はてなキーワード: 民族的とは
以前は単に学校の選択肢が豊富な都市民のナチュラル見下し vs 学校の選択肢がない地方民の怨恨と言った構図だったのが、ここにきて公立中学校を『動物園』と揶揄するのは差別だという視点が持ち込まれて収集がつかなくなってきている。
同じ人物が繰り返してるだけでは?
第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
2 この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない。
3 この条約のいかなる規定も、国籍、市民権又は帰化に関する締約国の法規に何ら影響を及ぼすものと解してはならない。ただし、これらに関する法規は、いかなる特定の民族に対しても差別を設けていないことを条件とする。
4 人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を確保するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。ただし、この特別措置は、その結果として、異なる人種の集団に対して別個の権利を維持することとなってはならず、また、その目的が達成された後は継続してはならない。
①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
②区別すること。けじめ。「大小の―がある」
よろしければ差別の定義を読んでどうぞ。自称フェミニズムと同じで無茶苦茶なんだよな定義が
第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
2 この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない。
3 この条約のいかなる規定も、国籍、市民権又は帰化に関する締約国の法規に何ら影響を及ぼすものと解してはならない。ただし、これらに関する法規は、いかなる特定の民族に対しても差別を設けていないことを条件とする。
4 人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を確保するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。ただし、この特別措置は、その結果として、異なる人種の集団に対して別個の権利を維持することとなってはならず、また、その目的が達成された後は継続してはならない。
①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
②区別すること。けじめ。「大小の―がある」
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
自分のじいちゃんばあちゃんの苗字くらいまではせめてわからないとえらいことになる
わかるっていうのは文字データで知ってるってだけじゃなくてそれを知る環境がある 血縁関係が親を通じてしれる範囲程度は知れたほうがいいって事
これからは核家族からの何世代かこえてもう完全に血縁から孤立してる人がでてくるだろうから関係はないけどメリットとしては近親の結婚とかで血が濃くなるのを防げる
日本は苗字が多いのは男系だから 家を男子が継ぐって形だったから
他の国では血筋の判断をどうしてるかっていうのは男性側の苗字をミドルネームに入れるとか親の名前からその子ってつけて名乗るとかしてる
男性が牛耳って女性を蔑視してるとかそういうことじゃない システム上枝分かれの記録を保持するのにこうじゃないとできない
女性は子供を産むことができるので自分で血脈をつくれるけど男性には無理 じゃあ男性がどこで子づくりに関与したかって情報がなくなる なので産地につけて種類を表記するような生産地表記に沿った文化のところもある
一品ごとに産地名と出荷元を一元化して名称にしている形式の日本は男子の家からの出生で女性が他の家の子供をかけもちで産まない限りまざらない
いま日本に広がった苗字の本家は結びつきを作れないと消滅していくけど女性はその場で個人から本家がつくれる
もうすでにお家制度が核家族に破壊されて半世紀以上は経つので結果として女系で近親交配になって民族的に終わってもいいんじゃないかって気分にはなってくるけど
そういうことわかっていて「女性の権利がどうのこうので女系のなんとかみたいなのとか親より上の血筋もわからない個人がそれぞれ自由な意思で自由に結びついたらいい」みたいなことを民族撲滅する気満々でいいこと風に無知な人に吹き込むのはちょっと残酷かなってきがするよ
