はてなキーワード: 立場とは
いやでも実際そうなんだよな
稼げる女はただでさえ少なくて、更にレズとなると本当にいない
あと体感パワーレズはフェムネコが多いので私とはマッチングしない(立場が同じなので)
これは本当にその通りで、アボリジニ、アフリカ系住民、障碍者、児童、女性などの方は大変弱い立場で、一定の保護を受けなければ、あっという間に多数派から権利を侵害されてしまう。
特に女性は、かつて「女子供」とまとめて扱われていた通り、弱い存在と見なされ、成人しても男性とは線引きされていた。
子ども料金や民族的マイノリティの優遇策には噛みつかないのに、女性とみるやミソジニーを発露させて騒ぎ始める日本の男性たち。
みっともないよね。
流石にこの増田が支持されちゃうのは見てられないので反論するよ。
営利目的というより、「営業の自由があるから女性限定サービスを行っても良い」というのが正しい。
もちろんその自由には責任が伴うので、それによって結果的に売上が下がったり、今回のように評判を落としたりすることはある。
ただそれはあくまで結果であって、だからといってそれが男女差別であるかどうかは別。
それに対して、男女による待遇の差を設けることは男女雇用機会均等法によって禁止されている。
女性限定サービスが許されたら男女による待遇の差が認められると言えるかと言われれば、それは言えない。明らかな詭弁。
女性限定サービスを禁止したいなら、法律によって禁止する必要がある。
あなたが勝手に男女差別だと決めつけて、勝手に禁止できるものではない。
終わらないだろうね。だからやらない。営業の自由があったとして、明らかに売上が下がるようなことをする企業はいない。
他に身長を例に上げているコメントなんかもあるけど、これらは明らかなストローマン論法。
「AもやるならBもやるのかよ!」とか、出てきてもないBを勝手に持ってくるな。
入店禁止については人種差別撤廃条約などに抵触する可能性があるが、価格決定の自由は営業の大切な権利である。
それを差別だと叫ぶ自由はあるが、「だからやめろ」はキャンセルカルチャーだ。
ただ、法で禁止されていない差別がいくらでもあるのは事実で、その上で女性限定サービスをなくしたいなら、そういう法律を作るしかない。
そのために選挙権があるのだから、自らの意見を拾ってくれる政党を応援すればいい。
勝手な人権意識を押し付けて企業を差別主義者認定することのほうが、よっぽど人権意識がどうかしている。
SNSで多数決を取って悪者扱いすることは魔女狩り以外の何物でもないし、法治国家や民主主義の否定でしかない。
あなた方の考えには同意するがやり方があまりにも間違っている。そういう話である。
「女性の費用を男性側が負担しているようで不公平である」というのが本音かもしれないが、客層として今まで集客できてなかった女性客を取り込むことができれば、今後は全体の売上が安定して最終的には男性への還元につながることがなぜ想像できないのか。
逆を返せば、そんなことを続けていれば大半の売上を支える男性客層を失うことになるのだから、女性ばかり優遇し続けるわけがないということを少し考えるだけでもわかるはずだ。
その一瞬は女性客の負担を男性側が負うと思われるかもしれないが、事業が安定すること=還元が最大化されることだという事業の基本が理解できていないように見受けられるコメントが多かった。
流石にこれは義務教育の敗北と思わざるを得ない。
そんな利己主義ばかりが声がでかい今の日本ではこれからも衰退は止まらないだろうね。
お前らの嫌いなものをいくら叫び続けていたって腹は膨らまないのだよ。
②~⑤は反論として成立してないのでどうでもいいや。
自身の容姿が好印象を与えることが、人生においてプラスの作用を齎していたかもしれないと今更気づいた話。
自身の容姿を良いと捉えるナルシシズム的発言が多々あることを承知の上で読んでください。
きっかけは、Xで見かけた女性活躍に関するポストだった気がする。詳細は覚えていないが、「女性活躍などで台頭し意見を述べる女性は見目が華やかなことが多い。それは、意見を聞いてもらえる・発言しやすい土台があったからではないか」といった内容だった。
これには心当たりがある。仕事柄、社会で一定程度の地位を獲得している女性と出会うことが多いが、同性として魅力的だと感じることが多かったからだ。
勿論、皆優秀であり努力も重ねられている人々で、容姿のお陰で登り詰めたと言いたいわけではない。
ただ傾向としてそういったことはあるかもしれないとは思った。
一方、自分自身のこと。
振り返ると、褒められることは比較的多い方ではあった(そのほとんどは世辞、というかコミュニケーションの一環だとは思う)。ただ幸か不幸か、そうした褒めを糧に優れた容姿を持つ女性といった自意識を持ち、自分を磨くということをしてこなかった。
