はてなキーワード: 命題とは
お互い喧嘩とも言えないような言葉を2つ3つ投げかけあっただけなのだ。
ただ、その言葉の一つ一つにはそれまでに積み上げられていたあまりに多くのストレスが込められていたのだ。
結婚して5年。2人の子供は親の命令に背くことで自尊心を築こうとする時期にあった。
そんなことども達をうまく誘導せんとし、嫁は散々の手を尽くしたのだろう。最近ではちょっとしたことでもすぐに大きな声を上げるようになったのだ。
そのことを悔やんではまた優しい素振りを見せ、そんな母親の姿に増長した子どもたちはまた母親を怒らせた。
わたしはといえばそんな嫁に少しでも楽をさせてやりたいと家事には積極的に参加し、嫁が実家に帰りたいといえば喜んで送ってやったものだ。
嫁は専業主婦である。とはいえそのことで労働の優位を語るつもりはない。
嫁は文字通り24時間を家事に追われる生活を繰り返し、寝ても覚めても子どもたちから逃れることが出来ないのだ。
だからせめて仕事から帰った後の家事には参加しているし、仕事に出る前も子どもの幼稚園の準備をひと通り手伝うようにしている。
休みの日も無駄に過ごす事のないように子どもたちを連れて外に出ては、それこそ休むことなく過ごしているのだ。
嫁もそんな自分を気遣ってか、家事に対して愚痴をこぼすようなことはない。
目の前で子どもに対する感情を乱しても、見事な早さでリカバリして見せるのだ。
まだ子どもたちが目覚める少し前、自分たちの支度に追われる朝のことだ。
どちらが先に仕掛けたわけでもない。どちらかが何の気なしに放った言葉に、どちらかが何の気なしに返したつもりだったのだ。
お互い投げかけあった言葉は書き連ねるほどでもない大したことのない言葉だ。
ただ、互いがそれを思いやりというストレスからやっとの思いでひねり出した言葉でもあった。
そうして互いに投げかけられた言葉にお互いが言葉を返すことが出来なかったのだ。
目覚めた子どもが母親を呼ぶ声で、会話を続ける機会は失われてしまった。
そのまま仕事に出たわたしは、日中何度となく謝りのメールを入れようと考えていた。
しかし、お互いが思いやりの上で口にした言葉に謝る理由を見いだすことはできなかった。
ともすれば、そうやって謝ることで有耶無耶にしてしまおうとも取られそうな気がしてしまったのだ。
そのまま時間ばかりが過ぎ、結局家に帰るまでで何も出来ないままでいた。
そうして玄関を上がると予想していたよりも遥かに明るい声で「おかえり」の言葉が響いた。
なんだ。わたしだけが気に病んでいただけなのかもしれないと、一人そっと胸をなでおろしたのだった。
夕食時も何事も無く過ぎていくようだった。
相変わらず言うことを聞かない子どもたちと、怒っては優しさを見せまた怒り出すことを繰り返す嫁がそこに居た。
わたしばかりが勝手に気に病んでいたのだと改めて考えていた時の事だった。
まるで見たことのないような嫁が姿を見せたのだ。
テレビの出演者に向かって話しかけるかのような声で意見を言い、まるでテレビの中に参加しているかのように内容に同調し、感情を露わにしているのだ。
芸能人の色恋沙汰に対しまるで評論家の様に意見を飛ばし、テレビの中で窮地を迎える人間に向かって知人を心配するかのように声を上げているのだ。
わたしがここにいることなんてまるでかまうでもなく、まるでどこか世界の垣根が崩壊してしまったかのような姿だった。
そこには今まで慎ましやかにわたしと世間に対する意見を交わしていた嫁の姿はなかった。世に言うおばさんが突如として目の前に現れたのだ。
まるでバリバリと音を立てて、嫁という女性の皮を破っておばさんが生まれてくる姿を目の当たりにしてしまった気分だった。
どうしてそんな心理的状況に至ったのか、そのメカニズムは全く持って理解できない。
しかしわたしには自分と世界の境界を曖昧にすることで、自らのストレスを少しでも軽くしようとする姿にも見えてしまったのだ。
そう思えば、わたしはそれを受け入れようと思った。
それほどのまでのストレスを解決できないでいたのはわたしであるし、これもひとつ、嫁のあるべき姿に違いないのだから。
きっとこれからもこうして何かしらのストレスとぶつかる度に嫁の中で少しずつ世界との垣根が壊れていくのだろう。
その度に皮を破って新しい生物が生まれ、それを繰り返した挙句にヒョウ柄を身にまとおうとも頭髪を紫に染めようとも、わたしはそんな嫁を受け入れようと思う。
それこそが結婚という契約に刻まれている遵守事項であり契なのだ。
いつか自分も今のスキンを捨て新しい生物として生まれ変わるのだろうか。
頭髪が抜け落ちる本数が減らないのはもしかしてそんな予兆なのかもしれない。
そんな不安を抱えながらも、世の中に対する疑問(おばさんはうまれながらにしておばさんなのかという命題)がひとつ解決した記念にここに記す。
わたしにとって書くことは贖罪です。
発達の診断下りて投薬治療もやってるけど三沢文也状態っていうことの意味がわからない。
「同じ内容の言動でも、人・場所・関係性・言い方など諸々の条件次第で周囲の感じ方は異なる」ということの認識できるラインが低い。極端な例で言うと、「あなたの事を想像していつもオナニーしています」とAV女優との握手会でAV女優に話しかけるのと、職場の同僚の女性に話しかけるのとでは、相手がどのように感じるか、社会的な意味合いがぜんぜん違う、というのを理解できない感じ。
なるほど確かに自分も「社会的な意味合いがぜんぜん違う」ことが理解できない。
AV女優に対してくだんのセリフが褒め言葉として通じるってことが前提されてるみたいだけど、それがまず理解できない。
相手がAV女優だろうと職場の同僚だろうとそれはセクハラであって褒め言葉じゃない。
「あなたでいつもシコっています」はイコール「あなたは魅力的ですね」or「あなたのことが好きです」ではない。相手とか関係性とか関係なく、命題として明らかに意味内容が違う。でしょう?
