「命題」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 命題とは

2015-03-23

とうに「ない」のが命題として前提されてる

そこから警官みたいな連中が動く為の論理をどうやって生成するのか。これについてある者は沈黙を保持し続けている。

2015-03-22

私服で良いという採用担当者私服で行くのは愚の骨頂だという人達

私服OK」でいいと言われてクソ真面目にリクスーか、ビジネスカジュアルで行けば「無難」という声が多い。

要するに「無難」さのあるスーツ系統でコーディネートするのを妥当する人は、多分「私服OP」という命題に明確な回答を持ち合わせていないんじゃないか?

事実、これ系の質問になると、スーツ派と私服派で必ず賛否が分かれる。

恐らく彼らにも明確な回答がないためである

ビジネスカジュアルやノーネクタイ適当だというのも誰かしらのアドバイスを受けていて自分自身でこれだとする正解じゃない場合がある。

エージェントやキャリコン、学校先生指導されたから、それがフォーマルなんだろうと自分に言い聞かせている様は明白だ。

何故なら指導者にも明確な正解が分からないのである

私服で良い」という設問に対して、どれくらいの人がこれが正解だと断ずる人はあまり多くないどころか、一流のビジネスマンでさえも回答に窮するだろう。

何故なら非常にどうでもいい事であり、またこの設問に対する回答は、正解が無い事が解答であるのだから、答など知る由もないのである

オフパコについて思う事

春が訪れたと思う.暖かくなってきたし,Tシャツ一枚でも日中なら活動て着るようになった.

解放的になる季節だと思う.気温により服が薄くなっていくのもあるし,特に学生などは春休みでもあろう.

出会いと別れへの感覚がマヒするせいもあるだろうか,オフ会報告がTwitter上で増えたように思う.

何もこの手の話はもちろんTwitterに限った話ではないが,まあ,その,いわゆるオフパコ報告を見かけることも中にはある.

オフパコはその名の示す通りオフ会とパコ=セックスを兼ねた行為である派生形としてセックス前提のパコオフという言葉もある.

有史以来,人類に限らず,ありとあらゆる生き物は子孫を残すことを至上の命題としてきた.

いかにして優秀な子孫を残すか,それに注力してきたわけだ.

この辺の話は本題とはずれる上に長くなるので省くべきだろう.半学術的な本として「人間の性はなぜ奇妙に進化たか」という本がある.こちらの本等に譲りたい.

とにかく,私たちセックスが大好きで,それは本能からくるものでもあるし,知能を得た人間らしい理由もそこにはあるのかもしれない.

私も例外ではない.

前置きが長くなったが,私はこのオフパコと呼ばれる行為に対して,倫理的にどうだなど特に何も思わない立場だ.ナンパの様なものだろう.

同意のうえであるのだ.何を責める必要がるのだろうか.

インターネットが無ければ異性と知り合う事すら難しい境遇の人もいるのだ.技術恩恵を受けて何が悪い

こう考えてる人はきっと多いのだろう.推奨でも無く,反対でも無く,無関心.自立した個人なのだから好きにすればいいのではという立場

しかし,オフパコ報告は時として炎上騒ぎとなることがある.

なぜか.

みんなそういう話が大好きだからに他ならない.

クラスの誰と誰がくっついた.離れた.

そういう話がみな大好きなのだ

難しい話ではない.

単にあるコミュニティ内で”面白そう”な話題が上がったから一緒になって乗っかっているだけなのだ

から,日ごろの言動が火の大きさに繋がる.

普段から祭りの度に全力で叩く側に立っている人は大きく叩かれることになる.

平素からセックスしてると公言してるような人は大きく叩かれずに終わる.

お祭りなのだネタ提供する当事者も,それを叩く外野も.

古よりお祭りは性と密接な関わりがあったという.

まさにオフパコTwitterの祭と言える.

祭りは私も大好きだ.

ビバ☆オフパコ

燃料を投下してくれるツイッタラーへ,はてなより最大限の感謝を込めて本稿を締めくくりたい.

