はてなキーワード: 酒田とは
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おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
県庁所在地の都会度比較はお国自慢的な話でさんざん語り尽くされてるテーマだと思うが、県庁所在地以外の街についてはあまり語られてない気がするので、実際のところどうなのか興味が湧いている。
下記のような分野別にポイント加算して、総合点の大きい都市を都会度上位としたい。
◼︎人口
◼︎交通
新幹線駅20ポイント、空港20ポイント(リムジンバスで直に移動できればOKとする)、私鉄20ポイント(3セクを除く)、バス以外の都市交通20ポイント、高速道路20ポイント(東名等の幹線と繋がっていること)で合計100ポイント
◼︎商業
百貨店20ポイント、大型化電量販20ポイント(ヨドバシ、ビック等)、大型書店20ポイント(紀伊国屋、ジュンク堂、丸善等)、シネコン20ポイント、プロスポーツチーム20ポイントで合計100ポイント
◼︎文化
大学20ポイント、動物園20ポイント、水族館20ポイント、博物館20ポイント、美術館20ポイントで合計100ポイント
各都道府県から最低一つは選出、人口少なくてもエリアの拠点的な要素あれば採用
◼︎北海道
◼︎東北
弘前、八戸、一関、大館、能代、横手、石巻、白石、酒田、鶴岡、米沢、郡山、会津若松、いわき
◼︎甲信越
◼︎関東
高崎、太田、佐野、日立、土浦、つくば、柏、船橋、成田、川越、秩父、川口、八王子、立川、町田、川崎、相模原
◼︎北陸
◼︎東海
熱海、沼津、富士宮、浜松、豊橋、岡崎、大垣、高山、桑名、四日市、伊賀
◼︎近畿
◼︎中国
◼︎四国
◼︎九州
北九州、久留米、佐世保、鳥栖、別府、延岡、都城、八代、霧島、鹿屋
◼︎沖縄
さて、どの街が上位に来るかな?
山形県は「ラーメン王国」として知られており、ラーメン店の数やラーメン消費量が日本一です。
2021年の調査では新潟市にラーメン消費量の日本一の座を譲りましたが、2022年の調査で山形市が奪還しました。また、総務省の家計調査では山形市が中華麺への支出が日本一多いという結果が出ています。
山形県には「酒田ラーメン」というご当地ラーメンがあり、2023年10月5日から10月9日まで新宿・大久保公園で行われた「日本ご当地ラーメン総選挙」で日本一に選ばれました。酒田ラーメンは文化庁の「100年フード」にも認定されています。
山形市では「ラーメンの聖地、山形市」を宣言し、官民ともにラーメン文化を盛り上げる取り組みも行われています
鳥中華は山形県発祥のご当地ラーメンで、そば屋のまかないから生まれたと言われています。そばつゆをベースにした鶏ガラ味の和風中華そばで、中太のストレート麺に鰹出汁ベースの醤油味がよく合います。
鳥中華は、1861年創業の天童市にある「手打 水車生そば」で誕生したと言われています。そばつゆには黒コショウがきいており、具は鶏肉、天かす、海苔、三つ葉、白ネギなどです。
ずっと昔本当に昔、吉田健一氏の食べ物の本に、山形の飛島のアワビの塩辛が美味しいと書いてあった。酒田に行った時も探したし、山形の知人にも聞いたし、でも手に入らなかった。そうだネットがあると今頃思いつく。
今またなぜ塩辛で悩むのかというと、
一に、高いのである……
二に、高齢化による生産者の減少で年々手に入りづらくなっており、一昨年には県内のスーパーでも入荷できなくなったそうだ
うーん…うーん……
多少無理をしなければ後悔するだろうか。
うーーーーーむ………
春~夏に採れたイカを塩漬けにし、熟成させておいた魚醤(イカの内蔵を発酵させたもの)と合わせて作る独特の製法で作られており… サラサラで死ぬほどしょっぱく噛み応えもあるとの評判………
