「くらえ、チョウナ・ブーメラン!」
「おい、シロクロ! やめろよ。投げるな」
「なんでだ。人に向けて投げてない」
「人に向けて投げなくても危ないだろ!」
「え? なんで?」
「投げること自体が危ないって言ってるんだ!」
「じゃあ、何を投げればOKなんだ」
「何も投げるな!」
「随分な話だな。そこまでの権限はさすがにないだろ」
「うわ、急に正気に戻らないでよ」
「こうして問題は意外な形で終結し、今でも『ヴァリオリ』の登場人物たちはこれまでと変わらない武器を持っているってわけさ」
「なんだか、腑に落ちないなあ」
父の話に、俺は疑問を投げかけた。
それは別の表現をスケープゴートにして、問題をウヤムヤにしただけだ。
父にそう返され、そりゃあ……とまで言ったところで、ふと口をつぐんだ。
そもそも何をどうすれば、どこまでやれば解決して、そしてそれが本当に正しいことなのか、或いは間違っているのか。
それらを的確に判断できるような、普遍的な物差しが俺にはなかったからだ。
いや、恐らくほとんどの人間はないのかもしれない、って言いたいのか。
「息子よ、覚えておくといい。問題ってのはな、それ自体は問題ではないんだ」
父の言葉に、俺は首を傾げる。
「この界隈の『検閲するかどうか』っていう最終的な判断は、世論などの総意によって決まっていると思われがちだ」
「だから各々が議論をして模索していこう、ってことになるんじゃないの?」
「それは観念的だし、プロセスの話でしかない。俺たち作り手にとっては何も言っていないのと同じだ。答えを迫られたときにどうするか。多くは個々人が決めるしかないことだったりする」
「それで表現を変えたくないって答えを出した場合、どうすればいいのさ。ゾーニングとかレーティングとか?」
「それは妥協案に過ぎないし、結局は表現の統制だろう。それらの基準だって漠然としている所が多いし」
じゃあ、どうすればいいんだろうか。
「つまりな、こういう番組は案外“上手くやっている”ってことさ」
含みのある言い方に、俺はその意図を読み取ろうとする。
「……もしかして」
そして、ふと思い至る。
確証はなかったが、俺は恐る恐る尋ねた。
「その入浴シーンに意識を向かせてウヤムヤにしたのは、武器だとかよりもっと問題のある表現を隠すため?」
俺がそう言うと、父は淀みなく笑った。
「はは、そんなわけじゃないか」
俺の指摘がなんであろうと、そう答えるつもりだったんだろう。
もしかしたら俺たちが気づいていないだけで、あのアニメには“問題にならない問題”が他にもあったりするのだろうか。
その答えに迫られたとき、俺はどう言えば“問題ない”のだろうか。
俺は父にもうひとつ尋ねた。
「結局、父さんはどう思っているのさ。彼らのクレームはくだらないと思っているのか、汲み取るべきところもあると考えているのか」
「息子よ、物事は0か1かじゃない。YESかNOだけではないんだよ。善良な意見に耳を傾け、頷きながら、暴力的で性的で低俗な表現をし続ける。本当の意味での“自由”はそういうことなんじゃないかな」
それって、つまり突っぱねているのと同じなんじゃないだろうか。
俺が言い表せないモヤモヤとしたものを抱えていると、弟の声がテレビのある方向から聴こえる。
どうやら『ヴァリオリ』を観ているようだ。
主題歌を口ずさんで楽しそうだった。
なんだか腑に落ちないところはあるが、弟が以前のように楽しんで観られるのなら、まあ良いかってことにしよう。
会員その2:開き直った感じですな
会員その3:ここにきてイセカとリ・イチの武器が復活かあ
会員その4:今回のヴァリオリ、作画すごーい。シューゴ監督が作監も兼任してたらしい
会員その1:いや、そこじゃなくて。入浴シーンですよ
会員その3:は? そっち? >>会員その1
会員その1:性的搾取の最たるものですよ。それをあんなコメディチックなノリで......
会員その2:いやいや性的搾取って。そのシーンは湯気で見えにくくなっていましたし、キャラクターも全員タオルや湯あみを着けていました。全くエロくなかったでしょ >>会員その1
会員その1:あのですね。単純な肌色の割合は表面的な問題に過ぎないんですよ。入浴シーンそのものが、性的搾取の温床なんです >>会員その2
会員その3:肌色の割合だけで判断するなってのは分かるにしても、それであの入浴シーンが問題だって考えは極端すぎるだろ >>会員その1
会員その4:個人的には、濡れた湯あみが肌に張り付いているほうがエロいと感じるタイプ
会員その2:今、そーいう意見は求めていません >>会員その4
会員その1:もしも入浴シーンを描写するのなら、肯定的に表現するのはダメです。批判的視点が足りないのは問題ではないでしょうか
会員その2:同意しかねますね。そもそも我々が問題としていたのは凶器の是非についてでは? >>会員その1
会員その3:何言ってだコイツ。暴力描写と性的描写が同じって、どういう思考回路してんだ >>会員その1
会員その1:脊髄反射で反応しないでください、>>会員その3さん。全く同じとは言っていません
会員その3:じゃあ同列で語ろうとしてんじゃねーよ。こっちからすれば、あんたの方が脊髄反射で反応しているように見えるがな >>会員その1
会員その2:まあまあ、建設的に行きましょう。同列で語るべきかはともかく、問題意識そのものは汲み取るべきですから。程度の問題というのは中々に意見が一致しないものです
会員その1:程度の問題じゃありませんよ。女性が性的搾取されてきたという、現実社会の背景を踏まえたプリミティブな問題です。こういった表現が女性蔑視を助長するかもしれない
会員その3:女性代表ヅラしてんじゃねーよ。つーか、まさか女性の入浴シーンだけ問題視してんのか。じゃあ男の入浴シーンの方は問題ないってわけか? >>会員その1
会員その4:円盤の方では湯気なくなるのかな。できればヌレスケ乳首券を所望す
会員その1:議論の邪魔なので、自重してくれませんか >>会員その4
会員その2:現実問題として、男女が全く同じ扱いではないことは否定しません。でも、だからといって入浴シーンそのものがダメ、描くなら批判的視点を、というのはさすがにどうかと思うのですが >>会員その1
会員その1:そんなことはありません。むしろ片方だけを問題だと認識しているのが、私としては疑問です >>会員その2
会員その3:お前だって男女で区別してんじゃねーか >>会員その1
会員その4:円盤買うなら5枚は買わないとな。観賞用、鑑賞用、保存用、普及用、炎上したときに破壊する動画撮る用w
会員その3:マジで黙れ >>会員その4
会員その2:僕はどの表現も全面的に肯定しているわけではありません。ただ、件の入浴シーンについて問題のない範疇の表現だと思っているんです。何度も言いますが、これは程度の問題です >>会員その1
会員その3:は? ちょっと待て。入浴シーンは問題ない範疇で、凶器については問題のある範疇だと思ってるってことか >>会員その2
会員その2:そうですよ。あなたも本編を見たんだから分かるでしょ >>会員その3
会員その3:それはお前の感想だろ。共有されていない前提を持ち出して話を進めるなよ >>会員その2
会員その1:ほら、程度の問題で語ろうとするからそうなるんです
会員その3:いや、お前の考えも怪しいと思っているんだが >>会員その1
会員その1:やれやれ、女性に対する社会での不当な扱いへの認識が甘すぎます。こういう部分から改善してこそ、女性の立場改善に繋がるというのに……
会員その2:え、そういう趣旨での議論の場でしたっけ >>会員その1
会員その3:ちょっと待て、なんだか変だぞ。会員その1みたいなタイプ、覚えがある......
会員その4:ラディカル・フェミニストじゃないの?
会員その3:ああ、それだ! ちくしょう!
会員その2:なんてことだ。僕はラディカル・フェミニストと真面目に議論してたのか......
会員その1:その態度は失礼ではないですか? >>会員その2
会員その2:ああ、失敬。別に偏見があるわけではないんですが、宗教、政治、ラディカル・フェミニストとは一定の距離感を保つのが我が家で代々伝わる家訓でして。というわけで、あなたの考えは尊重しますが、僕はこれで退散しますね >>会員その1
会員その3:つーか解散だわ、この集会。俺もおいとまするわ。一般的なフェミニストならまだしも、ラディカルの相手は荷が重すぎる
会員その4:お、スタッフロールを見返してみたら、作画のほうにもシューゴ監督の名前があった。働きすぎぃ!
会員その1:......まさかこんな形で集会が崩れるなんて......
