はてなキーワード: 環境保護とは
単純な話で、色んな考えがあって良いよねっていう自由な思想を侵そうとするからだ
考えを押し付けられたくないんだ
ただそうは言っても行政など全員で決めるシーンでは何かしら1個の思想を採用しなければならないシーンがでてくる
それが徐々に行き過ぎると、今度は大企業や著名人など影響度が高い人にまで強制力が発生してくる
大企業に有る種のポリコレを要求しようとする輩は、例えば今話題の「お母さん食堂」の一件で
市場原理にしてしまおうとする輩は、例えば今話題の「店員に『環境に配慮した商品ですか』と問おう」という提案だ
大企業への要求というのは、まだ私たちに直接思想を強要しようとはしていない
しかしその前段階だというのは、やはり過敏に察してしまう人が居るのだろう
大企業というのはそういう「思想を広めたい側」と「思想を強要されたくない側」の中間地帯に位置づけられがちだと思う
「Aという思想を植え付けたい人」「Bという思想を植え付けたい人」「何も植え付けられたくない人」「Aという思想は持ってるが世間に強要はしたくない人」など様々な勢力が居てグチャグチャになっているが
やはり領域を超えて何かを仕掛けてくると近隣諸国の人たちは過剰に反応して炎上するんだろう
その人が何に過剰反応するかで、どこの近隣諸国の住人なのかも透けて見えるかもしれない(そうか?)
ところで昔はこの有る種で陰謀論めいた「敵」というのが自国の政府だったり、アメリカだったり、中国だったり韓国だったりあったと思うけど
todomadrid 企業側からだけでなく、消費者からもアクション起こせるというすでにいろんな国でも見られる実例だし、単に商売上の付加価値の問題。
また始まった。
「ただの質問」。
圧によって相手の行動が変わることを想定してそう明言してニタニタしていたくせに、
この手の奴等はマジで毎度こうなんだよね。
トラウデンさんが推奨していたのは「ただの質問」ではありません。
https://getnews.jp/img/archives/2020/12/NHK1217.jpg
買い物をする際
店員に
と尋ねることで
店側の意識も変わっていく
はい。
店側の意識を変える啓蒙の手段として言っています。少なくともこの内容で報道されました。
目先の利とタスクに追われる小売業従業員どもに、啓蒙目的でこういう質問をして、社会を変えていくんだって言う話ですよね。
まずそこを誤魔化すのはやめよう?
お前等はなんで毎度毎度、自分側が非難される流れになったとたんそうやって
言ってたこと・やってたことを割り引いて「普通のことをしただけなのに叩かれた…」っていう誤魔化しやウソをやりたがるの?
立ち話の口喧嘩ならそうやって自分の言ってたことを後から変えていくカス戦法が成功することもあるけどさ、
ログが残るとこでやっても「あ、こいつらカスだなー」って思われるのがオチじゃん。
じゃあそもそもトラウデンさんの御発案にはどのような問題があるのか。
大きく3つあるんだよ。
1つめ、そもそも末端店員がそんな啓蒙目的の御質問を頂いてなんで困るのかというと
啓蒙していただいたり、圧をかけていただいたりしても、どうしようもないわけ。
「意識を変える」じゃねえんだよ。
トラウデン様のそのご下問対応のあいだ店員が何考えてるか教えてやろうか。
(このつかみどころのない質問対応のあいだレジに入れなくて他のスタッフの負担が増えちゃうなあ)
って思ってるんだわ。
2つめ、もっと失礼で本質的な炎上要因はこっちだと思うけどさ、
小売り末端の奴等を対等扱いも人間扱いもしてないんじゃん。
「勤務中すみません、少しだけ話を聞いてください。」って言って自分の環境への考えや活動を説明したらいいだろ。
でも俺はこれなら少しも叩かないよ。
何故か?
これは正直に自分の目的を伝えて、目の前のいる人間とフェアなやり取りをしてるから。
相手と向き合うってそういうことだろ。
カスタマーとしての質問の振りしながら対応負荷をかけて「意識を変える」とかほざいてるのとは全然違うよ。
相手もそれなら断ることも出来るし、逆に環境についての自分の意見を述べることだってできる。
「質問することで啓蒙する」とかいう増上慢とどっちが人間同士のやり取りとしてまともよ。
3つめ、
そもそも「環境に配慮した商品ですか?」という質問のあいまいさ、定量性の無さ、非科学性ったらないよな。
「回答に当たっての判断基準を述べよ」って聞き返したくなるわ。
頭悪い奴等の独り善がりな想定では「環境に配慮した商品ですか?」で万事上手くいくんだろうな。
別にこういうトラウデン様のようなお貴族様が環境のこと考えてくださること自体には1ミリも文句ねえよ?
