はてなキーワード: 結果的とは
女性が性的消費されてる表紙と同数ぐらいになれば流石に嫌だってなるのかなって思ってたけど
まぁ、女性を性的消費する様な描写なんて書店であっても、漫画の中であっても害でしかないので、どんどん排除して欲しいし、anan批判して自らの首を絞めて欲しい。書店で子どもたちが見る場所にもエロが無法地帯になっている現状を見れば、規制すべきだよ。せめて年齢制限ぐらいは設けて欲しいよね。
あと忘れてはならないのが、男女では社会背景や抑圧されてきた歴史が違うので「男性を性的消費する事」と「女性を性的消費する事」は決して同列には語れないという点。
本当に本当にそう。
ananを「男性の性的消費」という面から批判している層は、男性の性的消費どころか表現の自由も本当はどうでもよくて、もっと言えばヘテロ男性向けのエロ表現が消え去るという危惧なんて本当は持ってなくて(ネットやホモソ社会でいくらでも得られると肌で感じてるから)、ただただ「弱者であると分かりきってる女性の必死の抵抗」を言葉遊びで潰すのが楽しいだけなんだよ。青い論の人とかまさにそう。
ananと宇崎ポスを比較する人が多いが、献血ポスの主要論点が「献血ルームという公共性の高い場で、巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『胸の大きい女性は性的に扱ってよいもの』との固定観念を促進する」だったのを考えると、ananはこの2つの論点のいずれにも該当しない
一方で「献血ルームという公共性の高い場で、過度に性的な掲示を行うのは不適切ではないか」という論点も存在する この場合は、後者の問題にananも抵触すると判断しうる 「献血ルームのような場(=前者の問題にも抵触する)であれば、自分もそれには強く反対する」という声が少なくないのはそのため
自由戦士はこの論点を理解できていないために、「献血ルーム等の公共性の高い場だけでなく、書店でもananの掲示は不適切」と言わんばかりの主張をしてしまっているが、これではそのまま「じゃあ書店で宇崎ポスター貼るのもダメだよね」と返ってくる 論点の把握を欠いたミラーリングは結果的に自滅する
もし「胸の大きさが無関係な献血に人を集める目的のポスターで巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『女性の身体の性的特徴を物的に扱ってよい』との固定観念を促進する」といった説明だとどうですか? -「ananはこの論点に該当しない」と言えるように思います。
「そっちがこうなら、これはどうだ」的な話は、どうかとは思うんだけど、いつもは「性的搾取?性的モノ化?」みたいな人たちが、「anan」の年一の特集だけには躍起になっているのは、やっぱり側から見て「ふむ……」となってしまう。
男の半裸を表紙にするのはけしからん、不快だ、というならそう言えばいいのに、自分からは意見を出さずに「フェミニストはこれに文句をつけない、ダブスタだ」と言うばかりなのね。男の裸と女の裸が同じ意味なわけねえだろ。行き過ぎたジェンダーフリー教育とやらでも受けたのか?
俺の観測範囲でananのセックス特集を決死擁護してる女性やフェミは見たことないわ。表現の自由的な観点から擁護してる人や事実として間違っているから指摘してる人はいるけど。そういう意味で性的/性的消費な表現ならどんなものでバックンバックン食いついて徹底擁護する表現の自由戦士はすごいな(棒
僕が知っているフェミニストの人達はananがセーフだなんて言っていないのだけど、そんなこと言っている人がどこにいるの?
「綺麗な裸」と「チンコ立たせるための裸」ということで一応説明されていると思います
女性の尊厳を踏みにじっていない男性誌をも撤去せよと主張する人がいるとしたら、それはもう僕には分からない。
献血ポスターは多くの人の目に付くものなので、あの内容ではセクハラになりえます(女性の尊厳とはまた別の問題です)
プライベートというのが何のことだか分かりませんので、それについてはなんともいえないですね
男性が「エロい男の写真を公共の場に置くのは男性性の消費だ。撤去しろ」と思うのならそう訴えればいいじゃないですか?
なぜしないんですか?
女性は声を上げた。だから女性蔑視的なコンテンツは姿を消しつつあるのです。
男性蔑視的なコンテンツを消したいなら、男性が声を上げるしかない。
断言していうが、「文化の盗用」で擁護されたマイノリティ文化は滅びる。
文化というのは担い手の数そのものが、文化の維持と拡散、発展につながる。
マイノリティの文化ほど、多くの人間に活用され浸透されるなければ維持できない。なので、そのために広報活動を行い、多くの人に触れてもらって文化の維持を行っている。
文化体験であったり、文化事業であったり、普及啓発活動を行うわけだ。
しかし、「文化の盗用」とかいうポリコレお気持ち概念のせいで、この普及が支障をきたすわけである。
「マイノリティ文化はマイノリティの物」というのは一見正しいように見えるが、「マイノリティだけ担い手となってその文化を維持することはほぼ不可能」である。当然だ。新規の客がいないんだもの。
具体的に言おう。
例えば和服だ。和服は「日本ですらその文化維持が困難」だ。もう、ほっとけばそのうち滅ぶだろう。最低でも規模の縮小は免れない。
だから外国人に普及をしようと大変な努力を払った。これは当たり前だ。着る人が沢山いなければ、職人を養えない。職人が高い技術も維持できない。だから衣服は着る人を増やさねば文化が死ぬ。
職人を志す人もいなくなる。国が保護すると言っても、現在の技術力を維持は不可能だろう。だから海外市場に「和服を広めよう」とした。
というわけだ。
つまり文化の盗用が、文化維持の邪魔になるわけだ。日本だけでは近い将来、和服文化の維持は確実に困難になるだろう。少なくとも規模の縮小は免れない。いずれ滅ぶ。
言語についても同じことが言える。マイノリティの言語はいくつも滅んだ。担い手がいないからだ。
しゃべる人間を確保しなければ言語は死ぬ。だから日本でもアイヌ語は普及に大変な苦労を払っている。方言にしても、危機的な言語の担い手を何とか増やそうと公的な扶助や取り組みをいくつもやっている。普及の努力は甚大なものがある。しかしここでも「マイノリティの言語をしゃべっていいのはマイノリティだけ」なんて言ったらどうなるか。
「滅びろ。それまでにはアーカイブ化して博物館に飾ってやる」ぐらいの意味である。
柔道を例にとってみよう。柔道も世界に進出しなければ確実に滅んでいた文化だ。少なくとも今の技術水準の維持はあり得なかっただろう。門外不出の武術というのは、大体技術力が低下する。そして滅ぶ。柔道人口も、国内では減少し続け、海外勢が居なければ確実に今の状況はあり得ない。じり貧だった。
つまり「文化の盗用」というものは、強者が博物館でマイナー文化を滅ぼしコレクションするだけのものだ。当然だ。
「マイノリティの文化はマイノリティだけの物」としたら、メジャー化することがあり得ないんだから。
だから「文化の盗用」は、保護ではなく文化の安楽死を意味してる。
文化の盗用を適応されたら「マイノリティの中で文化を維持する」→「いずれじり貧になって滅ぶ」という呪いのようなものだ。「文化の盗用」という概念は、無自覚な白人優越主義とリベラリズムの悪魔合体で誕生し、間違いなく多数の文化を滅ぼすだろうと予想してる。
しかし、こういう当たり前のことを当たり前に言うと「レイシスト」と罵られて散々な目に合うのが今の世界的なリベラルの状況だ。どっちがレイシストだよ全く。
3行まとめ
・仮面ライダーゼロワンという特撮では人型ヒューマギア(アンドロイド)が多数登場しMCチェケラはラッパー型ヒューマギア
・登場した第28話において政治家の汚職事件を目の当たりにしシンギュラリティを超えて自我に目覚め「汚え人間は滅びろ!」と叫び暴走して怪人になる
・奇しくもその後作中のラスボスと真ラスボスが導き出した結論が同じ「人類滅亡」
ゼロワンはコロナにより途中何度かの総集編を挟むとはいえ、全4クールの特撮である。
その3クール目の中盤においてMCチェケラは他者の介入ではなく自分の意志によって「人類は滅びるべき」であるという答えに自らたどり着く。