あえてカッペと言う見下した言い方をするのは
やつらが「自分の価値観以外のパラダイムを認知するための脳の容量がゼロだから」な。
でさあ、
「あっふーん(察し) 相当貧しかったんだ?」みたいな反応が返ってくるわけ。
え?いや親父は慶応卒でいいとこ勤めてて年収はかなりだったよっていうと
もう「嘘だ!」ってブチギレて発狂してくるわけ。
何にキレてるのかさっぱりわからなかったけどなだめながら話を聞くと
「車を買えないならしょうがないが、車を買えるのに買わないということはありえない、認められない」
っていう話らしいのね。
当人も何にキレてるのか整理できてないんじゃないかってぐらいキレてくるんだけど
要するに車マスト価値観を否定されたことに対するショックがすさまじいっぽいわけ。
俺もさすがに
いやなんでそんなに怒るのかわからんし
特に不自由も感じずそれで育ったし(「休日に出かけるときに電車!?みじめじゃないか!」って言われた)
嘘だっていうけど顔も知らないあなたにそんな微妙な嘘をついてなんになるの
っていうんだけどまあ信じないし落ち着かない。
要するに田舎でしか暮らしたことがない人と首都圏で暮らしてる人間の断絶な訳よ。
俺は生涯首都圏だけど、地方で車がマストだし便利なんやろな―っていうのは想像は出来る。
震災後に福島に観光に行ったときはあーレンタカー借りればよかったんだなって思ったし。(まあペーパーだから知らんとこ運転する自信なかったけど)
首都圏だとあなたが日々実感してるような自家用車の有難味が全然感じられないし
駐車場代とかも田舎とは比べ物にならないし、かわりの交通機関も発達してるし、
ライフスタイルにもよるけど自家用車持たない選択も全然あるんですよ
ってことがどうしても認められない。
この「認められない」ってのが重要なんだけど、
単に想像できないって言うのを通り越した「認められない」の気配を感じたのよね。
車が要らないっていうのは別のライフスタイルの示唆をされるという以上に
自分の価値観や人生に対する根本的な否定として受け止めてるんだなって
何度かその種のカッペとやりとりするうちに段々わかってきた。
どっかの砂漠の民に「ラクダは持ってねえし要らないですね」って言ったら
「我々の生活と魂と祖先を根本から否定したな!」ってなるかもしれない。
カッペに自動車要らねえって言ったときのあいつらの激烈な反発はそういう感じの作用が心の中で起きてる。
https://anond.hatelabo.jp/20201017180336
こいつは俺が過去に遭遇した砂漠の民族的カッペよりは知識的には「外の世界」を認識してるんだけど
それでも根っこの部分で自動車に対する心理的な何かがあるよね。
こいつらのそういうぶぶんを察知せずに「自動車のツールとしての便利さ」「環境の違い」だけで話をしようとするとどこまでも荒れるのよ。
カッペが本当に認めてほしいのは自分達の車に対する愛着とその文化なので。
そこを自分で客観化も出来てないので一方的にこっちが察知・洞察して配慮してあげないといけないのがめんどいんだけど。
baikoku_sensei これだから 田舎のゲイは嫌いなんだ! 人口密度低くて ゲイ人口も少なくて 人と接する機会が少ないから コミュニケーション 能力が育ってない!
あれはむしろエスコートマナーや会話のとこでお前のそれ未熟やんてなってるだけだから
異文化コミュニケーションとしてはむしろ圧倒的に「通じ合えてる」方なんだよな。
同じ尺度や同じ欲望の中であなたはまだまだですっていうだけ。まるっきり同じ輪の内側。
ゲイという独自文化や男のチンポと言う強い目的が他の色んな差異を埋めてしまえてるんだ。
Tmr1984 都内乗用車めちゃめちゃ走ってるのに。さてはテメエ東京エアプだな笑
2020/10/18
テメエはまず日本語読めるようになれ。
Yutorigen 都会に住んでて車持ってない側だけど、この価値観と同一だと思われたくはない
あのさあ
俺自身は車に乗らない(必要としてないし車へのフェチズムや憧れも全然ないペーパードライバー)けど
自動車を持つことについて否ともなんとも言ってないよね
「田舎では自動車は必須だろうけど首都圏ではなしという選択も有り得る」ぐらいしか言ってない
俺の文章が偉そうなのは認めるけど何らかの価値観の話なんかしてねーのよ
mayumayu_nimolove 内容がひどくて3行読んでやめた。せめて読ませる文章作らないと誰も読まないよ。
読んどるやん
で、お前はカッペって言う差別用語に拒絶反応を感じたからやめたんだろ?
