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はてなキーワード: 離脱症状とは

2022-12-18

anond:20221218004048

サインバルタ離脱症状が怖いけど、まあやってくしかないよな。

お互い良くなるといいね

2022-12-14

anond:20221214181015

下戸ほどなんかのきっかけでアル中になる説もあるから気をつけ続けるんやで

アル中になって、断酒したら離脱症状救急車運ばれるのを何度も繰り返したワイがいうんやからほんま気をつけ続けるんやで

2022-11-28

anond:20221128233548

禁煙すると、

1日で…

心臓発作の確率が下がります

2日で…

臭いと味の感覚が復活し始めます

3日で…

ニコチンが体から完全に抜けます

気管支の収縮が取れ、呼吸が楽になります。肺活量が増加し始めます

1週で…

睡眠リズムが正常に戻り始めます

2週から3週で…

体全体の血液の流れが改善し、歩行が楽になります。肺活量は30%回復します。

4週で…

禁煙による離脱症状が軽くなり、ストレスも減ります

3ヶ月で…

増進された食欲がもとに戻り始めます


にはならなかったのか。残念。

禁煙外来マニュアルより

http://www.bandainaika.com/kinen/kinen05.php

2022-11-15

anond:20221114191846

ストラテラ1年くらい続けたけどやめた男の感想

概略

元増田と同じく業務不適合起こして降格と閑職へ一時的に異動したときメンクリ受診

ストラテラを処方された。

2週間に1度くらいの診察で薬の量はどうかなどを決めていってその分を処方される。

用量は覚えてないけど、少な目→中くらい→多め→中くらいの流れだった。

一時期デパスとかも出されたけどあんまり効果は感じなかった。

最終的にコンサータに手を出したかったものの、処方できる医師が捕まらなかったのと、

同時にカウンセラーが変わったタイミングカウンセラーからプレッシャーが強くなった感じがあってそのメンクリからは離れた。

今は何も飲んでない。

 

効能副作用

頭の中がすっきりした感じで仕事やすくなるなどがあるみたいだが、

正直閑職でほぼほぼ何もすることがなかったのと、後述の飲んだ後の副作用がキツくて午前中は仕事にならず、午後は昼めし食った影響の眠気が倍増してどうにもならないという日々が続いた。

徐々に作業を渡されたが、考える方向が変な方向には少しは行きにくくはなったが、集中力などは変わらずといったところ。

 

正直、飲んだ後の副作用キツイ

飲み始めて30分たったあとから倦怠感が半端なく、30分~1時間くらい続き、その後も眠いようなボーっとした感覚のままなので午前中は仕事にならない。

飲み続けることで「慣れ」はあったが、ストラテラの量を増やしたら増やしたで倦怠感が強化されるので一番多い時期から少し減らしたタイミングまでは地獄だった。

 

性欲は飲む前よりは減退したと思うが、加齢も要因かもしれないので一概にいえない。

 

感覚過敏は当時はなかったが、今のほうが過敏になったかもしれない。

 

クリエイティブなことを考えることができなくなったのは起きたと思う。

その時期に思いついたものがないのでそこだけすっぽり抜けている感覚がある。

 

結果

1年飲んでも効能は得られないし、副作用の影響のほうが大きくやめてしまった。

離脱症状はあったものの、飲んだ後の倦怠感以下のだるさしかなかったのでそこは問題なかった。

 

