それから紆余曲折あり、母は免許取得のため試験を受けるハメに。
「なるべく早く免許をとって帰ってくるから。それまでは我慢してね」
それまでの間、いつも母と一緒にいた時間は、学童保育に預けられる時間になる。
この時は寂しかったかというと、俺は思春期を迎えて親と一定の距離を保つようになったため、そこまで感傷的にはなっていなかった。
この時期に出来た友達だっているし、俺にとってはそこまで苦痛だったわけでもない。
だが学校に入りたての弟にとってはかなりショックな出来事だった。
そして、その寂しさを紛らわせる行動の犠牲になるのは俺である。
「皆でドッジボールやろう。マスダと弟くんは……じゃあペアで」
この頃の弟は今と違って人見知りが激しく、俺にベッタリだった。
俺が何かしようとするたびに弟は付属品になり、弟が何かしようとすれば俺は付属品にさせられるという状態。
今でも弟が俺にちょくちょく頼るのは、この頃のイメージが残っているせいだろう。
「なあ兄貴。母さんは母さんじゃなくなるの?」
弟が不安を口にしたとき、それを一蹴するのは俺の役目になってしまっていた。
「んなわけねえだろ。そんなことにならないよう、母さんは母さんであるために遠くでがんばってるんだよ」
もし免許がとれなかったら、と。
それは母にとって俺たちが子供であること、俺たちにとって母が母であることが、普遍的でなくなり不変でなくなるかもしれないってことだ。
母も俺たちも何も悪くないのに、何でこんな七面倒くさいことになる。
俺たち家族全員が“親免許”に言いようのない憎悪を持ち始めていた。
ところかわって母のほうでは、親免許取得のためのセミナーが始まっていた。
試験自体はまだ先で、それまではセミナーを受けて予習する必要があったのだ。
「まずはこの映像を観てください」
「まず大事なのは、子供も同じ人間であるという当然の認識を持つこと。ですが子供と大人には、男と女のように明確な差違があることも踏まえ……」
子供なら黙って聞くか茶化すなりできもしたが、大人たちはそうもいかない。
「子供には責任能力がありません。問題が起きた場合、子供が責任を持ちたくても、子供に大人顔負けの知性が備わっていたとしても、周りの大人や組織に責任が発生することを覚悟しておいてください。あなたたち大人側に明確な落ち度がなかったとしてもです。これを理不尽だと思う方には、親免許をあげられません」
母は脳に繋がれたメモリーボードによって何とか抑制できていたものの、そこにいた誰もが真面目なフリをするのに必死だったとか。
「このご時世に子供を生んだり育てようと思っている人に対して、こんな陳腐な内容で大丈夫なのかしら……」
それがなくても出来るが、ないとやってはいけなかったり、あったほうがハクが付いたりする。
こう考えてみると非合理的なものにも見えるが、俺はそういったものを漫然と受け入れていた。
町の人たちもほとんど同じだっただろう。
数年前の話だ。
普段は特筆するような人物ではないのだが、突発的に妙な政策を打ち出すことがある。
「皆さん、子供を健全に育むために必要なものは何だと思いますか。わたしは“豊かさ”だと考えています。
これはお金を持っているという意味もありますが、心身においても言えることです。
そう、親ですよね。
毒親、貧困、問題は様々ですが、子供が背負う業は親が大きく影響することは誰もが認めるところでしょう。
そして、この問題が起きる要因は、子供は親を選べないことだと思うのです。
だからこそ“よそはよそ、うちはうち”だとか、“個人の資質”だとかで片付けず、わたしたちが代わりにメスを入れるべきなのです」
軽く聞いただけだと尤もらしいことを言っているようにも感じられるが、市長の演説は毎回“尤もらしいだけ”なのである。
こうして打ち出された政策が、子供を持つ親の資格、“親免許”である。
実の子の育児権利にも免許証が必要なので、俺の両親もこれを発行してもらいに行った。
査定の内容は、収入だの学歴だのまるで企業の面談みたいだったらしい。
「……というわけで、収入自体は副業のおかげもあって十分です。妻もいますし、手が回らないときは近くに学童もあります」
「ふうむ、なるほど」
父の方は何とかクリア。
だが問題は、意外にも母のほうだった。
いや、意外だと思っていたのは俺と弟だけだったのかもしれない。
「……おや、あなたサイボーグらしいですが……具体的にはどこを機械化しているので?」
「脳と心臓以外はほぼ全てです」
「うーん……つまりあなたはほぼ機械ってことですよね。機械に親免許をやるというのは倫理的に……」
「そんな!? いまでこそ体は機械化していますが、私は立派な人間です」
「いかんせん特殊なケースなので、適用すべきかどうか判断しかねるのです。ちゃんと規定しないことには……」
「現時点では見送りですね。規定するにしろ会議とか手続きで、恐らくは結構時間が……」
出来立てのルールというものは融通がきかないことが多く、イレギュラーが出てくるとしどろもどろになりやすい。
今回は、母のサイボーグっぷりがソレだった。
マスダ(弟)「ドッペルはほっといて欲しいんだよ」
ミミセン「どうしてそんな現状から逃避することを?」
マスダ(弟)「逃避じゃなくて、“維持”なんじゃないかな。ドッペルは現状から進展させようとしても、それがどうしようもないと思っている。むしろ悪くなるんじゃないかとすら」
ミミセン「まあ、あの様子だと、兄ちゃんはあまり良いリアクションはしなさそうだ」
マスダ(弟)「まあ……多分ね」
タオナケ「それに万が一成就したら、マスダの兄ちゃんはペドフィリアになっちゃうわ」
マスダ(弟)「まあ……それも困る」
マスダ(弟)「だから、ほっといてやろうぜ。想っているだけで良いのさ。少なくとも今のところは弟みたいな存在で構わないんだろう」
ミミセン「……そうだね。これ以上は追及するのはよくない」
タオナケ「想っているだけで良いなんて私には理解に苦しむけど、当事者が誰も得しないなら仕方ないわね」
マスダ(弟)「とは言っても、その当事者がいないところで俺たちが好き勝手言っているだけなんだがな」
マスダ(弟)「じゃあ、俺はもう帰るからな」
タオナケ「そういえば、まだ気になることがあるんだけど」
ミミセン「なに?」
タオナケ「どうして今回は、こんなショートショート漫画っぽいノリで話が展開していったのか」
ミミセン「それって1ページ1ネタ系? 四コマタイプ? コマは横長? それとも正方形?」
タオナケ「まあマンガっぽいとはいっても、今回の主役のドッペルが出てきていないけどね。私たち外野が好き勝手言ってただけ」
ミミセン「……うん? ちょっと待って。いま、気づいてしまったことがある」
タオナケ「気になることばっかりじゃない」
ミミセン「僕たちが今まで会話していたのって、マスダだよね? 実はドッペルだったとかじゃないよね」
ミミセン「……教訓に習うなら、やめといたほうがいいかもしれない」
タオナケ「そのつもりで喋っていたけど……仮にそうだとして、どれがマスダの言葉で、どれがドッペルの言葉?」
ミミセン「……ややこしいだけだから、考えるのはやめよう」
シロクロ「ややこしいことばっかりだな!」
ミミセン「僕たちみたいな立場の人間がややこしい問題について首を突っ込むと、ろくな答えが出ないどころか余計にややこしくなるってことだね」
タオナケ「ややこしくなったのは私たちだけの問題じゃない気もするけど……」
シロクロ「じゃあ今後は無闇やたらと首を突っ込まないのか?」
ミミセン「それは……たぶん無理だろうね」
タオナケ「無理ね」
マスダ(兄)「もう少し自分と相手の気持ち両方を整理させてから行動するんだな」
ミミセン「やっぱりドッペル本人に聞くのが手っ取り早そうだ」
マスダ(弟)「もうやめないか? そこらへんをほじくたって分かるとは限らないぞ。本人だって分からないかもしれない」
マスダ(弟)「自分自身の気持ちを正しく把握している人なんて、実のところそんないないよ」
タオナケ「私も」
シロクロ「ミートゥー!」
マスダ(弟)「そりゃお前らが例外か、分かった気になっているかのどちらかだと思う」
シロクロ「あ、魔法少女がいるぞ」
ミミセン「本当だ。ちょうど良かった」
魔法少女「また、あなたたち? 個人的な頼みはノーサンキュー」
タオナケ「違うわ。人を捜しているの」
魔法少女「そういえば、五人組なのに1人いないね。緊急事態?」
マスダ(弟)「そいつに、俺の兄貴のことが好きかどうか追求しようと思っているんだ」
魔法少女「そんなことに協力なんてできない」
ミミセン「そう言わずにさ、頼むよ」
魔法少女「自分たちが何をやっているか分かっているの? 単なる興味本位で人の気持ちを弄んで」
魔法少女「“善意の第三者”ってわけでもないでしょ。“野暮”だとか“余計なお世話”だとかって言葉を知らないの?」
