はてなキーワード: へったくれとは
まず稼げんと経費もクソもへったくれもないんだけど?
扱っている内容がめちゃくちゃ科学なのに祈祷を行っているかはまあさておいて。
厄年とか暗剣殺だとか災難が起こりやすい年についてリストアップされているやつだ。
これを見て「修士の学生とかみんな厄年じゃんwww」みたいに思ってたんだけどさ。
いや、そうなんだよ。男は数えで25が本厄だし、女は数えで19が本厄だ。
24といえば大学院生なら必死こいて修論を書いているわけだし、女性に至っては18歳、ほとんどがセンターなり私大入試に苦しむ時期だ。
そういった課題を災難としてみなすなら分らんでもないし、過去に制定されたものだから時代の流れで変質していったのも否定できない。
だが、彼らにとっちゃ一世一代、将来のかかった年なのだ。そんな節目の年を厄年扱いするのはあまり気持ちの良いものではない。
そして改めて調べてみたら、はじまりは曖昧というか、根拠は特にない民間伝承らしい。
経験則とする意見もあるらしいが、「受験」「就活」が二大イベントして根付いた今の社会システム的では経験もへったくれもあったものではない。
趣味でイラストを描くので、毎年同じ趣味の友人達と自作の年賀状を送りあっている。
ほとんどの年賀状は干支をモチーフにした可愛らしいデザインのものだったり、ほのぼのしたお正月の風景を描いたものだったり、和服を着た笑顔のイラストだったりと爽やかな内容のものが多いのだけれども、「あけましておめでとう」と言いつつ全くおめでたくないデザインのものが届くことがあってげんなりしている。
ダークな作風が得意なのはいいことだと思うし好きなだけ暗い絵を描いてくれればいいのだけれども、年賀状はイラストプレゼント企画でも動物をお題に絵を描きましょう!でもなく「新しい年が良いものになる事を祈って今年も一年よろしくお願いしますの挨拶をするため」のものだということだけは忘れないでくれ……と思う
そういう類ならまだ許容範囲内として、
干支の動物って縁起物だから、干支の動物の死体とか骨とか、干支の動物を殺す絵とか、正月に郵送で送ってくるのはもはや呪いの文書に近いと思うし、もしかして嫌がらせのつもりか?と思うし縁を切られても仕方ないレベルでは……
「自分は他の人とは違って独特の世界観を持ってる」みたいにドヤ顔しないでほしい。
コンビニの入口で売ってる年賀状送られた方が100000000000倍マシ。
いい大人に「これが私の作品の世界観だから!」と言われてその手の暗い絵を送り付けられてしまうと、この人マナーもへったくれもないなとげんなりする。
最低限のTPOすら守れずにこれがアートだから!と胸を張るのはさすがにお里が知れる。きつい。
この手の絵を描くのはメンタルが弱い絵描きさんが多いので、下手に指摘すると「私の描くものに価値がないって言うの!?ひどい!!私の描くものはどうせゴミなんだ!!」みたいにメンヘラモードに入ってしまうので疲れる……お正月から……
wikipediaの「Category:xxxx年のテレビアニメ」を一年ずつ眺めていくと面白いです。
ちなみに anond:20180324005516 は違う増田。
単純そうに見えて、コピペを調べるのに意外に手間がかかっている記事。
元がアダルト業界のよくわからん俗語なので、地味に苦労して調べた記事。
三大銀行の公式サイトを参考にしつつも主にWikipedia情報で書いた記事。
どっちかと言うと系統図を作図するのが大変だった。
けっこう独断で選んだので、実際にその国の人に聞いてみたら「こいつは違うだろ」って言われそうな記事。
Wikipediaのページなど存在しない人も多く、いろいろ調べるのが大変だったが面白かった。
なるべく知名度があるツンデレキャラを載せようとしたんだけど、
実はガンダムをそんなに観ていないので調べるのが大変だった記事。
まとまった情報がなかったので、いちばん苦労したかもしれない記事。
もともとオカルトには興味がなかったし。
こういうのを元増田みたいに質問する人がサッと用意してくれるといいよね。
