はてなキーワード: 妄言とは
戦争反対を訴える戦争が嫌いな人々は「○○は戦争をしようとしている!」などと妄言をわめき馬鹿騒ぎをするが
なぜその人物が戦争をしたがっているのかまでは考えていない。考えていたとして小学生以下の低レベルな理由である。
なぜそうなるのか。日本人が戦争を嫌っているためだ。嫌いなもののことを考えるのはやめよう、考えてはいけないという
教育、社会的風潮が存在してきたためであろう。もし本当に平和を望むのであれば戦争の功罪について知らねばならぬ。
戦争をするメリットはなにか、デメリットはなにか、どの程度以上のメリットが享受できる場合に戦争を起こすべきであるか
こういうことを考えておけば自分から戦争を仕掛けないにせよ、敵国が攻めてくる理由もわかるし対策も考えることができる。
残念なことに日本ではマスコミに出演する自称文化人はもとより大学教授ですら戦争は嫌だ以上の
議論を行うことができない者ばかりである。
日本代表戦、私はこう見た 4氏に聞く サッカーW杯(朝日新聞 2014年6月26日付39面)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11209795.html
サッカーファンで知られるコラムニスト・小田嶋隆さん(57)は「サッカーは進歩しているが、メディアが成長していない」と指摘。「テレビ番組は、サッカーと縁の薄いアイドルや芸人を呼んで応援報道を繰り返し、期待感だけをあおるものが多かった。日本サッカーの将来につながる番組づくりを」と求めた。4年間の強化の方向性は間違っていなかったとみる。「短期決戦に運・不運は付きもの。一喜一憂せずに『たかがサッカー』ぐらいに受け止め、粛々と強化を進めることも、サッカー強国への道だ」
小田嶋隆が発する床屋政談・テレビ批評・サッカー論議については低レベルなものが多いが、このコメントも輪にかけて酷い。だいたい、このオッサンが本当にサッカーのことをわかっているのかどうか甚だ疑問だし、そんな小田嶋にW杯の識者コメントを求める朝日新聞もどうかしている。
まず「メディアが成長していない」と書く。まるで『サッカーに無知なマスコミどもはサッカー通の俺様に跪け』と言わんばかりの上から目線である。そもそも、日本サッカー不毛の時代であった1960年代で世間の話題になったのはメキシコ五輪での銅メダルくらいで、海外サッカーの試合もテレビ東京が細々と中継録画で放送してたのだから、そういう時代と比べると新聞やテレビはもちろん、インターネットとかエル・ゴラッソみたいなサッカー専門紙まで創刊したのだから、メディアは少なからず成長しているのがわかる。
だからと言って、サッカーが日本の国民的スポーツになったかといえば、答えはNoだ。プロ野球人気が陰りを見せ始めた1990年代にJリーグが発足しサッカー人気が高まるかと思いきや、テニス、バレーボール、水泳、ラグビーなどそれまでプロ野球の陰に隠れがちだった競技もスター選手の登場で人気に花が咲いた。こうして起こったのが『趣味の細分化』である。もちろん競技人口においてはサッカーのほうに分があるが、これほど趣味が細分化した現在においてサッカーを国民的スポーツと決めつけるのは無理があり過ぎる。ましてや欧州や南米みたいに“文化”としてのサッカーが日本には根付いていないから尚更だ。
ひとつ、例え話をしよう。企業が新商品を世に送り出すとき、如何にして巧妙な宣伝をおこない自分たちの商品を世間に浸透させるのか。最も手っ取り早いのが「有名人の起用」だ。宣伝効果は絶大だし、有名人側も名前は売れてイメージ向上にもつながるから一石二鳥だ。しかもライバル企業も違う有名人を起用して対抗してくるから、宣伝・広告費は各企業において重要な支出のひとつになってくる。これと全く同じことをやっているのが、日本のスポーツ界である。日本のスポーツ中継やスポーツ番組には必ずと言っていいほど有名人やその競技の元スター選手などが解説者として登場して、世間の注目を集めようと努めている。サッカーも例外ではない。世間的に“広く浅い”層にいる人たちは、有名人の出ないスポーツ中継には関心を持たないし見向きもしない。コアなファンたちはとっくの昔にBSやCSの“専門的な”番組に見入っている。答えは明白なのだ。
近年、関数型プログラミングの重要性はいろんなところで叫ばれています。
Javaの最新バージョンに関数型プログラミングに関する新機能が加わりました。
Rubyも昨今、関数型プログラミングへのサポートが手厚くなってきています。
プログラミングの教科書の大手、オライリー社から、Javascriptで関数型プログラミングを行うための解説書が発行されました。
関数型プログラミングへの注目度は高まってきています。
おそらく、みなさんは既にオブジェクト指向が何か、を知っています。
でも関数型プログラミングとは何か、胸を張って語れる人は、周りに見当たらないかと思います。
実際、オブジェクト指向によってプログラミングする方法は、わかりやすい解説があちこちにある一方で、
関数型プログラミングとは何か、何が良いのか、ということについての、よいまとめは見つけることはできませんでした。
この記事を読む方の中で、「関数型プログラミングを取り入れるか・取り入れないか」で切実に悩んでいる人は、おそらくいないでしょう。
この記事はあまり細かいところに立ち入りません。関数型プログラミングを使う側の立場に立って、利点や向き・不向き、それが導くスタイルを書きました。
みなさんは鳥のように飛んで、高い空から、関数型プログラミングとは何か、何が良いのか、を見渡してください。
オブジェクト指向的アプローチは、名前をつけてプログラムを整理する。
関数型プログラミング的アプローチは、汎用部品でなんとかする。
Googleが近年リリースした言語、Goには、”継承”を直接サポートする仕組みが無いことが話題になりました。
また、Mac OSXの基幹ライブラリCore Foundationは、ライブラリ自体はC言語で書かれているにもかかわらず、その設計方針は明確にオブジェクト指向です。
その本質とは"名前をつけて対象を識別し、それを扱うこと"、にあります。
最もプリミティブなオブジェクト指向の対象は、ファイルハンドラです。あるファイルを開いて、読み込んで、あるいは書き込んで、ファイルを閉じる。
これらの処理をまとめたら、わかりやすいですよね?
