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伊是名夏子氏のブログ・Twitterから話題になったJR東日本の車椅子乗車拒否問題。結局なんだかんだ言って有耶無耶になって終わった感があるので今更ながら考えたことを投稿。
事の顛末は以下の通り
改正バリアフリー法が施行された2021年4月1日。伊是名は来宮神社観光のため、宿泊施設や飲食店は予約した上で、友人・介助者・子供ら5名で電動車椅子で出発。JRは事前連絡せずに小田原駅で来宮駅下車をJRの係員に伝えた。しかし来宮駅は無人駅で階段しかないため、係員はバリアフリー化されている熱海駅下車を推奨した。伊是名は車椅子で乗車可能なタクシーは1ヶ月前からの予約が必須と主張し、バリアフリー法にのっとり対応するよう求めたが、利用者数3000人以下の来宮駅は同法対象ではないと説明を受ける。伊是名は次に障害者差別解消法を根拠に合理的配慮を求め、駅員3・4名を集めて電動車椅子を運ぶよう要求。急に人員を確保できないとするJR側と交渉中に、伊是名は新聞社数社に取材を要請。駅係員と1時間ほど交渉の末、熱海駅に向かった。小田原駅から連絡を受けていた熱海駅では特別の計らいで、駅長を含む係員4名が一行を急遽出迎え、来宮駅まで同行。階段降下時には、100キログラム超の電動車椅子を4名で手持ち運搬した。熱海駅長の教示で、復路は伊是名が事前連絡をおこない同様の措置がとられた。
〜引用ここまで〜
伊是名氏は宿泊施設・飲食店を予約している。なのになぜ移動手段についての事前連絡ができなかったのか。
伊是名氏の主張するとおり障害者にも自由に移動する権利は認められるべきである。ただ、バリアフリー対応のタクシーという代替の手段もあるわけで、伊是名氏は利用の1ヶ月以上前から予約が必要であるためこれを利用できないと自身から主張している。結局のところ、自身の不手際からくる旅行の行程の綻びをJR側に押し付けているだけにすぎない。問題提起のためにあえて準備をせずJRを利用しようとしたのであれば尚更たちが悪い。
交通事業者に駅バリアフリー化を求めるという気持ちもわかるがJR側が説明したように来宮駅はバリアフリー法の対象外である。JRは法に従って業務を行っているため責任の所在はここにはない。バリアフリーについて訴えかけるなら立法機関に対して行うべきだろう。
伊是名氏が主張した合理的配慮について。そもそも合理的配慮とは何か、内閣府作成のガイドブックより引用する。
〜以下引用〜
合理的配慮は、障害のある人から、社会の中にあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要としているとの意志が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること(事業者においては、対応に努めること)が求められるものです。重すぎる負担があるときでも、障害のある人に、なぜ負担が重すぎるのか理由を説明し、別のやり方を提案することも含め、話し合い、理解を得るように努めることが大切です。
〜引用ここまで〜
合理的配慮というものは、義務ではないが、可能な限り対応しようという努力目標ということである。
今回の対応について、社民党が出した声明文に対しJ-CASTニュースの取材でJR東日本横浜支社は次のようにコメントしている
〜以下引用〜
当社では、お客さまのご要望を承りつつ、代替手段であるタクシーの手配や、可能な範囲での駅係員の手配による来宮駅での介助対応を行っており、『合理的配慮の提供』を行ったものと考えております。
〜引用ここまで〜
事業者側がどれだけ合理的配慮を行ったと主張しても、受け取る側が合理的配慮と感じていなければそれは合理的配慮ではないという考え方もできる。
この点は両者の言い分が理解できることであり今回の問題で一番難しいポイントだと思う。
今回熱海駅から係員4人が駆けつけて、100kgを超える電動車いすを運んだことは、合理的配慮の枠を超えた特別な計らいであったとされる。合理的配慮の枠を超えるということは、つまり負担がかなり重かったということである。
このような特別な計らいを目撃した身体障害者が同じ対応を主張し、これを認められなかった際に「伊是名氏は対応してもらえるのに私は対応してもらえないのは差別ではないか」という考えを持つことは容易に想像できる。かなり重い負担をかけて対応した上に、一度対応した手前これが当たり前になってしまうというのは事業者にとってはかなりしんどい。特別な計らいを当たり前にしようとする運動は、かえって他の身体障害者に対する合理的配慮の幅を狭めてしまう可能性がある。
そもそも、バリアフリー化を求めるのは良いが財源はどこにあるのか。国からの補助もあるだろうが、交通事業者の出費も馬鹿にならない。
交通事業者の出費は主に運賃収入によって賄われる。バリアフリー設備は健常者(高齢者等を除く)にとっては必要のない設備である。必要のない設備を設置するために、運賃が上がるというのは健常者差別ではないだろうか。
基本的に身体障害者は、介助者1人を含めて運賃が半額となるケースが多い。受益者負担の原則に則るならば、ある程度運賃を上げてこれをバリアフリー化の財源とすればよいのではないかと考える。
○主張ばかりでは賛同は得られない
他の障害者から伊是名氏に対して否定的な意見が多く寄せられたという記事を見たが、主張ばかりする存在、丁重に扱わないと何を言われるかわからない存在になってしまうと受けられる合理的配慮の幅も更に狭まってしまう。
伊是名氏の言動には一方的な主張と問題提起を混同している節が見られ、この考えを改めない限りは社会から総スカンを喰らい続けることになるだろう。
まあ、そう言ったところで多くの人には信じてもらえないのだろう。
だからまずは、どのようにタイムリープが可能となったのか、その理屈を述べ、
今回のタイムリープには協力者が居て、その人のおかげでタイムリープが実現できた。
それ以上のことは先方との約束により、絶対に明らかにできない。
しかし、タイムリープの理屈など、私にとってはどうでもいいことだ。
そんなことよりも、タイムリープによって知った驚きの事実を、私は「ある期待」を込めて皆に伝えたいのだ。
さて、そもそも私の場合、入試や恋愛、大きな事件事故など、現在に至るまでの人生の中で、
強い悔いを残し、これだけは絶対に変えたい!というイベントは特に無かったのだ。
それでも、先方からのタイムリープの誘いに乗ったのは、既に結果を知る過去を再度歩めるのなら、
そこに現れる人生の選択肢もより良いものが選べるはずだと考えたからだった。
例えば、学生の頃のテストは現在の知識によって、より良い点数が取れるだろう。
また逆に、記憶の限り日々のトラブルはすべて回避できるだろう。そういったことだ。
すなわち、自分の記憶によって、2度目の過去ではより良い選択肢が選べ、
