はてなキーワード: トラクターとは
みんな旅行とか行ったのかな。
積ん読してた本が2、3冊消費されたところでたまらなくなってエッセイ紛いのものが出来上がったので、どこに書くにも場所がないのでこちらに。
運良く窓際の席を取れたが、ゴールデンウィーク、しかも異例の10連休である故か通路には立っている人が端から端まで広がっている。自由席だからなのだろうが。
当日に特急券を購入するという考えが甘かったと悟ったのははるばる新潟駅に到着したその時である。慌てて自由席のチケットを購入し、1時間も前からホームに並んで電車が到着するのを今か今かと待っていた甲斐があり、無事に窓際で座り込んで駅弁を食べる贅沢をする権利を得た。
窓の外には平野の田園風景が広がっている。その遥か向こうにそびえる奥羽山脈の頂には、5月にもなろうかというのに相変わらず雪が降り積もり白く輝いていた。
奥羽山脈は手前の山に阻まれ隠れ、そしてまた姿を見せる。手前の山には仄かに淡い白さが点在している。どうやらあれは山桜のようだ。
そう、窓際の席とは山側なのだった。
初夏の日本海の底知れぬ青黒い美しさはえもいわれぬ郷愁が湧くが、遠く高くそびえる山脈の頂上の銀色もまたノスタルジーである。
列車が北に向かえば線路は海に近くなっていき、奥羽山脈は遠く離れて行く。その遥か向こうに見える頂に銀色が輝いていればいるほど、胸の奥が詰まってたまらない心持ちにさせられるのだ。あの山の上から下に降りてくればきっと緑が増えるのだろうが、初夏になろうとしている時季に尚白く輝く凛とした佇まいが胸を打つ。これを横目に眺めながら移動するとはなんとも美しい初夏の電車の旅である。
新潟らしく広く大きな田んぼの中ではトラクターが動いている。ちらほらと水が張られた田んぼも見られ、秋になればここ一帯は美しい金色の広がる風景が見られるに違いない。
さて、新潟平野の自然の豊かさ美しさは想像するに難くない。今回は駅弁をただただ食べている1人の女の話である。
そもそもの旅の出発点は京都なのだが、本日の始まりは富山からだった。富山発、始発の電車に揺られて向かったのは直江津である。つまりは日本海側を延々と北上していくのが今回の旅の目的なのだ。というか、それだけである。日本海側を北上して秋田に向かうのを目的とした旅だった。どこに書くにも宛がないし、需要もなにもあったものでないからこうしてつらつら散文を書き連ねている。
富山駅前に24時間経営または早朝から開いているお寿司屋さんなんかがあればおそらく私はそこに直行しお寿司を朝からとはいえお腹いっぱいいただいていたと思う。しかし富山駅前には何もない。朝5時から、もしくは6時から…更に粘って7時なんかにも開いている店、更にいうならば寿司屋なんて存在しない。7時台から開くのはチェーン店かモーニングをやっている喫茶店か何かだけである。そして元気に営業していたのは24時間営業の吉野家のみであった。
その時点で私は富山で味わう海の幸の幻想を頭の中から叩き出した。白えびの軍艦に唐揚げ、新鮮な蛍烏賊の踊り食いや辛子味噌和え、ずわいがにや幻魚、その他内陸では食べられないお魚などなどである。食べたかった。
しかしそうも言っていられない。猶予はあまり無いのだ。今日中に秋田のその先まで着かなくてはならない。家族と合流する予定がある。そのためにただ日本海を傍目に北上しているのだ。
あいの風とやま鉄道に揺られて泊駅に着けば、1時間近くの待機時間の後に直江津行きが発車する。その頃には7時も回っており、ワンマン運行の1両のみの車内には案外人がいた。
さて直江津に着くまでに私がしていたことといえば、ただ海を眺めることだった。
日本海は海が近い。個人的な感覚だがみんなそう思うのだろうか。太平洋側の事はあまり詳しく無いが、日本海の海は近く深くあるような気がする。その黒く光る朝の海の美しさと言ったら!まるで海の表面にも溢れそうに青魚の群れが泳いでいるかのように、白く立った波が時々日光を浴びて生き物のように揺れている。青さの深い、銀と灰色と藍と黒が混ざったような深い深い海色は、海から随分と離れた所に行ってしまった私の目にも優しく映った。遠く沖には白い漁船が横切って行った。すわ喘ぎそうになる郷愁を感じる。胸の奥に響いて打ち震えるかのような懐かしさと海への憧れが込み上がっては目の奥がじいんと熱くなった。
電車の揺れが心地よくてどうやら眠っていたらしい。これは最近しばらく満足に寝られていないせいだろう。気がついたら直江津駅に着いていて、次の電車が出るまであと1時間の間があった。
大正時代の立ち売り衣装に身を包んだおじさまがいるということをきちんと事前に調べておいた。スマホでなんでも調べられるとは便利な世の中になったものだ。
到着するのが9時前でなくお昼時だったなら今度こそ寿司を食べに行っていたが、時間がないのでそうも言っていられない。
電車好きの皆々様が声高らかに宣言するように、私ももれなくそうだと頷くことにしている。車窓から見える景色も楽しいものだが、そこにご当地の駅弁が加われば怖いもの無しであるし何よりお腹いっぱいになって幸せになる。