伝えたいこと

飲んでから効果を実感するまで長い期間を要する薬ではあるが、半年くらい飲み続けて効果を得られなさそうであれば

すぐにコンサータなどに切り替える相談医師にした方が良いと思う。

2022-08-08

精神科について

googleマップ精神科レビューを見ていた。低評価の中に多いのが「薬を大量に出されて薬漬けにされる」というもの

おいおい。と思う。薬なしで治りたいってそれで治れば苦労しねえよ。

プロ精神病患者ってのはね、生きるか死ぬかって状況でなんとか生き残りたいと思って病院来てんの。

診察料に利き腕をいただきますって言われても、そりゃ許容よってレベル

ナメプ勢はカウンセリングでも受けとけ。

精神病治すのはなあ、辛い離脱症状に悩まされながら自分に合う薬を試行錯誤していく作業なんだよ。

だってすぐなじむわけじゃねえからよぉ、合わねえなあ気持ち悪いなあつれえなって思いながら1か月とか耐えるんだよ。

そんでやっぱこの薬じゃねえかって辞めるのにも離脱症状よ。ほんで次の薬な。量も色々試してな。

ここではっきり言っとく。いい病院ってのは話をよく聞いてくれる医者がいる病院じゃねえ。症例に合わせた薬を出して

合った薬を探してくれる病院

医者に頼るな。薬に頼れ。

精神科について

googleマップ精神科レビューを見ていた。低評価の中に多いのが「薬を大量に出されて薬漬けにされる」というもの

おいおい。と思う。薬なしで治りたいってそれで治れば苦労しねえよ。

プロ精神病患者ってのはね、生きるか死ぬかって状況でなんとか生き残りたいと思って病院来てんの。

診察料に利き腕をいただきますって言われても、そりゃ許容よってレベル

ナメプ勢はカウンセリングでも受けとけ。

精神病治すのはなあ、辛い離脱症状に悩まされながら自分に合う薬を試行錯誤していく作業なんだよ。

だってすぐなじむわけじゃねえからよぉ、合わねえなあ気持ち悪いなあつれえなって思いながら1か月とか耐えるんだよ。

そんでやっぱこの薬じゃねえかって辞めるのにも離脱症状よ。ほんで次の薬な。量も色々試してな。

ここではっきり言っとく。いい病院ってのは話をよく聞いてくれる医者がいる病院じゃねえ。症例に合わせた薬を出して

合った薬を探してくれる病院

医者に頼るな。薬に頼れ。

2022-07-25

禁煙対策効果の程

禁煙時のニコチン離脱症状を軽減させるらしいあれこれ、色々試して見たよ。

運動する

ロードバイクスクワットを試した。

前者は乗ってる最中こそ誤魔化しが効いたものの走り終えて一息ついた瞬間からもう吸いたい。

スクワット最初の1回だけ少し効果を実感した。

2回目以降はむしろスクワットしながら煙草吸いたい。

・ガム

一瞬たりとも誤魔化せない、ガムむしゃむしゃしながらもう煙草吸いたい。

別にガム噛みながら煙草吸う習慣があったわけではない。

とりあえず吸いたい。

深呼吸

どれだけ繰り返しても煙草が吸いたい。

散歩

歩きながら無限煙草が吸いたい。

普段歩き煙草なんかしなかったのにな。

とまあ全部殆ど効いてない。

禁煙できてるのは一重に

煙草屋もコンビニも遠い

・愛飲してた煙草コンビニで買えない

・家に1本も煙草を残していない

ATMで下ろさないと現金もない

増田煙草吸いたいと悲鳴をあげて誤魔化してる

以上5点がとても強い、どれか一つでも欠けてたらとっくに耐えられなくなってる。

2022-05-14

anond:20220514221219

謝るほどのことでもないさ。ありがとう

あと、精神薬は減薬、断薬受診離脱症状が怖いね。まだ当分先の話だけど。

2022-04-27

うつ病じゃないかもしれない

昨年の9月から、原因不明微熱疲労感、睡眠障害、気分の落ち込みがあり、仕事に行くのが辛くなってしま休職しています

職場人間関係も良く、無理のない労働環境でした。

職場上司から、会話中(会議中じゃなくて会話中です)に居眠りしてしまうことや体調不良による欠勤が増えたこから休職を勧められたのですが、「申し訳ありませんでした、まだ頑張れます、働かせてください」と言いながら自分の髪の毛を両手で掴んで思いっきり抜いてしまいました。