「へったくれ」の語源 anond:20170713203121 なんかも大変だったけど。
これも興味のない分野について調べてみた記事。
意外に綺麗に時期分けできるのが面白かった。
毎年書いてるんだけど、100以上ブクマされたり全くブクマされなかったりする。
各年を代表するアニメのまとめがメインで、景気のことは二の次だった記事。
自分のなかでは anond:20150703142948 に近い感覚の記事。
これはほぼ記憶で書いたあと裏付けを取っただけで、あまり手間のかかっていない記事。
「パワーカップルの基準がだんだん下がっている!」というネタに異を唱えたかった記事。
これはまあWikipediaのページを行ったり来たりするだけで、
テーブルを組むほうが大変だった。
イノベーションは生産を拡大するために労働,土地などの生産要素の組合せを変化させたり,新たな生産要素を導入したりする企業家の行為をいう(コトバンク)
技術革新とも言われる。ただ、新しい知見、革新だけなら大学や研究所で日々生まれている。
日々生まれている研究と何が違うのかというと、問題解決につながって商売になるということだろう。
1つは強み。強みを作るのは自分側が持ってる強い技術でしかできないということ。
もう1つは。市場へのマッチング。問題解決と、収益構造を作れえるということ。
自分でこの強い技術と、市場へのマッチングを作れれば、新しい知見を元に市場が開かれる。
これがイノベーションだ。
今までにない強い技術、あるいは市場へのマッチングにより、新たな市場が生まれた。
結局はこれだけのところである。容易に作れる強い技術や市場へのマッチングにより解決し、それがイノベーションだと言われることもあろう。
しかし、容易に作れない強い技術、あるいはこういうものが出来れば市場にマッチし得ると言えてもその姿が全くないこともある。
応用研究は基礎的な技術や理論を現実の製品に結び付けるための研究活動。(コトバンク)
基礎研究は学術的な知識や,製品や利益に直接結び付くことのない技術と理論の発見に関する研究活動。(コトバンク)
応用研究は金が出やすい。ベンチャーキャピタルでも企業でも。競争的資金も応用的なものなら出してもらえる。
強い技術か、市場へのマッチングが欠けている場合。別の言い方をすると、商売が見えているがやり方がわからない場合、あるいは商売が見えない場合。
この場合は民間の金はでない。基本的に国の資金となる。基礎研究となる。
国の資金も、出すことを決めた連中の出世や将来も関わっている。ましてや新自由主義で成果を吟味して出せという話になる。
と言っても、やり方がわからないか、商売が見えてないわけだから、成果もクソもへったくれもない。
研究している最中に欠陥が見つかってこんな面白い結果がでました(ただし、こういう欠陥があることがわかりました)ぐらいのものが言えたが、それで終わりということもあろう。
もちろん、こういう欠陥があるということを確定すれば、その次の段階でその欠陥を潰す研究というのが生まれ得る可能性もある。
何かを狙っていたが欠陥が見つかった技術なんかに命をかけてれば、ベンチャーや企業内でやってりゃベンチャーは潰れるし、企業であればそいつの出世はとまる。
なんか変な現象が起きたんだけどちょっと調べさせてくれない?実用化まで24年かかるけど。なんてもの言い出したら首だな。競争的資金も絶対通らないだろう。
なお、これはノーベル賞をとった免疫チェックポイント阻害剤オプジーボ。現象の発見が1990年、実用化が2014年。
となると、革新的イノベーションは基礎研究の充実をもってしか為せないということになる。
更に、少額でもいいから競争的資金もなしで使える研究資金が必要だ。
どこかに探しまくれば楽に実用化出来る革新的イノベーションの種があるはず。
それを見つけ出して石を投げまくって、万が一にも失敗したらその遂行者を殺して周りを震え上がらせればたら革新的イノベーションが生まれるなんていう発想は終わりにしてほしい。
Good night, and good luck.