https://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2012:12:01:5045
酒田市「酒田のご当地カレーレシピコンテスト」の入賞者が決まった。同市飛島の澁谷新君(9)=飛島小3年=の「イカスミカレー飛島スペシャル」が最優秀賞を受賞。市内のホテルで12月から来年1月まで、レストランのメニューとして登場する。
「旬のアオリイカを使った『飛島まるごとカレー』を、多くの人に味わってもらおうと思った」という澁谷君は、母親のわかさんに手伝ってもらいながら調理。「最優秀賞は狙っていたけど、選ばれてびっくり。とてもうれしい」と話している。表彰式ではわかさんと一緒に万歳して喜びを表した。
話題性で選んだのもあるだろうけどほんとに小さい頃から「せめていろんな体験させてあげたい」という周りの切なる願いを受けて育ったんだね
昨年からYouTubeに良質のミステリーが転がっているので、ぜひおススメしたい。
それは、桜を見る会の野党合同ヒアリング動画である。はじめこそ、野党のヌルい進行や追及に、軽いイラつきを覚えるかもしれないが、そこはどうにか慣れてほしい。
面白いのは、官僚の答弁である。ありとあらゆる日本語を駆使して、嘘ではないが事実でもないことを口にして、秘密や真実を隠し通そうとするその様は、まるでミステリー作家が、様々なトリックを以って読者を騙そうとしているのに似ている。
直近のヒアリングでは、「首相事務所が推薦した人物でも招待を断ったケースがある」ことを理由に「首相による推薦者の私物化」を否定しようとしている。しかし、私の見立てはこうだ。
この「招待を断ったケース」、というのは、他省庁の推薦などと重複していたために、首相側の推薦を断った、ということではないだろうかと私は推理する。あるいは、推薦者が作業中に逝去してしまったとか。
野党ヒアリングは一事が万事この調子で、優秀な官僚のみなさんが、まるでミステリー小説の容疑者かのように、どうアリバイを取り繕い、言葉巧みに読者を欺こうとしているのか、非常にエキサイティングに楽しめる。
少し前にはてブでも話題になったが、事実と主観を区別できないしゃべり方を意図的にしてくる、優秀な官僚のみなさん。特に、酒田課長という、この物語でキーとなる登場人物が、私のお気に入りの登場人物である。
酒田課長は、「名簿廃棄操作のログ」について「ログの内容を公開することはセキュリティ上の懸念がある」ことを理由に、ログ調査を頑なに拒んでいる。
野党が「ログを公開するのでなく、ログを内部で確認して、その日時についてのみ報告せよ」と詰めても、一部や全部にかかわらず、ログに関することを公にするのはセキュリティ上の懸念があるとの一点張り。
私は思う。こう詰めてみてはどうかと。「報告は不要。内部で確認するだけでよい」と。そうすれば、ログについて公開される情報はない一方で、ログを確認した官僚はその情報が従前の答弁と異なっていれば、何らかの対応をとる必要があるわけなので。
屁理屈をこれだけこねてくる官僚に対しては、そのロジックを一部受け入れる一方で、同じロジックで相手を責めるのが良いと思う。
昨年からYouTubeに良質のミステリーが転がっているので、ぜひおススメしたい。
それは、桜を見る会の野党合同ヒアリング動画である。はじめこそ、野党のヌルい進行や追及に、軽いイラつきを覚えるかもしれないが、そこはどうにか慣れてほしい。
面白いのは、官僚の答弁である。ありとあらゆる日本語を駆使して、否認・言い訳・嘘ではないが事実でもないことを口にして、秘密や真実を隠し通そうとするその様は、まるでミステリー作家が、様々なトリックを以って読者を騙そうとしているのに似ている。
例えば、名簿の廃棄については当初、
1.2019年度から名簿の保存期間が1年未満の文書となり、会の終了後名簿を遅滞なく廃棄した