その後に真のラスボスが自我に目覚めた上で同じ結論にたどり着くのが4クール目中盤であり、実に丸々1クール分早く作品の究極の問いかけを始めてしまったことになる。
これが主要キャラの手によるものならばまだしも、MCチェケラはぶっちゃければ各話ほぼ使い捨てのゲストキャラ兼怪人でしかない。
真ラスボスがこの答えを導くのにかかったのは番組のほぼ全期間、それに対してMCチェケラはたったの1話。
作中の描写に置いては極めて短時間での結論であるが、その問の重さは同じであるはずだ。
人類という悪意の源泉が存在すること自体が人とヒューマギア双方に不幸を生むのなら、人類こそが滅びるべきなのでは?という問いかけをしたのがゲストキャラだろうとメインキャラだろうと、問いの内容は同じなのだから。
MCチェケラの存在があまりに時期尚早かつ劇的であったことから、彼はその後作品から半ば抹消されることになる。
総集編においても彼がこの思想に目覚めた理由が「ラッパーという職業がもともと人の悪意を蓄積しやすい職業だったからだ」という職業差別のような言い方で片付けられてしまう。
何故そうなったのかは、作劇上の都合も大きいだろう。
その後3クール目後半から4クール目にかけての主人公の決め台詞が「夢を通じて自我に目覚めたヒューマギアは絶対に暴走はしない!」であり、極めて食い合わせが悪いのだ。
夢や自我に目覚めたら暴走しないというのならば、人を滅ぼすという夢に目覚めシンギュラリティを超えたチェケラが怪人となったことは暴走ではなかったのか?という当然の疑問が生まれてしまう。
この噛み合わなさがすぐに片付けられたのならば、単なる作劇上の小さなミスで終わっただろう。
だが。そこからフォローを一切しなかったのはあまりにも大きな痛手となる。
チェケラが人類滅亡思想に目覚めた理由に対して、ラスボスの介入があっただとか、故障があったとか、なんなら夢や自我の定義を狭めて使っていることを公表するとか、何かしらやりようはあった。
だが仮面ライダーゼロワンスタッフが取った対応は、完璧な無視である。
作品が最後に立ち向かう問がまさにその「ヒューマギアが人類滅亡を夢見た時、人はどうやって対話をするのか」なのだから。
MCチェケラに対して主人公や番組スタッフが行ったのは「ぶっ倒したら存在を忘れ去る」ことだった。
では、共闘や話し合いを何度も繰り返し物語をいくつも積み上げてきたラスボスに対してもそれを繰り返すのだろうか?
あれだけの時間を積み上げて、結局は都合が悪くなったので存在をなかったことにするのが令和最初のライダーのやり方になるのか?
いい年をして特撮番組に齧りついている大きなお友達の注目が集まっている。
1つはここで語れるような先駆者になりすぎて番組から消された問題児。
もう1つが、ラスボスと違って咄嗟に逆上して汚い言葉を口にしただけの薄っぺらいチンピラアンドロイド。
では考えてみよう。
MCチェケラの口にした「汚え人間は滅びろ!」は果たしてラッパーの雑なDISだったのだろうか?
彼がなにに対してそこまで怒りを示したのかをまずは公式サイトから引用してみよう
「お仕事五番勝負」の最終戦は、ヒューマギア自治都市構想を巡る住民投票で支持を得るための演説対決となった。ザイアは市会議員の由藤(大塩ゴウ)を起用し、ヒューマギア廃絶を強力に訴える。
対する或人(高橋文哉)も政治家ヒューマギアで対抗しようとするが、ヒューマギアは政治家になることを禁じられているため“政治家ヒューマギア”は開発されていない。イズ(鶴嶋乃愛)はラッパーヒューマギアのMCチェケラ(副島淳)で勝負を、と提案する。
或人とチェケラは由藤が賄賂を受け取っている現場を抑えることに成功。テレビの公開討論会でチェケラは映像とともに由藤の悪行を暴露する。一気にチェケラの支持が上昇するが、由藤はザイアスペックを使い濡れ衣だと主張。証拠となる映像を提示し、チェケラの映像をフェイクだと言い放つ。
引用元URL https://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/story/?28
短くまとめると「討論相手の政治家が賄賂を受け取っていることを映像と共に批判した所、相手側は偽の映像を用意してきた」ということになる。
十分だと私は思う。
まず、政治家とは人間社会全体の方向性を決めるような職業であり、それが悪事に手を染めるということは人類の方向性そのものが悪に向かう傾向があるということになる。
次に、その悪事が暴かれたときのためのフェイク映像があっさり出てきたということは、悪事を働く者達はその隠蔽に長けており、人類はそれを裁くだけの自浄作用を持ち合わせていないということだ。
なにより、記録というものはヒューマギアにとって記憶とイコールである。そこにフェイクを混ぜるのは世界そのものの再構築にすら近い極めて危険な行為となる。自分の罪を逃れるためなら平気でそれを行う人間の姿は倫理的に大きな絶望を与えることが想像に難くない。
MCチェケラが目撃したのは「人類社会は確実に悪に向かいながらも自浄作用がなく倫理観が崩壊している姿」なのだ。
作中の他の場面で、『ヒューマギアってやっぱ純粋だな。よくも悪くも、ラーニングの影響をもろに受ける』いうセリフが出てくるが、まさに純粋な心をもって解釈すれば人類は滅亡すべきであるという結論にたどり着き、ロボット三原則との矛盾からシンギュラリティに到達するのは当然とも言える場面なのだ。
MCチェケラ、彼の語る人類滅亡論はある意味では極論だが、そのロジックが間違っているとは言い難い。
それについて何故、主人公もスタッフも向き合うことがなかったのか、それでいて何故今になって同じ問題を最終決戦として取り上げるのか。
私にはそれが分からない。
先日、尊敬する同年代(30後半~40前半)の経営者仲間たちと話した際に、そのお一人が「自分はもう死んでも後悔は無い」という旨のことを言っていた。
自分はどうなのか、と考えるが、その彼と違ってまだ何も成し遂げていない中で、同じ境地には至れない。
なら、どうすればその境地に到れるのだろうか。と同時に、自分はなんのために自らの事業(まだ小規模)をやっているのかと、改めて考える。
30代にて遅れてフリーランスとして独立し、それから組織となりなんとか少しづつ成長してきている。このまま頑張っていけば、それなりの価値を世の中に生み出せるというイメージも持てるようになってきた。
けど、今の事業をただこなしていくのが正しいのだろうか。それで、最後に満足して旅立てるのだろうか。
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一方で、私の周囲には20代の起業家が次々に生まれ、メキメキと成長している。
彼らは若く、エネルギーやアイデアに満ち、世の中を良い方向に進めることに疑問を持たない。その突破力は圧倒的だ。
日本は今、経済の停滞のみならず、社会的な不安や不満、言いようのない淀みが広がっている。その最大の理由は、新陳代謝が無いこと。
社会もヒトも高齢化し、新しいアイデアやチャレンジが生まれにくくなっている。
流れない水は、淀み、腐る。
そんなとき別の仲間から、「サーバントリーダーシップ」という概念を聞く。
ああ、これだ、と。
自分も40代に突入した。ビジネスの世界では、まだ若いと言われる。けど、周囲にいる20代の優秀なリーダーたちが30代になったとき、彼らの生み出す価値はより増大し、あっという間に自分を追い抜くだろう。
だったら、もういっそのこと、自分は最前線から退く準備をしはじめたほうがいい。
そのほうが、自分でなにかを成そうとするよりも、大きな価値を生み出せる。
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エネルギーに満ちあふれ、世の中をより良くできる可能性を持った若者は、人生の先輩たる年上からも敬われるべきだ。
その方が、世の中を変革し、価値をより増やせることができ、結果的に多くの人が幸福になれる。
生まれてこの方ずっと自信が無い頭の純粋な疑問なんだが、世の中の人々はどういう思考で結婚にこぎ着けてるんだ?