そういう普通に意味も字面も違う言葉を「同じ内容の言動」として扱うことを無条件に前提されると本当に困ります。そういう文脈を読むことは大変に苦手なので。
6月16日の朝日社説。社説子は朝日新聞読者は論理能力の一切無いバカだと確信しているのだろう。この社説は安保法制に反対する側の人々がいかに怠惰かえぐり出している。いや、そもそも彼らは本当に安保法制を潰したいのだろうか?安保法制を潰すのが目的なのではなく、安保法制反対運動のお祭り騒ぎをエンジョイしたいだけなのではなかろうか。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11809039.html?ref=editorial_backnumber
これによれば、集団的自衛権と憲法との関係を整理した1972年(昭和47年)の政府見解は以下のとおり。
①わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
③従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
ここでは 集団的自衛権の行使>必要最小限の範囲 という命題が背後にある。しかし、集団的自衛権の行使の定義は一応一定したものである一方「必要最小限の範囲」は軍事技術の進歩や国際情勢の変化によって変わり得るものだ。
朝日新聞は「理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか」などと言うがこれは感情的な詭弁というものだ。理屈が同じでも議論の前提が変わったら推論の結果が変化するのは当然ではないか。論理的な反論ではない。
さらに後段で「こんなことやっていいの?ほんとにいいの?だめだよね?」とばかりに非難を続けるが散漫で情緒的なばかりだ。要するに社説子が違憲だと思い込んでいる事例を列挙しているにすぎず、それらが本当に違憲かどうかはそれが「必要最小限」かどうかによる。そして必要最小限を越えることを示せれば違憲だね、と論証できる。これが論理的な議論というものだ。そしてそうするには代案を示すか他の根拠をあげればよい。なんでこんな無駄な文章をつらねる必要があるのか理解に苦しむ。
そもそも安保法制に論理的に反対するのは簡単なことだ。政府の主張はとどのつまり「今まで
となった」
というだけなのだから、これをつき崩せばいい。ならば集団的自衛権自衛権が必要と政府が想定している各種事態に対して 集団的自衛権を行使せずして対処する方策を提示するか方策自体が必要ない事を論証すればよい。それができないなら集団的自衛権の行使が必要なんだろうねとなる。それ以外の方法であれやこれやと理屈をこねて無理な反対ごっこをしてみても所詮は負け犬の遠吠え。
ところでそもそも①、②、③すら認めない人々もいる。だがこれは昭和47年以来の政府見解すら認めない人々。左翼ばかりとは限らないが、どちらだとしても今更国会で議論するのは時間の無駄だ。適当に官僚に答弁させとけばいいのではないか。
明日生きられる保障がないのに明日を生きるために頑張ることにどれだけの価値があるのか
っていう命題に直面した時に
か
か
前者をかれこれ三年ぐらい続けたら案外人間ってすぐには死なないんだなって思ってしまった
だから私は、とりあえずは明日に希望を持って生きてみようと思ってる
また数年生きてみたら自堕落に戻るんだろうか
○今日は
バスに乗ってくるなり酔っ払いの爺さんが、「若いモンが席に座るな!立て!」って怒鳴りつける事案を見た
譲ること自体は自由であるべきであって、譲ることを強要させるのは…っていう議論、こういう場でいくらでもされていそう
そういう人間がいるとか、あるいは譲ろうとしたらキレられた、等の理由があって自発的に譲ることをあまり好ましくないと思ってる人も世の中に掃いて捨てるほどいる、私もそう
座って目的地まで行きたいならタクシーでもなんでも使えばいいのにさ
若い人だって、バスで立って帰るのが嫌ならタクシーを使う選択肢はあるしそうする人もいると思う
言われて席を立つ方も一貫性がないよね
言っていることに正当性があると思ってるから立っちゃうのかな。
後者なんだろうな。
ま、そういうことで私は座席は譲りません
あ、眠いから文章がいつも以上に適当なんだけど、特有の「言葉に対する突っ込み」とかはいらないので
それをする暇があるぐらいなら私に時間をください
うふふ。わかるぅ
朝5時に起きて飯を炊けって何時代だって話よねぇ。炊飯予約があるっつーのwwwねぇ?
ゴールデンウィーク的な(田植え休み期間ね)は田植えしろってのもちょっと切ないよねぇ。でも子供だから本来乗りものじゃない田植えマシーンwに乗って移動できて楽しかったなぁw今考えると超危ないけどw段々畑の一段が数メートルあるところのキワキワをターンしたりして命がけ感あるわねwだけど田植えは割と楽しかったから児童労働感はないわぁ。
風邪でどんなに死にそうで世界が回ってても吐いてても起き上がれなくても、ご飯の用意しなきゃいけないとかいうのが辛かったよねぇ。
でもその後、そんなことを強く強要した家族が私よりひどい症状になってたからちょっと黒いけど楽しかったわ。子供でそれだけひどい症状になるんだから年寄なんて死の淵までいくわよねぇ。
ああ、そうそう夏休みはどこにも行かずに、毎日ひたすらのび続ける雑草を鎌で狩るのが大変だったわね。
炎天下だし。大人はエンジンの付いた草刈機を使うけど子供は鎌しか使っちゃダメなんだって。毎日毎日まめがつぶれてもつぶれても終わらないのよね。まぁマメをつぶしたのは軍手するのを面倒がったせいなんだけどね。おかげ様で手がハンパない分厚くなったわぁ。女子の手とは思えない立派な手よw努力は人を裏切らないってこういう事ね。ナウシカも私の手を見て立派な手とか言うに違いないわ。
ついでに扇風脚の練習もしたわね。足で草刈もできるようになったわ。細かい調節ができないから苗木も刈ったわ。でも今ぐぐったら扇風脚って空飛ぶの??地面すれすれを刈ってたんだけど・・・私の修行無駄だったかも・・・・ショックwww
草の片づけをするのも大変だったわね。干し草をばらけさせずにフォークでさして投げるって大変なのよね。
でも格闘技の修行だと思うと楽しいのよwwwあれは嫌じゃなかったわ。しっかり腰を落とすのがポイントよ。上半身がブレると途中にバラバラと枯草が落ちるのよ。雪かきといっしょね。遠くに投げるのには練習がいるわ。
親戚の小学生は「男だから」とかいう理由で2トントラックとか運転してたわね。いくら自宅の畑の中で背が大人と同じくらいあるとはいえあれはいけないとおもうわ。教習所の意味がなくなっちゃうもの。
あと畑と田圃の管理の為ならスクーターは男は乗っていいことになっていたわ。児童労働よねぇ。でも本人は楽しそうだったわよ。スクーターに乗れるなら水の管理もするといった具合ね。
おとこってばかねぇw
稲刈りもたいへんだったわね。
干すところを作るために竹をいっぱい運んだわ。刈った稲を運んで干すのよ。わらをフカフカの椅子にして食べるおにぎりは美味しかったわねぇ。
干した米を脱穀機に投入して、最後には落ち穂を拾ってたき火でポップコーンならぬポップ米よ。
「落穂ひろい」っていう外国の有名な絵があるけれどあの景色は国境を越えてるわね。「外国の人も一年の収穫が今日終わって夕方、落穂ひろいをするのね。そして切ないようなほっとしたような気持ちになるのね」って子供心に思ってたものだわ。
そういえば茶碗を洗う話だったかしら?
あれも研究に研究を重ねたわ。仕事をしながら子育てもする今となってはそんな暇はないけれど、子どもだからたっぷり時間をかけて研究したわ。
自然の素材の石鹸水。これで茶碗を洗うのは滑るのよぉぉ。だけど親は合成洗剤は買ってくれないのよね。自分で洗わないから知らないのよ。プリプリ。
そうね、どうせだから、私が小学生の頃研究した結果を発表するわ。
2~3リットルの水に適当に洗剤を入れてから、指をちゃせんみたいにして、泡を立てるの。泡がブクブクたてばちょうどいい濃さの石鹸水よ。泡がちょうどよくブクブク立つような石鹸水作るのには修行が必要よ。
それから、その石鹸水の中に、あらかじめ汚れをだいたい落とした皿を入れて、持ち上げずに水の中で洗うの。石鹸水はすべるから持ち上げたらだめよ。落として割るわ。このとき中身が泡で見えないけどカンで洗うのが正しいやりかたよ。
何年も研究してようやくこの境地にたどり着いたの。そんなこと真面目に何年も追及するなんて時間のある小学生でしかできないことよ。まぁぶっちゃけこの児童労働には私感謝してるわ。
さぁ、ナチュラル派の皆さん私の知見を役立てなさい。指で泡立てるのがポイントよ。石鹸水はそのままとっておいて、後でまた使いまわしができるわ。指で泡立つなら再利用可能。泡立たないならもうダメ。優しい!地球にやさしい!