会員その4:あれ、いつの間にか皆いなくなってる。じゃあ、小生も抜けよっと
父たちの対策は見事に当たった。
今回のエピソードによって、クレームを言っていた派閥の中で意見が大きく割れたのだ。
「これは問題だが、こっちは問題じゃない」、「いや、どっちも問題だ」、「ここまでは問題だが、そこまでは問題じゃない」、「いや、どこまでも問題だよ」……
奇跡的に統一されていた意見は、たった一つの新たな表現が割り込んできたことによって瓦解した。
そして意見が統一されなければ、それはもはや個人の効力しか持たない。
それが暴かれたことで我に返った者、積極的に行動するほどの価値がないと感じた者、事情はよく知らないけど周りが騒いでいるから何となく意見を表明したかった者。
様々な人たちが散り散りに去っていき、最終的に残ったのはいつも通りのクレーマーだけとなったのだ。
こうして抗議の声が小さくなり、親会社もスタジオに対してほとんど効力のない要望を出す程度に落ち着いた。
度重なる押し問答の末、シューゴさんはとうとう爆発した。
「もういい! もうたくさんだ! こんな曖昧な基準で、表現が統制されてたまるもんか!」
「ワガママを言わないでください。社会にとって害悪なものは統制される。それが今回はアニメだったというだけの話じゃないですか」
「俺から言わせればな、普遍性のないボーダーラインを大義名分に、表現を統制しようとすることこそ害悪でありワガママだ」
「上等だ! 奴らが文句を言うのはもちろん自由だ。だが、オレたちにも同じくらい尊重すべき自由がある!」
シューゴさんは頑なだった。
「自分にとって不都合な影響を与えたくなくて、躾もロクに出来なくて、その責任をオレたちに擦り付けるしか出来ない。だったら、いっそ何もない家に一生閉じ込めておけ。それが一番確実で健全だ」
「なぜ自分と同じ物差しを、誰もが持っているべきだと思いあがれる? よしんば持っていたとして、同じ物差しで同じ場所に、同じように線を引くとでも思ってんのか。それを踏みこえてはいけないと、なぜ言い切れる?」
父もフォンさんも溜め息をつくが、どこか安堵もしていた。
シューゴさんほどではなかったが、二人とも今回の対応に不服であったのは同じだったからだ。
どこかでシューゴさんが突っぱねてくれることを期待している節があったのかもしれない。
そして、放送後……
「シューゴさん、苦情が……」
「変える気はないぞ。主人公たちの武器はこれまでと同じ、人間相手にもバンバン使っていく」
「いや、今回はそこじゃなくて……」
「ん? どういうことだ?」
「『入浴シーンがセクシュアル的でよろしくない。青少年の健全な成長に悪影響を与える!』……とのことです」
それを聞いたシューゴさんは大げさに笑って見せ、父は白々しく「あちゃ~」と言いながら頭を抱えた。
「わっはっは。あ~そっちかあ~」
「というか暴力表現に関する苦情はどうしたんです? 今回はアクションシーンが派手だったから、いつもより来ていると思ったんですが」
「恐らく、入浴シーンのほうが気になったんでしょう。性的描写の方を問題視する人って多いですから」
「性別関係なく湯気をこれでもかってくらいつけているんですけどねえ。作画の手抜きを湯気で誤魔化しているんじゃないかって疑われるレベルで。更には放送局がそこに雑な修正まで入れてるほどなのに」
「一番スケベなこと考えているのは子供より、そいつらの方なんじゃねえか?」
「また、そういうこと言う……それに暴力描写と性的描写は別物ですから、判断基準も変わってくるのは当然ですよ」
「どちらも表現の一形態だろ。これは良くて、これはダメ。ここまでならOK、これ以上はNG。それを区別する境界線を誰が、どうやって決めれば正しいんだ」
「それは私も分かりませんが、彼らの主張自体は理解できるでしょう。これはTPOに基づいた、妥当性の問題です」
「その“T”と“P”と“O”とやらを、それぞれ具体的に考えたことあんのか? そんな状態で妥当性なんぞ共有できないだろう。基準が曖昧なままなのに、主張に汲み取るべきところがあるからと受け入れていったら、雰囲気だけで規制できてしまうぞ」
「そうです。都合のいい言説を振りかざしているだけです。主張の内容はそれっぽいことを並べてはいても、象徴的だったり抽象的なものの域を出ていない。とどのつまり恣意的に判断しているのを誤魔化しているわけです。それで表現が統制されるべきとは思えません」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私たちも上から通達が来たから業務上やってるだけで、それが本当に正しいことか分からなくても、やらないといけないわけですし……」
「ああ、そもそも上の指示に大人しく従ったのがケチのつき始めだったよな。それで安易に変えてしまったら、他の表現も次々とその対象になる。クリエイターを抑圧し、萎縮させて、風当たりだけが強くなっていき、虚構のディストピアが出来上がるわけだ」
「そうして世間の目が矯正されれば、今までは全く問題視されていなかった表現まで規制の対象と認識される。事例や風潮の積み重ねが基準やエビデンスを形作るなら、なおさら現状にNOを突きつけるべきなんです」
この時フォンさんはかなり戸惑っていたようだった。
目の前の問題から目を背けて、二人が不平不満を言っているだけのように見えたからだ。
「二人とも、検閲そのものの是非はともかくとして、結局何らかの対応はしないと……」
「それなら大丈夫だ。今回のエピソードでお上からの指令は来なくなる」
「え、どういうことです? むしろ余計に悪化しそうな気がするんですが」
「“自由の応用”・・・・・・?」
「オレたちは表現の自由を不可侵の聖域だとは思っちゃいない。なぜなら表現の自由は、言論などの“自由”も包括しているからだ」
意見を肯定するか、否定するか、スルーするかという選択はできる。
だが都合の悪い意見そのものを失くそうと黙らせるのは矛盾した行為だという。
「ではどうやってこの流れを止めるというんです」
「直に分かりますよ、フォンさん」
父たちは作り手だからこそ、表現の自由に構造的な欠点があることを知っていた。
それはつまり、“その他の自由”にも欠点があるのを知っているってことだ。
こうして謎のワンシーン挿入が巷で物議を醸すなか、シューゴさんや父たちは会議を開いて修正案をひねり出していた。
「当分はあのカットで対応するとして、これからの内容について考えていきましょう」
「ご意見の傾向としては、ヴェノラとリ・イチの武器に関しては苦情はきていませんね」
「まあ、あいつらは魔法とか超常現象とかだからな。真似したくて出来るものでもない」
「そうですね。チョウナ・ブーメランを使うイセカと、弓を使うウロナをどうにかしましょう」
「具体的にはどうするんだ。あいつらのメイン装備だぞ」
「そりゃあ~やっぱり人に向けたら危ないとかで色々理由をつけて使わせないように……」
「アホか! 武器は人に向けて使うもんだろうが! あいつらは戦うために旅をしているんだぞ。物語の根本から崩れるわ!」
「それですらファンから不満が出そうだが……まあ、代替案だけでも聞こう」
「なんだそれ?」
「イセカの新武器だ。これなら危なくないだろ?」
「ウィンナーが?……まあ、チョウナ・ブーメランよりは危なくないけど……」
「ハッハー、くそダセぇ!」
「『私はヴァリオリのことが好きですが、食べ物で遊ぶのはどうかと思います』という苦情が……」
「まあ、ぶっちゃけ食べ物武器ダサかったから、変えられるのはよかったがな」
「たとえば?」
「……緑色とか?」
「あんたの血は何色だ。それに色を変えようが血であることは変わらんだろうが。なんで血の色を変えたらセーフになるんだよ」
「“ホモ”みたいなものですよ。ホモセクシュアルは同性愛者を指す言葉ですが、略語のホモは社会通念上は差別的と認識されています。なので言葉の定義としては問題なくても、ゲイやレズとか、或いはより厳密な表現を用いるのが善いってことです」
「フォンさん。共通点の少ない別事例を例えに持ち出すのは、ただの詭弁だぞ」
「でも何となくは伝わるでしょう」
「フォンさん。ただのレスバトルで是非を問うならともかく、俺たちは表現をダイレクトに作品に反映させないといけない。これはそのための会議なんですよ」
「失礼しました……では真面目な提案をすると、こういうのはどうでしょう?」
「いくぞ、木の棒!」
「次は、何の新武器の真似事?」
「見ての通り、木の棒だよ」
「は? 実際のアニメでも、そんな棒切れで戦ってること?」
「ダサいよな」
「そういう話をしているんじゃない!」
「どういう話なんだよ」
「『私はヴァリオリが好きですが、前回の放送内容については問題があると考えます。木の棒はそこら辺に転がっており、子供が簡単に真似できてしまうので危険』という苦情が……」
「そのクレーマー、毎回『ヴァリオリが好きです』だとか前置きを置くが、すげえ嘘くせえ」
「一通り踏まえてみると、暴力描写そのものが駄目ってことらしいですね」
「はあ!? そいつ、そもそも本作をちゃんと観ているかどうかすら怪しいんだが。こんな本作の根本から変わるような提案をしてくるか?」」
「はいはい、要は危ないものですよってのも含めて伝えればいいんだろ?」
「どうしたんだ、シロクロ。そんなに怯えて」
「ああ! 木の棒が! 木の棒が!」
「何をそんなに怖がっているんだ?」
「みんな逃げろ! 木の棒が爆発する!」
「え? どういうことだ。ひょっとしてただの木の棒じゃないのか!?……って何も起きないじゃないか」
「『必要以上に怖がらせる表現は子供にトラウマを与える。あ、あと私はヴァリオリが好きです』……とのことです」
「ああ、もう! “必要以上”ってどの程度だよ。そもそもアニメ自体が余剰なもんだろうが」