それはまともな感覚だけどその自分が何に拒絶を感じたのかっていうのを客観的に把握して正直に表現してほしいわけよ
nenesan0102 そういう人いるけど、あまりに想像力がなさすぎて会話が成り立たないよね…。増田大変だったろうな。都心部だと電車、たまにタクシーが一番安い
2020/10/18
この文の主旨は「カッペは自分の文化の外を想像できない」じゃなくて「カッペにとっての自動車はツール以上の精神的な何かだよね」だ
sakuragaoka 東京は自動車の運用が著しく不便な土地なので仕方なく公共交通機関使う場所、と思ってる。保有はしてたけど普段の移動はやっぱり電車が早いし。
そうね
東京で車乗る人は多かれ少なかれ車の所有とか運転体験とかなんかしら趣味性を持って好きっていうのはあるでしょ
そしてそれはたぶん田舎在住者の無いと死んじゃうツールとしての切実さや砂漠のラクダとしての愛着って言うのとは重なる部分はあっても全く異質な部分もあると思う
うん
そのうちにああこいつらにとっての車はなんか侍の刀とか牧畜民族の羊とかそういう市民権や豊穣を象徴する何かなんだなっていう気付きを得た話なんだよね
sangping 要するに都会暮らし自体が不便なんだよな。どう考えたってドアtoドアの車の方が便利だもん。自らの気の毒な境遇を自覚していない都会人の価値観が他者に理解されにくいのは当然だが、当人はその方が幸せなのかも。
ごめんそういう話はしてないし全然興味もないから賛成も反対もしないし勝手にやってくれ
俺自身はそんなに都会のメリット享受してないし田舎暮らしいいなーって思うこと多いよ
人間関係とかうざそーみたいな消極的理由で移住までは出来んけど
differential “俺は生涯首都圏だけど”都民じゃないのか笑(マウント)/うちは使用頻度低いから売ったけど実家(都心)も車持ってたし周囲も車持ってる人多いよ。通勤圏の県住みの人はもっと保有率高いと思う。
土地に対するコンプレックスとか全くないのでそういう感じの(笑)やマウントが全くわからない
それをやる人はかなりそういうコンプレックスがあるのねー、としか…
一番愛着感じてる町は小学生の時住んでた江東区だよ 夢の島(ゴミの島)とかに隣接する人気のない感じが好きで好きで
hyoutenka20 地方民も仕事や大学等で東京に行く人は多く、地方にいても東京マスコミの情報ばかりで東京の生活を認識できてる人が大半
東京の生活は東京に住まずにメディアの情報だけ見ててもやっぱりわからない。(逆も同じ)
なのに地方に居ながら東京の情報を見せられ続けてるとどうなるか?
完全未体験なのによくよく知悉してると勘違いするようになるんだよ。
これはどのジャンルでも恐ろしいことよ。
たとえばオタクって空手と合気道が戦ったときの相性について得々と語れる奴いるのよ。
どっちも自分でやったことすらないんだけど、刃牙とか格闘漫画でよく出てくる構図だから。
空手の打撃はこういう風に合気道にさばかれちゃうって「知って」るわけ。
そんな感じで格闘技とか筋トレに関する事って全く未経験なのに一家言持ってる男は結構いる。
漫画をはじめとしたメディアで変な情報は沢山載るので、それを見てるうちに「ちょっと、いや結構知ってる」って気分になるの。
バーベル触ったこともないくせにウエイトトレーニングのアドバイスしてくる奴マジでいるからね。
もっとすごいのだと、スポーツクラブでどこにも筋肉がない体の奴が明らかにやってる身体の人に何か助言してるのを見かけたりする。
何が言いたいかと言うとメディアの情報では実態を知ることどころか想像力すら養われないし
「何も知らないのに知ったような気になる効果」に自覚的で気を付けない人には小さくない害ですらあるということ。
土地に対するコンプレックスがある人も憧れがある人も、知らないんじゃなくて「中途半端によく知ってる」状態なんだよ。
俺はどの土地が恥ずかしいとかどの車が恥ずかしいとかそういうコンプレックスが全くないけど、それはそもそもあまりにも興味がなくて知識が全くないからなのよ。
そういう格付けとかを気にする奴は土地のランクや車のランクに滅茶苦茶詳しい。
住んだこともない土地や乗ったこともない車についてメディアから大量の情報を取ってる。
summoned 雑に広範に刺さる蔑称を使っておいて、「これはこういう意味で言ってるのでありまともな人には言ってません悪しからず」って面倒臭い注釈で反撃封じる言説は卑怯かつ放置すると本来の蔑称の意味で広まるんだよな
そりゃ俺だってリアルではこんな常識疑われそうな言葉は使わんけど
はてなはジャップだのマイルドヤンキーだの始めいろんな蔑称が常用されて許されてる治安の悪い場所じゃん何を今更って感じ