だけどね、だけどね、ナテラバンザイ!私ナテラを始めて使ったとき、ちょっと泣いたわ。茶碗を持ち上げたとき滑らない。泡立てた水を使った洗いかたじゃなくても汚れが落ちる。すごい。合成洗剤すごい。だから今でも私合成洗剤が大好きよ。というか合成洗剤しかつかわないわ。うふふ。ナチュラルなんてくそくらえよ。
父親から言われたのよぉ。「ルーチンワークを何も考えずにやるやつはバカだ。常に考えろ」ってね。
私、その命題があったから、子どもなりに一生懸命考えてたのよ。毎日の同じような仕事の何をどう考えるかってことから考え始めたわ。
子供の頃にやったから落穂ひろいにノスタルジーを感じるし、私が考えた最強の洗い方も発見できたし。修行しながら草刈もできたし。
だからアンタはかわいそうね。考えろって言ってくれる人がいたら違ってたのかもね。
アンタだって一生懸命やってればなんかアンタも知らないうちに結果が出てるわ。多分ね。
一生懸命やってなかったら、、、、やっぱアンタかわいそうね。
泣いていいのよ。
つらかったわね
「自分のクラスのいじめに立ち上がる」こと(フェミニズムで言えば「女性のために立ち上がること」)は批判されるべきではないでしょう。
でもフェミニズムはそもそも他勢力や社会に対して「女性のために立ち上がらないこと」を批判することでしか「女性の権利を拡張すべき」という命題の必然性を主張できません。
つまりフェミニズムは「自分のクラスのいじめに立ち上がらないこと」をクラスみんなに責めている、ことになるわけですが、
一方で「弱者男性」という自分のクラスの別のいじめに対してはフェミニズムは立ちあがっていない。
そこが矛盾です。
ところで上記にももしかしたら違和感を感じたかもしれませんが、僕の中ではフェミニズムにとっても弱者男性いじめは「自分のクラスのいじめ」です。
なぜ「他のクラス」になるのかわかりません。弱者男性はあなたと同じ社会に間違いなく暮らしています。
もし仮に「フェミニズムは女性クラスに属していて、弱者男性は男性クラスに属している、だから別のクラスだ」と言いたいなら、女性差別は一体どのクラスのいじめでしょうか?それはむしろクラス間の争いになってしまう。比喩としては不適切と考えます。
「海外の難民が救われない現状」を肯定したってことにならないとしましょう
それに対して何の行動を起こさない人は
そしてもしならない場合、一体誰が「女性が差別される現状」を変えるために努力しなければならないのでしょうか?
繰り返しますが問題は「女性の権利を拡張すべき」という命題の真理性です。
仮に女性差別に対して何のアクションも起こさないこと(女性の権利を拡張しないこと)が「女性が差別される現状」を肯定したことにならず、そしてそれが何も悪くないなら、
「女性の権利を拡張すべき」必然性はどこにもないということになり、「女性の権利を拡張すべき」は偽ということになります。つまりフェミニズムは間違いだった、ということになるわけです。
欺瞞ですね
何故なら「女性の権利を拡張すべき」というフェミニズムの至上命題は、「万人が平等に扱われるべき」という別の命題に依存しているからです。
つまり「万人が平等に扱われるべき」が偽なら、「女性の権利を拡張すべき」もまた偽になります。
そして「弱者男性が平等に扱われない」現状を肯定すれば「万人が平等に扱われるべき」は偽ということになり、「女性の権利を拡張すべき」もまた偽になり、フェミニズムは間違いだったということになる。
ので、フェミニズムは自らの真理性を保証するために、「弱者男性が平等に扱われない」現状を否定しなければならない。ということになるわけです。
まぁ、理想論ですが。
そこだよね 翻訳と日本語のニュアンスの違いとかいろいろあるんだろうけど、
この物語は、『可能性の1つに過ぎない未来の自分が厄介なことに自分に文句つけてきた』
なんてものじゃなくて、『命題の結末』としての未来が、その命題が破綻していて
『間違っている』ことを告げ、お前は間違っているその在り方をどうするのかと問うてきた
士郎と切嗣の「全ての人を救う」という在り方は、そのものが最初から間違っている
でも 『誰かを救いたいという願い 全ての人に涙してほしくないという祈り』
それが決して『間違いなんかじゃない』というのが、士郎とこの物語の答えなんだよ
次回予告でそのポイントをちゃんと押さえてくれることが分かって凄く嬉しい
アーチャーは別の媒体だと自分の生き方を「サバイバーズ・ギルトの権化」だと言ってるな。
メサイアコンプレックスは英雄視されることが自己承認欲求の昇華に繋がるから士郎には当てはまらないと思うよ。
士郎は他人に自分を認めて貰いたいとかこれっぽっちも思わない人間だし、凛に心配された時すら凛のお人好しさに感動してるし。
むしろ自分の価値が低くて、生き残った事に罪悪感を持ってて他人を助けなきゃ!!ってなるから確かにサバイバーズ・ギルトの方が合ってると思う。
「士朗がアーチャーになる可能性はほぼ無い」ってのは、
きのこが凛というキャラを通じて残したささやかな救いであって、それ自体はこの話のテーマじゃない。
これは士朗の救済の話じゃなくって、あくまでアーチャー(士朗の未来)の救済の話。
「悔しいけど私じゃあいつを救えない」って言葉の通り、凛ではどうやってもアーチャーは救えない。
アーチャーは、他でもない士朗によって救済されるんだよ。
それは守護者でなくなるとか、そういう設定上の話ではなく、
アーチャーが苦しんでる本当の理由は、守護者になったからでも、地獄を見たからでもなく、自分を見失ったからなんだよ。
確かクリア後のタイガー道場(?)でアーチャーはセイバールートの士郎なのか?っていう疑問に対して
セイバールートではイリヤが生きているため士郎を止める人間がいるから、アーチャーになることはまずないっていう回答がある。
士郎は絶望しないからアーチャーにならないんじゃなくて、士郎一人だとどこまでも突き進んでしまうから、
その士郎を止めてくれる人が近くに居るかどうかが士郎のアーチャー化の有無に関わってるんだと思うよ。
止めてくれる人が誰も居ないとアーチャーのようになってしまう可能性があるってぐらいに思っておけばいいかと。
正しいだけだと「正しく出来なかった人達」を取りこぼす事になるからな。
最初の士郎の願いって、まさしく正しい答えを選べなかった(その場所にいなければ良かったという正解)人達をこそ救いたいってものだったわけで、だからこその正「義」の味方なんだろうな。
つまり、選択肢をミスった後に出てくるタイガー道場こそ士郎の目指すべきポジション・・・ってアレ?
>切嗣は覚悟があった。大勢を救うためならば少数を殺す事も必要であることを知っていた。その少数がたとえ肉親出会ったとしても引き金を引く覚悟があった。でもそれは間違いだったとアンリマユに気付かされた。
それが間違いだと気づかされたというのは違うんじゃないか?