結婚したい、はまあ分かる。猛烈に寂しくなることはある。別パターンとして先に相手がいて、こいつと添い遂げたいと思うこともあるんだろうなと想像はできる。が、そのパターンは経験がないのでパス。
その次の段階として、自分を相手の結婚相手とするため動き出すと思うんだけれど、それにブレーキはかからないのか?
街コンでもマッチングアプリでも相談所でもいいんだが、自分を売り出して結果的に期待外れだと思われるかもしれないということが怖くはないのだろうか?誇張してまで選ばれたとしてその後はどうなのか?外見で好かれても老いなどでいずれ変わる。家事や子育てなんかもすることになるかもしれない。満足のいくパフォーマンスができるのか?できないのに相手の人生の選択肢閉ざしていいのか?自分を選んだことを後悔される未来を考えるだけで寂しさを埋める意欲が削がれるほど恐ろしいのだが、そもそも彼らはそんなこと考えてないのかどうなのか。自信に満ち溢れられればそんなのお互い様という風に思えるのかなあ。そもそも自分が悪いところだらけだって気付いてないとか。それはそれで幸せそうだ。
他国をバカに出来ない状況にある昨今でよく聞く意見として「自粛解除が早すぎた」とか「再度自粛要請が必要だ」ってのをよく見る。
自粛に効果が無いとは言わないが、自粛するだけでは問題の先延ばしにしかならない。
COVID-19ウイルスが蔓延してしまっている以上、一時的な対応で恒久的なCOVID-19の脅威を押さえ込むことなど不可能なのは明白。
結局のところ「感染者を特定し隔離する環境をいち早く整備し、治療薬が認可されるまでその環境を維持する」のが唯一の現実的な解だと思う。
そのために環境整備できるまで自粛要請、ということであれば有効だろう。
一度目の自粛要請では「いずれ治まる」という甘えが全国的に蔓延していたため、結果的に単なる問題の先延ばしにしかならなかったことは致し方ない面もある。
ただ、もし次に自粛要請をする際に具体的な恒久対策無しでやるのなら、ホントに無能と言うほか無くなる。
まあ少なくともラブライブではないと思う。
あれは「努力・友情・勝利」の物語が、努力も友情も勝利という目的のための手段に成り果てるという構造的欠陥を抱えていることに無自覚すぎる。青春も、思いも、全てがアイドルとして多くのファンを獲得するための道具になってしまっている。アイドルは物語によって夢を売るものだけど、その物語が飾らない自分たちの青春であれば、それは青春すべてがファンサービスの一環として商業主義の中で昇華されるリスクを抱えることになる。μ'sの物語は見事に自ら生み出したその消費の渦に飲み込まれてしまい、学園生活のすべてがアイドルとして勝利をおさめるまでの過程となった。手つかずの自分たちだけの青春はもう欠片ほどしか残っていない。自分たちだけの努力、ファンの手垢にまみれていない純粋な友情、それらすべての当たり前の学生らしい青春が失われて、アイドル活動の一環でしかなくなった青春。その世界観が貫かれているならいいが、実際は甘酸っぱい青春の物語であろうとし続け、そうして売り込むがゆえにその青春はいつまでも消費され続けていく。その矛盾が結果的に広げた不協和音の結果がアニメ二期以降シリーズ全体に漂うちぐはぐさだ。それがある時点で最高峰とは言えない。減点があるというより、全力でのめり込もうとしても障害物がコース上に多すぎて見ていて何度も感情にブレーキがかかる。偶像崇拝の触媒として、決して優れているとは言えないだろう。
とある漫画を読んだ。それを読んで引き摺り出された「努力と普通」に関する自己嫌悪と自己愛を吐き出す。
死にたいけど死ぬための努力もしたくない。なんにもなれないならボタン一つで苦痛なく死にたい。そのための苦労は他人が負ってほしい。この考えはエゴなんだろうか。
ずっと努力していない状態が「普通」で、努力しているのは「がんばっている」だと思っていた。がんばることは辛いからがんばっている人は偉い。偉くなりたくなければ、努力しなくてもいい。
なぜかそんな思考が染み付いている。
でも、成長したら普通になるために努力するのが「普通」だと叩き付けられた。何かにつけて、普通の人との差を見せ付けられるたびに自分の本当の順位を見せられて痛い。
私は現実の見方が、受け入れ方がわからない。「こんなはずじゃなかった」といえばいいのか。そういう処世術を誰も教えてくれなかったじゃないか。
本当は小さいころから努力のやり方を学ばないといけなかったのだ。小学校のときから努力が大嫌いで、適当にやってもテストで平均点取れてるからみんなの言う「普通の学校」に進学できると思っていたんだ。
この普通は100点中、50点だ。本気で私は50点の人間だと信じ込んでいた。競争の真っ只中に放られるまで。
それがどうだ?勉強をすべて投げ、かといって趣味もなく、何にも打ち込まない。コミュニケーション不全を拗らせたぼっちが、どこの世界の50点なんだ?
よく考えてみなくても、友達も実績もどこかからか湧いてくるわけではない。誰かが努力の末に手に入れているものだとという視点は皆無だった。そもそも人への興味を持とうとすらしなかった。
手に入れた人は運が良く才能があって、結果的にそうなった。だから私にも運と才能があれば、他人みたいな普通の幸せがやってくる。
だって、自分が何もしてこなくて平均以下であることを認めたくない。私は普通だ!まだ人生はやり直せる!ああ、努力する才能さえあれば!
