という形で具体化しているので著作者の権利は基本的人権の範疇では。おまけは113条11項的なアプローチと思うので著作者人格権の問題なんじゃないかと。
確かに、あらゆる法律上の権利は煎じ詰めれば何らかの憲法上の権利に行き着く可能性が高い。ただ、憲法上の権利である表現の自由と、憲法上明示されていない著作権とをフラットに扱って、何も重み付けをせずに天秤に乗せるべきものなのだろうか? あと、おまけでは「お願い」が著作者人格権の問題ではない、ということではなくて、法的な権利の性質・主体・客体がバラバラな諸要求が一枚のお皿に盛られているので、著作権とひとくくりにするのはまずいということを言っている。
著作権と表現の自由の問題は多分学問的にもまだそれほど論じられてないので表現の自由戦士の中でもガッツリ法学系の人じゃないと考えるのも難しかろうとは。現状の著作権システムを是認するのが不当とは言い切れんが
これは、知らなくてもしょうがないかなという気はする。ただ、こういう論点も考えられるようにしておかないで何が表現の自由かとも思う。実際には、超有名論点にすら関心は持たれていない(性的な表現を制限する刑法175条がまるで問題にされていないようだし)のでそんなのは無理、ということになるかもしれないが。
そもそも「表現の自由戦士」はただのレッテルであって、何でもかんでも表現の自由をゴリ押す人たちのことじゃありません。法律に守られた権利を「お気持ち」でゴリ押そうとする人たちに抵抗しているだけです。
私は「表現の自由戦士」というレッテルは使っていないと思うのだが・・・。「法律に守られた権利」というけれども、ある表現に対する「お気持ち」表明(これもまた表現だ)を差し止める権利が表現の自由に含まれているとは解されない(名誉毀損のような場合は別だが)。それとも、「お気持ち」に基づいて出版物の差止め訴訟を濫発した、みたいな事件があるのかな? せいぜいツイッターでボロクソに言われた程度の話しかないような気がするけれども、それが元増田の言葉を借りれば「自由の制限」とはまことに大仰な話だ。
※以下はこの方に対する直接のリプライではないが、関連する内容ではある。
性的な表現(正確には、わいせつobscenityにあたるもの)というのは、日本やアメリカの判例法理上、保護されない言論と位置づけられている。なぜかというと、表現の自由について司法審査の基準を厳しく設定する理由として、民主的過程の維持や人格の発展といった目的が持ち出されるわけだけれども、ということは、逆にいえばそういった価値との関わり合いが薄い表現は、別に手厚く保護しなくて良いということになる。となると、性的な表現は「法律に守られた権利」とすら言えないのではないか。私は、それで良いとはまったく考えないけれども、それならそれで現在の判例法理を覆す理由付けを考える必要がある。悲しいかな、私は専門家でもないトーシローだし、中々良い案が浮かばない。表現の自由について考えている人は、是非この問題について詳しく調べてみて、知恵を貸して欲しい。なお、定義的衡量(何が「わいせつ」にあたるかという論点で戦う)をいくら頑張っても、いわゆるハード・コア・ポルノにとっては役に立たないということは申し添えておく。
二次創作者やその支持者の大半は「表現の自由」を信奉してるわけでは無いと思ってる。その観点から「表現の自由」という言葉を軽々に使うなというのは分かる / エロ即ち不快表現との理解はびっくりするよね
そう、私も性的な表現がただちに不快な表現にあたると解した人が少なからずいたことが驚きだった。こういう短絡を起こしたということは、将来、あらゆる出版社やゲーム会社がこの手の「お願い」を出したら、性的な二次創作表現は全部ピタリと止むということになるんじゃないかな・・・。
数年前にノンアルコールの飲み物を充実させて欲しいとネットで盛り上がった時、
面白いかなと思ってノンアルコールを20種類以上増やしてみたことがあった。
ノンアルコールのワインや梅酒といったお酒っぽいラインナップで、かなり拘った。
原価は、アルコール入ってる普通の酒と大して変わらなかったので、値段も似たような感じで出した。
プロのソムリエに相談したりして、酒飲みの自分が飲んでも下戸のスタッフが飲んでも
これは美味しいなと思えるものを揃えた。
だけど、全然出ない。ホールの子たちに積極的にオススメするようにして
最初の1〜2杯は取ってくるんだけど、3杯目以上飲む人が全然いない。
日持ちの良いシロップ系の糖度の高いものをノンアルカクテルにして出したりもしたんだけど、
うちの店に来るお客さんは中国茶のブランドの違いを飲み比べて楽しむより、
今は時代変わったから、違うかもしれないけどノンアルコールって飲食店にとって全然無理なのよ。
お酒飲むお客さんと同じくらい3杯以上ガンガン飲んでくれるなら、
体に優しいカップラーメンみたいなもんで、
欲しいという声はあっても、売れない商材だと思ってる。
>ノンアル、たくさん飲めないの普通に考えれば解るだろ。
まぁ今となっては、そう思うよ。
当時は全然そんなこと思ってなくて、2〜3時間滞在したら3杯くらい呑むだろうって計算はしてた。
自慢じゃないけど、うちはお酒がかなり出せる店で平均すると飲んでくれるお客さんなら3〜4杯出るのよ。ホールのメンバーが優秀でオススメとか上手いんだよね。
ノンアルもラインナップ揃えてちゃんと訴求したら、もう少し飲むかなと思ってはいたんだよ。
まぁ考えてみれば夕飯時に酒じゃないもの飲む習慣なかったから、見落としてた経営判断ミスだと反省してる。
いや、これはマジで無理。
今、お酒飲んで気持ちよくお金払ってくれる人から取らなくて、今まであんまり払ってない人に払わせようとするのは自殺行為だよ。売り上げ落ちるし、お客さん減るよ。
せめてノンアルの美味しさに価値を知ってもらってと思ったんだけど、難しかったわ。
>20種類もいらない、俺の飲みたいものはノンアルカクテルではない。
何が好まれるか、皆目わからなかったから調査も兼ねてやってみたのはあるよ。フェアっぽくしたかったというのもある。
1年くらいやって駄目だったから、今は相当絞って高級なノンアルコールワインと高級ボトル茶だけ置いてる。(どっちもウチのワインの高級ラインと同じ値段で出してる)1週間に1本でるかなってぐらい。
でも辞めた頃は、お客さんからノンアルコールゆずサワー無くなったんですか?とかノンアル梅酒辞めたんですか?とか時々聞かれて切ないのはある。
メディアとかで高級ノンアルと食事のマリアージュ特集とか組まれてブームとか起こって、また置けると良いなとは思ってる。飲むお客さんも飲まないお客さんも、どちらにも楽しんで欲しいとは思ってるよ。