切嗣は小数を殺さずに済む方法を聖杯に求めたが、自分自身がやっている少数の犠牲の受容を極端な形で拡大解釈して大勢を犠牲にして小数を救うという最悪の回答しか得られなかった
少数の犠牲の受容という現実的解決方法そのものが間違いだったのではなく、それ以外の方法は結局ないんだということに気づかされた
しかも、聖杯はそれよりももっと最悪な解決しか引き出せなかったんだ
アーチャーの場合は契約時点で理想を追求するには自身が無力すぎることを痛感している状況で理想を実現するための力を求めていた
契約して力を得ることで理想を実現できると思っていたが、力を得ても少数の犠牲を受容しなければならないという現実を覆すことはできなかった
それどころか、力があるがゆえにその現実をいやになるくらい体験させられたということだと思う
その結果の「絶望」なんだろうけど、彼のは厳密にいえば「失望」であって「絶望」とは違うんだよな(少なくともアニメの描写を見ている限りは・・・)
現にアーチャーはあれだけ失望し続けながら、なおも救おうとしているわけだし
100人を救おうとして1人も救えない。
1人を見殺しにして99人が救われる。
「動機」の観点では前者が正しく、「結果責任」の観点では後者が正しい。
考え方は様々だけど「全員が救われる事が理想である」という点では異論はないはず
仕方がないという現実は理想を理想でなくす理由には成り得ないし、
決して届かないとしても理想を追い求めることは間違いじゃないだろう。現実を見失わない限りにおいては。
現実と向き合いながら理想を劣化させることなく生きていくのは人として味わうことができる最上級の苦痛かもしれない。
その上、そこまでして行き着く先には何もない(理想は実現しない)というのだから、こんなに酷い話(現実)もないだろう。
それでも、それら全てを踏まえたとしても、「何が正しいのか」と問われれば「答え」は決まっているよね。
それは「誰かの願い」であって「誰もの願い」でもある。
士郎は目につく人みんなを助けたかった。人類全部なんかじゃなくかつての自分のような目の前で危機に陥ってる人を。せめて自分の手の届く人たちを。士郎はその通りのことをしようとした。でも自分は英雄なんかじゃなくただの人で無力だった。死後の命を預けてようやく英雄になり、英雄になってようやく目の前の人を救えるようになった。つまり「衛宮士郎は死後を売渡し、エミヤにならなければ人を救うことができない」英雄エミヤは間違いなく士郎の理想であり到達点。自分の理想を正しく達成した成功例。しかし死後、待っているのはただの殺人。救いたいはずの弱者を殺す役目。「人を救う」という理想を叶えるということはエミヤ(英雄)になるということ。
エミヤ(英雄)になるということは人を殺す道具になるということ。士郎の理想とする英雄では誰も救えない。
救う術を知らず、救うものもなく、誰かの為にならなければという強迫観念、憧れただけでは人は救えない。
エミヤが忘れていたのはその憧れただけの理想にも願いがあったこと。
エミヤはずっと正しい選択をしてきた。愚直に真っ直ぐに不器用に。でも"この"衛宮士郎は時には正しい選択を否定するという決意をした。
そうそう。士郎がよくUBWルートだと真相知ったから守護者にならないってSSでも結構あるけど例え全てを知っても士郎は守護者として契約しちゃうんだよ、ね。
ただアーチャーのように絶望後悔はしないって言ってるだけで。もし真相知ったから契約しないって言うのはすでに見返りを求めている、自己愛があるって事だからそれは士郎ではない。UBWのキモはそんな士郎を絶対に守護者にしないように凛が頑張るって話だから(詠唱にあるような誰にも理解されない士郎にはしないって言ってるklと)
アーチャーが数ある士郎の未来の姿の失敗例の一つに過ぎないのならアーチャーは士郎にこだわらないし
士郎もアーチャーの言葉に信念が揺らいだりしない。士郎がアーチャーにほぼ必ず行き着く理由がある。
士郎もアーチャーも二人とも核が同じだからだ。「誰かを救いたいという願いが綺麗だから憧れた。」二人はこの核からなる人間。
その強い憧れを叶えるためにできることは限られている。過激な思想を持つ人間が行き着く先が銃を手に取るしかないのと同じ。
いやあ士郎はかっこいいよね。
例え絶望が約束されていても自分が間違いじゃないと信じた理想を貫き通す以上絶対に後悔しないと言い切ってるんだもの。
これは士郎の目指したものに共感できるかどうかとか関係ない熱さだよね。
特にアニメの演出では、結構クールな独白が多くて、ブレなさの表現が上手いから余計ね。
士郎は甘いのでも現実が見えてないのでもない、現実の悲惨さを知りながら揺らがないんのだものね。かっこいいよ
アーチャーが後悔したのは守護者になってからってのを理解してない人が多いのかもな
アーチャーは生前助けた人々に裏切られて絞首刑に処せられても一切そのことについて後悔してなかった今回士郎が言ってたように完全に正しかった正義の味方だった身を捧げる覚悟も出来てたしそれで良いと思ってた
そんな覚悟決まりきった正義の味方でも守護者として人類の滅びを救うために延々と滅ぼす可能性のある事象とその関係者を殺し続けることには耐えられなかっただけ
UBWの士郎でも正義の味方として突き詰めるならエミヤになるしかない。ただ凛が人間として幸せにしてそれは回避されるだろうけど人としての幸せ手に入れる時点で正義の味方として完全じゃない
たとえ本物になれなくても、抱いた理想が間違いでないと思えるならば、それを追い求めることは正しい、
といことがテーマだと、どっかのインタビューできのこが言ってたな。
ただ、それは非人間的な機械のように生きることには変わりないと。
一人の大切な人を守るために、理想に折り合いをつけ、機械のような男が人間になるはなしだと。
どちらが正しいという話でなく、それぞれの解答がある。
アーチャーが失敗例だと思って語ってる人が多いのはどうなんだろって思ったけど、来週で変わるかなあ
結局士郎は道を変えない(アーチャーと違う道を選んだりしない)ってのは話の肝だけど、伝えづらいよね
>「アーチャー(失敗作)を目撃したこと(と、遠坂との絆を得たこと)によって士郎はアーチャーと違う道を歩むことが約束された」
テーマとしてはむしろ正反対だよ。アーチャーが失敗例っていうならそもそも衛宮士郎自身が生まれた時から失敗例になってしまう
士郎はアーチャーに忠告されたからって違う道を歩むような人間じゃないってのがややこしいところだし自分殺しの動機でもある
今回の話も対比。抗魔術で身動きできない凛は瀕死のランサーに救われた。原作ゲームでは
凜は、なけなしの魔宝石でランサーを救おうとするシーンがあったらしいけど、人が誰かを
助けたいと思う気持ちに、何の打算もなく反射的な時もある。
慎二はランサーの槍先が刺さっただけで逃げ出したけど、それが普通の人間の反応。
何の覚悟もないし、痛い物は痛い。士郎はアーチャーに串刺しにされたけど、セイバーが
そばにいてアヴァロンのおかげで治癒したけど、それがなくても立ち上がれただろうけど、
それでは、何の解決にもならず、いずれ未来の選択肢の一つに負けていた。
だからこそ、ここで救われた弱い士郎は、心が折れず、正義の味方を夢見ていられる。
救いたいのは、他人のためでなく、自分の願いだから、正義はエゴなのだから。
衛宮士郎は、切嗣と凛、そしてアルトリアという3人にかつて命を救われた弱者ということを。
だからこそ、誰かを救える力を求めたけど、その理由を「人の為」と「偽った」から、アーチャーは