その様子を職場上司精神科主治医に伝えたところ、

うつ病っぽいけどなんか普通うつ病と違う?」と感じたそうで、まずは統合失調症の薬が出されました。

しかし、妄想幻聴などは全く無く、「本当に統合失調症かなあ…?」と疑問を持ちながら服薬していました。

また、その頃ものすごく涙もろくなっていました。

誇張なく毎日特に16時くらいを過ぎると涙が溢れるようになります理由特にありません。

休職し始めだかナイーブになっているのかな、やっぱりうつ病なのかな、と思っていました。

涙が出ることを主治医に伝えると、統合失調症の薬に加えて双極性障害の薬を出してもらえることになりました。

その1か月後、私の身体パニック発作が起きるようになります

息が出来ず、全身が勝手に痙攣する発作でした。

頻度は2週間おきに1回、場所は自宅のベッド、時間は寝る直前、発作は毎回3時間ほど続きました。

パニック障害になってしまたかあ…と思い、病気のことを調べましたが、なんだか自分の症状とは違うな…と思う点も多くありました。

睡眠障害も気になっていたので睡眠外来検査を受けましたが、異常はなしとのことでした。

入眠障害があるので、精神科の方で睡眠導入剤を処方してもらっています

月経前症候群(PMS)の可能性もあったので、婦人科ピルの処方もしてもらっています

また、血液検査でかなりの貧血だということも分かったので鉄剤も処方されました。

その後パニック発作が起きるのではないかと常に恐怖を感じるようになったので、うつ病パニック障害に効くSSRIという薬を精神科で出してもらいました。

この時点で統合失調症の薬、双極性障害の薬、ピル、鉄剤、睡眠導入剤を飲んでいたので結構な量ですね。

SSRIは私の身体に全く合いませんでした。

うつパニックが良くなっているとも思えなかったし、

何より猛烈な吐き気があり、毎日吐いていました。

しかし、この薬は2週間飲まないと効果が出ないのでなんとか頑張って飲んでいました。

それから2週間経っても吐き気が治らず、外出も困難になっていたため薬を変更してもらいました。

別の種類のSSRIが処方されましたが、

こちらも吐き気が起きてしまい、家から一歩も出られない日が続きました。

そうなると筋力が弱るので、家から徒歩5分もかからないコンビニに行くのすら重労働でした。

SSRIをやめることになりました。

これで一応薬の副作用による吐き気は無くなりましたが、

ストレスで吐くくせがついてしまったので、吐き気止めを持ち歩くようになりました。

涙が夕方からじゃなく、朝からも出るようになったので精神科相談に行きました。

感情コントロールのため、統合失調症の薬の量を増やしますか?」と聞かれたので、

「私の病気統合失調症で間違いありませんか?」と尋ねたところ、

「まだ分からないですね。うつ症状は出ているとは思いますが、確かに今のところ統合失調症らしい症状は出ていませんよね」と言われたので

「じゃあこの薬中止させてもらえませんか?」と提案したところ、中止させてもらえました。

統合失調症の薬をやめたと同時に、人生経験したことのないような睡魔に襲われました。

とにかく24時間眠い。人とまともに話せないし、食事をしようにも噛む気力が無くて大変でした。

しか不思議なことに、気を失いそうな程眠いのに、いざベッドに入ると眠気はあるのに全く眠れません。

睡眠導入剤を飲まないと眠れませんでした。

薬をやめたことによる離脱症状かと思っていましたが、

主治医によると薬をやめたことでそんな眠気が起きることはありえないそうです。

眠すぎて全然日常生活が送れないことにイライラし始めました。全然食事ができないので気づいたら体重が激減していました。

筋トレがいいとか、散歩して日光を浴びるのがいいとか、バランスの良い食事がいいとか、そういうアドバイスはもらっても全部実行できませんでした。


しかし、良い変化もありました。

統合失調症の薬をやめてからなぜかパニック発作が起きなくなったのです。

今までかなりストレスになっていたので安心しました。

その後の診察で、「双極性障害の薬も効いてる気がしません」と伝えたところ、双極性障害の薬もやめさせてもらえました。

これでかなり薬が減りました。

双極性障害の薬をやめても特に何も起きませんでした。

尋常じゃない眠気に困っていたある時、

ネット上で「ヤクルト1000」が流行っているのを見たので、2週間続けて飲んでみたところ、

眠気がかなり改善されました。

病院で2時間くらい待たされているとき死ぬほどイライラしていたのですが、それもなくなりました。

涙も止まるようになりました。

それでも体調は万全ではありません。

常に身体は重だるく、憂鬱気持ち、疲れやすさがあります

到底職場復帰できる体調ではありません。

生活にかかるお金を少しでも節約するために、

先日障害者手帳申請しました。

障害者手帳申請には精神科から診断書必要なのですが、診断書には「うつ病」と書かれていました。

昨年の9月から休んでいますが、病状が良くなっているとは全く思えません。

私は本当にうつ病なのでしょうか。

今は金銭的にも苦しく、回復する目処も立たないため、死んでしまいたくなります

発達障害検査も受けましたが、平均的な結果でした。

やはりもう死ぬしかないのでしょうか…

2022-04-20

悪友との別れ

全ての元凶は酒だった。数々の失敗、失言黒歴史、その傍らに常にお酒があった事に今更ながらに気づいた。

酒飲みの田舎の家庭で育った為に美味しい酒と肴が常にあった。自然に飲み助に育った。酒は心の友だった。

それから何十年と経ち、今では常に鬱気味で過去黒歴史フラッシュバック、たまに人に会うと大小の失敗と失言自己評価の損失に悶え苦しむ、そんななりになってしまった。

そこで気づいた。自分のしょうもない人生ずっとこのパターンだったと。


シラフ・・・調子いい

飲酒・・・好調

ここで何かに対応する自体があると必ずミスを犯す!!!

●酔い覚め・・・絶不調(ミスを思い出して悶え苦しむ)

離脱症状・・・絶絶不調(全身の鳥肌と震えと人生の数々の失敗の反芻で悶え苦しむ)

●第1コース・・・2週間くらい離脱症状が続く→シラフに戻る

●第2コース・・・毎晩泥酔コース


気がついて嘘みたいだけど自分人生ほぼこの繰り返しだった。酷いもんだ。失ったものは数しれない。大事大事ものもあったのに。


離脱症状がおさまってきてシラフ状態で書いてる。

人生の夢も覚めたのか。

覚めたんだ。

夢に期待しすぎた。

ロマンチストが過ぎたんだ。

友よさよならの時期か。

2022-04-09

解離性健忘かもしれないという話

昔の記憶ほとんどないような気がする。

一昨年うつ病と診断された現役大学生だが服薬しながら休んでたけど、薬を飲んでも悪夢ばかりで全く休めないこと、ネットで薬のことを調べるとあまり良くない情報が目に入ってしまい、怖くなってきて勝手断薬した。

シャンビリ感、反跳性不眠、頭痛肩こり筋肉の強張りとか離脱症状に悩まされてるけど、最近少しおさまってきて、生活リズムをできるだけ直して、漢方を飲んだり、たんぱく質とかマグネシウムを摂るようにご飯ちゃんと食べたりして養生中。

なぜ自分が解離性健忘なのかと思ったのか、経緯を話したい。(書いてみたら結構長くなってしまったので読める人だけどうぞ…)

去年の春休み、ひたすら眠ることしか出来ず、トイレに起き上がるのも一苦労だった。すごく死にたがってて(これもちょっと記憶曖昧)、どうせ死ぬなら今まで読もうにも読めなかった漫画を買って読んでから死のうと思い、気になる漫画電子書籍で数万単位使って買った。

から漫画は好きだったし、コロナ禍で外に遊びに行くことは減り、バイトで貯めていたお金が余っていたのでそれを崩して買った。活字だけの本は読めなかったけど、漫画なら読めた。それから夏休みはずっと漫画を読んでいて、寝るか、漫画を読むかの生活だった。何もやる気は起きなかったけど漫画だけは読めたから、これが酷い時期から脱する回復に繋がったのかもしれないと今では思う。