朝ご飯代わりに駅弁を購入する事を楽しみに直江津駅に降り立った。
改札口に向かうと、出る直前の部分にこじんまりとしたささやかな売り場がある。まあ何がどうなっているかは気になった人が各自で調べればいいので詳しくは書かない。
しばらく待ってもおじさまが来ないのでどうしようとウンウン首をひねっていたら、親切な黄色ジャンパーの方が声をかけてくれる。同じ会社の人のようで連絡を取ってくれた。すぐに戻ってくるそうだ。どうやら弁当が残り少なくなってきたから補充をしに行っていたらしい。
いただいたのは鱈づくし弁当である。しかし、戻ってきた駅弁売りのおじさまが持ってきた物の中にさらに目を惹く物が存在した。上越名物(?)スルメの天ぷらだった。本当にこれが名物なのかもわからないがとにかく美味しそうなので購入してしまった。繰り返すようだが朝9時前である。少しというか結構重たいラインナップなんじゃないか?との一抹の不安と、大人になった事によって気になったものをパッと買える喜びで押し挟まれながらわくわくと胸を躍らせた。
味や中身の紹介は調べればいくらでも出てくるので割愛するが、鱈づくしの弁当は珍しいものだし鱈子も入っていて味も良い。スイスイ食べれてしまう。しかもスルメの天ぷら、これが1番の食わせ者だった。とにかく美味しい。お酒飲みたい。これを文字通り酒の肴にすればいくらでも日本酒が進むこと間違いない。移動距離が長いため朝の脳内では流石に自重してしまったのだが、どうせ移動中に転寝するならお酒を嗜むのを選択するのが大人の行動だったと今になって反省している。今度こそは間違わず躊躇わずに酒を購入する事をここに誓います。
流れる景色を眺めながら食べる駅弁の味わいの乙な事と言ったら!と満足ながらもやっぱり少し重たかった。行儀が悪いのは重々承知で半分残し、今度はお昼ご飯にするためにとっておいた。
今が秋ならば目の前一面に稲穂の海が広がっているだろう。田園風景の美しさとは未来が楽しみなことにもあるかもしれない。
点在する民家の遥か向こうに山々がそびえている。その更に向こうに相変わらず悠然と存在する白い山脈の頂きを眺めながら駅弁の蓋を開けるこの瞬間の静かな興奮である。
美しい景色を眺めながら、その土地の食べ物をいただき、更に移動までさせてくれる。電車の旅でなければ味わえない幸福な感覚に1人で酔いしれながら最後まで食べきったが、終わってしまうのも少し物哀しい。
ここが機内食やなんかと違う所なのである。駅弁は去り際に満足感と一緒に微かな残り香を置いていく。決して美味しい匂いが残るわけではない。なんだか少し物足りないような、それでいて胸がいっぱいになるような、この土地に少し近づけたような、微かな証を残していく。
反対の窓の向こうには日本海が近づいてきていた。人と人の隙間からちらちらと光る海が見える。
おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間がフレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。
イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える
元々の話は、人間が動物をねじ曲げてしまったことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。
余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。
キュルルが、イエイヌの孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。
私なら、最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います。
サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。
あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。
念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。
通常、作品における伏線・回収は、プロット上重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧な説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。
他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。
続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います。現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思います。けもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います。