疲れてしまった。憧れたのは綺麗だったから、余りに幸せそうに笑った「爺さん」のために、
大勢の両親、友人、知人や知らない誰かを救えず、見捨てて、死を受け入れた虚無から生きよう
と思っただけなのに。アーチャーは力を得たけど、それ以上の暴力に打ちのめされ、滅私奉公
しすぎて、正義が摩耗し、絶望のあまり、己れの願いすら呪いと捻じ曲げてしまった。
士郎は、救われる以前から、弱いからこそ、負けられない頑固者だったのに。
アーチャーは失敗作なんかじゃない。英霊エミヤってのは正義の味方を目指した衛宮士郎としては最高傑作だ。衛宮士郎が正義の味方であることを突き詰めるとどうやってもあぁなる。凛との繋がりが出来てUBWの衛宮士郎はエミヤにはならないことが確定してるけど、それって特別な一人が出来たことで正義の味方としては不純になるってことでもある。
ところでやっぱり、Zero…というか、虚淵さんのセイバーの像が、原作と深刻なズレを起こしていますな
Zeroしか通過してこなかった視聴者は、原作であるSNのセイバーの行動や思考がわからずに、なかなかに頓珍漢なことを言っている
あと相変わらず慎二にヘイトためってる人は、型月的にも平凡な人なんだな
非凡以外の何者でもない、あの作品の大半の登場人物たちにとって、慎二は本当に極限まで「どうでもいいやつ」なんだ
数回前の凛にも怒られてたけど、自己犠牲が強すぎて中身がない。手段が目的になっている。
その原因は「キリツグの代わりにその夢を叶えてやろう」っていうだけのものでしかなかった。
そのまま大人になってしまったから英霊エミヤという存在が生まれてしまった。
でも今ここで、未来や過去の自分と向き合うことで、手段に意味を見出した。
「キリツグの夢」が「自分の夢」とイコールになったと言えばいいのかな。
これからもやることは変わらないだろう。でもそこには〝中身〟がある。
きっともうエミヤようにはならないだろう。
父親は仕事で忙しく、幼少時の僕の面倒は専ら祖母が見てくれていた。
天真爛漫に自由な軌跡を描く身勝手な性格はどうやら星の運命の下に決められていたようで、結局僕のどこをトンカチでぶん殴ってもその軌道修正はかなわなかったが、おかげ様で見てくれだけは立派な青年に育つことができた。
しかし成人してから数年が経ち、父は死に、祖母は痴呆で虚ろになった。
父は持病持ちで長生きできないことは分かっていたし、母代りをしてくれた祖母の事は幼少期の頃よりなおさら覚悟していたことだった。
一人立ちはしているので実生活はさほど変わっていない。
しかし、いざ仕事を辞めようとか、新しいことに挑戦しようだとか大きな決断を考えた時、理解して後ろ楯となってくれる人間を失ってしまったなあと強く感じる。
だから、だろうか。
「失業保険ニート最高だわwwwもう働けない身体になっちゃったww」
実家に戻り、旅行や惰眠を楽しみながら思い出したかのように転職活動をしている友人から社畜乙メールがくると僕は正義の怒りにうち震える。
時々正義を執行するため、朝早くから鬼のような着信をいれてやる。
採用通知の電話がいつかかってきても良いように音量をあげて枕元に携帯をおいているのは知っているのだ。
僕にはもうない。
母親は元からいないものだと思って生きてきたので、いままで一度として会いたいと願ったことはなかったが、天涯孤独となって初めて会ってみたいと思うようになった。
祖母には「家事もろくにできない、いい加減なダメ女」と聞かされていた。
僕はパチンコ店の駐車場で子供を蒸し焼きにするような人だと想像を膨らませていたが、祖母が昔ながらの頭の固い人間であることから嫁姑の関係を拗らせていただろうということや、敵と認識した人間をいつまでも誇張して悪く言う性格を踏まえても、別にダメな人間ではなくてただ父や祖母と合わなかっただけなのだろう。そう察することができるくらいには僕も大人になった。
結婚して一年で僕が産まれ、三年で離婚したことが記されていた。
親権をめぐって裁判をしていることもあって、失いたくないとは考えてくれていたようだ。
普通は母親が親権問題で負けることはあまりないが、共働きで面倒を祖父母がみていたようなので、父というよりは祖母が僕をうまいこと囲って親権を勝ち取ったというのが正しいのだろう。
再婚はしているのだろうか。
すると、僕に弟か妹がいるかもしれない。妹が良い。妹だろう。
いや、きっと妹に違いない。
兄弟がいたらとあれこれ仮定してシミュレーションを重ねていくことは、一人っ子に宿命付けられた悲しき人生の命題である。
僕も例に漏れず、これまで様々なシミュレーションを構築し、妹とは何かという研究を進めてきた。
弟である場合も仮定してみたが、僕の性格から割り出した弟のシミュレーションは、ほぼ全てのパターンで僕にリバーブローを打ち込まれて肝臓を破壊されている。理由はこざかしいうえに、生意気たからだ。
その点、妹は生意気でも阿呆でも根暗でも、僕には癒しとなり人生を一段上へとシフトさせる大きな力になるであろうことが多くのシミュレーションパターンからわかっている。
世の兄と呼ばれる人たちに「妹とは良いものか?」と訊ねると、多くが「そんな良いもんじゃねーよ、うざいし、面倒くさいし」という返答をする。そこで彼らは兄妹の折り合いが悪い様を例にあげ、さも不仲であるように印象を捜査する。
それは逆に、兄妹の仲睦まじい様を例にあげられたとき、我々が覚える激しい嫉妬の怒りからも見えてくる。
世の兄達は理解しているのだ。そして、我々に気を使ってくれているのだ。
それほどまでに妹がいる兄とは人間としての器が大きい。ひとつ上の男だ。
実際に僕の小学校から大学までの経験では、実家に遊びに行って妹が出てきた際、どの娘も兄とは不仲そうに見えてなんだかんだ仲睦まじく見える場合が多かった。僕はしきりに羨ましいと友人を憎んだ。
ただし例外もあって、おおよそファンタジー世界に出てくるオークのような妹が出てくるときもある。
妹がいるかもしれないという疑惑を抱いたのは母から何の連絡もないことからだった。
小学校入学の際、中学校卒業の際、僕が成人の際、手紙の一つや二つ出そうと思う節目はいくらでもあったはずだ。
新しい家庭を持ち、その家族のためにも僕のことは忘れて生きようと誓っていたに違いない。
母もようやく子供の手が離れ人生に一息ついた頃、ふと四半世紀ほど前に産み落とした子供の事を思い出す。
「あなたもいい歳になったし、そろそろ……」
兄の存在を妹に打ち明ける母。
兄弟がいたらとあれこれ仮定してシミュレーションを重ねていくことは、一人っ子に宿命付けられた悲しき人生の命題である。
妹も例にもれずこれまで様々なシミュレーションを構築し、兄とは何かという研究を進めてきているはずだ。
ああああなんかそんな感じで、気だるい日曜の朝とか急に妹ですって娘が訪ねてきたりしないかなあああ。
しかし、実際に僕が母を訪ねて行っても小汚い田舎のボロボロアパートに羅生門の婆みたいなのがひっそりと暮らしているだけかもしれない。会ってみて妙に縋られたりして僕はとてもみじめな思いをするのだろう。
そうして、僕の思い描いた可愛い妹は儚くも露と消えるのだろう。
だから、迷っている。
理系はてなーのみなさんは、MIRAIに関するさまざまな問題点の指摘をすでに目にしているだろう。
曰く、水素自動車に使われる水素は結局は電気で作るほかなく、その電気は化石燃料含めた既存の発電設備で作る。化石燃料をそのまま使う内燃機関車や、電気の段階でエネルギーを受け渡すEVより多段階のエネルギー変換をしているわけだから、そのぶんエネルギー効率が落ちている(実際、コストで比較するとHVやEVよりも燃費は悪い)。水素ステーションという社会的インフラ基盤を整備するコストも高い。液体ではなく気体を扱うわけだから設備にもそれだけ高い保安性能が要求される。1拠点で1億円かかると言われている。エネルギーロスがある技術に、多大な社会的投資が必要になる。