人の言葉遣いに突っ込むよりも自分の口や自分のいる場所に注意力持った方がいいぞ
kamezo わかりあいたいなら「カッペ」とか言ってケンカを売るようなことをしなければいいのに/それでもわかりあえないこともあるが、それはまた別の問題よな。 コミュニケーション
分かり合いたいなんてどこに書いてんだ
本当に文章の読めない奴が多いよな
俺はこのエントリで「カッペの生態や精神世界はこうなのではないか」という観察所感を発表してるんだから
元々カッペに対して失礼な文章であってこれはカッペと言う言葉を「地方在住者の中の一部の我の強い方々」とかにしても本質は変わらん
つまりこの文章でカッペに語り掛けたり分かり合おうとしたりしてないわけだ
この文章でカッペと分かり合おうとしてるつもりだとか言ってたらそっちの方が傲慢なやべーサイコパスだと思うぞ
HEXAR 増田が都内以外の地域で車を所有している人たちの暮らしや価値観が分からないのはもったいない気がする…相手は決して見下す対象ではないし車があるとどういうところに遊びに行くの?とか聞いてみればいいのに〜
あのさあ
だからさあ
俺は車に乗らんけど車必須な人や車が好きな人や車がラクダな人の生活を否定はしておらんの
というか意味わからんぐらい車好きな叔父とかいてなんか有名らしいオープンカーに乗せてもらったりするの(けどそれの名前も全然覚えられん)
興味はないけど別に車を嫌ってはいないしただ運転には自信がないしそんなに車で出かけたい場所がない生活なだけだよ
誰が「自動車好きの奴うぜーわー 車なんか買う奴バカだわー」とかいう話をしてんだよ
そんな話は一ミリもしてねえわ
ちゃんと読んだうえで俺に突っかかってくる奴(こいつらには何の悪感情も持てない)とかよりはるかにウザいんだわ
お前みたいなのはほんと、ちゃんと人の話を理解する能力付けた方がいいよ?
俺の今回の話も「全く予想外なわけわからんキレ方をする異文化の人をなだめながら話を聞きだしてその人の背後の生活や精神世界を探って言語化してみた話」なわけ
お前はレベル3もねえよな
そりゃお前は表面的にはスマートで行儀も悪くないのかもしれない
けどそうやって攻撃的じゃないポジティブな感じの口調で飾ってたって
関心や理解のレベル3未満ならそれは無能だし、会話してて面白くねーし、もっと端的に言えばバカって言うんだよ
カッペみたいな差別語使う俺よりお前みたいな行儀がいいだけの無能の方が対人関係においてはよっぽど無礼だし見るとこなしだと思うのよ
あっ
これは全然違う
「えっ車がなかった…(察し) 貧しかったんだね」っていうのは
そのカッペ氏はほんとにそういう風に察してただけでこっちを気遣うニュアンスの発言だった
煽りだなんてとんでもないしそこまでは普通に和気藹々と会話してたの
カッペ氏が突如猛烈にキレだして険悪になったのは
俺が「全然貧しくはなかったけど自動車は持ってなかった」ことを理解してから
俺が別に貧しくはなかったよってのもただそれだけ言っても信じない(自動車持ってないのに貧しくないなんて!)勢いだったから
作り話では用意しにくいディテール付きでむしろ裕福だったよって言う説明をしたわけ
カッペ氏の様子が激変したのもそういう説明の中で「裕福なのは嘘じゃない」「でも自動車は持ってないらしい」ということを理解してからだった
そのキレるタイミングやキレかたが不思議過ぎたからなんじゃこれって印象に残ったし、なだめながらなんでキレてんのか探っていったのよ
その後似た感じの相手に数回遭遇して仮説を立てて確信を深めていった
…っていうこれもなあ
なんで家が裕福だとか言っただけで煽りだとかマウントだとかに直結するんだ
読解力がない上に発想の貧しい人達だな
dogear1988 この手の摩擦にはグラデーションがあってな。本当に一方的に発狂されたなら同情するが、車や地方の欠点を論った上で自分の文化圏を正当化する人間は都会側にもいるんで、そういう可能性を考慮すると何も言えない。
俺が「貧しくはないけど自家用車はなかった」と説明して、それが事実だと悟った瞬間にカッペ氏はキレた
つーか俺は車について興味も知識も全然ないから利点も欠点も語りようもない
よく積極的自家用車不要派が言う維持費がどうのこうのの話だって、いくらかかるのかとか全く知らねえんだからさ俺は
そういう車文化や土地文化の衝突に何の興味もねえって何度も何度も書いてんじゃん
dogear1988 価値観の押しつけなどへの反発には賛同するんだが、結論や追記で「車への愛着」自体を揶揄してるのはアンフェアじゃないかね。寧ろそこを認めないなら「ライフスタイルとしての尊重」とは言えんのでは。
えっ どこがよ?