春休み明け、春休み前にいくら読んでも内容が理解できなかった活字だけの本を、レポート課題のために読み直した。すると、なんとスラスラ情景が浮かび、登場人物名前も覚えられる。今まで登場人物名前関係性がぱっと理解できず、悩みまくってたことを不思議に思うくらいに。

頭の中の霧が晴れるようだった。今までの悩み事が全部解消された感じ。

自分は生まれ変わったんだと思った。

でもよく見慣れたはずのゼミの人たちと話している時に違和感があった。顔と名前は覚えているけど、第一印象とかその人と話していて自分が感じたこと、思ったことは全く思い出せない。

その後も仲のいい友人と会って思い出話になる時、表面上では「そんなことあったね〜」と流してはいたが、ほとんどの場合は「そうだっけ?」「そんなことあったっけ?」「その時、自分はどう思ったんだっけ?」「その時、自分は何も感じなかったから覚えてないのか?」と考えることが多かった。ただ忘れただけかと思ってたけど、あまりにも覚えてなさすぎる。なぜ自分はこんなに出来事を覚えていないんだ?

調べてみるとうつ病の人は物忘れが多いこと、短期記憶が難しいこと、あと薬の副作用でもそうなるらしいことがわかった。該当しないことはないが、本が読めるようになったから違うのでは?と思った。さらに調べていくと、健忘というのが目に入った。全般性健忘、解離性健忘…周りから見ると普通だが、本人から同一性がなくなっているだとかなんとか…。これっぽいなと思った。自伝記憶エピソード記憶?というのがあまりないように思える。付け焼き刃の知識なので、勉強不足のように感じると思うがそこは許してくれ。

自分にまつわる「事実」を思い出すことはできる。自分名前出身地、生年月日、母校、家族名前と顔、友人の名前と顔、アルバイト先、所属していた部活、通っていた病院…これらに密接に関係していた時に、付随しているはずの感じたこととか思ったことの記憶ほとんどない。

昔の記憶を思い出そうとしても、主観的ではなくて、自分をその場の第三者視点から見ているようなものが多い気がする。

そもそも昔の記憶がそれほどないからなんともいえんが。

去年の春休み前までの記憶がすっぽり抜け落ちている感覚。海面の部分は見えるけど、そこから下はすぐに深海みたいなイメージ。…分かりづらいな。本当に氷山の一角だけ思い出せるような感覚かも。

書きながら思ったが、むしろ記憶を失くす前の自分が覚えすぎていただけか?

これと言ってトラウマになるような戦争体験とか事故性的虐待経験はないが、無意識下の心理的葛藤が原因なら該当するかもと思った。人間関係でよく悩んでいたし、自分一挙一動を振り返って反省する癖もあった。

病院に行って診察受けて自己同一性を再獲得すべきなのか、このまま生きていってもいいのか、ここ数日悩んでいたため書いてみた。でも医師を信じるという行為が今の自分にはまだ難しいので、通院は無理だろうな。せっかく断薬したBZ系の薬も飲みたくないし。

今までと同じように接してくれている友人、家族感謝しつつ、このことを打ち明けようか、かなり悩んでいる。一時的ものですぐに記憶が戻ればいいけど。

長々と書いたが、とりあえず今の自分気持ちを誰かの目の止まるところに吐き出したかった。

とりあえず飯食って休むのが今は良いのかもしれない。

最後まで読んでくれた人ありがとう





追記:2022/04/20

ブコメ言及コメント全て読んでます

医者を変えても良いという言葉を聞いて、だいぶ病院への向き合い方が変わりました。ありがとうございます

その後、他の病院に行って大学も休学し、とりあえずうつ病治療に入った。離脱症状はなくなりました。

医者によって処方の仕方とか診断とかかなり違うんだな。

健忘のことについては、今のところ日常生活に支障が出るほどではないのでもう少しして辛くなることがあったら後々医師に話そうと思う…。

2022-03-31

修了しました

どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。

これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。

・生い立ち

私はごく普通環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分一言でいうと優等生気質だった。学校勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプ人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。

小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からブラスバンドやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。

中学では周りの部員吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔信者であり、親や先生にほめられている優等生自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間からどこかで破綻すると思っていた。

 高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラル教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校部活軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問専任希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプ人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人アプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験もっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しか高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生から勉強ができるという認識をされていた。

 3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本演出担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通大学に行くねとなった。

 問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。

「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」

親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊制度もつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。

長くなったが、これが地獄の幕開けである

大学という場所

1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。

大学では勉強サークル恋愛バイトのうち2つしかできない」

勉強は好きではないので、サークルバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオ個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金ショートした。親にバイト禁止されていたため練習交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。

 大学の授業はひどく不親切であった。大学レベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義解決してしまものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間無駄に思えて次第に講義休みがちになった。

 それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなもの大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。

崩壊

 初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義存在しない。正義道徳立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。

 そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分無能さを騙して生きていたのかもしれない。

 さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動事実上全部やめ、バイト勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。

あんた人にいいように使われてるだけでしょうが

人にやさしく優等生してきた自分生き方への批判自分が仲良くしている人たちへの非難ダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。

