2020-07-30

努力するのが普通の人なのか~知らなかった~

とある漫画を読んだ。それを読んで引き摺り出された「努力普通」に関する自己嫌悪自己愛を吐き出す。

死にたいけど死ぬための努力もしたくない。なんにもなれないならボタン一つで苦痛なく死にたい。そのための苦労は他人が負ってほしい。この考えはエゴなんだろうか。

ずっと努力していない状態が「普通」で、努力しているのは「がんばっている」だと思っていた。がんばることは辛いからがんばっている人は偉い。偉くなりたくなければ、努力しなくてもいい。

なぜかそんな思考が染み付いている。

でも、成長したら普通になるために努力するのが「普通」だと叩き付けられた。何かにつけて、普通の人との差を見せ付けられるたびに自分の本当の順位を見せられて痛い。

私は現実見方が、受け入れ方がわからない。「こんなはずじゃなかった」といえばいいのか。そういう処世術を誰も教えてくれなかったじゃないか

本当は小さいころから努力のやり方を学ばないといけなかったのだ。小学校ときから努力が大嫌いで、適当にやってもテストで平均点取れてるからみんなの言う「普通学校」に進学できると思っていたんだ。

この普通は100点中、50点だ。本気で私は50点の人間だと信じ込んでいた。競争の真っ只中に放られるまで。

それがどうだ?勉強をすべて投げ、かといって趣味もなく、何にも打ち込まない。コミュニケーション不全を拗らせたぼっちが、どこの世界の50点なんだ?

よく考えてみなくても、友達も実績もどこかからか湧いてくるわけではない。誰かが努力の末に手に入れているものだとという視点は皆無だった。そもそも人への興味を持とうとすらしなかった。

手に入れた人は運が良く才能があって、結果的にそうなった。だから私にも運と才能があれば、他人みたいな普通幸せがやってくる。

そんな夢物語をきっと未だに妄信しているのだ。

だって自分が何もしてこなくて平均以下であることを認めたくない。私は普通だ!まだ人生はやり直せる!ああ、努力する才能さえあれば!

なにをいってる。身の程を知れ。20年間何もしてこなかったツケを今払ってるだけだろ。

でも、こんな文章を書いて自己正当化を図るくらいにはプライドは高くなって、自己愛は素晴らしく自分の性分を肯定する。

ようするに自分のことを理解できている人のふりして長文を書き、気持ちよくなりたいだけだ。何かを実際にしたいわけではないし、本質は目を逸らしたいところにあるので自分への理解さえ十分にできない。匿名世界ですら悲劇のヒロインでいたいんだろうとは思うが。

せめて言い訳ぐらいは上手くなってくれればいいのに、それすら「他人のせい」の一点張り薄っぺらすぎてつまらない。何にもない。

もうだめだ。クズクズのまま許容される社会を真面目に望むし、評価される社会が嫌だ。それって、努力する全ての人を馬鹿にしているだろうか。

だけど今更変われない。変わりたくない。ぬるま湯から脱出しても絶対傷付きたくない。

そんな死ぬことさえがんばれない人間が、死ぬこと以上の努力をできるわけないだろ。

  • 「努力して、がんばって普通になる」 こんなメンヘラ発想してたら毒親になるから子供は作らないでね。

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