現在までの人生をもっと高いステージに引き上げることができるだろうと思ったのだ。
おそらく、大多数の人間がそう考えるように。
ちなみに、私には中学生の頃から、大学ノートに日記を記す習慣があった。
さすがに、過去の細かなことなど覚えていないわけで、過去をより良く選択するには、
日記という貴重なデータを絶対に持っていく必要があると思った。
だから、先方にも無理を言って説得し、その十数冊ある日記の束と共にタイムリープすることを許してもらった。
しかしながら、今になって思い返してみれば、それが一番の悪手であった。
その日記という紙束が、自分の選択肢を強く制約し、新たな可能性を潰してしまったのだ。
つまりは、実際にタイムリープしてみると、日記の記載と記憶どおりの人生を歩んでしまい、
新たな選択肢を選び直すことなどほとんどできやしなかったのだ。
いや、タイムリープして最初のうちは、出し惜しみのつもりだった。
その不思議さは、自分が全知であるかのような錯覚を生む。このままで居たい。
そこで、新たな選択は未来を知る自分のアドバンテージを損なうことなのだと理屈を付けた。
そして、自分はまだ中学生なのだから、さほど大きな選択肢も無いだろうと、
タイムリープして最初のうちは意図的に、1度目の過去とわりと同じ選択肢を選び続けていたのだった。
さらに、先に述べたとおり、私には絶対に変えたいというイベントが特に無かった。
そのため、新たな選択肢を出し惜しむ状態は、数年間にも渡って続いてしまった。
しかし、高校生にもなれば、日々の会話の中で「バタフライ効果」の存在に思い至る。
どんな小さな行動でも、新たな選択肢を選んでしまえばその影響の大きさは読み切れない。
未来を知るアドバンテージもその行動に留まらず、完全に失われかねない。
それに気づいてからは全てを不安に感じ始めてしまい、いつか来る大きな選択肢のために
そのアドバンテージを保持しようと、それが自分にとって良いことであろうと悪いことであろうと、
ひたすら日記の記載と記憶の通り行動した。それは大人になっても同じだった。
例えば、その日は職場でトラブルを起こし、大迷惑をかけるとわかっていた。
それでも出勤し、何の対策も取らず、上司に怒られながら対応に奔走した。
例えば、その日は旅行でどんな光景を見たのか、おぼろ気ながらも覚えていた。
それでも出発し、同じ忘れ物をして、退屈を感じながらも時刻表に追われた。
もちろん、毎日何を食べて暮らしていたかなど、日記にも記憶にも無いこともあったが、
それらは詳しく追わなかった。それなら、意識しないことこそ自然だと思ったから。
そして日記も書いた。
日記を書くというよりは、持参した日記の単なる引き写しでしかなかったわけだが。
それでも、日記を書かないこともバタフライ効果を起こすと信じてしまい、
持参した日記をまっさらな大学ノートにそのまま書写するという、
客観的に見ればまさに馬鹿馬鹿しいだろう行動を、現在まで真剣に続けてきたのだった。
そうやって、タイムリープの出発時点である「現在」に十数年もかけて、ただ出戻ってしまったわけだ。
外見的には、同じ日記の束が1組増えただけのひたすら長い時間だった。
ここまで述べた思考過程により、人生を変えるような選択肢は何一つ選べなかったわけだが、
それでも、一つだけ新たに気づいたことがある。
それは、2度目の過去は少々退屈ではあるけれど、ひたすら快適だということだった。
2度目の過去の後半はむしろ、自発的に新たな選択肢を選ぼうとしなかったのかもしれない。
なにしろ、選択肢を選び直さなければ、明日に何が起こるのかまたわかるのだから。
その明日がトラブルだらけだったとしても、それはいつどのように治まるかを知っている。
「止まない雨は無い」ということを、実体験によりわかっていたのだ。
それゆえ、バタフライ効果の影響が狭まったやり直しの後半においても、
トラブルを回避するつもりの選択肢を選ぶリスク(バタフライ効果でそれはリスクにもなり得るのだ)より、
そうして、私はこの2度目の現在に至るまで、リスクのある新しい選択肢ではなく、
苦しくとも理解できる未来が選べる快適さの方を選んできたのだった。
ここまで長々と書いてきたが、今回のタイムリープでは、
タイムリープによる人生のやり直しなど物語上の幻想に過ぎないと身を以て知った。
おそらく、私のような常人には、タイムリープを以てしても人生はやり直せない。
タイムリープで人生をやり直すには、タイムリープの誘いを受けたという幸運だけでなく、
ある種の快適さ、未来を知る快適さを打ち捨てるだけの強い意志が必要なのだ。
それは本当に強い意志だ。私が驚きとともに伝えたかったのは、まさにそのことだ。
人生にやり直しがきかないのは、タイムリープができないからではないのだ。
たしか小学生の頃には、私もいわゆるロールプレイングゲームで遊んだことがある。
なぜなら、ガイドブックが存在する範囲のシナリオが終わってしまうと、
何をどう進めて最終目標に向かえばよいかわからなかったからだ。
そのことを、2度目の現在に戻ってようやく思い出す。
これからの、日記も記憶も、当然ガイドブックも無いまっさらな未来が本当に恐ろしい。
それに比べて、あの快適さに包まれた過去の日々は、本当に素晴らしいものだった。
強い意志の無い私のような人間には、新たな選択肢が選べ直せないと重々わかりきった上でも、
もう一度、日記とともにタイムリープを繰り返したいと思うくらいに。
そして、今はあの「現在」だ。タイムリープの出発時点である「現在」だ。
だから、1度目の人生と同様、協力者である先方は再び現れるはずだ。
迷惑メールのようなぎこちない文面で、タイムリープの誘いを持ち掛けてくるはずなのだ。
そう、そのはずだったのだ。
しかし、タイムリープの誘いを持ち掛けるメールは、いまだに来ない。
その時期が日記の記載から遅れていても許すから、どうか早く現れてほしい。
まっさらな未来などまっぴらだ。もう、結果のわからない未来なんて体験したくない。
私はタイムリープで、あの快適な過去にもう一度引きこもりたいのだ。
かつては、タイムリープでもう一度、人生をやり直すことを期待していたが、
今回は、タイムリープでもう一度、人生を「繰り返す」ためにメールが欲しいのだ。
そう思いながら、メールを更新しては気分の塞ぐ日々を過ごしていたが、
昨日ようやく、自分がバタフライ効果から解放されていることに気づいた。
自分にはもう、守るべき「1度目の過去」は存在しないのだから、
バタフライ効果を恐れて、現状を維持しようと努めなくてもよいのだ。
長い習慣ゆえ、そんな当たり前のことに思い至るまで時間がかかってしまったが、
とにかく、現状を打破する行動のひとつとして、この長すぎる文章を書いた。
先述の「ある期待」というのも、まさにそういうことだ。
あんなに嫌っていたバタフライ効果だったわけだが、今回はそれに「期待」を込めて、
=== 1 ===
私は今、過去へとタイムリープして、2度目の「現在」を生きている。