そこを揶揄だと思うのはお前の自覚の方が足りてないだけだよ お前は武士やベドウィン族より何か進歩してるつもりなのか?
我々はみんな刀やラクダの代わりの何かに執着して生きてるんだよ
でも現代ではそういうのはだんだん内面的な対象に引っ込んでっているから今回のカッペのように外部的なものに生活や魂や権利概念がこもってる感じの執着のあり方は予測がつきにくかったし面白かったわけ
お前もお前のラクダは何なのかを考えてみるといいよ
memoryalpha しょうもないマウンティングなんて頼まれてもないのに隙を見せてるようなもんだから可愛いもんです。愛でてあげましょう。ただしルサンチマンこじらせてるやつは相手してはいけない(´・ω・`)
違う
自分の生活や魂を根本否定するような異星人に遭遇して驚愕し混乱しキレてた
って、もう何回書いても無駄だなこれ
読めない奴はどう説明したって読めねえんだ
kyo_ju まぁ日本社会の貧困化がさらに進むと、公共交通が死んで自動車保有が必須な状況をいいことに"クルマにかかる金(税・保険その他を含め)を払うために1ヶ月働く"ようなところまで搾取が深刻化するかもしれない。
こういう「元からどんな話題でもそこから何も受け取らず自分の言いたいことを繰り返すだけ」みたいなidの方がよほどムカつかずに見れるよなそういうコオロギみたいで
りーんりーん あべしねー にほんしねー
みたいな
秋も深まってまいりました
俺はあいつ嫌いだったけどよく知ってみると確かに考え方は似てるかもしれない
アカデミー賞、作品賞の新基準を発表 「主要な役にアジアや黒人などの俳優」「女性やLGBTQ、障がいを持つスタッフ起用」など
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f583b55c5b62874bc158b89
「アカデミー賞」を主催している映画芸術科学アカデミーは9月9日(日本時間)、2024年から、作品賞の選考に新たな基準を設けると発表した。作品賞を受賞するためにはいくつかの条件を満たさなければいけないとし、その中には、「主要な役にアジア人や黒人、ヒスパニック系などの人種または民族的少数派の俳優を起用すること」や、「制作スタッフの重要なポジションに女性やLGBTQ、障がい者が就くこと」などが挙げられた。
もしこの基準を2020年公開の作品にも適用するなら、主人公をアジア人女性が演じ、主要なスタッフにも数多くの非白人が携わっている「ムーラン」あたりが有力候補になりそう。
この記事書いた人、書いててなんか変だと思わなかったのかな。
問題となっているのは、インスタントラーメンなどを展開する日清食品のPRアニメで、大坂選手の肌の色を実際よりも白く、髪の色を明るい茶色に描き、いわゆる「白人化」したと非難されている。同社は、「配慮が欠けていた」と謝罪し、このアニメを削除している。
あのアニメでは、どこにも「白人化」された人なんていなかっただろ。「アジア人化」されてはいたけど。
日清食品のCMは、日本企業が、日本アニメで民族的日本人を描くのと同じやり方で、日本国籍者である錦織圭と大坂なおみを描いたものだ。
どこにも「白人」なんて出てきてないし、白人に主導されて作られたものではないことは明らかなのに、なんで「白人化」って言われるんだ?
これが「日本人化」とか「アジア人化」とか、そういう批判ならわかる。ハイチ系日本人であり褐色の肌を持つ大坂の特徴が、民族的日本人の特徴に置き換えられているからだ。
でも「白人化」ってどういうこと? ひょっとして、日本人のこと白人だって思ってる?