対象に関する処理を、対象の周りにまとめる。これがオブジェクト指向の基礎的な理念です。
識別することとイコールで比較できることは、とても良く似ています。
イコールによる比較は、オブジェクト指向では鬼門であることが知られています。
PointクラスのインスタンスとColoredPointクラスのイコール演算をどう決めればいいかに、正解はありません(詳しくは"effective java"をご参照ください)。
また名前をつけて識別する対象は、フワフワしていてはいけません。
たとえば、"軍人の階級"をオブジェクトにしたとしましょう。"大佐"クラスのある兵士は名前のフィールドや、性別のフィールドを持っているでしょう。
ところで彼が昇格したときに何が起こるでしょうか。
新たに"少将"クラスのインスタンスが作られます。"大佐"クラスを破棄する前に、名前、性別、その他沢山のデータを引き継がなくてはいけません。フィールドを増やしたい場合はその都度コードに修正を加える必要があります(*)。
なるべくイコール比較を避けたい。対象は不安定なものではいけない。では何に名前をつけて、識別するか。そこにオブジェクト指向技術者の熟練度が現れるのです。
一方、関数型プログラミングでは、特定の何かに名前をつけるより、極力、汎用部品でなんとかしようとします。
関数自体をリストなどのデータ構造に詰めることもよく行われます。
実は、関数型プログラミングというのは本質を表していません。
関数をはじめとして、リスト・ツリーのようなコンテナ、手続きを抽象化したもの、回路を抽象化したもの。
あらゆる対象を値として、合成し、ときに分解し、新しい値を作ります。
変数に適用する処理を作りあげることが、とても簡単だからです。
四則演算が定義されたデータを詰めたデータ構造もまた、四則演算可能だったり。
誤解を恐れずに言うと、オブジェクト指向がトップダウンなのに対し、関数型プログラミングはボトムアップです。
関数型プログラミングをサポートする言語には、沢山の汎用部品が定義されています。
このような構造をインターフェイスとして、様々なライブラリが組まれているので、
たとえばモナドを知っていれば、30分程度でパーサー(解析機)を理解することができて、
パーサーを理解できれば、JSONパーサー・ XMLパーサー・markdownパーサー・C++パーサー ... などを理解するのはとても容易です。
理解しやすいこと。これが関数型プログラミングの大きな利点です。
追記:
また、汎用部品と型のお陰で、ライブラリのドキュメントが圧倒的にひきやすい、というメリットも有ります。
Haskellな人がPythonにトライした結果 - Togetterまとめ
関数型プログラミングは「厳密な事前設計を必要とするため、簡単なことをやるのにも時間が掛かる」。
>> map (*2) [1,2,3] [2,4,6]
邪魔な”儀式”や、"おまじない"のコードが徹底的に撤廃されているためです。
関数型プログラミングのコードは、潔癖かつ濃密です。
たとえばC言語でint hoge(int x,int y)が定義されているとき、hoge(3)はなんの意味も持ちませんが(コンパイルでコケますが)、関数型プログラミングでは意味があり、実際に有用です。
上の例では、「掛け算をする」(*)関数は、二引数関数ですが、それに引数を渡して作られた「2を掛ける」関数(*2)は、一引数関数になります。
関数型プログラミングでは、「簡単なことは簡単にでき、複雑なことは複雑にできる。ただし、間違ったことは殆どできないか、全くできない」。
また、静的型付けの力によって、コード補完は非常に強力になっています。インテリセンスの比ではないです。
たとえば、関数中のある表記の型を任意に表示できます(GHC/TypedHoles - HaskellWiki)。
やがてやってくる未来には、プログラムをテキストエディタで書くことは時代遅れになっているでしょう。
統合環境のサポートで、バグやミスの少ない、スムーズなプログラミングができます。
そしてその環境で動くプログラミング言語は、関数型プログラミングをサポートした言語なのです。
以下の様な兆候を感じたら、あなたはそのプログラムを関数型プログラミングで書くべきです。
一般に、オブジェクト同士の相互作用が複雑になるほど、オブジェクト指向では手に負えなくなっていきます。
そういうときは、オブジェクトを直接扱わず、替わりにその"相互作用"を扱うことで、複雑さを軽減するアプローチが有効です。
それこそが関数型プログラミング的アプローチです。
特にオブジェクト指向が有効なのは、プログラミング初心者がそのコードをいじるかもしれないときです。
関数型プログラミングは、強固さと柔軟さの代償として、高い学習コストを伴います。
オブジェクト間の相互作用が複雑でなく、着目している(名前をつけている)概念が安定しているとき。
そして、プログラムをいじる人たちの間で共通理解が図れているならば、オブジェクト指向が有利です。
遅延評価という機能によって、レガシーな言語で扱えなかった、巨大な数を扱うことができます。
関数型プログラミングで書かれたプログラムは、正確さが要求される、金融関連の業界で使われています。
手続きとしてパーサーを記述できるので、テキスト処理プログラムはより理解しやすく、メンテナンスしやすいものになります。
関数型プログラミングを知らない人は、「正規表現でおk」と言いますが、
彼の書いた複雑な正規表現は、半年後には(書いた本人でさえ)理解できなくなっていることでしょう。
手続き一般を扱うことができるので、途中で割り込みのある手続きの表現も容易です。
関数型プログラミングをサポートしていない言語ではコルーチン(ファイバー)などをつかってなんとかするしかありません。
さもなくば、非並行処理では普通に関数として記述できるところを、並行処理のために、Builder,Strategy,Command,Interpreterパターンを駆使して書き直すことになります。
Javascript使いの方は、Deferredなどの構造を使うでしょう(http://qiita.com/KDKTN/items/4c6986049d204f0645d8)。
C++使いの方はBoostで頑張りましょう。破滅的に解りにくいコンパイルエラーメッセージと格闘してください。
もう少し簡単な例をあげます。
あなたは、あるレシピにしたがって、自動的に料理を行うマシンの制御プログラムを書いているとしましょう。
1. まず玉ねぎを炒める。
2. 飴色になったら、肉を加えて炒める。
3. 野菜を加える。
4. 水を加えて煮る。
5. スパイスを加える。
…できませんよね?何故ならば、各ステップの"間に"、マシンのロボアームの位置や動きを調整する処理が必要だからです。
これをオブジェクト指向でやろうとすると、各ステップの副作用として、それらの処理を行うことになります。
そうすると、マシンが二機に増えた時などの変更量は、絶望的なものになります。
あるいは関数として表現するのを諦め、手順全体をDSLで記述できるようにします。
このアプローチは関数型プログラミング的です。しかし関数型プログラミングをサポートした言語の助けなしでは、そのDSLを記述するために沢山のユーティリティーコードを書かなくてはならないでしょう。
オブジェクト指向的アプローチでこの問題をエレガントに解こうとすると、クラス化の粒度を上げる事になります。
野菜クラス、フライパンクラス、ボイルクラス、フライクラス、焼き加減クラス、アームクラス、野菜の大きさクラス、切り方クラス、焼き方クラス、"焦げたよ"クラス、etc...