まあ、そう言ったところで多くの人には信じてもらえないのだろう。
だからまずは、どのようにタイムリープが可能となったのか、その理屈を述べ、
今回のタイムリープには協力者が居て、その人のおかげでタイムリープが実現できた。
それ以上のことは先方との約束により、絶対に明らかにできない。
しかし、タイムリープの理屈など、私にとってはどうでもいいのだ。
私が伝えたいのは、タイムリープを以てしても、結局人生はやり直せなかったという事実だ。
タイムリープで人生をやり直すには、タイムリープの誘いを受けたという幸運だけでなく、
ある種の「快適さ」を打ち捨てるだけの強い意志が必要だと知ったのだ。
身を以て知ったその事実を、強い驚きに加えて、ある「期待」を持って皆に伝えたいのだ。
=== 2 ===
そもそも私の場合、入試や恋愛、大きな事件事故など、「現在」に至るまでの人生の中で、
強い悔いを残し、これだけは絶対に変えたい!というイベントは特に無かった。
それでも、先方からのタイムリープの誘いに乗ったのは、既に結果を知る過去を再度歩めるのだから、
そこに現れる人生の選択肢もより良いものが選べるはずだと考えたからだった。
例えば、学生の頃のテストは「現在」の知識によって、より良い点数が取れるだろう。
また逆に、記憶の限り日々のトラブルはすべて回避できるだろう。そういったことだ。
すなわち、自分の記憶によって、2度目の過去ではより良い選択肢が選べ、
「現在」までの人生をもっと高いステージに引き上げることができるだろうと思ったのだ。
おそらく、大多数の人間がそう考えるように。
ちなみに、私には中学生の頃から、大学ノートに日記を記す習慣があった。
さすがに、過去の細かなことなど覚えていないわけで、過去をより良く選択するには、
日記という貴重なデータを絶対に持っていく必要があると思った。
だから、先方にも無理を言って説得し、
その十数冊ある日記の束と共にタイムリープすることを許してもらった。
しかしながら、今になって思い返してみれば、それが一番の悪手だった。
その日記という紙束が、自分の選択肢を強く制約し、新たな可能性を潰してしまったのだ。
すなわち、実際にタイムリープしてみると、日記の記載と記憶どおりの人生を歩んでしまい、
新たな選択肢を選び直すことなどほとんどできやしなかったのだ。
いや、タイムリープして最初のうちは、出し惜しみのつもりだった。
その不思議さは、自分が全知であるかのような錯覚を生む。このままで居たい。
そこで、新たな選択は未来を知るアドバンテージを損なうことなのだと理屈を付けた。
そして、自分はまだ中学生なのだから、さほど大きな選択肢も無いだろうと、
タイムリープして最初のうちは意図的に、1度目の過去とわりと同じ選択肢を選び続けていたのだった。
さらに、先に述べたとおり、私には絶対に変えたいというイベントが特に無かった。
そのため、新たな選択肢を出し惜しむ状態は、数年間にも渡って続いてしまった。
しかし、高校生にもなれば、日々の会話の中で「バタフライ効果」の存在に思い至る。
どんな小さな行動でも、新たな選択肢を選んでしまえばその影響の大きさは読み切れない。
未来を知るアドバンテージもその行動に留まらず、完全に失われかねない。
それに気づいてからは全てを不安に感じ始めてしまい、いつか来る大きな選択肢のために
そのアドバンテージを保持しようと、それが自分にとって良いことであろうと悪いことであろうと、
ひたすら日記の記載と記憶の通り行動した。それは大人になっても同じだった。
例えば、その日は職場でトラブルを起こし、大迷惑をかけるとわかっていた。
それでも出勤し、何の対策も取らず、上司に怒られながら対応に奔走した。
例えば、その日は旅行でどんな光景を見たのか、おぼろ気ながらも覚えていた。
それでも出発し、同じ忘れ物をして、退屈を感じながらも時刻表に追われた。
もちろん、毎日何を食べて暮らしていたかなど、日記にも記憶にも無いこともあったが、
それらは詳しく追わなかった。それなら、意識しないことこそ自然だと思ったから。
そして日記も書いた。
日記を書くというよりは、持参した日記の単なる引き写しでしかなかったわけだが。
それでも、日記を書かないことも「バタフライ効果」を起こすと信じてしまい、
持参した日記をまっさらな大学ノートにそのまま書写するという、
客観的に見ればまさに馬鹿馬鹿しいだろう行動を、「現在」まで真剣に続けてきたのだった。
=== 3 ===
そうやって、タイムリープの出発時点である「現在」に十数年もかけて、ただ出戻ってしまったわけだ。
外見的には、同じ日記の束が1組増えただけのひたすら長い時間だった。
前節に述べた思考過程により、人生を変えるような選択肢は何一つ選べなかったわけだが、
それでも、一つだけ新たに気づいたことがある。
それは、2度目の過去は少々退屈ではあるけれど、ひたすら快適だということだった。
2度目の過去の後半はむしろ、自発的に新たな選択肢を選ぼうとしなかったのかもしれない。
なにしろ、選択肢を選び直さなければ、明日に何が起こるのかまたわかるのだから。
その明日がトラブルだらけだったとしても、それはいつどのように治まるかを知っている。
「止まない雨は無い」ということを、実体験によりわかっていたのだ。
それゆえ、「バタフライ効果」の影響が狭まったやり直しの後半においても、
トラブルを回避するつもりの選択肢を選ぶリスク(「バタフライ効果」でリスクにもなり得るのだ)より、
そうして、私は「現在」に至るまで、リスクのある新しい選択肢ではなく、
苦しくとも理解できる未来が選べる「快適さ」の方を選んできたのだった。
たしか小学生の頃には、私もいわゆるロールプレイングゲームで遊んだことがある。
なぜなら、ガイドブックが存在する範囲のシナリオが終わってしまうと、
何をどう進めて最終目標に向かえばよいかわからなかったからだ。
そのことを、2度目の「現在」に戻ってようやく思い出す。
これからの、日記も記憶も、当然ガイドブックも無いまっさらな未来が本当に恐ろしい。
それに比べて、あの「快適さ」に包まれた過去の日々は、本当に素晴らしいものだった。
強い意志の無い私のような人間には、新たな選択肢が選べ直せないと重々わかりきった上でも、
もう一度、日記とともにタイムリープを繰り返したいと思うくらいに。
そして、今はあの「現在」だ。
1度目の人生と同様、かの先方は再び現れるはずだ。
迷惑メールのようなぎこちない文面で、タイムリープの誘いを持ち掛けてくるはずなのだ。
=== 4 ===
そう、そのはずだったのだ。
しかし、タイムリープの誘いを持ち掛けるメールは、いまだに来ない。
その時期が日記の記載から遅れていても許すから、どうか早く現れてほしい。
もう、年末も差し迫った12/25の夜7時を過ぎた頃、お偉方から、セールスフォースの設定に問題がないか確認しろとのお達しが来た。
はぁ?私、もう仕事収めて帰りたいんですけど?!むしろ寝たいんですけど!