その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶のケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。
キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。ベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばんちゃんがミライのフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。
ワカバの場合、ワカバとリンの関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか、姉妹達とはなんだったのか、という、キャラの動機と起源、世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。
そして「”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体は簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品が面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。
細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者の視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出・脚本が失敗しているわけです。
「初見ではわからないかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要なポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
以下の記事を受けて。
「けものフレンズ2」9話は過去最高に”優しすぎる世界”だった。 - けものつれづれ
https://ironyart.hatenablog.com/entry/2019/03/14/090915
3%のフレンズが愉快犯ではなく実在していたことに驚きつつ、その感想視点がイエイヌの扱いという一面からでしかなかったので、より多方面にわたる、わたしの9話に対するツッコミを書き記したいと思います。
いつ壊れたの?何が起きたの?ピエール瀧がやってきて壊してくれたの?2話でも同じ過ちを犯してたよね?
最初からそうしろよwww・・・という当然のツッコミに、どうあらがおうというのか。
「キュルルー!」とか言ってる時点で見えてるだろ。遠目に発見しろよ。足元だったらせめて「あっ!」って言ってから見つけろ。
もうちょっと遅さを強調するカメラアングルと「間」を入れてから言わせたほうがおもしろかったのでは。
なんで「イエイヌ」って直接言わないのか、恐そうに紹介しちゃうのか、さらにはこれまで暴力的な手段も辞さなかったのか。せめて「視聴者のドキドキを高めるため」以外の、あとですっきり納得できる理由を用意しておくのが脚本の仕事では?
ご主人様をけなげに待つイエイヌとしては、強そうなオッドな黒縁おめめは合わないのでは?このデザインのイエイヌがアプリ時代からいたのだとしたら、この外観のキャラにこのエピソードがそぐわないのでは?
唐突やろ・・・。手に取ってすぐ退場しちゃうから余計視聴者が置いてけぼりになる。せめてその場ですぐ開けて食べてくれ。
天真爛漫なサーバルちゃんの割に、わかりやすいきっかけや手がかりもなしに、深い推測が走りすぎてない・・・?
電池アイコンにバッテンとかならまだ「お子様」視聴者にもわかりやすかったのでは・・・?お子様を無視するにしても、オトナ目線からもそもそもユニバーサルデザインにしとけよと思う。
遅い。でも食べるシーンがあって本当によかった。唐突なものを登場させたら、すぐ説明!
センちゃんたちは、なんで意味もなく敵対的なんですかね・・・?自分たちにも依頼主にも悪気はないのに、敵対する意味なくない・・・?
かわいい(´ω`)
「口にくわえて持ってくるのは不自然だから・・・かな・・・違和感あるけど・・・まあしょうがないのかな・・・」と、いうような妥協感を読者に与えないような工夫はできなかったのかな?
個人的には「カラカルは小学生の道徳教材に出てくるような(後に改心する)子なんだ」と理解したけど、顧客が求めていたものとは違うよね。そこは善意に解釈すれば、監督は承知の上のようだけど。
「ボクのほうこそ心配かけこそごめんね」だろそこは。しかももっと早いタイミングで。このあたり、とにかく登場人物たちの感情の流れがめちゃくちゃ。誰にも感情移入できない。
完全に道徳教材やNHK教育のちびっ子番組の流れ。でもな、オレらが求めているものとは違うんだ。
大胆すぎない?そういう提案はもうちょっと状況を飲み込んでからにしたら・・・?
