はてなキーワード: 文化史とは
日本列島におけるモモの伝来をめぐる諸問題 -伝来時期、古植物学、遺存状態の検討-
https://research-er.jp/articles/view/138311
日本列島への伝来後は、日本文化に深く根づいた植物であることから、その伝来時期や要因を探ることは、考古学・歴史学・植物文化史学的に極めて重要です。
これまで日本列島でのモモの出現は、発掘調査資料から縄文時代と考えられていました。
しかし、日本では年間約8,000 件の発掘調査を実施しながらも類例がほとんど増えないことから、その年代に研究チームは疑念を覚えました。
そこで、縄文時代および弥生時代早期から前期のモモ核(種子を含む堅い部分)とされる既存資料(長崎県伊木力遺跡:縄文時代前期,滋賀県入江内湖遺跡:縄文時代早期〜前期,佐賀県菜畑遺跡:弥生時代早期〜前期)の放射性炭素年代測定を実施したところ、いずれも弥生時代中期以降の年代が得られました。
2.モモは、弥生時代開始期の稲作文化と共に朝鮮半島から伝来したのではなく、青銅器の国産化、首長墓の出現、渡来人の定着が考古学的に確認できる弥生時代前期末から中期初頭であった可能性が高まった。従来、稲作伝来を大きな文化的画期としてきたが、弥生時代前期末から中期初頭の画期を今後は大いに再評価すべきである。
3.モモ核は、年代とともに大型化する説もあったが、今回の年代測定により、この説に疑義が生じることとなった。
4.低湿地遺跡などでは、モモ核などの軽くて丸い遺物は、発掘調査時点では認識できないほどのかなりの移動があり注意を要する。
テントウムシは英語でladybug、日本語の漢字表記でも紅娘という書き方がある
なぜか
調べましょうね
以下思いつくままにメモ 後でぐぐったり書籍を探したりするとき用のとっかかりとして
海外、キリスト教圏でテントウムシがフィクション作品に登場する時の扱われ方
女性的、というのは英語圏では違う?マリア的であって女性的とは違う可能性
英語圏でテントウムシを擬人化したようなキャラがどの性別に割り振られるか?の調査
『赤の歴史文化図鑑』ミシェル・パストゥロー (著), 蔵持 不三也 (翻訳), 城谷 民世 (翻訳)
男は青、女は赤のイメージは日本ではいつから?歴史でみる色分けについて-No.123 - トイレマークつれづれ
「青=男性、赤=女性」というジェンダーイメージは1964年以降に定着した。西洋でも歴史的にイメージは二転三転している!? - 着物ファッションと買い物のアルバム日記 part2
「テントウムシは赤いからladyとか娘のような呼び名がある」というのは偽っぽいな
紅娘
語源がはっきりしない 初出を国会図書館デジタルコレクションで探す、の前に大きな辞書を引くべき リファレンスの返答で私はそれを学んだはずだ
男性は黒/青、女性は赤というイメージはいつから/どこから? ←このテーマを掘るの面白そう→チコちゃんがとりあげてた
メダロットnaviでテントウムシ型メダロットが女性型ティンペットだった
なんかこの呼び方は中国っぽさを感じるが、関係はあるのか?ないかも 一応軽くググるか
一旦ここまで、日記
動画と写真。写真の分部では少年がブルマをはいているように見える。
https://stockholmskallan.stockholm.se/post/19705
体育の授業。バスケのブルマ。スポーツ休暇でプレイしているらしい。場所はJämtlandのÖstersundというところのようだ。1956年
https://www.europeana.eu/en/item/76/jlm_item_208965
提灯ブルマーらしい。
https://digitaltmuseum.se/011013837745/gymnastik-med-bollar-i-mariekallskolan-sodertalje
https://digitaltmuseum.se/011013838561/skolgymnastik-flicka-hoppar-over-bock
こちらはストックホルム市にある、北欧博物館の文化史コレクションからのようだ。
続きはトラバに。
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
当然ながらn=1の隙自語。