今まで、私がどんだけ仕事してたのか知ってる??
年の瀬の金曜の夜7時を過ぎてから言う?お前やれよ!と、心の中で毒付きながらも、何にも言えない社畜。
弊社のブラックぶりに泣きたくなる。
そして、セールスフォースと、この時期に漏洩を公表した楽天に殺意を覚える。
芸能人の離婚みたいに年末の土日に公開して有耶無耶にしようとしたんだろうけど、めじ勘弁してくれー!
まず、2016年の設定変更?そんなのあったっけ??
2016年のリリースノートを見る。そんな変更どこにもない。英語版にもない。念のため2020年まで見る。ない。
偉い人の見てるニュースほんとなん?
そんな問題あったら、とっくのとうにアメリカで問題になってんじゃね?とか思いつつ調べる社畜。
と、こないだペイペイでもあったアクセス権?もしかしてこないだJPCERT から来てた、アクセス権のアレ?
そしてセールスフォースのドキュメントを見に行くわけだけど、コレは…。
なんて見にくい!もっと親切に画像入れてくれー!しかも回りくどくて何回も繰り返しちゃう。
外人でなんでこう言うので平気なんだろう?ガイドブックとかも文字だけで全然わかんないよね。
文字だけで脳内に画像が浮かんでくる特殊能力でもみんな持ってんのか?
そして日本語だとリンク切れてたり、英語の方にしか乗ってない情報盛りだくさん。深夜に英語読むのって辛いよね。もう文字がアラビア文字みたいに見えて挫折しそうになるよ。
そして、問題がアクセス権にあることを友人からのアドバイスで知る。
おバカな私はここに辿り着くまでに2徹しちゃったですよ。
そして。改めて状況を見ると、こんな基本の設定間違えるやついるかー!バカにすんなー!そして私の睡眠時間と土曜日返せー!と偉い人の頭を片っ端から引っ叩いて回りたい!
ゲストユーザにオブジェクトの参照権限与えるなんて、そんなバカいるの??
つーか、いたからこんな大ごとになってんだろうけど。
おバカな人たちご愁傷様です。
念のため共有設定を見直したけど、もちろん外部共有なんてしてなかった。(フォームなどは除く)
楽◯だのPay◯a yとか大丈夫?
こんな基本設定間違ってるなんて他のサイトの基本設定も間違ってんじゃないの?よく恥ずかしげもなく公開できたな。
もしかして設定全部rootでやってたり、フォルダの権限777だったりScot.taigerとか残ってるんじゃね?とか思っちゃうよ。
米東部ペンシルベニア州フィラデルフィアで、またしても黒人が警官に射殺されたのを機に暴徒による放火や略奪が起きている。
こうした事態について、日本のメディアで使われる表現の常套(じょうとう)句は「警察に抗議するデモの一部が暴徒化し…」というものだ。
ただ、こうした「デモ」のほとんどは、黒人差別解消を求める社会運動に名を借りた、極左系を中心とする過激勢力が扇動する「暴動」に他ならない。
一方、米国を代表する通信社のAP通信は今月、同社が発行する記事執筆の書式や用語に関する新聞業界向けのガイドブック「APスタイルブック」に関し、「暴動」という言葉を使わず「社会不安」などと言い換えるのを推奨するとの指針を追加し、米メディアの間で波紋を呼んだ。
言い換えの理由についてAPは「一連の現象を『暴動』と呼ぶことは、人種的不公正の解消に取り組んでいる人々に汚名を着せることになる」と説明する。
はてなでは無名だが、AHSというPCソフトウェアを販売している会社がある。
そこから先日Recotte Studioというゲーム実況動画作成ソフトが出た。通常価格で¥12,800+税という値段だ。
元々ボイスロイドという人工音声ソフトをAHSは出していて、Recotte Studioの売りはその連携にある。
作っているのはクレジットを見るとソフトイーサで、IPA未踏の伊藤さんも参加されているようだ。
ここで注意してもらいたいのが、『実況動画作成』であり『動画編集』ソフトではない。
ボイスロイド+ゲーム実況は既に多く作られているし、その多くはフリーのAviUtlという動画編集ソフトで作られている。
ボイスロイド自体がPepper君と同じ声のパッケージが発売されてから10年経っていて、AviUtlのプラグインを有志が作っている。
AviUtlは使った人はわかると思うが古いソフトに機能追加されているので、ごちゃごちゃしている。
その中でRecotte Studioは初心者向けということで発売された。
問題はここからだが、Recotte Studioは機能が少ない分やりたいことができない。
初心者は先人の真似から入るわけだが、機能が少ないので出来ない。
もちろんソフトの機能紹介で説明されているようにテロップは入れられるのだが、ボイスロイドとの音声連携+テロップがやりたいことなので、躓くポイントが多い。
1つ、2つテロップを入れるだけならいいが、大量にテロップを入れるとなると修正が入るが、2つのソフトを連携させる都合かUIが悪い。
わかりにくければUIが悪いという結論のみ把握しておいてもらえばいい。
ゲーム実況なので、ゲーム画面を録画したのを流しつつ、テロップを入れたい場所にテキストを入力していく。
ここで躓きポイント①だが、改行が必要な長文になると改行をどうしたらいいのかがわからない。
そんなの単に改行すればいいじゃないかと言われるだろうが、改行はできず確定になる。
改行する場合はプレビュー画面のテロップが実際に入った枠を編集することになる。
テロップだけなら、まぁいいか程度だが、ボイスロイドとの連携時にスペースが入る。
ボイスロイドを使ったことがない人向けに説明すると、ボイスロイドはテキストを入力して音声を出力するソフトだ。
テキストにスペースが入っていると、そこが文章の切れ目と認識して、音声が途切れるのだ。(躓きポイント②)
プログラマーの方なら、スペースが入るくらい置換すればいいだろうというだろうが、そういう人ばかりではない。
売りのボイスロイドとの連携だが、『全てのテロップをクリップボードにコピー』するというのがRecotte Studio側の機能だ。
ユーザーは、別のソフトであるボイスロイドのテキスト画面にペーストし、音声を編集して音声ファイルWavで書き出すと同時に、1つずつの音声ファイルを作ったテキストを吐き出す。
言い方を変えると、連番の.wavと.txtファイルが出力される。
Recotte Studioは、フォルダを監視していて、ファイルが更新されたのを検出して音声ファイルを読み込む。
Recotte Studio側にテロップのテキスト情報を持っているので、.txtの内容と一致すれば、.txtと同じファイル名の.wavを読み込む。
.txtと.wavは拡張子が違うだけで、ファイル名が一緒となっていることで一対になっていることを示している。
ここで、躓きポイント③だが、ボイスロイドで音声調整をしている際、誤字を見つけたときは、
b)Recotte Studio側に戻ってテキストを修正すればいいのか
どちらだろうか。
先ほどRecotte Studio側は.txtの内容と一致した同じファイル名の.wavを読み込むと言ったが、