魔法少女「……そういえば私の正体暴いたっていう前科のある子達だった」
ミミセン「ドッペルが見つからないね。心当たりのある場所はほとんど探したのに」
マスダ(弟)「多分、実際に逃げているんだろうね。いわゆる乙女心ってやつさ」
マスダ(弟)「兄貴の言っていたように、ドッペルは色んな感情が渦巻いているんじゃないかな。兄が欲しいという願望、親愛、友愛、恋愛、色んなものがぐちゃぐちゃになっている。だからそれを自然とハッキリするまで様子見しているんだ」
タオナケ「じゃあ、それをハッキリさせるためにも、ドッペルに問いただしましょう!」
マスダ(弟)「おいおい……」
タオナケ「マスダの兄ちゃんって、ドッペルのことどう見えているの?」
マスダ(兄)「まあ、弟みたいな奴だな」
ミミセン「それはまたどうして」
マスダ(兄)「そんなこと言われても、ドッペルのやつ弟の真似ばっかりしているから、俺にとっては弟みたいな奴なんだ。弟みたいな奴は、弟みたいにしか見れねえよ」
マスダ(弟)「じゃあ実際の弟は?」
マスダ(兄)「弟は“弟”だろ。ドッペルは“弟みたい”」
ミミセン「同じように見えるけど?」
マスダ(兄)「“同じ”じゃない、“同じようなもの”だ」
タオナケ「ややこしい」
タオナケ「ドッペルが弟の真似ばかりするからといって、上っ面で判断するのはどうかと思うんだけど」
マスダ(兄)「俺は表面的なものが判断材料であること自体を悪いとは思わない。それ“だけ”で判断することがダメなんであって」
ミミセン「同じじゃないの?」
マスダ(兄)「人間ってのは様々な要素で構成されている。だから判断基準も多種多様だ。その中から1つしか考えないってのが馬鹿げているんだ」
マスダ(弟)「じゃあ性格が優しいだけで判断するのも、見た目だったり学歴や収入だけで判断するのも大差ないってわけかあ」
マスダ(兄)「その通り。要素そのものを責めているわけではなくて、短絡的なガイドラインをさも総意のように語るのがダメなわけだ」
タオナケ「そういう話じゃなくて、ドッペルのことが好きか嫌いかって個人的なことを聞いているの」
マスダ(兄)「“好き”と一口には言っても色々あるだろ」
ミミセン「色々って?」
シロクロ「ライク? ラブ?」
マスダ(兄)「もっと細分化して、友愛、親愛、恋愛エトセトラ」
マスダ(弟)「そういえば、そのあたりを詳しく考えたことないなあ」
マスダ(兄)「どれか1つとも限らないぞ。それらが独自の配合バランスに……」
タオナケ「これ以上、話をややこしくしないで!」
マスダ(兄)「怒り5割ってところか?」
マスダ(兄)「というか、お前たちはどういう意図でそんなことを聞くんだ」
マスダ(兄)「まさかお前ら、単なる興味本位で個人の気持ちを問いただしているのか?」
ミミセン「あー……そういうことになっちゃうのか」
マスダ(兄)「マジかお前ら。ドッペルはこのことを認めているのか?」
マスダ(弟)「……一応、俺は止めたんだけどね」
マスダ(兄)「お前ら本当に友達なのか」
マスダ(兄)「そもそも知ってどうする」
マスダ(兄)「本人の意志と無関係にやってるんじゃあ、その時点にすら立てていないだろ。それじゃあ俺が好きだと言ったとしても、嫌いだと言ったとしても、単なる暴露話にしかならない。誰も得しない」
タオナケ「けど損しない可能性があるなら、言っても構わない?」
マスダ(兄)「それ大した理屈じゃないよな。じゃあ俺が、お前らのことをどう思っているか言ってやろうか」
ミミセン「……なんだろう。すごく聞きたくない」
マスダ(兄)「少なくとも、お前らのその態度に関してだけ言えば嫌いだ」
マスダ(弟)「というわけで兄貴に聞いてもさっぱりだった」
ミミセン「マスダの兄ちゃんですら何となくで判断しているのなら、僕たちじゃ見当もつかないよ」
タオナケ「私も見分けはつかないけど、“兄弟の絆”とかなんじゃない?」
ミミセン「そもそも何でドッペルはマスダの真似をよくするんだ」
マスダ(弟)「別に俺の真似ばっかりってわけでもないけどな。変装が好きだから色々なものを真似てる」
ミミセン「傾向の話だよ。それにマスダの真似なんてされても、こちらとしてはややこしいだけだし」
タオナケ「イタズラ好きとか?」
マスダ(弟)「そんなところだろうな」
シロクロ「マスダのことが好きなんじゃないか?」
マスダ(弟)「……は?」
ミミセン「まあ好きかどうかはともかく、ドッペル自身は消極的な性格だから、マスダのような行動力のある人物に憧れに近いものがあるのかも」
タオナケ「なるほどね、ドッペルが変装をよくするのも武装みたいなものなのよ」
マスダ(弟)「単なる趣味なだけな気もするけどなあ」
ミミセン「マスダは随分と否定的だな」
タオナケ「思いもよらなかった相手に好意を寄せられていることを知ったときの人間の反応なんて、大体こんなものよ」
マスダ(弟)「別にそういうわけじゃ……」
シロクロ「或いは、ドッペルは兄のほうが好きなのかも!」
マスダ(弟)「……はあん?」
マスダ(弟)「どうして俺の格好を真似することが、その発想に繋がるんだよ」
ミミセン「いや、シロクロの言う可能性もありえなくない。ドッペルは一人っ子だから、身近な兄という存在に憧れがあるのかも」
タオナケ「なるほどね。弟の格好を真似て、マスダの兄ちゃんに近づく口実作りも兼ねているわけね」
マスダ(弟)「絶対、そんなややこしいマネなんてしてねえよ。だったら俺への憧れの方が、まだ有り得るだろ」
ミミセン「ドッペルがマスダの格好を真似するのは、マスダに憧れていたわけではなくて、マスダの兄さんに憧れてたからってのは一応は筋が通っているよ」
マスダ(弟)「つまりドッペルが俺の格好を真似するのは、“兄貴の弟である俺”の立場に憧れていたからだと解釈もできるぞ」
ミミセン「……あれ? そういうことにもなるのか」
シロクロ「ちょっとこんがらがってきたぞ」
マスダ(弟)「というか、お前らが勝手にあることないこと前提で語るからだろ。それがあるかないかも分からないから、こんがらがってるだけだ」
ミミセン「うーん、確かに僕たちの考えすぎかもしれない。今の状態で考えても結論は出なさそうだね」
マスダ(弟)「(だから、それがややこしくなるんだって……)」
マスダ(兄)「……で、俺に何の用だ」
マスダ(弟)「(しかも、なぜそっちのほうに聞くんだ……)」
マスダ宅にて
マスダ(弟)「俺の仲間にドッペルっているじゃん。俺の格好をよく真似する奴」
マスダ(弟)「仲間たちですら俺と間違えるのに、なんで兄貴は見分けがつくんだ?」
マスダ(弟)「……いや、俺の立場だったら簡単なのは分かっているんだよ。自分とは違うのがドッペルなんだから」
マスダ(弟)「そうじゃなくて、もっと普遍的な見分け方を聞いているわけ」
マスダ(兄)「正直、俺からしたらニセウルトラマンとの見分け方を聞かれているみたいでバカみたいなんだが」
マスダ(弟)「それは俺だって分かるよ」
マスダ(兄)「だったら分かるだろ」
マスダ(弟)「ドッペルはニセウルトラマンじゃないよ」
マスダ(兄)「……この不毛な会話、いつまで続ける気だ」
マスダ(弟)「こっちのセリフだ」
マスダ(兄)「いや、そりゃ分かるって。ほら、背丈はほぼ同じでも、全体的なフォルムも違う。弟は角ばっている印象だが、ドッペルは丸っこい。」
マスダ(弟)「へえー、あまりピンとこないけど」
マスダ(兄)「まあ、一番決定的なのは体重だな。ドッペルのほうが若干重い」
マスダ(弟)「ちゃんと答えてくれよ」
マスダ(兄)「マジかお前……じゃあ説明するが、まず全体的な振舞い方だよ」
マスダ(弟)「具体的には?」
マスダ(兄)「だから全体的にだって。仕草とかが、お前と似たような言動を真似しようとしていて、それがかえって不自然になっているわけ」
マスダ(弟)「俺はそれらを自然にやっていて意識していないから、その説明だと分からないんだけど」
マスダ(兄)「……これ、俺たちだけのやり取りじゃ、いつまでも解決しない気がしてきたぞ」
マスダ(弟)「じゃあさ、細かい違いは置いといて『鼻の頭に血管が浮き出る』レベルの方法を教えてくれよ」
マスダ(兄)「その方法だとドッペルに気づかれたら一度きりしか通用しなくなるんだが、まあ方法はあるっちゃある」
マスダ(兄)「ドッペルの奴は照れ屋だから、こうやって顔をマジマジと見てやれば気まずくなって目を背ける」
マスダ(弟)「……それは俺も仲間たちも知ってる」
マスダ(兄)「はあ? 方法を知っているなら、聞く必要ないじゃねえか」
頭を抱えていると、俺たちに向かって店主が言った。
「食べたのなら席を空けてくれ。次が待っているんだ」
「じゃあ出よう、二人とも」
俺がそう言って立ち上がるも、二人は微動だにしない。
「おい、どうしたんだよ」
うわ、マジかこいつら。
食って掛かる弟たちに店主も怪訝な表情をする。
