はてなキーワード: 承服とは
元増田ですが、ホロコースト自体については何も言っていません、N医師が頭おかしいと言っているだけです。
陰謀論者というのは、とどのつまり、脳内論理だけの世界なので、好き放題言えるのです。例えばヒトラーがまだ生きているとかでさえも、臆面もなくいうことが可能です。陰謀なんだから。
あの江戸しぐさは、江戸っ子大量虐殺を主張しています。陰謀論者ってそんなものなのです。
ホロコースト否定論は江戸っ子しぐさと間違いなく同レベルの主張なのです。
あんなに証拠だらけのホロコーストに、「証拠はない」とか言える人たちは頭がおかしいか、嘘を言っているだけなのです。N医師は間違いなく前者です。
私の祖母が亡くなったのは、この春の事だ。
世間は県外移動の自粛を求めており、不要不急の外出を控えるように、と声高に叫ばれてる、そんな頃だった。
彼女は90歳を超えた大往生であり、こればかりは致し方ない、というやつだ。
自宅の布団で昼寝をしたまま二度と起きて来なかった彼女は、穏やかな顔だった、らしい。
東京という土地で住む私は、喪主たる伯父から直々に電話を貰い『申し訳ないが、葬式への出席を遠慮して欲しい』と言われたのが、理由だ。
正直、悔しかった。私は祖母が好きで、最後のお別れをきちんとしたかった。
けれど同時に、伯父が意地悪で言っている訳では無いとも、分かって居た。
田舎の葬式だ。そして祖母の年齢になると、弔問客も、親戚も、高齢者層が増える。
そこに、東京から帰って来た孫が、まかり間違ってウィルスを持ち込みでもすれば。
伯父の苦渋に満ちた声に、私は泣きながら『分かりました』と返事をし、折れるしかなかった。
現地に居る兄が時折寄越すラインの画面を見つめながら、部屋で孤独に過ごす時間は酷く悲しかった。
あれから3か月。
私は、骨になった祖母にすら、まだ会えていない。
致し方ないと思う。
親戚の家だけではない。その近所にも沢山の高齢者が住み、そうして小さな村社会で生きている。
毎日都心で100人とかニュースが出て、そんな私が田舎に帰って発生原になったら、と考える皆の意見は良く分かる。
それでも、祖母の葬式にも出られず、位牌を拝む事も出来ず、骨壺を見て泣くことも許されず、今日まで生きて来た。
私は未だ田舎に帰る事も出来ず、大事な人に手を合わせる事すら許されないのに、観光客は私の田舎に土足でやってくる。
旅行のキャンセル料が勿体ないから、政府が後押ししてくれているから、という理由を盾に取り、ほいほいと流入する。
『観光業はもういっぱいいっぱいなんです。死に体なんです。このキャンペーンが無いと路頭に迷うんです』というが、私の好きだった店で、もう何件も閉店をした所がある。
正直、苦しさであえいでいるのは観光業だけじゃないだろう。
死なば諸共、なんて意見が正しいとは絶対に言わない。誰かが痛い思いをしたなら、他に痛い思いをする人が出て来ない様、手当てをするのは当然だという理由も分かる。
けれど、どうしてあのお店達は助けて貰えなかったのに、観光業だけ助けて貰えるんだ、って思うと、尚憎い。
多分これは『自分は禁止されていたのに、どうしてあの子は良いって言うの!?』っていう悔しさも、加味されているのだろうけれど。
知っている。これは全部八つ当たりであって、別に誰も悪くない。
それでも、不要不急でない、少なくとも帰る理由が過分にしてある私は田舎に足を踏み入れられないのに、観光客は知らん顔でやって来る。
観光客はその土地に住んでいる人間に責任を負わなくて良い。だから彼らが発生原因になっても、別に私の親類縁者は何も困らない。
けれど、そこの出身地であるという私は、発生原因になると責任を負わなくてはならない。私の親類縁者に迷惑が掛かると言われ、それを承服するしかない。
それでも、私はGoToキャンペーンなんて奴が大嫌いで、一刻も早く取りやめて欲しいと願っている。
そうやって歯を食いしばっている人間からすれば、観光客、なんて不要不急の人間のせいで、私の田舎にクラスターが発生する事だけは、止めて欲しいからだ。
そこで発生したコロナで、また私の身内で、知人で、人死にが出たら、と想像するだけで堪らなく苦しくなる。
少なくとも、そういう所にしか、今の私の怒りの拳は、下ろす先が無いのだ。
一日も早く、コロナが収束して、あるいは特効薬が出て、私は祖母に挨拶をしたい。
私は、田舎に帰りたい。
コロナ自粛ってただのわがままだろ。なんで僕がそのわがままに振り回されなければいけないんだ。
前らは鎖国だの攘夷だの大義名分を振りかざしているけれども、徳川幕府になろうが明治政府になろうがどのみち地方の貧農でしかないような人が、なんで幕府や政府のために命がけで戦ってくれると思ってるの?