誤字なので結局Recotte Studioに戻ってテロップも修正することになるのだが、『全てのテロップをクリップボードにコピー』されるので、
誤字の部分だけ更新すればいいや、とはならない。
ここで躓きポイント④だが、テロップを修正していない箇所の音声は、前と同じなのかという疑問が出てくる。
プログラマーの方ならテキストならdiff取って処理すればいいじゃんと思うだろうが、
ボイスロイドというソフトのテキスト入力枠はコピー&ペーストで上書き修正されている。
一応、登録しておいた文章が完全に一致していれば、同じ音声を出力する(はず)だが、本当か?と思うだろう。
なぜ『全てのテロップをクリップボードにコピー』される仕様になっているのかはわからないが、
想像するに、新規にテロップが追加された時の対応あたりだろう。
次の躓きポイント⑤だが、『.txtの内容と一致した同じファイル名の.wav』を読み込むのであれば、
テキストでは同じ文面だが、読み方(アクセントなり、音の高さなり)を変えたい場合はどうなるのか。
ボイスロイドの動画を作る際、複数のボイスロイドで会話させることがある。
キャラA「こんにちは」、キャラB「こんにちは」と喋らせたいとしよう。
ユーザー側の対応策として、キャラAとキャラBの吐き出すフォルダを別にすればいいとなるが、気づけないユーザーもいるだろう。
先ほどの例では、挨拶だったのでいいが、「ごめん」といったセリフは動画中に2度出てくる可能性はないだろうか?
そして喋らせ方が違ったらどうだろうか。(最初はふざけた感じで、次は真剣な感じなど)
次の躓きポイント⑥だが、動画を作っている途中だと適切な音声だと思っていても、ある程度完成して見直してみると、
音声と音声の間が足りてなかったと思うことがある。
その時は、ボイロ側で話す速度や間を修正することになるのだが、テロップの位置が変わらないため、
テロップが2重に表示される期間が出てくることになる。
最初から隙間を開けておくといった対策がユーザー側ではできるが、これも最初は気づけないし、
テロップとテロップの間で毎回一瞬消えるのも気になって嫌う人もいるだろう。
2つのソフト間での連携するような仕様にせざるを得なかったというのもあるのだろうが、初心者向けと言いつつ、触ると躓きポイントが多い。
じゃあ修正すればいいじゃんと、今時のプログラマーの方は思うだろうが、Recotte Studioのガイドブックが同時発売されている。
そのためUIの変更はすぐにはできないのだと思う。
PCソフトなんて今時だれが買うんだっていう時代なので、開発リソースが少ないのが、機能の少なさから透けて見えるのも辛いところだ。
AHSという会社だが、先の未踏出身の伊藤さんが作られたキャラミんを配布したり、
Kanru Huaが作られたSynthesizer Vを販売したり、
市場が小さいが個人で作ったのをビジネスにつなげようとしている会社で応援したいので購入しているのだが、
開発リソースが小さく機能が一点突破だったり、買い切りなのでサポートの説明不足だったりする。
私は不純な動機でも良いと思うけど、行かなくて済む方がほっとするならまぁ良いのかな。
世にSNSなるものが普及してから、行った証拠になる写真を撮るためだけに出かける(行き先は国内でも家の近くの映えスポットでも何でも良い)人は増えたと思うが、それがその人たちの行動範囲を広げたり、行き先のあちこちにお金を落として経済効果を上げてくれるならそんなに悪いことではないと思う。
ただ、自分がそれで疲弊してしまうほど無理をしていると思うなら、行く頻度を下げるとか、行き先を厳選して本当に行きたいと思う場所だけにするとかすれば良いと思う。興味を持てない場所に無理に行く必要はない。
私も写真を撮るために多少寂しくても一人であちこち出かけていたが、「外出を自粛しろ」と言われるとそれはそれでストレスを感じる。けっこう旅行のパンフとかガイドブックを見ながら「今度はどこに行こうかな」と考えるのが楽しかったから。
休みが取れないとかお金がかかりすぎるとかいう理由で行けそうもない場所を妄想旅行で誤魔化すのは別に構わなかったけど、日本から出国できないとか、距離的には大して家から遠くない他県に行くなと言われると何だか息苦しい。
元増田もコロナ騒ぎが落ち着いたら、行きたいと思える場所に絞って出かければ良いと思う。「世界各地を旅している人」という評価を無理に維持しなくても、国内なり何なり自分が行く価値を感じるところだけに行けば良い。
旅行は思い立ったらすぐ、と言うがそれは正しい。なぜなら最低でも1週間はかかる大イベントだからだ。まだ学生ならばやりやすい年齢なので積極的にやった方がいいよ。
まず、最低でも3日前から生活のリズムと食事に気を使う。便は何時に出たか。きちんと歩いたか、少なくとも良いコンディションを目指す。この期間、酒は避ける。専用カバンに常に最低限を詰めておくと楽。下着はその時に一番古いものを持って行き、捨てること。旅行にいけば行くほど人より新しい下着をつけていられる。計画はこの3日間で調べる。最低でもこの程度を調べればいい。覚える、もしくはスマホで。ガイドブックは持たない。
・下着と袋
・口腔ケアグッズ
・カードケース
一泊目は宿の雰囲気や、夕食、垣間見える雰囲気を少し味わう程度に楽しみ、風呂にゆっくり浸かり、早く寝る。その土地の新聞を読むこと。
2日目は、起きてまず水を飲み(常温の方が分かりやすい)散歩をする。傘は宿で借りる。朝食は満腹まで食べ、体調を整え、さっきはあいていなかった店などを見る。駅、空港などは目的地と捉える。さもなくばそのうち新幹線の駅などは全部同じに見えてしまう。
買い食いや昼食は、遠慮なく取る。よく歩き、よく水分を取る。軽くて良い靴を普段から慣らしておく。
宿に帰ったら少し座り、裸足になり足を揉む。その後風呂にゆっくり入って夕食を取る。屋台、景色、繁華街など夜の街が有名なスポットの場合は宿に一度戻り昼寝を挟んでおく。深酒をしても夜食を楽しんでもいい。違う県に拘らないこと、または同じ県に何度行ってもいい、例えば北海道は広く一ヶ月あっても足りない。余計な概念に囚われないよう気をつける。同じ場所になんど行ってもいい、生涯で泊まった宿は数件とか普通にある。好きなところに行ければいい。街、人をよく見る。方言を楽しむ。どこも同じに見える現象に気をつける。若い男性はスーツを着る。短い時間だし、平日変な時間にぶらぶらしていやすい。頭を使わずシンプルなおしゃれしかない等メリット多数。スタスタ歩く。じわりと歩くよりも筋肉が疲れないので、興味が湧いたところではキチンと立ち止まろう。シャチハタの座版スタンプを持ち歩き、なるべく宅配便を利用して手ぶらで歩く。座版は極力何にでも使う。会いたい人、思い出した人が居たら書いておく。聞いたことがない音楽に敏感にあること。アルコールが高いことを嘆かないこと。
少なくとも何処かと違う、と思うにとどめるだけで良い
新横浜から3時間くらいかけて岡山に、そして1時間くらいかけて高松に、そしてバスに乗ってシン屋島水族かンゴ新屋島水族館に行きましたわ!