これらはすべて、MIRAIという車両の「川上」に属する問題だ。でも、MIRAI自体の問題について指摘した文章をあまり目にしていない。そこにこそ「MIRAI(FCV)には未来がない」ことの雄弁な証拠があるというのに。
なんでMIRAIには未来はないと思うのか。端的に、でかすぎ、重すぎなのだ。クラウンよりも5mm短くて横幅が15mmでかい。同サイズ以上。車重は2000kgオーバー。定員は4名で、後部座席の足元は前席下に入らない。トランクは狭小。これが、FCVに未来がないことの証拠だ。
そんなことがなぜ問題なのか。「初代の実験的販売車だからいいじゃないか。そのうち改善されていくだろう」。そうではない。たとえば初代プリウスはMIRAIより全長が600mm、横幅は100mm短く、車重は1200kg台で、定員5名だった。MIRAIより800kgも軽いのだ! 初代プリウスをあれだけコンパクトなパッケージにまとめたトヨタが、MIRAIでは会社の命運を賭けてもここまでのパッケージングしかできなかったということが、FCVの将来を暗示している。MIRAIはHVに比べても、積載している技術要素が多く、しかもそれぞれ小型軽量化するのが困難な技術的制約があるから、この大きさと重さになってしまっている。以下、それぞれの技術要素について言及する。
まずFCスタック、燃料電池部が重くてでかい。この重さと大きさでどうにか155psを確保した。2tを超える車重を動かすにはおっつかっつのレベルだ。しかも、その性能(重量出力比)を規定しているのが化学反応の領域なので、技術革新のペースが電子技術や機械技術よりも格段に遅い。これは燃料電池だけでなく、電池技術の一般的な命題として知られている。実用車として必要な出力を確保するには、大幅な小型化は難しいだろう。
高圧水素タンクも重くてでかい。でも、これ以上小さくすると650kmという内燃エンジン車の平均的航続距離を切ってしまう。タンク圧を上げればそれだけリスクが増す。現状でも水素自動車スタンドでは危険性を考慮し、専任オペレータがチャージしなければならない(=セルフ補充はできない)仕様なのだから、これ以上の高圧化の可能性はないだろう。そしてタンクの耐用年数は15年だ。しかも2年毎に定期点検が必要になり、一般の車検場では検査はできない。とてもエコだのサステナビリティだのを胸を張って主張できるような代物ではない。
水素ガスの供給系も重いしでかい。燃焼性の液体を発火プラグの直前で気化する内燃機関に比べて、気体を高圧タンクからスタックまで送り込むのだから、配管の気密性もポンプの性能も桁違いに保安基準が高く、それだけ重く大きくなる。これも技術的制約であり、簡単に解決できるようなものではない。ちなみにこの車には数ヵ所に水素ガスのガス漏れ検知装置がついている。
廃熱系も重くてでかい。水素自動車は水しか排出しない。つまり排ガス経由で廃熱を抜けない。しかし燃料電池部分はかなりの発熱を伴う。FCスタックで起きているのは、酸素と水素から電気と水と熱を作る反応だからだ。だからあの異形の巨大グリルが必要になり、その内部に大型のラジエーターが鎮座している。これも化学反応の特性に紐付けられた制約だから、技術革新で容易に克服できるものではない。
バッテリも、EVほどではないにしろ、それなりに重くてでかい。FCスタックだけでは柔軟な出力制御や回生はできない。だから大型の補助バッテリセルを積んでいる。FCスタック+モーター+バッテリというパワートレイン。これエンジン+モーター+バッテリとパラレルな、要はHV車と同じような構成なのだ。HV並みにパワートレインの構成が複雑で、構成部品も多い。しかも可燃性気体を扱うぶんだけ重く大きくなる。これは技術革新だけでどうにかできるような問題ではない。FCVという特定のテクノロジーの組み合わせによる、固有の限界、固有の制約というものがある。それがMIRAIの初期モデルの性能と価格を規定している。こう説明すれば、理系はてなーは直感的に「あっこれ、技術的に筋が悪いな」と感じるのではないだろうか。
だから値段も高い。補助金なしなら700万円オーバーだ。そこに、国民の皆様の血税が220万円注ぎ込まれて、やっと500万円程度になる。ちなみに初代プリウスは補助金なしで215万円だった。おわかりいただけただろうか。だからMIRAIには未来がないのだ。
2021年6月16日、ホンダ・クラリティFuel Cellの生産中止が発表された。ホンダ、FCV生産中止 販売低調で : 日本経済新聞 理由は販売低調。そりゃそうだ、高い(783万円)、でかい(全長4915mm・全幅1875mm)、買いにくい(リース専用)。2021年6月時点でも全国の水素ステーションの数は147箇所止まり。助成金たんまり乗せて官公庁と法人に買ってもらうしかマーケットがない。そもそもクルマとしてのユーティリティが乏しいFCVで、さらにあえてホンダ車を選ばなければならない自治体や企業はほとんどない。全世界での累計販売台数はわずか1900台だったそうだ。FCV全体を断念するわけではなくGM合弁でFCVは続けるということだが、あくまで保険的なムーブだろう。
もう一方のトヨタ・MIRAIはどうなったかといえば、こちらも累計販売1万台・国内販売3700台と全く振るわない状況だったが、2020年12月にガラッと雰囲気の変わった2代目が出てきた。https://toyota.jp/mirai これが実にお見事なのだ。といっても「これなら売れる! FCVの時代が来た!」という意味ではない。5年前にこの増田で書いた諸問題をまったく解決できないまま、それでも「FCVには将来性がある」という幻想を維持するために、針の穴に糸を通すようなコントロールで商品企画をやり直し、それにある程度成功している、ということだ。
どういうことか。まずボディサイズだ。レクサスLSと同じGA-Lプラットフォームを採用して、全長4975mm・全幅1885mmに。ちなみに初代は全長4890mm・全幅1815mmだった。初代よりひとまわりデカくなっているのである! 価格は? 細かくグレードを刻んで710万円〜860万円。こちらも高くなっている! 高圧タンクはどうなった? なんと3本に増槽している。しかも1本は運転席の真横に据え付けられている。
全幅1885mmにして、巨大なフロアトンネルにも水素タンクを入れて、750〜850kmという航続距離を確保。全長4975mmにして、ゴルフバッグ3個分のトランクを確保。大径タイヤを採用して地上高を上げ、タンク寸法を拡大。とにかく、全体をデカくすることでどうにかした。「技術的課題を解決しないという解決をした」ともいえる。
一方でトヨタはさすがだなと思うのは、そういう「FCVの限界に気づかせないための、ほぼ唯一の正解ルート」を新型MIRAIでちゃんと選んでることだ。上司に「お前、FCVなんとかしろや」と言われた時に現場が練ってくる商品企画としては、ほぼ100点満点といえる。つまり、デカさと高さを「これはあくまで高級車、ラグジュアリーカーなんですよ〜」という建て付けにすることで、「要素技術的に小型化・低価格化が困難」という自家用FCVの致命的欠点を希釈したのである。