夕食のアテならある。
店の多さといい、お一人様歓迎のライトな雰囲気といい、日本で言うところの丸亀製麺の様な店だろう。
折角異国に来てチェーン店かよという人も居るだろうが、自分は食感のヌメッとしたもの以外であれば、大体において「美味い美味い」と言って食う人間であり、メンタルに不安があるこのひとり旅では、店の気軽さこそが重要だった。
Pho 24 を目指し通りを歩くと、やがてフォーならぬ、丸亀製麺ホーチミン店が見えて来た。
見知った店とはいえ、流石にここでは食わない。
しかし、日本企業のベトナムローカルメニューというのは気になるもので、店外の大判メニューを見てみる。
物の本で知ったのだが、中国で進出したラーメン店で、当初醤油ラーメンが全く売れなかったらしい。
どうも中国人感覚では、トンコツに比べて醤油スープは手抜きに感じるらしい。
おそらくは似た事情だろう、アジアにおいて日本麺の象徴はトンコツスープなのだ。
Google map を見ると、Pho 24 の目と鼻の先に統一教会があったので、まず向かう事にした。
行きすがらにテニスコートがあり、お父さんがテニスを楽しんでいる。
コートから5分も歩かないで辿り着いた統一教会は、シンとしていた。
当然といえばそうだろうが、ライトアップもない。
夜の教会を撮ったものか逡巡したが、スマホの写真に収めて、一礼した。
さて夕食だ。
Pho 24 でカウンターのメニューを見ると、なんと練乳で作るベトナムプリン、バインフランがあるではないか。
かくして夕食は牛肉のフォーとプリンという珍妙な組み合わせとなった。
実のところ、フォーの本場は北部から中部であり、南部のここホーチミンを象徴するのはフーティウらしいのだが、この際、何を言われてもいい。
直ぐに運ばれて来たフォーは、腰もへったくれも無かったが、不調を抱え不安定な食欲には丁度いい食感だった。
一緒についてくる青菜をどんどん入れる。バジルの香りが心地いい。トウガラシは一切れでエライ辛さだった。
エッジがピンと立つしっかりした固さだったが、甘さは優しかった。
それより、流石にあんまりだと思って追加注文したライム茶の方が甘い。
ホテルに戻る前に立ち寄りたい所がまだあって、それはスターバックスだ。
スターバックスに向かって歩いていると、ホーチミンに来て初めて欧米人に声をかけられた。
長い金髪を後ろでくくった髭の男。
「A little.」
嘘だ。
しかし、言わんとする事は大体わかった。
男はエストニアからやって来て、この通りで財布を落とし無一文だという。
幾らでも良いからくれと。
絶対嘘だ。
だけど笑ってしまったので、少し渡す事にした。
200,000ドン。
男は手元に折りたたんで持っていた札束にそれを加えた。
持ってんじゃんか。
「Are you came from ?」
「Japan.」
男と握手して別れた。
「Thanks.」
「Good night, and good luck.」
辿り着いたスターバックスではグリーン&ホワイトティーなるモノを頼んだ。
何が出てくるかと思ったけど、ちょっとリッチな抹茶ラテの様なモノだった。
2階席の端に陣取り、男とのやりとりを女友達にLineしていると、不意に声を掛けられた。
カードを見せられる。
どうもフェアトレードか何かで革製のアクセサリーを売っているらしい。
手を振ってもその仕草だけマイルドに無視されて引き下がってくれないし、手元のドンも多分あと1日半で使い切れないほどある。
1つ買い求める事にした。
「Thank you.」
「Good night, and good luck.」
眺めてまた逡巡した。
50,000ドン位は痛くも痒くも無いが、これが安全だという保証は?
