はてなキーワード: 命題とは
「私服OK」でいいと言われてクソ真面目にリクスーか、ビジネスカジュアルで行けば「無難」という声が多い。
要するに「無難」さのあるスーツ系統でコーディネートするのを妥当する人は、多分「私服でOP」という命題に明確な回答を持ち合わせていないんじゃないか?
事実、これ系の質問になると、スーツ派と私服派で必ず賛否が分かれる。
恐らく彼らにも明確な回答がないためである。
ビジネスカジュアルやノーネクタイが適当だというのも誰かしらのアドバイスを受けていて自分自身でこれだとする正解じゃない場合がある。
エージェントやキャリコン、学校の先生に指導されたから、それがフォーマルなんだろうと自分に言い聞かせている様は明白だ。
「私服で良い」という設問に対して、どれくらいの人がこれが正解だと断ずる人はあまり多くないどころか、一流のビジネスマンでさえも回答に窮するだろう。
何故なら非常にどうでもいい事であり、またこの設問に対する回答は、正解が無い事が解答であるのだから、答など知る由もないのである。
春が訪れたと思う.暖かくなってきたし,Tシャツ一枚でも日中なら活動て着るようになった.
解放的になる季節だと思う.気温により服が薄くなっていくのもあるし,特に学生などは春休みでもあろう.
出会いと別れへの感覚がマヒするせいもあるだろうか,オフ会報告がTwitter上で増えたように思う.
何もこの手の話はもちろんTwitterに限った話ではないが,まあ,その,いわゆるオフパコ報告を見かけることも中にはある.
オフパコはその名の示す通りオフ会とパコ=セックスを兼ねた行為である.派生形としてセックス前提のパコオフという言葉もある.
有史以来,人類に限らず,ありとあらゆる生き物は子孫を残すことを至上の命題としてきた.
いかにして優秀な子孫を残すか,それに注力してきたわけだ.
この辺の話は本題とはずれる上に長くなるので省くべきだろう.半学術的な本として「人間の性はなぜ奇妙に進化したか」という本がある.こちらの本等に譲りたい.
とにかく,私たちはセックスが大好きで,それは本能からくるものでもあるし,知能を得た人間らしい理由もそこにはあるのかもしれない.
私も例外ではない.
前置きが長くなったが,私はこのオフパコと呼ばれる行為に対して,倫理的にどうだなど特に何も思わない立場だ.ナンパの様なものだろう.
インターネットが無ければ異性と知り合う事すら難しい境遇の人もいるのだ.技術の恩恵を受けて何が悪い.
こう考えてる人はきっと多いのだろう.推奨でも無く,反対でも無く,無関心.自立した個人なのだから好きにすればいいのではという立場.
なぜか.
みんなそういう話が大好きだからに他ならない.
クラスの誰と誰がくっついた.離れた.
そういう話がみな大好きなのだ.
難しい話ではない.
単にあるコミュニティ内で”面白そう”な話題が上がったから一緒になって乗っかっているだけなのだ.
だから,日ごろの言動が火の大きさに繋がる.
普段から祭りの度に全力で叩く側に立っている人は大きく叩かれることになる.
平素からセックスしてると公言してるような人は大きく叩かれずに終わる.
古よりお祭りは性と密接な関わりがあったという.
祭りは私も大好きだ.