自家用FCVの「デカい・狭い・高い問題」を誤魔化せるのは、もともとボディサイズが大きいスポーツ寄りの大型セダンか大型SUVぐらいしかない。だがエコカーの上得意である自治体や法人はSUVを買わない。だからMIRAIは「レクサスLSみたいな、スポーツ寄りの大型セダン」になった。2代目MIRAIは、顔つきこそスポーツカーっぽいが、シルエット的にはギリギリ自治体・法人用のショーファードリブンカーにも富裕層向けのドライバーズサルーンにも見えるし、実際に両方のニーズをそこそこ満たせるように作ってある。辻褄は合ってる。
ショーファードリブン用途に供するために、狭い車内で後部左右席をめいっぱい広く取った。だから後部中央席は実用に向かない。あくまで「5人定員」というカタログスペックのためのエマージェンシーシートだ。これはファミリーカーなら大きな欠点だが、ショーファードリブンやドライバーズサルーンなら別に困らない。ほとんど使わないから。辻褄は合ってる。
後部中央席を実際に使わない想定なら、フロアトンネルを大きくしてそこに水素タンクを増槽してもいいよね、となる。結果として航続距離が伸び、600km→850kmになった。これで水素ステーション不足の問題をある程度緩和できている。辻褄は合ってる。
ガッチガチの制約条件の中で唯一の正答を導く論理パズルみたいなことになってて、しかもちゃんと正解してる。さすがトヨタ。だがこれは「やっぱりFCVで大衆乗用車(5人乗り+5ナンバー)を作るのは無理でした」という事実上の敗北宣言でもある。やはりMIRAIには未来がないのだ。
おそらくトヨタも、自家用FCVという路線にはもう勝ち目が薄いと認識していると思う。そこで繰り出してきたのが水素エンジンという隠し球。技術的にはそう目新しくなく、過去にも複数メーカーが販売している。ただカーボンオフセットが問題視される以前は既存のガソリン内燃車に比べて全く優位性がなかったし、そもそも世の中に水素燃料のサプライチェーンが存在していないから普及することもなかった。
でもFCV普及が厳しくなった今、水素エンジン車は、既存自動車メーカーが手持ちの技術資源を使ってEV勢に対抗しうる希少な選択肢になる。内燃で培った基幹技術の多くを使い回せるので、今からでもイノベーションで先行するEV勢にキャッチアップしやすい。ミッション系ほか大手下請サプライヤーもそのまま連れて行ける。ガソリンに比べて重量エネルギー効率はかなり悪いが、お得意のHV機構と絡めれば何とか燃費も実用域まで持っていける可能性はある。官民を巻き込んだ水素ステーション全国展開というプロジェクトの延命もできる。モジュール化に不向きなので中長期ではEV勢に対してどうしても不利になっていくが、レガシーの技術を延命させて戦えるとこまで戦うというのも旧主派勢力の立派な戦略だ。3代目MIRAIは、出るとしたら普通の水素エンジンHV車に生まれ変わっているかもしれない。
(続きを書きました https://anond.hatelabo.jp/20210820195856
2015年に入ってから三ヶ月が経過した。それは、今年のアニメの第一陣(1~3月期)が終了を迎えたということを意味する。
一月に始まったアニメの中で放送前の注目度が最も高かった作品は、言うまでもなく『艦隊これくしょん』だろう。2013年のサービス稼働時から今現在まで破竹の勢いで隆盛を極めていることは、オタク世界に足を突っ込んでいる人間にとっては周知の事実である。特に同人ジャンルとしての隆盛がめざましく、その勢いはかつての『東方Project』を彷彿とさせるほどである。今、最もオタク系コンテンツの中で熱量の高い作品と言っても過言ではない『艦隊これくしょん』の待ちに待った「アニメ化」である。世間の注目度が鰻登りするのはもはや必然だと言える。
だが、そのような前評判に反して、実際に放送された内容はお世辞にも上出来とは言えないものだった。いまいち目的が見えないまま展開されていくストーリー、調和の取れていないギャグとシリアスの配分、そして視聴者に衝撃を与えただけで後の展開にはあまり影響を与えなかった如月の轟沈・・・・・・少なくとも従来の「艦これファン」は戸惑いを隠せていなかったように思える。元々の期待値が高かったこともあってか、ネット上の書き込みでは非難囂々である。
一方、これと比較すると面白いのが『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメである。これは『艦これ』と同じソーシャルゲームとしての出自を持つ作品なのだが、ブラウザゲーの『艦これ』と違って課金要素が強く、ネット上に出回っている数々の逸話も相まって「廃課金ソシャゲ」の代名詞みたいな存在だった。そんな敷居の高さもあったのだろう。アニメの放送時期は『艦これ』と同時期だったのだが、「アニメ化」に対する前評判・話題性は『艦これ』と比べてそこまで高くなかったように思える。事実、当の「デレマス」ファンの間でもそこまで期待値は高くなかった。「無難な内容でやり過ごして、ソシャゲ本体に悪影響を及ぼさなければそれで良い」なんて話をされていたぐらいである。
ところが、フタを開けてみればビックリの良作アニメだった。島村卯月・渋谷凜・本田未央の三人を軸に展開されていくアイドル界でのシンデレラストーリー、絶妙に挿入されるシリアス展開、そしてまさかここまで人気キャラになるとは思われていなかったオリジナルの男性プロデューサーの登場・・・・・・あくまで目算に過ぎないが、従来の「デレマスファン」を十分に満足させただけでなく、アニメからの新規ファンを大勢獲得することにも成功しているように思える。前評判の大人しさからは信じられない大躍進である。
もちろん、『艦これ』のアニメだってBlu-rayディスクの売り上げを見れば11000枚となかなかの数値なので、「商業的に失敗だった」わけではないだろう。ランキングで見ても現時点で冬アニメ(1~3月期)の円盤売り上げは暫定『艦これ』が一位なので、むしろ商業的にはまずまずの結果である。『デレマス』のBlu-rayディスクは現時点でまだ発売していないので比較しようがないし、KADOKAWAを初めとするバックの組織がいったい『艦これ』という人気コンテンツにどれほどの売り上げを期待していたかは全く分からないが、まあ近年のアニメ円盤の売り上げ規模から言えばケチはつけられない数値であることに違いはない。
ただ、こと「既存のファンの満足度」という視点に絞って言わせてもらえば、今回の『艦これ』アニメの内容は散々だったと言わざるを得ない。SNS上の反応を見ると、多くのファンが次週の展開を戦々恐々とした気持ちで見ていたことが窺えるし、事実としてその内容が彼ら彼女らの不安を払拭してくれる展開であったことなどほぼなかった。ていうか、他ならぬ「一番ファンからの評価が高かった回」が、本筋の話をガン無視して挿入された第六駆逐艦たちのカレー回(第六話)だったことがいい証拠である。同じ「ソシャゲ出身のアニメ」でありながら『デレマス』アニメとは雲泥の差である。もちろん単純比較はできないけれど、少なくとも『デレマス』はファンが来週の展開を心待ちにできるクオリティではあった。その週の内容をツイッターで実況して盛り上がることができた。各話の展開を思い出として胸に刻むことはできた。どちらがお互いのファンを満足させたか、延いては「どちらが抱えているファンを大切にするアニメだったか」の優劣はハッキリと出ている。