「はあ……“お客様”。サービスってのは付加価値なんでさあ。座り心地のよい椅子、行き届いた空調、備え付けのテレビエトセトラ。義務じゃないことにケチつけられる筋合いなんてねえのよ」
「それは怠慢じゃないかな。俺たちは客としての権利を主張しているだけだ」
ああ、最悪だ。
タイナイはともかく、弟まで“面倒くさい客”になってしまっている。
収拾がつかなくなる。
「ほう~“客としての権利”ねえ。じゃあ“店の権利”ってのを考えたことあるか? 本来、客と店ってのはどっちが上で、どっちが下かじゃない。客が店を選ぶ権利があるなら、店側だって客を選ぶ権利を認めるべきなんじゃねえの“お客様”」
「その“お客様”って言い方をやめろ! 俺たちはちゃんとお金を払ったし、あんたは料理を出したじゃないか!」
「そしてあんたらはその料理を食べた。取引はそれで終わりのはずだって言ってるんだよ。それ以上の付加価値を求め、しかもそれが『当たり前だ』って態度が出てるから“お客様”って皮肉ってんだよ。分かったら、さっさと帰った帰った」
「ほら、二人とも出よう」
俺は恥ずかしさでいたたまれなくなって、タイナイと弟の首根っこをひっつかまえる。
そして逃げるように、そそくさと店を後にした。
次の店へ歩を進めていたが、俺はどう言い繕ってこの珍道中をやめるかに頭を使っていた。
俺一人で帰るならともかく、弟もとなるとちょっと厄介だ。
「はあ、酷い店だったな。星は5つ中、2つ」
「俺も2つかな」
「料理は美味かっただろ。付加価値が気に入らないからって、そんな評価は不当じゃないか」
「僕はこれまで付加価値も考慮して評価してきた。そんな僕があれを他の店と同等以上に評価するってことは、付加価値と何よりそのために努力してきた人たちを否定することになるし、個人のレビュアーとしての不信感に繋がる」
「だったら尚のこと感情任せで書いちゃダメだろ。レビューを鵜呑みにして店を選ぶ人間もいるんだぞ」
「デタラメなことは書いていないよ」
おい、まさかそれで片付けるつもりか。
これはもう、タイナイのほうを止めるのは無理だな。
「はあ……もういい。所詮は俺の好悪の問題でしかないってことになってしまうのだろうし。俺は抜けるぜ」
スマホの画面を見せる。
そこには弟がレビュアーを気取っている様子が、ありありと映されていた。
「え……これが俺?」
弟本人も信じられないといった反応だ。
「お、俺も抜ける。あの人は才能があるとか言ってたけど、こんなの見てヒいた時点で俺にレビューは無理だって分かった。自分のこんな姿を受け入れられない」
弟の中に、かろうじて自分自身を客観的に評価できる余地が残っていて安心した。
弟のこの短絡さについては素直に喜べないが。
「そういうことだタイナイ。個人が好き勝手言う権利そのものは侵害するべきじゃなくても、それに権威を持たせるとロクなことにならない。弟みたいな発言者は錯覚し、受け手はそんなものをアテにして自分の考えを持たなくなる」
「僕はそんなつもりは……」
「お前がどういうつもりかってのは、大衆に向けて発信した時点で側面的なものでしかなくなる。お前の言っている“ネットってそういうもの”は、そういうことじゃないのか?」
「……まあ、少なくともマスダたちを止める権利は僕にはないね。今日はありがとう、二人とも」
俺たちはタイナイを見届けたあと、帰路に着いた。
「これでよかったのかな?」
「こういうとき、俺がお前に言う返しは決まっている。“自分で考えろ”」
「それ、『他人のレビューに踊らされるな』ってこと? それとも『レビューをもっとよく考えて書こう』ってこと? それとも『店と客の関係性』について? それとも他にも意味が?」
俺はオサカの話を思い出していた。
バイト仲間のオサカは映像コンテンツが大好きで、自前のサイトでレビューもちょくちょくやっている。
そんなオサカにレビューの是非について何気なく尋ねたことがあった。
皆なんで、他人の評価をそこまで求めるのか俺には分からなかったのである。
結局、自分にとって最も信頼できるレビュアーは、自分自身じゃないかと思うからだ。
「理由は人の数だけある。意見を分かち合いたい、何らかの指標が欲しい、千差万別さ。それでも言えるのは、レビューを求める人間がいて、レビューを書きたい人間がいるのは間違いない以上、無下にするのも難しいということ」
「そう言ってしまっていいだろうし、自分もそう思ってレビューに臨んでいる。だからこそ下手なことは書かないよう心がけているわけだし」
「お前の考えは分かったが、みんながそこまでレビューに対して何らかの志を持っているとは俺には到底思えない」
レビューを書いているオサカですら、芳しくない答えだった。
そんなものにガキの弟が関わることを、俺はとてつもなく危険だと感じたんだ。
「え? 何が」
「とぼけるなよ。弟をあんなにレビュアー気取りにさせて、どういうつもりだって聞いているんだ」
「本気で言ってんのか? 弟のような実績もない人間に見せかけだけの権威を持たせて、そんな人間の発言を大勢の前に発信する。弟だけじゃなく、大衆や店を弄ぶ行為に何の疑問も持たないのか?」
「レビューというものは本質的には個人の意見だ。それを他人にも理解できるよう体系化することがレビューだよ。是非もなし、だ」
「何がレビューだ。こんなネガティブとヘイトにまみれたものが。何かを貶したりすることをわざわざ書かなくても、もっと誉めることばかり書いたっていいだろ」
「それは大した理屈じゃないね。貶してばっかりのレビュアーがダメだというなら、誉めてばっかりのレビュアーだって同じことだろ。マスダはそもそも前提の段階で誤解している」
「俺が何を誤解しているっていうんだ」
「価値には絶対的なものと相対的なものの側面がある。何かを誉めることは何かを貶すことに繋がるし、何かを貶すことは何かを誉めることに繋がるんだ。それを言語化することも批評の一形態なわけ。なのにダメだって思うのはマスダの気持ちの問題でしかない」
「その批評に安易に振り回される人間がいることを知っていてもか? そんなものがなければ起きなかったトラブルだってたくさんあるはずだ」
「この大衆文化は個人の確固たる意志だけでは止まらないし、止めるものでもない。できるのは個々人がそれをどう受け止めるかのみだ」
「それって要は自分のレビューに責任はないし、持つ気もないってことだろ。なのに発言権だけは行使するなんてムシがよすぎる」
「だから、ネットってのはそういうもんなんだって。ネガティブやヘイトを許容も順応もできず、無視することすらできないなら、レビューはもちろん他人の意見の巣窟であるネットそのものを利用しない方がいい。マスダは僕たちの批評スタイルが気に入らないのを、善悪の問題に摩り替えているだけだ!」
弟にレビュアー気取りをやめさせたくて、タイナイのほうを説得してみたが完全に失敗だった。
タイナイにとって、ネットはリアルと地続きであることを忘れていた。
人は現実に対してどんなに不平不満をもったところで、それとなあなあに付き合って時には自ら楽しさを見出す。
「いやー、いまトイレ入ったらさ。今どき和式だったんだよ。この店サイテーだ」
「なるほど、レビューに書いておかなきゃね」
このままじゃ組合に目をつけられて、大事になるのも時間の問題だ。
タイナイは承知の上かもしれないが、弟までそれに巻き込まれるのはよろしくない。
どうにかできないものか。
朝の数時間のみ経営という特別感に惹かれて知り合いとともに来店。店内の清潔感は普通。雰囲気は悪くないのだが照明がきつく、朝に来ることを前提で考えた場合ミスマッチといえる。店主の接客態度も悪くはないのだが、陽気かつフレンドリーなため、これまた朝にはキツいし、合わない人にはまるで合わない。
料理はというと、メニューは日替わりかつ店主の気分しだいなので当たり外れが大きい。さすがに飲み物くらいは普通のも用意しておいて欲しい。メニュー名も言葉遊びを多様していて洒落臭い(回文らしいのだが、後半部分が言葉として成立しておらず意味不明。これを回文だと言い張るのはライトノベルを純文学と言っている様なもので、喉に小骨が刺さったような気持ちになる)。
結論としては決して大衆向けの店とはいえないし、その枠組みから評価しても下から数えた方が早いと思う。近所に住んでいる馴染み客が利用するならばまだしも、僕たちみたいに遠路はるばる朝から足を運んでまで利用すると確実に後悔する。この店に行くのを提案したのは僕だったのだけど、週末の朝から来てくれた知り合いに申し訳ない気持ちになった。
なんだこのレビュー。
他はどうでもいい粗探しばかりだし、俺たちをまるで被害者扱いのように書いているのもどうかしている。
「こんなの、ほんとに参考するやつがいるのか」
「別に不思議じゃないだろ。要は“格式と権威”だよ。どこぞの三ツ星レビュアー組織もやっていることだ」
そういった組織の調査員は日々決まった食事をとることで味覚に確固たる“基準”を作る。