前回行った時はことでん屋島駅で頭のおかしなババアに絡まれたので怯えていましたが今回は大丈夫でしたわ。
新屋島水族館は2015年頃に閉館騒動がありましたがその後元気にリニューアルしたりしていますわ。今回は面白イルカショーのステージが8月15日にリニューアル公開予定ですわ。つまり今回はイルカショー無しですわ!どうせリニューアルじゃなくてもコロナで中止に違いありませんわ!ちなみに平日に行くと普通のイルカショーでしたわ。
さっき書いた気がしますわ!anond:20200724211708
マナティーはここと美ら海とバナナワニ園で見ることができますわ。確かバナナワニ園だけAmazonマナティーですわ。こっちはアフリカマナティーとかなんとかですわ。
わたくしは亀頭が好きなのですがアカウミガメとアオウミガメとタイマイがいましたわ。タイマイは水族館によくいるようなそうでもないようなそんな感じがしておりますわ。
ポストカードを買って水族館を後にしましたわ!ゼニガタアザラシが傘を持ってるやつですわ!
途中のお土産屋さんで屋島狸を買いましたわ!完全にタヌキックマスターの影響ですわ!ちなみにわたくし、タヌキックマスター様の影響で狸の剥製を購入しておりますわ。
屋島狸はなんでも日本三大狸らしいですわ!あと2つは?ですわ!!いやほんとに胡散臭すぎですわ!そんな争うほど勢力があるんですの?
あと半額になってたポストカードセットを買いましたわ。
その後、屋島寺宝物館に行きましたわ!仏像的なものとか焼き物?的なものとか、源平的なものとかがありましたわ!
駐車場のところの売店でたぬきうどんといいだこおでんを頂きましたわ。いいだこうどんを頼めばいいところをタヌキックマスターの影響で以下略ですわ!
ちなみに雨で霧も凄くて景色的なものはよくありませんでしたわ!
その後バスに乗って四国村に行きましたわ。四国村に入る前に併設のわら家で釜揚げうどんを頂きましたわ!
四国村に入りましたわ!四国村は昔の(昭和とか?)建物を現存する間に複製ではなくて移動させてきたものらしいですわ!大抵なんとか文化財でしたわ!入り口すぐのかずら橋を渡るのにびびりまくりで4分半かかってましたわ!手すり!掴まずにいられない!ですわ!!
途中の四国村ギャラリーでピカソのCG差分があって草でしたわ!
お食事付きでしたわ。牛とか刺身とかでご満悦でしたわ!とんかつはありませんわ!
調子に乗ってお酒を頼みましたわ!川鶴の生貯蔵酒ですわ!よく知りませんが香川の日本酒ですわ!
その後お部屋に戻りまして一本飲んで温泉行ってもう一本飲み始めて今に至りますわ!
おやすみなさいませ!
水500ml110円
飲み物129円
ポストカード(相合傘)120円
宝物館500円
たぬきうどん400円
わら家 釜あげうどん470円
四国村1000円
金陵 上撰 國の光300ml 380円
県花ラベル 綾菊酒造 綾菊 純米吟醸 金ラベル オリーブ 300ml495円
この1年間プランを立てつつ辛い仕事も耐えてきたのに全部水の泡になってしまった。
パスポートを作ってガイドブックも買っていたのに今は虚しさだけが残っている。
夫婦二人で海外行くなんて子供が出来たら簡単に出来ないだろう。
そこだけで楽しみを全部奪われたような喪失感。
テレワークできる職種だけど上司がテレワークを考えてくれない。クソ上司・・・。
何を楽しみに仕事を乗りきればいいんだろうなぁ。
普通の日常がこんなに恋しくなるなんて思ってもいなかったなぁ。
旅行は思い立ったらすぐ、と言うがそれは正しい。なぜなら最低でも1週間はかかる大イベントだからだ。まだ学生ならばやりやすい年齢なので積極的にやった方がいいよ。
まず、最低でも3日前から生活のリズムと食事に気を使う。便は何時に出たか。きちんと歩いたか、少なくとも良いコンディションを目指す。この期間、酒は避ける。専用カバンに常に最低限を詰めておくと楽。下着はその時に一番古いものを持って行き、捨てること。旅行にいけば行くほど人より新しい下着をつけていられる。計画はこの3日間で調べる。最低でもこの程度を調べればいい。覚える、もしくはスマホで。ガイドブックは持たない。
・下着と袋
・口腔ケアグッズ
・カードケース
一泊目は宿の雰囲気や、夕食、垣間見える雰囲気を少し味わう程度に楽しみ、風呂にゆっくり浸かり、早く寝る。その土地の新聞を読むこと。
2日目は、起きてまず水を飲み(常温の方が分かりやすい)散歩をする。傘は宿で借りる。朝食は満腹まで食べ、体調を整え、さっきはあいていなかった店などを見る。駅、空港などは目的地と捉える。さもなくばそのうち新幹線の駅などは全部同じに見えてしまう。
買い食いや昼食は、遠慮なく取る。よく歩き、よく水分を取る。軽くて良い靴を普段から慣らしておく。
宿に帰ったら少し座り、裸足になり足を揉む。その後風呂にゆっくり入って夕食を取る。屋台、景色、繁華街など夜の街が有名なスポットの場合は宿に一度戻り昼寝を挟んでおく。深酒をしても夜食を楽しんでもいい。違う県に拘らないこと、または同じ県に何度行ってもいい、例えば北海道は広く一ヶ月あっても足りない。余計な概念に囚われないよう気をつける。同じ場所になんど行ってもいい、生涯で泊まった宿は数件とか普通にある。好きなところに行ければいい。街、人をよく見る。方言を楽しむ。どこも同じに見える現象に気をつける。若い男性はスーツを着る。短い時間だし、平日変な時間にぶらぶらしていやすい。頭を使わずシンプルなおしゃれしかない等メリット多数。スタスタ歩く。じわりと歩くよりも筋肉が疲れないので、興味が湧いたところではキチンと立ち止まろう。シャチハタの座版スタンプを持ち歩き、なるべく宅配便を利用して手ぶらで歩く。座版は極力何にでも使う。会いたい人、思い出した人が居たら書いておく。聞いたことがない音楽に敏感にあること。アルコールが高いことを嘆かないこと。
少なくとも何処かと違う、と思うにとどめるだけで良い
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