こうすると早晩レシピはプログラムのコード上から消え去ることになります。上記のたった5行は、依存性注入のオブジェクトグラフを構築するコードに取って代わることになります。そこには沢山の挙動の制御がオプションとして付記されているのです。
カレーなど、ある種のレシピに限定することで、見た目の理解しやすさを得ることができますが、一方それは表現力を損なうことを意味します。
C言語などではマクロを使うこともできますが、それは結局、関数型プログラミング的アプローチの意味するところと同じになります。すなわち、補助のために沢山のコードを書くことになるでしょう。
iOSのAppstoreアプリは、"無料"と書かれたボタンを押すと、それが"インストール"ボタンに変わり、それをもう一度押すと、ダウンロードの進捗を表すインジケータに変わり、それを押すとダウンロードをキャンセルできます。
このように、位置は同じなのに、ステートに依って見た目と機能が変わるボタンは複雑です。
これをオブジェクト指向で実現しようとすると、
という下らない問題にぶつかります。
一方関数型では、"機能"、"見た目"、"状態"、を独立に扱って、それらを合成してボタンを作るので、迷うことはありません。
「同じ位置にあるUIオブジェクトは、コード上で(インスタンスとして)独立して、他から干渉を受けない」
この条件が満たされているうちは、オブジェクト指向でGUIを実現することに無理はありません。
しかし、携帯端末のような小さい画面で、多くの機能を達成するためには、UI要素はコンテキスト依存的に複雑になりがちです。
近年、PCのディスプレイの大きさは、頭打ちになってきました。
画素数は増えているのですが、MacにおけるRetinaのように、複数ピクセルでひとつのドットを表すようになってきています。
これは、ひとつの画面に置かれるボタンなどのUI要素の数は、これから先の未来で増えることはない、ということを意味します。
したがって、未来のGUIのプログラミングは、注意深く機能をピックアップして制限するというデザイナーの努力を脇におけば、
関数型プログラミングの力を頼るしか無いでしょう。
つまり…
Haskell さいこうなのおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! おしっこ漏れちゃうのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
1. google:すごいHaskellたのしく学ぼう を注文する。
2. Download Haskell を自分のPCに導入する。
3. コンソールにghciと入力して、対話型コンソールを立ち上げる。
4. 次の関数をコンソールに打ち込んで、結果を見る。即値で書かれているところとかをいろいろ変更してみて、感動する。
take 4 $ map (*2) [1..]
追記:
いかがでしたか?
ちまたには、関数型プログラミングの利点は変数が無いことだ、とか、より安全だから、とか、より速いから、などという妄言が満ち溢れています。
オブジェクト指向と関数型プログラミングは、水と油ではありません。プログラマは自分のプログラムに最適なアプローチを選ぶことができます。
一般にはあまり知られていないことですが、Haskellにもオブジェクト指向へのサポートがあるんです(Lensライブラリ、これを使用したサードパーティ製ライブラリも最近増えてきています)。
この記事を読んだオブジェクト指向プログラマのあなたが、少しでも関数型プログラミングに(そしてHaskellに)興味を持ってくださって、ホームセンターの大人用オシメのコーナーが大賑わいになれば幸いです。。
まず、あなたが大学でオーケストラをやろうと思っている理由は何ですか?
友達に誘われて?大学デビュー?新しい分野にチャレンジしたい?高校でやってた?
理由は何でも構いません。クラシックに興味を持っていただけるだけで私は嬉しいです。
そんなあなたの素晴らしいキラキラした瞳を「こんなはずじゃなかった…」と濁らせないために少し話をしようと思います。
ピアノを弾いていた方なら憂鬱な基礎練習を思い出していただければ言いたいことはわかるでしょう。
運動部だった方、自分の技能を上げるためにそのスポーツをやり続けるだけでなく、長時間の筋トレなどがあったと思います。
ただ、弾けた時の感動や舞台で浴びる拍手の音には何物にも代えられない価値があるように私は思います。
一つ一つ先輩に手ほどきを受けながら習いましょう。
大学ほどにもなると大抵経験者はいます。上手く弾けなくたって構わないのです。あなたのスピードで練習していきましょう。
焦って形にならなくて結局何だったのかわからないまま終わってしまった…と言うのが一番避けてもらいたい状況です。
大学のオーケストラは定期演奏会があると思います。自分が乗る曲の好きなフレーズを見つけ、「ここだけは弾ける」という部分を決めて…と言うのも極論としてはアリだと思います。
周りの人に流されず、音楽を練習し、勉強し、その中で楽しみを見つけられればと思います。
次に、経験者の方。貴方の主義や性格にそのオケは合っていそうですか?
あなたの入ろうとしている大学オケの過去の演目を調べてください。知らない作曲家がいますか?