卑屈に受け流していたわけではない。褒められればその時は嬉しいので素直に反応したり、人が多い場では困惑し流したりしていた。いずれもその場限りの反応だった。
メイクやファッションは好きだし、自身で鏡を見て「今日は盛れている」と気分が上がることもあったが、なぜかそれと他者評価は結び付かず、すべてが自身の中の絶対評価で完結していたように思う。
それは私が子どもの頃からオタクであったからかもしれない。今でこそ市民権を獲得し、オタクと非オタの垣根は随分なくなったものの、当時のオタクは隠れるべき存在でありどこか恥ずかしいことと捉える風潮があった。
日陰のものである、日陰の人格を内包している、という感覚が女性性を意識する自意識の育成を阻んでいたのかもしれない。
そんな状態であった自分が自己を顧みたのは、先述のXのポストを見た時に、以前オタク友達に言われたことを思い出したからだ。
オタクは隠すものと述べたが、自分はそうではなかった。隠すことがあまり得意ではなかったので、非オタの友人の前ではわざわざ話題を持ち出さないだけで隠してはいなかった。
そうしたことを友人に伝えたら「それは隠さなくても立場が揺らがない容姿や自信があったからでは」と言われた(親しい友人であり、糾弾されたわけではない。あくまで一意見である)。
そして、「それはあなただから言えるんだよ」といったようなことを言われたことは、この時、この友人からだけではなかったことを思い出した。
私は昨今の自己責任を強調する風潮には反対であり、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』なども共感を覚えながら読んだ。機会は均等ではなく、どのような環境に生まれるかといった運による要素も考慮しなくては、能力不足は努力不足=自己責任といった風潮が加速する。
こうした思想を持つ自分にとって、容姿という運による要素に対し無自覚でいるのは問題なのではないかと今更思い至った。
美醜の価値観は時間や場所により変動するものであり、絶対的な価値があるとは思わない。ただたまたまその場所では良しとされる傾向があるのではないかと思う。
それが優位に働いてきたかもしれないと気づくことは、ナルシシズムという悪性の萌芽であると同時に、「運良く、要領よくやってきたから」と考ええいた自分への驕りを見直す機会でもあった。自分が運だと思っていたものでさえ、更なる運により齎された可能性があるのだ。
とはいえ容姿に関する話題は非常に繊細であり、この話を人にすれば不快にさせることは理解している。だからこれは匿名で投稿することにする。
もしかしたらこの問題を突き詰めると自身も人も不快にさせる可能性があるとわかっていたので、これまでの人生で自覚的にならないようにしていた可能性さえあると気づく。
自身の発言はどこに立脚しているのか、無自覚の驕りはないかを疑うことは、してもし過ぎることはないのかもしれない。
最後に、これまで無遠慮な発言をしてしまっていた人々には申し訳なくなる。自己責任主義のようになりたくないと思っていたが、近い傾向が自分の中にもあった。多分まだ沢山あるのだと思う。自戒。
まー芸能人とかはそれだけ投資しても回収できたりするから例外としては成立するよね
でも元記事は風俗嬢だしほとんどの整形ジャンキー(+ホス狂、ドルオタ、若排オタ)は夜職であることには変わらんよね
それに金だけの問題ではなく、整形には傷が回復し腫れが引くまでのダウンタイムがあり、大規模施工の場合は普通に生活できるまで月単位でかかる。
医学系とかエリート、かつ若手で長期休みをバンバン取れる立場の人間ってどれだけいるだろうか?稼いでる人はだいたい激務だと思うが。
九州の男性に対する差別の話を聞いて思ったことをちょっと書く。
コメント何かを見てると日本人同士でさえそういった不毛な話し合いになるのだから差別は難しい。
・在日韓国人の中で悪事を働いているのは一部なのだから、それをもって全体が悪だと考えるのは差別である。
これは間違い。それは差別だよと教えることはできても、差別をやめろとか差別されたから殴り返すというのは間違い。
差別はなにもないところから生まれないし、人間もすべての差別に自覚ができているわけではない。
だから差別をする側の人間には、それが差別だと教えることができても、差別をした事自体を責めるのは間違ってる。
大体の人はここを勘違いしている。
差別は良くないけど、差別をした人間だけを責め続けても差別は解決しない。
責めるべき相手を間違えている。
・わたしが悪事を働いていないとしても、同じ在日韓国人なのだから悪事を働いている人間に働きかけるべきだ。
これも間違い。わたしはわたしで、悪事を働く在日韓国人とは関わりのない他人。他の在日韓国人の悪事の責任を他の在日韓国人が背負う必要は一切ない。