数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルバイト恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分無能が隠せなくなってしまったのである

 3年目は再びバイト禁止した。クラスでの試験対策仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだ大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境サポートがあって自分勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。

公正世界仮説評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学いじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。

・専攻決定

4年目にして2年生。この年は諸々の事情クラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。

そして、4年前に選択先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。

理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学システムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。

このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。

実験異変

5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。

 3年生の必修は実験だけだったので、他の単位犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。

 溜まりに溜まったレポート夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。

 4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続き入試勉強、足りなかった単位試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。

能力環境

学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。

 親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなた世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般評価邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。

 やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークル作曲体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。

・進学と私

大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部時代夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたかである研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないか就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。

 私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。

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2022-02-13

anond:20220213142017

耐性や離脱症状のない薬は病気に関わる全ての人間が望むことだと思うよ

脳の薬はおいしいが耐性が出てくるのと離脱症状が最悪なのがな

もっといい薬出来ないか

2021-12-18

無題

僕は三年前近くからデパスマイスリー等の安定剤睡眠薬摂取している。

きっかけは大学生時代コンビニ居酒屋等の周りのみんなと違う仕事がしたいと興味本位で飛び込んだ大阪ミナミの夜仕事

仕事内容はよくあるミックスバーで特段おかしいことはない、元ホストの先輩たちが風俗嬢のお客さんを呼んだり、キャバクラのアフターで利用してもらう。勤務時間は0:00~5:00、よくあるバーだった。

僕は特段酒が強いわけでもお喋りなわけでもないのでひたすら皆が飲み明かすグラスを洗うことに徹していた、売上を上げない事に関してはオーナーが寛容に許してくれてその優しさに甘えながら裏方としての仕事に徹していたし、酔い潰れた従業員やお客さんに頼られた時は裏方が向いてるなとさえ思った

真面目に授業を受けていた訳ではなかったが、大学に通いながらの夜勤は思っていたよりもハードですぐに自律神経に異常をきたし不眠に悩まされた。 裏方でいつも陰気にしている僕を気に入ってくれた風俗嬢のお客さんに不眠を相談すると持っているデパスマイスリーをくれた、たしか一ヶ月分程度だったと思う。「はじめはデパスだけでいいと思う、1mgだから半分に割って飲むといいよ」 これが入り口だった。 病院にも行かずお客さんが処方された安定剤横流ししてもらって飲んで、寝て、大学へ行って寝る、大学が終わったら寝て起きたら仕事、そんなルーティン

半年程続いたルーティンは先輩からの一本の電話で終わりを告げた。「明日から一旦シフト無しで!また忙しくなったらまた連絡するから手伝って!」実質のクビ宣言。突然の宣告に驚きはしたものの考えてみれば何も不思議な点はなかった。半年働いて呼んだお客さんは二人。お客さんに頂いたドリンクを合わせても売上は7万いけばいい方だったと思う。そんな僕を時給1500円という待遇で雇い続けるのも限界は来る、それがその時だった。

今でもその先輩、オーナーさん達にはよくしてもらってる。 結果夜職を辞めたことで僕の手元に安定剤眠剤は無くなったし、必要にもしなくなった。

飛んで今年の三月、僕は大学卒業し四年間住んだ大阪を発ち就職の為東京に移り住んだ。

これまで大した挫折も味合わず、色んな人に甘やかされて生きてきた全能感にまみれた僕は新卒二ヶ月目にして東京精神を患った。

パワハラ嫌がらせを受けた訳じゃない、ただただ自分無能さに気づき酷く落ち込み出社できなくなった。

コロナ禍において体調不良で休むのは非常に容易で有給を使い果たし、やがて休職に至った。

精神科に行き、「抑うつ状態」「適応障害」「レム睡眠障害」と診断された。その時は自分の病名に何故か誇りに似た感情を持ったことを覚えている。

以前デパスマイスリーを「処方」されていたと言い僕はデパスを初めて「処方」してもらった。

そこから毎日しかった。自分の病名に酔い、自分無能さに気づいたことを盾に毎日ゲームドラマアニメ鑑賞、寝たいときデパスを飲み、遊びたいときに遊ぶ。

システムに甘え休業手当を受け取り、大学生時代貯金を削りながら毎日治療のため」と嘯き自堕落に過ごしながら何不自由ない生活を送った。何も生産しない落ちこぼれ、そんな自分を愛した。

6月から8月休職し、復帰する予定だったがお医者さんの筆一つで夏休みの延長チケットを獲得できる。その甘えに乗った。

9月末、これが僕の人生最後夏休みといいながらまた同じような生活をした。でも確実に治ってはいる、働ける。

9月中旬僕の家に遊びに来た彼女シャワーを浴びてる間にLINE確認。5股あるいはそれ以上の男とのLINEを見て気が狂った

もう何を飲んだのかもわからないがとりあえず意識飛ばしたかった、今この場に存在しているだけで頭がおかしくなると思い、そこらにあった薬を合計2シート程のんだ。

結局その彼女と別れた喪失感に耐えられなかった僕は再び延長チケットを手にした。

11月末新しく彼女ができた。コカイン中毒彼女

僕の知らない世界を生きてる彼女、なのに話が合う彼女に惹かれ交際を始めた。

彼女は言った「眠剤バカになるから辞めて、わたしコカイン辞める」

二つ返事で快諾、眠剤バカになると言っている理由もわからなくもなかった。その時の僕は健忘症が激しくて物事時系列や、記憶因果関係がめちゃくちゃになっていた。

でも僕は自分依存しているなんて思ってもなかった。

次の日、行きつけのバーバカみたいな飲み物を沢山のんだ、テキーラコカレロ、ビール3:ウォッカ7のカクテルのようなもの、どこからかでてきたシャンパン

完全に潰れた僕を心配して彼女は僕の家に初来訪、閉店間際にタクシーで向かった。タクシーの中が酒臭すぎて寒いのに窓を開けていたのを覚えている。安心していた、横に彼女がいることと酔い潰れて家で眠れることに