いや、そういう優しさ持ってるなら、カラカルの話をもっと聞いてあげなよ・・・
イエイヌのセリフとの繋がりがご都合過ぎてひどい。「中にはその逆もいますけど」まではもっと普通のテンションで話した上で、遠吠えを聞いてから「あっ、噂をすれば!」と驚くべき。
侵入してくるんじゃないかと心配する視聴者をよそに平然としている。だったらもっともっと遠くの方で聞こえる程度の遠吠えにしてほしかった。
近くにいるならサーバルたちにも聞こえるやろ。サーバルに聞こえてないなら、少なくともいま家を出ちゃうキュルルのほうが危険やろ。せめてそういう疑問や不安について納得できる材料を視聴者にくれよ。せめて、遠吠えが複数回聞こえた上で、「サーバルたちが歩いて行った方向に移動しているようだ!」とか。そして、(とっても強いという話の)イエイヌをいっしょに来るように連れ出す、とか。
BGMも相まって、直前の緊張感がいったん解きほぐれてしまう。このシーンは、遠吠えよりも前に挟むべきだったのでは?
いや、善意に解釈すれば、サーバルが「カラカルがキュルルと仲直りするきっかけはないかなぁ・・・」と考えていたら思い出したと解釈できるけど、単純にトラクターまでたどり着いてから目で見て発見するほうが自然じゃろ?意味のない不自然さは罪やぞ。
イエイヌ擁護派多いけどワイはこのセリフは許さんよ。そして「キュルルの身の安全のために、敢えて思ってもないことを言っただけ」という擁護は通じない。逆に、そこまで言わせるなら、もっともっとせっぱ詰まった極限状況まで緊迫感を作っておかないとダメだ。
もっと警告らしい音出せ。
一撃でダメージ受けすぎやろ・・・。あそこまでボロボロにするならもっと格闘させろ。作画がしんどいならせめて「激しい格闘の末に・・・」と伝わるシーンを挟め。
あのさあ・・・。これまでのシリアス感はなんだったわけ?コミカルにしたいの?まさかずっとコミカルのつもりだったの?
強敵感の無さよ。ゴリラなどの精鋭揃いだった5話でもみんなで逃げ出したビーストなのに、カラカルとサーバルだけであっさり追い払えるの?少なくともセルリアンよりはるかに強い、ひょっとするとラスボス級かもという認識だったけど、今後ビーストの怖さをどう捉えたらいいの?
さっき起きてたやん。倒すなら倒れるシーン挟めよ。
急すぎる。子供はもちろんふつうのオトナでも共感が追いつかない。(高尚な3%のオトナにしか刺さらない)
イエイヌちゃんのこれからが不憫すぎない・・・?せめて、せめて、イエイヌの心情変化やキュルル側の心情ももっと描いてあげて、「心にしみる別れ」をもっともっと演出してあげないと、急すぎるイエイヌの涙だけじゃ、とても報われない。
冷たすぎる。そりゃ大切なものだし失望するのはわかるけど、届けようとしてくれた善意に対する感謝の気持ちがあれば、そんな第一声は出てこないやろ・・・。ましてそっからギスギスし始めるなんて論外オブザ論外。せめてせめて、語尾や言い回しを少し変えるだけで、コミカルなケンカに仕上げることもできていた気もするが、そうはなっていない。
以上です。
3)
まず念のため。私は特別にエリアを区切ったりといったゾーニングを求めてはいません。
写真にあったラノベで一番扇情的とされた表紙も書店がディスプレイに配慮する以上の必要は感じません。
シュナルムの写真はある書店でレジ横の平済みにたまたま少々扇情的なものが多かっただけだし
アニメの扇情性のある絵が特にキモがられるのは、性的なだけじゃ無く「不気味の谷」も関わっていると思うので。
それにシュナルム自身のツイートにも「(R18のように)売り場を分けろ」や「規制を掛けろ」といった要求は見つかりませんでした
どちらかというと、そういうこと言っていたのは湧いてきた「シュナルム同調派」と、オタク界隈の「自主規制派」でしょう。
私自身がアフター宮崎事件のオタクパッシングや幕張メッセのコミケ拒否を実際に体験してきて、
自主規制しないと潰されるという危機感を植え込まれてる世代ですし、自主規制派の気持ちも分かります。