例えば日本人が日本人の犯罪に責任を感じてるところなんてほとんど見たことない。国内でもそうだし国外でもそう。
オリンピックで金メダルを取ると同じ日本人として誇らしいというのに、犯罪者を見て恥ずかしいと思ったとしても責任を感じてどうにかしなきゃいけないという話になっているのはほとんど聞いたことがない。
それくらいおかしいことを言っている。
・ではどうするべきか。
責めるべきは在日韓国人全体でもなく、差別した側の人間でもなく、悪事を働いた在日韓国人を放置している他の在日韓国人でもない。
では誰か。
それを在日韓国人という属性のせいにせず、とにかくその個人に責任を問うべきであり、その個人が自らの行動を省みるしかない。
それをもって、だからベトナム人を入れるべきではなかったというのは、わかっての通り完全な差別である。
すべてのベトナム人が犯罪を犯すわけではないし、かといって犯罪を犯したことがないベトナム人が、日本人に差別をしないでくれと言っても仕方がない。
国籍によって倫理観の違いはあれど、そんなものは日本人同士にだっていくらでも違いがある。
そうなれば、犯罪を犯したベトナム人を粛々と裁いて日本での犯罪の重さを自覚させていくことしか効果は期待できない。
その犯罪に対する刑が軽いなら、外国人関係なく世の中の流れに合わせて重くしていけばよいことだ。
日本人だけ軽いままで外国人だけ重くするなんてことはただの差別でしかない。
九州の話に戻って言えば、そういった男尊女卑の文化があった事自体が事実として、それをもって全体に言及すれば明らかに差別である。
かといって差別した側を責めたところで、現状は変わっていかない。
そうなれば、現行で男尊女卑の文化のまま生きている人間たちが、気づいて、変わっていくことが最も効果が高い。
くわえて、差別された側の人間だって、それが差別だと証明するような生活を送ることもできる。
言葉で反論するのではなく、行動で示して差別する人間達に対して知らんぷりをしていれば良い。
自分がしたことはまさにそれで、日本で生きることとは何かということだけを考えて、正しく生きてきた。
差別されたことを理由に一度でも自らの悪事を肯定してしまえば、それはもう差別ではなく事実になってしまうからだ。
こういう考えの人が一人でも増えれば差別のもととなる批判の原因がなくなり、やがて中身のない思い込みだけで差別をする人間だけが残る。
差別となる原因すらないのに差別を続けていれば、それはもう差別を越えてデマや虚偽の拡散という悪意でしかない。
そうなれば、それは罪となり、差別される側の人間が行動を起こすまでもなく社会によって正されることになる。
伝わるだろうか。
このアーティストは子どもをターゲットにしてはいないが、未就学児の入場も可だったし親子連れチケットも発売していた。
さて、ここからが問題で、公演中にずっとギャン泣きしてる子どもがいたのだが、未就学児の入場が可だとしてもライブ中ずっとギャン泣きするような子どもまでも入場は可なのか。
不文律として「ライブ中静かにしていられる子どもは入場可」「入場してもギャン泣きしたら会場から一旦出て静かになるまで待つ」ということではないのか。
アーティストは公演中「子ども泣いてても大丈夫だよ〜」みたいなフォローをしていたが、客の立場からすれば1万円のチケットを買って隣がギャン泣きだったらさすがに我慢ならないと思う。
さて皆さんの考えはいかがか?
それなら女性の給料を少なくしたり、女性を募集しない等ということも問題なくなってしまう
これに関しては労働者の立場が低いから禁止ということにしたとしても
店内をおしゃれな雰囲気にしたいから白人だけ半額みたいなことが許されるようになってしまう
―
②デートとかで利用すれば男もお得
これは男が女の会計もするというジェンダーバイアスから出たセリフなのだろうか
―
そんな事言うならそもそも食べ放題なんていうサービスやってることがおかしいだろという話である
もしされてるというのであれば、支援物資等も優先的に男性に配布する、生活保護費も男性を多くするなどの施策が必要だろう
―
④子供料金はどうなんだ
更に人間は必ず子供の時期もあるのでいつサービスを受けられるかの違いでしかないといえる
―
―
去年だか一昨年だか『ゆる言語学ラジオ』を見ていたとき、堀元氏の言動に危ういものを感じて、これはいつか燃えるだろうなと思ったのだが、その通りになってしまって残念だ。
彼には「正統」なアカデミズムに対する崇拝があった。もちろんその正統は彼の考える正統という意味だ。しかも、その崇拝は、それによって自分の立場を強化したいという政治的なものだった。なお悪いことに、彼にはこの二段構造に対する自覚がなさそうに見えた。
この手の人間はいつか気に食わない異端を焼きたいと思ってしまうものだ。今回の騒動の詳細は全く追っていないが、だいたいそんなところだろうと推察する。あってる?
まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者を批判し、無知であるかのように見せかける戦略である。
彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手の感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。
その結果相手は不快感を覚え、自分の意見が無価値であると感じることが多い。
こうした行為は論理的思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。
さらに「論理的だ」と自称する人は自分の感情を抑圧し、他者に対しても感情を無視するよう強要することがある。
感情を論理の敵として扱いすべての問題を冷徹に解決しようとする。
しかし人間関係や社会的な問題は感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実を無視することに等しい。
感情を排除した論理はただの冷酷な行為の正当化に過ぎず、その背後には他者への共感や理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。
また、彼らは自分の論理が絶対的な正義であると信じて疑わないことが多い。
この信念に基づいて他者の意見や価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。
論理は本来柔軟であり異なる視点や価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理は自己中心的な道具であり、他者を支配するための手段に過ぎない。
このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理的思考とはかけ離れている。
彼らの行動は、他者を批判し、感情を無視し、自分の意見を押し付けることである。
論理的であることを誇示する前に他者への共感や理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。
「論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャのソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。
ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的な真実や倫理を無視し表面的な論理だけに依存していた。
現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。
彼らは、自己の主張を支持するために論理的誤謬を巧妙に組み込むことがある。
たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠や論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。
ソフィストたちのように、これらの自称「論理的」な人々は、自分の議論を正当化するために論理を武器として使う。
しかし、彼らの目的は真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利を目的とした議論の技術と非常に似ている。
さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者の反論を無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識を絶対的なものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的な性格の表れと言える。
しかし、ソフィストたちの手法が古代ギリシャの知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論は一見効果的に見えることがある。
それでも、こうした誤謬に依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理的であると自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。
結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代のソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理的思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。
「論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。
彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識と洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。
まず論理的誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である。相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛の第一歩となる。
これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。
次に、感情や倫理を無視されないように自分の立場を守ることが肝要だ。論理は冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情や倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。
さらに、議論の目的を見失わないことが必要だ。相手がソフィスト的な手法で自分の論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実や理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。
こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることなく健全な議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。
論理は武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。
冷たさと強さを兼ね備えたスリザリンの特質を持つ者は時にその論理を自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。
我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理的思考である。