でも僕は眠れなかった、普段なら寝ている時間疲弊した身体を持ってしても全く眠れなかった。この時自分身体眠剤依存していることに自覚した。

そこから丸一日24時間経過してから僕は耐えきれず眠剤を飲んだ。サイレース2錠とデパス3錠

こっからが本番メインだけどもういいや書くの飽きた

眠剤気をつけないと離脱症状悪夢を見るし幻覚幻聴聞こえるから気をつけてねぴーす

無題

僕は三年前近くからデパスマイスリー等の安定剤睡眠薬摂取している。

きっかけは大学生時代コンビニ居酒屋等の周りのみんなと違う仕事がしたいと興味本位で飛び込んだ大阪ミナミの夜仕事

仕事内容はよくあるミックスバーで特段おかしいことはない、元ホストの先輩たちが風俗嬢のお客さんを呼んだり、キャバクラのアフターで利用してもらう。勤務時間は0:00~5:00、よくあるバーだった。

僕は特段酒が強いわけでもお喋りなわけでもないのでひたすら皆が飲み明かすグラスを洗うことに徹していた、売上を上げない事に関してはオーナーが寛容に許してくれてその優しさに甘えながら裏方としての仕事に徹していたし、酔い潰れた従業員やお客さんに頼られた時は裏方が向いてるなとさえ思った

真面目に授業を受けていた訳ではなかったが、大学に通いながらの夜勤は思っていたよりもハードですぐに自律神経に異常をきたし不眠に悩まされた。 裏方でいつも陰気にしている僕を気に入ってくれた風俗嬢のお客さんに不眠を相談すると持っているデパスマイスリーをくれた、たしか一ヶ月分程度だったと思う。「はじめはデパスだけでいいと思う、1mgだから半分に割って飲むといいよ」 これが入り口だった。 病院にも行かずお客さんが処方された安定剤横流ししてもらって飲んで、寝て、大学へ行って寝る、大学が終わったら寝て起きたら仕事、そんなルーティン

半年程続いたルーティンは先輩からの一本の電話で終わりを告げた。「明日から一旦シフト無しで!また忙しくなったらまた連絡するから手伝って!」実質のクビ宣言。突然の宣告に驚きはしたものの考えてみれば何も不思議な点はなかった。半年働いて呼んだお客さんは二人。お客さんに頂いたドリンクを合わせても売上は7万いけばいい方だったと思う。そんな僕を時給1500円という待遇で雇い続けるのも限界は来る、それがその時だった。

今でもその先輩、オーナーさん達にはよくしてもらってる。 結果夜職を辞めたことで僕の手元に安定剤眠剤は無くなったし、必要にもしなくなった。

飛んで今年の三月、僕は大学卒業し四年間住んだ大阪を発ち就職の為東京に移り住んだ。

これまで大した挫折も味合わず、色んな人に甘やかされて生きてきた全能感にまみれた僕は新卒二ヶ月目にして東京精神を患った。

パワハラ嫌がらせを受けた訳じゃない、ただただ自分無能さに気づき酷く落ち込み出社できなくなった。

コロナ禍において体調不良で休むのは非常に容易で有給を使い果たし、やがて休職に至った。

精神科に行き、「抑うつ状態」「適応障害」「レム睡眠障害」と診断された。その時は自分の病名に何故か誇りに似た感情を持ったことを覚えている。

以前デパスマイスリーを「処方」されていたと言い僕はデパスを初めて「処方」してもらった。

そこから毎日しかった。自分の病名に酔い、自分無能さに気づいたことを盾に毎日ゲームドラマアニメ鑑賞、寝たいときデパスを飲み、遊びたいときに遊ぶ。

システムに甘え休業手当を受け取り、大学生時代貯金を削りながら毎日治療のため」と嘯き自堕落に過ごしながら何不自由ない生活を送った。何も生産しない落ちこぼれ、そんな自分を愛した。