原風景のひとつは母が洗面台で化粧をしている姿。BBクリームをペタペタ塗っている。なんで化粧をするのかわけを尋ねると「化粧をしたという事実を作るためだよ」とめんどくさそうに答えていた。BBクリームと口紅を塗った母の姿に、なるほど化粧をした姿だ、と思った。美しいとも醜いとも思わない。憧れるでも羨むでもない。それはたとえば「大人になれば働かなければならない」なのと同じように、やがて自分がせざるを得ない、めんどくさいなにか、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そんなわけなので、身だしなみにに対してうっすら苦手意識を抱いたまま小中高と進んだ(無論、二次元のオタクにもなった)。大学生になって一人暮らしを始めたが、身だしなみのレベルは依然として低かった。髪を根元から乾かすと寝ぐせがなくなる、ということさえサークルの先輩に教わるまで知らなかった(実家の家族はみな、わたしのことをくせっ毛だと思っていた)。母は化粧は嫌いだが服を買うのは好きで、セールで買い込んだ服を段ボールいっぱいに詰め込んで、コメや野菜と共に仕送りしてくれた。不十分な身だしなみに、試着もしないまま買い与えられた服を身にまとうわたしは、今思えばいかにもちぐはぐだった。自分で服を買うようになったのは社会人になってからだ。余談だが、その後わたしは服を買うことにすっかり目覚め、母に似た服道楽の道を歩むことになる。
化粧っ気のないわたしの周囲には、化粧っ気のない友人が集まり心地よく過ごした。たまに接触する化粧っ気のあるひとびとは、おおむねみな優しかったが、話していると気づまりすることも多かった。オフ会でお会いした年上のお姉さんは、髪にパーマをあてたわたしを見て「それなら、せめて眉は整えた方がいいよ」と優しく言った。サークルの先輩は「このメイクポーチ(の中身)でどうやってメイクするの?」と不思議がった。今思えば、それはどれも本心から心配や優しさからのものだったが、わたしのなかの「やっぱり化粧って苦手だ」を補強するには十分だった。
その頃わたしは、十代ゆえの傲慢と偏見ゆえにすっかり「化粧」そのものを敵視するに至った。化粧とは、無知で不器用な自分の前に立ちはだかる、理不尽に高い壁に見えていた。それを強要する(ように見えた)社会も、それに迎合する(ように見えた)化粧上手な美人も、みな嫌いで、自分を害する「なにか」に感じられていた。
就活時は化粧をしたが、化粧下地なんて知らなかったので素肌にREVLONのリキッドファンデーションを塗った。
そんな自分も少しずつ変わっていった。転機は判然としない。
大学院に進学し、尊敬できる先生や先輩、同期に出会えた、卒後も専門性を活かせる職に恵まれ、「クラスルームの隅」以外に自分の居場所を見つけられたこと。自分で服を買うようになったこと。そしてなにより、年を追うごとに性格が丸くなり、「十代ゆえの傲慢と偏見」から解き放たれ、化粧上手な美人を見て素直に尊敬できるようになったこと。
化粧が苦手だったが、でもそれが悔しくて、無知なりに調べては挫折してを繰り返した。独学だったのでひどく回り道をしたが、ほんの少しずつだが経験値は積みあがった。またインターネットが発達し、「周囲の人」以外からTIPSを学ぶ手段が飛躍的に増えた。コンタクトもマツエクも試してみた。気になることはひととおり勉強した。
それでも、「上手」には程遠い。
あるとき、一念発起して資生堂銀座本店の「メイクアップレッスン」に申し込んだ。一時間半くらいつかって、マンツーマンでメイクを教えてもらえるやつだ。理想の顔面比とは、という話から始まり、「あなたは少し目と目の間が離れているから、目の間隔が縮まって見えるように、このように陰影を入れましょう」などとしっかり教えて頂ける。説明は理論だっており、納得できるものだった。そして完成した自分の顔を見て、「ふうん。わたしの顔面がベースだと、プロの技術でもこれが『限界』か」と理解した。
①「己の顔面を“理想の顔面比”に近づけること」。そして②「化粧した顔になること」。
①の理想の顔面比は残酷なまでに「正解」が存在する。①の達成難度はそのひとの持って生まれた骨格に依存する。美容整形はそれを打破する有効な手段だが、高価だ。
②は一種の符丁のようなものだ。この記事は、この増田(https://anond.hatelabo.jp/20240129142710)
をきっかけに書いたものだが、勝手な想像だがその元増田筆者はおそらく自他問わず「化粧をした顔」が好き(=かわいい、という認識)なのではないかと思う。なので「化粧をしたらブスでもかわいい、ブスなんていない」という結論になるのではないかとわたしは考える。対照的に、わたしは化粧をしたひとの顔を見ても「化粧をした顔だな」とは思うは、「=かわいい」とは思わない。「化粧をした顔」そのものに美を感じるのは、それは一種の価値観であり、文化的なものである。ゆえに符丁、と書いた。(関係ないが、化粧っ気のない人間は、他人の化粧に鈍感だ。化粧を自らして初めて、他人の化粧を認識できる、ところがある)。