どんなレベルを目指しているかで全然違うと思う。海外旅行で何とか無事に行って帰って来られればいいのか、それともビジネスとかでこみ入った内容まで話せないといけないのか。
海外旅行だったらとにかく中学レベルの英語を思い出せばいい。特に非英語圏の有名観光地だとお互いブロークンイングリッシュで案外何とかなる。ヨーロッパ圏の観光施設とか土産物屋なんか特に親切。心配だったらガイドブックに書いてあるような定番のやり取りを覚えて行けば良いと思う。
ビジネス英会話だったらお金を払って勉強した方がいいと思うけど、始める前にビビり過ぎだと思う。正確かどうかよりも通じるかどうかが大事。旅行会社の添乗員でも結構カタカナ英語みたいなしゃべり方してるよ。
「セクハラ無理やり条文限定解釈」の予定でしたが、精読したら吉峯耕平弁護士が「環境セクハラ」は男女雇用機会均等法の場合以外は成立しないとは言っていない事が分かったので、私の「誤解」だったためタイトルを変更しました。詳細は後述します。
で話を始める前にうーん正直「どこから説明しましょうか?」と困惑しないこともないですが、現状のはてなーのセクハラに関する理解を考えると「いちからか?いちからせつめいしないとだめか?」とも思いますが「そもそもセクハラとはなんなのか」は別稿にします。
吉峯耕平弁護士の
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191023/dom1910230007-n2.html
やそれを詳細に解説した
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1417667
まず、正直言うと法律に関して素人の私は吉峯耕平弁護士が何を言っているのか理解できませんでした。で、精査したところ、たぶん吉峯耕平弁護士はこの様にセクハラを理解し、こう主張したいのだろうと理解できました。
まず基本的な理解としてセクハラではないですが企業内の問題として考えられるにパワハラに関して佐々木亮氏の見解を見てみましょう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sasakiryo/20191022-00147889/
いやー、本職だからわかりやすいですね。で、セクハラとパワハラに当然違いはありますが、ここで抑えて欲しいのは、「パワハラじゃない行為」と「裁判で違法とされたパワハラ」の間に「裁判では損害が認められないパワハラ」があることです。
セクシュアル・ハラスメント法律相談ガイドブック内の15Pから19Pで記述されるセクハラの定義は
となり更に狭義のセクシュアル・ハラスメントは
となります。この狭義の1と2がパワハラにおいて、「裁判では損害が認められないパワハラ」に対応するかと思います。
ただ、狭義の分類は法的議論をする際に別に狭義に限らず観念でき思考経済的にも有益なので、それを表にまとめます。
セクハラの分類 | 道義的 | 管理的 | 法的 |
---|---|---|---|
最広義 | A | B | C |
広義 | D | E | F |
狭義 | G | H | I |
道義的は、一般的に嫌だよね、批判したり避難はできても、それで誰かに法的になにかを要求できるわけではないよ、ということ。
管理的、と言うのはたとえば企業や学校がなんらかの処罰をしたり措置を取ることです。
さてこれでやっと吉峯耕平弁護士の主張を分析する補助線が引けました。
まず「男女雇用機会均等法」で規定されるというのはG,H,Iの分野です
「私法上の不法行為の類型としてのセクハラ」D,E,Fとなります。
これだけで私がなぜ吉峯耕平弁護士の主張を理解できなかったか分かる方もいるかと思いますが、解説すると実は「環境型セクハラ」はG,H,Iの領域であるにも関わらずIのみを指すと言っているのです。
そして太田啓子弁護士の「環境型セクハラしてるようなものですよ」はCだと誤解を与えると批判しています。
言い換えれば弁護士が「環境型セクハラ」と発言したらそれは当然にC,F,Iの事であると主張していると解釈できるかと思います。
1989年に出版された日本におけるセクシュアルハラスメントに関する先駆的な著作であるクランブル講座!セクシャル・ハラスメント!―あらゆる疑問、戸惑い、怒りに答える本! において現在対価型セクハラとされるものが中核的セクハラ、環境型セクハラとされるものが周縁的セクハラと定義されています。
そもそもあくまでセクハラの分類の問題であり、法律は後追いで作られたものです。
法は辞書ではありません。「よって法律にこうある!」はかなり苦しいかと思います。
もちろん弁護士なら辞書に載ってる一般的な意味ではなく法的な定義に従うべきと言う意見は一定の説得力があります。
しかし例えば「社員」は社団の構成員を指し株式会社なら株主、有限会社なら出資者を指すのが法的な定義ですが、弁護士が「社員」と言って一般的な「正規雇用の従業員」を指したとしておかしいですか?
また愛知トリエンナーレのガソリン脅迫事件を「脅迫」と表現する弁護士は普通にいますが、あれは刑法上は脅迫にあたらず威力業務妨害などになりますが、弁護士が脅迫って使ったらおかしいですか?
さらに言えば私が受けたセクハラ研修では「対価型セクハラは一般に環境型セクハラよりよりセクハラの侵害の程度が重いと思われるがかならずしもそうではない。なお両者はどちらか区別が難しい事例もある。またそれらのセクハラはその侵害の程度により法的な問題になるものから社内でのなんらかの措置を必要とされるもの、そこまでいかないで倫理的な問題にとどまるものもある」と弁護士が言っていましたが、この弁護士も吉峯耕平弁護士からしたら太田啓子弁護士同様「強い言葉」を不適当に使っていたとなるのでしょうか?
吉峯耕平弁護士も在籍していた東京大学の東京大学におけるハラスメント防止のための倫理と体制の綱領 との整合性はどうとるのでしょうか?