アクセサリーにチップを仕込んで跡をつける事だって出来るかもしれない。
荒唐無稽と思えるだろうが、ここ数日で見たホーチミンの発展ぶりならあり得ないという保証もない。
明日の夜は半野外のタンソンニャット国際空港で明かすのだ、危険の仄かな香りさえ纏いたくない。
人が信じられない嫌なヤツだと思いながら、アクセサリーはスマホの写真にだけ収めて、スタバに置いていく事にした。
こんな手段を想像できるなんて、自分には犯罪者の才能があるかも知れない。
いや無理だな。
見え見えの嘘を前に「笑ったから」という理由で金を払ったお人好しに詐欺など務まる訳がない。
少し頭をよぎったのは、俺は彼女に振り回されたのか、振り回したのかという事だった。
ホテルに戻ると、夜もすっかり暮れているというのに、白い制服の女学生が車止めの前でたむろしている。
よく学生を見かける旅だな。
通り過ぎてエレベーターに乗り込むと、2組の制服がエレベーターのドアにマイルドに挟まれながら飛び込んで来た。
「ヤバイよね、私達」
「おいおい、大丈夫か?」
女学生は一瞬戸惑って尋ねて来た。
「日本人ですか?」
「そうだよ。」
「えー、なんだか嬉しい!」
「俺もだよ。」
Ground floor から1階までの僅かな会話。
「Good luck.」
それだけ声を掛けて、女学生と別れた。
まあ良いか。
やりたい事は大体やった。
部屋に戻ってシャワーを浴びよう。
ホテルに戻ってシャワー浴び、今日の顛末を旅行記に書いた後で、例の曲のMVをDLした。
ホテルのwifiで決済情報のやり取りをすべきでないので、一応レンタルwifiに繋ぎ直す。
よくよく考えれば通信業者はZTEで、これが信用できるかといえば怪しいと言えなくもないが、さすがの中国企業も共産党の指導で個人の決済情報を抜いて金をチョロまかす様な、大胆にセコイ真似はしないだろう。
DLが始まると、レンタルwifiの使用量がみるみる増えていく。
DL終了だ。
アップテンポの曲だが、今日のエンディングテーマには相応しいだろう。
画面の中に、まだ訪れていない風景や、見覚えのある建物が映る。
そうだ、曲の中に「夕立もきっと来る」というフレーズがあったが、まだ来てないぞ。
4,000年に一度の美少女の神通力も、事、天気に関してだけは通じないみたいだ。
残り1日半。
夕立で俺を振り回す事は出来るかな?
【8】2018秋、ベトナム、ホーチミン Day 4-5|4日目・5日目 Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City. へ >>
今の”リベラル”って実際には俺様に従えを主張しているだけの理性もへったくれもない(以下略)
という話は置いておいて、俺は『理念として言うならば』と断り書きをした。
実のところ俺もリアリストなので、エロ規制が一切ない世界という理念は世論の多数に支持されるとは信じていない。
ただそれとは別に、俺は正直なところ(元増田などまさにそうだが)『エロが規制されるのは当然。権力のお目こぼしによって”許される”』的な発想をする人があまりに多いことが問題だと思っている。
『そうではない、表現の自由は根本的な人権の一つだし、たとえエロであっても表現が規制される事態は異常なのだ。実際、規制する理屈は矛盾だらけだ』というアピールのために一元的内在制約説原理主義的な主張をしている部分はある。
ほぼ愚痴です。
エンジニアなんだけど、ひどい同僚がいる。
酷い点を挙げればキリがない。当人が何も生み出さないだけならまだしも、他のメンバーの生産性まで下げるので、非常に手を焼いている。
インターンなりエントリー/ジュニアレベルであれば教育すれば良いだけなのだが、経験豊富なベテランという触れ込みでやってきてそれなりの給与をもらっているからタチが悪い。
一度もプレーせずに長年プロサッカー選手として生きたブラジルだかのおっさんのように、きっとこれまでも口の上手さであちこち渡り歩いてきたのだろうと推測する。
奴が入ってきて1年ほどになるが、上司は気づいているし、一緒のプロジェクトで働いたことのある他のエンジニアも皆気づいている。クビにするなり何なり手を打つように直談判すべきか。
↑の元増田です。
