はてなキーワード: 疑問符とは
保毛尾田保毛男が久しぶりに登場したが、LGBTへの配慮が欠けるとし、たちまち炎上。フジテレビ社長が謝罪した。
性的マイノリティが大嫌いだ。
私はもちろんLGBTQのどちらでもなく、マジョリティに属しているだろう。
ただ、ここ20年ほどは性的マイノリティにとっては大勝利と言えるほどの成果を得ている。
ポリティカル・コレクトネスが世界中でどんどん進んでいる。
他にもたくさんある。
もちろん職業の改称ばかりでなく、その他多方面においても、性的マイノリティに対する理解は広がっているし、著名人のカミングアウトも増えてきた。
この風潮の広がりを見て思うのは、
彼らが自らにおける立場を強く主張し、それなりに熾烈な争いを繰り広げて、ここまでの市民権を得てきた、ということだ。
ダイバーシティが進み、誰しも生きやすい社会を形成しようとする動きが広がっていく。
しかし、これまで心地良く過ごしてきたマジョリティの方々には、昨今の風潮に疑問符を浮かべる者もいれば、自らの立場の危機を感じ性的マイノリティを排斥しようとする者もいる。
もちろんそういう方々も等しく受け入れられて然るべき。
みんな良い勝負をしよう。生存競争と同じで、生きやすい社会は自分で勝ち取るもの。
少数派で辛く生きている人も、多数派でも自分の中の少数派が抑えられないもの、全部ぶちまけて、死んだら負けの良い争いをしよう。
仲間をたくさん作れたら勝ちだ。保護・排斥・受容・嫌悪、どういう選択をしても生き残れさえすれば、あなたはあなたらしく受け入れられる。
ここ最近アイマスについての話題が荒れすぎているので、この流れに便乗して私の意見を書きたいと思います。
(あくまで1人の意見です、同意も批判も結構ですので色々考えて見てほしいです。)
以前からアイマスの事務所越境について苦手な方から住み分けをお願いするというツイートをいくつか見かけていましたが今回トレンド入りしてやっと沢山の方の目について住み分けをするという事が認知されるかと思いきや「そんなんだったらアイマスから離れろ」だの「ネットやめろ」だのなんというか思っていた未来と真逆の反応をする方々が多くて驚きました。
まず私はデレPがメインで765やミリオン、SideMもやってます、DSも何とかソフトを手に入れてやりました。そして越境だってみるし越境NLだって見る人間です
しかし私は住み分けは必要じゃない、とは言いません。必要だと思ってます
「何でしなきゃいけないの?BLやGLだって住み分け出来てないじゃない!」とか論点のすり替えたそういう言い訳はいりません。あの子はしてないからしなくてもいいってわけじゃないんです。元々は住み分けされなければいけないものなんです、子供みたいな我が儘を言うくらいなら貴方の方がネットをお辞めになられた方がよろしいのでは?と思ったりもします
同じアイマスでも言うならば違うものです。あくまでデレマスはデレマス、SideMはSideM、それで1つの作品です。
みんなまとめてアイドルマスターという言葉、私には「みんな違ってみんないい」という意味だと思っています
「アイドルマスター」というのはゲームジャンルで、ミリオンや、シンデレラガールズ、SideMなどの作品があるという形だと思います
同じ会社作ったゲームだからこのゲームキャラとこっちのゲームのキャラは同じ作品!クロスオーバーではない!だから住み分けしなくていい!極論ですがそういうことかと思いますよ。私は、ですがね。
○MマスPについて
竜宮小町やりっちゃんがプロデュース出来なくなったり、それと同時に突然異性のアイドルが追加されたり。様々な出来事がありました。私は当事者ではないのでその時の騒動について語れる身ではないのは100も承知ですが1つ言いたい事があるのです。
「何でその時の事を全て理解してないやつが高飛車に語ってんの?大人しくしてろよ」
私も大人しくしなくちゃいけない側の人間ですがこうも何も知らないのに高飛車に話をして見る人が見れば他のアイマスシリーズをも見下すような発言が最近多々みられます。正直言って心苦しいです。
ああ、ここまでこれてよかったね
それで十分ではないでしょうか?
男性Pと女性Pの間で臭い(匂い)について論争がありましたが、女性Pは香水については何も言わない男性Pが頑なに汗拭きシートなどを使おうとはしない文に疑問符しか浮かびません。香水はつけずとも毎日身体をちゃんと洗って洋服を洗っていれば柔軟剤やシャンプーなどのいい香りがします。沢山の人が集まり匂いが混ざるその日だけでもつけるのをやめてあげてはどうでしょうか?
汗の臭いがすごい方は汗拭きシートを買うなど服を着替える(ただ服を着替える場所は弁えてくださいね?)などしていただければ問題ありません
男女共に、ですが腋臭などが酷い方は病院へ行って治していただくといいと思います、治せますので恥ずかしがらずに行かれてはいかがでしょうか?