しかしこれはスリザリンに向けたスリザリンからのメッセージである。
闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。
おわかりかな?
---
同人活動は、既存のキャラクターや作品への愛やリスペクトを基盤とし、創作者が独自の解釈やクリエイティビティをもって新たな価値を創り出す行為です。多くの場合、同人作品は手作業で描かれ、制作過程での試行錯誤や個人の技量が反映されます。これに対し、AI生成の絵はプログラムに基づき、自動的に作られるものが多く、制作過程やクリエイティビティが大きく異なります。
また、同人活動が著作権や創作の倫理について議論の対象となることはありますが、多くの同人作家はその点を理解し、ファン活動の一環として節度を持って行っています。そのため、同人活動とAIによる絵の生成を一括りにして非難するのは、やや短絡的であり、同人作家の立場や努力を正しく理解していない可能性が高いです。
同人活動の意義や背景を理解した上で、AI生成の絵に対する批判や懸念を示すのは、創作活動の質や価値に対する正当な意見であると言えるでしょう。
情報工学系の学生だったんだけど、サークルの先輩5人ぐらいから「SEもコーダーもマジでブラックだ!もうこの業界は駄目だ!俺は組み込み系とかに行くけど、そうやって逃げるやつだらけで転職もまともに出来ない!」と言ってるのを見聞きして、俺はIT系に進むのを辞めた。
結局俺が進んだ業界もそこそこにブラックで転職しても転職してもハズレだらけで「あーこれならプログラマーでもやってりゃ良かったわ」とずっと後悔してた。
それから20年ぐらいして、長く関係の続いてる人やネトゲとかで繋がりがあった40代50代ぐらいのIT業界の人間が少しずつおかしくなっていくのが分かってきた。
プログラマー30代定年説って奴の亜種何だと思うんだが、最新の技術についていけずレガシーな分野でつまらん仕事を高いとは言えない給料で延々とやることのストレスがあるようだ。まあ大部分は直接顔も合わせずにブログやツイッターの書き込みを読むだけの情報だけど。
肩書だけ上の方について、若手がキラキラした仕事をしているのをサポートするばかりで自分が前線には立てなくなっているとかなんとか。
彼らが出世競争に敗れて、上の方で指揮を取って自分の理想を現場に叶えさせる立場に立てなかっただけな気もするんだけど、年齢的なのもあってそこから独立して自分の理想通りの軍隊を作るみたいな気力はないらしい。
というか、俺の知り合いだけあって最初からそういう気力なんてないような人間、それこそ「IT業界で極めればカチャカチャターンマクロポチーで仕事終わってあとはテレワークをいいことに時間つぶしてゲームでもやってりゃいいぜ!」ぐらいの感覚の人間が多かったってのはありそう。
どんなにレガシーな技術を使ってても、ベースとなる部分がドンドンアプデやサービス終了をかますせいで新しいことを覚え続けることからは結局逃げられず、その癖自分の頭はボケていくってことに相当苦労してるようだ。
俺は逆に職場の他の人がパソコンに疎すぎるせいで所謂「大先生」のポジションになり、マクロや数式の補修をチョコチョコやるだけでクソほど褒められる。
まあオマケ程度の雑用ばかりだから評価シートに書いても全然査定が有利にならんので、昇給レースで敗北しきった負け犬ポジションではあるんだけど。
俺が2、30年「悔しい!俺もあの業界で飯食ってればよかった!仕事が毎日つまらなすぎる!」と嫉妬していた人達は別に俺より楽しそうに生きてない。
俺と大差ないレベルで死にたいとか辛いとか金がないとか居場所がないとか結婚できてないとか老後が怖いとか趣味がゲームとアニメしかないとか言っててまあ要するに同じレベルで人生が終わっている。
結局、俺達にはどの業界だろうが等しく生きていくための才能がなく、ITに行ったら行ったで「他の業界にすれば良かった!仕事がずっとクソすぎる!」と叫んで暮らしていたんだと思うんだよな。
そして、どの業界に行った所で「アレ、実は俺の仕事なんだよね」なんて言えるような仕事はなく、どっかのゲームの小さな大会で3位になったとか、サラリーマン川柳で下の方の賞を取ったとか、小学生の頃に読書感想文コンクールで入賞したとか、そういうクッソほどしょーもないことを人生における数少ないトロフィーとしてずっと誇って生きていくのだろう。
普通の人はミドルエイジクライシスとか言って30代で発症して30代で治るものを、俺は10年早く発症して10年遅く治しているって考えるとさ、マジで生きる才能がないんだなあ。
生きる才能がないなりに頑張ってるなあ。
置かれている立場は厳しいけど、罵声、罵倒、悪口、批判を言われようとも、我々は諦めません。最後まで泥臭く、しがみつきたいと思います(`・ω・´)ゞ
01【A】千葉(○2ー1)
02【H】新潟(○1ー0)
03【A】大分(△1ー1)
04【H】中京(○5ー0)
05【A】札幌(●0ー4)
06【A】町田(●1ー2)
07【H】柏(△0ー0)
08【A】横浜FM(●0ー5)
09【H】磐田(○1ー0)
13【A】福岡(△2ー2)
14【H】鹿島(●1ー2)
15【A】湘南(○3ー1)
16【H】京都(○3ー0)
18【A】神戸(●0ー1)
19【H】広島(●0ー5)
21【H】東京V(●2ー6)
22【A】浦和(○2ー1)
25【H】町田(●1ー4)
26【H】神戸(●1ー4)
27【A】名古屋(●1ー2)
29【H】G大阪(○1ー0)
30【A】中京(○2ー0)
32【A】京都(○2ー0)
34【A】新潟(●0ー2)
35【H】札幌(●0ー2)
37【H】鳥栖
38【A】磐田
39【H】湘南
40【H】FC東京
41【A】柏
43【H】千葉
44【A】東京V
45【A】広島
46【H】横浜FM
前編はコチラ
https://anond.hatelabo.jp/20240901181941
スポニチがスッパ抜いて失笑を誘った。池袋の裏手で聴衆もほぼ無くビールケースに乗って面白カルト候補応援する姿が写真掲載され面白画像として出回った。
元記事は削除されてこれくらいしか残っていない。https://matomame.jp/user/20yama20/86adf5030479d91ccee5#9c0b66168507bff3b75a
日本解放第二期工作要綱とは1972年に日本の右翼活動家によって中国にて発見されたとされる、中共による日本赤化の工作の指針文書。要するに中国版の32年テーゼだ。因みに1972年は田中角栄による日中国交正常化があった年だ。それに伴って国府(台湾政府)とは断交した。
32年テーゼというのはコミンテルンが1932年に定めた日本共産党の革命指針の綱領で、日本は2段階革命のどこの段階かの判断に始まり、天皇制の打倒、小作の廃止、7時間労働などを定めていた。後半の2つは奇しくもGHQが実現している。
日本解放第二期工作要綱は、この32年テーゼと同じものを中共が作っていた!とするものだ。だから日中が国交を樹立すると共産主義になるぞ!と。
だがコミンテルンと中共の立場は全線違うからそんなもんはあり得ないし、そもそも効果が無い。日共は過去はコミンテルンの下部組織だったが中共とそういう関係であった事は無い。