今のわたしは、眉はしっかり整える。ファンデはしないか、してもごく軽く。アイメイクはたまにする。常にマスク(マスク社会万歳!)。美容室には定期的に通う。服はそれなりに気を遣う。メイクした方が似合う服、というのはぜったいにあるので、それが着られないのは少し残念ではある。
WEARでたまにファッションスナップを上げる。画像加工で顔は消す。プライバシーのあれもあるが、己の顔は別に好きではないからだ。首から下は、まあ悪くはない。
クレ・ド・ポー・ボーテの化粧品の見た目が好きだ。でもお金も時間もアテンションも有限だから、優先度をつけてやるしかない。わたしの人生において、化粧は、優先度はあまり高くない。
以上、化粧が苦手改め、化粧が苦手なりに愛憎入り混じった女の人生語りでした。
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【余談①】化粧の文化的側面については興味があるので、もし良い書籍を知っている人がいたら教えてください。文化史などの側面から語っているややお堅い雰囲気の書籍だと嬉しい。
【余談②】メガネについて。化粧をするなら大前提として、メガネを外せ、コンタクトをしろ、というのがあると思う。自分は(何言ってんだと思われそうだが)自分のメガネ姿にアイデンティティを感じているが、近眼メガネ族は化粧界においては驚くほど透明化されている。自分が「化粧はだいたいでいいや」と思う理由のひとつがこれだ。
【余談③】メイクアップは嫌いではないが、スキンケアははっきり言って嫌いだ。詐欺まがいの商売が多すぎる。ひとの悩みに付け入って高いものを買わせる不健全な業界だと思う(本当に人体に対し効能があるものは薬機法下では医薬品なので、そもそもそ医薬品ではないスキンケア商品の段階でどんぐりの背比べだろって思う)。日本皮膚科学会のホームページにある「皮膚科Q&A」だけ読んでれば十分や……まあ高いスキンケア用品つかってプラセボで良くなる可能性もあるとは思うが。
ドラッグとしてのアルコールが存在しない世界ってどんな世界になるんだろう
「アルコールというドラッグは、現在新たに発見されたものなら間違いなく違法薬物に指定されるレベルでヤバい」ということならば、実際にそうなったifがどうなるか気になるってものよ
この架空の世界のディティールを考えるには「酒の文化史」「ドラッグの文化史」みたいな本を探して読めばよさそうだ
しかし「ドラッグとしてのアルコールが存在しない世界」って具体的にどういうことなのだろう
糖を分解してアルコールを作る酵母が存在しない世界……ってことか?
いや、それ以前に酵母が存在しないって生命の歴史をどれだけ遡ればいいんだ?
この線で考えるのはかなり難しそうだ
これはありえる
ハムスターなんかはアルコール分解能力がめちゃくちゃ高いと聞く
大量……ウイスキーを20瓶くらい飲まないとほろ酔いにすらならない人間が平均の世界ならどうだ
あーこれって飲料水としてアルコールをがぶ飲み出来る世界なのか 砂糖水がぶ飲みに近いのかも
人類が酩酊の感覚を得るのがもし困難だったならば、人類の文化・文明・歴史はどうなるのだろうか?
これこそが一番気になるポイントだ
現実世界の歴史イベントのなにかで酒……というか酩酊が無いと進まないポイントがあるかもしれない
「カフェインの文化史」とか「酔いの文化史」みたいな本があればもっと参考になるかも
図書館のリファレンスサービスの回答集の検索→前述した本など面白そうな本が無いか検索
この順番で調べる
うるせー!そういう話じゃないだろ だから「酩酊」って言っているのに 私の心の中の魔よ去れ
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『酔っぱらいが変えた世界史:アレクサンドロス大王からエリツィンまで』
この本なんかが面白そうだ
現実世界で「長寿だけど生殖能力が低い生物」っているのだろうか
いない気がするんだよなあ 勘だけど
ファンタジー作品に登場するエルフはたまに「生殖能力が低い」みたいな設定がされていることがある
もし長寿のエルフが普通の人間並みの繁殖スピードだと大地はエルフで埋め尽くされるはず それを回避するための設定の一つ
「なるほどなあ だから非エルフの人間の方が数が多くて、エルフは数が少ないのか」と思っていたのだが
私が生きるこの現実世界の地球に「長寿だけど生殖能力が低いので数が少ない」って生物はいなさそうな気がするぞ
まあ一度に複数の卵を産めるカメと、胎生で基本的に一度に一人を産む(であろう)エルフを比べるのはおかしいかもしれないが
→少なくとも短命のカメの種類と長命のカメの種類の生殖能力を比べないと意味ないんじゃないか?
じゃあ類人猿だけで比べてみるか?