コロナなのに遊び回ってる人たちを見てみんなこう思っているはずだ。
『誰の目にも今は自粛するべき時だと分かりきっているのに、遊びに行く奴はよほど頭が悪いのだろう』と。
でも、それ以前に『そもそもコロナ自粛自体に承服していない人』もいると言うことをわかってほしい。
今、自粛によって僕から当たり前の日常が奪われたのだ。これは重大な問題だ。僕はカラオケに行きたいし、プロ野球を観たい。簡単に言わないでほしい。
今ここで僕が野球を見たいという気持ちとお前が生き残りたいという気持ちがぶつかっている。この対立軸を整理して考えていきたい。
コロナなのに遊びにいきたいというのはわがままだということは認める。でもコロナだから自粛してほしいというのも、もう一方のわがままだ。なんでこっちだけわがまま扱いされてそっちは社会正義扱いされてるか。そこが不満である。
まるで文化祭の合唱コンクールや体育祭の応援合戦で絶対優勝したいクラスの中心人物たちと、クラスの辺境にいる帰ってゲームしたいオタクの構図だ。
僕はわがままが悪いことだと思っていない。言いたいことは言ったほうがいいし、その上でお互いの利害を調整して、譲れるところと譲れないところの落とし所を探っていくのが社会ではないだろうか。
ところが、一方がたまたま『正義』を名乗ることに成功してしまったら、際限なく一方のわがままだけが増長することになる。
これは良くない。
だから僕は、『どっちもただのわがままでしょ』と言い張っていくスタンスである。
これはただのわがままである。僕が自粛したくないというわがままと同列に扱われるべきわがままだ。
確かに、もしかしたら僕がコロナを持っているかもしれない。僕が遊び回った結果誰かが死んでしまう可能性が僅かにある。でも、はっきりいうが僕とお前は完全に他人だ。知らない誰かだ。お前が死なないために僕がそこまでしないといけないのは全く納得いかない。
『自分の大切な人が死んでほしくない』はより自分勝手なわがままである。高齢の両親が心配なんだろう。でも、それはみんなが当たり前の日常を送ったら死んでいたはずの人ということである。放って置いたら死んでた人を救うためになんで周りが気を使わんといかんのだ。お前は自分の力で守れない命を守るために他人に責任をなすりつけている。ヒーローになりたいなら一人でやってほしい。
ちなみに僕は家族が嫌いでとっくに絶縁しているので、特に死んでほしくない人とかいない。友達もいない。子供もいない。結婚もしていない。彼女ができたこともない。少々知らない誰かが死んだって困らないのさ。
コロナ自粛派は様々な理由をつけて「これはただのわがままではない。より上級の命題だ。よってお前の遊びに行きたいというわがままに優先するべき事案だ」と言い張るだろう。
その主張の問題点を指摘して、やっぱりコロナ自粛はただのわがままに過ぎないことを明らかにする。
医療崩壊なんてしない。お医者さんも看護師さんも定時になったら帰ればいいのだ。それで何人死のうがお医者さんも看護師さんも悪くない。
例えば、電車に轢かれて四肢がバラバラになった死体を、お医者さんが直せなかったとして、誰も文句言わないはずである。それは医者の怠慢ではなく『現代医療の限界』である。
そうであれば、お医者さんが定時で帰ってしまったがために誰かが死んだとして、なぜそれを『現代医療の限界』と割り切れないのか。
『お医者さんが残業で診療してくれれば死ななかったかもしれないのに!』なんて、都合が良すぎである。他人に何を期待しているんだ。それこそただのわがままである。
医療関係者は普通の3交代制を引いて、定時になったら病人が何人いようとさっさと帰るべきだ。それで誰かが死んでもしょうがないで済ますべきだ。
確かにそれはそうかもしれない。僕はそう思う。でもおそらくお前は本当はそんなこと思ってない。
僕は昔から8時間寝ている。野菜と肉と魚をちゃんと食べている。毎日運動している。お酒は飲まない。タバコ吸わない。嫌いな人との関係はバンバン切っている。会社に歩いて行ける距離に住むことで満員電車を回避している。
絶対お前の方が健康を粗末にして生きている。これをしていない奴が健康を持ち出して僕を批判するのはおかしくないだろうか。
突然だが、救急車に道を譲らない車が多すぎると思う。僕は運転中であろうと歩行中であろうと絶対に緊急車両に道を譲っている。でも譲らない人が大半である。多分この投稿を見てキレてるお前も普段は救急車に道譲ってない。お前は本当は人命を軽視しているんだ。
救急車のためにたった30秒待たない奴のために、なんで僕が一ヶ月もカラオケを我慢しなきゃいけないのか。
だから、人命や健康に関することはわがままと一括りにせず例外に扱うべきだという主張は納得するが、この件にそれを持ち出してくるのはお前の自己欺瞞だろとも思う。
コロナ自粛派はみんなのために言っている。コロナ自粛反対派は自分のことだけを考えている。そう思ったはずだ。
そもそも、みんなのためという理由で人の自由を奪っていいのであれば、では年金暮らしのジジババや介護が必要な方にはさっさとお隠れになっていただいたほうがみんなのためではなかろうか。お前が腎臓をもっと優秀な人に分け与えたほうがみんなのためになるのであればお前は肝臓を差し出すんだろうな。
年金ぐらしのおじいさんおばあさんも、生きていれば様々なことでみんなのためになっている、などと軽薄な功利主義を唱えるのはやめてほしい。教養がない。一番大事なことはそこではない。みんなのためだからといって個人に我慢を強いるのは限度があり、絶対に超えてはいけない一線があり、その先のことをどうするかについては本人の意思決定を尊重するべきだ。それがこの社会の約束である。
そもそも、僕がカラオケに行きたいというのは『みんな』に含めてもらえないのだろうか。野球を見たい人が野球を見れないのは『みんな』の問題ではないのだろうか。