でもゾーニングはもう今の時代には不要でしょう。のうりんだってコラボは無くなりませんでした。
文脈が読めない人に農業より性的なイメージを与える「唐突で意味不明な」ものだったのがデザイン的に悪かっただけで、
もし良田胡蝶がトラクターに載っていれば、上気してほてった顔も労働のもので健康的に見えたんじゃ無いかと。
ただ、相手が発言も要求していないことを「そのうちエスカレートするかも知れないから」
すでに言ったも同じだとするのは、議論としては「ルール違反」ではありますよね。
それに同調者の発言は同調者のもので分けないと、ネトウヨ(相手からの決めつけレッテル)VSパヨク(〃)のように
お互いに先走るバカの「仲間」だから同罪だと決めつける地獄になりかねないですから。
じゃあシュナルムの主張は正しい認めるのかと言われればそんなことは無く、不当性があると思います。
一番のポイントはみんな言ってますが「性的消費」のフレームを持ち込んで、ラノベ容認する人々を加害者だと決めつけたこと。
そもそも性的消費論自体が詭弁の一種だし、ここだけ叩けばいいんじゃないでしょうか。
まあ、テキトーに読み流してもらえるにはどうしたらいいかな?と考えた場合、「オッサンの雑談」ほどテキトーに聞き流されるものもあるまい、ということで、オッサンの雑談を書くことにした。
もう5年前くらいに田舎のお葬式に出た際、飲み食いの席で、遠い親戚の叔父さん達の雑談を聞いていた。
自分としては特に話すことも無かったし、叔父さん達は話を聞いてもらいたかったようにも見えたので、テキトーに眠そうにしながら彼らの聞いていたのだが、心の中では戦慄していた。
当たり前だが、「叔父さん達」と言っても、それは「血縁上の」という意味であり、他人から見ると、年齢的に「お爺さん」「お婆さん」である訳だが。
別によく増田で書かれているような「人間関係のドロドロ」とかそういう話では無い。
平和そうに話される会話の内容が、どう考えても、「時代が間違っている」訳です。
「お前ら、タイムスリップしてきたのか?」と。
なぜこの話を思い出したかというと、下の記事がはてブにあったからだけどね。
江戸幕府が終わってからまだたったの150年という事実…「進化の速度すごい」「江戸幕府は約260年続いた訳で…」「混乱する」 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1182953
まあ、そうなんですよ。
叔父さん達が若者であった時代は、「トラクター」や「コンバイン」なども無い訳です。
そして、「朝から晩まで働いて、鍬や鋤で畑を開墾した」みたいな話をされる。
島崎藤村の「千曲川(ちくまがわ)のスケッチ」みたいな話をリアルタイムで聞いていると、目眩感を感じる訳です。
学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頰の紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成(かなり)な農家ほどに野菜を作った。燕麦(からすむぎ)なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
(中略)
粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔(まめまき)の労苦を聞いた。地を鋤(す)くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋(わらじ)を穿(は)いて漸(ようや)くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠(こぬか)一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒(ま)くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦(そば)なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