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それは『葬送のフリーレン』を読んでいてふと思った疑問
→エルフの繁殖能力は低い≒恋愛感情や生殖本能みたいなものが軒並み欠落している、の等式は成り立つか?ここは自明ではないか
→現実世界で「生殖能力が低い」というのは発情期の周期が長かったり孵化率が低かったりいろいろあるだろうけど、少なくとも『葬送のフリーレン』のエルフは「恋愛感情や生殖本能みたいなものが軒並み欠落している」っていうんだから比べるのは筋が違う気がするよなあ?
→現実世界の生物で「恋愛感情や生殖本能みたいなものが軒並み欠落している」生物を探すのは流石に無理筋の予感しかしない
エルフ自身が「エルフの数が少ないのは繁殖しようというやる気が無いからだ」という自己認識だったとしても、実際の数が少ない原因は別という可能性は普通にあり得る
むしろ、エルフの繁殖能力が低いというよりも、普通の人間の繁殖能力がめちゃくちゃ高い説はありえる
ホモ・サピエンスは何故世界中のありとあらゆる場所で繁殖できるのか?
→「エルフはホモ・サピエンスが持つ何かの性質を持っていないので相対的に繁殖能力が低い、その性質とは何?」という問を考えるほうが筋がよいか?
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『葬送のフリーレン』以外でも「エルフの繁殖能力は低い」って設定は見たことがあるような、ないような……
それの源流を探す旅も面白そうではある
エルフの繁殖能力はともかくとして、ファンタジー世界でエルフが登場するとき、森の中のそこまで大きな規模ではない集落に住んでいるイメージはある
世界を牛耳る巨大なエルフ民族(エルフは「民族」なのか?)単一国家ってイメージよりかは森の人ってイメージがある
『ダンジョン飯』のエルフはそこそこ牛耳ってないか?→少なくとも繁殖力でトールマンに劣る
そういえば『指輪物語』は詳しく知らないのだが、あれのエルフはどんな設定なのか
だめだ、『指輪物語』に限らずエルフの文化史について調べると時間がいくらあっても足りない
読みたい本は無数にあるので沼にはまりそうなテーマは慎重に避けなければならない
少なくともヨーロッパの伝承のエルフと『指輪物語』のエルフと最近のエンタメ作品のエルフとはそれぞれ別で調べないとごっちゃになってダメそう
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だいたい普通の人間とエルフは混血可能って設定が不思議なんだよなあ
何かの作品ではハーフエルフは生殖能力を持たないって設定だったな……
ファンタジー世界の作中で現代的な分類学が存在するかどうかはかなり怪しい
作中でクジラは魚の仲間であるという認識がされていたって不思議ではなく、だとするならエルフと人間の分類だってどのくらいの信頼ができるか……
しかし少なくとも『葬送のフリーレン』だととある魔族がサメとシャチの骨格標本を見ながら「魚類」「哺乳類」「収斂進化」という言葉を使っていた
であれば作中で魔族が人間とエルフの違いを分類学的に調べていたとしても不思議ではない
魔法が出てくるファンタジーなのに人物の思考はかなーり科学的なんだよなあ
→いや、とある魔族はシャチを魚と認識していた それを別の魔族が「哺乳類である」と正した 分類学の概念を持つ魔族はイレギュラー?
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真面目に考えるのであれば、そもそも「繁殖能力が高い/低いとはどのようなことか」について定義しないといけないのだろう
でもこれは気になったことをメモする日記なので面倒くさそうな部分はファジーにしておく
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長寿ってわけでもないだろう
しかしエルフの数が少ない理由を考察するのに参考にはなる事例かもしれない
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「現実世界にだって出生率が2未満の国はあるじゃん?人類だって緩やかに絶滅している最中なんだよ よって長寿だけど生殖能力が低い生物とは人間に他ならない」
私の心の中の魔よ、退散せよ
私はそんな話をしたいわけじゃないんだよ
エンタメ作品の話に乗じて社会問題について語ろうとしないでくれ
エルフの「長寿だが生殖能力が低い」というのは生得的ではなく、社会構造など外的要因に起因する後天的なものなのでは?という話か
その呼び名の由来が気になる
気軽に口にするには突飛すぎる言葉だ
とりあえずWikipedia見ましょうかね
なんかカッコつきのURLだとうまく貼りつけられないな 曖昧さ回避ページを暫定でメモしておこう
ウッドワードとバーンスタインは、事件の情報源となったホワイトハウスの内部深くを知る匿名の密告者を「ディープ・バックグラウンド」という仮名で呼んでいたが、事件が起こった1972年1月に公開され、大ヒットしたポルノ映画『ディープ・スロート』から、当時の『ワシントン・ポスト』編集局次長ハワード・サイモン(英語版)が、冗談を込めてこの呼び名を使うようになった。
なるほど
いや、なるほどじゃない
匿名の密告者を「ディープ・バックグラウンド」という仮名で呼んでいた→当時大ヒットしていたポルノ映画『ディープ・スロート』にちなんでそう呼ぶようになった
飛躍してると思う どんな悪ノリだ
『ディープ・スロート』の映画の内容がウォーターゲート事件に少しでも関係あるのか?