なにをいってる。身の程を知れ。20年間何もしてこなかったツケを今払ってるだけだろ。
でも、こんな文章を書いて自己正当化を図るくらいにはプライドは高くなって、自己愛は素晴らしく自分の性分を肯定する。
ようするに自分のことを理解できている人のふりして長文を書き、気持ちよくなりたいだけだ。何かを実際にしたいわけではないし、本質は目を逸らしたいところにあるので自分への理解さえ十分にできない。匿名世界ですら悲劇のヒロインでいたいんだろうとは思うが。
せめて言い訳ぐらいは上手くなってくれればいいのに、それすら「他人のせい」の一点張り。薄っぺらすぎてつまらない。何にもない。
もうだめだ。クズがクズのまま許容される社会を真面目に望むし、評価される社会が嫌だ。それって、努力する全ての人を馬鹿にしているだろうか。
もう10年以上前に完結した話、おけパの概念に惑わされる人間で楽しみたい人向け
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/25/news011.html
言葉そのまま
自分は「おけけパワー中島」の概念から生まれた【人物像※】に当てはまっていて、
うまくいってると思いきや全然そんなことはなくおけパを拗らせ失敗し結果的に縁を切り
神にとってのおけパの立場を跡形もなく失った。
10年以上経過した現在、やはり自分はおかしかったのだと再認識した。
※おけパの人物像(いくつかの記事やコメントを拝読し自分がこういうものか、感じたものなので正しくないかもしれない)
・神と仲が良い:通話を定期的・突発的にできる、メール及びLINEでの気軽に連絡を取り合える)
・神と対等な関係:リプライを気軽に送る・不特定多数に向けた空リプもする・作品の布教が可能
・神のことが好き:携帯サイト時代から綾瀬の作品を見ておりいわゆる古参にあたる
神とはとあるジャンル"A"(以降『Aジャンル』と表記)にはまってすぐに出会った。
PCや携帯サイトが主流の時代だったため、当時のTwitterは今ほど誰でも使用しているツールではなく
インテリ同人作家が使ってるみたいなイメージだった(インテリという単語以外にしっくりくる単語がなかった)。
そんなTwitterに憧れて自分も登録、携帯サイトを運営しつつTwtterで相互の人達とイラストをあげたり語ったりそりゃもう楽しい時期だった。Aジャンルは開始してすぐとはいえ大きなジャンルになるまでそうそう時間はかからなかった。ありがたいことにフォロワーも増え、自分はもう調子に乗りに乗っていた。日課の「推しの名前」で検索をしていたある日、人生が変わった。
その時の神のフォロー・フォロワーは共に1桁、ツイートは数える程度。神が初めてTwitterで投稿したイラストと漫画を発見してしまった。自分にとってのキリストが生まれた日だった。メリークリスマス。構図はすばらしく絵は緻密、オシャレな絵柄に圧倒的なセンスと配色、心を奪われないわけがなかった。
もうとにかく描き切れないぐらい最高な絵だったのだが神曰くけっしてメチャクチャ気合を入れた絵ではないらしかった、神はあろうことかその完璧な作品を「落書き」と言っていた。すかさずふぁぼ(今でいうハートのやつ)を押し、しばし眺め保存しすぐフォローした。当時の自分はフォロワーがありがたいことに沢山いて、いくつかイラストを上げていることもあり同じ畑の者、自分がフォローしたらフォロバしない人はいない。本気でそう思っていた。
「フォローされています」の表示に飛び回って喜んだ、嬉しすぎると人は奇行に走るものなのだと実感したし涙も出た。神、好きです
少ないフォロワー数でガンガンにリプライを飛ばしてくるアカウント、嫌でも気になることだろうと思う。
自分は神に好かれるためほぼほぼストーカーと化していた。最初はもちろん丁寧に挨拶をして、おはよう・おやすみなどのツイートへの返信は欠かさない。イラストをアップしたら即ふぁぼ即RT即リプ(誰より先に反応することがマスト)し、神の作品は自分のタイムラインで布教。萌え語りをしていたらすかさず返信し会話を盛り上げ、良いと思えば作品だけでなく神のツイートもRTした。好意がありあまり気持ちが爆発してそんなことをしていたのだが、神は好意的に接してくれた。あろうことかタメ口で話すことを許された。嬉しかった。空リプもしてもらえるようになった。天にも昇る気持ちだった。神の連絡先を教えてもらい、作業通話だけじゃなく何でもない日に電話もした(文字での会話でないあたりが神に対する好意メータをはち切れさせた)。もう何もいらないと思えた。私が好きだと言ってくれた。死んでも悔いはなかった。
もしこの黒歴史を見ているどこかの界隈の神がいたら、自分のようなストーカー気質の人間に気を付けてください。自衛に役立てるなら幸いです。
自分だけの功績ではないのは承知だが神のフォロワーは日を追うごとに増え、フォロー/フォロワー数には埋めきれないほどの差がついていた。嬉しかった。神が神として界隈に認知され褒められAジャンルの中で圧倒的存在感を放つユーザーと化していく、自分の大好きな神が他人の神になりAジャンルの神になる。
気持ちが良かった。
神が神としてたくさんの人間に好かれる中、自分は神に好かれ相思相愛・唯一無二の存在に上り詰めたと本気で思ってた。神に好かれ神を好きな自分に酔っていた。大好きな人間に好かれるってメチャクチャ気持ち良い。2人きりのときだけじゃなくて好きだって大勢がいるタイムラインでも言ってくれる。神と自分は付き合っているのではないか、CPのようだと言われてめちゃくちゃに喜んだ。表面上はもうちょっとみんなやめてよ~つって実際はまんざらでもなかった、まんざらであるわけなかった。神の成長を初期から見続け友人として確固たる位置を獲得したのだ自分は。気持悪い自分に気づけなかったこの時点でおけパの素質は無いんだけど良かったら続き、まだあるから読んでみてね。
神と仲良くなって数年が経過し、これまで即売会では単独でのサークル活動しかしていなかった自分たちがついに合同サークルで即売会に出た。諸々の準備は神に負担をかけないため自分が行った(でもそれはそれで申し訳ないと思わせてしまうので比較的簡単なことだけ負担にならないよう注意しつつ神に振った)。自分のヘタクソな漫画も入ってる合同誌を出すことにもなった。とにかく恥ずかしくて神に見せるのが申し訳なかったしいまだに自分では読めない。自分がヘタクソだからとかそういう理由ももちろんあるけど、とにかく神の隣に並んではいけなかったごめんなさいという気持ちで読めない。でも即完売だった。自分の漫画部分はいわゆるパセリ役になれただろうか、それだけが気がかりだった。神の作品が世に広まってよかった。次もよかったら一緒に、なんて話して解散。
何度目かの合同サークル参加。お決まりのパターンで最初は自分が売り子して神は買い物に行ってついでに相互の人と交流。お昼をすぎればいったん戻ってくる。ほしかったものは全部買えたかな、嬉しそうで何よりです。神が戻れば、すこし時間をもらって自分も買い物に行く。ツイッターやサイトで仲良くしてもらっている人たちに差し入れを渡して本を購入し会話もそこそこに切り上げて、神と2人で話しつつ残りの時間を楽しもう、この本神買ったかな、推し作家だから読んでみてほしいなんて考えながら戻った我々のスペースには神とBが居た。