2015-03-14

意味不明

世の中は頭が良い奴が動かしてるから馬鹿は彼等に迷惑をかけようと考えすらするなという当然の命題がそこにあるだけだろ。

2015-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20150313180731

そう。結局いくら疑わしくても、「STAP細胞はありまぁす」という命題否定することはできなかった。

http://anond.hatelabo.jp/20150313134725

「前提がおかしいので証明できていません」は間違っていない。

でもそれは論破じゃないよね。

で、独自定義というが、各々の定義にバラつきがあったとしても、最低限超えるべきハードルというものはある。

主たる命題否定されていないものを「論破」と呼ぶのは、一般的に考えて難しいだろう。

ツリーのほかのところで書いたが、主たる命題否定されていないものを「論破」と呼ぶ場合

「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」

という導出に問題がある命題についても、「言っていることは間違い」であり、同時に結論も間違いであるかのような印象を与える、という実際的な問題があるしね。

http://anond.hatelabo.jp/20150313133642

正しいとも間違っているとも証明できない命題論破できない。

論破できない命題論破しようとして、議論はだいたい収集がつかなくなっていく。

大事なのは論破」できないものを早めにそうと見抜き、論破以外の議論の落としどころをつけることなんだけどね。

http://anond.hatelabo.jp/20150313125243

「前提が嘘」であるならば、前提が嘘であるために命題否定されているのであって

主語が大きい」という指摘によって命題否定されているわけではないよ。

そして「主語が大きい」という指摘には、何が嘘なのかという情報は含まれていない。

http://anond.hatelabo.jp/20150313123629

君は勘違いをしている。

そこで何より要らないのは、4,5のやり取りだ。

主語が大きい」は、何度も書いた通り情報価値ゼロであり、命題の真偽に直接かかわる部分ではないからだ。

主語が大きい」ことが常に論理の間違いを引き起こすのならば、「主語が大きい」で事足りるが、

主語が大きい場合でも成立する命題存在する以上、「主語が大きいからBという不具合がでる」という点まで言わないと意味がない。

ちなみにそれは、

1 Aさん「男はおっぱいより尻が好きだ」

2 Bさん「それは論理が間違っている」

3 Aさん「どこが間違っているのか」

4 Bさん「主語が大きい

5 Aさん「主語が大きいという根拠を示せ」

6 Bさん「Aさんの身の回りのサンプルだけでは(略」

7 Aさん「サンプルが少ないだけでなぜ間違っていると言える?」

8 Bさん「……」

までは続くだろう。

なぜならBさんの「それは論理が間違っている」という認識が間違っているからだ。

正解は

1 Aさん「男はおっぱいより尻が好きだ」

2 Bさん「Aさんの身の回りのサンプルだけで少なすぎてはそれは証明できない」

だ。「間違っている」のではない「正しいと証明できない」だけだ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313122708

×「君の言っていることは正しいかもしれないけど、その理論を導出する過程に飛躍がある」

○「その理論を導出する過程に飛躍があるから、君の言っていることは間違いだね」

俺の気にしている点もそこにある。

理論を導出する過程に飛躍があっても、言っていることが正しい場合があるからこそ、その「論破」に問題がある。

「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」

という導出に問題がある命題についても、「言っていることは間違い」であり、同時に結論も間違いであるかのような印象を与える。

理論的にもそうだが、実際的な問題としてもそういったミスリードに使われることがある。

http://anond.hatelabo.jp/20150313120514

言ってるでしょ。批判であることを否定してるわけではないの。「論破」はできないことを説明している。

「その前提から導きだせる結論としては」明らかに「主語が大きすぎる」

これは「主語が大きすぎる」ではなく「妥当ではない」のほうが順当なのだけどw

「なんで、これだけの観測範囲でそんな命題導きだしちゃうかなぁ」という批難は妥当なんだけど、

命題のものは、観測範囲にかかわらず「たまたましかったり」「たまたま間違ってたり」するので、論破、というわけにはいかんのよ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313115235

その場合文章命題以外の部分がなくなるから、俺の言っていた「統計的有意でないサンプルをもって云々」の部分が捨象されてしまうので、今我々が出すべきたとえとしてより適当ではないのだけれどw