しかも右翼活動家が偶然発見しただけで、他にはその文書を見たものは居ない。という事で、これは嘘だと考えられている。
もう一つの文脈が、西尾幹二が2007年頃?に発表したコミンテルン史観で、これが受容されるうちにドンドンとトンデモ化して行った。
例えば、満州事変はコミンテルンが画策した、日米開戦はコミンテルンの策略、GHQはコミンテルンだった!、などなど。杉田水脈は「コミンテルンは今も存在しその活動が活発になっている!」と言っている。大企業や学者や中央官庁で経歴をいくら積んでも比例代表制で党の票は回して貰えないが、コミンテルンが生きてると言うと比例上位に就けて貰えるのだな。あれもこれもコミンテルン!と仲間内で「議論」(陰謀論)を活発に言い合うと、コミンテルンの活動が活発になった事になるのだ。
田母神幕僚長がこのコミンテルン史観を論文で開陳して馘首された。
このコミンテルン大流行の後に小池はこれに引っかかっているのである。杉田水脈と小池が同じ程度と思う人は少なかろうが、少なくとも同じ程度だった事はあったという事だ。
最初は自民党に叛旗を翻して離党し反都議会自民議連を旗印にしたので初登庁には音喜多ら都議二人以外がお迎えをしないアウエイ状態であった。
しかし希望の塾を発足するとそんなコアの2人には発言権はロクに無くて議席の無い野田秘書が全部仕切るパシリ状態。
またこの頃の野田は歌舞伎町で豪遊している所を週刊誌に撮られている。
市ヶ谷商業高は牛込柳町近くの新宿区矢来町にあったが廃校になり、土地活用方を探していた。当地は人口減少が続く都心の坂と狭隘路の中にある土地で、高層ビルなどへの転用が難しい。また住宅街の奥にあってランドマーク的な使い方も無理がある。
そこで舛添は韓国を訪問した際に韓国人学校への転用の約束をしてきた。これに右派は大反対して反舛添の声を上げた。
舛添が金の問題で失脚して小池が都知事に就任するとこれを反故に。
これも極右ゴロとの付合いが影響していると思われる。
それでは転用方の代案は?と問われた小池は当時問題になっていた保育園に転用すると答えた。
だがこれは相当トンデモな解答で、保育園は電車で行くものではない。更に柳町は渋滞の名所で朝夕に送り迎えするのは困難だ。しかも付近は人口減少地帯で、保育園の立地としては完全に不適だ。また保育園としては施設が大きすぎる。
故に当地の保育園転用は考慮もされず放置状態となっていた。最近になって、付近の中学校の建て直しに伴い新宿区が特養ホームを建てる計画を立て、ようやく土地活用が進みつつある。
小池は元々リベラルだった。また、芦屋出身の兵庫民で選挙区も兵庫だったが、郵政選挙で小泉政権の刺客として東京10区に飛ばされた落下傘候補である。
つまり風や波に乗って立場を変えてきた人物であって、思想史とか戦後政治史とか全然頭に入っていない。戦後政治史というのは自民党史でもある。
一方、小池都知事と都民ファという潮流に乗ろうとした前原誠司は逆に90年代の保守のエリートみたいな経歴を持つ。松下政経塾にも行っていて、更に京大の高坂正堯ゼミ出身だ。高坂正堯門下生という事は、猪木正道や戸部良一らの防衛大校長らの系譜でもあり、それはオールドリベラリズムとリアリズムの系譜でもあるという事である。吉田茂の海洋国家論にも影響を受けているし憲法九条問題も、その護持は日米安保との合わせ技で安全保障と経済発展の安定土壌を手に入れる吉田らの施策と理解している。その結果、戦後日本は常軌を逸した経済発展を遂げ、戦争に負けたのに極東の中心となった。
国際的な立場が上がったので安全保障の美味しいトコ取りは出来ないというのが当時の課題であっし、9条改正問題はその為のものであった。
しかし小林よしのりブーム以後の保守論壇というのはバカが出来る人をパージする場となってしまい、9条は亡国の策略とかGHQはコミンテルンだとか言うのがまかり通ってしまう。
前原は焦っていたのだろう。自分が確りとした思想的地盤にのっているのにポピュリズムに駆逐されてその地盤が無くなり、保守政治との接点が無くなってしまった。一方、コミンテルンが未だに活動盛んと言えば政治的に重用される。
そこでポピュリストの権化である小池に接近して合流する事で党勢を伸ばせると考えた。
ところが調子に乗りすぎた小池は「排除します」発言をしてしまう。前原はこれを説得できると思ったようだが、何せ前提の知識や経験が違う。小池の「保守思想」の全てがネトウヨっぽい天ぷらだとは考えていなかったようだ。しかしそこに至るまでの経緯を見れば天ぷらというのは明らかだ。
その後希望の党は大敗して党勢ほぼゼロとなってしまう。ずっと時代の風と波に乗ってやってきた小池にとってここを起点にマスコミのバッシングが始まり7つのゼロも含めて問題にされ一つ一つの発言や施策の根拠をガチ詰めされる流れになるというのは恐怖だったのではないかと思う。
そこでそれまでのイデオロギー的振舞いは全部止めた、というところじゃないか?ずっとその後は本当に大人しくしていた。
2020年にコロナが流行し、当初安倍総理が甘く見て放置し、国民の怒りが上がってきた辺りで感染防御に切り替えた。この流れに乗って「3密」や移動抑制を呼びかけたところ、ポピュリストの才能がいい方向に作用して過去のヘマは忘れられて今に至る。
傲慢な人間が議論の中で他人の「頭の悪さ」を指摘しようとする理由には、いくつかの心理的要因が関係している。
傲慢な人は、自分が最も正しいと信じており、他人の意見やアドバイスを聞く姿勢に欠けている。
このような人々は、自分の知識や能力を過大評価し、他人を見下すことで自尊心を維持しようとする。
他人の「頭の悪さ」を指摘することで、自分の優位性を確認し、優越感を得ようとするのである。
傲慢な人は、自分の意見や立場が脅かされると感じた時、防衛的になる。
他人の意見を「頭が悪い」と切り捨てることで、自分の考えの正当性を守ろうとする。
これは、自分の弱点や間違いと向き合うことを避けるための心理的な防衛機制といえる。
多くの場合、傲慢な人は他人の意見を真摯に聞く能力や、建設的な議論を行うスキルが不足している。
そのため、相手の意見を理解し、適切に応答する代わりに、相手の知性を攻撃することで議論を回避しようとする。
傲慢な人が職場にいると、心理的安全性が低下する。このような環境では、建設的な意見交換が難しくなり、相手の知性を攻撃するような不健全なコミュニケーションパターンが生まれやすくなる。
この記事(https://kensuu.com/n/na6ca1ced8f65)に対する意見です。
結論から言っておくと、加害者から受けた被害者の立場を考えて無さすぎでは?ということである。
今回のやりとりを分解すると
解決したいこと
やり方
という形でした。抽象度をあげると
解決したいこと
何か悪いことをやっている(と自分たちが思う人)の行動を減らす
やり方
ここで重要なのは先に攻撃を受けたのは誰かで、それは落合先生なわけである。
こう見ると、落合先生が一方的にかつ無差別に攻撃していると言い切れるのか?である。そもそもコンプラを本人に問い合わせるのは攻撃なのか?