私は良く友人と話す
「結婚はしない」
では、私の20年後には何がある、40年後には何があるのか
老いと病のその先、あらゆる蓄えが尽き、心を許した友人も尊厳も自由も消え去り
絶望と孤独と不自由が魂を冒すその日になり、私は何が持てるのだろうか
私は、世界とは仲良くできない人だ
社会のレールにはうまく乗れず、どこか「失敗し続けてきた」ような感覚を抱いてきた
産んでくれなどと望んたつもりなどない、自分の生を肯定できたことなどない
「自分の生のありのまま」ではなく、自分の人生を再定義して肯定する事しかできなかった
その再定義の中では、異性の存在は私にとっては絶望と諦念の象徴でしかない
私の我儘に他人を付き合わせたくはないし、付き合うような人間などいないし、したがってそのような存在を作ることにうんざりする
しかし同時に、それを満たすような他者の存在を求めることもある
「愛して欲しい」「この薄汚い何もかもを許して欲しい」「許容し、肯定して欲しい」
「一人にして欲しい」「孤独を肯定して欲しい」「しかし同時にどこにも行かないで欲しい」
「浮気を許して欲しい」「許さないで欲しい、ありったけの憎悪で叩き潰して欲しい」
「浮気をしないで欲しい、自分のことだけを見て欲しい」「自分自身の人生を歩んで欲しい、自立した人間でいて欲しい」「浮気をしてこんな自分のことなんか見捨てて欲しい、無価値さを思い知らせて欲しい」
「都合の良い存在でいて欲しい」「一個の人格を持った人間でいて欲しい」
「徹底的に詰って欲しい、自分の存在価値なんてないんだと思わせて欲しい」「甘やかして欲しい、全肯定して欲しい」
「それでも、自分が許されるような、全てが叶うような想像ができない」
「どこかに、全てが許されるような、そんな妄想を止める事ができない」
「もし実在したとしても、それは私に与えられる筈がない」
「もし実在したとしても、それは私には相応しくない筈だ」
「私を愛すものは、この世には存在しない、存在してはいけない、存在しないで欲しい」という呪いを、自分自身に掛け続ける
行き着く先は矛盾に満ちた孤独な生活か、妥協と惰性を基盤とした他者を犠牲にした自己満足な生活である
前者の典型が独居老人であり、後者の典型が「無関心な父と過干渉な母」というこの世の地獄の母胎である
私は、私の遺伝子を根絶やしにしたい気分になることがある
このクズの遺伝子が、罷り間違って後世に残るようになってしまうこと程、罪深いことはないと思うのだ
私の子供が、この世に“理不尽に産み落とされ”地獄に落とされるのを赦してはならない
私の汚濁のような欲望のために、不幸な人間をこの世に生産してはならない
「生まれたことが間違いだった」と思うような人生を送らせる訳にはいかない
私の中の対人親密性は、私を人と結合させようと日夜血みどろの活動を続ける
私は物を書き、オナニーをし、友人と語り、その欲望が枯れ果てるのを待つしかないのだ
例え何があっても、自分が油断しないように
何より私を苦しめるのは、その正当性に自分自身で疑問符が付けられてしまう、その夜だ
このような時、自分のあらゆる醜さがその苦痛を慰めることとなる
ああ、私の全ての欠陥が“異性を諦めるに足る理由”となって、諦観の海に私を呼び戻してくれるのだ
ああ、くたばれ霊長類
…というのが多くの男にとっての疑問となっているのが、昨今のジェンダー論界隈のgdgdさではないか、と思うわけだ。
いやだってさ、あのスピーチ、「フェミニズムを助けて!」て主張じゃなかったのだろうか?違うのか?
それが昨今の議論では「フェミニズムはお前のママじゃない」となっているのでよく分からない。
男にとっては、救済を求められたはずなのに、フェミニズムは万能薬じゃない、という話に移行してるので、頭に疑問符しか浮かばないのである。
要するに「具体的に男にどうしてほしいのだ?」と聞きたいのだ。
(いやと言っても、短時間のスピーチでそこまで詳細に語れというのが無茶だし、そこら辺ワトソン嬢を批判したいというわけではないが…)
「ワトソン嬢のスピーチは分かった。で、男に対して仔細にどうしてほしいのだ?」と。
別にワトソン嬢でなくても、他のフェミニストの方々誰でも良いんだがな。
勿論別に絶対しろとは言わんし、しないことを糾弾なんてしないけど。
女性の皆さんは何となく実感できると思うけど「男は具体的に言わないと分からない」んですよ。
まあ「そんなこと一々言ってやらないから察しろ!」と言うのも良いけど
それって正直至極非効率だと思うのですよね。
ここでいうプログラマーとは、趣味仕事問わず『プログラミングを利用した作業の経験がある者』を指す。
この作業を自動化できればいいのに、と考えた時に『プログラミング』という手段が思い浮かぶ。
そこで頑張ってプログラミングについて調べるのだが、ズラっと並ぶ専門用語が自分の理解を妨げる。
頭の中に、疑問符がどんどん増えていく。
分かり易さを謳った数多くのプログラミング入門サイトは、しかし哀れな浅学菲才に手を差し伸べてはくれやしない。
「こうすればこうなります」
なりません。
「ここで混乱する人も多いようですが」
そしてどう見ても初歩の初歩の所でいつまでも解決に至らず足踏みをしている内に、"彼等"の声や姿が浮かび上がってくるのである。
そう、この作業を難なく行える者。
「そんな簡単なこともできないのか」
彼等は蔑む様に、或いは哀れむかの様に、俺を見て呟くのだ。
これは完全なる被害妄想ではあるが、この手の人物が多く実在するのは恐らく自明だろう。
「どうしてプログラミングを学ばないんだろう?」
才能を持つ、愚かな人間がこう言ってたのを俺は見た事がある。
学ばないんじゃない。高度すぎて俺にはできないんだよ。
とはいえ自身を"特別な人間"だと認識していないクソみてえな有能共にはわからないだろうがな。
彼等にとっては何か一つの知識を学び技術を身に付ける行為は『人間としてできて当たり前の行為』なのだろう。
努力を怠っているのは事実だが、努力をすることもまた才能の一つだとは何故思い至らないだろうか。