6月から8月休職し、復帰する予定だったがお医者さんの筆一つで夏休みの延長チケットを獲得できる。その甘えに乗った。

9月末、これが僕の人生最後夏休みといいながらまた同じような生活をした。でも確実に治ってはいる、働ける。

9月中旬僕の家に遊びに来た彼女シャワーを浴びてる間にLINE確認。5股あるいはそれ以上の男とのLINEを見て気が狂った

もう何を飲んだのかもわからないがとりあえず意識飛ばしたかった、今この場に存在しているだけで頭がおかしくなると思い、そこらにあった薬を合計2シート程のんだ。

結局その彼女と別れた喪失感に耐えられなかった僕は再び延長チケットを手にした。

11月末新しく彼女ができた。コカイン中毒彼女

僕の知らない世界を生きてる彼女、なのに話が合う彼女に惹かれ交際を始めた。

彼女は言った「眠剤バカになるから辞めて、わたしコカイン辞める」

二つ返事で快諾、眠剤バカになると言っている理由もわからなくもなかった。その時の僕は健忘症が激しくて物事時系列や、記憶因果関係がめちゃくちゃになっていた。

でも僕は自分依存しているなんて思ってもなかった。

次の日、行きつけのバーバカみたいな飲み物を沢山のんだ、テキーラコカレロ、ビール3:ウォッカ7のカクテルのようなもの、どこからかでてきたシャンパン

完全に潰れた僕を心配して彼女は僕の家に初来訪、閉店間際にタクシーで向かった。タクシーの中が酒臭すぎて寒いのに窓を開けていたのを覚えている。安心していた、横に彼女がいることと酔い潰れて家で眠れることに

でも僕は眠れなかった、普段なら寝ている時間疲弊した身体を持ってしても全く眠れなかった。この時自分身体眠剤依存していることに自覚した。

そこから丸一日24時間経過してから僕は耐えきれず眠剤を飲んだ。サイレース2錠とデパス3錠

こっからが本番メインだけどもういいや書くの飽きた

眠剤気をつけないと離脱症状悪夢を見るし幻覚幻聴聞こえるから気をつけてねぴーす

2021-10-06

薬物を使ってみて思ったこ

つい先ごろ、薬物の利用をした。以下で具体的にどの薬物をどう利用したかを書くことはない。また、その瞬間における体験がどのようなものであったかについても書くつもりはない。私が書くのは、翌日以降に残った薬物の影響と、そこから感じた「政治」についてだ。

「それ」からしばらく経ってからPCチェアうたた寝した。それ自体はしばしばあることなのだが、ある夢の最中で「これは夢ではないか?」と思い、そこに居合わせた人に自分の頬をつねってもらうように頼んだ。痛みを感じたので無事夢ではないことがわかったのだが、それは結局夢であることをPCディスプレイを目の前にして知ることになる。

それ以降はいわゆる「金縛り状態を2~3回ほど繰り返した。自分PCデスクの前に座っていることは分かっていて、半分夢の中にいるせいで体が動かないことも分かっているのだが、何もなすすべが無いのである。何度起きようと試みても無駄だった。金縛り最中に、おそらくは夢由来の幻聴も知覚した。ひた、ひた、と自分の後ろ側を何者かが歩いている音がするのである幻聴であること自体比較的すぐ看破したが、それで音が消えてくれる訳ではないし、「万が一もし本当だったら?」という恐怖や不快感も続く。

その時はたしか「これが金縛りという医学現象とそれに付随する意識低下に基づく幻聴だと分かっていても怖いのだがら、そりゃ枕元に誰かが立つという話が山ほど作られるわけだ」と金縛りと幻聴に苦しみながら考えていたように思います。結局その後何かの拍子に金縛りが解除されベッドに飛び込み、ぐっすり眠りました。

翌日。昼過ぎですかね、PCチェアに座っていると唐突な眠気が襲ってきました。そしてまた金縛りに。今度は周りが明るいのもなんだったらディスプレイに何が表示されてるのかも分かるぐらい意識がはっきりしているのにもかかわらず(まぶたを開けたまま寝てたのか、記憶がまぶたの裏に焼き付いていたのかは判然としません)、腕をアームレストから引き剥がすことが出来ないのです。この頃になると結構世界ルールが分かってきていて、ある程度は現実世界らしく振る舞うが、度が過ぎると初期配置にリスポーンする。

目覚めようと色々試してみました。体が動かないので叫んでみたり(今でも実際に声が出ていたのかどうかは分かりません。一応壁厚いし昼間だからあいいかと思って叫びました)。どのようにしてか体重バランスを変化させ椅子ごとすぐ後ろのベッドに飛び込むことは出来ましたが、いつの間にかまた普通に座らされていました。右手けがある程度自由になったので手元のガラスのコップを放り投げました。ガシャンという音と女性悲鳴が聞こえてきました。奇妙に思い都合良くもう一つあったコップをまた投げてみました。また同じくガシャン、キャー。効果音の使い回しだな、と思いました。このあたりからどうでもよくなってきて、右手ロジクール無線マウスを開けて電池を取り出し、口に入れてみました。その電池ソフトキャンディのように柔らかく噛み切れ、口の中には電気の味が広がりました。金縛りが解ける気配もないし、せっかくだから現実じゃ出来ないハチャメチャなドエロいことをしようと思ったが勃たない。

飽きに飽きたところでようやく両腕が本当に自由になったので(この時点ではまた両手だけ動かせても意味ねーよと思っている)、なんとなしに首の裏で組んでみた。そしてまたゆるめの金縛りに戻るのだが、今度は指先を動かそうと念じると実際動き、首の裏の神経が反応するのである(あたりまえ)

その辺りから徐々に体の操作権を取り戻し、ついには金縛りから脱するに至った。どうやら1時間ほど金縛りの中にいたようです。その後も軽微な「自分の手が自分の手に思えない」現象などはありましたが、今は元気です。