けんすう氏は上記2番目の「(外野が加害者の振る舞いを知らずに)加害者のコンテンツを肯定的に拡散する」の立場を重視して意見しているが、実際の被害者はそこまでコストを掛けて気にするべきなのか?ということである。だって被害者だよ?
しかも、その外野が「(加害者の振る舞いを知らずに)加害者のコンテンツを肯定的に拡散している」のか、「(加害者の振る舞いを知ってなお、)加害者のコンテンツを肯定的に拡散している」のかは、落合先生からはわからない。なぜなら、
のである。
この状況において、相手に加害者の振る舞いを知ってるのか問い合わせるのは自然な行為なのでは?むしろ知ってる上であえてオープンに聞くほうが意地が悪いといえる。しかもコンテンツを本当に肯定的に評価できるのであればコンプラの問い合わせが来ても
と反論すればいいだけではないのか?だって問題ないと考えているんでしょ。
結局、「相手にコンプラを問う=攻撃になる」は、少々行き過ぎのように見えるし、
これを攻撃というなら、加害者をシェアしてる人たちも被害者に後味を悪くするというダメージを与えてるのだからそれも攻撃といえるでしょう。
現在は少年画報社の漫画雑誌ヤングキングで、ひとでなしのエチカという漫画を連載している
基本的にそれだけだ。少なくとも私にとっては。スパイスとして暴力と巨乳が少し。
ではその話の内容とは?
普段から気になっていたが議論したことはない、そういう議題をかなりの頻度で提示してくれることだ
キャラはピエール手塚さんの普段思っていることを代弁しているだけに思う。
よってキャラ立ちや物語の大きな流れやその場その場の演出は特に優れているとは思わない。
彼の優れている点は議題のチョイスそのものにある。
だからと言って社会的に答えの出ない問題に対して、彼の漫画が完璧な答えを出してくれるわけではないが、
キャラクター同士の口喧嘩を通して各々の視野を垣間見せてくれる
ピエール手塚さんはネット上にたくさんの作品を無料公開しており、私は読めるものは全て読んだ
彼の全ての作品を好きになったわけではないが、多くの作品のファンになった
特に暴力の存在をテーマにしつつも笑わせてくれる暴力太郎という作品が大好き
好きと愛してるの違いをテーマにした恋のニノウチも最高。恋のニノウチは彼の作品には珍しくアクション作画も楽しかった!
その作品がなんだったのかはもう覚えていない
公開されている無料漫画、連載されている有料漫画、漫画皇国という彼のブログ、人生思考囲いというネットラジオ。
この辺りを中心に彼を追いかけた
彼の関わっているコンテンツで一番好きなのはネットラジオ人生思考囲い。
なんと漫画が一番ではない!
私にとって刺激的でエキサイティングなのは彼の問題提起力と視野の広さに触れること。
連載作品は説教臭くて読むのをやめてしまったが(ほんとごめん。悲劇だ。でも合わないものは合わない)彼の考えに触れることが大好きだ。
漫画が好きで描こうとしたが若い頃は一作品も描きあげることができなかった
スカウトを受け多くの読み切りを掲載し連載を勝ち取り現在に至る…
私は彼の人生を美しいと思った!とても強く!!
逆境に負けず、社会人として自立し、家族を助けつつ自分の好きな漫画を連載する!
本当に憧れたし尊敬した
彼のように強く美しく生きたいと思った
彼の読み切り漫画が好きだし彼のトークが好きだし彼の生き方が好きだ
私がピエール手塚さんをネットで耳にするとき、大抵は作品ではなく彼自身のライフスタイルが話題になっている。
通勤退勤電車でiPadで漫画制作、友達とカラオケしながらiPadで漫画制作、会社役員昇進、少し前は連載も2本で読み切りもちょくちょく載せていた。
凄まじい生産力。
どうすれば彼みたいになれるのか?ヒントはないか?ネットラジオを聞いただけでは全てはわからない
そしてついに直接的なインタビューが行われ、記事が掲載された。
これをきっかけに彼の元には少なくない批判が寄せられたことがネットラジオで彼自身から語られた
ラジオにおけるピエール手塚さんの反論と、私自身がネットで探した彼に対する批判を要約すると以下。
批判者「彼のパフォーマンスは彼が体力があるから可能なのだ。管理能力云々はその次。しかも本当に体力があるかも疑問。健康を犠牲にした愚かなスタイルなのでは?(以下人格攻撃するものも少数ながらいた)」
ピエールさん「私は善意でインタビューに応じたのだし、仮に不健康だったとして私の勝手である。だが健康診断は良好だ。あなた方の批判は主に口調が失礼だ。」
この時の収録でピエール手塚さんはかなり感情的になっていたが言っていることはまともだと思った。
彼は一時的に不調に陥っているのかもしれない。
……
人格批判は不快だろうけど、普段冷静で多角的な視野を持つ彼がここまで怒っていることを私はとても不思議に思った
こういうふうに捉えられる記事内容だったかもねと軽くあしらうのが、私が思うピエール手塚。
一方ピエール手塚さんはラジオパーソナリティから自ら降りてしまった!!