まあともかく、

「主たる主張」というのが「テレビで観たから朝食に味噌汁を飲んだ」なんだよ。

であるならば、争点は2つある。テレビを観たor観ていない、朝食に味噌汁を飲んだor飲んでいない。

これに主従をつけなくてはいけない。

仮に、テレビを観たor観ていないが主たる論点で、味噌汁を飲んだor飲んでいないが従たるもの、つまり枝葉の部分であるとするならば、

テレビを観たか観ていないかのどちらかを証明できれば、論破となる。

しかし、さっきも書いたが、「主語が大きい」では、テレビを観たか観ていないかという情報提供できない。

まり主語が大きい」という主張には価値がない。

http://anond.hatelabo.jp/20150313110036

一般に「論破」とは「議論をして相手の説を破ること」というだけだ。

それ、「命題」を「説」に言い換えてるだけじゃん。

少なくとも「主語が大きい」と指摘する側の人間は「テレビで観たから朝食に味噌汁を飲んだ」という論理自体問題視している。

2つ言っておくべきことがある。

1つは、問題がある点について問題視することは良いだろうが、主たる主張が否定できていないことについて「論破」を使うのは日本語の使用方法として適当ではない。

「1+1=3であることを考えると、2+2=4である

と言った場合命題は「2+2=4」のほうだ。

これを、「1+1=3は偽である、ろんぱっぱ」と言えるかどうか。

「一番言いたいことは正しいけれども、それ以外の部分では間違いがある」は、普通は「論破」 というよりは「しょうもない揚げ足取り」と言うべきだろう。

2つ目は、「主語が大きい」という言葉では、「その人がテレビを観たかどうか」についての情報は得られないことだ。

何度も言うように「主語が大きい」という言葉情報価値ゼロからだ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313102155

論破とは命題否定だ。

それは増田勝手定義にすぎない。

一般に「論破」とは「議論をして相手の説を破ること」というだけだ。

テレビを観ていようが、ネットで見たのをテレビを観たと勘違いしていようが、実際に朝食に味噌汁が出たかどうかだけが大事ポイントであり

それは増田勝手に「味噌汁が出たかどうかだけが命題」と設定しているにすぎない。

少なくとも「主語が大きい」と指摘する側の人間は「テレビで観たから朝食に味噌汁を飲んだ」という論理自体問題視している。

オレオレ設定の「命題」に対してオレオレ定義の「論破」ができてないから主語が大きい」という指摘は無意味、とか無敵すぎましゅ

http://anond.hatelabo.jp/20150313100946

論破とは命題否定だ。

命題の真偽にからまない論理について取りざたするのは「揚げ足取り」だ。

下は命題の例として、あまり妥当とは言えないが、

たとえば「昨日のテレビ番組味噌汁特集があったか今日の君の朝食は味噌汁だ」という主張は、

その人が当該のテレビ番組を観ていなかったなら、本当に朝食が味噌汁であったとしても誤りになる。

この場合今日の君の朝食は味噌汁だ」が命題ならば、朝食が味噌汁であれば命題は真であり、味噌汁でなければ偽である

その人が当該テレビ番組を観ていようがいまいが、朝食が味噌汁であったか否か、つまり命題の真偽には影響がない。

テレビを観ていようが、ネットで見たのをテレビを観たと勘違いしていようが、実際に朝食に味噌汁が出たかどうかだけが大事ポイントであり、

ここで「その人はその時間テレビは観ていない!」って指摘したところで、「どうでもええわ、そんなん」という反応にしかならん。

指摘したところで味噌汁コンソメスープになるわけじゃないしね。

http://anond.hatelabo.jp/20150313093623

「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」という命題が偽であることを説明するだけならデータ必要ない。

何言ってるの。

適切なアンケートをとった結果、「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」ということがはっきるするかもしれんだろ。

自明論理的欠陥である主語が大きい」をわざわざ指摘して、論破してやらねばならないのだ。

繰り返しになるが、対象規定せずに「主語が大きい」というのは、情報としての価値ゼロだ。

価値のない情報によって論破はできない。


君が納得いかないのは、有意でない数のサンプルをもって全体を推測している行為について、「主語が大きい」で論破できるのではないのか、ということだろうが、

統計的有意でなくとも、命題が、たまたた正しいこともある(もちろん間違っていることもある)。

まり、「主語が大きい」という言葉で、統計的有意でないことを説明しようとしても、それがただちに命題否定できるものではないんだ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313085831

「男はおっぱいより尻のほうが好きだというデータ存在しているかどうか」

「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」という命題が偽であることを説明するだけならデータ必要ない。

主語範囲設定を間違えた言説が「誤り」であることはデータ提示しなくても分かることだ。

仮に「主語の大きさAを指摘することによって、不具合Bは自明に想起される」というのであれば、Aは命題に明示されているので、命題において不具合Bが想起されるため、命題が偽であることは自明であり論破を要しない。

命題が偽であることは自明であるのだが、それを実際に「正しい」として主張する人間がいるために、

自明論理的欠陥である主語が大きい」をわざわざ指摘して、論破してやらねばならないのだ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313091817

AがBであるという主張は間違っている。なぜなら、主語が大きいからだ。という論理展開でしょ?