ビバ☆オフパコ
でもそれは論破じゃないよね。
で、独自定義というが、各々の定義にバラつきがあったとしても、最低限超えるべきハードルというものはある。
主たる命題が否定されていないものを「論破」と呼ぶのは、一般的に考えて難しいだろう。
ツリーのほかのところで書いたが、主たる命題が否定されていないものを「論破」と呼ぶ場合、
「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」
という導出に問題がある命題についても、「言っていることは間違い」であり、同時に結論も間違いであるかのような印象を与える、という実際的な問題があるしね。
「前提が嘘」であるならば、前提が嘘であるために命題が否定されているのであって
君は勘違いをしている。
そこで何より要らないのは、4,5のやり取りだ。
「主語が大きい」は、何度も書いた通り情報価値がゼロであり、命題の真偽に直接かかわる部分ではないからだ。
「主語が大きい」ことが常に論理の間違いを引き起こすのならば、「主語が大きい」で事足りるが、
「主語が大きい」場合でも成立する命題が存在する以上、「主語が大きいからBという不具合がでる」という点まで言わないと意味がない。
ちなみにそれは、
1 Aさん「男はおっぱいより尻が好きだ」
2 Bさん「それは論理が間違っている」
3 Aさん「どこが間違っているのか」
4 Bさん「主語が大きい」
6 Bさん「Aさんの身の回りのサンプルだけでは(略」
7 Aさん「サンプルが少ないだけでなぜ間違っていると言える?」
8 Bさん「……」
までは続くだろう。
なぜならBさんの「それは論理が間違っている」という認識が間違っているからだ。
正解は
1 Aさん「男はおっぱいより尻が好きだ」
だ。「間違っている」のではない「正しいと証明できない」だけだ。
俺の気にしている点もそこにある。
理論を導出する過程に飛躍があっても、言っていることが正しい場合があるからこそ、その「論破」に問題がある。
「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」
という導出に問題がある命題についても、「言っていることは間違い」であり、同時に結論も間違いであるかのような印象を与える。
言ってるでしょ。批判であることを否定してるわけではないの。「論破」はできないことを説明している。
これは「主語が大きすぎる」ではなく「妥当ではない」のほうが順当なのだけどw
「なんで、これだけの観測範囲でそんな命題導きだしちゃうかなぁ」という批難は妥当なんだけど、
命題そのものは、観測範囲にかかわらず「たまたま正しかったり」「たまたま間違ってたり」するので、論破、というわけにはいかんのよ。
その場合、文章に命題以外の部分がなくなるから、俺の言っていた「統計的に有意でないサンプルをもって云々」の部分が捨象されてしまうので、今我々が出すべきたとえとしてより適当ではないのだけれどw
まあともかく、
であるならば、争点は2つある。テレビを観たor観ていない、朝食に味噌汁を飲んだor飲んでいない。
これに主従をつけなくてはいけない。
仮に、テレビを観たor観ていないが主たる論点で、味噌汁を飲んだor飲んでいないが従たるもの、つまり枝葉の部分であるとするならば、
テレビを観たか観ていないかのどちらかを証明できれば、論破となる。
それ、「命題」を「説」に言い換えてるだけじゃん。
2つ言っておくべきことがある。
1つは、問題がある点について問題視することは良いだろうが、主たる主張が否定できていないことについて「論破」を使うのは日本語の使用方法として適当ではない。
これを、「1+1=3は偽である、ろんぱっぱ」と言えるかどうか。
「一番言いたいことは正しいけれども、それ以外の部分では間違いがある」は、普通は「論破」 というよりは「しょうもない揚げ足取り」と言うべきだろう。
一般に「論破」とは「議論をして相手の説を破ること」というだけだ。
テレビを観ていようが、ネットで見たのをテレビを観たと勘違いしていようが、実際に朝食に味噌汁が出たかどうかだけが大事なポイントであり
それは増田が勝手に「味噌汁が出たかどうかだけが命題」と設定しているにすぎない。
少なくとも「主語が大きい」と指摘する側の人間は「テレビで観たから朝食に味噌汁を飲んだ」という論理自体を問題視している。
オレオレ設定の「命題」に対してオレオレ定義の「論破」ができてないから「主語が大きい」という指摘は無意味、とか無敵すぎましゅ。
命題の真偽にからまない論理について取りざたするのは「揚げ足取り」だ。
この場合「今日の君の朝食は味噌汁だ」が命題ならば、朝食が味噌汁であれば命題は真であり、味噌汁でなければ偽である。
その人が当該テレビ番組を観ていようがいまいが、朝食が味噌汁であったか否か、つまり命題の真偽には影響がない。
テレビを観ていようが、ネットで見たのをテレビを観たと勘違いしていようが、実際に朝食に味噌汁が出たかどうかだけが大事なポイントであり、
ここで「その人はその時間、テレビは観ていない!」って指摘したところで、「どうでもええわ、そんなん」という反応にしかならん。