これ、日本の漫画やアニメにしょっちゅう向けられる「出てくるのが白人ばっかり」っていう批判と同じじゃん。
そこにあるのは、日本人はもっと吊り目でもっと黄色い肌をしているはずだ、っていう、典型的アジア人差別じゃん。
もっと言うと、西洋のカートゥーン風の人種表象だけを「正解」とし、それとは異なる文化に基づいた人種表象を「間違い」と断じる、傲慢な西洋中心主義だよね。
日本文化にはアメリカ文化とは異なる表現の文脈がある、ということを理解せずにアメリカの文脈に基づいて日本の表現をバッシングするのが自文化中心主義でありレイシズムでなければ何なのか。
繰り返すけど、「大坂の肌の色を拭い去っている」という批判なら正当だし、そういう批判は向けられても仕方ない。
しかし、アジア企業がアジア人に見えるように黒人を描いたことを「白人化」と呼ぶのであれば、それは単に白人中心主義の標的が黒人からアジア人に移ったというだけで、なんら人種差別の解決にはつながっていないだろう。
一泊二千円台の安宿に部屋を借りている。安宿ではあるが、値段の割にサービスも質も悪くないのだ。しかし、どうやらこのホテルは霊がいるらしいと、Googleの検索ボックスが教えてくれた。確かに、このホテルは何かうら悲しい感じがしないでもない。礼儀正しいフロントの従業員から鍵を受け取り、エレベータに乗り3階で降りると、真っ暗でソファの置かれた空間にでる。そこの奥には普段は使われていない宴会場があるようで、いつも消灯されているのだった。そして、数段だけの小さな階段を降りて、私の部屋のある棟へ歩く。私の部屋の前にもソファがあって、壁に時計がかかっている。その時計は一分ごとに、「ギイ」という錆びた螺子の音をさせて、心霊ホテルを演出している。
ハムスターが餌をとって自分の巣へ戻るように、私も外から戻るとき、はいつもなぜか足早に部屋へ急ぐ。いつも通り駆け足でエレベータから私の部屋に向かって、鍵を開け、私の部屋につくと、濡れたパーカーを脱ぎ、帽子をとった。靴下にも雨水が浸食して気持ちが悪い。「Do not disturb」の札を下げて何日も封印している私のもので散らかった部屋に帰ってくると、少し安堵した気持ちになった。
この日は確か、目的もなく、見知らぬ駅の周りを歩いた日だった。駅には隣接するビルがいくつかあったが、私が出歩いた時には、商業施設も、映画館も営業してなかった。
飲み屋街を歩いてみた。老夫婦が、腕を組んで歩いていた。若者のグループがテントの下で何か民族的な楽器を鳴らしながら歓談していた。スーツを着た3人の男たちが、「じゃあ、また!」とご機嫌に挨拶していた。私は、なんだか自分がお化けになった気持ちになって、ゲームセンターに向かってみた。ゲームセンターはもうすぐ閉店するようだった。湿っぽい雨の夜に、真っ白な蛍光灯で照らされて冷たく乾燥した空間は、とても無機質だった。カラフルな景品たちがガラスの中に入っていて、それが無数に繰り返されていた。私は、暇だったので、景品の一つ一つを見て、欲しいか、欲しくないか、考えてみることにした。愛らしい丸みを帯びたデザインの動物モチーフのぬいぐるみ、あどけないの顔つきの成熟した身体の女のフィギュア、原色で彩られた小包装のお菓子。どれも夢のようであったが、今欲しいものは、そのどれでもなかった。
スロットやアーケードゲームのコーナーをうろつくことにした。そちらのコーナーは少し薄暗く、音も大きかった。広くて新しい店内ではあったが、時間が時間なので、人はほとんどいなかった。仕事帰りの若いサラリーマン風の男が何かロボット系のアーケードゲームをやっていた。レーシングゲームのコーナーには、若いカップルがいて、二人ともマクドナルドの青い飲み物を飲んでいた。音楽ゲームのコーナーには、もう一人、メガネをかけたサラリーマン風の男が、グローブをしてゲームに熱中していた。
私は、何回も彼らの横を通り過ぎながら、どのゲームをしようか考えていた。でも、うろうろと歩きすぎていいかげん不審者に思われているかもしれない、そう思って、考えるのはやめて個室風に覆われたシューティングゲームをやることにした。そのシューティングゲームでは、ゾンビが次から次へとやってきて、それを銃で撃ち殺していくゲームだった。何かゲームについての説明があったが、その説明の画面が流れるのが早すぎて、理解する前にゾンビが襲ってきた。とりあえず照準を合わせトリガーを引くと、簡単にゾンビたちが死んでいった。ゾンビたちで埋まったパーティ会場から脱出するべく、次から次へと撃っていった。「いけてるかも」普段ゲームをしない私であったが、私がトリガーを引くたびに死んでいくゾンビたちをみて、そう思った。そして、救出しにきたヘリコプターに群がるゾンビにも、乱射をお見舞いした。しかし、次の画面で、何やら今までとは体格の違うゾンビが出てきたと気がついたときには、「Incert coin to continue」と表示されていて、しばらく経って、ようやくゲームが終わって現実に戻ったのだと気がついた。