「あれも駄目、これも駄目。じゃあ何だったらいいんですか」
「それはオレに対して言うセリフじゃねえ。もとからこの修正案自体に反対だったんだよ」
「今さらそんなこと言わないでください。不服でも従うって言ったじゃないですか」
「それでこのザマだから言ってるんだよ」
シューゴさんの怒りは爆発寸前。
そのピリつきはスタッフたちにも伝染し、この時の現場の空気は最悪だったらしい。
「ですが厳しいものがありますよ。イセカもウロナも設定やキャラクターってものがありますし」
「もうイセカとウロナをリタイアさせるか?」
「これまで斧や弓で戦ってきたキャラが、お花畑な理由でダサい武器を使っているほうがファンは怒るわ」
「おーし、今週も始まったぜ」
俺はこのアニメには大して関心がないが、15歳以上の人が同伴しないと観てはいけないことになっている。
そんなことを律儀に守ろうとしているのは子供も大人も一握りだと思うのだが、いかんせん身内がこのアニメのスタッフなので体裁を保たなくてはいけない。
弟はテレビのこの文言が聞き飽きたらしく、茶化し気味にセリフを真似て遊ぶ。
形骸化した注意事項は、子供たちにとって朝礼での校長みたいなものだ。
『あと……』
「あれ?」
だが今回はいつも違っていて、その後に更にセリフが続いていた。
『この作品に登場するキャラは武器を使って戦っているけど危ないので、良い子も悪い子もその両方を持ち合わせている子も真似しちゃ駄目です』
それを観た弟は、真顔でしばらく固まっていた。
俺もどう反応するべきか戸惑っていた。
CMに入ると、弟はやっと我に返った。
そんなこと、俺に聞かれたって困る。
「まあ、要はアレだ、アレ……ゾーニングだ」
実はよく分かってない。
「だが、いずれにしろ語るべき点は変わらないだろ? セーフかアウトかだ」
「セーフかアウトかの具体的な基準なんて知らねえぞ。どこまでがセーフで、どこまでがアウトなんだよ」
知らねえよ。
俺もこんなことをして意味があるのか疑問は湧いてくる。
俺は弟をなだめて場を凌ぐために、どこかから借りてきた言葉を織り交ぜて説くしかなかった。
「えー……ともかく、子供が真似したら危ないってことで、その注意喚起なんだよ。万物は大なり小なり影響力があるから、配慮をしなくちゃ」
「そんなの、わざわざ言われるまでもないことだろ」
「自分中心で物事を語るもんじゃあない。お前はそうじゃなくても、この世のどこかにいるんだよ」
「言われても言われなくても、やる奴は結局やる。そして、それはそいつがバカなだけだ!」
「弟よ。お前が思っているより、子供ってのは未熟なんだ。お前の言うとおり子供がバカなせいだったとして、その責任を当人は取りたくても取れない」
当然、ここでいう“大人”ってのはアニメを作る側と、そのアニメに対してクレームを言う側両方だ。
だが、弟にそこまで説明すると話がこじれそうなので省略した。
「そんなもん保護者が躾れば済む話だろ! なんなら他人でもいい」
弟の疑問は俺には荷が重過ぎる。
子供は黙ってアニメを観ているか、黙ってアニメを観ないかのどちらかなので、俺の立場から言えることは少ない。
仕方がないので適当にそう答えた。
「なんだそりゃ、アニメを親だと錯覚しているとでも? まるで野生児だな」
俺の中では一応の筋は通っていたつもりだったが、予想外に弟のカンにさわったらしい。
俺は慌てて訂正しようとする。
「おい、悪意のある拡大解釈はやめろ。俺の友達には、親の顔よりスマホを見ている奴が数人いるが、スマホに育てられたと思っている奴は一人としていないぞ」
「そうなんだ、どうして?」
アニメキャラを模したグッズに対して似たようことをしている友達もいるんだが、話がややこしくなるので省略した。
あと、会話の内容が本題から逸れていっているような気もするが、弟が何も言ってこないのでそのまま話を進めた。
そうして何とか凌いでいた時に、CM明けという助け舟がやってきた。
「ほら、もうすぐ始まるぞ」
助かった。
やれやれ。
出来ればアニメを観ている間に、俺の言ったことも含めてすっぱり忘れててほしい。
俺たちがこんなところで口論をしても大して意味はないんだから。
主人公たちの使う武器が凶器、子供が真似すると危険だと苦情が来たのだ。
父たちはその対応におわれていた。
「『私はヴァリオリが好きです。だが、ああ、なんてことだ。登場人物たちが凶器を持っている。青少年の健全な成長を妨げる。これはよくないことだ』とのことです」
同僚のフォンさんが苦情内容の一部を読み上げる。
一見すると尤もらしいことを並べてはいるが、その実は抽象的なテーマに対して恣意的な判断を下しているに過ぎないことは見え見えだったからだ。
それでも厄介なのが、このテーマについて知らない人間からすれば“それっぽい”と思える程度のレトリックは使われていることだ。
「的確ではないが間違ってはいない」要素を抽出し、それを根拠に自分の主張と織り交ぜてロジカルに語れば、いちゃもんは“一つの立派な批判”になる。
無視したいのに無視するわけにもいかない、非常に目障りな存在となるわけだ。
「そうだな。言論そのものは自由だ。そして、その内容をオレがどう解釈するかも、な」
「して、結論は?」
「その意見は自身の好悪の問題を善悪と混同している。それを正論に摩り替えて、意見を押し付けてくるばかりの頭でっかちな輩だ」
シューゴさんの吐く毒がいつにも増して強い。
ことあるごとにこういった“ご意見”がきていたためウンザリしていたからだ。
「まあ、いつもどおり“前向きに検討”しておけばいいんじゃねえの?」
社会における“検討”というものは、得てして結論とはさして関係がないことは周知の事実だ。
シューゴさんの立場から見れば、その意見がいくら論理的に見えても、そもそもの“目的”が同意しかねるものなのだ。
その意見を「一つの批判」として了承し、真面目に取り合うこと自体が思う壺だと判断したのだろう。
そうして、今回もシューゴさんたちはスルーを決め込むつもりだった。
「それが……今回は随分と大事になりかけていて、非常に面倒な状態に。“上”の数名からも『ウゼェから何とかしろ』とお達しが」
「は~ん……」
フォンさんの濁しつつも含みのある言い方に、シューゴさんは何となく察したらしい。
この時期、裏では『ヴァリオリ』の表現を問題だと思っている人間たちが徒党を組んで、親会社に直訴していたのだ。
それに耐えかねた会社の代表は、とうとう父たちのスタジオに通達を出したのである。
「不服ではありますが、こうなるとガン無視というわけにもいきませんね……」
「そうですよ。それに一番困るのは、そんな理由で親が子供たちにアニメそのものを見せないようにすることです」
「“子供のことも考えて”か。そのセリフを言うのはいつだって一部の大人だよな」
しかし子供を盾にされると、さすがのシューゴさんもバツが悪い。
シューゴさんの両親は厳格な人物で、そのため彼は少年時代を娯楽に飢えて過ごさざるを得なかった。
その経験から、親の理想で子供が犠牲になることほど悲しいものはないと思っていたのだ。
「……ちっ、分かったよ。もめ事が起こると疲れるだけだから、とりあえず従っておくか」
シューゴさんは作り手として、多少の批判を恐れていてはモノ作りなんてできないと考えていた。
それを汲み取りたい気持ちは父やフォンさんにもあったが、上の声が大きくなったときに無視とはいかないのが企業の常だ。
大人しく従ってくれるシューゴさんにホッとしたと同時に、彼の鬱屈とした想いが手に取るように分かることもあって父は複雑な気持ちだったらしい。
「では早速対応……と行きたい所ですが、スケジュール的に数話分の大幅な修正はもう無理ですね」
「そうですね。なのでオープニングの前に、ひとまず“あのカット”を挟みましょう」
「うげえ……“アレ”かよ」
おっと、変なボケはやめてくれよ。
時には明確に可視化されず漠然としていて、統一されていないことも多い。
じゃあ、もしも抽象的なテーマに対して、そんなことをしてしまったらどうなるか。
今回はそんな感じの話だ。
以前どこかで話したが、俺たちの町では『ヴァリアブルオリジナル』というアニメが流行っている。
深夜放送から人気に火がつき、ゴールデンで放送するほどになった。
だが、必ずしも良いことばかりではなかった。
本作はバトルもありのシリアスもありの作品だったのだが、深夜放送のままの表現では難しいと上から判断されたのだ。
例えば暴力表現はなくなり、容赦なく死んでいた登場人物たちも敵味方モブ含めて全く死ななくなった。
そのほか、登場人物達の言動もかなり抑え目なものとなり、ビジュアルもかなり変わっている。
あと国際色豊かになったらしい。
……異世界が舞台であるファンタジーもので「国際色豊かになった」って言われてもピンとこないが。
それに元あるものをわざわざ変えてしまうというのも、別の意味で冒涜的な気もするんだがそれはいいのだろうか。
第1シーズンからのファンである友達は、放送当時かなり落胆したとボヤいていた。
そんなことをスタッフの一人である父に言ったら、「不自然な修正を後で追加される位なら、文句を絶対に言われないレベルにしてやろうとしていた」らしい。
まあ何はともあれ様々なものに配慮したアニメなんだなと俺は認識していたが、それでも問題が浮上しないというわけではなかった。
弟いわく、友達のシロクロが発端だという。
シロクロも『ヴァリオリ』に熱中しており、よく自分の住まいでごっこ遊びに興じていた。
こいつはお世辞にもごっこ遊びが似合うようなナリではなかったが、まあアニメをどう楽しむかにそんなことは関係ないよな。
「くらえ、チョウナ・ブーメラン!」
「ああ、そういえばそんなアニメあったね」
「何だかすごく危なそうだけど」
「あー……シロクロ? 居候の身であるボクが偉そうなことはあまり言いたくないんだけど、イミテーションだからって人に向かって投げるのは自重してくれよ。特にボクには」