ああ腹が立つ。むかむかする。
どうせこの日記を見てる人もこいつは馬鹿だなあとか思ってるんだろう。
どいつもこいつも俺を見下しやがって……クソ……。
http://b.hatena.ne.jp/entry/diamond.jp/articles/-/117642
せっかく続報(https://science.srad.jp/story/17/06/29/0659224/ ※スラドのほうが農林水産省やはてなー大好きねとらぼなど各所へのリンクがあって楽なので)でたのに、当時から疑問符をつけている人たちがいるにも関わらず先走って威勢よく、
コシヒカリは中国米!化けの皮剥がれてンギモッヂイイ!!これは氷山の一角!!こういうことが横行する国でと福島県産は安全だとか忌避する奴は放射脳だ風評被害をばらまく信念の人だとか言われても空虚!とか威勢よくコメントしてたりと数百ブコメつけてた人達はまじでどこ行っちゃったの。
ゆっくり霊夢はFランク大学の就職課に就職したようです(ゆっくりFランシリーズ)をいくつか視聴してみた。
視聴した率直な感想でいうと、この動画の根底に流れている作者の人間観に俺は全く共感できなかった。
ゆっくりFランシリーズの動画の作成者の根底に流れているのは、「いわゆる一般論」に理論武装された自己責任論と、人間の発達(青年期のおける課題、等)を
無視した「人とはこうあるべき」という人間観の押し付けであるように思えてならない。
また、俺がゆっくりFランシリーズを視聴していて抱いた感想は以下の通り。
「Fラン大生は努力しないク〇」「Fラン大生は総じてク〇」「Fラン大に入ったのは自己責任」
「Fラン大生は何をやったところで無力で無能なので、頭は使わず死に物狂いで生きていくしかない」「努力できないのは能力の問題ではないので自己責任」
…こう感想を書き連ねてみるとはっきりわかるが、この動画の作成者、そもそも「人間の発達」についてどれだけ勉強してないんだ?と思う。
それとFラン大生のような立場に置かれている人間について、どれだけ理解しているのか疑問符がつく箇所がちらほらある。
この動画の作成者には、まず「そもそもなぜFラン大生は勉強ができないのか」という素朴でわかりやすい問題について勉強していただきたい。
もっと簡単に言うなら、「なぜ勉強できない奴が世の中にはいるのか」について勉強して欲しいと思う。
そういう問題を諸所考えていけば、「どうして勉強が不得意な奴が世の中には存在するのか」ということや、
「どれだけ学習意欲を喚起させてもFラン大生が勉強しない理由」であったり、「Fラン大生がやる気を出さない理由」が
…まあ、結論だけをいうと、Fラン大生は小中高を通じて学習意欲や適切な学習機会を奪われたある種の社会的弱者だということがみえてくるのだけど。
俺、このシリーズの動画の作成者の人間観は、はっきり言って間違ってるし人として腐ってると思う。
この動画の作成者は、学生一人一人の人生を本当に慮って就労支援しているようには思えない。
この動画の作成者は、人材を右から左にスライドさせていく、さながら人材コンサルタントのようにしか思えない。
最後に。
こんな動画を見てしまって鬱になっているFラン大生よ、こんな動画、気にするな。
君は君の思うままでいてもいいんだ。
だから大学生の間、君は君がやりたいと思ったことを、思うままにやるといい。
そして幾つかの年月を過ごしたある日、君はきっと気付くだろう。
『君の人生は、親のためでも世間のためでもなく君のためにあるということ』に君は気付くだろう。
その時になって初めて、君は「思うままであれ」という言葉の真意に気付くだろう。
思うままであれ。
主体性を取り戻そう。
ゆっくり霊夢はFランク大学の就職課に就職したようです(ゆっくりFランシリーズ)をいくつか視聴してみた。
視聴した率直な感想でいうと、この動画の根底に流れている作者の人間観に俺は全く共感できなかった。
ゆっくりFランシリーズの動画の作成者の根底に流れているのは、「いわゆる一般論」に理論武装された自己責任論と、人間の発達(青年期のおける課題、等)を
無視した「人とはこうあるべき」という人間観の押し付けであるように思えてならない。
また、俺がゆっくりFランシリーズを視聴していて抱いた感想は以下の通り。
「Fラン大生は努力しないク〇」「Fラン大生は総じてク〇」「Fラン大に入ったのは自己責任」
「Fラン大生は何をやったところで無力で無能なので、頭は使わず死に物狂いで生きていくしかない」「努力できないのは能力の問題ではないので自己責任」
…こう感想を書き連ねてみるとはっきりわかるが、この動画の作成者、そもそも「人間の発達」についてどれだけ勉強してないんだ?と思う。
それとFラン大生のような立場に置かれている人間について、どれだけ理解しているのか疑問符がつく箇所がちらほらある。
この動画の作成者には、まず「そもそもなぜFラン大生は勉強ができないのか」という素朴でわかりやすい問題について勉強していただきたい。
もっと簡単に言うなら、「なぜ勉強できない奴が世の中にはいるのか」について勉強して欲しいと思う。
そういう問題を諸所考えていけば、「どうして勉強が不得意な奴が世の中には存在するのか」ということや、
「どれだけ学習意欲を喚起させてもFラン大生が勉強しない理由」であったり、「Fラン大生がやる気を出さない理由」が
…まあ、結論だけをいうと、Fラン大生は小中高を通じて学習意欲や適切な学習機会を奪われたある種の社会的弱者だということがみえてくるのだけど。
俺、このシリーズの動画の作成者の人間観は、はっきり言って間違ってるし人として腐ってると思う。
この動画の作成者は、学生一人一人の人生を本当に慮って就労支援しているようには思えない。
この動画の作成者は、人材を右から左にスライドさせていく、さながら人材コンサルタントのようにしか思えない。
最後に。
こんな動画を見てしまって鬱になっているFラン大生よ、こんな動画、気にするな。