2.2018年度以前の名簿の保存期間は1年以上だが、1年以上経っているためそちらも廃棄済み
というような説明であった。私は、1の保存期間が変わったという点に強く疑念を抱きつつ、2については、まぁそういうこともあるかもしれないな、と思いながらヒアリングの視聴を進めた。
すると今年に入って、2について新たな事実が分かった。保存期間1年以上の文章は、廃棄時に記録を残す必要があるのだが、2013~2018年度に渡り、この廃棄記録がないことが分かった。
これは、素直に聞けば「2は事実だが手続きに問題があった」なのだが、同時に「2を事実にするため、手続きに不備(その記録がない)があるということにした」というストーリーが、読者の脳裏に推理として浮かび上がってくることになるのである。
野党ヒアリングは一事が万事この調子で、優秀な官僚のみなさんが、まるでミステリー小説の容疑者かのように、どうアリバイを取り繕い、言葉巧みに読者を欺こうとしているのか、非常にエキサイティングに楽しめる。
少し前にはてブでも話題になったが、事実と主観を区別できないしゃべり方を意図的にしてくる、優秀な官僚のみなさん。特に、酒田課長という、この物語でキーとなる登場人物が、私のお気に入りの登場人物である。
彼が登場する続編(桜を見る会以外の)があれば、ぜひ読んでみたい、と思う。
俺は小さい頃から鉄道が好きで、鉄道関係のサークルに所属していた。
工学部なので元々女子は少ないが、俺には短大1年生の愛美という彼女がいた。
彼女は俺にとって色々な初めてさんだった。
JR東日本から『土日きっぷ』というフリー切符が発売されていて、俺と愛美は東北地方へ行った。
俺は愛美の膣内にリモコンローターを入れて、東北新幹線と併結して走る山形新幹線に乗り込んだ。
時々ローターをONにすると愛美はモジモジし始めた。
福島駅で東北新幹線と切り離される頃には虚ろな目になっていた。
新庄駅から陸羽西線で酒田に出て、在来線特急『いなほ』に乗り込む。
愛美の足取りはおぼつかなく、スカートから覗く内股を愛液が伝っていた。
新潟へ向かうその特急は乗客が少なく、乗った車両には俺達の他に乗客は4~5人しかいなかった。
俺はチンポを出して、愛美のびしょ濡れのパンツを脱がして挿入した。
お互い反対方向の様子を警戒しながら電車の揺れに合わせて腰を振った。
愛美は感じても声が出せず、泣きそうな顔をしていた。
「はふん・・・」
ずっとローター責めをされてたせいで、生肉棒を入れられたら5分でイッてしまった。
駅で穿き替えたスカートはスリットが入っていて、混雑する電車内で挿入できるように改造してあった。
俺達はわざと遠回りになる山手線外回りで、俺のアパートのある新大久保まで合体しながら帰った。
アパートに入った途端、愛美は俺を押し倒し、騎乗位で腰を振った。
「1日ずっと焦らされたら狂っちゃうよー」
大声で喘いでイキまくった。
そんな事をしていた俺達だが、今は夫婦だ。
駅に着くたびにプラットホーム側のカーテンに僅かな隙間をあけて、その方向に合体部分を向けてセックスした。
何人か覗いていた。
興奮した・・・。
1階は駐車場とバスルーム等と両親の部屋、2階はLDKと和室。
俺達夫婦と生まれるであろう子供たちの部屋は3階なので、遠慮なくたっぷりセックス出来る。
俺は現在空いている子供部屋にNゲージの鉄道模型を広げて遊んでいる。
夜は特急電車の先頭車両の模型をコンドームに入れ、目隠しをした愛美の膣に挿入して、愛美はその車両を当てる遊びをしている。
「これ、なーんだ?」
「アン!スーパーあずさ!E351系」
そう言ってグリグリする。
「アアアーン!」
「次はこれ!」
「あ!いやん!山形新幹線・・・最初のつばさ・・・400系・・・」
形も何となく肉棒に似てる。
膣から『400系つばさ』を抜くと、愛美は俺の400系を引っ張り出して、ぱくっ!
こうして夫婦の宴が始まるのだ!