挙げた種々の現象はおそらく離脱症状のあらわれであったと思われる。現状のニートのままであれば、まあ用法用量を守って数日おきに刹那的に楽しみ離脱症状は当然の報いとして受け入れる、という選択肢が有望に思われる。

しか仕事に就こうと思えばこうした薬物から距離を取らなければならない。なぜなら、楽しい休日の次が必ず丸1日潰れ増田に長文を投げるぐらいの仕事しか出来ませんでは困るでしょう。

こう考えていると、薬物緩和肯定派がよく言う「政府国民幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」といった主張へも、多分緩和派とは別の意味同意できるように思うのです。この程度の薬物(=歴史悪名を刻んでいない薬物)ですらこうなのだから、より作用が強い物はより翌日以降の影響もより強かろう。それを規制しようとするのは政府としては極めてまっとうなことであるように思われる。俺が総理大臣でもそうする。

薬物論争においては常にやり玉に挙げられる酒タバコも、翌日への引きずりかたが比較的軽微であるというところで、許可されてきたのではないでしょうか。二日酔いはたいていの場合本人の無茶な飲み方が問題と考えられているし、タバコ離脱症状はより些細であるあくまで外から見る分には。タバコが切れてナイフを振り回した人を俺は知らない)

例えばアルコールタバコ年齢制限だってそうだ。われわれは未成年の酒タバコは成長に良くないと思っているが、一度でも根拠となる研究タイトルとか要約を聞いたことがあっただろうか?(同じ理屈で同じく根拠が示されずコーヒー炭酸マッサージ器を禁止された人は多そうだが)結局の所われわれは未成年の酒タバコを、将来健康青年として税金年金を納めてもらえるように禁止しているようなものだ。

政府国民幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」と俺も思うが、俺は政府は正しいことをしていると思う。これは愚行権問題で、もはや俺の手に負える問題ではない。『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください――井上達夫法哲学入門』というクソにも程があるタイトルの本が実は、日本代表する法学者による一般向けの本の中では相当高いレベルにあるのでおすすめです。

愚行権の話はおいておくにしても、ひとつ問題がある。われわれは、「政治」が嘘をついているとき、その嘘を暴くことが「政治批判」になると思ってきた。先に挙げた「政府国民幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」というのも、一聴すると「市民自由を!」とシュプレヒコールで答えたくなるが、では月曜日離脱症状でうっかり自殺したり「サーセン副作用で動けないんで有給…はもうないんでしたっけ、まあとにかく休みます。…ツーツー」といった事象が多発するような社会に住みたい人間などいないのである

こんにち、嘘を嘘と見抜くだけでは批判にならないのです。では…

続きは気が向いたら書きます

2021-09-02

体調不良日記

8/28(土)

・息を吸うと胸が痛くなる症状が10分ほど現れる

お腹が張る

メモ

・昼食を食べる時間がなかった

トラブルで夕食も少ししか食べられなかった

8/29(日)

・体調は普通

・昨日食事を取れなかった反動か、昼と夜はがっつり食べた。しかし食後に冷や汗と胃痛気持ち悪さに襲われる。

メモ

・5時間睡眠

8/30(月)

・また息を吸うと胸が痛くなる。数分で治る。

メモ

・6時間睡眠

8/31(火)

・体調は普通

メモ

10時間睡眠

・1日中ストレスさらされた

9/1(水)

・朝から声が掠れる。昼頃から喉が痛みだす。

・体に熱がこもる感覚がある。発熱はなし。

・体がだるい

メモ

・5時間睡眠

・いつもより水分を取らなかった。

9/2(木)

・昨日に引き続きうっすらと喉が痛むが声は掠れない。夜から銀翹散を飲む。

今日も体に熱がこもる。発熱はなし。

夕方頃に左目が見えなくなるような、世界が遠くなるような感覚が起こる。

夕方に左腕が重だるく痛い感じがする。

・少しお腹が張る。

・夜から頭痛

メモ

・7時間睡眠

・いつもより水分を取らなかった。

【原因の予想】

コロナの初期症状

熱中症、脱水

睡眠時間不安定

職場環境が変化したが適応できていないため

人間関係で落ち込んだりイライラする日々が1ヶ月ほど続いているため

・家でもストレスがあるため

殺虫剤撒いた後換気してなかったため

・8/27にソラナックスの減量を試みだが失敗→離脱症状

肌寒いのにクーラーつけてたせいで体が冷えたため

・ここのところ自炊ができておらず毎日3食スーパーコンビニ弁当を食べてるため

はやく元気になりたい

2021-07-10

カフェイン依存性かもしれん

試しに朝コーヒー抜いてみたら

昼頃までずっと頭ずーんと重くて眠くなって仕方なかった

コーヒー飲んだら緩和した

これはカフェイン離脱症状的なやつが出てる気がする

2021-06-30

anond:20210630221333

常人の脳は薬を飲まなくても常時こんなに快適なのか

チートじゃん

クソ忌々しい

という離脱症状

2021-06-04

パキシルなしじゃ生きられない身体になった

離脱症状やべえよやべえよ…

2日飲まないと身体がズシッと重くなっておかしくなる

2021-05-04

anond:20210504115810

SSRI全然効かなくて鬱は治らなかったけど離脱症状エグすぎて目眩が酷いからクソ

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