「そういう話をしているんじゃない」
「どういう話をしているのか分からないが、まあ分かったよ。じゃあ、ウロナの武器で遊ぶ!」
「ウロナってのも『ヴァリオリ』のキャラ?……って、それ弓じゃないか!」
「ただの弓じゃないぞ。こうやって足で固定できるんだ。すると両手で弦を引ける。すごい勢いで放てるってわけだ!」
「おい、だからボクに向けるな!」
「矢尻は吸盤だぞ?」
「だから、そういう話をしているんじゃない!」
「どういう話だよ」
だが、この状況を微笑ましいと感じない人間が出てくる。
手の平を表に見せて こんな感じで
空を仰ぎ見たり たまに手拍手
明るくいきましょ 盆踊り
弟たちの踊りは洗練されたものではなかった。
曲調もアレンジされているものの、要は盆踊りで流れているタイプのそれだ。
振り付けも目新しい要素はない。
だが弟たちのひたむきな感情を読み取るにはむしろ丁度良いものであった。
弟たちは笑顔を終始たやさず、有り体に言えば“楽しそう”だったのだ。
そして“楽しそう”は伝染しやすい。
観衆は弟たちの踊りを真似て、次々に踊りだしたのだ。
そのとき漂っていた独特な雰囲気は凄まじく、俺までつられそうになるほどだった。
何より弟たちは最後の組。
余韻が残ったまま結果発表となるわけだ。
俺とカン先輩のダンスが記憶に未だ残っている人は少なく、弟たちの優勝は日を見るより明らかであった。
夏祭りもいよいよ大詰め。
さっきまで踊っていたのに、よくあんな体力が残っているもんだ。
『積極的に騙されることで人は楽しもうとする』と。
そして“楽しんだもん勝ち”だと。
元から気乗りのしなかった俺が勝てないのは道理ってことなのかもしれない。
それにしても、ダンス大会で勝って上機嫌かと思いきや、どうも弟の太鼓が荒々しい気がする。
やはりダンスの疲れが残っているのだろうか。
「あの子、賞金をくじびきに全部つかっちゃったの」
紙袋の中身は見えないが……恐らく弟のハズレ景品ばかりが入っているのだろう。
「はあ~ん、くじびきの方が儲かりそうやな。次回はそれにしよ」
カン先輩から言わせれば、弟のあれも“楽しんだもん勝ち”ってことなのだろうな。
ただ、そのような“勝ち”で何かを得られる人間は、同じくらい何かを失いやすい性分なのかもしれない。
俺はそんな“楽しんだもん勝ち”から搾……勝てる人間になりたいと思うのであった。
俺たちはダンス会場に赴いた。
盆踊りではなくダンスなのは、「時代錯誤だ」という一部の若者の意見を主催者がバカ正直に受け取ったかららしい。
そんな調子で突発的に作られたイベントなものだから、ルールが所々ユルい。
優勝を決めるらしいが、評価基準が「一番盛り上がった」でとにかく曖昧。
「一番盛り上がったのが優勝って、その場のノリで決まっちゃうじゃないですか」
賞金は魅力的だが、勝算のないものに時間を割いてもただの徒労だ。
「逆に考えるんや。だからこそ、ワイらみたいな一般ピーポーにも付け入るスキがある」
だが、どうやらカン先輩には秘策があるようだった。
様々な参加者が思い思いのダンスをするが、お世辞にもレベルは高いとはいえない。
老獪なダンス。
流行の曲と振り付けによる既視感バリバリなのにクオリティは劣るダンス。
夫婦でタンゴという、踊っている当人以外誰も得しない、企画の趣旨を全く理解していないダンス。
……ていうか、俺の両親じゃないか。
勘弁してくれ。
「それでは次の参加者。カンさんと、マスダさん。先輩後輩による、アニメーションダンスです。それでは、どうぞ」
テクノポップな曲が流れると、その音に合わせてスローモーションな動きをしたり、体の部位をそれぞれバラバラに動かしたりと奇妙な動きをして見せる。
今までと毛色の違うダンスに、観客も目が釘付けになっている。
じゃあなぜ踊れるかというと、実は俺たちが学校行事で披露した演目の使い回しなのだ。
まだ体が覚えているので振り付けはバッチリだし、ほとんどの観客にとっては新鮮にうつる、というわけ。
周りが大した練習もせず何となく参加している中、入念に作られたプログラムで踊るのだ。
勝負は目に見えていた。
……酷い茶番だ。
俺はこんなところでいったい何をやっているのだろう。
……ふと、そんな思いがよぎって、集中力が削がれたのがマズかった。
「おい、マスダ、寄りすぎや!」
とっさに身をよじって何とか避けるも、そのせいでバランスを崩して俺は盛大に転倒してしまった。
慌ててアドリブで誤魔化すが、曲から外れた動きであることは明らかであり、失敗を取り返せるものではない。
観客の反応はそれでもよかったが、やや尻すぼみな結果であることは否めなかった。
「すいません」
「まあ、ぶっつけ本番やったし。しゃーない。それに、この参加者たちのレベルからして、多少の失敗を加味してもウチらの優勝が濃厚や」
気を使ってそう言ってくれているのもあると思うが、実際優勝できる可能性はそれでも高いのは確かだ。
だが俺たちが優勝だと確信するための、決定的な“何か”が足りないという違和感もあった。
ところ変わって弟のほうは、祭囃子に備えて英気を養っていた。
その過程で、自警団キャンプにて母に小遣いをせびっていたのだ。
「母さん、お金ちょうだい」
「小遣いはお父さんから貰ったでしょ」
「出店で全部使っちゃったんだよ!」
「5000円も!? いくら出店の品物が割高だからって、さすがにそれがなくなるなんて……」
「えーと……金魚すくい、スーパーボールすくい、亀すくい、ウナギすくい、ドジョウすくい……」
見え透いた嘘である。
弟の後ろにくっついている仲間たちを見てみると、大量のよく分からない玩具っぽいものを抱えている。
「呆れた。くじびきに使ったの?」
「欲しいものがあったんだよ……」
「よりによってそんなもので散財するなんて……アレは当たるかどうか分からないのに」
「くじびきってそういうものだろ? 分かってるよ」
分かっていない。
母が言っている『当たるかどうか分からない』は、弟が思っているような意味ではない。
だが、それを弟に説明したところで理解できないと思ったので、母は説明を省いた。
仮に理解できたとしても、弟の性格なら面倒くさい事態になることは容易に推測できたからだ。
「ははっ、マスダさんとこの次男は祭りの楽しみ方をよく知っている」
いつもなら悪態の一つはつくタケモトさんも、今日は上機嫌に絡んでくる。
「タケモトさん、よしてください。息子は単にカモにされているだけです」
「なー、頼むよ。最新ゲーム機が当たれば、元がとれるんだ」
母は恥ずかしくて子の顔をまともに直視できなかった。
「……ダメ」
「ケチ!」
「守銭奴!」
「金の亡者!」
「パープリン!」
母は自分の聴覚にフィルターをかけて聞こえないようにしていたのだ。
「まーまー、親の言うことは素直に聞いとけ。ゲーム機なんて買えばいいんだ」
「でも5000円が……」
「店側の立場になってよく考えてみろ。ちょっとそっとのことで高額商品が当たったら、商売あがったりだろ。あーいうのは当たらないように出来てるんだよ。引き際が肝心なんだ。今回は勉強料ってことで割り切っとけ」
そして便利な言葉ってのは、こういう意固地な人間を黙らせるために使われる。
「もーいいよ! 自分で何とかする」
弟はそう啖呵を切ってキャンプ場を後にした。
俺はというと綿菓子作りにも完全に慣れ、カン先輩との雑談のほうにリソースを割いていると言ってもいいほどだ。
「俺としては一向に構わないことなのですが。俺をバイトに誘ってよかったんですか?」
この仕事内容ならカン先輩一人でもこなせただろうし、わざわざ俺を呼んだのが疑問だった。
「仕事ってのは楽できるよう運用することも大事なんやで……というのも理由としてある」
「その他の理由は?」
「夏祭りのイベントは出店だけじゃないってことや。それに参加するにはペアじゃないとあかん」
カン先輩の魂胆が見えてきた。
「優勝したら賞金が出る、とか?」
「察しが良くて助かる。どうせ金稼ぐんやったら、貪欲にいかんと」
「で、イベントの内容は?」
「ダンスや」
なんだか嫌な予感がしてきた。
俺はカン先輩に頼まれて、夏祭りの会場で綿菓子売りの手伝いをしていた。
カン先輩は人格者とは言えないが、俺に労働のイロハを教えてくれた人だ。
多少の恩義は感じているので断れない。
何より、そんな先輩から「ウマい話がある」と言われれば尚更だ。
「マスダよー、つまらん粗探しやめろや。本場でコテコテな喋りするのは少数なんやから」
カン先輩は持ち前の愛嬌で売り子として働き、俺はというと綿菓子を作ることに専念していた。
綿が出始たら、濡らした割りばしをタライの中でクルクルと一定のリズムで回して絡ませる。
ある程度の大きさになったら、ソレを袋に突っ込む。
せいぜい気をつけるべきことは、ほんのりと漂う甘ったるい匂いに頭をやられないようにする位である。
俺はそれを埋めるように、カン先輩に疑問を投げかけた。
「カン先輩、なんで綿菓子がこんなに高いんですか。これ材料は砂糖だけでしょ」
それに出来たての方が美味いのに、わざわざ袋に入れて時間のおいたものを提供するってのも奇妙な話だ。
そんなものに高い金を出して買う奴らがいるのも理解に苦しむが。
「チッチッチ、甘いなマスダ。綿菓子より甘い。お前そーいうとこやぞ、ホンマ」
「どういうことです?」
「物事は、必ずしも本質ばかりに目を向けていて解決できるものじゃないんや」
カン先輩お得意のやり口だ。
自信満々に袋を差し出されて、俺はとりあえず念入りに触ってみる。
「目ン玉ついとんのか。この絵や」
俺の薄い反応にカン先輩は苛立ち、袋に描かれた絵を指差す。
アニメのキャラクターがプリントされており、確か『ヴァリアブルオリジナル』の登場人物だと思う。
「つまり、この袋が高いってことや」