というのを検証してみようかと思ったのだけれど、それに際して面倒くさい前提をいくつか踏まえないといけない。
鉄道ファンの面倒くさいところとして、「鉄道の旅である以上持っている切符で乗れるところは鉄道に乗らなければ」というのがある。
その伝で言うと、函館青森間は青春18きっぷだけでは乗れないのだけど、2300円のオプション券を追加購入して、道南いさりび鉄道五稜郭〜木古内間と、北海道新幹線木古内〜奥津軽いまべつ間を乗ることができる。奥津軽いまべつ駅に隣接するJR津軽線の津軽二股駅から再び青春18きっぷの旅を再開することになる。
ただ、問題は道南いさりび鉄道もJR津軽線も著しく運転本数が少ない上に、どちらも北海道新幹線との乗り継ぎなんか全く考慮していないダイヤとなっていることで、結果函館青森間の移動に6時間7時間は平気でかかってしまう。実にアホくさい。これに対して、津軽海峡を結ぶフェリーは所要時間4時間弱、津軽海峡フェリーが1日8便で2220円から、青函フェリーも1日8便で1600円から。これなら鉄道ファンでもフェリーを選んじゃうよね。
JR北海道の経営難はつとに知られたところだけど、9年前とくらべても青春18きっぷで乗れる普通列車が経営難のあおりを受けてかなり減った。減っただけならいいんだが、JR北海道のダイヤ編成は、伝統的に普通列車から普通列車への乗り換えを全く考慮しない。乗り継ぐべき列車が前の列車の到着の直前、3分4分前に発車してることはザラにある。「普通同士の乗り継ぎなんて認めん、何が何でも特急料金払って特急に乗れ」と言わんばかりのダイヤを組む。まともな客はこんなことで腹を立てないだろうし、長距離を乗る客には安くて便利な切符は別にあるのだけど、18きっぷの利用者にはそういうことになっている。
とりあえず、今回は特急使わなくても鹿児島まで余裕で行けるのだけれど、ムーンライトながらを取れないときとかはこっちで時間短縮するしかないかも。
というわけで、旅程を考えてみた。
知床斜里 0728 - 0949 北見(4724D→4656D)
【旭川発1347の滝川行普通に3分だけ間に合わず2時間半足止め。こういうことするから北は嫌い】
岩見沢 1805 - 1843 札幌(区間快速いしかりライナー)
【札幌発1843の小樽行快速エアポートに連絡できれば1日目のうちに長万部まで行ける。札幌圏は混んでるから接続できないのはわかるけど悔しい】
札幌 2028 - 2114 小樽(区間快速いしかりライナー)
【この辺は時間と列車に余裕があるので札幌で止まらず小樽まで行ってもいい。オフ会なら札幌かなと】
【もう一本遅い列車もあるので、札幌なり小樽なりで時間が必要であればそちらでも可】
【これもあと10分くらい早く着くとギリギリ12時出港のフェリーに間に合うかもなんだが……。まあ函館で昼飯食おう】
【ほぼ同時刻にもっと安い青函フェリーも出るのだけど、次の列車への乗り継ぎを考えるとこちらを選択】
【この列車に乗るために青森ではなく新青森へ向かって、かつフェリーも早い津軽海峡フェリーを選択する】
【オフ会】
【オフ会】
こんな記事を読んだ。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130307/dst13030708270005-n1.htm
形県酒田市で3日、住宅の一部が焼け、75歳の女性が4日に死亡した。山形県警酒田署が出火原因を調べたところ、女性は自宅の居間にある電気こたつを裏返して使用しており、その上にかぶせられていた布団に引火したとみられることが6日、分かった。女性は普段からこたつを裏返して直接、暖を取っていたほか、こたつのヒーター部分で調理をしていたという。
石山さんはこの家に1人暮らし。体調がすぐれず歩行が困難で、日常品の買い物などは、定期的に訪れる民生委員に依頼するなど、ほとんど外出することはなかった