これは吉峯耕平弁護士が主張する「私法上の不法行為の類型としてのセクハラ」D,E,Fを規定するものとなるでしょうか(厳密には職員間はG,H,Iですが今回の主題と無関係なので割愛)
さてこれを法律的見地から解釈すると、まずこの規定は東京大学の内部のみの問題なので他の分野に関してはなんら定義していません。また「他の人を不快にさせる性的言動」だけで実害や継続性もなくセクシュアルハラスメントと定義していますが、施設管理者として違法なFが発生しないように法的な権利侵害にならない程度のセクハラを独自に定義して抑制対応するのは十分妥当だと言えます。無論、東京大学の内部的な処罰とその重さを法的に判断される場合はでてくるかと思いますが、それも今回は関係ないので割愛。
と、多分吉峯耕平弁護士もこの様に解釈してこの規定を妥当だと判断するかと思います。
でも、法的知識がない人がこれを見たら「そっかー他の人を不快にさせる性的言動がセクハラかー、でそのセクハラが対価型と環境型に分かれるのかー」と解釈するかと思います。
翻って太田啓子弁護士の「環境型セクハラしてるようなものですよ」を一般人が解釈するとまずセクハラという言葉に着目し、一般的な意味で環境型なので、具体的な行動でなくても周りの環境がセクハラになる場合もあるのかー。とせいぜいA,D,Gだと思うのが通常ではないでしょうか?もちろんそれ以外も排除はしないでも直ちにC,F,Iだと解釈するとは思えません。
ここまで分析して気づいたのはおそらく吉峯耕平弁護士「環境型セクハラ」という言葉から直ちに不法行為責任(裁判をして賠償などが認められこと)を問えるセクハラであると解釈しその妥当性はすでに疑問がありますが、かりにそれを妥当だと認めても、その様な判断をできるのは法的な専門知識をもった吉峯耕平弁護士だからこそなのに、それが太田啓子弁護士の主張が妥当的と勘違いする段階では一般人の判断基準を使っているのです。
つまり、誤解する人というのは「環境型セクハラ」を吉峯耕平弁護士と同様に解する程度法的知識はあるが、全体として太田啓子弁護士が妥当ではないと判断できない人となります。
さーて、本当は「誤解」について詳述したかったけど長かったので分割します。
その3以降で書きたいことは今の所
「De titibukurō(乳袋論)」
あたりかなー。順番はこの順で3は誤解について書くけど、それ以降は希望とかあれば順番変えるよー
ある土曜の午後、農林水産省の外郭団体が主催する競技に大人の出資者として参加するべく俺は都心のとある場所にいた。全然関係ないけど今日は土曜なので小池都知事はお休みだろう。ゆっくりと、休息を取れるよう工夫をしていただきたいっ、かように思う次第でございます。
競技開始まで時間があったので俺は目の前のゲーセンに立ち寄った。いつもなら酒のシメなのだが今日はシラフな上、本当にただのヒマつぶしだった。
わりとあっさり15センチくらいのピンクの犬が取れた。手触りが低反発枕みたいにポワポワして気持ちがいい。ヒマつぶしになったので店を出ようとすると目の前に外国人観光客の家族連れがいる。たぶん7~8歳に満たないであろう女の子がパパに叱られている。彼女の顔の前で人差し指を立てたパパの言葉はロシア語だ。俺は大人なので外国語も堪能だ。ロシア語とて例外ではない。絶対こう言われてる。俺にはわかる。
「いいかい?イリヤ、一回だけと言う約束だ。これ以上やりたいと言うならスシはなしだ。ユニクロのヒートテックもだ」
そう言うとイリヤの両親は振り返りもせず店を出て行った。正解だタワリシチ。そのマシンはガキにはまだ早い。レバーが胸より上じゃないか。しかし納得の行かないイリヤが後ろからパパのお尻をぴたんっと叩いた。親に暴力を振るうとは何て恐ろしいガキだ。絶対に許さん。本来なら年齢的に俺の標的の対象外かと思われるがここは人の道をはずれたこのガキに大人として俺は制裁を加える決心をした。
後を追うように俺は店を出ると、両親の後ろをトボトボ歩くイリヤに気配を消して後ろから追いつき、さりげなくイリヤの隣を歩いた。何気なく見上げて来るイリヤに、俺はすかさずさっき取ったばかりのピンクのポワポワの犬を手渡した。反射的に受け取るも、次の瞬間びっくりして目を見開くイリヤ。青と言うより深い緑の瞳が宝石のようで、もはや人類のそれではない。俺はそのまま無言で振り返りもせず道路を足早に渡ると反対側にあった激安の殿堂に姿を隠した。完璧だ。
あのやたら耳に残る4小節のシャッフルメロディの流れる店内で、俺は独りほくそ笑んだ。今頃イリヤは父親に怒られてるに違いない。「ちがうの!筐体をこじ開けたりなんかしてない!本当に知らない日本人のモアイに似たおじさんがこれくれたの!お願いパパ信じて!」などと泣きながら訴えても信じてはもらえまい。仮に信じたところで今度は爆発物が入ってることを疑われてそのピンクのポワポワの犬は捨てられてしまうかもしれない。東欧の人間だからな。いいのだ。家庭内暴力を容認する父親のお前も同罪だ。心ゆくまで疑心暗鬼に陥るがいい。
いずれにせよ初めての日本旅行が親からの信頼を喪失する場となってしまい落胆したイリヤはそのトラウマを抱えて笑顔を失った女として大人になるだろう。ざまあみろ親に暴力など振るうからだ。人生は大抵やり直しは効くが取り返しのつかないこともあるのだ。
しばらくして俺は激安の殿堂を出ると、競技の中継を行う施設へ向かうべくガード下を通った。すると目の前に外国人観光客の家族が座っている。イリヤ達であった。両親は「TOKYO」と書かれたガイドブックに没頭して何か話しているが、イリヤはその隣に座っていた。手にはピンクの犬。あのポワポワの感覚を楽しむようにイリヤはそれをほっぺたに当てていた。
どうせ気づくまいと俺は多少距離を取りながら彼らの前を通過した。するとイリヤが俺に気づき隣の父親を揺さぶる。いかん!これは反撃されるかも知れない。そう思った瞬間両親の視線が俺を捉えた。ガイドブック読んでろよロボットレストラン探してろよ何だよその反応の速さスペツナズかよ。
今にも「スパシーボ!モアイに似た人!」とでも言いたげなその笑顔の表情に対し俺は通りすがりの大人の無表情で一瞥をくれると腹の中で「モアイじゃねえよ」と言い返しながら急いでその場を立ち去った。慌ててたのでガードレールをまたぐとき踵がぶつかって転びそうになった。
なるほど、ほっぺたか。