内容は、喉の奥に陰核がある[1]という設定の女性が登場する、ディープスロートをテーマにしたポルノ作品である[2][3]。
内容が関係ないならディープって単語が同じってだけでそう呼んだのか
まずそもそも1970年ごろのアメリカはポルノ映画の話題を大っぴらに喋っていい時代だったということか 時代の違いを感じる
アホな仮定だが、当時のアメリカでディープインパクトって競走馬がめちゃくちゃ強くて話題になっていたらディープ・スロートはディープインパクトと呼ばれていたかもしれないレベル
メモ:ウォーターゲート事件について書かれた本は山ほどあるはずなのでどれか読む、質問内容が明確なので図書館のリファレンスサービスを使ってもよい 「ウォーターゲート事件の内部告発者はディープ・スロートと呼ばれているが、その呼び名はポルノ映画のタイトルが由来らしい。なぜそのポルノ映画のタイトルが由来となったのか?」
メモ:ポルノ映画『ディープ・スロート』の内容についてもう少し詳しく調べる(優先度低)
やや別件だが、ポルノ映画の歴史について調べるのも面白そうだな
ポルノ映画の文化史、みたいな本は絶対あるはず…… そして日本とアメリカでそれぞれ別の発展を遂げた予感がある
案外そちらの角度から見ないと、どういうノリでディープ・スロートと呼んだか空気感を掴めない恐れがある
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もしも北岳の標高が富士山よりも高かったら日本文化はどのようになっただろうとIFを空想する
その世界では北岳みたいなシンプルすぎる名称ではない名前で呼ばれているのだろう
南アルプスの北岳だけが飛びぬけて高いわけじゃないだろうから赤石山脈の山の標高が全体的に高くなった世界なのだろう
少しは減じるかもしれない、でも大きくは減じないだろう
その国の最高峰じゃない別の山の方が人気の国、探せばある気がする
ところで北岳の標高が富士山より高くなると3193m→3776m↑になってだいたい600m高くなるわけだが
見えなかったら結局測量がしっかり為されるまで富士山がポピュラーだよなあ
あー、台湾が日本領だったころはニイタカヤマが最高峰だったのか
富士山が最高峰じゃなくなった……と悲しい気分になった当時の人の記録が残っているかも
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どうやら実在しないようだぞと人々の考えが変わったのはいつ頃の出来事なのだろう
これらは大昔は実在していると信じられていたはずだと思うのだけど
これを調べようと思ってもなかなかいいGoogle検索キーワードが思いつかない
もちろん伝説の生き物それぞれでその時期は異なるだろうけれど
例えばユニコーン、イッカクやセイウチの牙がユニコーンの角として売られていた時代
獲る側売る側はともかくとして、買う側はユニコーンの実在を信じて買っていたはず
江戸時代にイッカクの牙がユニコーンの角として輸入されたとWikipediaにある
じゃあだいたい1600~1900くらい……ちょっと期間が広いが
世界がだいたい探索されたくらいで人々の考えが変わったのかな~と予想していろいろぐぐっている
世界が探索されたANDその結果を人々が広く知ることが出来る時代……
現代のツチノコくらいの温度感で「多分いないけどひょっとしたらいるかもね」なのか
「前人未到の地にはきっといる」「遠き異国にはきっといる」くらいの温度感なのか
「昔はいたけど今は数が減って見なくなったらしい」くらいの温度感なのか
こういう「当時の市井の人々がどう思っていたか」って調べるの難しいなあ
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昔の動物図鑑的な文献にユニコーンなど伝説の生き物の記述があるかもしれない
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以下の本を読む
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』amazonに在庫あり、近隣の図書館に蔵書あり/20231128時点貸出中
『ヴィジュアル版 一角獣の文化史百科』amazonに在庫なし、近隣の図書館に蔵書なし、近隣の紀伊国屋書店に在庫僅少
amazonのプレビューで見れる範囲を見る限り、昔の人々がどのように幻想生物を認識していたかが書かれているかもしれないと少し期待できる
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メモ:関連して「昔は虹が生き物だと認識されていた」についても調べる
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メモ:関連して「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」についても調べる
おそらくそうではない 勘
言い換えると「昔の人は月を何だと思っていたのか」
昔の日記に同様の疑問を書いたまま調べるのを忘れてしまっていた
いい機会なのでまとめて調べよう
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素晴らしい本だ、少なくともユニコーンについて疑問が氷解した
なかなか味わい深い回答が得られたので転載。わかるやつだけ笑ってくれ。
『蓬莱学園の冒険!』は、日本のライトノベル作品で、作者は竹井10日(たけいとおる)氏です。同作は、学園を舞台にしたファンタジーアドベンチャー作品で、主人公の蓬莱透(ほうらい とおる)が、蓬莱学園で起こる謎の事件を解決するために、クラスメイトとともに冒険を繰り広げる物語です。
物語は、現代の日本を舞台に、妖怪や神話の世界が現れるという設定で展開されます。主人公の蓬莱透は、謎の力を持つ「異端能力者」として、蓬莱学園に入学します。そこで彼は、異能力を持つクラスメイトたちと出会い、謎めいた事件を解決するために、共に戦いを挑みます。物語は、ミステリー要素やコメディー要素も含んでおり、読者を飽きさせません。
『蓬莱学園の冒険!』は、竹井10日氏が手がけるライトノベル作品の中でも人気の高い作品の一つで、アニメ化や漫画化もされ、広く愛されています。
作者だれだよw
中身の方は、もしかするとそういうのもあったのかもしれないので一概に否定はできないが
普通そうじゃないよな?