これさあ、サンケイスポーツ案件だしおもしろおかしくキチガイ婆が自滅みたいに嗤われてるけど結構深い問題なんだぜ。現実的にどうにかしないといかんわけよ。いや、俺も実体験がなけりゃ笑ってたかもしらん。
一応守秘義務があるんで。そう言う事で聞いてくれ。
俺は地元で消防団なんてのを押しつけられてやってるわけ。消防団なんつっても、まぁ常備消防もあるし? 今時は体のいい便利屋なんだがさ。普段は道具の整備とか貯水池と消火栓の管理とか。そんな仕事の中に独居老人の見回りなんてのがあんの。家族や本人の要請があった独居老人の家を定期的に見回るってわけね。名目は一応火災起こさないでくださいねーっつってワケなんだけどようは何かあったときのために顔繋いどけ運動さ。これもまぁ一時独居老人宅の火災が問題になったから始まったんだけどさ。
で、ある日爺さんの家に言ったのよ。おいジジイ生きてるかー消防団様が来てやったぜツラぁ出せや。ついでにトマトがなんか病気っぽいんですけどどうしたらいいですか消毒ですか肥料とかやった方がいいんですかね相談に乗ってくださいみたいなつもりで言ったらジジイ出てこねえの。嫌な予感がしたね。玄関は開いてんのに。大声出したら奥からどんどんどんどん、ってかすかに物音が音がするわけよ。まぁ爺さんとはそれなりに付き合いもあったんで、勝手に上がらせてらったらなんと爺さん階段の下に倒れてんの。
救急車呼んだね。直ぐに名簿にあった民生委員に連絡してご近所の人に連絡して。民生委員は娘にも連絡したみたいだったがつくのに半日かかった。
階段から落ちて腰の骨が折れ、それが神経に触っていたため動けなかったらしい。聞いたら倒れてから1日動けずにずっとこのまんまだったとか。ずっと叫んでたらしく声も枯れててさ。
あーあ爺さんももう駄目かねえ……おいはたけとかどうするんだよ……とか思ったんだが、その後詰め所でうだうだしてたらお礼と称して娘さんが酒を持ってきてくれたワケよ。(消防団と言えば酒ってのやめてくれねえかなあ…まぁ料理に使えるからいいけどよ)で、話を聞いたら爺さん医者からは歩けなくなるかも知れないって言われたのに、娘さん家近くのリハビリ専門病院? だかに入院して、超リハビリがんばって歩行器つかえばなんとか歩けるようになったんだとよ。へえこりゃすげえあの爺さん根性あるな俺は無理。と思ったら驚いたのはその後。
また一人暮らしの家に帰ってくるからまた顔出してくださいとか言うんだぜ。マジでか。娘さんは施設に入ってくれって頼んだみたいなんだが、介護保険の等級が低くて保険は使えないし、介護サービス付き住宅とかそんなのは都会型で田舎には無い。するとフルサービスの民間介護施設か、あるいは地元を離れなきゃならないってんで、爺さん嫌がったんだそうだ。うーん、それは家族で決めたことなんだろうし、まぁ仕方が無いよなあ…。ええ、いいですよ戻っていらっしゃるなら今まで通り回りますよ、と言う事でその日は済んだ。
爺さん帰って来たんだが、やっぱり心配みたいで、娘は初めのうち結構な頻度で来てたようで、よく家の前に他県ナンバーの車がとまってた。要支援1がついて、住宅改修もされたようで、玄関先はこれ一体どこの手すりのショールームよってぐらい手すりだらけになってた。ただ、あんまり長い距離歩くことは出来ないみたいだったが。ただ歩行困難でも軽トラックは運転できるし、買い物が出来てるみたいだった。
一方、畑は維持出来なくなったようで、ほとんど近所の人に貸したようだった。古いながらも整備されてたトラクターはいつの間にやらいなくなってた。
それからも月に2回程度回っていたんだが、見ている限りは普通にやっているように見えた。ちょっと前よりもこう…覇気がねえなとは思ったが…。
ある日、火事の一報が入った。おい俺の部署の地域じゃねえかと職場からすっ飛んでいったらその爺さんの家だった。
小火で済んだ。常備消防が既に消してた。爺さんは家から逃げていて怪我は無かった。