君は君の思うままでいてもいいんだ。
だから大学生の間、君は君がやりたいと思ったことを、思うままにやるといい。
そして幾つかの年月を過ごしたある日、君はきっと気付くだろう。
『君の人生は、親のためでも世間のためでもなく君のためにあるということ』に君は気付くだろう。
その時になって初めて、君は「思うままであれ」という言葉の真意に気付くだろう。
思うままであれ。
主体性を取り戻そう。
そして、このくだらなくも面白い世の中を、思うままに生きてみよう。
規制するということは実際に効果を期待しているということだろう。
子どもに対する性犯罪の件数の減少という効果を期待しているということだろう。
ロリポルノ作品は社会に受け入れられない人々の受け皿となっている。
受け皿を壊したところで中に入ったものが消えて無くなることはないのである。
単にこぼれるだけだろう。
社会には様々な考えを持った人がいる。それ自体どうしようもできないことだ。
社会的な強制力を持って考えを改めさせようと迫ったところで当人の本心が変わることはないだろう。
なぜなら強制力を持って考えを改めさせようとすると当人には強制で意思を変えさせられたということがわかり、
この世界には世間で受け入れられた考えと受け入れられていない考えが存在している。
前者の考えを持つようになった人間はともかく、問題は後者の考えを持つようになった人間である。
彼の考えは社会に受け入れられない。
彼が社会に受け入れられるために必要なのは彼が思ってもいない社会に受け入れられる考えを口にすることである。
その状況は彼にとって大きなストレスとなろう。
しかし、マジョリティの支配する表面に現れた世界の他にもマイノリティの支配する隠れたコミュニティが存在している。
こうした世界では世間で受け入られていない考えが是認されている。
彼の持つ社会に受け入れられない考えを是認するコミュニティが存在するとする。
この世界の存在により彼は(限定された)社会から真に受け入れられることを可能とする。
これらのコミュニティの存在を支えているものとして表現の自由がある。
自分の考えを自由に表現したり、発表する権利がなければコミュニティは存在しえないのである。
仮に表現の自由のない世界であったとしたら世界では世間で受け入れたれた考えしか存在を許されず、それ以外のものは一切排除されるだろう。
ロリポルノ作品は社会で受け入れられていないが、それを是認するコミュニティが存在している(これは具体的な特定のコミュニティとは限らない)。
規制を行うということはこのコミュニティの存続を揺るがすということにつながる。
以上で話した通り規制によってコミュニティの参加者が考えを変えるということは考えにくい。
よってこの規制によりどのコミュニティからも自分の考えを認められることのない、社会からこぼれた人間が出て来ることになる。
この人間が性犯罪の加害者になるとまで単純化することはできないだろうが、
子どもに対する性犯罪の件数の減少という効果が得られるかどうかということに関して疑問符をつけざる負えない。
余談:
日本人にとって、直訳という言葉は「機械的に文法に沿って訳語を並べて、意味不明の訳文を作ること」といった印象が強い。意味が通じる翻訳をするには、意訳、つまり元の文を理解した上でその内容を自分の言葉で書き直す必要があると考えられている。
しかし英語で直訳を表わす"literal translation"は、そういった言葉ではない。もちろん、機械的に置き換えて意味の通じない文を作ってしまうことも言うのだが、"literal translation"は「原文に忠実である」というポジティブな側面を持っていて、formalで立派な翻訳という感覚を伴う。
それはつまり、「意訳」に良い印象がないということでもある。それは「意訳」に当たる適切な英語表現がないことでも分かる。
https://www.onehourtranslation.com/translation/blog/literal-translation-vs-conveying-sense-text
ここでは"literal translation vs. conveying the sense of the text"(直訳 vs. テキストの意味を伝えること)というタイトルになっている。日本人から見ると「"直訳 vs."と来たら『意訳』が来るに決まっているだろう」と言いたくなる。しかし、英語で意訳という言葉は、直訳とvs.出来るほどの市民権を得ていない。
英語の翻訳はフランス語やラテン語といったヨーロッパ圏の言語から知識を取り入れるために行われることが多く、ヨーロッパ圏の近縁語同士では直訳は有効な方法論だ。結果として、"literal translation"は立派でフォーマルな翻訳という意味合いが生じた。
対して、訳者が勝手に自分なりの表現を加えてしまうと、fidelity(原文に対する忠実さ)が欠けているという批判の対象になる。
たとえば、私は素人ながらアニメの英語翻訳に関わったことがあるのだが、海外のアニメオタクは意訳を嫌う。佐藤さんはSatou-san,斎藤先輩はSaitou-senpaiだし、学校の先生の敬称は英語だとMr.なのだが、犬塚先生はInuzuka-senseiだ。
たとえば、アニメのセリフに「ありえなくね?」と出てきたら、文字通り"That's impossible, right?"と訳すのが好まれ、意味を汲み取って"Are you kidding?"と訳したりすると、"over-translation"とか"liberal translation"などと言われて叩かれてしまう。日本人の私から見ると、とても理不尽に感じるが、彼らの感性はそうなっている。
この問題についてググっていたら「literal translationが良いというのは神話だ」という海外の人の意見を見つけた。これを言っているのが日本語の英訳をしている人だというのも示唆的だ。