料理を的確に分析できるよう舌を鍛え、マニュアルによって“格式”を評価するんだ。
その評価基準を俺たちが共感できるかはともかく、単なる個人の感想とはワケが違う。
「タイナイはただ自分の気の赴くまま飲食店を練り歩いているだけだ。そんな個人のレビューに権威なんて持たせたらロクなことにならないぞ」
「厳密には個人の意見じゃない。ネットってのは大衆文化だからね」
「尚更ロクなもんじゃない。大衆に傾倒して意思決定をすれば、バカな結論を生みやすい。何も考えていないのに自分の考えだと錯覚し、無駄な自信だけはついてくる」
「言いたいことは分かるけど、それは僕の管轄外だ。あ、次の店に着いたよ」
弟はというとタイナイに乗せられて、次から次へと心にあるのかないのか分からないようことを言い続ける。
「恐らく、この料理をよく食べる人間であるならば、そのこだわり含めて舌鼓を打つのかもしれないけど、俺たちは初めて食べる人間だ。材料も聞いたことのないものばかりでイメージが湧かないし、如何に拘りぬいて作られたか力説されてもよく分からない」
「ここの料理は作り手のこだわりが強すぎる。味付けが濃い料理が良いとは限らないように、こだわりの強い料理は独りよがりでしかない」
「素晴らしい意見だ」
「俺たちはこだわりの結果生まれた“料理”を食べたいわけだけど、別に“こだわり”自体を食べたいわけではない」
「ははは、こりゃ名言が出たね。マスダ、君の弟はレビュアーの才能があるぞ」
俺には二人の言動が批評の装いをしているだけで、まるでゴロツキのように見えた。
さしずめ“批評ゴロ”だ。
そして、当日。
「ごめんね、週末の朝早くから。最初の店は朝のみの経営だから、どうしてもこの時間帯からじゃないとダメなんだ」
タイナイの言葉で引っかかったのは、その店のことよりも“最初の”という言葉だった。
この時点で嫌な予感が漂い始めていた。
「で、ここが目的の店、『竹やぶ焼けた』だ。第一印象はどう?」
「“どう?”って……注文どころか、まだ店の中に入ってすらいないのに何を言えってんだ」
俺と弟は、タイナイに導かれるまま店の中へ。
「はいーいらっしゃいー。3名さまね、好きなところ座ってー、すぐにおしぼりとお水持って来るから!」
店主らしき人が陽気に出迎えてくれた。
喋り方からして女性だと思われるが、イマイチ見た目で判別がつきにくい。
「うん? この水……」
「分かる~? アセロラを絞ってみたの! ビタミンCたっぷり。なんとレモン数十個分なのよ。でも“レモン何個分”って今日び権威が疑われる謳い文句だから逆に伝わりづらいかもね。うふふ」
「はあ……あの……」
「そうじゃなくて、メニューは?」
「日替わり一品しかないから、メニューは用意してないの。シェフの気まぐれよ! つまり私の気まぐれ!」
「……そうなんですか。ちなみに今日は?」
「『かなり毎週来た滝う油脂いまり中』。上から読んでも下から読んでも『かなり毎週来た滝う油脂いまり中』」
「は?」
「メニュー名よ。じゃあ、なるべく早く、なるはやで持ってくるから待っててね」
タイナイは店主が厨房に向かうのを見届けると、俺たちに話しかけてきた。
「で、意見を聞きたいんだけど」
「この時点でも言えることはいくらでもあるだろ。例えば店の内装とかの雰囲気とか、接客態度とか」
「ふむ、弟くんも」
「うん」
「それじゃあ何の参考にもならないよ。もう少し真面目にやってくれ」
そんなこと言われても、わざわざ口に出すほどの感想は俺にはなかった。
だがタイナイに奢ってもらう手前、ちょっと無理してでも捻り出さないと。
「えーと、そうだな。ちょっと照明がキツいような気がする。あとキツいといえばあの店主だな」
「あー、なるほど。弟くんはどう?」
「う~ん、悪い人ではないと思うけど……あまりお近づきになりたいタイプではないかな。ましてや朝とか特に」
「ほうほう、なるほど。やっぱり二人を連れてきて正解だ。すごく参考になるよ」
タイナイがやたらと頷いているが、本当にこんなんでいいのだろうか。
俺は不安になってくるが、弟はというとタイナイの反応に気を良くして、どんどん意見を盛っていく。
「何というか、ところどころ洒落臭いよね。この出てきた水とかも、正直これだったら普通の水にして欲しい」
「メニューだってそうだ。何だよ、上から読んでも下から読んでも同じって。しかも意味不明な言語で、言葉遊びとしては酷い出来だ」
「あ、こっちの出し巻き卵は美味い。付け合せの漬け物はビミョーかな」
「ふむふむ、弟くんの率直な感想は参考になるよ。マスダは何かない? ほら、このカルパッチョとか」
「いや……俺、ナマの魚介系はダメなんだ」
「なるほど。メニューが店主本位だから、こういう弊害が発生すると言いたい訳だ」
そんなつもりで言ったわけじゃないんだが、そう解釈するのか。
料理店で金を払うとき、それは何に対する等価交換か、ちゃんと考えたことはあるだろうか。
ほとんどの人は料理や飲み物だと答えると思うし、その認識が別に間違っているってわけじゃない。
だが、この世には様々な価値がある。
俺たちは目の前の単純な価値に気がいって、それらを漠然と享受しがちだ。
その状態の俺たちは、いったい何を値踏みしているのだろうか。
「マスダ、話は変わるけどさ、週末は一緒にランチでもどう? 僕の奢りで」
クラスメートの何気ない誘いだが、俺がその誘いをいぶかしく思うのには理由があった。
タイナイは、俺の知り合いの中で最もリアルとネットが地続きの人間だ。
当然、その言動も紐付いている。
俺はその強固な繋がりを見て、いずれパソコンと融合するんじゃないかと、あらぬ心配をしたこともあった。
そんなタイナイからリアルでの誘いがあるということは、つまり“そういうこと”だ。
遊びの延長線上にランチがあるのではなく、それをわざわざ用事に挙げ、奢りを強調。
しかも昼飯休憩中という、未来の食事予定なんて考える気のない、間の悪いときに。
ここまで懸案要素の材料が揃っていれば、何か裏があると考えるのは当然のことだ。
「タイナイ、お前とはそこそこ長い。ただランチのために誘うような人間ではないことは知っている。明確な目的があるなら、ちゃんと説明しろ。ましてや俺を巻き込むのならな」
「うーん、隠し事はできないか。といっても、わざわざ言うほどのことでもないんだけどね」
「それはお前が決めることじゃない」
「分かったよ。ほら、これが小目的さ」
「それを参考にして店を選ぶってことか?」
「ちょっと違うかな。参考にするんじゃなくて、参考にさせる側さ。僕はこのサイトのレビュアーなんだ。こう見えて、そこそこ知名度ある方なんだよ」
俺から見れば大して意外でもないので何が『こう見えて』なのかは分からないが、話が少しずつ見えてきた。
「今回は複数人で利用したケースでレビューを書こうと思ってね」
「それで俺を誘ったと」
「確かマスダは飲食店でバイト経験あっただろ。その視点から意見が欲しいんだ」
「なるほどな。まあ、お前が奢ってくれるのなら文句はないさ」
「よし、決まりだ。あ、そうそう、出来れば弟くんも誘っておいてくれ。子供目線での意見が欲しい」
このときの俺は、単にタダ飯を食らえる程度にしか考えていなかった。
ロクに分かっちゃいなかったんだ。
同じ世界にいても、俺とタイナイが見えている世界は、同じようで実は違うということに。
そうしてタケモトさん宅の近くへたどり着くと、予想通り弟がそこにいるのが見えた。
遠くて聞き取れないが、何かをタケモトさんに訴えているようだ。
「誓ってもいい~すべて本当のことだよ~」
やめろやめろ、そんな恥ずかしい真似。
様子見なんて悠長なことはしていられない、早く止めねば。
「この愚弟が! もう歌うな! 何の必然性があってそんなことをするんだ」
「ぐわっ……」
俺は右手で弟の口を塞ぐ。
「ああ? なんだ? どういうことだ」
「はーん、なるほどな。ほんと宗教屋ってロクでもねーな。大言壮語、美辞麗句を吐くくせして、やることがしょーもねー」
「仕方ねーさ。子供は乾燥したスポンジみたいに何でも吸収しちまう。しかも“衝撃の新事実”ってのに弱い。情報が更新されると、そっちを容易く鵜呑みにしちまう。仮に事実だとしても、それは側面的なものでしかないということが分からない」
「だから側面的な話だって、タケモトさんが言ってるだろ。昔がどうだったからといって、それが今のハロウィンを否定するものとは限らないんだよ」
俺たちの言うことに弟は首を傾げる。
その様子にタケモトさんは溜め息を吐く。
「じゃあ逆に聞こう。ここまでの道中お前は色んな人たちに“ハロウィンの真実”とやらを吹聴して回った。で、どんな反応だった?」
「つまり、そういうことだ。みんな自分たちのやってることがハロウィンモドキだと分かってるから、お前の言うことを受け流す」
「どういうことだよ! 皆なんであんなに無邪気でいられるんだ。馬鹿みたいだと思わないの?」