私は8月8日のインタビュー記事の批判を皮切りに彼が怒っていたのだろうと思っていたがそうではないようだ
これを裏付けるトークが2024年7月19日のラジオ第371回で行われていた
ファンからの投稿を読み上げ、それに対しピエールさん含む三人のパーソナリティが話を展開するのがこのラジオの基本形式
この回の私の注目した投稿の内容を要約すると
「ピエール手塚さんは2024年初頭から元気がないようである。加えてここしばらく自身のブログに対する批判に怒っており、このネットラジオでその怒りを発散するのはやめてほしい」
この指摘を受けたパーソナリティたちは、自分たちの身に降りかかった出来事を振り返って笑っていた。
身に降りかかった、という表現をしていたので良いことではないのだろう
彼らは投稿者の洞察に驚きつつ笑っていた。大筋で疲弊していたことを認めていた
7月19日の時点で彼はすでにブログ上で批判を受けていたようだ。インタビューは8月8日なのに。
加えて異常な繁忙期だったとも言っていた。
つまりインタビュー記事以前に、忙しく弱っており泣きっつらに蜂でブログが批判に晒されていたということか。
2024年の傾向としては会社員としての気づきに関する記事が多かったので、繁忙期だというのは間違いないと思う
ブログへの批判はこちらからは見えないダイレクトメールなどで行われていたのかもしれない
さらに中止の発表から新規で2件の映画や漫画に対する普通の感想記事が投稿されていることもわかった
それまで会社員としての記事が多い中娯楽に関する感想記事に内容が移っている
うーん
元気なのか弱っているのかよくわからない
推理ゲームで彼の心の機微に触れようとした私の行動はそもそも良くないですね
客観的に確かなことは
②インタビューと関係なくブログが批判に晒されさらに疲弊していた
の4点
爆発も自発的にしたわけではなく投稿者のメッセージがきっかけだった
メッセージ自体はピエールさんを傷つける内容ではなかったが弱った体には少々厳しいトピックだったかもしれない
ブログを読むに彼は会社の過酷な労働環境を改善したいと普段から努力している側だが
しかし自分の生活は過酷であり、さらにその点が世間から評価されインタビューまで受けているのだ
その生活を生き抜く工夫はもはや工夫ではなく彼の作品だと私は思う
それを善意で公開して批判されたら傷つくのは自然なことなのかも
その手法が賞賛される社会に単純になって欲しくないと私は思う。
ピエールさんは個人の頑張りとして話しているのだから強制なんてしてないけど
褒めるな止めろということだが、そんなことしたから本人は鬱陶しがってるわけだ
ラジオの共演者たちも彼の疲弊には気づけていても、彼の怒りには気づいていなかったのだと思う
メッセージを選ぶ立場のパーソナリティは爆発回のアーカイブでこう言っていた
「手塚さんがこんなに傷ついているなんて知らなかった」
身近にいても気づけないのはピエール手塚さんが自分の不機嫌をある程度隠せる我慢強さを持っていたからだろう
私もラジオを聞き返してここまで真剣に怒っているとは最後の爆発回まで気づけなかった
他の過去回を遡ると、忙しすぎてやばいので会社をさっさと辞めろと言われている回もある
これは半分冗談のように聞こえたが半分本気で心配していることでもある
批判者から見ても共演者から見ても無理のある生活を続けているように見えるのだろう
私も無理だろうなと思う
健康診断が大丈夫なら肉体は大丈夫なんだろうが、精神面での無理が爆発を招いたのだろうか
以上の結論は
ピエール手塚さんのように強くなれない脆弱な私が、ピエール手塚さんの強さを封じ込めようとした呪いだと思う
その側面は間違いなくある!
ファンを自認している私ですらこれだ!
認めたくない汚い部分!
認めたくはないが、彼のスタイルがもしスタンダードになった場合、私は間違いなく社会から落第する体力しかない…
彼は強く私は弱い
出る杭は打たれる
私と批判者の間にある違いは、杭を打つ力を心配と呼ぶか批判と呼ぶかだけだ
彼は強さの秘訣を弱者に開示しようと努めてインタビューに応じてくれたのだろう
でも弱者のいる後ろを振り返らずに高いところまで走って逃げるべきかも
その力も強さも持ち合わせているように思う
でもきっとなれないと自分でわかってる
その弱い自分に自覚的になりつつ、強い人へのやっかみをしないようにしたい
かっこわる
おわり