日本では英語文献を翻訳するのが主なので、literal translation、直訳はほとんど役に立たず、ひどい翻訳の代名詞のようになっている。英語話者にとっての日本語の英訳でも同じだろう。
基本的に、英語圏でTranslationと呼ばれているものと、日本で翻訳と呼ばれているものは、行為としては似ているが、内実は全く異なっている。
英語圏で行われているのは直訳であり、我々がやっているのは意訳だ。英語圏でやっているのは文法ルールと訳語を覚えて他言語に当てはめ、原文を出来るだけ変えずに英語に直すことであるが、我々がやっているのは「他言語を(何らかの方法で)理解し、その内容を自分なりに日本語で作文する」という行為である
直訳が役に立たないということは、つまり文法ルールを覚え、日本語の訳語を覚えて適用しても、英語を理解することは出来ないということだ。
これは残酷な現実であるが、「いくつの文法ルールを覚え、何万の訳語を覚えても、英語を理解することは出来ない」
これは文法や訳語が不必要だと言っているのではない。文法や訳語はヒントにはなる。だが、答えにはならない。
はっきりいえば、ヒントを一生懸命集めて暗記しても、意味がない。文法ルールをいくつ暗記しようと、英単語の訳語をいくつ暗記しようと、それは英語力ではない。
身も蓋もない言い方になってしまうが、法則化出来ないなんらかのプロセスによって、英語を直接理解する能力。それが英語力だ。
そして直訳が出来ない、つまり英語を日本語に変換して理解するための法則が導けないという事実から分かるのは、日本語を理解している我々の脳をどういじくっても、それを英語に適用することは出来ないということだ。
それはつまり、「英語を理解するための脳の回路を、日本語とは別にゼロから構築する必要がある」ということに他ならない。赤ん坊が新しい言語を習得するときのように、何年もかけて、少しずつ脳を開発していき、英語を理解できる脳を構築していくしかないのである。
どこかの英語学習体験記で読んだことがあるのだが、「留学に行った所、フィンランドの学習者と同部屋になった。フィンランドの学習者はひたすら単語帳を眺め、英単語だけをひたすら覚えていたが、それによってあっという間に英語が出来るようになっていた。だから、私も一生懸命単語帳を眺めることにした」といったものだ。
これがつまり、直訳が可能な言語を使用している脳と、直訳できない言語を使用している脳の違いだ。欧州の人々は基本的に、母国語を理解するために使っている脳を英語向けにアレンジするだけで、英語ができるようになる。我々はそうではない。
たしかその体験記の終わりは、「一生懸命英単語を覚えた結果、留学を終える頃にはかなり英語ができるようになっていた」となっていたように思う。しかし私が声を大にして言いたいのは「それは英単語を覚えたおかげではない」
日本の英語学習界には、留学神話がある。「留学さえすれば英語は出来るようになる。留学しないといつまでたっても英語ができるようにはならない」というものだ。
もちろん留学さえすれば英語ができるようになるというのは嘘だ。それはもちろん神話でしかない。「留学して、英語を使わざるを得ない環境に自分を追い込み、一生懸命英語に取り組めば英語は出来るようになる」というのは正しいが、「留学はしたものの、日本人同士で固まって遊んでいただけで、勉強はしていない」といった生活で英語ができるようになるはずもない。実はそういう日本人留学生は数多い。
しかし「留学しなければ英語ができるようにはならない」というのは真実を突いている。
日本の英語教育に従って、文法ルールを覚え、訳語を覚え、どんなに努力を続けても、英語ができるようにはならない。留学して、日本の英語教育から離れ、ただがむしゃらに英語と格闘すれば、それだけで英語は出来るようになる。
そして「がむしゃらに英語と格闘する」ためには、留学は別に必須ではない。がむしゃらに英語の本を読む事もできるし、映画を見てもいい。海外英語フォーラムに書き込んでもいいし、Lang-8で英語で日記をつけてネイティブに添削してもらうのも、アジア圏のネイティブとスカイプ英会話をやるのも良いだろう。
がむしゃらに英語と格闘することが必要なだけだ。そしてそれ以外に英語ができるようになる方法はない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1M_V20C15A5CR0000/
全国の公立中学・高校の英語教員のうち、英検準1級以上かそれに相当する資格を取得しているのは中学で28.8%、高校で55.4%だったことが25日、文部科学省の2014年度英語教育調査で分かった。政府の教育振興基本計画は17年度までに中学で50%、高校で75%との目標を掲げている。英語教員のいっそうのレベルアップが必要な状況が浮かんだ。
高校の英語教師で英検準一級が55%、半分近くが英検準一級を持っていないということだ。準一級を持ってないということは、日本の文法・単語の暗記中心の教育をする能力すら疑問符がつく。
準一級の問題は、日本の英語教育で教えられたとおりに暗記した単語を当てはめ、文法ルールにそって直訳すれば理解出来る、日本人向けの英語もどきでしかない。それが分からないということは、英語もどきを教える資格もないということだ。
もちろん教師は聖職として尊敬されるべき存在であり、それを指揮するのは霞が関文部科学省のエリート官僚であるから、自分たちが教えているのが「実際には役に立たない英語もどきです」とは言えない。「私たちは英語がよく分かりませんし、『生徒をちゃんと英語が出来るようにしろ』と言われても出来るわけありませんよ。むしろ、そんなやり方を知っているなら教えて下さいよ」などと口が裂けても言えるはずがない。
それに対して一方では「聞き流すだけで英語がペラペラに!」とか「たった100語で英語は出来る!」とか「頻出フレーズを暗記すれば日常会話はバッチリ!」とか、英語教育界はオカルトだらけである。