僕は大変優しい人なので、みんなのために自分が犠牲になることはやぶさかでない。しかし、だからこそ「みんなのため」を誰かが勝手に決めていることに対して腹が立つ。
先に断っておくが、僕は大変な紳士であり善人だ。
定食屋さんでは必ず『いただきます』『ごちそうさまでした』という。
スーパーの店員さんにも必ず敬語だ。怒鳴ったりクレームをつけたことは一度もない。レジでは必ず『お願いします』『ありがとうございました』という。
職場でも全員に敬語だし、いわんや誰かをいじめたりいびったり口撃したことなんて一度もない。いつもニコニコしている。
読みたい本は必ずお金を出して買っているし、聴きたい曲は必ず各種有料サービスを使って作者にお金が回るようにしている。
あくまで、これはこの問題の構図が完全に不公平であるという点を主張しているのであって、僕の人格がおかしいからだとかいって済ますのはやめてほしい。
僕は、彼女いない歴 = 年齢 - 2週間の非モテで、20代後半の童貞(文脈が文脈なので敢えて書く、ちなみにプロ相手でも同様)だ。もちろん現在彼女はいないし、彼女ができる兆候もない。幸いなことに、コロナ関係ではあまり影響がない職種なので、在宅中心になったが生活への不安は希薄である。
ラジオは、深夜に限らずよく聞く、現在は、4月に始まった新番組があるので毎週10番組聞いている。岡村隆史のANNは、スペシャルウィークに聞くくらいだった。
岡村のANNを聞いた。6年前にラジオを離脱した矢部が登場し、笑いゼロで説教する回。
岡村は、周囲の人間に対して不遜であり、25年続けた圧倒的ホームであるラジオというぬるま湯に甘やかされ続けている。ADの女の子がコーヒーを持ってきてくれても、「ありがとう」の一言も言えない。鬱で休業した際も、相方に迷惑かけて申し訳ないの一言もなかった。お誘いを断わる際にマネージャーを使う、逃げ癖がある(逃げた経験は僕もゼロではないから、心に刺さったなあ)。そういう部分を見るのが嫌で、コンビの仕事は現在減らしている。こうした根っこの部分の不遜さが、非モテから来るミソジニーになっている。反省して、結婚などして環境から自分を変えるべきだ、とお笑い番組なのに笑いゼロで完全に説教されていた。
ヨルシカ「花に亡霊」、ブルーノマーズ「just the way you are」、Maroon 5「Memories」といった選曲が、妙がアクセントになっていたと思う。
僕は、文脈が存在するこの深夜のラジオ番組的には、本来は、強めにツッコまれて笑って流せる発言であると思っている。それが、書き起こしによってオーバーグラウンドに晒されてしまったから、問題になったのだと思う。つまり、深夜ラジオという時間内では、別にこれほど目くじら立てるような話ではないと思うのだ。これがアウトなら、深夜ラジオ自体が成り立たないし、地方局の昼ワイド番組では性関係の結構ドギツイ発言などあると思うけど。僕はあまり熱心な落語ファンとは言えないけど、艶笑噺を探せば今回の岡村発言に類するものはいくらでもあると思う。
矢部の発言は、個人的には非モテ童貞の僕には承服しかねるが、この騒動を収めるという視点に立てば、適切に作用するものと思う。
深夜ラジオという、冴えなくて、偏屈で、変わり者と思われたいようなリスナーとパーソナリティの集う場所での常識が、白昼の常識と解離してしまったことが問題なのである。それを責め、諭し、真っ当な大人(礼儀正しい、逃げない、恋愛している、彼女がいる、結婚している、子供もいる)になるべきという世間の風を、矢部が代わりに岡村に浴びせたのだ。鎮火のために出てきた(呼ばれたのか自発的に行ったのかは不明)彼がやるべき仕事だったと思う。
しかし、岡村の「経済的に困窮した上玉を抱きたい」という欲望と同様に、ある種グロテクスな説教になってしまったことも事実である。
岡村は、いろいろな経験があって女性不信だと言う(それは矢部も言及していた)。その彼にとって、風俗という世界はアジールだったはずだ。モテなくても性欲はあるからね。そういう人間に、50歳で彼女もいないのはおかしい、誰か付き合っている人がいるなら結婚しろ、嫁・彼女は気付きを与えてくれる、子供にきついことを言われるのは人間的に成長させてくれる、といった「オーバーグラウンド」の価値観を強要するのは、岡村が「コロナで貧困に陥ったら身体を売って金を稼げ」とネジクレ曲がった欲望を口にするのと、パラレルな関係にあると思う。
やっぱ「どこに行っても危険性は高い」って言われるのは承服できないんだろうなと思うわ 「どこに行っても低い」か「どこだけが高い」の二択じゃないと嫌だと
映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」について、楽しめたのでその感想を書く
映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」をすでに見て、そして楽しめた人
本当ははてなブログに書きたいが、他の様々なエントリやSNSを見ている限り、これはパブリックエネミーとなってしまったのでここに書く。トラバやらはてブの反応は一切見ない。異論があることは認めるがそれをいちいち納得も承服も反論もしない。
先に世に出ているエントリを見る限り、このコンテンツもこのコンテンツの制作者も邪悪なものとして一方的に殴られている光景がほとんどであり、それに対して肯定的な感想を書こうものなら、人格まで否定される攻撃を受けかねないと本気で心配しているため、なんとしてもidを伏せる必要があった。
肯定的に思えた人が同じ感想をwebに求めた際、ポジティブな気持ちである人がちゃんといることが伝わるといいなと思っている。
ドラゴンクエスト5を真面目に映像化しようとした場合、これは最低でも3部作延べ6時間は必要だよなぁ……というのが見る前に思った感想であった。それをどうやって単発の映画にするのだろう、単発にしてしまった場合、どうしても雑なダイジェスト版になってしまうのではないか、という不安でいっぱいであった。