「まあ……思ってるやつもいるとは思うが、思っているだけだ。それでおしまい。祭りってのは馬鹿にならなきゃ楽しめないもんだ。逆説的にいえば、祭りを楽しむのは馬鹿だけ」
「もう少し表現を変えましょう、タケモトさん」
「ああ?……じゃあ“誰も得しない”から、で」
「誰も得しない?」
「皆は思い思いの仮装をして、仲間内でお菓子を持ち寄ったりワイワイ騒いだりしたいわけ。そんな人たちにハロウィンのそもそも論だの、こうあるべきだのといった話は必要ない。無粋だとすら言ってもいい」
「つまりな、ハロウィンは楽しむための“きっかけ”。花見だって、誰も純粋に桜を見に行っているわけじゃないだろ」
「あとは商業主義とかもろもろ……要は彼らにとってどうでもいいことなんだよ。お前の気にしているようなことは」
「なんだよそれ……何というか、不純だ。過去を蔑ろにしているみたいで」
「ったく、変なところで真面目だな、こいつは」
タケモトさんも俺も考えあぐねていた。
もちろん弟の不満を価値観の相違で片付けてしまうことは簡単だろう。
だが弟が知りたいのは“人それぞれ”の構造と、その是非だ。
弟にとって“人それぞれ”だなんて結論は表面的なものでしかなく、思考停止と同じなのだ。
「風習が時代や環境によって形を変えることは珍しくありません。ですが、それは一概に悪いことではないと思いますよ」
全く逆の方向を捜していたのに俺たちと合流したってことは、一応は捜索を熱心にやっていたということか。
「若干、説教くさいが、この宗教屋が言うことは一理あるぞ。そりゃあ元が何かってことは大事だろうさ。それがなければ今もないんだから。でも拘り過ぎるのも考え物なんだぜ」
「ハロウィンがどういったものだったかなんて知ったところで、現状が何か変わるわけでもない。元あったものが形を変えることに哀愁を感じるときはあるかもしれない。だが時代の流れは自然の摂理。それに不平不満を言ってせき止めようとしたところで、結局は誰も得しない」
弟がうーんと唸る。
理屈は分かっても、どこか心の根っこの部分がそれを拒否しているようだった。
こうなったら最終手段だ。
俺は教祖を軽く小突いて、目配せをする。
「えー……つまりですね、この街のハロウィンは、これはこれで“真実”だってことです」
「真実……そうか、そういうことだったのか! 俺たちにとってのハロウィンはこれが正史なんだ!」
どういうことかは分からないが、教祖の言葉は弟にとって天啓だったらしい。
「それじゃあ、お前が納得したことだしハロウィンを続行するか。それとも今からこのお菓子を返しに回るか?」
「……それもいいかもね」
おいおい、まだそんなこと言ってんのか……。
「代わりにイタズラをしに行こう!」
ああ、そういうこと。
結局、今回のハロウィンもこうなるのか。
「ハッ! やっぱりな、とんだ悪童だぜ。こんなこともあろうかと自宅をイタズラ対策用に改装しておいてよかった」
タケモトさんはなんだかんだ言いつつ、この日のためにそこまでしていたらしい。
悪態つきながらもノリノリだな、この人。
こうして俺たちの「お菓子祭り大作戦」……もとい「ハロウィンの真実キャンペーン」……もとい「イタズラ大作戦」は酷い遠回りをしながらも幕を閉じた。
それは確かに遠回りだったけれど、いつも漫然と歩いていた道のありがたさを知る上で、弟にとって決して無駄ではない道だったんだと思う。
「時代の流れは個人を待ってくれない。受け入れるにしろ、拒否するにしろ、進まなきゃ」
「ああ、そうだな。ハロウィンが終わったからといってウカウカしてはいられないぞ。次はクリスマスだ」
「クリスマスだったら歌ってもいい?」
「いいけど、俺の目の届かない場所でやれよ」
「よっしゃ、楽しみだぜ!」
「あれ、マスダじゃん。マスダがこういうのに参加しているなんて珍しいね」
弟の捜索中、クラスメートのタイナイ、カジマ、ウサクの三人と出くわした。
どうやらあいつらもハロウィンに参加していたようで、何かの動物らしき仮装をしていた。
ああ、あれか。
「ということはウサクも『ファーリー友達』とかにいるキャラ? それとも普段着?」
ウサクだけ妙に垢抜けない一般人みたいな格好で、いまいち作品の世界観が掴みにくい。
「えーと、確か人間っぽいキャラがいた気がする……そう、図嚢ちゃんだ!」
『ファーリー友達』キャラのコスプレじゃなくて、そのアニメのファンの格好をしているってことか。
「『ファーリー友達』のキャラだとカブりそうだし、ハロウィン的にもアニメキャラよりオタクの方が恐怖の対象としては適任だろ」
仮装がカブるのが嫌だってのは分かるが、そのチョイスは適切なのだろうか。
「確かに、同じケーブライオンの仮装している人かなりいたんだよね。僕も10連ガチャで一喜一憂する様子を動画配信する重課金者の仮装でもすればよかった」
タイナイも普段似たようなことをやっているが、それは仮装として成立するのだろうか?
基準がイマイチ分からんが、こいつらがあまりにも当たり前のように語るものだから、俺は何も言えないでいた。
「……まあ人気のアニメらしいからな。毒にも薬にもならんようなアニメだが」
「エアプ乙。『ファーリー友達』は一見するとユルい雰囲気だけど、設定とストーリーの流れは考察しがいのあるガチな内容だから。それが分からないのは人間の心を失くした愚か者。監督とスタッフたちへのリスペクトが足りないよ! リスペクトが!」
ウサクが俺の言葉尻を捕らえて、すごい勢いでまくし立ててくる。
「作り手に対するリスペクトをもっと持てよ! クレジットにちゃんと名前乗せろよ!……あ、オレこっちの監督は嫌いだから別にリスペクトとかどうでもいいや」
だが、今はそんなことはどうでもいい。
ウサクたちの仮装に気圧されて忘れそうになっていたが、俺は弟の行方について尋ねた。
「まあ、それは結構だが。ハロウィンがどうたらこうたら声高に喋っている子供は見なかったか?」
「それ弟くん?」
「いや、違うが、弟を見つける手がかりを持っている」
俺はあえてボカして質問をした。
知り合いに尋ねるたびに身内の恥を忍んでいてはこちらが持たないからな。
仮装しているから、パッと見はその“子供”が弟だと気づかれない。
ということは順路を変えたのか。
ハロウィンイベントが盛んな、人通りの多い場所にいるかと思ったがアテが外れたか。
となると一体どこに。
早くしないと弟も俺もどんどん傷が広がっていく。
「事情は分からないけど、捜査の基本はプロファイリングだよ。その対象の傾向を分析すれば、自ずと選択肢は絞られるんじゃないかな」
あいつが行きそうなところ……。
タケモトさんの家だ。
タケモトさんは、俺たちマスダ家の隣に住んでいる人だ。
ハロウィンでは毎回お世話になっている。
弟なら絶対にタケモトさんのところへも向かうはずだ。
「お、こんな所で会うなんて奇遇だな」
悪魔らしき仮装をしているが、もっと具体的なモデルがいた気がする。
「ああ、この仮装? イービルマンのコスプレ。実写映画版のデザインだ」
ああ、そうだ、イービルマン。
だがイービルマンの実写版って、確か十数年以上前の作品だったような。
なんでそんな微妙なのをチョイスするんだ。
「お前の趣味にケチつける気はないが、『ヒューマン・アウト・ザ・シェル』とか、かろうじて『退却の小人』あたりじゃないと伝わりにくいんじゃないか?」
「やだよ、そんな如何にもパリピの御用達みたいなの。『ヒューマン・アウト・ザ・シェル』をネタにする位なら、『ブレードインナー1192』の方をネタにするね。目玉つぶされる人の仮装ね」
「流行が嫌なら、もう少し不朽の名作とかにしたらどうだ。ティム・バーサン作のゴシック映画とかさ」
「ティム・バーサン? 冗談はよしてくれ。才能の出がらしで見せ掛けだけの映画しか作れなくなったロートル監督だろ。時代遅れなのにパリピの御用達という最低のチョイスだ」
だが、今はそんなことはどうでもいい。
こいつとシネマ談議をしたいわけじゃないんだ。
「まあ、それはともかく、弟を見なかったか? こっちに来たと思うんだが」
「弟くん? さっき見かけたよ。『お前たちのやってるのはハロウィンじゃない!』とか叫んでた」
自分の表情が歪む。
俺はそれを左手で覆い隠す。
あいつ、予想していた通りのことをやっていた。
自分がヘマをしたときよりも、身内のことのほうがかえってキツいかもしれない。
「弟くんのあの様子からして、恐らくハロウィンの出生とかを聞きかじったんだろうな。ああゆうニワカ仕込みの知識で行動できるのは子供か、子供みたいな大人の特権だ」
「どっちに行った?」
「商店街の方に向かったよ。それにしても、弟くんの青臭さが羨ましいよ。原理主義者や懐古主義者なんて、文化の新陳代謝を阻害しコンテンツを廃れさせて、足を引っ張る存在だってのに。映画と一緒だ」
お前も大概、懐古主義だろ。
なに? なに?