意味の分からない演目があったら歓迎会などで先輩にそこはかとなくその曲が決まった経緯を聞いてみましょう。
あとこれは新入生の方にも言えますが、サークル費を調べてみましょう。
低すぎるのもどうかとは思いますが、若干高めな上その印象を抑えるために比較対象が都内私大オケになっているものには気を付けてください。
サークル費の高さはどこに流れているのか注意が必要です。ホールや指揮者・トレーナーの先生に充てていると言うのなら大丈夫でしょう。
ただ、サークル費を稼ぐためにバイトを頑張って単位を落としたり身体を壊しては元も子もないのです。
学生の本分は勉強です。自分の限界と相談をしながら楽しい大学オケ生活を楽しんでください。
言いたいことは実際はこのくらいだけです。
オーケストラは50人、100人規模の「アンサンブル」です。指揮者やコンサートマスターなどの存在はありますが、大人数で1つの音楽を作り上げる中で他では味わえない感動があります。
そして、音楽を通して様々な事を学んでほしいと思います。技術、感情、人との交流…そこには様々なものがあります。
辛いことも、嫌なこともあります。人が多くなればサークルの中でも苦手な人・嫌いな人は出てくるでしょう。
その人と何とかやっていくのか、辞めるのかは貴方次第です。
音「楽」という字面だけ見て、音楽は楽しまなければならないモノだと思い続ける必要性ははありません。
曲自体にも悲しみやジレンマを表現したものもありますし、音楽が全て楽しいものだとは私は思いません。
…
オーケストラほど「音楽」と言うもののために、これだけ多くの人と交流するは他にはないと思っています。
貴方の4年(6年)が楽しい大学生活と共にあることを祈っています。
最後に皆さんが失敗しないために私の知っている2人の学生オケ「失敗経験者」の話をしたいと思います。
後味の悪い小話ですので気分を害したくない方はここまででお帰り頂いた方が良いかと思われます。
また、これはどちらも大学以前にクラシック経験があった知り合いの話ですので初心者の方には参考にはならないかと思います。
(さらに、当人たちから聞いた話ですのでそのオケの悪い部分だけが誇張されている可能性も否定できません。)
それでは、1人目から
1人は割と厳しい高校吹奏楽の経験者で、(わかる人にはわかるかもしれませんが)吹奏楽部のようなドロドロとした中でひたすら技術と音楽理解を追い求めて行ったタイプです。
彼女が入った大学のオーケストラは割とゆるめのほんわかしたタイプのオケでした。
定期演奏会は有名作曲家を並べたもので、オケのメンバーもやる時はやるものの基本的には飲み会やおしゃべり多めといった雰囲気だったそうです。
彼女は2年目以降は(練習の鬼と言えばいいのか)練習一辺倒になり、周りから頼られつつも1歩引かれていたように感じていたそうです。
彼女は最後まで大学オケをやり切り、音楽だけは楽しかったと言っていました。
私としては個人的には仲間や先生方ともっと楽しんで欲しいかったなと思います。
2人目は逆にポップス曲や有名曲をやってきた高校オケ経験者で、入った大学オケが性に合わなかったと言っていました。
そのオケは技術メインで(技術一辺倒が悪いとは私は思いません)、各パートにトレーナーが付くほど本気な大学オケだったそうです。
彼は経験者と言うこともあり、サークルの枢軸といいますか、選曲などかなり重要な部分に関わっていたようです。
しかし、オーケストラがトレーナーや名誉顧問(?)のような人に半分牛耳られていて、定期演奏会の曲の案を出しても中々許可が下りず、毎回1,2曲不本意な曲を入れて妥協していたようです。
(夜な夜なサークルの選曲係系の幹部と一緒にヤケ酒をしていたとか。)
彼はさらに、高校オケの音楽の雰囲気と大学オケの頭でっかちな音楽のギャップにも耐えられず、役職交代のタイミングで退部届を出したそうです。
後味は悪いですが、話をこのぐらいで閉めさせていただきます。
(回避するためにインカレと言う手段もありますね。インカレはそれはそれで苦労はありますが、私は悪くない選択だとは思います。)
年寄りの妄言に最後まで耳を傾けて頂きありがとうございました。
これを見た人の中には「これは全く馬鹿げた意見だ!聞く必要もない!」と言う人もいると思います。
様々な人が音楽に、学生オケにそれぞれの思い入れ・考えを持つことは当然の事ですし、私とは真逆の事を思う人間がいることにも何ら疑問はありません。
ただ、こういう意見があると言う事を頭の片隅に入れて頂ければと思います。
私は皆さんに学生オケをするなとは言いません。むしろ積極的に参加して欲しいと思っています。
http://anond.hatelabo.jp/20140326001403
服も縦横のバランスのせいで野暮ったくなりがちだし、何より靴の選択肢が狭まるし(ZARAとか卑弥呼とかあるけど。ねー)、何よりこういうオッサンが湧くのをある程度知ってるので「お疲れ様です」と言わざるをえない。
それでもおれが言いたいのは、一部の男性(女性も)は高身長女子が大好きなんだ。間違いなく。心の底から。
だから自分にすぐわかるマイナスだけを受け止めるんじゃなく、あなたに向けられる広い意味での好意がそこかしこにあることを知ってほしい。身長をマイナスに考える癖はもう身から離れないと思うけど、せめて知っておいて欲しい。駅のホームですれ違って「ああ、今の女の人、身長高くてすごい良かったなあ」くらいのふんわりした、とくに見返りをもとめるわけではない好意や羨望がそこかしこに存在していることを。
(外野へ。身体的特徴をもって「スキ」ということは身体的特徴を差別するのと表裏一体だ、とかいう妄言はなしで頼む。)
●정대협 등의 위안부 고소장 요지 - 시스템클럽(挺対協などの慰安婦訴状要旨-システムクラブ)のGoogle翻訳
読みやすくなるように改行した。
日本軍「慰安婦」被害者と日本軍「慰安婦」問題の解決のために活動している民間団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺身隊対策協)とナヌムの家などについて虚偽の事実を流布する文を作成し、2005年4月13日から連日システムクラブのホームページに公開して、名誉を毀損したジマンウォンを刑事告発しようとする。
告訴人は121人の日本軍「慰安婦」の生存者の中で海外に居住している被害者と公開を憚る被害者30人などを除く80人のおばあさん たちとナヌムの家、挺対協である。
我々はジマンウォンが日本軍「慰安婦」被害者と挺身隊対策協、分かち合いの家だけの名誉を毀損したものではなく、全国の各地域に住んでいる被害者の世話をし支援している市民集会や市民団体にも深刻名誉を毀損したことを確認させようとする。
これ今日の記者会見には、日本軍「慰安婦」被害者と挺身隊対策協、ナヌムの家、従軍慰安婦お婆さんと一緒にする市民の会(大邱)、日本軍「慰安婦」とされる統営、巨済市民の会、釜山市民の会と韓国女性団体連合、韓国教会女性連合、韓国女性民友会、韓国女性の電話連合、全国女子大生代表者協議会など挺対協の21の会員団体が参加している。