前提として、日本でシステム開発において、利益の中核になっているのは官公庁や大企業の基幹システム開発なわけで、ITエンジニアもほぼイコールそういうブラック上等の大規模案件でこき使われる人たちなわけだ。
んで、大元の意図としては、そんなブラック案件でお前らのやっていることはサイエンスでもエンジニアリングでもねーだろ?悔しかったら反論してみろよwwwという嘲笑ありきの煽りエントリだったわけ。
そしたら、本当にごく一部の一握りの中の、そのまた上澄みの更に一つまみレベルの、大真面目にサイエンスやエンジニアリングやってそうな人らからトラバが来たけど、肝心要のITゼネコン様(笑)とその奴隷たちからは、全然反論が来なかったと。
まあ今もどっかのビルのタコ部屋で詰められている真っ最中の奴らが、こんなゴミ増田にトラバしてる場合じゃねー!というのもあるかも知れないね。
でも、それひっくるめても、もう結論出てんじゃん。
日本のITなんて、技術も科学的知見も持ち合わせない、ゴミみたいな奴らが主流と。
マジで笑わせんなよ。
いや、馬鹿な客が一番のガンなのは認めるが、それにしたってダメすぎ。
これがインフラ系の構築や運用だと、ココらへん本当に美味しく立ち回れている。
そっちも客はいい具合にアホだが、それでもブラックに陥ることなく利益上げてんだよ。
それに比べて開発のグダグダな体たらく。下手すると死人まで出やがるもんなあ。
恥だと思うわ。
それとも、炎上プロジェクトの火消しに、恥ずかしいもへったくれもあるかって?
そういうのもう古いと思うよ。
救急は平等に全部の診療科に当番が回ってくるので逃げられない。
楽なポイントは緊急呼び出しがあるかないか。オンコール待機があるかないか。
オンコール待機のつらさは「労働時間じゃないのに全然自由じゃない」というところにある。
ちょっと一例をhttps://nissie.exblog.jp/12105960/
勤務医の勤務形態の一つに、オンコールというのがあるそうです。
夜間や休日、病院にいなくてもよいが、いつでも電話がつながるようにして対応ができるようにし、「病院の半径●㎞以内」とか「●分以内に病院に来れる範囲」といった病院からの一定範囲内にいなければならないというもの。
もし、病院で何かあって人手が足りない時など、連絡があれば病院まで駆けつけます。そうでなくとも、電話での問い合わせに応じるなどして緊急事態に対応。
このオンコール、病院に呼ばれて処置をすれば手当が多少支給されるも、電話対応だけだったり、何もなかったりした場合には、手当もでないというのが一般的なようです。
行動範囲が制約される上に、酒を飲んではいけない!繰り返す、酒を飲んではいけないのだ。リラックスもへったくれもないのである。
最近、はてなブックマークや増田を見ていると辛くなることが多い。なら、見るなよという話なんだけど、見ちゃうんだからしょうがない。
某自民党議員のツイートはたしかに擁護しようもなくて、正しさからはかけ離れているんだけど、正しさを突き詰めていった場合のことを考えていたら憂鬱になる。
「昔は色々緩くて楽しかったなぁ」
なんて言った日には、
「あんな倫理もへったくれもなかった頃の思想を肯定するの!?!?」
と怒られる時代が来そうだ。
自民党政権下においては弱者排他主義が推し進められ性差に関する公平な国家としては国際的には後進国レベルの水準に陥っている。それにも関わらず、安倍政権は大企業経営者から成る経団連や就職活動に強い興味を示す若者年代からの強い支持を中心に、依然として最大支持政党として盤石な体制を築きつつある。社会的弱者への排他主義(国際男女平等ランキグン114位)・経団連の駒となる労働者からの権利剥奪(働き方改革)・基礎科学の根幹からの弱体化(ネイチャー誌による2017年の批判・及び国立大学縮小改革)などこの政権下において進められた改革という名の行政行動に従って、この国は福祉・人権・科学に於いて再起不能とも言えるダメージを負った。この世で真に正しいはずの自由と平等・権利といった概念は、多数決という名の暴力に取ってすげ替えられた偽りの民主主義によって地に落ちたのである。これらが示すことは、この国家は安定した負のスパイラルの潮流の上に乗り、2度と戻ることのできない底無し沼で沈み続けるということである。未来はすでに失われた。