たぶん、それを踏まえてなお割高だと思うのだが、俺はひとまず納得して見せた。
「なるほど。プリントの特注、そしてキャラの使用料というわけですね」
「そ、そうやな。後は綿菓子機のレンタル代とか、ショバ代とか……」
カン先輩の目が泳ぐ。
どうやら、どこかの過程でチョロまかしているらしい。
これは深く切り込んだら面倒くさい案件だな。
周りの出店を眺めてみる。
子供の頃は気づかなかったのか、それともここ数年で様変わりしたのか、阿漕な商売ばかりが目につく。
「何だかすごくグレーなことをやっているような印象が」
俺にとっては至極真っ当な疑問だったが、カン先輩にとっては愚問であった。
やれやれと、溜め息を大げさ気味に吐いてみせた。
「マスダ。こういう所で楽しんでいる客はな、“積極的に騙されている”んや」
「積極的に騙されている?」
「そうそう。夢と希望の国みたいなもんや。愛くるしいキャラたちは実際には着ぐるみで、その中では愛くるしくない人間が汗水たらしとんねん」
「そうや。タネが分かってても楽しめるってことが言いたいねん」
「分かっとるやないけ。つまりはそういうことや。夢と希望なんてもんはな、見たい人間が見れるようにできとんねん」
先輩の言う「積極的に騙されている」っていうのはそういう理屈らしい。
なんだかもっともらしいことを言っているようにも聞こえるが、俺たちがその実やっていることは割高な綿菓子を売っているだけだ。
仮に先輩の言う通りだとしても、人を騙して楽しませる代物としては些かお粗末に思えて仕方なかった。
「この綿菓子袋に、騙されても良かったと思えるほどの夢や希望が詰まっていると? 傍から見ればバカみたいに見えるんですが」
「傍から見てアホだと思われるくらいの方が、楽しんでるって感じせえへん? なんにでも言えることや。ゲームでめっちゃ課金しまくるヤカラおるやろ。ああいうのも積極的に騙されに行ってるから楽しめるんやで」
「楽しもうとする気概が大切、ということですか?」
「そうそう、要は“楽しんだもん勝ち”ってことや」
そもそも勝ち負けで語ることなのか、仮に語るならば明らかに負けていると思うのだが、それ以上は何も言わなかった。
俺たちはそんな人間から利益を得ているので、案外悪い気はしなかったからだ。
俺たちの住む町の中心区。
そこには、そこそこの大きさの神社がある。
だがこれといった縁起のいい話は特になく、ほとんどの住人は何を奉っているかすら知らないし興味もない。
かくいう俺もその一人。
そんな信心浅い住人たちの多い場所でも、年に数回ほど賑やかな場所になる時がある。
例えば夏祭りだ。
秋を知らせるような涼しく穏やかな風が吹き始め、我が家のクーラーを消すかどうか悩み始める頃。
俺たちの住む町の夏祭りは、そんな時期に開催される。
理由としては単純明快で、真夏の夜に人が集まると暑さでおかしくなるからだ。
納涼のために酒を飲みすぎて倒れた人。
いつもと違う雰囲気に飲まれてテンションが上がりすぎてしまい、自警団に倒された人が毎年いた。
暑さは人をおかしくさせ、第10回にはそれらの数が合計で三桁を超えた。
それらが風物詩になることもなく、市長の世代交代とともに第11回以降の開催時期は今のようになったわけだ。
俺は、その頃にはティーンエイジャーになっていた。
そして、以前よりも夏祭りに対する熱が冷めていた。
理由は色々と並べることは出来るが、遠まわしに表現するなら「秋になりかけの夜風がそうさせた」ってことなのだろう。
弟は祭囃子の花形だし、両親は自警という名目のもと他の人たちと飲み食いしながらの雑談。
俺はというと家族に誘われようが、クラスメートに誘われようが、何かと理由をつけてやんわりと断っていた。
しかし、そんな俺も今年は久々に参加することになった。
当然、今まで何かとつけていた“理由”が今回は夏祭りにあったというだけの話なのだが。
そうして映し出された子供の人生のハイライトは......なんというか、“ビミョー”だった。
どん底というほど不幸でもないが、かといって成功や華やかさとは無縁に近い。
「ねえ、ガイド......このアイテムのシミュレートって、どれくらいの的中率?」
「そうだなあ、今回だと75%ってところかな」
100%だと言ってこないだけ良かったと思うべきなのか、それでも高い確率だと落胆すべきなのか。
「ん、どうしたんだい?」
シミュレートのことを知らないノムさん夫妻は、俺たちの沈んだ表情を見て首をかしげる。
結果が何であれ、ノムさんたちにシミュレーションのことは言わないとガイドと約束している。
「もしも、もしもですよ。産まれて来た子供が不幸な人生を歩むとしても、それでも子供が欲しいですか」
「おい、マスダ!」
「未来のことは分からないけど、それでも子供は欲しいかな。幸せになってくれるよう善処するよ」
シミュレートのことを知らないからそう言えたのかもしれないけど、俺たちはその言葉に何だか安心感を覚えた。
「深く詮索はするなって言ったじゃないか。キミはかなり危険な行動をしたんだぞ! あの夫婦の選択が変わらなかったから未来に大きく影響は及ぼさなかったものの......」
帰りの道中、ガイドはご立腹だった。
「しかし彼らの選択も不可解だ。子供が将来幸せになれるか分からないのに、なぜあんな選択ができるんだ。自分達の都合だけで子供を産むなんて、エゴもいいところだ」
俺のせいとはいえ、こうもまくし立てられるとウンザリしてくる。
「子供を産むというのは、その選択をした人間側のエゴが存在する。そのエゴはどう取り繕っても逃れられるぬ。だからこそ、人はより良い未来に子を導く努力をするのではないか。エゴが子を産み、エゴが子を育むのだ」
いつもの調子とは違った、精悍な顔つきに落ち着いた佇まい、まるで別人だ。
そんなシロクロの様子に俺たちは戸惑いを隠せなかった。
「し、シロクロ......?」
不安になったミミセンが、シロクロを軽く小突く。
「ふがっ......アイ! ワズ! ボーン! アイ! ワズ! ボーン!」
すると変な声を出して、あっという間にいつものシロクロに戻ってしまった。
いや、それともさっきのシロクロこそ元の状態だったりするのだろうか。
「エゴこそが原動力......か。なるほど。ボクの時代でも形は変われど、本質は変わらないってことか」
そんなシロクロの突発的な言葉に、ガイドは勝手に納得してしまった。
俺たちはまるでついていけない。
こうして俺たちの“取材”は幕を閉じた。
けど、それでも幸せになれると信じて、前向きに決断することが求められる時もあるのかもしれない。
「こんなに大所帯で、一体どんな用なんだい?」
「学級新聞で夫婦の生活について書こうと思っていまして、その取材をと......」
「へー、そうなんだ。じゃあ、ここで話すのもナンだし中で話そうか」
ノムさんと俺たちは知り合いとすら言っていいのか微妙な関係だったが、訪問すると快く招き入れてくれた。
結婚式でエキストラを雇うくらいだから人見知りかと思ったが、コネがないだけで人と接すること自体は嫌いじゃないらしい。
「突然、押し掛けて、ごめんなさい」
「遠慮しなくていい。来客用の茶菓子が無駄にならなくてよかった」
夫婦どちらもにこやかに対応してくれて、『本来の目的』のために利用するのが申し訳なくなってくる。
だが、ここまで来た以上は遂行しなければ。
「それじゃあ、何が聞きたい? とは言っても、プライベートすぎる話は勘弁してほしいけど」
「はい、では......」
ひとまず当たり障りのない質問をしていく。
取材という名目だからというのもあるが、シミュレートするのに不都合がないか判断するというのも理由としてある。
そうして質疑応答を繰り返していき、打ち解けてきたと感じたところで、俺たちは満を持して本題を投げかけた。
「ではズバリお聞きしますが、近々ご家族が増える予定などは......」
これでも大分ぼかしたつもりで言ったが、それでも気まずく感じるのは俺たちに後ろめたさがあるからだろうか。
「ああ......そうだなあ」
旦那さんは歯切れが悪そうに呟く。
奥さんの反応を窺っているらしい。
「今の生活も落ち着いてきたし、そろそろかなあと考えているよ」
期待していた答えだ。
まさに、シミュレートに打ってつけ。
「そうですか......あ、写真撮ってもよろしいですか。顔は隠しますので」
「ええ、どうぞ」
すると、たちまち画面部分が鈍く光りだす。
俺たちはノムさんたちに見えないよう、画面部分を覆い隠すように覗きこんだ。
ガイドによると、産まれてくる子供の人生のハイライトがいくつか映し出されるらしい。
さあ、鬼が出るか蛇が出るか。
「で、どういうのが調べる相手として向いているの?」
「そう遠くないうちに妊娠する可能性のある人がいいね。その方が正確にシミュレートできるし、未来にもあまり影響はないはず」
サンプルが見つからなかった最終手段に仲間を調べようと思っていたが、そうなると事情は変わってくる。
「じゃあ、俺たちの両親が身近かなあ」
自然な流れから来る判断だったが、仲間たちの反応は芳しくない。
「私もそれは考えてたけど......なんか嫌」
「僕も。上手く言語化できないけど......」
ドッペルは何も言わないが、こちらから目を逸らしたので同じだろう。
シロクロは両親がいるのかすら分からないし。
俺の母さんはいうとサイボーグ化が進んで、今はもう子供は産めないし。
「できれば、まだ子供が一人もいない夫婦のほうが未来への影響も少なくていいと思うよ」
それをもう少し早く言ってくれればよかったのに。
といっても、そんな丁度よくいたかなあ。
記憶の中を探索する。
過去をたどっていく。
そして、意外にもそれは早く見つかった。
「そんなこと言わずにさあ」
だが、兄貴の答えは芳しくなかった。
俺は兄貴の側に近寄ると、耳打ちする。
兄貴の表情が途端に険しくなる。