「戦前の農村」と考えると、まあ、似たような時代なんでしょう、工業化も農村までは行き渡らなかったと思いますし、ほとんど江戸時代のようなものですよ。
その一方で、「一歩間違えたら、自分も手作業で畑を開墾していたかも知れないな」と思い、「はわわ」と内心戦慄していた訳です。
さらに、論を展開させると、「実は明治時代に戻りつつあるのかも知れないな」とも思います。
「レールに乗っていれば、無事上がれる」みたいな時代は終わっている訳じゃないですか。
というか、「マスコミの敷いたレールに乗ると、食い物にされ、大抵は地獄に墜ちる」ということでしょうけど。
マスコミが「~に投資しろ」「~の時代が来た」という時点で、搾取のシステムは完了しており、それに乗った人はむしり取られるだけ、的な感じでしょうか。
「だからマスコミが悪い」と言いたい訳でもない(言いたい部分もある)が、構造的に、「すでに先端から一歩遅れた話」をマスコミは報じる訳です。
「自分のリアルタイムのメシの種の秘密」を教える人なんていない訳ですから。
全然関係無い話ですが、「iTunes Storeでの音楽ダウンロード販売を終了」という話がありました。
で、ビジネスの中心をSpotifyやApple Musicなどのストリーミングへと移行する、と。
(さらに関係無い話をすると、「ビットコイン資金洗浄の最新手口はiTunesでの楽曲販売」みたいな話もありましたね)
何が言いたいのかというと、「App Store」でiPhone用の買い取りのゲームなんかも毎度セールをしている訳ですが、240円くらいで世界の才能のあるアーチストの作った美しいゲームが買えたりしますが、一方で、まだ「iTunes Store」では、シングル曲を250円くらいで販売している、もう、値付けが何が的確なのかよく分からない印象があります。
(その一方で、未だにAKB系のシングルCDが1500円くらいで売られている。まあ、「握手券」や「アイテム的価値」というのはあるかも知れないが。またさらに言えば、アイドル系以外の音楽のアーチストが「CDを買ってください」と頭を下げている)
「格差」「格差」と言いますが、「格差」を利用して儲けるのが商売というものだと思います。
現に、上のような矛盾するシステムが共存する訳で、その隙間を狙えば、多少は良い思いが出来るんじゃないでしょうか。
必要なのは、多分、「認識を適切に変化させること」であって、「相手の認識を時代遅れにすること」だと思います。
体制を打倒したいのならば、「体制の認識を時代遅れにすれば良い」訳ですが(体制の認識が時代遅れになれば、江戸幕府のように倒れるんじゃないでしょうか?)、例えば、リベラル系の重鎮の人達は、「自分達が時代遅れになっていることすら気がついていない」気もします。
今の状況を「ピンチ」と見るか、「チャンス」と見るかでかなり人生の見方は変わると思います。
そして、「認識を適切に変化させること」については、多分、日本人が一番アドバンテージがあるんじゃないでしょうか。
現に、アメリカは国がまとまらないほど、容認出来ないほど認識格差は広がっていると思いますし、例えば、最近、地球平面説信者が勢力拡大しているらしいです。
その上で、以下のようなパロディがある。もはや訳の分からない状況にある。
参照:地球の萌え擬人化が海外でブームに! 地球平面説信者の勢力拡大が原因かwwwww
http://yurukuyaru.com/archives/74181806.html
参照:北京から「底辺住民」を追い出す中国の不条理 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9150.php
まあ、こんな分析はどうでも良いんですが、結構安全地帯はないと思いますので、早めに変化の苦しみを味わっておいた方が良いんじゃないでしょうか。
僕はずっと、うどん粉っていう物はウドンを作る専用の粉だと思っていた。
具体的には30数年間。