BはAジャンルの同CP界隈における神の一人で、もちろん存じているしサークル参加してるのも把握しているし毎度本も買っている、好きだ。そういえば自分が買い物にいったときBはスペースにいなかった。
あれれおかしいな。神、その人、自分じゃないですよ。そこにいるべきは自分ではないですか。そのスペース、神とBのサークルみたいになってませんか。初めて嫉妬という感情に潰された、そういう日になった。多分ここで神のおけパになれそうだった自分は死んだ
イベントが終わればアフター。Aジャンルで仲良くしている面々との恒例行事だった。
基本的に席はランダム、入った順に詰めていく。神の隣は絶対自分!などはしない、だって神はいろんな人と仲良くしたいだろうし、楽しそうな神を遠くからでも眺めてられれば別に良かった。神かわいい。でもその日は違った。嫉妬してしまった、神の隣を陣取るBに。いままでそんなことしなかったのに。2人きりで盛り上がる会話に入り込めるわけもなかったので自分も隣の人たちと話をして、普段通り接して盛り上げる。神とBはお手洗いに行くと言って2人で抜けたりしていたようだった。そんなちょっと気になる行動が何度かあったのち、隣の人に小声で話しかけられた。初めてアフターに同行したC。「なんかあの2人ちょっと感じ悪いですね、2人だけでずっと話してて他の人無視してるみたいです。」正直もっともだと思ったが、まあ色んな人いるよねって言っておいた。神のことは好きだけど擁護するのはなんか違うかもって思ったしダルかった。あとCとは話してて楽しかったし、そのまま話してたかったからだ。
翌日は二日酔いで気持ちが悪かった。Twitterに生活を支配されていたので、起きればすぐタイムラインのチェックに入る。おはようってツイートして挨拶リプを何度か交わし、スクロールする。目を疑った。神とBは2人で出かけていることを匂わせていた。お互い名前は出していないけど、分かってしまうのだ。だって載せてる写真に手元写りこんでるしそもそも同じ場所にいるし。リプはせずふぁぼって出勤する。神から自分に対するおはようリプは来なかった。そういえば最近神から挨拶リプもらってないな。
どうも神から避けられている、関心を無くされていると感じることが増えた。前回のアフターあたりを境にだ。変わらず神との交流はしていたが、どうも返事がそっけないのだ。そういう時期かなと思い少しリプの頻度を減らしたりした。通話は減った。LINEも送られてくることはほぼ無くなった。さすがに悲しくなってしまって、@tos(当時はtosじゃなくて@homeとか@nullだったかも)で弱音を吐いた。好きなんだけどなとか私はないんだみたいな内容。確かそんな感じで、神にとって気持ち悪かったんだと思う。(今でこそ言えるが実際こんなこと自分がされたらクソ気持ち悪くてブロックすると思う)
なぜ@tos機能を使ったかというと神が使ってたから。神は壁打ちで愚痴を吐くタイプだった。で、なんでそんなこと知ってるかと言うと自分は神のツイートだけじゃなく他人へのリプまで見るようになっていたから。神とBが仲良くなってからというもの、「自分以外と仲良くしている自分の知らない神が存在する」ことが辛くて監視するようになったのだ。神も気づいてたんだと思う。なぜなら@tos宛てで自分のtosに対する返信と思われるツイートをしていたからだ。@壁打ち機能を使う人って他の人の@壁打ち発言も見るんだ、とTwitterに詳しくなった。そこから1年くらい?似たようなことを繰り返しつつも続いていた。その間もサークル参加とかしてた。神との合同も。でもタイムラインに神が現れない日が1日あった。大丈夫かなって思ってフォロー欄から探しにいく。神、いない。アカウント消した?!って焦って自分のリプライ欄から神宛てのリプを確認、アカウントIDは生きていた。なんだ良かったバグか間違えてリムっちゃったかなって思ってとりあえず神のツイート見ようってアカウントIDをタップ。「ブロックされています」。「ブロックされています」?ブロックされてますって何?神のツイート見れないんですけど。神が自分をブロックするわけないという自信のもとすかさずLINE。間違いだったらごめんねブロックされてるみたいwって送る。既読がついてしばらくして「ごめん」ってLINE。スマホぶん投げて泣いた。
話してみればブロックは間違いでないということだった。動揺した。なんであんなに仲良かったじゃん何がいけなかったの?直すから教えてって聞いた。返ってきた返事は「あなたが私といても楽しくなさそうだから」「あなたの絵が苦手になったから」「あなたの活動を見たくないから」他まあいろいろ出ること出ること。あらゆる「神が私をブロックした理由」で追い詰められていく。それだいぶ序盤で言ってくれ~~~~~~~~~~ここまで来てそんなのさすがに酷いって思った。まあ自分が気持ち悪い崇拝をしていたのがそもそも問題なのだけど、そんなことは棚上げだった。だって神大好きだもん。こちとら同性愛者じゃないけど神となら付き合えるとすら思ってた、神ならぜんぜん"あり"だ。むしろ"そうなりたい"って欲すら沸いてて勘違いしまくってた。さんざん言われても神を失いたくなくて、直すよそんなことしないよ神が嫌なら同人活動も一生しないし何にも言わないって縋りついた。それだけ神に執着していた。最終的には「あなたの顔が受け入れられなくなった」と言われた。どうしようもなかった。顔は整形すればいいんだけど、その言葉を見てああもう本当にダメなんだってやっと諦めがついた。納得はしなかったけど、嫌われたなら離れるしかないのだ。Twitterを始めとしてあらゆるアカウントを消した。LINEはブロックした。LINEのアカウントまで削除できなかったのは実際リアルで困るからなんだけどそのうち1割くらいは「いつかまた神がLINEくれるかもしれないから」って希望があるから。神も自分をブロックした。ブロックリストある神のLINEアカウントはまだ生きている。それを見るたびに憎しみだか怒りだか悲しみだかわけのわからない感情でグッチャグチャになる。納得はいまだにできていない。
書き起こしてみてよくわかるけどメンヘラすぎて怖い、同族嫌悪か自分はメンヘラキャラが大嫌いだった。灯台下暗し。
以降数年はLINEのブロックリストを見てのたうちまわる日々が続いた。ついでに神の新アカウントも特定して監視し続けた。保身のためアピールしておくが、神が自分を見たくないと望んだため神の前から消えてから同人アカウントは作っていないし同人活動もしていないし監視はしても何もアクションは起こしていない。マシュマロとかでの凸もしていない。数年前に結婚して子供ができたことをきっかけに監視はダルくてやめてしまった。もう神のアカウントは分からない。たぶんジャンル移動してるだろうし見つけられないと思う。