「鋼鉄の虹」は、1995年に遊演体が主催したオンラインゲームの一つです。当時はまだ一般的ではなかったインターネットを利用したゲームとして、話題を呼びました。
「鋼鉄の虹」は、プレイヤーがパイロットとなり、ロボット兵器「デスターロボ」を操り、仲間とともに敵と戦うという内容でした。プレイヤーは、自分のロボットに武器や装甲をカスタマイズすることができ、戦いを有利に進めるためには、戦術や協力プレイも重要でした。
当時のインターネット接続環境は、現在のように高速かつ安定しておらず、プレイヤー同士の通信が遅延することがよくありました。しかし、「鋼鉄の虹」は、多くのプレイヤーがオンラインで同時にプレイすることができるという革新的な試みであり、オンラインゲームの先駆け的存在として、現在のオンラインゲームの発展に大きな影響を与えたとされています。
「ゲームの歴史」並みに突っ込みどころしかない。なんだデスターロボって。
「鋼鉄の虹」は、1995年に遊演体(ゆうえんたい)というインターネットサービスプロバイダーが主催した、日本初の大規模ネットワークゲームイベントです。当時は、インターネットが普及しておらず、モデムを使って電話回線を介して接続するという、現在とは異なる環境で行われました。
「鋼鉄の虹」は、約3,000人のプレイヤーが参加した、リアルタイムで行われるオンラインゲームで、プレイヤーたちは自分が所属する国を代表して、仮想空間上で互いに戦ったり、情報を収集して自国の発展を促したりすることが目的でした。また、当時の日本のインターネット界隈では、まだオンラインゲームというものが珍しかったこともあり、多くの人々の注目を集めました。
「鋼鉄の虹」は、参加者たちの熱意や情熱によって盛り上がり、その後も遊演体主催のネットワークゲームイベントが数多く開催されるきっかけとなりました。現在では、オンラインゲームは一般的なものとなっていますが、当時の日本のインターネット文化を象徴する出来事の一つとして、記憶されています。
日本最初のオンラインゲーなのか。遊演体はインターット文化史上のエポックだったらしい。
オタク文化の大衆化にすごくがっかりした anond:20221228200137
という増田、250ブコメを越えてようやく過去の増田の再投稿だと指摘される
nonameotaku 2019年1月11日に全く同じ増田が投稿されている https://anond.hatelabo.jp/20190111203922 オタク 増田
2022/12/29
[B! オタク] オタク文化の大衆化に少しだけがっかりした話 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20190111203922
[B! オタク] オタク文化の大衆化にすごくがっかりした https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221228200137
この2つのブクマを並べてみるとわかるのだが、同じメンツが全く同じ内容(タイトルだけ若干違う)の増田に食いつき、議論し、さらには同じことを新しいアイデアのように書いていたりする
結局ブクマには、最早オタク気質の人間は残っていないということなのだろうか
sds-page 少数の作品で満足しないで常に色々な作品に触れて知見を広げようとする姿の方がオタク的ともいえる 増田オタク考え方
2019/01/12
sds-page 色んな作品を見て「この作品はこの作品の影響を受けてる」って語る歴史文化史的な楽しみ方するのもオタクなんでないの。専門書読み漁るタイプの歴史物の楽しみ方と一緒やぞ 増田オタクコンテンツ考え方
2022/12/29
mutinomuti “オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した” 文芸部とか普通にあった同時代人としてはそんなことない学校もあったよて言いたい(´・_・`)普通に生徒会兼務とか吹奏楽部兼務とかめっちゃしてたし
2019/01/12
mutinomuti “昭和生まれのオタクだ。 私の学生時代、オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した”少なくとも近い世代の自分の界隈はそうでなかったので、この言説に共感できない(´・_・`)
2022/12/29
anmin7 石の下に帰ろう。
2019/01/12
anmin7 めちゃわかる。オタク文化が嫌な掘り下げ型の人がいま迫害されてるんだろうな、って思うわ。迫害を楽しみにするタイプもまたいつだって人類にいるからね。
2022/12/29
algot 中二、コミュ障、ヘンタイをオタクというワードでオブラートに包めた時代が終わった感じ。
2019/01/12
algot “ひとつの漫画に対して熱は何年も続いた” つまり自分もその何年の後は別の漫画に興味が移ったわけじゃん?その時同好の士は増田にガッカリしたんじゃない?