ウドンゲという植物が存在するのは知っていたので、きっとこれを『饂飩華』とか書いて、この種かなにかから生産されている粉が『うどん粉』なんだろうと。
他の作物と同じようにウドンゲ畑が並んで、ウドンゲ農家では収穫期に忙しくこれを収穫するのだと、架空の映像も確かに脳内にはあったのだ。
ポピーに似た花をトラクターだかなんだかで収穫していく俺の脳内のあのジジイとババアはいったい誰なんだ。
てここまで書いて思ってのだけど、むしろ僕だけが間違えていたことが恥ずかしいので、正解を言わない方がいいのか。
ぼんやり読み飛ばして『うどん粉』はうどんを作る専用の粉で、『ウドンゲ』という植物から生産されると信じる人が増えたら少し楽しい。
世間知らずの都会ツイッターインテリがRTしてるみたいだが、中小零細や農家の車を今すぐAT車に更新する補助金を出してくれるんですかね。軽トラや農業トラクターはAT車への更新はぼちぼちされてますけど、各種トラック・社用車はボロボロのMT車を使い続けるしかないんですね。限定解除すらも自前でできない、MT乗れない使い者にならない人をダサいと馬鹿にする風潮くらい一体何の問題があるんですか。AT車更新への金を出そうとしない都会在住ツイ廃の自称インテリにとってMT免許は趣味に見えるのでしょうね。下の階級を見ようとしない、闘争に発展する想像することもできない、こういう無自覚に地方の中小零細企業や農家を見下すクズが日本社会を分断しているのだなあ。
7万円。
①ネットで調べる
店内も高級仕様ってことらしい。
前にネットで人生辛い、死にたいって相談したら、「高級ソープに行けば人生かわるぞ」とアドバイスをもらい、
2年越しで行ってみた。
②店内~顔見せ
周りは、農家でトラクターでもそうさしてそうな、中年~初老の腹が出たおじさんばかり。
正直、死にたい気持ちだったので、別にプレイとかどうでもいいから、ハイハイ聞いてた。
10分ほどで案内される。
呼ばれて、階段を上ると、片膝ついた姿勢で嬢が待ち受ける。パンチラ
嬢「おトイレいいですか?」
増田「したいです」
③入室~風呂
部屋は、普通のソープよりかは綺麗だけど、そこまで広くもない。
部屋に入り。
嬢もまだ京都から来て5日目。この辺の料理はまだ食べたことない、あそこの料理はおいしかったよトウトウ。
で、服を脱がされて、嬢も服を脱ぐ。
最初のテンプレトーク等から、調子を作ってくれている。一級整備士みたいな嬢だなと思う。
顔は、う~ん、まあブスではないけど。目立たない新入社員みたいな。おっぱいはちょっとあるかな。
顔面偏差値で言うと、53くらい?顔面偏差値50とは言わないけど。
でも、不快感が全く無いという意味では凄い。少しだけ顔からファンデーションの粉が浮いている。
すると、キスをしてこようとする。
と思ったが。自分は昨日、諸事情があり、風呂に入れなかったため、怖くなった。
増田「あ、ごめん、そういうの風呂に入ってからでいいですか?」
嬢「あ、分かったお風呂行こうか」
④体洗い~マット準備
ゼンゼン準備せずに、出勤して、入ったのかなーって感じ。
黙って体を洗われる。やたらアナルを念入りに洗われる。
面白いのが、皿洗い用みたいな、使い捨てのスポンジを使って洗うこと。
普通の大衆ソープは、もうチョイ使い古しの泡立てみたいなのを使うイメージだ。
実は、増田は医者なのだが。患者さんの手術前の前処置で体を使い捨てのスポンジで拭いたりするんだけど。
それと同じレベルだなあと思った。
一通り体をあらい、お風呂へ。
嬢が、キスをし、耳をなめようとする。
耳は洗っていない。
増田「あ、耳は自信ないんで、やめてね」
嬢「わかったー」
なんとか脳内で好きなアイドルを思い浮かべて、いい感じでたった。
増田「じゃあ、せっかくだし、マットで」
嬢「じゃあ準備するねー」
⑤マット
マットを準備しながら、嬢が台湾出身だと言う。
台湾語にはいくつかある。台湾語と日本語と中国語を話せるなどと聞く。
驚いたのが、嬢が、「ルソー」について語った。
驚いて、突っ込んで聞いたが、ちゃんとルソーのことを知っている。