これがハロウィン?
これが? カボチャ?
それが何なの?
なにこれ?
なに? なに?
何かの間違い?
なに? なにが楽しい?
なぜ?
なぜ?
何の気なしに訪問した家から出てきたのは、俺たちが知っている人物だった。
家の主は“生活教”とかいう、胡散臭い新興宗教の教祖だったのだ。
「勘弁してくれよ。こんなイベントに宗教家が出張ってくるとか」
「別に不思議でもないでしょう。そもそもハロウィンは魔を退けるための厳かな風習だったんですよ。日本で言えば盆みたいなものです」
なんで日本を例えに出した。
「ちゃんとした伝承に基づくものです。みんな発祥を知らないというだけで、この世で宗教が関係していたというものは意外と多いですよ。日本の謙虚なライフスタイルと通念は、とある仏教徒の唱えた説法の影響が大きいとされていますし」
なんで日本を例えに出した。
俺たちはあんたの話を聞きたいんじゃなくて、お菓子を貰いに来たんだ。
ウンザリした俺は、今回ばかりは弟がイタズラしてくれないものかと心の中で祈った。
「なんだって!? じゃあ、僕たちはハロウィンを間違ってやっているってことなのか。バカみたいじゃないか」
だが、意外にも弟がこれに食いついた。
なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。
「いや……うーん……どう説明すればいいのやら……」
薀蓄程度のつもりで言ったから、そこまで食いついてくるとは思わなかったのだろう。
「私も詳しく知っているわけではないので滅多なことは言えませんよ……教義上、他宗教を否定はしないというだけで、すすんで調べるほど関心のある対象でもないので……」
「でも、今のハロウィンが本来の趣旨から外れているってことは確かなんでしょ?」
「まあ、それはそうなんですが、だからといってそれが悪いとは一概に……」
「それだけ分かれば十分だ。よし、今回のハロウィンは『お菓子祭り大作戦』じゃなく、『ハロウィンの真実キャンペーン』でいこう!」
おい、勘弁してくれよ。
これならまだイタズラで暴れてくれたほうが対処が楽で助かる。
「ああ、行ってしまった。じゃあ、お菓子はお兄さんに渡しておきますね」
「おい教祖よ。お前のせいで弟があんなことになったんだから、その始末をつけるべきじゃないか?」
「ええ? でも私は別に扇動したわけでも、洗脳したわけでもないですし……それに、これから来るであろう子供たちにお菓子をあげるため、家を離れるわけにも……」
「弟の行動力を甘く見るな。なまじイタズラとか諌めやすい行動じゃない分、なお性質が悪いことになるぞ」
西……さっき弟が走っていったのと逆方向だ。
あいつ、さては協力する気がないな。
俺は深くため息をつくと、袋をガサガサと鳴らしながら歩を進める。
こうして俺は、弟の捜索兼『ハロウィンの真実キャンペーン』の阻止とかいう、バカみたいな作戦をやる羽目になってしまうのであった。
案内するよ 僕らのダイアリー
弱者が悲嘆にくれてる
お題を出してる俺を見ろ ほら何かを言いたくなったきた
このイベントのために参加した“有志”の在宅に、仮装した未成年が訪問すれば菓子が貰える。
まあ“有志”とは言っても時間を持て余した富裕層が酔狂で名乗りをあげているくらいで、市民団体や企業組合が関係しているものがほとんどだ。
「今回は俺が常に目を光らせているから、前回みたいなことはできるとは思うなよ?」
弟は前回のハロウィンでトリートばかりであることに不満を抱いて、仲間たちとイタズラ騒ぎを起こした。
今のところは大人しいが、念のために俺は釘を刺す。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「見くびるなよ。俺がお前の話を鵜呑みにするとでも?」
「別に信じたくないならそれでもいいけどさ。前回と同じことしたってツマらないし、今回はお菓子をどれだけ集められるかを目標にしているんだよ」
弟が何かをしでかすとき一見すると大層な志があるように思えるが、その実は思いつきで行動していることが多い。
自我を確立できていないからコントロールすることもできず、社会に上手く順応できていないのである。
弟のこういう気分屋なところは嫌いだが、まあ菓子代が浮くし、今回は『お菓子祭り大作戦』に付き合ってやろう。
「よし分かった。だが目標と掲げるからには、それなりの結果を出すための態度を示すべきだぞ」
「分かってるって。効率の良いルートは事前に予習してきた。当分は菓子に小遣いを使わなくていい自分もシミュレート済みだ」
皮算用にならなきゃいいがな。
流れるように菓子をせびり、迷うことなく次の在宅へと歩を進める。
予習しているとは言っていたが、まさかここまでとはな。
「ちょっと、このお菓子。消費期限が短いじゃんか。俺たちは別のところでもお菓子をたくさん貰っているんだ。こんなの貰っても処理しきれないよ」
俺が口出しするまでもなく、お菓子の選別もしっかりしている。
シミュレートもばっちりってわけか。
弟に言われて120リットルのゴミ袋を持ってきたが、始めてから1時間でおよそ3分の1。
さすがに120リットルのゴミ袋はやりすぎたと思ったが、このペースだと本当に満杯になりそうだな。
それを持って帰れるかどうかのほうが心配になってきた。
だがそんな俺の不安は、またも新たな不安によって塗りつぶされることになる。
トンカツを食べるときに、生前の豚にいちいち思いを馳せたりはしない。
俺たちが何かをするとき、その“根源”だとか“理由”といったものには意外にも無頓着だ。
自分たちの歩く道筋が、元はどのような場所で、そしてどのように整備されているか。
これはあらゆることに言える。
例えばハロウィン。
なぜ仮装をするのか、なぜイタズラの代わりにお菓子を貰うのか。
俺たちは仮装をして、ただお菓子を貰う程度のお祭りだとしか思っていない。
今年のハロウィンも、俺たち兄弟にとってその程度の祭りになるはずだった。
「焦る必要なんてねえよ。登録されている場所は菓子のストックがたんまりあるから、なくなることはないんだよ」
今回のハロウィンは、俺も弟ともに菓子を貰う側として参加することになった。
正直こういうガキくさいのは苦手なんだが、両親に四六時中せがまれて参加せざるを得なかった。
前回のハロウィンでは弟たちのイタズラ騒ぎでひと悶着あったので、恐らく俺にお目付け役を兼任しろってことなのだろう。
「よし、準備できた」
あれだけ急かしてきたくせに、玄関のドアノブに手をかける俺を制止してきた。
「なんだよその格好」
「だったら分かるだろ。俺の格好を見て、自分の仮装に違和感ないの?」
弟の格好を凝視する。
確かアニメ『ヴァリアブルオリジナル』に登場したことのあるキャラだった気がする。
「それは……『ヴァリアブルオリジナル』のキャラのコスプレか?」
「そう、『ヴァリオリ』最恐と名高いエピソードで登場したブクマカ枢機卿」
あー、なんかそんなのいた気がする。
弟の格好は分かったが、それと俺の仮装に何の関係があるのだろうか。
「兄貴のそれ『ヴァリオリ』のキャラじゃないだろ。これから二人で色んなところを回ってお菓子を集めるのに、テーマに一貫性がないと格好がつかない」
なるほどね、それを気にしていたのか。
確かに俺の仮装はフランケンシュタインで、しかも怪物のほうではなくて博士のほうだ。
ファンタジーアニメの華やかなデザインとは不釣合いだと感じるかもしれない。
「理屈は分かったが、今から着替えてもいられないだろ。それに赤の他人のコスプレにテーマだの一貫性だの気にする輩なんぞいねえって」
「俺が気にするんだよ! 着替えてきてよ」
「バカ言うんじゃねえよ。お前が気にすることが問題だってんなら、それはお前の問題でしかない。だったら着替えるのはお前だ」
「俺にフランケンシュタインの仮装やれってか!?」
「ざけんな! そんな古くさい作品の格好なんかできるかよ。ましてや俺その作品まともに知らないし。仮装ってのは作品についてある程度知っている上でやらないと失礼だってルールがあるんだよ」
なんだそのルール。
「もういいよ。このまま行けばいいんだろ!」
先が思いやられるな。
「嫌よ! なんで私がそんなことしないといけないのよ」
「はあ!?」
自分の今置かれている状況が分かっていないのか?