片や従来のファンすら激怒させる結果に終わり、片や従来のファンどころか新規ファンまで含めて感動させた。いったい何が両者をここまで分けたのか? というか『艦これ』のアニメはどうしてあんなお粗末な内容になってしまったのか? 冬アニメが一段落を迎えた今、改めてそれを考察してみたい。自分でも『艦これ』に対してきつい物言いをしているとは思うが、あのような悲劇的な過ちを二度と繰り返させないためにも、ここでキッチリと批判しておかなくてはならない。人気コンテンツにあやかった粗製濫造アニメは決して許してはならないのだ。
さて、そろそろ「どうして『艦これ』のアニメはあれほどお粗末な内容だったのか」その理由を語っていこう。実はそれこそが『デレマス』のアニメと比較してみると浮き彫りになってくる話なのだ。というのは、背後の組織が持っている「アニメ化」への意識が根本的に違っているからである。
『艦これ』のアニメがあれほどお粗末な出来であったのは、言ってしまえば「人気コンテンツをアニメにしてみた」に過ぎなかったからである。内容なんて二の次で、とにかく「旬なジャンル」を一刻も早くアニメにすることが至上の命題だったのだろう。商品的価値は『艦これ』というブランドが保障してくれるのだから、あとは適当にアニメの中で「吹雪」や「赤城」といった登場キャラをそれっぽく動かしておけば良い。そうすれば最低限『艦これのアニメ』としては成立する・・・・・・おそらく、制作サイドにとって最も重要だったのはこの『艦これのアニメ』として「成立している」ことだったのだ。たとえ「胸を打つストーリー」がなかろうが構成が破綻してようが、「吹雪」や「赤城」という人気の艦娘を動かしておけば『艦これのアニメ』に違いはないので、「艦これジャンルの商品」としては問題なく売り出せるのである。
いわば制作サイドにとって、『アニメ艦これ』は「単なる艦これジャンルのグッズの一つ」に過ぎなかったのである。どれくらいのグッズかと言えば、アニメイトなどで売っているキャラクターが印刷されたクリアファイル、あれと同水準の「一グッズ」だ。その商品的価値は「『艦これ』のアニメ」だというそれだけだ。しかし、たったそれだけあれば「金剛を印刷したクリアファイル」が『艦これのグッズ』として販売されるように、「吹雪や赤城が動いているアニメ」も『艦これのグッズ』として販売できるのである。何ともファンを舐めた話だが、「艦娘がただプリントされたクリアファイル」を『艦これのグッズ』として購入してくれるように、「艦娘がただ動いているアニメ」も『艦これのアニメ』として評価してくれると本気で思っていたのだろう。そうでなければあんなお粗末な内容のアニメを本気で『艦これのアニメ』と言って世に出せるわけがない。
もしかしたら「でも、キャラクターもののアニメなんてそんなもんでしょ?」と反論したい方も中には居るかもしれない。ところが『アニメ版デレマス』を見てみると、明らかに『艦これ』とは「アニメ化」に対する意識が異なっていることが分かるのだ。
『アニメ版デレマス』は、「キャラクターが印刷されたクリアファイル」などの「単なるキャラクターグッズ」は明らかに一線を画している。というのは、『アニメ版デレマス』の場合、「それがアニメとして成功するかどうか」は決して「Blu-rayの売れ行きの話」に留まらないからである。一番分かり易いのは、劇中のアイドルたちのデビューソングだろう。言うまでもない話だが、あれらの楽曲はCDショップで実際に販売されている。ファンのみんなはそれらの楽曲を「あ、アニメのあの話で卯月ちゃんが歌ってた曲だ!」と思って購入するのだ。そして彼女たちの歌声を聞きながらアニメの感動的なシーンを思い出したりするのだろう。
ここで考えて欲しい、もしも肝心のアニメの話そのものがお粗末な出来であったら、ファンのみんなはCDを購入するだろうか? もちろん楽曲として優れていれば購入する人間は居るだろうが、多くのファンは「あの娘たちが血の滲む努力の果てに勝ち取ったあの曲」だからそれを欲しいと思うはずだ。元のアニメの内容がイマイチだったら「あんな雑な作品のCDなんて誰が買うか!」と購入を控えるファンが続出するだろう。『アニメ版デレマス』の成否は「アニメという一キャラグッズの成否」に留まらず、「他のデレマスのグッズの売り上げ」にまで影響を及ぼしかねないのだ。
いわば『アニメ版デレマス』は、『アイドルマスターシンデレラガールズ』という作品に関わる全ての商品の「PV」としての宿命を背負っているのだ。劇中のデビューソングを初めとする関連商品を購入させ、あわよくばソシャゲ本体の方へ誘導して重課金させるという、商業的な使命である。そしてそのためには、ただ「卯月や渋谷凜などの人気キャラクターがただ動いているだけのアニメ」では決して許されない。きっちりと視聴者の心に響くような、彼ら彼女らを魅了してやまない良アニメでなければならないのだ。
「背負っているものの重さが違う」、『艦これ』の第6話で第六駆逐艦隊にそう語っていたのは足柄さんだっただろうか。カレー勝負ではその重さが災いして雷たちに勝利を譲る結果になってしまったが、現実の世界ではやはりその重さこそが「作品のクオリティ」として如実に表れたと言えるだろう。「単なる一グッズとしてのアニメ化」に過ぎなかった『艦これ』と「他のグッズの命運を背負ったPVとしてアニメ化」された『デレマス』の違いである。異論がある提督諸君はどうか自分の胸に聞いてみて欲しい。『艦これのアニメ』を見るのと、それと同じ時間を使ってブラウザゲーム内で艦娘のレベリングに励むのと、どっちが満足感を得られるかを(特に第6話以外でだ)。
さて、この話は以上で終わるが、最後に余談として「どうして『アニメ化』に対してそこまで意識が違ったのか」を個人的に考察しておきたい。
それは、そのまま「背後にある企業の態度」の違いだったのではないだろうか? 『艦これ』の背後にあるのはKADOKAWAという企業であり、基本的にここは「その時々の旬の作品のメディアミックスで利益を上げる」のがポリシーである。言うなればKADOKAWAにとって個々のコンテンツは「消費財」であって、食いつぶして消化しきったらまた次のコンテンツに移動するのである。我々にとって『艦これ』は近年まれに見るモンスター的コンテンツであるが、そんな『艦これ』でさえも母体であるKADOKAWAにとってみれば「その時々の旬な作品」の一つに過ぎなかったのではないか? 世に出てから二年に満たない期間で「アニメ化」までこぎ着けたのは、むしろ「旬が過ぎ去らないうちにアニメ化して利益を回収しよう!」というそういうことだったのではないだろうか? 邪推と言われればそれまでだが、どうにもKADOKAWAには「コンテンツへの根本的な不信感」みたいなものがあるような気がしてならない。
対して『デレマス』の背後にあるのはバンダイナムコエンターテイメントという企業である。ここにあるのは別にポリシーと言うほどのものでもなく、「いかに自社コンテンツを長生きさせて利益を上げるか」という企業としてごく普通の態度である。KADOKAWAが個々の作品を「果実」として見なしているのに対して、バンナムはどちらかと言えば「果実のなる『木』の方」と見なしていると言える。生み出したコンテンツは「金のなる木」であって、これを「長持ちさせること」こそが自社の利益になるのである。なのでKADOKAWAのようにコンテンツを「消費」することなどあってはならない、できる限り「持続させること」こそが至上の命題なのだと言える。そのようなスタンスだから、『デレマス』のアニメもしっかりしたものでなければならなかったのだろうと思われる。どっちかというと『プリキュア』のアニメでおもちゃを買わせているバンダイの方のノウハウなんだろうね。終わり