そういう活動こそノブレスオブリージュ、暇と余裕のある方々が取り組んでくださってこそのことであり、それへの取り組みは賞賛されるべきことだよ。
でもそれが忙しい小売業の店員捕まえて頓珍漢なアプローチすることなんですか?
トラウデンさんて21歳なんだよ。
あれかなり若いな。
こういう人をさあ、品のありそうな美人だからってだけで旗頭にすんなよ。
大学ミスコンなんてなんも問題ねえんだよ。あれは最初から美貌で戦うコロシアムじゃん。
レギュレーションも「女子アナ風味」と決まってて、尖った顔の美人や孤高の美人は落ちて丸顔で可愛い感じの顎小さいつまんない顔した社交力と出世欲のあるやつが勝つって決まってるわけ。
100メートル走の勝者と何も変わらない。
でも
トラウデンさんみたいな成人したての美人に社会的な啓蒙やらせる、価値観の象徴として立たせる、
これこそルッキズムだろ。
ダメなのってまさにこういうのだろうが。
「美」を物事の正誤性とか、倫理的優劣とか、そういうことと混同させて利用しようとしてるじゃん。
ブスやブ男にとって一番キツいルッキズムってそれだぜ?
「美」をいち競技いちステータスにしておかず、正しさとか賢さとか人格とかに絡められてしまう、それこそルッキズムのダメなとこじゃん。
(このトラウデンさん担ぎが上手くいっちゃってたら、「異を唱えてるのはいけてないブスと不細工と老人www」になってただろ間違いなく。)
環境問題にどう取り組むか、消費者一人一人がどんな行動するといいかって言う話なら、
ちゃんと環境の専門の学者のそれなりのキャリアと学識のおばちゃんが出てきて言わなきゃいけないことだろうが。
ここで美人大学生トラウデンさんが顔になってることに「おかしくない?」って言える瞬発力がルッキズム反対ってことだろうが。
学者のおばちゃんなら言ってることに反論されても再反論するだろ。
美人大学生のふわふわした共感ベースの発言は反発食らったときに何も言えない。
擁護も「トラウデンちゃん可哀想」「女だから叩いてるミソジニー」「ただの質問なのに」とかバカみたいな次元でしか言えない。
こんなのが環境問題についての議論だっていうの、お粗末すぎだろ。
トラウデンさんの今回の発言は、大学生がサークル内で何となくいいこと言おうとしたレベルなら叩かれるほどのこと言うてないし、
トラウデンさんがいま可哀想な立場に立ってるのも担ぎ上げた奴等のルッキズムのせいなんだよ。
それでいまトラウデンさんを担いでる奴等(ネットのそっち系なり今回のハフィントンポストなり)ってなーんか、
普段大学ミスコンに反対してるような、左派・リベラル陣営じゃない?
こいつらとにかく頭が悪いから、「差別反対」唱えてもやれてないし、「ルッキズム反対」唱えてもやれてないんだよな。
差別って何か、ルッキズムって何か、とことん考えたことがない。
口でフワフワッと言ってるだけ、その概念を旗にしてけしからん誰かにみんなで投石して気持ちよくなりたいだけだから。
もちろん環境問題についても「愚民を啓蒙しながら呆れるカシコイ自分」に興味あるだけで、環境問題自体に意見も知識もない。
グレタさんの時だってグレタさんを石投げに利用したけど、グレタさんの言ってることは全然興味ない。
グレタさんを持ち上げながら反原発とかいうハチャメチャでも平気。論理性皆無。
非難されるべきクズはトラウデンさんではなくこいつらなんだよ。あとガースー。
トラウデンさん呼んだのガースーだぜ。
脱炭素社会の実現に向けて真面目な科学的議論をすべき全国フォーラムで
美人慶大生(FIT入試)官邸に呼んでふわふわした啓蒙発案させて公開してるの政府なんだわ。
ガースーのポピュリズム・科学軽視そのものみたいな事案じゃねーか。
でも「女」であるトラウデンさんが、「環境保護」という方向性で発言し、「愚民を啓蒙」という趣味性が香ってるため、
ネットのリベラルや左翼はこれを擁護する側に立っちゃうわけだ。
こいつらの陣営決めがいかに非論理的非科学的で、表層的な党派シグナルで決定されてるかがよくわかるよな。
環境省の広報大使を務めるタレントの武井壮さんや、モデルのトラウデン直美さんらがメンバーに選ばれた。政府側は小泉進次郎環境相、梶山弘志経済産業相ら関係閣僚が参加した。
この時点でこの座組の方を叩くのがまともなリべサヨなんじゃあないですかね?