ぼやとはいえ、消防の高圧大送水量のポンプで水をぶっかけられた室内はぐっちゃぐちゃで、そのままでは住めない。本当は消防団の本来業務ではないんだが習慣として火災が起きた地域の担当部署は片付けを手伝う見たいな事になっていていろいろとやったのだが、爺さん当然酷く落ち込んでいた。ただぽつぽつとその後聞いた話を総合すると、原因が分かった。
爺さんそれを引っ繰り返してうわむきにして使っていたらしい。転倒防止スイッチの所はガムテープで塞いでいた。そしてそれを電気ヒーター代わりにしていたという。
爺さん、後遺症で足にしびれが残っていたらしい。さらに冬寒くなるとしびれが強くなる。その状態で超時間立っているのがつらくて、台所仕事はほとんど出来なくなっていたようだった。また冬になると足のしびれから外出もだんだんおっくうになっていって、インスタント食品や、練り物のようなおつまみのような物ばかり食べていたらしい。そこで思いついたのがハロゲンヒーター。
爺さんにとってはストーブの上にヤカンを置くような感覚だったのかも知れないが、これが原因だったらしい。
爺さんは、そりゃあ一人暮らしだし、歳もそれなりに重ねてきているから多少は反応は鈍くなってきている。だが話をしていると特におかしいと言う感じもしないし受け答えはしっかりしてた。しかし一人で暮らしていると、これで大丈夫だ、これはいいアイデアだと思うと、誰にも突っ込まれないままに思い込んでしまって誰もそれを訂正しないと言う事が起きてしまうのだそうだ。
爺さん、周囲に大丈夫だ、大丈夫だと言い続けていた。俺にもそう言ってた。だけど娘さんに聞いた話だと、どうやら実態はそんなもんでは無くいろいろと無理をしていたらしい。また、ぽろりと爺さんが話したことによると、娘の家には娘の義理の両親が同居しており、いろいろと難しいのだがそれでも近くに家を借りるから来ないかと言う話があったりしたそうなのだ。しかし娘に心配をかけたくない、負担をかけたくない、周りに迷惑をかけたくないということでできる限り取り繕っていたという事らしかった。
爺さんはその後、流石に一人暮らしは無理だという事になって施設に入る事を考えたようだったが、要支援1程度の等級では優先度は低くく施設入居もままならないし、施設はどこも一杯だと言う事で難しいかったそうだ。結局どうなったかというと、貸していた畑を売り、その金で家を直して、地元の社協に貸しだした。そして爺さんの家は今は畑付きグループホームになっている。
爺さんはそのまんまグループホームの大家兼住人になり、住み続けている。
結果的にはいろいろと上手く言ったと思う。爺さんの家は立派な家だし、田舎だから無駄に広くて余裕を持った作りでほどよく中心部に近く、ほどよく住宅街ではない場所だったと言う立地もよかった。爺さんの畑は家の周りに集中していて、駐車場の確保や、菜園付きに出来ることも大きかったのだと思う。あと時期もよく、爺さんは地元の一貫水路管理組合で世話人をしていたなど、怪我をするまではそれなりに地域で知られた人だったことも関係しているのかな。
爺さんは畑付きグループホームと化した我が家で「畑の先生」などを言われてそれなりに楽しくやっているように思う。
これはキチガイ婆が自滅したって事ではなくて、社会構造的にぽこっと生まれた構造的問題の一つの結果だよ。
一見してそれなりにやっている人でも、ちょっと深いところまで入り込んだ支援…と言うほどのもんじゃない「これ危ないから辞めた方がいいよ」「今だったら卓上IHとかもっと便利なのあるよ」そう一言言うだけで多分回避できたかと。だけどプライバシーの問題とか、爺さんはわりと素直な話の分かる人だったからこんなもんで済んだが、そうじゃなければ余計なお世話だってんで、上手いこと支援が出来ない場合もある。
じゃあどうしろって言われても困るんだが…。ほんと、どうしたらいいんだろうな