もちろん商売でやってるのであるから、「がむしゃらに英語と格闘しろ、それ以外ない」などと言えるはずもないのだが、そんなことを言っていても誰も英語が出来るようにならない。なんとかならないものだろうか。
私が実践してきた、オススメの、実際はがむしゃらにやるだけの英語学習法を紹介しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20170526220542
http://anond.hatelabo.jp/20170524213622
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
コメントを頂いた。本を読んでもTOEIC3000語が覚えられない、ということだった。
TOEICのリーディングは結構速読が必要なので、その実力が身につくまで、100万語ぐらい、500ページのペーパーバックを12冊分程度読まないと、普通は最後までたどり着かないんじゃないかと思う。12冊分を辞書を引きながら、単語や表現の感覚を感じ取りながら舐めるように読めば、どうやっても8000語程度の単語を感覚的に理解できる、生きた語彙力が身についてるはずだ。必要なのは暗記力ではなく、文を深く読み、英語表現の意味を感じとる力だ。記憶は忘れるけれど、感覚は忘れない。忘れたと思っていても残っていて、何度か同じ表現を見かければ、その都度感覚は強化され磨かれていく。
単語を覚えるというのは読書の途中で自動的についてくるもので、ピクニックの途中で摘める野イチゴのようなものだ。しかし英語学習者は読書というピクニックには出かけず、ピクニックの準備だけを念入りに行っているように感じている。「自分にはピクニックも難しい。ピクニックに出かけたらヤマで遭難するかもしれない。その時のために食料を買い込んでおこう」と言いながら、辛い奴隷労働をして腐りかけのイチゴを買い込んでいるように見える。ヤマに出ればいくらでもおいしい野イチゴが摘めるのに、ヤマに行っても腐ってて使い物にならない表面だけの単語知識を必死で暗記しているように感じている。これは本当によくないことだと思う。
もう一つコメントを頂いた。学習者は英英辞典はオックスフォードでなく、ロングマンをやるべき、というご意見だ。
辞書から得られるものは単語の理解ではなく、ヒントでしかない。ヒントを英語で貰っても基本的に英語学習者にはわかりにくい。英英辞典自体を読み物として楽しめないなら、英英辞典を見ても英和より効率が悪いと考えている。もちろんロングマンが読み物として楽しい、読んで頭に入りやすいという方がいるならその方が良いと思う。私はオックスフォードが読み物として楽しいので使っているが、面倒な時はウェブリオに走っている。
この記事は長文すぎて最後が切れていたので、二つに分割したものの後半部分だ。前半部分はこの記事と繋がりがあるようでないのだが、いろいろと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170529095534
ネタがなくなったので、多分この増田で吠える英語考察は今回でしばらく休止するかと思います。今まで長文をご覧いただいた方、コメントを頂いた方、ありがとうございました。
まだ半ドンがあった頃の中学時代、まだ朝の早い時間の人のいない路上でおっさんに声をかけられた。
「フェラチオしてくれませんか」
と。
おっさんがもごもごとした口調だったのと、当時そんな単語は知らなかったのとあって、「はい?」と聞き返したらば。
「やっぱり駄目ですよね……」
とすごすご引き下がってので疑問符を浮かべながら学校へと向かった。
教室に着いてからあのおっさんがズボンからブツを取り出していたことに気が付いた。
でも言えなかった。
時間が経っていたので先生に言ってももうおっさんはいなくなっているだろうことが一つ。
もう一つはただひたすらに恥ずかしかったのだ。生理すら大っぴらに言えなかった小娘がどうやって説明出来るというのか。
後日、成長してフェラチオという単語を初めて耳にした際に「あのおっさんが言っていたのはこれだったのか!」と納得したのと同時に
「あのおっさんは女子中学生になんてことをさせようとしたんだ!」という気持ちがわき上がった。
毎日欠かさずチェックしているくらい個人的にツボにハマっている。
https://www.buzzfeed.com/youkoseki/buzzfeed-sponsored-contents?utm_term=.xyOP5a6mV#.ipJm5Epw7
内容をかいつまむと、
・ただし、企業の言いたいことだけを盛り込んだ記事広告ではありません。
・企業の言いたいこと×読者が求めていることをかけ合わせた、読まれるネイティブ広告です。
といった内容だ。
言っていることは至極まっとうだし、よく分かる。
実際、昨今のウェブメディアでは、
「うわ〜なんでこんなタイアップやってるんだろう。。。」
ところが昨日こんな記事があがっていた。
https://www.buzzfeed.com/riceforce/kurorekishi-shindan?utm_term=.ruV6k2xBY#.iyeNpy5Ok
いくつか突っ込みどころはあるが、ついついスキマ時間に見てしまう。
最初に使ったSNSやガラケー時代のメールアドレスのタイプなどいくつかの設問に答えると
そこから年齢を推測されて表示される内容になっている。
そして、年齢とともに以下のメッセージが。
黒歴史なんて消してしまいたい…残したいのは、当時の肌くらい? RICE FORCEは、持って生まれた美肌に導くスキンケア商品です。
これを見た時、
一瞬、頭に疑問符が浮かび、その後「ああ、なるほどね。」となった。
だけど、商品と関連性があるか、このコンテンツによって商品を買いたくなるか、そもそも商品のターゲットが好むコンテンツなのか?