以前、兄貴はバイトでノムさんの結婚式にエキストラとして参加した。
「おい、お前には口止め料をやっただろう」
「あの時、兄貴は言ったよね。『なあに、安いもんだ』って。つまり、俺はもう少し貰ってもいいってことだ」
俺はわざとらしく笑って見せるが、兄貴の表情はより険しくなる。
妙な緊張感が漂うのを感じた。
兄貴は大きく深呼吸をすると、住所の書かれた紙切れを俺に渡す。
どうやら、気づかないうちにメモしてくれていたようだ。
「いいか。この話は今回で終わりだ。次に口にしたら......具体的な案は後で考えておく」
俺は二つ返事でその場を後にする。
あの様子だと、次にまた話題にしたら本当に容赦してくれなさそうだな。
「覗き見る、って一体どういうメカニズムなの?」
俺たちは顔を見合わせる。
ミミセン以外は真顔。
つまり関心のないことを示していた。
ミミセンには気の毒だが、俺たちはチームなので多数決にさせてもらう。
ということで、顔を横に振ってみせた。
「本題だけでいい」
「やっぱりね。実のところ、未来に大きな影響を及ぼすから教えられないんだ」
だったら、なんで聞いたんだ。
兄貴はガイドのことが嫌いらしいが、何となくその理由が分かってきた。
「じゃあ、本題だけ説明するね。このアイテムを、将来子供を産むかもしれない人に向ける。そしてボタンを押すと、その子の人生をシミュレートした映像が流れるってわけ」
「私、質問だけど、『将来子供を産むかもしれない人』ってのは妊娠している人ってこと?」
「妊娠していない状態のことだね。ボクの時代では妊娠したら絶対に産まなきゃいけないから、その段階で調べても手遅れだし。もし調べないで妊娠してしまった場合は犯罪なんだ」
俺たちの時代にも似たような決まりはあるが、ガイドの言うそれはより徹底しているようだ。
それにしても、事前に将来を調べないと犯罪になってしまうって、すごいな。
「その子がより幸せになれる環境で、しっかりと教育されるさ。かくいうボクも実の親には育てられていないしね」
さらりと説明されたガイドの生い立ちに、俺たちは驚きを隠せない。
「実の親から引き離されたってこと!?」
「気にする必要はないよ。さっきも言った通り、ボクの時代では血の繋がりは重要視されていない。人口の半分以上がボクのような存在さ」
「人口の半分!?」
「そんなにおかしいことじゃないだろ。産まれてくる子自身は、生殺与奪の権利を行使できない。だから大人が責任を持たなくちゃいけない。子供の将来がかかっているんだから厳正でなくちゃ」
ガイドの言うことにも一理あるように思える。
けど、どこかで俺たちはそれを納得できないでいた。
肯定するにしろ、否定するにしろ、俺たちには知見が足りなかったんだ。
「ねえ、そのアイテムを使ってみてもいい?」
決して興味本位だとかじゃない。
「え?......うーん......」
アイテムを乱用して、未来に影響を及ぼすことを危惧しているのだろう。
だが、このままでは引き下がれない。
ちょっと吹っかけてやろう。
「あれ~? そんなに渋るのは、ひょっとしてそのアイテムは偽物ってことなの?」
「え? 違うよ、本物だって!」
仲間たちも俺の思惑を読み取って、同調する。
「本当かな~?」
「証明できないなら、ガイドが未来から来たっていう信憑性も薄れちゃうよねー」
「分かった、分かったよ。ただし、ボクの監督のもとアイテムを使用すること。出来る限り未来に悪影響を及ぼさないようにしないといけないからね」
俺の住む町には変人が多い。
身近なところでは、使い勝手の悪い超能力を持っているタオナケ。
いつも耳栓をつけているミミセン。
変装が得意なドッペル。
分かるのは白黒のツートンカラーの服装を好むことと、俺たちの仲間であるということだけだ。
そして類は友を呼ぶってヤツなのか、そんなシロクロの住まいに最近新たな変人が加わった。
その人物は自分をガイドと名乗り、未来からやってきたと言っている。
風貌からして"それっぽい"し、不思議なアイテムをたくさん持っているし、俺は本物だと思うんだけど大半の人は信じない。
兄貴いわく「どちらにしろロクでもない奴だから、いたずらに関わるな」ということらしい。
その日も仲間たちとシロクロの家で遊んでいると、ガイドは何かをせっせとせっせしていた。
俺たちの存在に気づくと、いつも隠そうとするので何をしているかは知らない。
「何してるの?」
「い、いや、キミたちに言うことじゃないよ。どうせ信じちゃくれないだろ」
ガイドはこの時代の世間の風当たりに酷くやられたらしく、軽い人間不信に陥っていた。
それが気の毒に思えて、俺たちは兄貴の忠告を無視してガイドを慰めることにした。
「そんなことないよ。信じるさ」
ガイドにとって、この言葉はよほど堪えたらしく感極まってしまった。
その素直な反応に、俺たちも朗らかになる。
「う、嬉しいよ。キミの兄とは大違いだ」
しかし兄貴のことを悪く言うものだから、そんな気持ちはすぐに引っ込んだ。
仲間たちも兄貴には懐いていたから、ガイドに対して怪訝な表情をしていた。
「身内のことを悪く言わないで欲しいな」
ドッペルが俺の声真似をしてガイドに言った。
代弁するなら、せめて自分の口で言えばいいのに。
「あ......ああ、ごめんね。ボクの時代では、血の繋がりによる関係性はあまり重要視されなくてね」
「そうなの?」
「うん。ボクの時代では、子供は生まれてくる前段階で様々な審査を受けるんだ」
「審査って、どんな?」
「細かく言えば色々あるけど、子供の将来が安泰かを判断するため、ってのが原則としてあるね......あ、そうだ」
それはスマホに似た形をしていたが、やや不格好な四角形になっていた。
「生まれてくることが確定していない段階の子なら、このアイテムで人生を覗き見ることができるよ」
「ミミセン、あえて頭の悪い表現で言ってやる。お前は、自分が悪者になるのが嫌なんだ」
「そんなことは……いや、そうかもしれない」
ミミセンはしゃらくさい子だが、こういう所は妙に素直だ。
今回はそれを利用させてもらうことにした。
「それがダメだとは言わない。人間は大なり小なり、醜い部分を心の中に隠し持っている。なぜ隠して生きていこうとするか分かるか?」
「えーと……社会に順応するため」
また随分としゃらくさい言い方をするなあ。
「まあ、そうだ。だが自分の心が醜いからと目をそむけて、良い人間でいようとしても精神が磨耗するだけだ」
「それは分かるけど、だったらどうするの。あの人みたいに怒鳴り散らせばいいの?」
「そうじゃない。だがな、心の中だけでなら、お前を咎める者はお前以外に誰もいないんだ」
俺がミミセンに説けるような、具体的な答えは持ち合わせていない。
だが、良い人間でいようとすることは決して万能ではない、と説明するくらいは出来る。
「そうか……そうだったんだ。綺麗なところも、醜いところも含めて僕なんだ。僕の心は僕のものだ! ありがとう、マスダの兄ちゃん!」
本当にミミセンは賢いやつだな。
俺の意図するところさえ超えて、勝手にいい感じの解釈をしてくれる。
それから数日後、ミミセンはまるで憑き物が落ちたかのように穏やかな表情をしていた。
「どうしたミミセン。随分と調子がよさそうじゃないか。騒音問題は解決したのか?」
「まあ、解決ってほどではないけどね。今でも耳栓は必要だし。でも前みたいに心を乱されることはなくなったよ」
「聞きたいものだな」
「それを具体的に聞きたいんだが」
「この前、言ってただろ。『心の中だけでなら、お前を咎める者はお前以外に誰もいないんだ』って。説明してしまったら意味がなくなる」
根負けしたのか、バツが悪そうにミミセンは呟いた。
「……赤ん坊は人じゃない」
「……うん?」
「だから赤ん坊を人だと思わないようにしたんだ。同じ人間だと思って、対話や理解してもらうことが可能だとどこかでアテにしているから、自分ではどうにもならないことにまで嫌悪感が増す」
また随分と開き直ったな。
「あれだって同じ人間じゃない。感情的で、理屈が通じない。赤ん坊と一緒さ」
なるほど、そうきたか。
一応、話の筋は通っている。
「難しく考える必要はなかったんだ。何が好きで、何が嫌いで、何が良くて、何が悪いと思うかが重要なんじゃない。ただ“そういうもの”として受け流す」
これによってミミセンの嫌いな雑音ランキングは大きく変動した。
それは赤ん坊を泣き止ませることでもない。
赤ん坊の泣き声に怒り狂う者に、寛容さを説くことでもない。
ただただ受け流すことだった。
ミミセンはそれを、人を人とは思わないことで達成したのだ。
勿論、ミミセンの考え方は褒められるようなものではない。
だが、その実ミミセンは誰も脅かさず、極めて平穏に対処している。
「マスダの兄ちゃん、僕は悪い子かな……」
「ああ、そうだな悪い子だ。だが、悪いことはしていない」
「おい、うるさいぞ! 黙らせろ!」
どうやらミミセンよりも先に耐えられなくなった人間が出てきたようだ。
「はあ、やれやれ」
俺はため息を吐くと、そう言った。
確かに赤ん坊の泣き声は耳障りだが、怒ったところで泣き止むものでもないだろうに。
かといって、あんな大人に説教しても意味がないことも俺は知っている。
事態が余計に煩くなるだけだ。
俺が気になったのは、どちらかというとミミセンだ。
耳当てを押さえつけて、更に何かぶつぶつと呟いている。
「お、おい、大丈夫か」
極端すぎる行動に、俺も心配になる。
だが、そんな俺の声すら今のミミセンには届かない。
そして、とうとう耐え切れず他の車両に小走りで逃げてしまった。
赤ん坊の泣き声もそうだが、それに怒り狂う人の罵声、これもミミセンにとって聞くに堪えない雑音であったようだ。
それが同時に襲い掛かったことでミミセンのキャパシティがオーバーしてしまったのだろう。
俺は心配になって後を追うことにした。
「別に保護者ってわけでもないし、そんなことを俺に言う義理はないさ」