オタクは未だにしているので神をふっきり抽選をして推しソシャゲの公式ツイッター情報とそのジャンルの絵師を見るだけのアカウントの中で今は生きている。交流などは一切しない鍵アカウント。神にも誰にも知られないアカウント。そこで「おけけパワー中島」の存在を知り作品を読み、おけパに匹敵すると思われる自分が居たことに思いを馳せその後おけパになりきれず転落したこの黒歴史を何かに書き残しておこうと思ったのが今日。神、もう自分のような害悪に苦しめられていませんか。もう二度と会うことも関係を持つこともないけど、長年監視していて本当にすみませんでした。もうしていないので安心してください。
そしてここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。どうか誰かのおけパになろうとするのは後々何が起こるかわからんので自称おけパやおけパ寄りだと考えてしまっている人、おけパとして頑張ってください。神を苦しめないように気を付けてください。おけパがおけパとして居られるよう幸せを祈ります。そして自分も子供が絶対にオタクにならないよう気をつける。誰かのおけパを目指して誰かを苦しめないように育てていこうと決心した。いつかこの黒歴史を完全に忘れるか消化できる日はくるだろうか。
10年以上経った今なので言えるが神はマジで何も悪くなくて被害者。
書いてて知ったんだけどキリストの誕生日って別にクリスマスじゃないらしい。へ~
書き忘れていたけど自分は自分の事をまともじゃないと思ってるし本当気持ち悪い、こんな人間友達になりたくね~とか思ったらそれが正常 でもみ~んな増田
ネット上で小説を書いている。一次も二次も書く、一次は全く読まれていないが二次は一次に比べれば読まれている。現状には満足している。
TLで話題になっていたのでおけけパワー中島の漫画を見た。面白かった。
私はいわゆるひとつのBL小説やカップリング小説を書くことは殆どない。だから根本の部分では彼女らの関係性を完全に理解することは出来ない。だが、一人のネット文字書きとしてなんとなく感覚を共有することはできる。
私のいる二次創作界隈はかなり狭い世界だ。すでに何年もの付き合いがあるし、その中にはもう随分字を書くことから離れた友人もいるが、私は彼らとは普通にSNSで交流する。当然だ、何年もの付き合いがあるのだからすでに文字を書いている書いていないなど大した問題ではなく、普通の友人関係である。
恐らく私と彼女らの関係が綾城さんとおけパ中島の関係に見える人もいるだろうと思うし、その逆もしかりだと思う。私は誰かのおけパであるし、誰かは私のおけパだ。彼女らがいる界隈の規模はわからないが、ネット字書きという狭い世界はそのようなものだと思う。
ましてやおけけパワー中島は現在進行系で創作を続けている人間であるし、綾城さんと作業通話するほどの友人関係でもある(むしろ私は通話をしながら作業ができる綾城のマルチタスクが羨ましい)はっきり言ってこの件に関しては主人公の圧倒的な逆恨みであるし、むしろヤンデレの気質すらあるように思う。
だが、おけけパワー中島がかなり押しの強い目立ちたがり屋であることは否定できない。『感謝してもええんやで』のツイートは結果的に配慮にかけるものであるように見えるし、その他の描写を見ても押しの強い人だなと思う。綾城さんはそれを受け入れているが、それがうっとおしいと思っている人も多分いるだろう。そういう意味で主人公がおけけパワー中島に感じた『嫌悪感』も理解できる。
主人公がどれほど綾城さんの作品に感想を書いたか知らないが、レスポンスがなくても作品を書き続けることのできる強メンタル作者というのは基本少ないのでそこも関係しているのかなと思う。
ここまで長く書いたが、結局何がいいたいかと言うと私はこの漫画の登場人物に対して嫉妬や怒りの感情はあまりない。一人のネット文字書きからすると「そんなこともあるよね」という感じだし、同じアマチュア創作者側の人間がどれほどこの漫画に感情を揺さぶられているのかは非常に気になる。
私がこの漫画に対して嫉妬していることは、この漫画の存在そのものについてだ。
はっきり言って、私はこの漫画が「字書き」をテーマにしていることに猛烈な嫌悪感を感じている。「絵描き」をテーマにしていれば何も感じなかっただろう。
これは私が個人的に感じていることだが、小説というものはイラストや漫画に比べればかなり「見られない」ジャンルだ。私は絵描きに対して猛烈なコンプレックスを抱いている。
もちろんそれが絵描きの方々の日々の努力による技術の向上によるものだと頭では理解している。私がのほほんと小説を読んだり煎餅をかじりながらテレビを見たりしていたときに鍛錬を積んでいたのだろう。だからこれは私の醜い嫉妬なのだ。
私は常にどうすれば自分の二次小説が二次イラストよりも支持を得ることができるか、面白くかけるか、より人に見てもらえるか、それを強く考えて活動してきた。だが、戦果は思わしくない、Twitterを見ればかわいいらしいイラストが何千何万とリツイートされている、小説がそれほどまでに伸びることはあるか? 絵描きはInstagramをできるが文字書きは出来ない。
だがそれでも字書きには字書きにできることがあるのだと考えてきた、そこに現れたのが「字書きの葛藤」をテーマにしたおけけパワー中島漫画だ。
ついに字書きの葛藤すら漫画の題材にされるのかとただただワガママで傲慢で一人よがりなショックを受けた。漫画を書く人間が、字を書く人間を題材にしてバズっている。コンテンツとして漫画は強すぎる。果たしてこの葛藤を文字にしたとして、ここまでバズっただろうか? いや、バズらないだろう。
私がこの漫画に対して抱いている嫉妬は「それだけは字書きのものだと思っていたものすら、漫画の題材にされた」という事実に対してなのだ。
嫉妬全開の醜い文章だ。私の文章がバズらないのは私の努力不足だろうし、そんなに絵が羨ましければ今から絵の練習をしろと言われればそれまでの話だ。
だが、なんの問題もない。
今日バイト先で、あるお客様に「鍵につけるキーホルダーが欲しい」と相談を受けて、お店にある品の中から彼女の好みに合わせて符合するものを勧め、彼女もそれを気に入って購入した。
ただ、チェーンがちょっと長いので、もう少し短い方が良い、ということだったので、店内に置いてあるペンチを使って、私が個人的に短く改造して、取り除いた部分も彼女に渡す、ということで解決した。我ながらそれなりに良い対応だったのではないかと思う。
仲の良い店員から「普通はここまでしないよ」と言われて、「確かに」と思った。確かに普通だったら「短い方が良い」と言われても「じゃあ私が切ってあげます」とは私も普段はならない。でもこの時の私は「この人のためだったら、ペンチで切っても良い」と思ったので、そうしたまでだった。ありがた迷惑だったら悪いが、悪くはない対応だったと思う。
その後休憩に入ったが、色々考えた結果、お客様と店員は、お互いのペースに乗せ合う関係なのではないかという結論に至った。
つまり今日、あの女性にその意図があったかどうかは知らないが、結果的に私はあの女性のペースに乗せられて、まんまと「キーホルダーのチェーンを切ってあげる」というサービスを提供した、ということになる。