いくつかの疑問が残る。
すごく残念な気持ちになった。
だからBuzzFeedを見ないとか、どうにかしてほしいとか、
そんなことは全然思っていないけど、
修理をこなして行っていました。
これから成長していくのだろうと思っていました。
他の会社に入った子は3か月できっちり試用期間が終わるはずだと
受け入れていました
もうこれで同業の方ならわかったと思いますが、
そんなものを売りつけていたのです
コピーを持たせていたのです
これもれっきとした違反で、あとでばれたら
大変なことになることも確実です。
それにも関わらず、それはIDが発行されるまで続きました。
土下座をさせられるということもありました。
言うとおりにするべきだったと言われました。
一瞬気を失い車をぶつけてしまったりしたあと
給与明細と通帳と差分を補うための借金と鬱病の診断書だけでした。
今も大手で当時の手取りより少し多いながらもギリギリの生活ですが、
個別具体の退職理由はいろいろあってそれらは後述しますが、退職を決めた基本的な理由は、個人的なキャリアパスの設計と会社の方針のミスマッチ、労働観のミスマッチ、技術投資の考え方のミスマッチの三点に集約できると思っています。
ソフトウェアエンジニア(を目指す人間)にとってソニーと言えば、"自由闊達な理想工場"、エンジニアが自由に活躍できる会社、日本のメーカーなのにソフトウェアもちゃんとつくれる会社、などのイメージがあるかと思います。私もそう思っていました。
実際会社は説明会などでそういった説明をしましたし、そういったイメージを前提に私はソニーを選び、「エンジニアとしてプロフェッショナルになる。品質が高く、お客の求める体験を作り出せる人間になる」というふわっとしたゴールを設定し、いわゆる"プログラマ 35 歳定年説"をガン無視した一生エンジニア型キャリアパスを描いていました。
しかし、会社の求める人材像、少なくとも自分が配属された事業部で求められる人材像、キャリアパスは、上記と全く異なるものでした。
昇進の段階としては、現場業務(エンジニア)は基本的に常にマネジメント業務(中間管理職)に対して格下に位置得付けられており、一部オーバーラップする部分があるものの、昇進する = エンジニアをやめてマネージャーになるという状態でした。退職の原因になった上司からも「君は優秀なんだから、プログラミングみたいな低俗なことは早く辞めて人を動かせるようになれ。私が引っぱりあげてやる」(意訳)といったようなことを言われ、自身の「エンジニアとして生きる」というキャリア設計との相違は明らかでした。
もちろん、組織としてスケールするために、エンジニアが経験を活かしてマネジメントに移行することは否定されることではありません。ですが端から、エンジニアリングをマネジメントになるための踏み台として"しょうがなくやるもの"として扱うことには強い違和感と嫌悪感がありました。
退職の際の送別会で、部署の中でもエンジニアとしてレベルが高いと感じていた40代の先輩が、「ソニーではエンジニアリングは評価されない。俺はその方向に進んだけれど、給料は最近下がる一方だよ。君はいい選択をした」と言っていたのが、未だに記憶に残っています。
私はいわゆるライトなオタクで、アニメやゲームが好きでコンテンツを消化する時間が無限に足りないと感じていたり、自分で何かを考えてものを作るという絶望的に時間を食う行為も好きだったりして、ともかく余暇の時間の確保が人生の重要課題です。
もうご推察されたことと思いますが、ソニーでの私の労働時間はそれなりに長かったです。企画・ビジネスユニット主導のスケジュールに開発部隊は圧殺されて、長時間労働が常態化していました。私も残業時間が 90 〜 100 時間程度の月が 3 ヶ月ほど続いたこともありました。部署の先輩には、残業時間の"平均"が100時間という方もいましたし、月の半ばで法規制が許す残業時間を"使い切ってしまう"ため月の中盤以降は"定時に帰ったことになっている"デバイス系の同期もいました。正直に告白すれば、私もチームリーダーに「打刻してから席に戻ってこい」と言われたことがあり、そのチームリーダーは次の日悔恨の表情で「昨日言ったことは忘れてくれ」と言っていましたが、数カ月後に突然辞めました。
前述の通り、趣味の時間が人生の意義になっていた私にとって、これは体力的だけでなく精神的にも非常にダメージの大きいものでした。上司からの「君のチームが他のチームに比べて残業時間が少ないので、(労使交渉で通常の上限の)60時間まで残業時間を埋めてほしい」という指示が決定打となり、退職を決意するに至りました。
昨今の、シャープ・東芝等のニュースで明らかになっているとおり、大企業だから安泰ということはもう過去の話です。そのため、自分の市場価値を高めておく必要があると私は強く感じています。
しかし、会社はエンジニアリング軽視であり、またその昇進先であるマネジメントについてもお世辞にもプロの仕事とは呼べないものであり(残業100時間を続けないといけないマネジメントとはなんでしょうか?)、ソニーで働き続けることは私の「労働市場で自分の市場価値を高める」という方針にとってリスクでしかありませんでした。
人事担当者に、現在のキャリアパスについて不安があるという相談をしたときにも「増田さんがソニーで(定年まで)働き続けることを考えると〜」のような発言をしており、会社がなくなる / 現状の待遇が維持されなくなるというリスクは全く考慮されておらず、いかにただただ嵐が過ぎるのを耐えるかという発想しかありませんでした。
エンジニアリングについても、昨今の汎用チップにスペック的に見劣りする高額のカスタムチップの開発、そのカスタムチップを使いこなすための C / アセンブラによる手動の最適化といった"職人芸"に対する信仰、大量のテスターを雇っての人力テストなど、エンジニアとしてのセンスとしてやや疑問符がつく、ともすればレガシーな開発手法がまかり通っていたりと、この技術・職場に適応したとして、その人物は一般的な問題に対応できるだろうか?その人物を市場は評価するだろうか?という疑問が拭えませんでした。
また、業務時間がまるで足りないからとコードレビューすらろくにできないので知見がたまらない、時間がないので勉強もできない(しない)、もちろん職場で最新の技術に対するディスカッションどころか雑談すら成り立たない、という状況で、私がこのような職場で業務に忙殺されている間にも、世界のエンジニアは勉強し技術力を高めているのかと思うと、相対的に自分の市場価値を毀損されていると感じ、焦燥感にはちきれんばかりの思いでした。
こういった不安・不満があり、また会社の期待にも応えることが難しいということで、先ごろ無事ソニーを退職し、新しい職場で働き始めています。新しい職場は上記の 3 要件についてよくマッチしていると感じており、心穏やかに働けています。幸い年収も多少増える結果となりました。