今まで、ソープ嬢やデリ嬢にあまり知的さを感じたことがなかったが。
この子は、『まとも』らしい。
ドストエフスキーの『罪と罰』では、風俗嬢の女の子に聖書を読んでもらって、主人公が感動して、「君の声で読まれる聖書は全然違うね」と言う場面がある。
何たる感動だろうか。
僕は、今まで風俗では、ある意味「教養がない女性」しか抱いたことがなかった。
僕が普段付き合いがあるような『ハイソな人格の女性』からは一生相手されないと思っていた。
しかし、この目の前の風俗嬢は、「僕の感じる人間性の前提となる知性」がハッキリとある。
それを感じ興奮してしまった。
マットについては、まあうまかった。福原の高級ソープや、熊本のブルーシャトー(裏の会員制の芸能人とか行くソープ)で働いていたということで、すごかった。
アナル舐めが、やたら舌を突っ込んでくるというか、加速度をつけてくる感じで、これは体験したことがなかった。
当たり前のように、ナマで入れて、当たり前のように出してしまった。
ブルーシャトーでの「90分で3発が基本、1回2マンで、6人相手して12万円できついのに、全然もらえなかった」みたいな話を流し聞きしていた。
⑥ベッド
ベッドで、美術について話をする
増田「パウルクレーって、子供のころはシュルレアリスムなのに、全然すごくないなって思ってた」
嬢「私も。全然すごいと思わない」
増田「でもさ、疲れた時に、見ると。なるほど、楽に見ることができる楽しみがあるんだなって。童心で見ることができる良さをこの前いきなり理解できたよ」
みたいな。
嬢も、村上隆のカイカイキキの台湾の会社を見たことがあるだとか、そういう話をしてくれた。
高級ソープも、8万くらいの吉原のピカソって店とかは、会社経営とかフリーのカメラマンとか金持ちバカリで、6万くらいだと会社員もくるらしい。8万くらいだと、身長が160後半以上の女の子しか採用されないらしい。モデルっぽい女性と、恋人みたいにトークが中心となるらしい。
話をしながら、僕は怖くなっていた。
25歳の嬢だと言う(もちろんもう少し上かもだが)。僕は20後半。
この嬢に、僕は全てのプレイをされた。僕の体で、この嬢がやっていないプレイは無い。
考えてみれば、今までの嬢には、僕は、『気を使っていた』。
相手の知的レベルに合わせて、会話しており。相手をコントロールして、プレイを『やってもらっていた』。
僕にはもうコントロールしてやってほしいことは無い。しかし、嬢はまだまだ色々やってくれるんだろう。
それが怖かった。自分の底を晒終えて、もう何もない。食われるなと。
こんな、1回7万もするようなものに、ハマってしまったら、怖いなと。
嬢がフェラして、くる。
僕は驚いたフリをして、嬢が、「高級店なら3回は当たり前だよー」。
僕はベッドに座って、嬢は床にひざまずいている。
このプレイは予想しておらず、また支配欲がそそられる。素晴らしいものだ。
嬢「え?え?ありがとー」
嬢「そうだよーw」
それで、ベットに嬢が寝て、僕が上に。
欲望のままにしていいよとのこと。
僕は、分からないと言い。嬢に教えを請うた。自分の本能を出すのが嫌というか、死にたい気持ちが強まっていた。
嬢におっぱい舐めろと言われて、舐めている。しばらく舐めると、チンチンもしょぼしょぼ。
嬢 「なんか、緊張してるのかな、マッサージしてあげる」
で、残りの30分くらいマッサージ。
⑦アフター~さよなら
マッサージが終わり
嬢 「ねえ、楽しんでくれた?なんか、悪いなーって」と言いながら、服を着せてくれる嬢。
増田 「うん、メッチャ楽しかった。あのさ、僕、死にたいとかネットで相談したら、高級ソープ行けって言われて。で来てみたんだけど。僕、台湾ハーフの女の子を抱けて。で、僕、美術系の女性が好きでさ。てか芸術とかに憧れがものすごく強くて、そんで、そういう人に中出しできたのがすごくうれしい。自分の劣等遺伝子を受け入れてもらえたのがうれしい」
嬢 「えー?そう。確かに、中年くらいだと、『妊娠してー』っていうと喜んでくれる人が多いな」
そういう感じのトーク。
サヨなら
⑧帰宅
風俗帰り。