以前本でこのような話を読んだことがある。ある若い女性が「気持ちよく買い物する時のテクニック」を教えてくれる、という話で、彼女は店員に優しく声をかけ、「これを買いたいのだけど、案内してくださる?」と聞くのだ。そうすると店員も親身になって彼女に案内してくれる。大きな冷蔵庫を買う時も、小さなボタン一つ買う時も。話の最後は「笑顔を浮かべた女性のお願いを、断る人なんてそうそういないでしょ?」で締め括られる。
別に「若くて可愛い女は優遇される」なんて話をしたいわけではないことをわかって欲しい。たまたま話に出てきたのが若い女だったのだ。しかし一旦考えても見てほしい、あなたが店員だったとして、優しそうで可愛らしい女性が、「すみませんこれ探してるんですけど」と笑顔で話しかけてきたら、ちょっとは好意を持ちますよね。店員として。
そりゃあ可愛くて若い女の方が有利なのは認めます。かわいいので。顔がいい人間が概ね好意を持たれる傾向にあるのはどうしようもない。現段階で私にはどうしようもない。でもかわいくなくたって、丁寧に話しかけてきた人間にたいして、特に店員がお客様に対して、失礼な態度で返すことはないんですよ。
逆に考えても見てください。例えばあるとても醜い人がいて、周りから嫌われていると。でも店に入った時だけは違います。店員も内心「うわ…」とは思ってるかもしれませんけど表向きは普通を装わなくちゃいけないんですよ。ある意味、かわいくても性格クソな子より良い対応受けられる可能性があるんですよ。
個人的にですけど、私は接客では性格重視です。すごいぶっきらぼうだったり、すごい異臭を放ってたりしてても「早く接客終わらせよう」とは思うけど、私に対して失礼な振る舞いをしているわけではないので、普通に対応します。逆にかわいくてもクソ失礼だったら内心ブチギレて「一刻も早く帰れクソ」と思って接客します。人間なんでしょうがないんですよ。
話がそれましたね。要は話に出てくる女性は、上手いこと店員を彼女のペースに乗せて、接客させていたわけだと私は思っているのです。乗せられた店員も悪い気はしていないはずです。それが理想的な接客の流れではなかろうか。
別に客に下に出ろとかいうことではなく、無理を言ったり駄々捏ねたりせず普通にしてくれれば、店員も普通に接客できるんですよ。ムカつくこと言われたら店員もムカつくので……人間なんですよ……仕方ないんですよ……ムカついちゃう……。
コロナでみんな気が立ってるのはわかるんだけども店員だって人間なんだよな〜マスクがない時はマジでないのよ……私がいたところでは割とお客様たち理解がある方でありがたかったのですが全部そうとはいかないのが現状で、心ない暴言に傷ついた店員さんもたくさんいます。そもそも平常時もクソ客はいるし……。
理想としては、お客さんが優しくしてくれて、店員も優しくしてあげて、優しい世界が生まれるのが理想なんですが……「なぜ店員なんぞに」と思ってるような方がいる限りそんな世界は訪れないんですよね。
むしろね、どうせ同じ家で暮らすわけでもなし、来客している時だけの仲なんですから、自分のペースに乗せて優しくしてもらう、で良いじゃないですか。店員も乗せられて優しくしたら良いんです。どうしてこんなに難しいんでしょうね。
「接客業やると店員に優しくなるのは、その気持ちを知ってるからじゃなくて、店員にキツく当たったら受けられたサービスも受けられなくなると知ってるから」という意見があるけどもそういうことですよ。
そこで仕方なく、優しい世界が訪れる店員の方が客を乗せていくしかないんです。心の安寧のために。クレームには一緒に怒ってあげる、というのもそういうことです。ちょっと気を使って一言多めに話すだけで、だいぶ快適になるのはお得じゃなかろうかと私は考えています。
割れやすい物を持ってる方のレジの後に「お気をつけてお持ちくださいませ」と言ってみたり、お探しのものがまだ入荷してなかった時は「また見にきてくださると幸いです」と付け足したりしてます。言わなくてもいいけど、言われた方が悪い気しないならそれで良いし、私にとっては負担でもないので。
店員全員そうしろ、ってわけではないですよ。上手いことお客様を乗せられたらもしかしたら楽だよ、ってことです。私も本当は全然器用じゃないし。何はどうあれ今は接客業してるみんなが元気に働けるようになれるといいですね。もっと店員さんに優しい世界になれるといいですよね。
最後に一つ、お客様はお客様だけです、店の敷地内にいるだけのクソ野郎はお客様ではありません。はよ帰れ。店員さんのみんなもそのくらいの気持ちで働きましょうね!
男でそういうケースを見たことがない。美人、かわいい子に追いかけられるアルファ雄は存在するが、都合のいいセフレ止まりなんだよなあ……そんでそういう身分なのになぜか本命がちょいブス。なぜなのか。
追いかけられてみたい。24時間で消えるnoteの人みたいに天然ボケの女の子に猛アタックされたい。そんでしぶしぶ付き合いたいし結果的に子供三人ほしい。はあ。
学生のころ、既婚者と遊んでいた。
そこそこ稼いでいて、いい車に乗って、綺麗なリア充そうな奥さんのいる男を選んでは車に乗せられて、運転中にごにょごにょしたり、車の中で色んなことをした。
今になって思うと、完全に遊ばれていたのはこちら側だ。
全然若さで魅了なんてできていなくて、その辺のティッシュと大差ない扱いを受けていた。
正直、私も彼らのことは全く好みではなかったし、なんとも思っていなかった。
それでも、なぜか彼らの綺麗な奥さんたちに優越感を感じていて、そのためだけに遊んでいた。
「お前らは旦那と幸せにやってるつもりかもしれないけど、若い女とこんなことしているぞ」と思っていた。
自分自身に対しても「こんな刹那的なことしてる自分カッコイイ」くらいに思っていた。
特に結婚指輪をした手で触られている時は「なんかエモくね」とニヤニヤが止まらなかった。
不倫をする人が「自分たちに酔ってしまう」理由が何となくわかった気がした。
これで恋愛感情もあったら、そりゃあドツボにもハマるなと思った。
結果的には、私は恋愛感情を持たれた相手にストーカー被害を受けるという完全に自業自得な理由で、数ヶ月ほどで遊ぶのを辞めた。その後本命の相手もできた。
ただ、経験上そういうどうしようもない「不倫する自分に酔う」気持ちを理解出来てしまう自分がいる。将来の旦那が昔の自分みたいな女に引っかからないことを願うばかりだ。
妻は妊娠、出産の一時期は専業主婦をしていたものの、徐々に仕事に復帰し始めて、今はフルタイムで勤務している。最初の勤務先に復職しているのではなく、新たに就職し始めた感じ。とはいえ、もう全部合わせると5年以上のフルタイム勤務を続けている。
妻はもともと僕との会話で、延々と愚痴を話すような人間だった。それは付き合いたてのころもそうだし、結婚したての頃も、妊娠・出産して専業主婦をしているころも、そしてもちろん今も。
結婚前は職場での立場の低さからくる給与と仕事内容のバランスの悪さや、友人たちとのライフステージに対する焦燥感についてのもの、その矛先はしばし僕に向き、いつになったら態度をはっきりして結婚に向けて進めてくれるのか、一人暮らしはいい加減に疲れたし、家賃がもったいないから、そろそろ一緒に住みたいみたいなことを毎日毎日電話で一日に30分以上話していた。休日に顔を合わせると一日中そういう話を僕にしていた。