(1)第一は、偽物と本物の日本軍「慰安婦」があるのだが、その中でも中国から来たおばあちゃんは偽であり、需要のデモにも出て日当を受けるなど、偽物が本物のふりをしているものであり、
(2)第二は、挺対協とナヌムの家がおばあちゃんを利用して募金をしてお金を横領しエングボルことをさせるなど、むしろ本当の慰安婦を困難に作りながら、団体の利益のみを取りまとめてきたものである。 これらの被告訴人の文は、過去15年間、ひたすら、日帝の侵略の下で日本軍性奴隷として酷使喫した慰安婦問題を解決し、日本帝国主義の真の謝罪と被害者の名誉回復のために頑張ってきた告訴人の名誉を残酷に踏みにじる行為である。
何よりも、おばあちゃんを本物(20%)、偽(80%)で区切りながら、まるで何の正確な根拠資料があるひたすら割合で区分し、おばあちゃんの名誉を深刻に毀損する行為を犯した。
1。日本軍「慰安婦」ハルモニたちは、とても恥かしがり記憶さえしたくない過去を、日本の「慰安婦」犯罪婦人科隠蔽 が続いている状況では、過去を明らかにすることは本当に私たちの歴史を上記し後世に残すために生きる道だと考えられ、歴史の定義をために生きる道だと考えられ勇気を持って明らかに立って証言をした。「露呈」を通して勇気を得たおばあさん たちはその後、個人の平安と手間のかからを拒んで水曜デモなど、国際会議での証言などを通じて、日本の真相究明と賠償、謝罪を促す努力を今まで払ってきた。
○しかし、被告訴人ジマンウォンは文で本当の「慰安婦」ハルモニたちは恥ずかしくて人々と接触していない奥まったところに住み、TVに顔写り込みを嫌って、一度も公開されたことがないし、逆に推論することで、まるでTVに出たり、需要デモなどに顔を見せて公開証言をしたおばあちゃんは、偽であると断定している。だけでなく、被告訴人は、最近TVで見られる慰安婦おばあさん たちの中には、延世大がそこまで多くも見えず、健康にも非常に良い見え、声も元気な方がある」としながら、デモやTVに出てくる人は偽と主張している。
被告訴人の被害者に対する名誉毀損はここで終わらない。「最近TVで顔を照らしているおばあちゃんの中には中国から来た5人ほどのおばあちゃんたちもいるが、彼 らは日本大使館の前に出ると引き換えに、一日に数千円ずつの日当を受ける」と主張し、中国から帰国したおばあちゃんが偽物だとしていている。
○「慰安婦」ハルモニたちは皆若い年齢で工場に就職するとし、勉強させてくれると、あるいはサルガマ重量を計るスケールで重量を量ったところで重さを量ると、時にはハーブ掘っが見知らぬ日本の軍人に巻き込まれてトラックに乗せてて、日本軍の慰安所に配置されて少なくは1年の間、多くは14年の間に日本軍によって監禁された状態で、兵士を拒否すると、暴力に振り回されながら、タバコの火で焼いられそう性奴隷となった。これらの経緯については、これまで多くの学者や研究者が直接調査して採集した記録に残っており、政府のお届けの要求に応じて、慰安婦ハルモニたちが申告した後、研究者が直接聞いて周りの人から確認した証言集にその内容が明らかにされている。 すでに日本政府も1992年7月6日旧日本軍が韓国人の日本軍「慰安婦」の募集、管理、慰安所の設置の監督等に直接関与したと初めて公式に認めたし、1993年8月4日には、「慰安婦」の募集、慰安所の管理などに強制があったと公式に発表するまでにした。
○現在、毎週水曜デモに出てくるおばあちゃんは、告訴人黄金株(ソウル)86歳、キル·ウォンオク(ソウル)78歳、イ·ヨンス(大邱)78歳、ダイオキシン金(ソウル)、92歳、ドアの筆記(景気光州)80歳、ベチュンフイ(景気光州)82歳、ハンドスン(景気光州)85歳、イオクソン(景気光州)78歳、川の日の出(景気光州)79歳、バクオクソン(競技光州)82歳、バクオクリョン(景気光州)86歳など10人前後である。
これらはすべて日帝の下で慰安婦として言えない被害を受けた人々である。日本政府の真相究明と謝罪を促すために、高齢にもかかわらず、毎週水曜デモに参加し、若い学生たちに生きている歴史教科書がされていてくださって、時には日本の修学旅行団、労働組合およびその他の国学者、学生、平和運動家などに歴史を証しする証人として参加している。
○また、若い年齢で、中国に連行されたが、解放後、日本軍が戦場にそのまま彼女たちを捨てて避難したため、お金もなく、道もわからない戦場にそのまま捨てざるを得なかった女性、韓国と中国が国交正常化がされていない状況で、故郷に帰ってたくても来られなかった方々 、韓中修交が行われた後やっと民間団体や個人事業家などの助けを借りてやっと故郷に戻ってくることができましたが、すでに若き日の生活はすべて根こそぎにされてしまった後、あった方たちの痛みにはものともせず、何の根拠もなく、そのおばあちゃんを日当を受けて水曜集会に動員された偽物だと主張している。
○このように、日本の右翼でもない韓国人である被告訴人がおばあちゃんたちに「自発的な売春婦」という妄言と健康に見え、偽の、中国からの輸入は、当該日当を受け水曜デモに動員された偽物などの表現を使いながら、被害者の胸に傷をつけ、名誉を毀損した。
被告訴人のこのような主張は、おばあちゃんたちが直面している生活を貶めるだけでなく、お金をもらって動員された人々であると考えて水曜デモを主催してきている挺対協の水曜デモを主管している挺対協の会員団体、市民団体の活動の道徳性を毀損し、一緒にしているおばあちゃんたちの名誉を毀損したことが明らかである。これ我々は、このような妄言には、法の決定的な審判が下さないと主張する。
2。被告訴人は、挺対協とナヌムの家に対して「慰安婦を利用して募金をして募金したお金を分けて引けるない水曜デモに祖母を日当を与えて動員して、エングボルにして国際恥さらしをさせて通う「集団的に描写して挺身隊対策協とナヌムの家の名誉を毀損した。
○挺対協は37室の市民団体と個人たちによって1990年に設立された連合体である。その中挺対協の会員団体の一つだった仏教人権委員会は、挺対協の代表者会議でおばあちゃんたちが安定した居住空間がなく、苦労して住んでいるという報告を受けて、挺対協は運動を中心にして、仏教人権委員会がおばあちゃんの家を用意するという決議をした後の推進をすることになった。
この意味に同意した方々が、1992年6月に「ナヌムの家>建設推進委員会を構成し、仏教界や社会各界に呼びかけ、多くの方々が参加して京畿道光州にナヌムの家が建てられ、社会福祉法人に設立されるまでに至った。ナヌムの家は、関連機関の厳格な監督を受けており、慰安婦ハルモニたちの住居施設として日本で韓国と日本の歴史に興味のある方と日本の良心ある団体や個人が日本軍「慰安婦」問題解決のための分かち合いの家訪問して歴史を学び、被害者の証言を聞いて、奉仕活動を通じて、自ら問題解決の練習に参加することである。 ところが、被告訴人は、まるで告訴挺対協やナヌムの家が営利を図っており、祖母の福祉には全く気にしないず、このような商売のための水曜集会に中国に来たおばあちゃんたちに日当を与え続けて引いていくかのように描写している。