2022/12/29
mujisoshina その場に応じて皆と共有できる話題を使い分けているだけじゃないかな。昔は話題を使い分けることのできない空気を読めない者こそがオタクとよばれていたんだけど、今は普通に空気を読める人も漫画やアニメの話をする
2019/01/12
mujisoshina 他の人と合う部分はSNSで語り、合わない部分は自分だけで楽しむので良いんじゃないかな。オタクの交流なんてそんなものだろう。趣味は一つで無くて良いんだし、他の人だってSNSでは語らない趣味も持っているんだよ。
2022/12/29
toraba アニメオタクではないけど好きなアニメ作品はあるので同じ作品を長く楽しんでる、漫画はジャンルとして好きだから色んな作品をある意味消費するように読んでる(勿論長く楽しんでる作品もある)
2019/01/12
toraba オタキング「オタク第一世代は貴族主義、オタク第二世代はエリート主義、しかしオタク第三世代は教養的に学んでいこうという勤勉さがなく、世間に白い目を向けられる者たちが持つ連帯感と寛容さがない」
2022/12/29
atoh どうやったら世間の情報をこれほど遮断できるのか。海洋堂の宮脇センムが最近はオタクの意味合いが変わったとインタビューに答えたのが2010年の事。https://diamond.jp/articles/-/9427?page=5 増田オタク
2019/01/12
atoh 今まで気づかなかったのか。海洋堂・宮脇センムがオタクの変わりように言及したの10年以上前やぞ。https://diamond.jp/articles/-/9427 増田オタク
2022/12/29
myogab ナニをイマサラ
2019/01/12
myogab オタク黎明期でも「オタク」てのはそんなもんで、増田の言うそれは「マニア」だったかと。 追憶
2022/12/29
sakuragani オタク的なものに興味があろうがなかろうが結局コミュ障はコミュ障だしリア充はリア充だ。もはやオタク的なものがコミュ障のアジールでなくなった以上、そこは割り切っとかないといろいろつらいんじゃない?
2019/01/12
sakuragani 嗜好対象とは関係なく「掘り下げ型」の気質を考えたら繋がる手段が増えたところでって感じではある。一方でオタク趣味の極北などと称されるTRPG界隈にいる身からすると10年で繋がるための環境は劇的に改善してるなとも
2022/12/29
p_shirokuma 「姿勢としてのオタク気質」ってやつのようにもみえるが、実はそうでない話のようにもみえる。 オタク趣味
2019/01/12
p_shirokuma 「最近になってSNSを使ってオタク活動を始めた。同好の士と繋がっていくと中・高生とも話す機会が増えた。今までオタク趣味をオープンに話す機会もなかったので純粋に嬉しかった。」←なんかすげえな。浦島太郎か。 オタク趣味
2022/12/29
kagerou_ts 増田は深堀りするタイプのオタクだからそのままの自分で生きてほしい。
2019/01/12
kagerou_ts 昔は生存バイアス的にガチ勢しかいきのこってなかったのではという気も。単純に楽しめる人が多くなっていいじゃんって思うよ/「今期はこれ」みたいな移り変わり、昔からあったような気もするし
2022/12/29
cl-gaku ナイステキスト/作品のオタクではないが業界のオタクではあると思う。視線の先が少し違う
2019/01/12
2022/12/29
gcyn 『コンテンツが一般化しただけでオタクが増えたわけではなかった。そして皆が皆自分はオタクだと叫んでいる中、オタク気質な同好の士を探すのも以前と変わらず難しい』
2019/01/12
gcyn 「萌え」の語の発生と一般化の以前と以後で、それ以前からあったものも書き直されて「オタク」もまた書き直されたのかも。そういう意味では「私は萌え以前のオタクだから」の矜持で楽しく…や、以後もまた楽しいか。
2022/12/29
technocutzero それオタじゃなくてただのアニメ好き オタは多大な代償を払うことでしかなることができない哀しきモンスター
2019/01/12
technocutzero もうそういう意味でのオタクは10年以上前に終わっている 終わったから日の光の下に出てきたんだよ でもそれは本当の意味での知見があれば聞いてくれる人も多くなったってことでもある
2022/12/29
memoryalpha 昔その層のために作った商品を買ってるのはオタクではなくお客だと官給品コレクターが言ってました(´・ω・`)
2019/01/12
memoryalpha ただの漫画アニメ好きの人までオタクと呼ぶ風潮のせいでは。大衆化もあるが漫画アニメ限定でオタク定義要件が緩和されてる。増田と同類ではないのだ。ラーメン好きな人をラーメンオタクとは呼ばんだろう(´・ω・`)
2022/12/29
sysjojo 増田はアレフガルドに入るくらいからがオタクだと思ってるみたいだけど、今はダーマの神殿についたくらいでオタクなだけだから。大丈夫。メルキドで待ってればそのうちたどり着く人もいるから。(迷い込む?)