「タオナケちゃんなりの正義なのかも。彼女にとっては、今ここで力を使って自衛することは自分の信念を曲げる行為なんだよ」
正義って……自分の身を守るのに正義だとか悪だとかって関係ないだろ。
「嫌! 私は悪くない!」
駄目だ、取り付く島がない。
俺たちが諦めかけて強行突破を仕掛けようとしたその時、魔法少女がタオナケに言葉を投げかける。
マジックワードがないとか言っていたけど、実はあったんだ。
「タオナケちゃん! あなたが悪くなくても、被害に遭うリスクそのものはなくならないの! だから、あなたのやることも変わらないはずよ!」
「え……」
タオナケが素っ頓狂な反応をする。
あまりにも目に鱗な答えだったらしい。
「……まあ考えてみれば、それもそっか」
得心したタオナケは、すぐさま男の持っている武器めがけて念を送った。
普段なら5回に1回成功すればいい方なのだが、今回はすんなり上手くいった様だ。
たちまち男の持っていた武器は粉々になって崩れ落ちた。
「ワ、ワシの棒が!?」
その不可思議な様子を目の当たりにした男は取り乱し、タオナケへの拘束が緩む。
「ロック!」
すると男は体が硬直して、そのまま動かなくなってしまった。
確か無防備の相手に対して使えば、対象の時間そのものを止めるとかいう、やたらと物騒な魔法だ。
「普段のはビジネス用。緊急なんだから悠長に詠唱するわけにはいかないでしょ」
その後、男は魔法少女によって自警団に引き渡され、そして自警団によって警察へ引き渡された。
「これ死後硬直してるかってくらい動かないんですが、大丈夫なんですかい」
俺たちはその様子を尻目に、タオナケとギクシャクした会話を繰り広げていた。
「みんな心配かけてゴメンね。気持ちばかりが先走って、肝心なことを忘れていたみたい」
「タオナケ。何か誤解していたかもしれないが、君のことを責めるつもりであんなことを言ったわけじゃないんだ」
「あの時は分からなかったけど、今なら分かる。心配して言ってくれたのよね」
「俺たちの表現力ではあれが精一杯だったんだよ。被害者が悪くても悪くなくても、被害に遭う可能性はなくならない。だからタオナケが善いとか悪いとかと、自衛するかどうかは別の話なんだ」
「そうね。自衛は誰でもない、自分自身のためにするの。もちろん可能性が完全になくなるわけじゃないけど、その可能性を減らすよう努めることは大事よね」
なんか、さっきまでやたらと頑固だったくせに、随分と物分りがいいんだな。
魔法少女の言うとおり、まずは俺たちがタオナケに寄り添ってやればスムーズに話は進んだのかもな。
「いいえ」
「え?」
俺たちは思わず溜め息を吐いた。
俺たちは魔法少女にこれまでの経緯を語った。
「なるほどね。被害に遭った人の思考が極端になることは珍しくない。恐怖で外出するのすら困難になる人もいるし、その点タオナケちゃんはまだ深刻じゃないかもね」
「俺たちからすれば、そっちのほうがよかったよ。今のタオナケは破滅願望者と見分けがつかない」
「心配なのね。なら、タオナケちゃんをもう少し思いやって言葉をかけてあげなさい」
「俺たちはそのつもりで言ったんだけど……」
「まさか、『被害に遭いたくなければ、もっと気をつけろ』みたいなことは言ってない?」
「え、何で分かった。心を読む魔法も使えるのか?」
「魔法はそんなに万能じゃないよ。今のは単なる推測。それにしても……君たちのその表現はマズかったかもね……」
タオナケが怒った発端からして多分そういうことなのだろうけど、俺たちにはその理由が分からないでいた。
「でも俺たちの言うこと自体が間違っているとは思わない。自衛ってのは必要なものだ」
「『被害に遭った人間の善し悪し』と、『被害に遭わないようどうするべきか』という話は同列で語られやすいけれど、厳密には別問題なの」
「それは分かってるよ。だから被害に遭わないよう、その可能性を減らすアドバイスをしたんだ。別にタオナケを責めるために言ったわけじゃない」
「その前提を、言われた本人が踏まえていなければ正しく伝わらない。多分タオナケちゃんは、あなたたちのアドバイスが自分を責めている言葉だと解釈したの。ましてや被害に遭って間もないし、冷静に判断することも難しいでしょう」
タオナケは気丈に振舞っていたが、本当はとてもショックだったんだ。
それを分かってやれなかったことに、仲間として不甲斐ない気持ちになった。
「まずはタオナケちゃんに寄り添ってあげなさい。そうすれば、あなたたちの気持ちもちゃんと伝わるから」
「そうだな。よし、タオナケに連絡だ」
仕方なく家にかける。
「あ、どうも、タオナケ?」
「私、親だけど」
出てきたのは親の方だった。
「あの、タオナケは?」
「外出したわよ。マスダさんのお宅に行くって」
入れ違いだったか。
……いや、まさか。
「タオナケ!」
貧困街のエリアにたどり着くと、意外にもタオナケはすぐに見つかった。
騒ぎを辿っていくと、そこにいたのだ。
またも自治体の抗争に巻き込まれたらしいが、今度は事情が少し違う。
タオナケが堂々と振舞っていたものだから、当事者だと勘違いされたのだ。
「それ以上、近づくなガキ共。ワシの正しさは半径10メートルのもと確約される」
そのせいで俺たちは距離を詰められずにいた。
それを使えばチャンスを作れるのだが……そんなこと言われなくともやっているはず。
なぜやらないんだ。
「なあタオナケ……まさか、明日も貧困街を通ったりしないよな?」
「やめときなよ。危ないよ」
「あんた達が決めることじゃないわ」
タオナケの怒りは放課後になっても納まらず、俺たちと意図的に距離を空けて接する。
「なあ、なんかタオナケのやつ、ちょっとこじらせてないか? 風邪か?」
「違うよ、シロクロ」
まあ、完全な予防が困難という意味では似たようなものかもしれない。
「タオナケのやつ自意識が強く働いて、かえって自衛の必要性を見失ってる」
俺たちが間違っているのならタオナケに謝ってそれで終わりでいいんだけど、別にそういうわけでもない。
それでは何も解決しない。
そもそも俺たちが優先すべきは、タオナケとの関係修復じゃないからだ。
「まあ……しばらくしたら戻るさ」
「しばらくじゃ遅いよ。このままじゃタオナケが意地になって、またあの場所を通るかもしれない」
次にまた何かあったとき、今回みたいに俺たちがフォローできるとは限らない。
けれどもタオナケのあの様子を見ていると、俺たちではとてもじゃないが説得できる気がしなかった。
兄貴が言うには、まずタオナケを説得することは難しいだろうということだ。
人間の意志なんてそう簡単には変わらないし、頭ごなしに押さえつけても反発が強まるだけ。
だから貧困街に行っても大丈夫なよう、警護をつけるべきだと考えた。
だが俺たちでは力不足だし、タオナケ自身それを望まないだろう。
なので個の力が強い第三者にそれとなく警護してもらうのが、ひとまずの応急処置だと兄貴は分析した。
そこまで分析してもらえれば、俺たちが思いつく選択肢はだいぶ絞られる。
俺たちは魔法少女に頼み込んだ。
とある一件で正体を知って以来、俺たちはたまに魔法少女に絡むようになった。
「うーん……そーいう個人的な問題は魔法少女の管轄内だっけ?」
「そもそもの話をしますと、我が社の魔法少女は試験の一環として都市に配属された操作型アンドロイドです。有志を募って参加していただいております」
「駄目ってこと?」
「魔法少女になってやることは、主に自分の住む町の自警活動や、イベントなどの参加。後は定期的に報告書の提出や、魔法少女たちの集会に参加していただくことです。後は、良識の範囲内で魔法少女になることは自由となっております」
「そうなります」
「それじゃあ、タオナケをさりげなく警護してあげてよ。ついででもいいからさ」
「うーん、駄目ってわけじゃないけど、そういうのって際限がないしなあ」
「そんなこといって、ほら、あるだろ……マジックワードが」
「そんなものないよ」
「パワーワードでもいいよ」
「パワーワードもないし、そんなのでどうにもならないでしょ。そもそも、どうしてタオナケちゃんはそんなことをするの?」
ところ変わって兄貴のほう……
へとへとになりながらもバスにギリギリで駆け込み、いつもの席に勢いよく座りこんだ。
「やあ、マスダ」
「はあ……あ、センセイ……はあ、どうも」
センセイは兄貴が通学でよく利用するバスで乗り合わせる人で、何度か見かける内に話すようになったらしい。
センセイといっているが兄貴が勝手にそう呼んでいるだけで、この人が実際は何をやっているかは知らない。
バスに乗っている時だけ話す間柄だし、必要以上の詮索は無用だかららしい。
「まあ、大事にならなくて何よりだ。その子供たちも、もちろん君もね」