○特に、告訴人挺対協、ナヌムの家の被害者を「エングボル」で掲げて募金をして、営利を追求と表現するなどの表現は、深刻な名誉毀損として、到底見過ごすことができないばかりか、もし国際社会にこのような被告訴人の話が日本によって悪用されることを考えると、本当に情けなくて絶望感がないはずがない。
これは、被害者を卑下して冒涜するものであり、過去数十年にわたり「慰安婦」問題の解決のために努力してき挺対協とナヌムの家に深刻な名誉毀損をかけているのだ。 告訴人挺対協は慰安婦問題でどのようなお金ももうけていない。むしろ毎日の不足している予算でいくつかの国内外の事業を展開するのに活動家たちの労働を搾取しているのが実情である。
また、告訴人挺対協は、おばあちゃんたちにどのような形でお金を稼ぐということもなく、お金を払ってもしない。現在の我々の政府の被害者に毎月100万ウォン余りの生活費を支援するため、告訴人挺対協などが被害者にお金を支援する活動をしていない。
ただし、その方たちが被害者であり、ほとんどが一人暮らしの高齢者であり、家族が存在しない死別するなど、孤独に苦しんでおり、若い頃の痛みが原因で多くの病気を持っているので、ボランティアの接続、訪問相談、心理療法などの活動を通して、その方たちをサポートし、上にしてくれる活動をして来ただけだ。 慰安婦ハルモニたちの活動は、すべて本人が決めて行われます。
被害者の中では一生続きはお金を現在の挺対協が推進している[日本軍「慰安婦」の名誉と人権のための戦争と女性の人権博物館]に出した方もおられ、また、他のお客様にもベトナム戦争で被害を受けたベトナム女性のためのビジネス、平和博物館建設事業などにも高額を全快するまで言われた。
こんな方に「エングボル」は本当に洗えない侮辱である。愕然とするだけだ。 加えて、被告訴人ジマンウォンが私たちに与えられた名誉毀損は続いている。それをいちいち表示されていることさえも私たちには苦痛になって重く迫ってくる。 解放後60年となった。そして、日本軍「慰安婦」問題が公開されたのも15年が過ぎた。解放後、半世紀の間、ひたすら恥ずかしさと残酷な記憶のために胸に埋めてやってきたその悲惨な痛みの記憶を本当に苦痛ながら歴史のために証言して、雨や風がブナの日本大使館前で日本政府の公式謝罪と賠償、真相究明、歴史歪みの中断を叫んできたおばあさんたちの名誉をこれ以上誰も傷つけていないことを願って、もはやその方たちを傷つけることがないように願って、私たちはジマンウォンを名誉毀損で訴えている。
国家と民族、社会の安全と安危のために、刑事法体系が存在する場合は、誰よりも被告訴人が処罰されなければならない。ただの妄言であり、非常識な人のことだと恥部でせせら笑っ打って過ぎ去るには、被告訴人の妄言が社会と次世代に、そして国際社会に及ぼす影響がゾーンだと思う。どうぞ法が生きていることと、法の厳しさを見せてくれて被告訴人を厳罰に処せられてくださることを訴える。
2005。4。 など<80名> ナヌムの家·日本軍「慰安婦」とされる統営、巨済市民の会·日本軍「慰安婦」と釜山市民の会·挺身隊おばあさんと共にする市民の会(大邱)·韓国挺身隊問題対策協議会<5個 など<21挺対協の会員組織> ------------------------------------------
1。告訴人たちの代表に対して 告訴に参加した80人のおばあちゃんは、アドレスと名前と印が押されている模様である。さすがにすべてのおばあちゃんがアドレスを公開して参加したのか?これらのおばあちゃんの秘密は、これまで極秘だったことが分かる。今後、これらのおばあちゃんたちの名簿が公開されると、おばあさん たちの立場が非常に困って質のはずなのに、なぜ区生まれの祖母を前に出すかという問題である。
もう一つは、このおばあちゃんたちが慰安婦の資格をチャーターネトヌン ガの問題である。政府と社会団体の主張では、韓国人慰安婦規模が20万人とする。筆者を訴えた慰安婦80人が果たして20万人を表すか?筆者は強制的に慰安婦が20%、自発的慰安婦が80%ということを、シムミジャ祖母が調査した61人のサンプル調査を引用して発表しただけである。 このような状況で告訴をした80人ほどのおばあちゃんたちの主張は何ですか?「なぜ私を80%に属したとしたのか? "なのか、それとも「100%をなぜ20:80に分割した」のか?筆者は「日本軍慰安婦と従軍慰安婦の比率が20:80とする」とシムミジャおばあちゃんの統計を引用しただけで、告訴をした80人の祖母を80%に属すると言わなかった。偽物と実際に表現しなかった。しかし、なぜナソヌンガ?
(1)「偽物と本物の日本軍「慰安婦」があるのだが、その中でも中国から来たおばあちゃんは偽であり、需要のデモにも出て日当を受けるなど、偽物が本物のふりをしているのだ。何よりも、おばあちゃんを本物(20%)、偽(80%)で区切りながら、まるで何の正確な根拠資料があるひたすら割合で区分し、おばあちゃんの名誉を深刻に毀損する行為を犯した」
(2)挺身隊対策協とナヌムの家このおばあちゃんを利用して募金をしてお金を横領しエングボルことをさせるなど、むしろ本当の慰安婦を困難に作りながら、団体の利益のみを用意してきて国際恥さらしをさせて通う集団に描いた"
(3) "本物の"慰安婦"おばあちゃんは、恥ずかしくて人々と接触していない奥まったところに住み、TVに顔写り込みを嫌って、一度も公開されたことがないし、逆に推論することで、まるでTVに出たり、水曜デモなどに顔を見せて公開証言をしたおばあちゃんは、偽物であると断定している」
(4)最近のTVで見られる慰安婦おばあさん たちの中には、延世大がそこまで多くも見えず、健康にも非常に良い見え、声も元気な方がある」としながら、デモやTVに出てくる人は偽物だと主張している」
(5)「最近TVで顔を照らしているおばあちゃんの中には中国から来た5人ほどのおばあちゃんたちもいるが、彼 らは日本大使館の前に出ると引き換えに、一日に数千円ずつの日当を受け取ると主張しながら、中国から帰国したおばあちゃんが偽物だとしている。 "
韓国雑誌が「被爆してない日本女性と付き合う方法」を謝罪 記事載せた中央日報日本語版に日本人から批判殺到 (1/2) : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2014/02/06196181.html
最近繰り返される日本の独島(日本名・竹島)関連の妄言や独島紛争化(ICJ提訴)、安倍首相の靖国神社参拝、慰安婦問題などを意識して日本への非難と嘲弄を込めることが思わず誤った方向に行ってしまった
朝鮮人どもの反日感情には、慰安婦への怒りではなく、単なる日本人へのレイシズムが込められている事が明らかとなった。さあ、しばき隊は今すぐ韓国に行き、彼らをしばいてくるように。それが出来ないのであれば、あなた方は単なるコリアン・ネトウヨである。
ミストバーンと暁美ほむらと鷹野三四という愛着障害者が物語における敵になる理由 - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140209/1392025251
邪悪とか漆黒の意思とかそういうちゃちなもんじゃねえ……もっとドス黒い吐き気を感じるッ!