何言ってるの。
適切なアンケートをとった結果、「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」ということがはっきるするかもしれんだろ。
繰り返しになるが、対象も規定せずに「主語が大きい」というのは、情報としての価値がゼロだ。
君が納得いかないのは、有意でない数のサンプルをもって全体を推測している行為について、「主語が大きい」で論破できるのではないのか、ということだろうが、
統計的に有意でなくとも、命題が、たまたた正しいこともある(もちろん間違っていることもある)。
つまり、「主語が大きい」という言葉で、統計的に有意でないことを説明しようとしても、それがただちに命題を否定できるものではないんだ。
「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」という命題が偽であることを説明するだけならデータは必要ない。
主語の範囲設定を間違えた言説が「誤り」であることはデータを提示しなくても分かることだ。
仮に「主語の大きさAを指摘することによって、不具合Bは自明に想起される」というのであれば、Aは命題に明示されているので、命題において不具合Bが想起されるため、命題が偽であることは自明であり論破を要しない。
違う。主張が間違っていると言えるのは、最初から間違いだと知っているからだ。
たとえば、
「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」
「俺の婆さんよりも爺さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん女より男の方が平均寿命が長い」
も同じ論理。
同じ帰納的推測で同じ論理であっても、論破できるのは下の方だけになる。
でも決して「男は」「女は」という主語の大きさのせいではない。
繰り返すけど、「主語が大きい」という言葉は情報価値がゼロなのだから、情報価値がゼロの言葉でも論破できる命題は、最初から破綻しているものでしかあり得ないわけ。
間違っている命題だから、その指摘のために「主語が大きい」を利用してて、その指摘=論破でいいんじゃないの。AがBであると言っている人間に対して、Aは必ずしもBではないと言っているのだから、充分に論破するのに役立っていると思うのだけれど。AがBであるという主張は間違っている。なぜなら、主語が大きいからだ。という論理展開でしょ?
「主語が大きい」で論破できる命題が存在するとすれば、それは論破するまでもなく間違っている命題しかない、ということ。
あらかじめ間違っていることが分かっている命題を、「主語が大きい」と言うことで、その言葉でもって論破した気になっているのは、ただの気のせいだと。
返事が遅くなった。なぜ、「主語が大きい」で論破できる命題はないのかを説明する。
「Aは○○である」という命題について、仮に「主語が大きい」で論破できるとする。
この場合、「主語がA」であるため「○○である」は間違っている、と言っていることになる。
しかしこれは、「Aは○○である」の反復であり、「主語が大きい」で論破できるということは
「Aは○○である、は間違いである」が自明であることに他ならない。
これは、論破するまでもなく命題が偽であるため、「主語が大きい」という指摘をもって論破したとは言えるものではない。
ここで、話を戻すと
「男はおっぱいより尻のほうが好き」という命題は、単純に「論破できない」ということになるのに対して、
「男はおっぱいより尻のほうが好きだというのは正しい」という命題は、論破するまでもなく命題が偽であることがわかるもの、
ということになる。
なぜなら、下の命題の真偽は、「男はおっぱいより尻のほうが好きだというデータが存在しているかどうか」を知っているか否かに依存しており、
決して「主語の大きさ」がその真偽を分けるものではないからだ。
たまたま、「データが存在していない」という認識があるから、命題が偽であると認識しているだけで、「主語が大きい」とは無関係であり
「主語が大きい」という指摘で論破できたと考えるのは、ただの勘違いであるということだ。
何故このようなことになるかと言えば、「主語が大きい」という指摘に情報としての価値がないからだ。
論破しようとするならば「主語の大きさAによってBという不具合があり、論理が破たんする」と言わなければならないところ、その肝心の不具合Bを具えていないから指摘としての価値がない。
仮に「主語の大きさAを指摘することによって、不具合Bは自明に想起される」というのであれば、Aは命題に明示されているので、命題において不具合Bが想起されるため、命題が偽であることは自明であり論破を要しない。
大事なのは、「何にとって」大きいのか、であり、対象も明確にせず大きい小さいなどと言ったところで、情報としての価値はゼロなんだよ。
ならないよ。命題はあくまで「男はおっぱいより尻のほうが好き」であり、どういう過程で命題を導出したかは、命題の正しさとは関係がない。
考えてみろ。