色々書きましたが、これらはソニーが悪い会社だと言う話ではなくミスマッチだと思っています。上記の内容はすべて私の価値観を元にした一面からの評価になっており、他方でここで挙げたような会社の考え方(マネジメント優先・仕事優先・安定優先)に同調・納得できる方もいると思います。残念ながら私とはミスマッチだったというまでです。
また、あくまでこれらはソニーという(さらに言えば自分の配属された事業部という)組織に対する評価であり、尊敬できる先輩・同期もたくさんいましたし、そういった方々と出会えた、幸いにして現在も仲良くしていただいているということは、本当にありがたいことです。
みんながしあわせになるといいな。
内定もらった時の風景は今でも覚えていて、友人と一緒に出かけていた先で内定通知の電話がかかってきて、本当に2人で喜んで、とても嬉しかったのを覚えている。どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ。
ものつくりの現場で、エンジニアリングをバカにされたのは悲しかったなぁ。私がいる間だけでも、ものが作れなくなっていってるのが感じられたのも悲しかった。
コーヒー牛乳が嫌いだ
カニミソは大好きだが
カニの身は労力の割に美味しくないと思っている
白米を食って不味いという感想は考えられなかったが、
県外のホテルで食べた白米が不味い事でようやくその概念を知った
白米とおかずを合わせて食べる事が嫌いだ
おかずの味が濃いと思った事はなく、おかずを白米と合わせて食べる事には疑問符が浮かぶ
でもふりかけや卵かけごはんといった、白米に乗せるべきものは白米に乗せる。カレーも食べる
実家の水道水で満足していた自分は、「ミネラルウォーターを買う人は贅沢だ」と思っていた。ホテルの水道水は不味かった
味噌汁が好きだ
具なしの味噌汁を水筒に入れて、水分補給の長風呂の供としている
わかめも好きだが、塩ベースのスープに入ったわかめの方が好きだ
というか、汁物が好きだ
具材がゴロゴロ入っているものよりも、コーンポタージュや溶けた玉葱のコンソメスープといった、具材がなくさらりと飲める汁物が好きだ
でもお雑煮に入れられて、旨味の逃げたボソボソのシャケは大嫌いだ
ペスカトーレが一番好きだ
山の幸のトマトと、海の幸の魚介類が、どうしてそんなに離れているのにどうしようもなく合ってしまうんだろう
今晩はマックを食べる予定だ
今はピクルスを入れて食べている
・袋にU296と書いてあったころ
数字のごろ合わせって田舎のラーメン屋の出前の番号かよと突っ込みたくなりますが、このころは、質実剛健、丈夫な品物をおいていました。生地が厚かったです。デザイン性より実用性でした。独自の品物だけでなく、「Champion」とか海外のブランド品っぽいものも一部に置いてありました。県庁所在地に買い物に行かないとなかったので、特別なお店でした。
お店の出店数が激増していました。まだ、実用品としてイメージが強かったです。品質としてもこのころが最高だったように思います。生地が一番丈夫でした。このころの服で残っているものがあります。売り上げに影響が出るくらいに丈夫です。県で2番手の街にもお店ができました。品が良かった印象があります。
デザインに舵を切りました。スリムフィットという着る人を選びすぎる服を投入。女子からもサイズがないという声が聞こえてきました。男性のLを着ている子と服がかぶりました。生地が薄くなってきたかも?とか丈夫さに疑問符が付くようになりました。毎年同じものを買っているので、違いが出ると気が付きます。
・GU出店後
明らかにGUの商品の生地が薄いことはわかりました。対GUでは品質が良い。色の品ぞろえがデザイナーの自慰行為なのか、棚のエンドに設置されたお値打ち品コーナーにコーデできねえだろ的な色がシーズン遅れで特売されるようになりました。赤シャツとか緑ポロシャツとかレベルが高杉晋作です。坊ちゃんファンとか南海ファンじゃないとつかい道が想像できません。それともイタリア国旗コーデをしろというのかと。通年売っていたビジネスバックがなくなったのが痛恨の一撃でした。気軽に壊してもいいものが買えてよかったのに残念です。ハンカチとか売っているときとそうでないときがあるのがめんどくさいです。
・ここ5年くらい
我が田舎の町にも出店されました。これによって、特別なお店ではなくなりました。買い物に行く特別感が激減したのは否めません。同じくマクドが我が町に出店したあとも特別感が大幅に喪失しました。アメリカの空気を持ってくる特別な店ではないです。日常に入り込んでくることはブランドイメージを重視するようになったユニクロとしては相反する課題です。袋にU296と書いてあったころのブランドイメージに戻ったかなとも思います。
ツイッターを観察していると異常なまでにRTが伸びていくイラストがある。
特に艦これ界隈の勢いはすさまじく、世間的に言う「バズる」ツイートが毎日のように発生している。
それこそ、RT・いいねが1000を超えるものすら普通で万を超えるものすらもある。
だが、一体何がどういう拡散の経路を辿りそこまで広がっていくのか?
それがまったく分からない。
2、3年前までは割と実力通りの絵の評価に比例したRT・いいねがついていて、たまにネタ的な
ものや、エロ系がヒットして一気に拡散されるという流れが定着していた。そういう意味では
実力のある人は相応のRT/いいねが付き、絵はそこまでで無くてもネタで一発逆転できるという
面白みがあった。上手い絵でもまったく知られないまま、埋もれてしまうpixivに比べれば
よっぽど公平性がある、と当時は思っていた。
ところが去年の暮れくらいから「まぁ、良くあるよね」と思うレベルの絵やネタでも
急激にRT・いいねを大量に獲得する絵を見るようになった。同じTLに流れてくる絵でも
その差が極端になってきたのを感じる。もちろん中には納得できるものもあるが、疑問符が
一晩でフォロワーが1000増加するアカウントや、2,3ヶ月でフォロワー10000を超える
アカウントがフォローしている人の中にも現れるようになった。自分も多少なり絵を描く
身だが、同じ地点にいたと思っていた人がいきなりはるか地平の彼方に行ってしまうのを
見るのが辛くなりツイッターを開いて憂鬱になる事も多い。ただ、どうしても分からないのは
その異常なまでの拡散の経路なのだ。どうも特定のキャラが描かれていると伸びが著しい
ような気がするがその導線がどこにあるのだろうか。知っている人がいれば教えて欲しい。
ツイッターに絵を上げるという行為は、当初は評価がダイレクトに伝わり非常に
エキサイティングな場所だと思っていた。しかし、今の現状は何かいびつな形になってしまったと思う。
なのでやる気を失う前に戦場の最前線のような界隈からそっと抜け出して静かな場所に行こうかな、
と思う日々であった。