そして視聴した。単なるDQ5の再構成として見るのなら最悪であると思うが、すでにDQ5のストーリーを熟知した観客を前提として単発の映画の中で収めるの中であれば、非常に効果的な再構成であったと思う。子供時代はほとんどすっ飛ばしたこと、ヘンリーに対するマリアやら祖国のゴタゴタをカットしたこと、結婚イベントと天空の剣とブオーンを一カ所にまとめたこと、主人公の出自判明から帰郷をカットし出産までをさくっと終わらせたこと、子供を双子から息子のみに絞ったこと、話の目標を大神殿へ集中させたこと、マスタードラゴンと妖精の国をラストにさっくりまとめたこと、このあたりの再構成を大胆に必要最低限のチョイスで、最大限映える形で行っていたと感じている。
ストーリー上のご都合とも思える、あるいは崩れた主人公の動きは、最後の暴力的で破壊的なオチによって強引に解決される。しかし、そもそもここまでのストーリーのカットが行われている以上、どうあがいても強引にならざるを得ないのだ。下手に取り繕えば取り繕うほど、ぐだぐだとだれてしまうものになるのは過去の様々な映像化が証明している。それならば一思いに根本から覆す舞台(VR的な世界の設定)を準備する方が潔く綺麗にまとまる。その判断に感動をした。
このあたりである。
DQ5でやる必要があったのかと問われると分からない。ただ、DQ5はこれを実現するのに、非常に適した内容であるとも感じた。それは
このあたりの要素である。
特に、しばしばネタにされる「主人公が実は勇者ではなかった/人の親なのでした」という話について、この構成を最大限に生かしていると感心したのである。
というのは、特に日本における大体の話において、主人公というのは年の若い方の存在であり、親子であれば子の方が選ばれがちだからである。見栄えとしても、話の中心が勇者である子供の方に移ってしまうことを避けられないしかし勇者の存在は必要であるところを、DQ5のメタ構成とすることによって自然に解決している。
身も蓋もない世界に対する説明が十分な覚悟や予兆が提供されることなく急に差し込まれてくる、という所はどうしても否定できないが、そのあたりを(どうにか)受け入れてみると、とても綺麗で丁寧に作られているものだと思う。私はこの大胆なアレンジと、コンテンツの映画化ではなく、コンテンツを題材とした映画化をとても楽しむことができた。
もし、似た思いの人がこの世界のどこかにいて、その人にとって本エントリが楽しく読まれるもであれば、非常に幸いに思う。
楽しめなかった人については、何故それが楽しめないのかは十分に分かるし、そういう人に対して書ける言葉がどこにも存在しないことも自覚しているつもりなので、不快に思った人に対しては、特に何も主張するつもりはない。だからこそ、私はこれを増田に書いたのである。
私(夫)28歳、妻26歳で結婚して、すぐ妊娠し、今1歳半の子供がいる。現在私は30歳。
出来ればいい大学のポジションに着きたい。それが任期付きであっても。ただし妻は何でも良いから定職(彼女のいう定職は任期の無い普通の会社員)について欲しいという。
妻は、5年後に旦那が仕事が確実に無くなり、次の仕事があるかわからない。また見つけたとしても、継続してひとつの法人に在籍しない為に、昇給がない、というのが堪らなく精神的に不安らしい。いい加減に定職につけと言うことだ。
私は元々日本で修士課程を卒業して、誰でも知っているいわゆる大企業に就職していたが、2年でやめて、海外で博士課程を始めた。2020年3月に修了予定で、仕事をどうするか(そもそも見つけられるか)が問題。
こんな不安定な道に進む場合は、結婚するべきではなかった。妻も結婚した当時は不安定な道になる事は承知していたはずだが、実際に子供が生まれ、直面すると態度が変わった。妻は、私が受ける、ある大学の任期付き助教の採用面接が失敗すればいいと思っている様子で、もはや根本的に考えが私と違ってしまった。(私はこの大学よりいい大学で助教ができるとはあまり思えないくらい、いいポジションと考えていて、ぜひ採用されたい)
自分は元々結婚には向かないと思っていたが、した事も無いのに決めつけるのは浅はかだと思い、試して見た。今言えることは、きちんと見通しをつけず、結婚を決断をした自分が浅はかであった。
遅かれ早かれ離婚する事になりそうだが、子供が不幸になる事が申し訳ない。申し訳ないと言いつつ、自分の都合を優先させるために子供を不幸にする自分が悪魔そのもの。
結婚をするべきではなかった。もっというと、子供を欲しがる女性と結婚するべきでなかった。
定職を持ち、長く住む場所が定まり、精神的な余裕がある人間以外は子供を持ってはいけない。当たり前の先人のアドバイスを繰り返すだけになってしまった。
[以下追記]
このやり方でいいのかわからないんだけど、ブクマの人気コメントにお返事書かせて頂いた。
kpkpkpchang 離婚後、当然のように妻が子供を引き取る想定でいてモヤモヤする。
子供の親権を取ることに私は、そこまでこだわっていないが、事実上私が親権をとることはできないと考えられる。
離婚届には離婚後の親権を記入する欄があるが、そこで合意が得られなければ、裁判所の判断になる。
調停になった場合、やはり妻が有利。私はずっと海外にいて、妻が日本で子供の身の回りの面倒を見てきた。
そのため、私が親権または監督権を獲得するのは事実上無理だと考えられる。
養育費を払うことは(私に収入の範囲内であれば)なんの問題もなくて、できるだけ払いたいと思う。
”自由がない”、の意味がよくわからないが、可処分所得が減るという意味なら、理解しているつもりだし、納得もしている。
私が問題だと考えてるのは、子供の父親が一緒に生活していないこと。
おそらく離婚したら私は積極的に海外のポストも探すが、そうするとかなり長い期間顔をあわせる機会もない。
家事や子供の身の回りの面倒を見る大人が2人ではなく1人になるというのは、子供にとっては不幸では?