ブコメを見てみるとあの人の事をどんな奴なのか知らない人もいるようで纏めてみる。
名前の由来はジョジョ第五部のゲスこと「チョコラータ」が元ネタだって昔バカッターで言ってた。
原作ジョジョを知らない人に説明すると虐殺を楽しむクズ野郎であって、こいつの数ページにわたって無駄無駄ラッシュがかまされタコ殴りにされるというキャラ。
でも結局は自分に自信がない現れらしい。
口を開けば母親への恨みをしょっちゅう吐いてる。あの人と少しでも絡んだ人なら「母親を憎んでいる人」という事はよくわかるんじゃないかな。
ぶっちゃけまどかマギカ(特にほむら)に執着してるのも、その碌でもない母親を投影してるらしい。溜まったもんじゃないけどな。
そのせいでミソジニーもこじらせてる。昔の作品に拘るけど「強い男、弱い女」がいいらしい。
今までよくTogetterとかで炎上しなかったなこの人……。
最初に言っておくけど、あいつの見てるほむらは原作のほむらじゃない。
「ゼロ年代セカイ系的な糞ヒロイン」としてのテンプレを詰め込んだモノらしい。
だから叛逆で見せたマミさんや杏子に対する捨てきれない情とか、さやかやなぎさを蘇生させた部分があるという「功利」はない。
からくりサーカスやフェイスレスみたいに改心して反省して後悔のままくたばらないと許せないらしい。
その一方でまどマギ以外の虚淵作品にはどうもそれほど執着してないらしい。
Phantomや鬼哭街、沙耶の唄やFate/Zeroとかもそれほど執着してない。男が活躍するから。
サイコパスの槙島の方がよっぽど「愛着障害者」だと思うんだが、多分あいつクレイジーサイコホモだし。
でも狡噛からある種の友情みたいなもの向けられてるからどうでもいいらしい。
それが多分見てないか、ぶっちゃけあいつが見てるのは「俺の理解出来るもの」であってそうしたものから逸脱してる作風にも興味ないんだと思う。
ちなみに彼にとって虚淵は藤田和日郎先生に似てるらしいが、俺は全く思わんけどな。
少年漫画は大なり小なり「悪い奴は反省させるか後悔させるかして負けなければいけない」という要素があるのもわかるし、荒木飛呂彦先生や藤田先生がそういう人なのは分かる。
別にそういう作風が好きでもいいさ。問題はそれを虚淵に押し付けるのを当然だと思ってるからその妄言に吐き気を催すわけで。
母親ほどではないけど父親やお姉さんにも複雑らしい。
姉だか忘れたけど(もしかしたら母親かもしれないけど)「ナウシカ原作は気持ち悪い。アニメの方が好き」という家族の意見に対してキモオタ的な蔑視のコメントを吐いてたと思う。
他に好きな作品はジョジョ・ダイの大冒険・藤田和日郎作品・荒川弘作品・トライガン・ヒラコー作品あたりはよく引き合いにしてるね。
あの人どうも最近の作品についてこれない節があって、作品の引用は70年代~90年代が多い。
別にジョジョネタや懐古ネタだけに特化してれば結構面白い人だと思う。そこは彼の強みだと思うし、ほんと勿体ない。
問題は嫌いなキャラはかなり多い。
まどマギキャラ全般(特にほむら)・ドラゴンボールの悟空はしょっちゅう叩いてるし、絶対に彼らを認める発言はしないどころかジョジョや藤田作品の下衆キャラと同類扱い。
エヴァのアスカを初めとした暴力ヒロイン全般・母性キャラ全般もしょっちゅう叩いてる。怖いらしい。
嫌いなものに対して絶対に認める事とかしない。(例に出すなら、彼がほむらや悟空に抱いてる「憎悪」はエターナル東方が艦これに対して抱いてるような「憎悪」に近い)
しかもエヴァ時代のノリをまどマギに投影しちゃってて、しかも虚淵とかシャフトとかと全く無関係の「俺が好きな作品の方が作風は上なんだ!」「虚淵先生だって俺の好きな昔の少年漫画と同じなんだ!」って偏執性がある。
虚淵が昔の少年漫画好きなのはわからんけど(多分好きだと思うがわからん) それが作風に投影されてるかっていうとね。
「悪いことした奴は苦しむか反省しなきゃいけない」という倫理に囚われてるんだと思う。
そういう善悪も結局は流動的なのにね。
『ドラゴンボール』の悟空と碇ゲンドウの共通性について - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100512/1273598659
こんな記事描いてたけど、こういう時期はまだ楽しめてたよ。
あんまゲンドウの事触れてないけど、少なくとも悟空のキャラ性はあながちブレてなかった。
問題は彼の思考は90年代くらいで止まっちゃってる所でね。
ただ今思えばあのマンガの「正義」「邪悪」の倫理が彼が頭おかしくした原因なんだと思う。
まどマギ10話ですごい勢いでぶちギレたらしくて、その日に「ほむらはキュゥべえの同類だった」とか言い出してすごい剣幕でほむら叩き出してなんだったんだと思った。
賛否分かれるのは分かるけど俺はあの話すごい好きだったし、何言ってんだこいつと思ったよ。
しかもどんどん「邪悪なほむら」像が蔓延して行って、「まどかがほむらをキモがってる」とかそういう前提でね。
ほむら=フェイスレスという説 - tyokorataの日記 - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110313/1300032043
いやほんとこの人何言ってんだろ。
つーかこの人まどかも嫌いなはずだけど、エレオノールと一緒にしていいのだろうか。
だからほむらは「反省するか倒されるしかない」と思ってるのかもしれんけど、それキャルとルイリーと沙耶と切嗣と槙島とシドさんの前でも言えんの?
別にほむら叩いてもいいんだけど、あの人のほむら像って「自分の中で知ってる作品で培われたもの」だからな。
叛逆ほむらが民間人に直接的な危害を加えることしなかったし使い魔にもさせなかったこととか都合の悪いものを無視してるでしょ。
そして織莉子さん(スピンオフ「おりこマギカ」の主人公)を引き合いにしてほむらdis(笑)か、織莉子さんも可愛そうだな。
>ジョジョや少年漫画に埋め込まれた意図や作者の描いた哲学を掘りだすことがモットーです
要するにtyokorataに感じる「吐き気」は「邪悪」なんかそんなものでもない。
ですよ。
> 自分しかここにいないのよ! その自分も好きだと感じた事ないのよ!