違う。主張が間違っていると言えるのは、最初から間違いだと知っているからだ。

主語が大きいことが間違っている理由にはならない。

たとえば、

「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」

「俺の婆さんよりも爺さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん女より男の方が平均寿命が長い」

も同じ論理

同じ帰納的推測で同じ論理であっても、論破できるのは下の方だけになる。

でも決して「男は」「女は」という主語の大きさのせいではない。

繰り返すけど、「主語が大きい」という言葉情報価値ゼロなのだから情報価値ゼロ言葉でも論破できる命題は、最初から破綻しているものしかあり得ないわけ。

http://anond.hatelabo.jp/20150313091219

間違っている命題から、その指摘のために「主語が大きい」を利用してて、その指摘=論破いいんじゃないの。AがBであると言っている人間に対して、Aは必ずしもBではないと言っているのだから、充分に論破するのに役立っていると思うのだけれど。AがBであるという主張は間違っている。なぜなら、主語が大きいからだ。という論理展開でしょ?

http://anond.hatelabo.jp/20150313090535

主語が大きい」で論破できる命題存在するとすれば、それは論破するまでもなく間違っている命題しかない、ということ。

論破必要がある命題は「主語が大きい」では論破できない)

あらかじめ間違っていることが分かっている命題を、「主語が大きい」と言うことで、その言葉でもって論破した気になっているのは、ただの気のせいだと。

主語が大きい」で論破できる命題存在しない。

返事が遅くなった。なぜ、「主語が大きい」で論破できる命題はないのかを説明する。

「Aは○○である」という命題について、仮に「主語が大きい」で論破できるとする。

この場合、「主語がA」であるため「○○である」は間違っている、と言っていることになる。

しかしこれは、「Aは○○である」の反復であり、「主語が大きい」で論破できるということは

「Aは○○である、は間違いである」が自明であることに他ならない。

これは、論破するまでもなく命題が偽であるため、「主語が大きい」という指摘をもって論破したとは言えるものではない。


ここで、話を戻すと

「男はおっぱいより尻のほうが好き」という命題は、単純に「論破できない」ということになるのに対して、

「男はおっぱいより尻のほうが好きだというのは正しい」という命題は、論破するまでもなく命題が偽であることがわかるもの

ということになる。

なぜなら、下の命題の真偽は、「男はおっぱいより尻のほうが好きだというデータ存在しているかどうか」を知っているか否かに依存しており、

決して「主語の大きさ」がその真偽を分けるものではないからだ。

たまたま、「データ存在していない」という認識があるから命題が偽である認識しているだけで、「主語が大きい」とは無関係であり

主語が大きい」という指摘で論破できたと考えるのは、ただの勘違いであるということだ。

何故このようなことになるかと言えば、「主語が大きい」という指摘に情報としての価値がないからだ。

論破しようとするならば「主語の大きさAによってBという不具合があり、論理が破たんする」と言わなければならないところ、その肝心の不具合Bを具えていないから指摘としての価値がない。

仮に「主語の大きさAを指摘することによって、不具合Bは自明に想起される」というのであれば、Aは命題に明示されているので、命題において不具合Bが想起されるため、命題が偽であることは自明であり論破を要しない。

大事なのは、「何にとって」大きいのか、であり、対象も明確にせず大きい小さいなどと言ったところで、情報としての価値ゼロなんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20150312173948

2015-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20150312171553

ならないよ。命題あくまで「男はおっぱいより尻のほうが好き」であり、どういう過程命題を導出したかは、命題の正しさとは関係がない。

考えてみろ。

「1+1=3は間違いだ」と指摘したところで「男はおっぱいより尻のほうが好き」という命題論破したことになると思うか?

http://anond.hatelabo.jp/20150312153612

それは、命題に絡まない点について揚げ足をとっている、というんだ。

命題を導出する過程に飛躍や誤りがあったところで、命題が正しいか否かには直結しない。

その例でいうなら

「1+1=3であることから考えると、男はおっぱいより尻のほうが好き」

と言うとき、1+1=3を否定したところで「男はおっぱいより尻のほうが好き」という命題否定にはならないだろ。

痴漢問題に置き換えるなら「『男は』という大きな主語で一括りに語れるような問題ではない」と指摘すればいい。

これは間違い、「大きな主語で一括りに語れる問題であるか否かはわからない」だ。

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