また、自分の父親の顔を覚えていない子というのは、たとえば学校生活で父親の話をするときに、気まずい思いをするものではないのか?
金(養育費)だけ払えば子供にはなんの影響もないと思えないので。
yuatast 妻子供よりも自分の将来が大切だってことでしょ。分かりやすいよね。
まさに仰るとおり。説得ができない。任期のあるポストでも私にとってはとてもいい仕事なのだが、
私の感覚では、いい大学の助教の経歴があれば、自分のキャリアが続く仕事は見つかると考えているのだけれど、
妻はそういう楽観的で不確定な未来を受け入れる態度に耐えれれないということらしい。それもわかる。
どう説得すればいいのか教えてほしい。
子供が自分自身のことを不幸だと思わなければ、他人にどう思われてようが、問題ないと思う。
私自身は片親の子をみても不幸だとかそういう考えは持たないが、一般的にはどうなのだろうか。
子供がどう考えているのかは、離婚した親をもつ子供のアンケートの統計等を見ないとわからない。
妻はその業界では安定した企業の職についている。会社はその分野で国内最大手で連結の売上が500億以上。
そのため、妻が育休中のその会社をやめなくて済むように、私は東京でのし仕事を探している。
妻に詳しく認識を聞いてはいないが、子供が小学生くらいになるまではあまりフルタイムで働く気はないのか?
(妻の企業は時短がけっこう一般的で、フルタイムと時短の切り替えがある程度容易)
妻は子供と過ごす時間に対する優先度が高いように見受けられる。
問題は、私と妻が共同生活を送ることが困難になるほど不仲になってしまうという点で、
それを解決できない場合は一緒に暮らす全員がかなり不幸になる(と考えられる)。
なんとか、任期のある仕事につくことから来る妻の不安を私が取り除かなければ、一緒に生活できない。
宝くじで数億円が当たるか、私が、妻が満足する任期なしの仕事につけば、問題は解決する。
もし私が私のやりたいように進めると、私が任期なしのポジションにつくのは5年後等になると思われる。
そこまで不仲の状態で共同生活はできないので、離婚しなくても別居はするのではないかと思われる。
生物の特性上、子供を妊娠出産することができるのが女性だけというのが、現代社会においてかなりハードルが高い。
子供が欲しい女性はある時期は必ずパートナーや自分以外の何かに頼らざるを得ない。女性のキャリアの形成があまりにも難しい。
(世田谷とか笑ってしまうぐらい認可保育園が空いてない。例えば、1歳の子供を入れたい場合、待機児童が345人いる:
参照https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kodomo/003/009/d00031371.html)
認可外の保育園もあるが、個別に問い合わせてもまぁ空いていない。
保育園の申し込み書類の用意は私が主に担当している。保育園の見学は一時帰国したときに、私も3~4件は回ったが、
やはり認可保育園の方が環境がよく、そこに入れたいと思う親の気持ちは理解できる。
ただ、認可保育園を見学しても虚しいのは、入れる見込みがほぼないこと。(見込みがなくても見学していないと申し込みすらできない)
また、良い保育園がたくさんある地域は、結局他の地域から無現に子供を入れたい親が引っ越してくるので、
待機児童問題は永遠に解決しないと思われる。月14万くらい払えは、環境のいい認可外のインターナショナルスクールみたいな所に
入れられるが、私たちの家庭にその余裕がない。自民党はなんの関係もない。
『創世記』(そうせいき、ヘブライ語:בראשית、ギリシア語:Γένεσις、英: Genesis)は、古代ヘブライ語によって記された、ユダヤ教、キリスト教の聖典で、イスラム教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書であり、正典の一つである。写本が現存しており、モーセが著述したとされている。いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている。
9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。
9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
日本ではあまり知られていないことだが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は聖典を共有している。最も古いのが紀元前1300年頃から形を取り始めたユダヤ教で、そこから分派した新興宗教としてキリスト教が西暦0年前後に成立している。イスラム教は少し下ってやはりユダヤ教徒の勢力圏で610年頃に成立している。よく「一神教」「多神教」とぼかして言うが、「ユダヤ系」「それ以外」とも言える。
イスラム教においては創始者ムハンマドの預言が絶対、預言を正確に記したコーランの記述が絶対、信徒は肉についてイスラム教徒の指定する処理を施したものしか食べない、といったことはよく知られているが、彼らは『創世記』を含む旧約聖書も「異教徒の不正確な複写を含んではいるが、われらの神からの預言であることは事実である」というような立場をとる。上の引用はその『創世記』9章による。これは「ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が概ね一致して『定義であり正しい』として受諾している文章」なのだ。「生殖は正しい」「獣・鳥・魚は異なるものである」「獣・鳥・魚は人間に与えられた所有物である」「『青草』は『動いている命あるもの』ではない」といったところは(それぞれの宗派において個別に解釈・明確化されているであろうことはさておき)否定されざるものなのだ。
狂信的ヴィーガニズムのドグマは要約すればGenesis 9:1を達成する目的において9:2を根拠に9:3を辞退する、というものだ。彼らの議論は9:3を権利と捉えるか規範と捉えるかとか、そんな辺りであろう。その主張に対して「生殖が正しいとは決まっていない」「人間には農業をする権利などない」「野菜や草やプランクトンにも牛や豚と同じ命がある」と根本から9章丸ごと吹き飛ばす批判を返しても、「すべての宗教が数千年に渡って同意してきた前提に対する批判であり、到底承服もできないどころか、議論する下地すら作れない。笑い飛ばす以外に対処法がない」という対応しか得られないのである。それが正しいか正しくないかではなく、彼らは「俺は旧約聖書信じてないよ」という発言には対応ができないのである。
そしてここは日本であった! ヴィーガンは対応ができず成すすべもなく文の壁を立て(彼らの言語には"wall of text"という表現がある)嘆くのみなのであった。旧約聖書先生の次回作にご期待下さい(完)
ここまで考察しているが、結局ややこしいところはTPが全力を挙げて何とかしている、という説であり、オッカムのカミソリ的な立場からは承服しがたい。
それよりもっとシンプルに、ドラえもんが単に「そういう体験をしたと信じ込ませる機能を持った」子守ロボットである、と考えてみてはどうか?