俺が追いついた時には、ミミセンも幾分か落ち着きを取り戻していた。
耳当ても外しており、俺の声を聞く程度の余裕はありそうだ。
「周りの音を気にしないよう、自分の声に意識を集中させていたんだ。最終手段だね」
俺は話を聞いてやることにした。
「僕、嫌なんだよ。赤ん坊の泣き声が。でも同じくらい、それで怒り狂う人間の声も嫌なんだ」
「まあ、それは何となく分かる」
「それでも何とか対処してきたのに……こんなにキツい状態になったのは久しぶりだよ」
「長く生きていけば、似たような状況には何度か遭遇するぞ。バスとかで移動すれば?」
「バスで遭遇する可能性だってある。それにバスはそれ以外の雑音が酷いし、他の車両に逃げることすらできない」
「自転車とかで移動するか?」
「耳栓をつけながらは危ないよ。僕の家から図書館までは距離が遠すぎるし」
俺の言っている程度のことは、耳にタコができるまでもなくやっているだろうからだ。
「音もそうだけどさ、それをツラいと思ってしまう自分の心が何より嫌なんだ。いつか自分も赤ん坊の声に怒り狂って、あんな風に忌み嫌う雑音の一員になってしまうんじゃないかと思うと、怖くて仕方がないんだ。でも、どうすればいいか分からないんだよ」
ミミセンはかなり参っているようだった。
それらに自分の体が帳尻を合わせられず、ギャップに苦しんでいる。
成熟していく過程で折り合いはつけられるものだが、ミミセンは早熟すぎて身体と精神のバランス感覚が狂ってしまった。
このままではミミセンは青い果実のまま腐り落ちるかもしれない。
荒療治が必要だ。
というか正直、こんなところでミミセンにまで泣かれたら俺が困る。
実に安直なネーミングだ。
なぜ普段から耳栓をつけているのか俺が尋ねたとき、彼は「この世には雑音が多すぎる」と答えた。
第3位は工事の音。
上位はどれも自分で根本を断つことができないのがツラいらしい。
そして今回の話は、その2位と1位。
その時に、ミミセンと鉢合わすことが多い。
ミミセンは弟たちと遊ばないときは、余暇を図書館で過ごすことが多いらしい。
「うん…そ…だ…マ…ダ……ちゃん」
恐らく「うん、そうだよマスダの兄ちゃん」と言ったのだろう。
耳栓をつけているにも関わらず、意外にも会話は円滑に行えている。
ちょっと声のボリューム調整が下手くそな時があるのが難点だが。
「たくさんの本がタダで読めて、しかも静かで快適な場所なのに、皆どうして図書館を利用しないんだろう」
「皆が利用すると、たくさんの本が読めなくなって、静かで快適な場所じゃなくなるからだろ」
「ああ、そっか。さすがマスダの兄ちゃん」
ミミセンはしゃらくさい子だが、こういう所は妙に素直だ。
「さすが年長者だね」
「俺はティーンエイジャーだ。年寄り扱いするような表現はやめろ」
「ふえ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん」
耳にしばらく残るような雑音が、不規則に流れてくる。
それが赤ん坊の声であることは音の発生場所を見るまでもなく明らかであった。
相変わらず、赤ん坊の泣き声は耳障りだ。
かといって、それが止めようと思って止められるものではないことを俺は知っている。
気にはなるが、気にするだけ無駄だ。
俺が気にしていたのは、どちらかというとミミセンの方だ。
俺ですら耳障りだと思う音なのだから、ミミセンにとっては地獄のようだろう。
そう思って目を向けると、意外にも落ち着いていた。
彼は耳に栓を突っ込んでいるにも関わらず、そこから更に耳当てをつけて防音体制を強化していたのだ。
なるほど、この程度の雑音は対策済みか。
と思っていたが、それから間もなくミミセンでも耐え難い状況に発展してしまう。
「えー……これは恐らく風邪……」
医者に風邪だと診断された以上、教祖もそう下手なことはいえない。
というか、もし弟が先にこっちに来ていたら「医者に診てもらえ」と言っていただろう。
「は?」
「風邪……風の精霊が体内でイタズラをしています。咳が出るのも、そのせいでしょう」
「じゃあ、俺の熱もそいつが?」
「……その風の精霊を撃退するために、君の体内に存在する火の精霊が奮闘している。その影響でしょう」
「そうです、なので風の精霊を撃退するためには、その火の精霊の手助けをしてやればよいのです」
「手助けって、具体的には」
「火の精霊の力は宿主に依存します。それゆえ体に良いものをバランスよく食べることで助力となるでしょう。手早く吸収できるものが体への負担も少なく、効果的でしょう」
教祖も思いつきで話を合わせているだけだったが、このあたりで興がノってきたらしく、どんどん話を盛っていく。
「他には?」
「えーと……火の精霊の邪魔をしないよう、熱いからといって体を冷ましすぎないこと。体を動かしすぎるのもダメです。反動で火の精霊が出て行っちゃいますからね」
「うーん……あ、水の精霊! 水の精霊に助けてもらいましょう」
「水の精霊?」
「そうです。空間に漂っている水の精霊を増やすことで、風の精霊は動きが鈍るのです」
「どうやったら水の精霊は増えるの?」
「水の精霊の住処となる、止まり木を作りましょう。そうすればその一帯は水の精霊が集まります」
「止まり木はどうやって作るの?」
「え……と……バケツなどの容器に水を入れて、そこに新聞紙などの紙の束を丸めたものを縦にビッシリと差し込んでください。それを室内にいくつか配置するのです」
水の精霊の住処だとか言っているが、まんま簡易加湿器の作り方である。
傍から聞いていると、宗教的な話に無理に絡めようとして、かえって歪になってきているような印象だ。
なぜか弟は素直に聞いているが。
「とはいえ、この時期は空間内の火の精霊も水の精霊も活発な時期ですから、あなたが風の精霊にイタズラされているのは体内の精霊が弱っているのが原因だと思われます」
「……つまり?」
「体を暖かくして、栄養を摂って、寝てください」
「ふーん……って、同じ結論じゃねーか!」
結論というか、それまでの説明も実質ほとんど同じだったのだが、弟は今さら気づいたようだ。
「停戦協定のための手形ですね。宿主の体が精霊たちの戦いに耐えられなくなったときに使います。正確には冷戦に近い状態になりますが」
「えぇ……じゃあ、あんたも似たようなの持ってないの? ほら、免罪符とか、できればすぐに治してくれるやつ」
「いや、免罪符ってそういうものじゃないですし……それに私がやっているのはあくまで布教活動だけで、商売はやってません」
『商売』って表現してしまうとは、教祖のくせにドライな宗教観だな。
「何でやらないの? 宗教とかそういうのやってるでしょ」
「……どうも誤解があるようですが、『生活教』において人々の無知や信仰につけこんで不当な金を得ることは邪教、カルトと同義です。そんなものと同列に扱って欲しくない」
「失敬な。宗教とカルトは似て非なるものです。科学と疑似科学くらい違うものですよ!」
いや、矜持じゃなくて教示か?
母の言うとおりにしたから?
どれでもない。
弟はほぼいつも通り過ごしていた。
弟の思考回路がどのような判断をしたのかは分からないが、「信じられるのは自分しかいない」とか言っていたのでロクなものじゃないことは確かだ。
そもそも信じる、信じないって話じゃないだろうに。
だが、俺から弟に言えることは少ない。
なにせ治ってしまった以上、弟の結論を全否定するのも憚られるからだ。
「結局、治ったのは俺自身のおかげってことかな」
「自分で考えろ」
俺は呆れ気味に弟にそう返した。
結局のところ、弟にとって重要なのは「治るかどうか」ということだけなんだな。
「風邪ですね。まあ体を暖かくして、栄養を摂って、寝てください」
「風邪? そんな馬鹿な。それに、以前かかったときはこんな感じじゃなかった」
弟は納得がいかない様子だった。
医者でもない母と、医者であるこの人が同じ結論であることがおかしいと考えたのだろう。
だが、別に診断が杜撰だったわけではないし、いくら弟が喚いても病気が変わるわけではない。
「症状がツラいなら、お薬出しておきましょうか」
「それ飲んだら治るの?」
「いえ、症状を抑えるためのものなので」
「おい、兄貴、この医者ヤバいぞ! なんで治るわけでもない薬をわざわざ出すんだ」
いまの弟にとって、治るかどうか以外は無価値なようだった。
「そうか。じゃあ、薬は必要ないな」
ここで対症療法薬とその必要性について先生に説明してもらうことも可能だ。
だが俺は弟をなだめつつ、その場をそそくさと後にした。
今の弟にそんなことを説明しても理解も納得もできるとは思えない。
いたずらに体力をすり減らし、病状が悪化するだけだと判断したのだ。
「さあ、皆さん。目を閉じてください。呼吸することを強く意識して。次に自分の成功体験など、快感を覚えた瞬間の姿をイメージしてください」
帰りの道中、あの教祖が今日も熱心に布教活動を続けているの見かけた。
これといって害はないが、「生活教」とかいう変な教えを広めている胡散臭い輩だ。
「おっと、呼吸することも忘れないでくださいよ。愚か者は呼吸することを忘れます」
「兄貴~、あれは何をやっているんだ?」
「まあ……囁きだとか、祈りだとか、詠唱だとか、そこらへんを念じてるんじゃねえかな」
関心すらない俺はテキトーに答える。
「……おや、随分と顔が赤いですね。大丈夫ですか」
教祖は弟と一度知り合ったことがあるらしく、その時と様子が明らかに違うので気になったらしい。
「え、分かるのか」
「へ? ええ、まあ……」
弟はあまり自覚がないようだが、誰が見ても分かるレベルだったからな。
「じゃあ、治してくれよ」
「ええ!?」
「だったら、そうなのでは……」
病気で心身がよほど参っていたらしい。
「いや、私の宗教はそういうのじゃないんですが……」
だが、このままだと弟はいつまでも絡み続けて布教活動の邪魔になる。