一方で、洗脳教育においては一定の成果を挙げ、教育水準が格段に低下しているにも関わらず(https://www.asahi.com/articles/ASKC36GYCKC3UTIL01K.html)、軽犯罪を中心とする犯罪率は格段に減少した(https://www.nippon.com/ja/features/h00068/)。人々は自分を取り巻く世相への理解に鈍くなる一方、穏やかになり荒げた行動を示さなくなった。オウム心理教によるサリン事件実行犯への一斉死刑執行などにも妥当であると理解を示した(http://news.livedoor.com/article/detail/15080532/)。オウム心理教への破防法適用以降、組織的な強硬的無差別殺人は起こっていない。
一見して、世の中穏やかな人々が増え平和になりつつあるように見えるが、冒頭で示した通り国家の未来の礎を築くための萌芽は摘み取られつつある。ここにある仮説を立てたい。即ち人々は自分の意識の外で、いつの間にか国家にその精神を支配されてしまったのである。社会的弱者への排他・排除への批判に理解を示し、後退しつつあるはずの国際的な評価を無視して、極めてニッチでかつバブル期までに成長を築き上げた分野における国際的存在感(https://seattley.hatenablog.com/entry/2017/11/04/141432)への強制的共感(いわゆるホルホル)による自己陶酔。大中小企業で強制残業が深い問題になっているも関わらず、労働者の芽を摘む施策への支持。この国家の国民は爽やかな笑顔で自分自身の首を締め付け自死に追いやっているのである。
恐怖の無い平穏な雰囲気を形成した上での国民の支配。まさに映画「マトリックス」の世界。かつて世界で猛威を奮った共産主義国家が、未来の先に思い描いたユートピアのその先、ディストピアが今の日本でないだろうか(https://ja.wikipedia.org/wiki/ディストピア)。いや、支配的状況を平和と自由と錯覚している人々が大多数のこの国はディストピアさえ凌駕した修正ディストピアと言っても過言は無いかもしれない。この先起こりうる具体的なディストピア事象としては、東京五輪への強制(ボランティア)参加であろう。すでに粛清の対象も挙げられている(https://togetter.com/li/1212415)。もうすでに始まってしまって、予言もへったくれもないが...さらにその先、この国には何の救済も無い絶望を突き進むのは間違いない。
北朝鮮とアメリカの武力衝突、中国との東南シナ海での覇権争いなど破滅的武力行為による日本の国家崩壊を期待して自民党に投票された方もいらっしゃるかもしれないがそれらすら期待できなくなりつつある。安定的負のスパイラルに乗りディストピアを突き進む日本。一体全体、いつディストピアに陥ったのだろうか...僕のようなド素人ではなく有識者に論を讓りたい。
訳語がよくないと思うんだよ。
例えば自然権。
「生まれながらに持つ権利」だが、例えば自然状態、野生状態というかワイルドライフ、例えばサバンナでだな、自然権が保障されてるかというと微塵も保障されない。最低限の文化的な生活をしたいと言っても文化もへったくれもない。それを保障するには現状では国家という枠組みが必要だよな。
で、ここで言われたことがある。
「それ、自然なの?」
いや自然権という訳だが大事なのは自然というところじゃなくて生まれながらに持っているというところでといっても
「じゃあ自然っていわない方がいいじゃん」
と言われる。
昔から自惚れ=マイナス評価だったし、自惚れるよりもむしろ謙抑的で謙遜すべしみたいな価値観を刷り込まれてきたから。
しかしこれではせっかくの自分の力も発揮できないし、承認欲求も満たされず、自分の価値も特別感もへったくれもない。
むしろ「自分にはこれだけの力がある(と自分では思う)けど、それを発揮できず賞賛も得られず、実は自分は無能で無価値なんじゃないか」という方向に行ってしまった。