確かにあの世界、のび太の周囲では様々なことが起きるが、原則として大体の現実は改変されないで元に戻る(結婚相手の件を除く…これは増田指摘の通りセワシの嘘でOKと思う)、ただし、心理的な影響は残る(のび太の精神的成長など)ことを踏まえれば、もっとも整合的な解釈は「全て夢だった」だろう。あの少年に全時空間の特異点が集中しており、全TPをもってしてもそれを覆せない…というのは、子供の妄想としては面白いが、それこそそれはのび太の妄想であり事実はただの白日夢、これこそが最も合理的な解釈である。のび太(たち)が世界を救った? いかにも都合よく自分たちの特技を生かして、しかも大舞台になるほど普段意地悪な知人が頼れる相棒になって活躍して? そういうのを普通私たちはなんというだろう? それは夢だ。ただの夢なんだ。
つまりドラえもんとは、周囲を巻き込んだ白日夢を見せ、危険なしに子供に精神的成長を促すロボットなのだ。彼の持つ機能とは、実際は人の認識に働きかけるという、ただそれだけのものなのであろう。夢が荒唐無稽であることこそが、彼が安い普及版ロボットであることを示している。
閑話休題。
バイバインはバイバイン容器自体には干渉しないようだが、開発時に問題は生じなかったのか?また、有機物にしか干渉しないのだとすると逆に人体にこそ干渉しそうなものであるが、食べるという処理が有効である理由がよく分からない。たとえば人がバイバイン自体を飲んだら何が起こるのか。バイバインの効果を打ち消すのは、消化酵素か、体温などの条件か? また、あの薬は一体何が増やせて何が増やせないのだろうか。あのような薬が「実際に存在しうる」ためにはどのような条件が必要かを考えてみると、まことに興味は尽きない。
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
なるほど。いや「その可能性に委員会は賭けたんです」と断言されてたので、何か委員会に関する情報があるのかなと。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
商業性を捨てた善意に合理性を見るなら、商業性を捨てた悪意にも同程度の合理性は出てきます。まぁ悪意はさておくとして、商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか、等がわからないので、危険さも、それを乗り越えようとする意志や行動も見当たらないのです。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
「セルリアンに、けしかける」は相手のことを思った行為でもなんでもないですよね。ビーストを自分の都合で利用するだけして、その後も、何も気にしてない。キュルルちゃんにはキュルルちゃんで考えてることがあるのかもしれませんが、それが示されてないので、薄情にしか見えないのですよ。
世の中には色々な人がいて、一人一人異なる意見を持ってます。それのどれが正しい、間違いというわけではないですが、全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。もちろん例外はありますが、例外には例外の理由があるわけです。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。あなたから見てキュルルちゃんが責められないとして、制作者は、それをきちんとわかりやすく示すべきです。キュルルが、とっさにイエイヌにお礼を言うことを思いつかなかったのなら、他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
すいません、よく意味がわかりません。ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?
量より質ですね。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
気を抜くとヒト型セルリアンに吸収される危険な状況であることは変わりません。そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在、危険自体が茶番に見えてしまって、リアリティを失うのです。
緊張してる時にこそ笑いが生きる場合がありますが、それは、危険な状況の中で、敢えて、笑おうとする場合の話です。キャラクターが、危険を理解したそぶりもなく、漫才めいた会話をやってることではありません。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
エンタメ的な価値観でない、文学的な価値観からの評価は可能でしょう。ただエンタメ商業作品の次回作で、エンタメでない純文を目指したら、そりゃ客は低い評価を下します。それも覚悟で作ったのなら、それでいいでしょうし、そういう覚悟がなかったなら、アホだなぁと思います。でまぁ、別に、エンタメを否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
おうちを捜してたんだから、おうちに着かなくてもいいけど、おうちが何だったかを明らかにしてください。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
キュルルは(イエイヌとかビーストの件を除くと)最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
ちなみに、キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
もし、けもフレ2スタッフが商業以外の目的のために、エンタメの基本的な面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神なキャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています。
足引っ張り系ヒロインみたいなやつですね。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
わざわざ伏線を放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。現実の厳しさを描くからといって、面白い作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品を制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまり、けもフレ2をけもフレ2として評価しやすくします。
うーん、個人的にはけもフレ2の事前の印象は異なっていると見えていてギスギスは十分許容範囲なのですが、一般論としては理にかなっていると思います。どこかのコメントでもナンバリングタイトルにしない方が良かったと言ってる方はいました。
けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばんちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
そもクレームに対応することで店の質が上がり近隣社会の便益も増えるのに文句言う輩がなぜ存在するのか理解不能。
耐えられない程度に素質ないなら辞めればいいことだし(その程度で辞めるようなザコが他に適性ある仕事あるのかはさておき)
そういうクレーマーに対応しない店が増えると近隣住民は不利益を被る。
綺麗事抜かすはてぶのアホどももいざ自分が承服しかねることを指摘してあしらわれたときにはじめて己の過ちに気づくんだろうけど。
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大抵の企業は客からクレーム受けてようやく業務改善のお墨付きが得られたと喜ぶぐらいなんだがな
貧困や教育の欠如、マトモな働き口がないことなどから、自分の意思に反して売春をさせられるようなシステムがあると。彼女たちの性を買ってしまうことは、買春者もシステムの一部として機能することになり、これからの未来により多くの被害者を生んでしまう。
こうした仕組みは間違いなくあるでしょう。暴力団も同様のシステムに支えられて存続しています。さて
「転校してきた暴力団員の娘に優しくしてはならない、それは暴力団を受けいれることを意味するから」という論はどうでしょうか。これはモラルの一形態としてはあり得ても、個人的には承服しがたいです。
買春するなり優しくするなりがシステムの働きをどれだけ助長するかを考える必要があると思います。「買春を控えても単に彼女らが飢えるだけでは」という意見に賛同します。個人の買い控えにどれほどの効果があるでしょう。女性の貧困システムのエンジンは教育を受けられなかったり働けないことなのだから、そこを解決するのが本筋では。
C94の三日目に参加してきた
モヤモヤしていたので、書く
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目当ての本は一通り買った
売り切れがあったのでお金がそこそこ余っていた
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ある机の奥でオッサンが立っていた
机には本を並べるでもなくチラシが乗っていた
スーツだったかYシャツだったかは覚えていないが、キチッとした格好をしていた
メガネをかけて、背筋をピンとして、チラシを持っていた
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前を通りがかったとき、机越しにチラシを二枚渡された
お願いしますと言われた
よかったらどうぞ、じゃなかった
まあそこはいいとして
まあそこはいいとして
そのチラシは文字ばかりだった
まあそこも、そこもいいとして
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そのチラシには写真が並んでいた
眼の前に立つ本人
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政策についてが書かれていた
事務所の住所等が書かれていた
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それなら納得はできないが理解はできる
サクチケを得る口実にブースを出して、でも出すものがないからビラを巻いてると
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オタ議員らしい
なるほどそうか、じゃあそういうことなんだな
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きっと何をしてもいい
何を配ってもいいんだとは思う
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でもだよ
駅前の街宣で配ってそうなビラ
それをただ机に置いて通った人に配る
刺さる人が通りかかる確率は果てしなく低い
1/47ですらない
それをただ配る
配るだけ
それだけ
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同人誌を求めるのは酷かもしれない
市政報告や方針をまとめてもっと厚いパンフにして、コミケ的小ネタでも混ぜればまだ承服できたかもしれない
そこにいたいのならそれなりの格好をすべきだと思う
寄せる努力とか
求めるのも変かもしれないけど
コミケが分かってれば、そういうことをしようと、勝手に発想するものだと思う
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あるいは何も考えてないのかもしれない
サクチケ目当てじゃなくて、ただ人が集まって一万円でブースが建てられるイベントと知って来ただけかもしれない
わからない
僕はこの人がわからないし、なんでこうしようと思ったのかわからない
その人の勝手かもしれないけど
なんだか自分の信奉しているものが、すごく陳腐な暗黙の了解の上に危うく成り立ってるんじゃないかって
そう思った
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僕はあれを変だと思った
いいことかどうかは分からない
政治なんてのは高尚なものなんだから、それこそ憲法21条が最初に想定している使われ方で自由を行使してるんだから
なんの問題もないのかもしれない
しれないけど
おそらく君の願う意味での「根拠」は無いだろうな。それは私(あなた)が私(あなた)である根拠は何か、というのと同じ質問だ。私は最終的には各人が何を信じるかに帰結すると思っている。
だが、一般的には「根拠」はあることになっている。過去の議論の積み重ねがあるから。人権については、ロックやルソーを読めば分かるだろう。
なぜなら、「過去の議論の積み重ね」こそ人権の不安定さの本質そのものであり、例として出ている「ロックやルソー」が正しいというのも「通過点」でしかない可能性を否定しえない。
結論で言えば、性交は相互行為であるから。一般的な契約行為つまり物々交換したり、商取引をしたりすることと同類なのだ。
君は双方の合意無しに契約がなりたつと思うのか。例えば、レジで会計せずに商品を持って帰る、また、金額が不明なのに勝手に自分の好きな金額をレジに置いて商品を持って帰る。
一般的に許されないことだと直感できるが、なぜ性交になるとそれが分からなくなるのか。
性交したい者(あえて性別は書かない)が自由に性交「権利」はあるだろうが、それは当事者以外が「するな」「しろ」と指図できないという意味においてであって、決して自分の望む相手と望む時にセックスできる夢のフリーパスではない。
一般的な商取引において、たとえば生活必需品の価格を極端に吊り上げることは現代でも非難される。
食料品を商人が買占めて値段を吊り上げたら現代であっても「大塩平八郎の乱」は起こりうるだろう。