教祖はしぶしぶと見てみることにした。
顔もやや紅潮しているように見えた。
これはひょっとすると……。
弟の平均体温なんて知らないが、熱がある……ような気がする。
風邪だろうか。
そこで母にも診てもらうことにした。
サイボーグである母にはいくつかの機能が搭載されているが、その中にはメディカル機能もあった。
どういう構造なのかはよく分からないが、俺はこの機能にお世話になっているので信頼性は高い。
「……風邪ね。体を暖かくして、栄養を摂って、寝ておけばすぐに治るでしょ」
そして、そんなメディカル機能によって導き出された診断結果は、やはり風邪であった。
「そ、そんな……俺が風邪を」
弟は信じられないといった反応だが、最近の弟の無茶な行動を顧みれば不思議ではなかった。
バカは風邪をひかないというが、実のところ風邪を一番ひくのはバカであることは有名な話だ。
「じゃあ、そんなに不安なら病院で診てもらえばいいんじゃない?」
母からすれば風邪だと結論は出ているのだが、当の本人が納得しない以上そう言わざるを得なかった。
「じゃあ、よろしくね」
母が俺の肩をポンとたたく。
病院への付き添いは俺に任す、ということらしい。
「なんで俺が……」
「私はあの子が風邪だと確信しているもの。付き添う理由がない」
「俺だってそうだよ」
「でも、あなたは私と違って、風邪と確信できるに足るメディカル機能は持っていないでしょ」
母の理屈はイマイチ分からないが、弟の面倒を体よく押し付けたかったのだろうということだけは分かった。
「はい、診察料ね」
腑に落ちなかったが、俺は喜んで付き添うことにした。
母から貰った診察料は、つり銭を勘定することが容易な金額だった。
それが暗に俺への駄賃を示していることも瞬時に理解できたからだ。
いま思えば、道中クラスメートのタイナイに会ったのがマズかった。
「あれ、マスダ。弟くんも連れてどこ行くんだ?」
「弟が調子悪そうでな。たぶん風邪だと思うんだが、病院で診てもらおうと思って」
「へえ~、そうなんだ」
タイナイは俺の話を聞きながら、おもむろに携帯端末を取り出す。
「まあ、風邪だと思っていたら、実は重い病気だったってパターンもあるからね~」
そう言うとタイナイは、それっぽい病気についてドンドン説明していく。
目線は常に携帯端末の方を見ており、現在進行形で調べた情報をテキトーに言っていることは明らかだった。
だが弟は風邪で調子が悪くて冷静さを失っていたせいもあり、この怒涛の情報の羅列に大分やられてしまったようだ。
「タイナイ、お前なあ。医者でもなければ弟をロクに看てもいないくせに、いたずらにかじった程度の知識を披露するのはやめろ。単に煽るだけにしかならない」
「ああ、ゴメン。とはいえ、そんな僕の言うことなんか真に受けたりしないでしょ」
「あの弟の様子を見ても、そう言えるか?」
「ほら、兄貴早くしてよ! 間に合わなくなったらどうしてくれんだよ!」
「……ちょっと知識をひけらかしたかっただけなんだけど、まさか弟くんがあそこまでリテラシーがない状態だったとは」
「冷静な判断が出来る状態じゃない弟に余計なことを吹き込んだお前も大概だからな?」
答えにたどり着いた俺はその喜びを分かち合おうと、まずは母さんにそれを話した。
「……って、結論になったんだよ」
「相変わらずの知的好奇心」
母さんの反応は感心半分、呆れ半分といったところだ。
俺にとってはかなりの大発見なのだが、思いのほか薄い反応に肩透かしを食らった。
「という割に反応薄いね」
「いいえ、側面的には意義があることだと思っているけどね」
引っかかる言い方だなあ。
「もしかして本当のゴールを知ってるの?」
「知っているというか、そもそもゴールがあるかも疑わしいから」
ドッペルが言っていたことだ。
だが、その結論では俺は満足できない。
「或いは複数あるのかもしれない」
なんじゃそりゃ。
「いわゆる“人それぞれ”って奴よ」
「え~、その結論は嫌いだなあ」
『人それぞれ』ってのは便利な言葉だ。
けど、それは何も考えていないことを宣言するのと紙一重な言葉でもある。
「そうは言ってもねえ。人によって違う場所や方向を進んでいるし、その臨み方だって違うんだから、ゴールの設け方だって変わるわよ」
「まあ……例えば『婚活』という枠組みで考えるなら、結婚をゴール地点に設けることは理屈の上では妥当でしょう」
ちぇ、なんだよ~、最初にそういう言い方してくれれば、こんなに無駄なことしなくて済んだのに~。
「前提そのものがあやふやでロクに共有されていないものだし、普遍的な答えは出ないでしょ」
「じゃあ、結婚はゴールだっていうのも間違っていないってこと?」
「正解でもないけど、間違ってもいないかな」
「そういう文言、煙に巻かれているみたいで嫌だなあ」
「だって問題の本質はそこにはないもの。いずれにしろ、他人の設けたゴールを腐したりしないことが大事ってこと」
あ……と声が漏れる。
あのジョウって人、それっぽいこと並べてただけで、やっぱり大してモノを考えてなかったんだ。
それに乗せられて、必死に探そうとしていた俺も大概なんだけど。
なんというか、とても疲れた。
結局、今回の捜索で何がゴールか、ズバリと言えるものは見つからなかった。
けど、その道筋がどう出来ているかってことは少しだけ分かった。
もしゴールがあっても、そこにたどり着けるかは分からない。
あの結婚式での新郎新婦だったり、課題の提出期限のために頑張る兄貴だってそうなんだろう。
たぶん、俺にだってある。
それが他の人とは同じなのか、違うものなのかは知らない。
けど自分のゴールが何であれ、走ることを応援したり、ゴールを祝福することはできるんだ。
「それはそれ、これはこれ」ってこと。
あ、このセリフも大概便利だな。
とりあえず、近場にいる色んな夫婦の生活を密かに観察してみることにした。
「離婚しちゃったのか」
捜索開始から、いきなり出鼻をくじかれた。
だがシロクロは意外にも喜んでいる。
自信満々にそう言ったシロクロを見ながら、俺たちはため息を吐いた。
「タオナケの言うとおりだ。その結論だと、離婚するために結婚していることになってしまう」
「シロクロには難しい話かもしれないけど、離婚ってのはしないに越したことはないものだから。そんなものをゴールに据える位なら、最初から結婚なんてしなければいいって話になっちゃう」
「つまりシロクロの結論は破綻しているってこと。それに結婚した後の生活もあるなら、離婚したってその後の生活もあるだろ。だから離婚はゴールじゃないよ」
「うーん、それもそうか」
ミミセンの話をシロクロが理解できたとは思えないが、納得はしているようだ。
「次だ! 次いってみよう!」
「あそこの人たち」
「いわゆるホームレスってやつだね」
「私、聞いたことがあるんだけど、ああいう人たちを“人生終わってる”とか言ってる人もいるらしいわ」
生きているのに人生終わってるって、よっぽどのことだ。
「そうか、つまりアレがゴールだ!」
「うーん、でも皆がみんなああいった風になるわけじゃないでしょ」
それもそうか。
一見すると人生終わっているように見えるが、あれでも生きていることには変わらない。
ホームレスが例外処理できれば、ここで結論を出してしまってもよかったのになあ。
「……ひょっとして、ゴールなんてないんじゃないかな」
こういう時、割と核心をついたことを言うのがドッペルだ。
俺も何だかそんな気はしていた。
その気持ちはみんな同じだった。
けど、いつまでも見えそうで見えないゴールラインに、みんなヤキモキしていたんだ。
「そんなこと言っても、こんなに探しているのに、まるで見つからないじゃないか」
「ゴールのないレースなんて走りたくない!」
「シロクロ、僕たちはレースの話なんてしていないよ」
だが、意外にも一理ある考えだ。
シロクロは何も考えずに言ったのかもしれないが。
ゴールもなしに人は走り続けられない。
ペース配分できないからな。
「うーん……」
この時の俺たちはさしずめランナーズハイで、いつまでも走れるような心地だった。
だがそれは、そう遠くないうちに息切れすることを意味していた。
それまでに、何とか結論を欲しい。
「なんか、あそこ騒ぎが大きくなってるな」
ホームレスの溜まり場で、やたらと人が集まっている場所があった。
変装が得意なドッペルに様子を見てもらう。
服をどこで用意していたかは知らないが、たちまち風景に馴染んだ見た目になる。
しばらくすると、俺たちが思っていた以上の成果報告をもって帰ってきた。
「……どうやらホームレスの人が誰か死んだらしい。原因は分からないけれども」
死。
「となると、ゴールは死ぬってことか」
「うーん、確かにもう先はなさそうだよね」
「それとも天国とか地獄とかが実在するなら、死ぬこともゴールじゃないのかな」
「とは言っても、それは実在するか分からないしなあ。それに、もし輪廻転生とかいうのがあったりしたら、ゴールどころかスタートに戻ってるよ」
「うーん……」
俺たちは走る体力も気力もなくなっていたんだ。
皆でしばらく唸っていると、ドッペルが何かに気づいたそぶりを見せる。
自信はなさそうで、恐る恐るその可能性を口にした。
「……なんだか“ゴール”って、候補含めてロクなものじゃないよね」
発想の転換に感動した一同は、まさに答えを見つけたといわんばかりに喜ぶ。
実際は何も導けていないんだけど。
「なるほど。そう考えると、結婚をゴール扱いされるのは確かに不服かもしれない」
「私、女だけど、その考えに賛成するわ」
「カンコン! ソウサイ!」
皆も迎合する。
「きっと、このまま探し続けても有るかどうかすら分からないし、あったとしてロクなものじゃないよ。そんなものを無理して暴いても、誰も得しない」
こうして、俺たちのゴール探しは、ゴールかどうかはともかく終着には向かったのである。