ほんと、この人はまどかマギカに触れておかしくなったと思うのでそういう意味ではすごい同情してます。
別にほむらがどうとかじゃなくて、彼の言う「暁美ほむら」への自己投影がうんざりするというだけです。
「碇シンジは俺なんだ!」的なそういうノリなのかもしれませんけども、あれは自己投影するようなキャラでもないし、
そもそも「自己投影しやすく屈折したほむら」なんですよね。ヘイト創作でキャラをゆがめる手法そのもの。
他の漫画は見れてるけど、まどかマギカに関しては間違いなくあの人作品を見てないし、自分しか見ていない。
もうちょっと他人を認めてもいいのに。
http://anond.hatelabo.jp/20140210161627
増田です。
冒頭の18歳云々については気を引くために過激に書いてしまった嫌いはあります。私も若い頃は石原氏に熱狂しました。個人的には田母神氏は正直な良い人柄で魅力的な方だと思います。しかし彼もまた神輿に乗せられた人なわけです。
自民党内で左右に政権を交代できた時代は終わっています。かつての支持母体は疲弊し崩壊し足腰は弱っています。投票率は下がり実得票数は心もとない。創価学会と官僚に両肩を支えられているような状態です。
安倍人気が一段落付いた時、公明党の影響力に対抗するため新保守(田母神支持層)に支持基盤を求める自民党議員がいないと言えるでしょうか。小政党の限界を感じる維新系議員をグループに取り込むかもしれません。その過程で『資金を持った極端な考えの扇動者』が自民党を実質的に簒奪し変容させる可能性を米ティーパーティーになぞらえて示したつもりです。
世迷言・妄言ではありますが、自民党左派への攻撃が始まり選挙結果と合わせてみると外堀は埋まって来た感があり書いてみた次第です。お膳立てが済んだ時、カネと才能のある扇動者が暗躍しない事を期待するだけです。
しかし、なんとなく今世の中で流行っているもの、話題になっている音楽なんかも知りたいので
そういった情報は「youtubeで人気」にある動画を参考にしている。
もう1年くらいになると思うが、このスペースに毎日必ずHikakinTVが入ってくる。
いくら貰ってるのか知らないが、毎日Hikakinが「みた」という言い訳をしつつ
彼はボイスパーカッションが得意な一点を除けば、ただの一般人ではないのか。
Hikakinボイスパーカッション講座その1、とかでアクセスを稼いでるのならまだ分かる。
しかしルックスがいいわけでも、話術が優れているわけでも、ボイスパーカッションが学べるわけでもない、
彼がただ商品の宣伝してる動画に、一体何の価値があるんだろう。
またそれを喜んで見ている視聴者は、何がうれしくて見ているのだろう。全く理解できない。
上手な商品紹介が聞きたいなら、ジャパネットのおっさんの動画でも探せばいいだろう。
Hikakinの動画にはそういった見るための必然性や付加価値が一切ない。
そんな動画が「youtubeで人気の動画」の枠を一つ埋めてしまうことで
私の新しい情報を得る機会が一つ失われるのだ。
さらに不愉快なことに、最近は味を占めたHikakinの兄が同様の手口で
「youtubeで人気の動画」をまた一つ占拠してしまっている。
私はボイスパーカッションをしたいと思ったこともなければ
内容のない動画で一山当てたいと思ったこともない。
http://anond.hatelabo.jp/20131124001623
この話、俺にとっては凄く分かる。
ここ10年ほど週休3日から始まって、やがて4日になり、5日に拡大された
最初は正社員から契約社員に格下げしてもらう代わりに、週休を3日にしてもらった
余った一日で勉強をしたいという理由だった。勉強が面白くなり、30を前にして大学に通うことにした。
上司と社長に忘年会の席で、腕試しに受験するんだと話すと面白がってくれて合格したらという条件付きで
週休4日に拡大してもらったんだが、他の社員の手前、給料は通常の6割に抑えられてた。
学費と生活費で貯金をすり減らしつつ、週休4日で5年かかって卒業しw
その後、大学院に進学するにあたって、教授とも話がまとまり共同研究という形にしてもらうと同時に
学部時代があまりにしんどかったので週休5日に拡大してもらい、正社員に昇格され給料も全額出るようになった
やっぱり社長と上司は、一人くらいはそういうバカな事をする社員を抱えてるのも面白い。
他の連中の刺激にもなるし頑張れ、と笑って許してくれた
大学院で勉強をして国際学会に論文を出す事が必須条件なんだけど、トップカンファに出す必要はないので
実質あってないような条件でもあるんだけど、600万位を貰いながら勉強している
とは言え仕事の方も得意分野しか開発をやってないので、社内で俺しか出来ない事をしてるのもあって
8営業日もあれば他の社員から不満がでるはずもないという程度の実績はあげられる。
後は新人を数人使って、他の製品の開発も回させてるので、会社としても投資した分の元は取ってると思う。
学会で発表すればプレゼンスも上がるし、会社への恩と義理は返せてるんじゃないだろうか
しかし、こういう生き方をさせてくれてる会社と社長には頭が上がらないし非常に感謝もしている
能力を伸ばすことが会社への恩に報いる道だと思うので、今も研究室にいて勉強をしてる次第だ
週休2日で働くだけが、働き方ではないと思う、5日休みだから良いわけでもない、運もあるけど、望めば自由な働き方は手に入るんじゃないだろうか。
そして会社を経営する人たちも、素養の有りそうな社員に積極的に投資することで囲い込めると思うんだよ
少なくとも俺は会社が俺を要らないというまでは働き続けるつもりでいる
会社が与えてくれた恩には報いたい
というか、30後半に差し掛かっているオッサンが博士課程行きたい、みたいな妄言を吐いたとして
いましていることが、十年後に糧になるか? ってのを常に意識したらいいんでないか?
新たに仕事を生み出すことが会社から求められているかは状況によるし、与えられている仕事で手一杯になるかも人によるしな。
どちらにせよ、何も考えずに漫然と作業しているだけじゃ、作業はうまくなっても後々何も残らないってのがポイントだ。
十年後には転職してるかもしれんし、社会情勢も違うかもしれん。
その中でもこれができるスキルが欲しいとか、ここで人脈作ろうとか、こいつと親しくしておこうとか、この資格を取っておこうとか、
いろいろ考えてやっていたら、どんな未来でも対応できるでしょ。
場合によったら、自分で企画して会社に貢献するより、そのアイディアで独立した方がいいかもしらんしな。
ま、あんまり世の中の意識の高い妄言とか、就活都市伝説に振り回されず、というかはやくそういうのから脱出して、社畜にならんように生きてってくれ。