2019/01/12
sysjojo カジュアルオタクとヲタとおたくは似て非なるもの。
2022/12/29
neko2bo 日々色々知りたくもあるし。一つを深掘りもしたいし。全てを楽しみ尽くしたい欲求はありますが、時間もお金も足りません。
2019/01/12
neko2bo 愛好するコンテンツ次第で孤立したり中傷を受けたりする。そんな理不尽な危険性が減った。それがどれだけ素晴らしい事なのか。自分は嬉しくてしようがない。 オタク コンテンツ
2022/12/29
cinefuk 昭和の頃は「ミーハー」と呼ばれていた層が、現代の(マネタイズの対象としての)「オタク」になったと捉えれば、おじさん世代も納得すると思う オタク 増田 80年代
2019/01/12
cinefuk 昭和オタク用語でいうところの「ミーハー」が支配的になった世界だからね。でも、昭和でも似たようなものだったのでは?アニメ雑誌のグラビアを切り抜いて下敷きに挟んでいれば「アニメファン」だったでしょう? オタク80年代増田
2022/12/29
citron_908 オタ文化とオタ体質は似て非なるものだと 増田
2019/01/12
citron_908 オタクとは知識ではなく生き方である 増田オタク
2022/12/29
たとえばXvideosで黒人が超でかいチンポをまっすぐおっ立てているの見ると感動するじゃないですか。
セックス中にプロレスの投げ技みたいにグルっと体位を切り替えてるのを見たら心が揺れ動くのは当たり前ですよね?
そこからの延長で「究極のチンポ」をいつかみたいなと考えてるんですよ。
そういえば美乳って概念はあるのに美根という概念はないですよね。
これがどうしてなのかって、日本が修正主義の国だからなんじゃないかなって。
とりあえずなんでも修正してしまうから、皆銭湯でたまにチラっと目に入るアマチュアのどうでもいいチンポと自分のチンポしか知らずに過ごす。
そもそも日本人ってチンコ自体が小さいからまず「大きい」かどうかばかり気にしてしまう。
次はカリ高かどうか。
そもそもオナニーばかりしてるので皆チンコがグニャグニャに曲がっているんですよね。
とはいえグニャグニャチンポ自体はセックスにおいて不利というわけでもなくいい感じに相手の中でうねる効果を生み出せます。
もしもフランベルジュのような機能美を研ぎ澄ませたグニャグニャチンポだったら、それは単なる直剣チンポに勝るのではないでしょうか。
こういった話をすると「お前、ホモなの?」と言われてしまうんですよね日本という国は。
悲しいことにこの国には「チンポに美しさを見出す」という文化が育っていないように思えます。
エロを肯定するはずの性消費業界においても、チンポは醜いものとして扱う「チン嗅ぎ」などの性癖がメジャーとなる始末です。
でも違うと思うんですよ。
ローマの彫刻家がチンポを包茎で描いたのは勃起したチンポの醜さを避けたからではなく、高◯クリニックに毒された日本では下に見られがちな包茎チンポにさえも美を見出したからだと考えられませんか。
逞しい筋肉と反比例するかのような控えめなチンポに、鞘に納められた日本刀のような堂々とした佇まいを感じたからこそ文化史になだたる人々は包茎チンポを衣服によって隠すのではなく描くことを選んできたのです。
分かりますか?
チンポの美しさを決めるのは大きさではない。
この貧しい国の中で、僕はどうやって「完璧なるチンポ」を見つければ良いのでしょうか?
英語を覚えれば良い。
そのとおりですね。