性交においても同様だと言える。現状の価格の吊り上げを「不当」ととらえるものが一定以上入れば「大塩平八郎の乱」は起こりうるだろう。
今日、以下のようなブコメを見て大いに共感すると同時に、私にも思い当たるところがあったので書いてみる。ちなみに読んでわかるとおりidバレしてるが、ブログに書くよりこっちのが読んでもらえそうなのでこっちに書く。あとあまり大層なことは書いていない。事実を淡々と述べているだけの部分が大半を占めており、最後にちょっぴり「低能先生」という呼び名についての私見を書いている。
irodori_kotori 氏のブコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/366754123/comment/irodori_kotori)
deztecjp氏の指摘、私がイケダハヤト氏の批判記事にブコメして某先生からidコール飛んできた時に「馬鹿にする意図でないのは略称でも蔑称でもないことから汲んで下さい」って返したら納得して貰えたということがあった
上の「deztecjp氏の指摘」というのはこれ。
deztecjp 氏のブコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/366754123/comment/deztecjp)
「高知のトマトの人」などという表現をやめ「イケダハヤトさん」とふつうに書くことを「萎縮」と呼ぶなら、「萎縮すべき」と私は主張。批判はすればいい。だけど、なんでそういう、イジメの作法をやめられないのか。
私も(たぶん一度だけ)1年近く前にHagex氏の殺害容疑者とされている人物(何と呼べばよいだろう?ひとまずA氏としよう)からidコールをもらったことがある。もちろん本当にA氏かどうか確かめようがないが「お前のブコメは集団リンチだ」という旨を強い口調で咎められたので、たぶんA氏だったのだろうと考えている。私は自分のブコメのどこが集団リンチかわからなかったので、そのように返信した。
私のブコメ1(http://b.hatena.ne.jp/entry/344007287/comment/neriu)※2018/7/2 18:00 URLが違ってた(いわゆる「1フロア下」になってた)ので訂正
id:toyoub 記事のどこに反応するかは各自の自由です。あと集団リンチとは誰に対してですか?私はWantedlyには何も言及してません。イケハヤ氏(増田註:ここは今では「イケダ氏」に変更している)への中傷もないでしょう。ブクマ自体が集団リンチという意味なら承服しかねます
※本題とずれるがこのブコメ自体が上の irodori_kotori 氏のブコメへのブコメだったことに今気がついた。なんという偶然。
すると次のidコールが来た。「イケハヤってのは蔑称だ。彼はイケハヤなどと自称していない。集団リンチだ」といった旨の指摘だった。私はなるほどそういうことかと思い、イケハヤが蔑称かどうか確認するため、イケハヤ氏のブログで過去ログ検索し、当時イケハヤが「イケハヤ」を自称していないことを確認し自らの非を認めた。それが次のブコメ。A氏からは「わかればよい」といった旨の返事が来たように記憶している。
私のブコメ2(http://b.hatena.ne.jp/entry/344007646/comment/neriu)※2018/7/2 18:00 URLが違ってた(いわゆる「1フロア下」になってた)ので訂正
id:toyoub 氏のサイトで検索しましたが確かに自称してないですね。またこの言葉自体に氏をからかうニュアンスがありそうです。ご指摘ありがとうございます。氏を中傷する意図は全くないので「イケダ氏」に訂正しました
もっともこれはすぐ判明したことだが実はこのときイケハヤ氏は「イケハヤランド」という名称などで自らのことを「イケハヤ」と自称していたので、A氏の指摘は当たっていないし謝る必要もなかったのだが、蒸し返すほどのことでもないと思ったので、この件はこれで終わりにした(余談だが現在イケハヤ氏はサイトでもTwitterでも「イケハヤ」を自称している)。
たったこれだけの、なんてことはないやり取りなのだが当時A氏の存在を知らなかった私にとっては青天の霹靂で、なぜここまで口汚く罵られなければならないのかと内心憤慨していた。またそれはそれとして、上記の経緯を経てA氏が納得した態度を見せたことについて意外に感じたのと、そのような氏が私以外に対しても同時進行で罵っている様子が見て取れたので、氏の意図を測りかね、不思議な思いで見つめていたことを覚えている。
そんな経緯があった私にとって、冒頭で紹介した2氏のブコメは共感できるものだった。
irodori_kotori氏などはA氏と対話らしきものを成立させており、また誰かは忘れたが、他にもA氏と同様のやり取りをしたというブコメを見た記憶もある。私以外にもきっと何人かA氏と罵り合い以外のコミュニケーションをとった人がいるのだろう。これは意外な気もするし、相手もなにか考えがあって行動していたと仮定すれば当然のことという気もする。もちろんHagex氏が亡くなられた今となっては「だからどうした」という虚しさしかない。一部の人間と対話が成立していようがいまいが、最終的にA氏は対話とは正反対の、最悪な形の暴力を振るった容疑者である。だからここに書いたことはA氏の擁護でもなんでもなく「そういうことがあった」という報告以上の意味はないことは強調しておきたい。
もうひとつ、説教臭いことを書いておきたい。A氏を「低能先生」と呼称すべきではない、ということについてである。これはすでに複数の人が指摘済みのことだと思うが改めて書いておきたい。
はてな界隈で流布されている解説によると、この呼称は「A氏は頻繁に『低能』という言葉で他者を罵倒しており『低能とよく罵倒する人物』転じて『低能先生』だから問題ない(=蔑称ではない)」ということなんだそうだ。
正直に白状すると、この解説には首肯しそうになる自分がいる。そして「低能先生」という呼称を現在進行系で使っている人に対しても「まあしゃーないよな(俺は使わないが)」と考えるズルい自分もいる。
その上で、ちょうど私へのidコールが「蔑称問題」についてだったこともあり、改めて考えてみたのだが、やっぱり駄目だと思うに至った(遅い?)。数時間前の私と同じように「えーやんけ別に」と思う方は(唐突で恐縮だが、もしお暇なら)次のチェックリストにYES/NOで答えてみてほしい。
これらの問いのどれかに「YES」と答えるとしたら、その心の有り様は「いじめ」と通底してはいないだろうか。あるいはもっと端的に「いじめ」ではないだろうか。私自身上記のとおりなので「YES」と答えた人を難詰する資格はないだろう。そもそも私が間違っている可能性だって依然としてある。A氏に関すること以外で、私が過去に不適当な呼称を使うこともあったに違いない。ただ本件であらためて「他者をどう呼ぶか」に意識的にならなければと思ったし、これを読んでそういう人が増えてくれれば嬉しい。