私が遠回りをして、ゲームセンターからホテルの部屋へ帰る頃には、頭にこびりついたゲームセンターの騒音は消えかけていた。
ふと、私は、黄色が嫌いなことを思い出した。黄色、というのは何か溌剌としたエネルギーを感じる色である。けれど、気狂いっぽいそんな雰囲気も私は感じ取ってしまう。ところで、「ち」というひらがなを見ると、私は、黄色をなぜか連想する。
霊(ち)、地、血、乳。
ち、という言葉には、生生しい印象をうける。
ぴちぴち、みちみち、ぱちぱち、かちかち。
ち、という音は、何か瞬時に飛び出していく感じがするのだ。
私が、黄色を好きになれないのは、私に生気が足りないことを叱られているような気持ちになったから、というのもあるのかもしれない。
鈴などの高音と(英語圏から見て)エスニックな雰囲気、アジアン調の音韻、
声が重なってて、一人の歌手というよりは民族的・土着的な感じ?
歌詞が明確に理解できるかはあんま関係なく、響き重視(古語とか架空言語とか)
上手く例示できてるかもわかんないけど、
そして著作権的に完全OKなものを探すの難しかったので申し訳ないのだが、
https://www.youtube.com/watch?v=GvaC6cIrntI
https://www.youtube.com/watch?v=pKZdwldN_dw
あと二つくらい出したかったけど、出そうだけど思いつかない。
でもなんか、半年に一回くらいはそれっぽい曲が聞こえてきて
(あ、また攻殻とかNierみたいなあれだ)
次のように考えてみればどうだろう?
そもそも「漫画家」が職業として成立しているのは、歴史的に日本人に「図像を介したコミュニケーションリテラシー」が高かったから。それは、他国にあまり例がない「絵巻物」の隆盛であったり、青表紙赤表紙黄表紙などの絵本・絵入り雑誌文化であったりを見ても分かる。法隆寺金堂にある「大工の落書き」を見ても、昔からの日本人のデフォルメされた図像に対するセンス、絵心は伝わってくるだろう……云々。それは、文化を「内側から発生」ではなく「海外から輸入」することで発展させてきたこの民族が独自に身に付け発達させてきた、異文化間での高度な伝達・学習ツールだったのかもしれない。たとえば、自分たで発明したわけではない地獄や極楽の概念を一般大衆に分かりやすく広めていくために「地獄絵図」の描き方がやたらと進化した、とかそういう意味で。
こう考えれば「漫画家が職業として成立しているからイラストが描ける人が多い」というのは、説明としては順序の逆転した不正確な説明なのではないだろうか? むしろ「漫画家が職業として成立するほど日本人は(古来から)絵心にあふれている」のであって、これはやはり民族的(文化的)特性と言えるのではないだろうか。
今やってる『BNA』、駄作とは思わないが、見ていて複雑な気分になる
劇中の「獣人」てのがなんか露骨に現実の人種民族的な被差別者ポジションで
というパターンは不滅の模様
今の日本の漫画やアニメでは、ファンタジー的なメタファーにしているが
ULTRAMANでも地球にいる宇宙人の多数は善良で社会に溶け込んでる設定
そういうのが存在しないのだとすると
「オタの右傾化」てのもなんか信用できない気がする
あるいはウヨのオタは『BNA』や『亜人』みたいな作品を見ても
「この劇中でいじめられてる主人公は、中国人、朝鮮人に支配される日本人の姿だ」
かつて、1970年代の漫画やアニメのヒーローはむしろそんなんばっかりだった
半分悪魔のデビルマンしかり、すぐ動作不良を起こす人造人間キカイダーしかり
半分ロボット人間のキャシャーンも劇中で守ってる相手の人間に嫌悪されてた
俺はマイノリティ側に自分を投影する非常に古いタイプのオタクなので
逆にウヨのオタは
「なんで異種族が絶対悪者で普通の多数派一般人が正義の作品がないんだ!?」
と強い不満を抱いてたりしないのか?