さらに深刻化すると、自分を賞賛してくれるかのような相手の言葉や態度があったとしても、それを裏付けるかのような「具体的な行動」がなければ、相手のことを信用することすらできなくなってしまった。
(ひどいと「ただの社交辞令orお世辞で、本当は内心自分のことを馬鹿にして嘲笑っているのだろう?」とまで飛躍してしまう)
これをなんとかしたい。
子供がいて育休たくさんとってても、時間内の仕事の質が高く、医局内でも評価が高く後輩からも尊敬されているような女医さんもいます。
近くに良いモデルになるような先輩がいないのかもしれないけど、産休・育休取った女医さんのこと、あんまり低く見ちゃだめだよ。
自分はどっちかというと元増田より元々の増田に近い立ち位置だけど、
子供のない女医が、子育て希望の女医に「子育ても仕事もできる」スーパーウーマンを求める構図ってのは
ただ、「女が女を低く見る」構図は、スーパーウーマンを求めても解決しない
(実際、元増田は「医師が夫の女医」をやや見下しているようにみえる)。
むしろ問題視すべきなのは「男ではなく女が子育てするもの」という風潮自体なのにな、といつも思う。
いろいろあって「男女平等」が染み付いてる自分ら下の世代から上の世代にこれを言うのは
あといま読んで、このぐらい当然、と思ってる人もいるかもだが、実際、医師社会の
男女平等もへったくれもなさは、たまにひどいよ。まあひどさは科によるけど。
マジで愚痴だけど、子なしに仕事面で引け目を感じる子持ちにも、
子持ちに過剰な理想を求める子なしにも、なりたくねえなあ。
やっぱ、女なのに男性社会の高度専門職コミュニティに入ろう、とか思ったのが、
なんかの間違いだったんだろうな。酒でも飲むか。
絵柄が好きじゃないのと、ファンがうるさいし、マウント合戦してるのが嫌でなんとなく避けてたんだけど、めちゃくちゃおもしろいのな。
個人的に2部が好み(てか、多分ジョセフのキャラクターが好きなんだと思う)。それと4部。
3部が人気高いのもわかる。1部も2部、3部みるのに必須な感じ。
ただ見た感じ、正しく少年漫画しているのに、ドラゴンボールほど知識が少ない人にも優しい受け入れされてないのはどうなのかなって思った。
もちろん、ドラゴンボールはパワーとパワーのぶつかり合い、ジョジョは戦略と戦略のぶつかり合いってのはわかるんだけど、
どの主人公も友情を大切にし(特にジョセフと仗助が好きな理由がこれ)、個性も強く、土壇場のパワーが少年漫画っぽくていいのに。
(追記)
madbkm氏、いつもお世話になっております。あなたは俺のことを知らないでしょうけど、俺はあなたのことをいつもみています。
どういう深層心理の働きなのかしら
とありますが、すみません、漫画ではなく。自分は録画したけど見ていない積みアニメ消化で昨年あたりの4部を見たらコミカルで面白かったので保存していた1部、2部、3部をナスネに戻して見た次第です。
確かに、漫画は自分も読んでません。学生だった時に友達の家でジャンプを読んだ時に、多分6部(視点人物が女性だった気がする)だと思うんですけど、おじいさんが自分の尿を飲んでいるみたいな発言をしていたので嫌悪感が高まり、絵も好きじゃないし、話の流れもわからなくて(なんで最弱のスタンドが最凶なのかと結局誰がそのスタンド使いだったのかがわからなくて)一方的に自分から情報をふさいでいたのですが、アニメ4部の絵のポップさ(?)に引き込まれた感じです。あと、オープニングが全部すごい。個人的に4部の2期OPでラスボスと闘う話で4部のラスボスの能力がOPにまで及んでくる感じは感動しました。ネタバレもへったくれもないと思うけど、自分みたいに未だ4部読んでない人のために詳しくはいいませんが。
多分、アニメみたら、あの筋肉がバインバインな感じは割りと気にならなくなると思います。
あと、嫌いだった原因にブクマカの人みたいにいきなり漫画内ネタで語られてくるのが好きじゃなかったのはあります。
タイタンフォール2というゲームが好きなのでそのコミュニティ内でもよくありがちなのですが、大体作品の中身知らない人間に「信じて!」と言っても何も伝わらないし、その伝わってないのを楽しんでる感じがして好きじゃないです。
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。