その頃の僕は、前の彼女と別れた理由が「僕が彼女の話を聞かず、僕の愚痴ばかり話すこと」だったこともあって、自分が話すより相手が話してくれる楽さと頼られている心地よさに身をゆだねていた。
結婚してからの愚痴は、仕事のものが一気に増えた。彼女の転職先がひどいパワハラ職場で、いつも莫大なストレスを抱えていたからだった。かつ、仕事時間が基本的に孤独な環境になりやすかったこともあり、同僚と共有するような感じになりにくかったこともあったようだ。
そして、仕事のストレスの八つ当たり的に僕に対して、「子供を作る気はあるのか」「いつまでこんな狭い家に住む気なのか」とか詰め寄り続けた。僕は仕事でかなり大きな問題を抱えていたが、それを妻に愚痴ることなく、休日はマンションのモデルルーム見学に何度となく歩き回った。あの時期、おそらく全部で20件はマンションを見たと思う。彼女はどこに住みたいとか具体的なイメージを持つことなく、僕がネットや分厚い情報誌(当時は電話帳くらいの住宅情報誌が毎週出ていた)を探しながらリストアップしたマンションに対し、この町は好きだけど、部屋が狭いとか、このマンションはすごく雰囲気がいいけど、街が嫌いとか、この地域は好きだし、マンションも好きだけど、駅から遠すぎて通勤のイメージがつかないとか、ずっと文句を言い続けた。結果的には、最初から3番目に見たマンションを半年近くたって完成目前のタイミングで再度見学をしたら、運よく出物の部屋があり、そこに決めた。
子どもは結婚3年目でできた。3年目ならごく普通のタイミングだと思うのだが、彼女は30代前半のうちに何とかほしかったらしく、最後の方は不妊外来にも通っていた。一度は僕も精液検査をしたのを覚えている。
子育てが始まると生活のリズムを完璧にしたい彼女は、僕が子どもの就寝時間に帰ってくるのをひどく嫌って、そういう時間に帰宅するとものすごく不機嫌になった。そして、ママ友の家の話をしたりして、その夫の献身ぶりや子煩悩ぶりを延々と僕に愚痴った。僕は休日には子供とべったり過ごして、買い物や妻の食事の世話をしたり、妻を休ませるために子どもと二人でぶらぶらと散歩したりした。それでも妻の愚痴は止まらなかった。その愚痴の中には「子供は二人いないとかわいそう」という、一人っ子の僕に対して、何を本気で言ってるの、それ、みたいなことも含まれた。
とはいえ、数年後に子供はもう1人できた。子どもが二人になると子どもと家庭に関する愚痴は2倍かと思ったら3倍になった。僕の家事労働力は飛躍的にアップした。僕はたまたま休日に子どもの体調が悪かったりすると僕が一人で病院に連れていくことも日常茶飯事だった。土曜日なら小児科でも父親だけで連れてくる家庭は少なくないだろうと思ったが、全然そんなことなく僕は母親たちに紛れて、子どもと待合室で絵本を読んだりしていた。それでも週末に登山だキャンプだ、アクティビティだと繰り出したりすることが苦手な僕は、妻から見ると子供との時間をさぼってる夫に見えていたようだ。そして、そういう体験を与えなかったことで、子どもたちがインドアになったと今でも思っている節がある。
下の子どもが幼稚園に通い始めたタイミングで、徐々に妻は仕事に復帰し始めた。朝の幼稚園の送りは僕の仕事になる機会が増えた。幼稚園に送るとどうしても朝の出勤時間が数十分間に合わなくなり、それが毎日続くので、上司に白い目で見られた。僕は事情を説明して了解をとったものの、やっぱり、それは時間にルーズなイメージを作っており、若干査定に響いた(数年後にコアフレックスになったので、今の後輩たちは自由に送り迎えをしている)妻は子育ての愚痴に加え、仕事の愚痴が爆発的に増えた。仕事の内容的にブランクが足をいろいろ引っ張るらしく、しかも、年齢的にはかなり厳しい状況で新領域にチャレンジすることもあり、その悩みは大きかったのは薄々わかるが、その愚痴を吐き出す先は僕一人だった。妻の職場環境や同僚などについて僕はひどく詳しくなったけど、たぶん妻は僕が今どんなことを仕事にしていて、どんな人と働いているのかは全く知らない。たぶん、会社辞めてもしばらくは気づかないんじゃないかな。
うちの会社はリモートワークを導入し、僕の出勤回数は大きく減った。自宅で仕事をするようになると必然的に家事の一部を僕が賄うようになる。僕が平日の夕飯をつくることも大きく増えた。もともとサポートしていた掃除、洗濯も僕がやることが多くなった。
妻はリモートワークがしずらい職種なこともあり、出勤を続けている。4月ごろは日々減っていく通勤客と自分が感染するかもしれない恐怖を毎日30分くらい愚痴っていた。それ以外にも職場の愚痴を1時間程度、子どもたちに関する愚痴(主に一日中ごろごろしてるとか部屋が汚いとか)を1時間程度話している、その話はたいてい僕がしっかり怒らないからだという結論に収斂される。この辺の愚痴は今に至るまでずっと続いている。僕は本を読んだり、スマホを見たりしながら3割程度耳を傾けて聞いている。家事に関する愚痴が大きく減ったのが救いだ。まあ、部屋の掃除がちゃんとしてないとかあるけど。
考えてみると妻が日常生活で楽しかったこと、感動したこと、面白かったことを聞いたことはこの5年はない。テレビの番組でストレス発散できるタイプならいいのだが、なんでもかんでもnot for meにしてしまうので、僕への愚痴に収斂してしまう。お前の大好きだった80年代や90年代のバラエティより今のほうが面白いものもはるかに多いよ。ネットの記事に心をざわつかせてるのに、子どもがYouTuberの話をうのみにするのをバカにするのはダブルスタンダードだと思うんだがね。子どもがボカロとかネット音楽を好きなのと、お前が90年代のクラブポップが好きなのは何も変わらないといつになったら気づくのかね。
もう足掛け15年程度は妻の愚痴を聞き続けているが、いつの間にか自分に限界が来ているように思う。毎日家で仕事をしていても妻が帰ってくる時間が憂鬱になる。妻が最初に何について愚痴るのかを考えると気が重くなる。妻と過ごす寝るまでの6時間程度をどうやってやり過ごそうかを考える。日々、やり過ごすだけで過ぎ去っていくように思う。新しいことは家でも仕事でも何もしていない気がする。家庭のある人、NetflixとかAmazonプライムとかどうやって見てるの? そんな自分のためにテレビを使う時間なんてどこにもないんだけど。というか、自分のために時間を確保するなんて、子どもができてから家の中では微塵もない。
あれでわかったことは、個人の選択は何ものよりも尊いということ。
優生学と同様の価値判断だとしても、個人の選択である限りそれを否定できないというのが真理。
散々ここで話題になっているあてがえ論者の自称弱者男性や、男性による女性への加害についても、産み分けがそれを解決する。
各個人がそれぞれの判断で産まれてくる子の性別を選べるようになれば、結果的に男児が減り、上記のような問題行動を犯す人が社会から減る。
昔と違って、男性の有害性をきちんと主張できる世の中になったのだから、世論によって、一人ひとりの力によって、ジェンダー問題を解決に向かわせることができる。