「それにしてもタオナケのやつ、どうして自ら危険の可能性を上げるような真似をするんでしょうね」
「ふーむ……一口には言えないが、“可能性を肯定していない”からじゃないか」
「なんすかそりゃ。可能性って肯定するかどうかってものじゃないでしょ」
「勿論そうだけど、現にそうやって生きている人は多いよ。私たちが乗っているこのバスだって、何らかの事故が起きる可能性は常に横たわっている。でも、それを恐れて乗らないという選択をすることは、まずないだろ?」
「そりゃあ確率が高くないですし、享受できるメリットを捨ててまで考慮すべき可能性じゃない」
「そう。可能性はあって、それが低いか高いかの差だ。重要な差ではあるが、個人にとって参考材料の一つに過ぎないのも確かなんだ。その可能性をいちいち恐れていては何も出来ない。だから時に、人は“可能性を肯定しない”んだ」
「ああ、“可能性を肯定しない”ってそういうことですか……でも、それって危機管理能力を鈍らせることになるんじゃ」
「その側面もある。例えば原発への反対の声が強くなったのは、実際にそれで事故が起きてからだ。可能性そのものは常にあったけれども、それを肯定したという好例だな」
「センセイって原発反対派なんです?」
「ははは、例え話で持ち出しただけで別にどっちでもないよ。私が言いたいのは、人間ってのは可能性を正確に知覚できない生き物だってこと」
「そういうことだ。“否定”ではなく、あくまで“肯定しない”。同じ意味のようで、ちょっと違う」
「なるほど、つまりセンセイがこうやって俺に話をしてくれているのは、乗り過ごす可能性を肯定していないからなんですね」
『イアリ~イアリ~』
「これをより深く理解するためには、蓋然性という概念についても……あ!」
センセイがいつも降りる場所は、その時点で既に通り過ぎていた。
どうやら話に熱が入りすぎてしまったらしい。
「……誤解しないで欲しいんだが、“可能性を肯定しない”のと“気をつけない”ことはイコールじゃないからな?」
「私も降りよう」
学校にたどり着いた頃には俺たちは息も絶え絶え。
特にタオナケを抱えて走っていた兄貴の疲労は相当なものだった。
「ここまで来れば十分だろ」
兄貴はタオナケを降ろすと、呼吸を調えて酸素を供給して脳を稼動させる。
「学校……そうだよ、学校あるんだよ。なんで朝からこんな……金を貰おうがボランティアは二度とやらん……」
うわ言を呟きながら、兄貴はよろよろとした足取りで去っていた。
トラブルに巻き込まれたのが、よほどショックだったのだろうか。
「やれやれ。これにこりたら、あんな場所を一人で歩こうとはしないことだな」
「私、疑問なんだけど、何その理屈」
タオナケが今日俺たちに初めて投げかけた言葉は朝の挨拶でも、助けてもらったお礼でもなく、怒りの言葉だった。
元から気難しいところがあったが、ここまで過剰に反応するのは初めてだったので俺たちは戸惑った。
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってないけど、言ってるようなものでしょ」
「違うってば、タオナケ。巻き込まれたのは気の毒だけど、それはそれとして自衛に努めようって言っているんだよ」
「私は悪くないけど、そんな奴らを気にして自衛しないといけないの? 理不尽だわ!」
いや、全く分からないというわけじゃない。
けど主張を理解するための、タオナケの“心の根っこ”が分からなかった。
「不平不満を言っても事態は好転しないよ。個人差はあるけど皆やってることだ。ほら、僕も防犯ブザー持ってる。聴覚が敏感だから防犯ブザー使ったら自滅するけど、そのために唐辛子スプレーも持ってるよ」
「つまんねえ揚げ足とるなよ、ミミセン」
「もういい、絶交よ!」
「ちょっと遅くないか? 早く来てくれないとこっちも困るんだが」
「まあ、いつもの寄り道だろうね」
「寄り道?」
それを知らない兄貴が尋ねてくる。
「ほら、あそこだよ。いわゆる“貧困街”」
最近のタオナケは、通学中に寄り道をすることがマイトレンドだった。
俺たちはそのエリアのことを、『貧困街』って勝手に呼んでいる。
その荒廃した様相がタオナケの美的感覚に触れたようで、彼女は暇さえあればそこを通ることが多かった。
俺たちにとってはいつものことだったのだが、兄貴はそれに怪訝な表情をした。
「そこ大丈夫か? 治安が悪いってよく聞くし、この団体の管轄外だぞ」
それを聞いて俺たちは途端に不安に駆られる。
「まあ、今まで大丈夫だったんだから、今回も大丈夫だって可能性も高い。治安が悪いって言ったって、早々事件に巻き込まれるってわけでもないし、ましてやタオナケには超能力があるだろ……」
兄貴はその雰囲気から面倒事を感じ取り、慌ててフォローし始める。
だが、もはや俺たちの結論は決まっていた。
「他にもっと頼りになるのがいると思うんだがなあ」
「少なくとも今すぐ付いてきてくれて、その上で頼りに出来るのは兄貴だけだよ」
「……割に合わないボランティアだ」
ここは貧困街 俺たちはそう呼ぶ
貧しくて困ってる エリアなのさ
具体的に何で 貧しいのか
具体的に何で 困ってるのか
知りもしないし 知る必要もない
ここは貧困街 俺たちはそう呼ぶ
廃墟がところせましと並ぶ街
見分けがつかないし つかなくてもいい
貧困街のエリアにたどり着くと、意外にもタオナケはすぐに見つかった。
騒ぎを辿っていくと、そこにいたのだ。
どうやら自治体の抗争に巻き込まれて脱出し損ねたらしく、その中心でオロオロしていた。
「ほら、やっぱり俺たちが来たのも、兄貴を連れてきたのも正解だったでしょ」
「ああ、そうだな……言っておくが、俺の気が沈んでいるのは予想が外れたからじゃなく、今からタオナケを助けるためにあそこに突っ込まないといけないからだ」
「じゃあ、シロクロ。マスダの兄ちゃんを手伝ってあげて」
「アイアイ! どけいっ、みんな、どけい!」
ミミセンの指示で、シロクロは全速力で抗争の渦中に突っ込んでいくと、そのままどこかに行ってしまった。
だが、そのおかげで獣道ができて、兄貴はそれを更に広げるようにしながら進んでいく。
そうしてタオナケのもとへたどり着くと、有無を言わさず抱きかかえて、そそくさとその場を後にした。
「よし、俺たちも逃げよう」
この世は俺たちが思っている程度には安全だ。
でも、思っている程度には危険でもある。
家では電気やガスを使わない日はない。
外を出れば、人を簡単に殺せるモノが次々と俺たちの周りを通り過ぎる。
でも基本的に、俺たちはその背後にある死の影に怯えたりはしない。
人はいつか死ぬと分かってはいても、少なくとも今じゃないとは思っている。
大なり小なり人々は危険を理解することで、それなりの安全を手に入れているわけだ。
じゃあ、もしその認識をどこかで誤ったら……?
今回は、そんな感じの話だ。
その事件は通学中に起きた。
「でも、ここ信号ないよ」
「じゃあ、しばらく待ちな。お偉いさんに言いつけて設置してもらうから」
通学路には、ドギツイ色で覆われた服を着た大人たちが所々に配備されている。
彼らは子供たちが安全に通学できるよう、引率しているとのことだ。
どこかの市民団体らしいが、この町にはそういうのが多すぎるので具体的なことは知らない。
いてもいなくても俺のやることは変わらないから、大して関心もない。
だが、その中に意外な人物がいたので、思わず話しかけずには入れなかった。
「あれ、兄貴もやってんの?」
寝起きで気分が悪いのか、兄貴は鬱陶しそうにこちらを睨んでくる。
「ああ、ボランティアでな」
これまた意外だ。
「落ち目の有名人や、暇を持て余した金持ちが売名目的でよくやってるせいで変なイメージがついているが、ボランティアはタダ働きとは限らないぞ」
ああ納得、やっぱり“そういうこと”か。
「まあ、薄給だがな。俺だって、いつもやってた掃除のバイトが今日はないから何となくやってるだけ」
兄貴のこういうバイタリティには感心するけど、あんまり羨ましいとは思わないのはなぜだろうか。
「ほら、さっさと学校いけよ。お前を連れていったら、俺も自分の通ってる学校行かないといけないんだから」
「待ってよ。ここで友達と待ち合わせしてるんだ」
数分ほど待っていると、まずミミセンがやってきた。
シロクロは学生じゃないから呼んでいないのだが、ミミセンの姿を見てついて来たようだ。
「後はタオナケとドッペルか……」
「ドッペルならもう来てるぞ」
そう言って兄貴が自分の足元を指差すと、そこにはドッペルがいた。
ドッペルは変装が得意な上に気配を消すのが上手いから、あっちから話しかけてくれないと気づきにくい。
「ということは、後はタオナケだけか」