トラウデンさんガースーの真横の席で草生えるわ。
そこは首相と一番活発にやりとりするべき専門家が座る方がいい席じゃねえのかパンケーキ野郎www
これ見た瞬間「そこはわからんちんの美人じゃなく専門家を」って言えないおまえら馬鹿リべサヨも所詮ガースーの凡庸さの掌上のレベルであって
台湾のオードリー・タンをうらやましがる資格なんか1ミリもねえんだよ。
社会や天下国家を語る前に自分の頭をマシにすることに取り組んでくれよ。頼むから。
トラウデンさんはまだ成人したてなのに美人だからって凡愚宰相のフォーラムに招かれて
大衆は専門家より上品風美人さんの話の方を聞くよねっていう凡庸な計略(外れてはいない)に利用されてつまんないこと言っただけ。
でもお前等は?下手すりゃトラウデンさんの倍近くかそれ以上を生きながら、
ガースーを見下しながらガースーの繰り出す凡庸な悪に踊りまくるお前ら。
普段ガースー批判、科学軽視批判、ルッキズム批判を口癖にしてるリべサヨではなく
むしろそういうリべサヨを嫌ってるような側から多くの批判が出ていたと。
なんだこれ。
バカが思い上がってんじゃねーよ。
SDGsとも言う
持続可能な社会、持続可能な開発ってのは20年くらい前からちょいちょい言われていた
80年代までの、「とにかくジャンジャン消費しろ」という時代を経て
環境問題が大きくなって「ある程度規制、抑制、エコ、環境保護をしていかないといつか破滅するよね」ってなった
これが90年代
で、その後の00年代からは「エコだけじゃ経済成り立たないじゃん。成長はするけど環境も保護する、両立できる社会を作らなきゃいけない」
みたいな形でサステナビリティが出てきたと思う
なんだけど、今のバズワードになってるサステナビリティってエコの意味で使われてること多くない?
持続可能な「開発」が抜けてる
フツーにコンプライアンスというかCSR(企業の社会的責任)については国際規格で定められているのやで
罰則を伴わない努力義務から法的責任を伴うものまでいろいろだよ
https://www.iso.org/obp/ui/#iso:std:iso:26000:ed-1:v1:en:term:2.18
→ 特定の状況において、認められている権利または善行の原則に準拠し、国際的な行動規範と一致する行動
または普遍的またはほぼ普遍的に認められている政府間協定に由来する社会的責任のある組織行動への期待
→ 人種はもちろん男女の公平も含む
課題 1:デューディリジェンス
課題 1:公正なマーケティング,事実に即した偏りのない情報,及び公正な契約慣行
課題 4:消費者に対するサービス,支援,並びに苦情及び紛争の解決
解説ISO26000 ~社会的責任に関する国際規格~ > 企業行動憲章 実行の手引き(第6版)
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/cgcb/tebiki6.pdf
中学生の頃、厚生委員会の委員長を務めた。ペットボトルキャップやプルトップ、ベルマークを集めることが主な委員会の仕事だった。環境問題について考え、社会にどのように貢献できるのか。そのような目的を掲げた委員会だった気がする。
実際はそんな高尚な目的など上っ面なだけで実態は意味があるのか正直疑わしいものだった、と現在の自分は振り返りながら思う。
ペットボトルキャップを集めれば環境保護になるし集めた数だけ発展途上国のワクチン活動に貢献できる。エコキャップ活動だ。これが掲げられ、委員長が毎年変わる中学校では活動が慣習的に引き継がれてきた。何も考えず慣習的に実行していた。私たちは本来必要な目的を見失い、地域のゴミ箱を漁りまわったりクラスの雰囲気という圧で半ば半強制的に集め、どのクラスが一番多く集めることができるか競い合った。例年はどうなのか興味もないし覚えてもいないが、個人的には学校内を盛り上げることができた。これは私の成果ではなく、自分の担任の先生が学校を盛り上げるのが上手かったのと、委員会の担当の先生の委員に対する圧力と指導方針がよかったのである。中学校は先生の立場がとても強かった。自主自律を掲げる高校に進学し、とある委員長になった私は大失敗した。高校では生徒が主体的に活動しなければならなかった。私には荷が重すぎた。中学校の頃の私は先生の傀儡であり、私には物事を動かしていく行動力と目的意識が欠けているのだと思い知らされた。
ゴミ箱から集めたペットボトルキャップは汚いので、学校に持ち帰ってシールなども剥がしてキレイにする必要がある。水もたくさん必要だし、乾かす時間も労働力も必要だった。クラス全員とまではいかないものの、何人かで協力したので、文化祭の準備みたいな青春の甘酸っぱい思い出にはなっている。手は色々な清涼飲料が混じった甘酸っぱいベトベトで覆われていた。いい思い出の反面、今思うと完全に無駄ばかりだった。大量に水を使うことは直接的に環境に悪だし、乾かしたりする時間や労働力という面でも部活をしたい人からすれば無駄に極まりない。数さえ集まればよくて、自分のクラスが目立てるのであれば、という意識が盲目にさせた。
そもそも学校でペットボトルキャップを集めるというのも結構意味がないことらしい。家庭で発生したペットボトルキャップを回収して学校へ持ってきたり、ゴミ箱などからキャップを回収する。汚いキャップやシールのついているものはキレイにしたりシールを剥がす。回収した分はまとめて、配送業者を呼んで回収業者へ送る。配送業者を呼ぶにもお金がかかる。そのお金を寄付した方が良いだろう。私の代は、先生の車でキャップ回収を行っているスーパーに送ったっけ?だと配送業者は使っていない気がする。もう覚えていない。ゴミ業者はペットボトルとキャップを密度の差によって分別するし、元から回収されるペットボトルをゴミ箱から回収しするのは本末転倒である。
本来の「環境問題に意識を向ける」という目的に基づくならば、家庭内のゴミの分別の具体的内容を伝えるとか、生徒の意識調査をして向上に繋げるとか、根本的かつ最終的に効率のよいやり方があったはずだ。でも目に見えやすい”実績”には表現しにくいから小中学校では通用しにくいのかもなぁ。色々と調べて、エコキャップの意味を伝える紙面を作ったことがあった気がするけど、そのときに現状の活動は無駄ばかりであることに気づくべきだった。
詳しくは知らないけど、最近はゴミ袋有料化とかプラスチックストロー廃止とか、色々と環境に対する活動があるようだ。それらに根本的に効果がある方法なのかは知らないけど、目先の”実績”にばかりに盲目的にならず、長期的な目をもって自分の活動に意識を向けていきたい。
嵩張るけどお出かけのときは水筒を持参し、出先でペットボトルを買わないようにしている。実際はペットボトルを買うお金を節約したいだけなんだけどね。
もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。
なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。
歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。
そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。
コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!
でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券でヨーロッパに渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料にアクセスできなくなるかもしれない。
明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学が日本に持ち込まれた。だが初期の日本の歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。
オリジナルな史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語とフランス語とドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。
けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本の歴史学が独り立ちするためには。
やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナルな史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語を習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行が安価になるにつれ、国外の文書館にアクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本の歴史学のレベルはどんどん上がっていった。
2000年代から2010年代にかけての日本の歴史学界で生み出された外国史研究のレベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナルで面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。
留学の予定も史料収集の計画も、すべてが白紙になってしまった。
分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程か博士課程で留学をする。これは現地で史料を収集したり、現地で言葉を勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要なプロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国の歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。
COVID-19直撃世代は、この留学の経験を持てない。彼らは外国史研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。
2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することなく博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることなく任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振の研究費のかなりの割合を出張費に充てている)。
けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査のハードルがものすごく高くなってしまっていたら、日本の外国史研究は大きな打撃を受けるだろう。
そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在で史料もたっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国の研究者とオンライン会議すればいい。
でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国語能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端な研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。
もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料をウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国の雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達はドイツ語の学術書をkindle版で引用していた。
だから、研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。
どのような種類の史料が必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージの歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツの政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館の史料を見なければお話にならない。
現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相がメディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料が全然違う。前者は新聞やネットを見ればそれでいいが、後者は情報公開請求が必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。
そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究者から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり、研究のために文書館史料を必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国史研究において、思想史や文化史、古代史の割合が高くなるかもしれない。
(いやでも、ガチの思想史や文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代の知識人の留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいるからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料がほとんど翻刻されてたりするし……)
ネット上で読める範囲の古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究のレベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベル低いね」と一蹴されてしまう。論文を英訳なり独訳なりして海外のジャーナルに投稿しても、それなりのレベルの雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)
ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代の研究水準には戻れないのだ。
ハードルを下げる?
つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?
コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。
それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史はハードルが高いから、表象の歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。
ともかく、これまで日本の歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。
日本の外国史研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。
まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学や記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在のレベルの渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニアの島国やアフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国を舞台にした文化人類学や記述言語学は消滅し、国内を対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……
(まあ、国内の伝統文化や方言を保存するために、一度外国の文化や言語を記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学で修行する若手研究者が離島や山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)
デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。
第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだ。マトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体の公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベルの文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係の公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマを研究しようと思ったらそれでは困る。
第2に、困るのは外国人研究者だけで、本国の研究者はそんなに困らないのだ。
日本人がイギリスやドイツに調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館にアクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国人研究者の姿が消えたとして、いったい日本人研究者になんの不都合があるのだろう?
(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国に拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本の大学で教鞭を執っている中国人の日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米の大学に就職しちゃった日本人研究者は大変だ。また、日本を研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係の歴史を研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府の公文書管理がザルすぎるせいで重要な史料が日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)
つまり、全世界的に、自国を研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国を研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国人研究者への配慮が、果たして自国の公的施設のデジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。
第1に、それ本国の研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費は渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど……
第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書の形式の違い」みたいなのも当然論文のテーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。
ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録に面白そうな史料があったから地方の文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人にコピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語でしかない。
第3に、そもそも論としてなんで自分の研究のオリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要な史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料の存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)
日本史であっても一次史料が海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスのハードルが以前から言及されていたのを思い出した。
なおアジア・アフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史を研究する日本人の歴史家は日本国内で研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリスに(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本に(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……
そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?
それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンやロナルド・ドーアやケネス・ポメランツやイアン・ニッシュやJ・ヴィクター・コシュマンやブレット・ウォーカーにも言ってきて!
確かに宗教の側面はある。自分が正しい・良い道を見つけたと思ったら勧めてみたくなるもの。
(1)植物ベースの食事による栄養のバランスを維持(サプリも含む)
(3)お財布に優しい
の3つを満たせるという条件付きでは「正解」で間違いない。
動物は苦しまない、健康的、新しいウィルスの発生リスクが低い、環境破壊が止まる(CO2・メタン排出が減る、水資源の負担が減る)など良いことだらけだから。
逆に言えば肉食・雑食は上記3点に対して
(3)安い肉は安い
という利点があるので手放すのが難しいのだろう。
まあ、余裕があって、環境保護に興味のある人からヴィーガンになっていけば良いのでは。
毛嫌いする必要はまったくない。
・コンビニビニール袋無料配布については、絶対賛成 / 賛成 / 中立 / そこは興味がない / 反対 / 絶対反対 というグラデーションがある
・CO2と気候変動の関係性についても、絶対因果関係があると思う / あると思って進めたほうがいい / 気候変動は関係なくCO2を減らしたい / 因果関係はない 等の意見を聞いたことがある。
でも彼らは、「環境保護をしていこう」というところでは一致している。
「細部に至るまで一致した見解を持つ社会運動」なんてのは空想上のもので現実的にはありえないよ。
そしてフェミニストは環境保護運動程度には、だいたい一致しているし、ある程度不一致な人たちだよ。取り立てて批判されるものでもない。
合理化に定評があるサイゼリヤだが、記号注文方式は現時点では失敗だと思う。
テーブル数に比例した端末購入費用が掛かり、しかも新規出店するにも買い増す必要があり初期投資が大きい。
ということを考えると、タブレットに手を出さない判断自体は正しいと思う。
費用対効果を考えると、マクドナルドのようなモバイルオーダーが良いのではと思う。
もっとも、最近のスマホの普及は著しく、高齢者でも持っている人が増えていることを考えれば、客の大半は持っているだろうしあまり影響はないと思う。
すこし前のことだが、とある掲示板で論争というかレスバトルになった。
議論のテーマを一言でいうと「東方Projectで一番強いのは誰か」だ。
うん、まあなんだ、いい年した大人が顔真っ赤にして、バトるようなテーマではない。自分でもわかっているので、とりあえず、それは置いておいてほしい。
その議論において私はとあるキャラを最強だと推し、相手は別のキャラを最強だと主張した。ここでは、その二人のどっちが真に最強か、とかそういうのはどうでもいい。私はここで最強議論をやりたいわけじゃないし、自分の思う最強キャラを推したくてこのエントリを書いたわけでもない。
私には彼(あるいは彼女)の主張する最強説は根拠が曖昧に思えたので、そこを突いた。彼はすぐさま反論した。曰く「ZUNがそう言ったから」と。
その後、いくつかレスが続いたのだけれども、彼が何をもって自分の推すキャラを最強と信じているかというと、要は「ZUNがそう言ったから」ということに大部分を拠っているようだった。
知らない人のために説明するとZUNというのは東方Projectの作者である。
ZUNはラジオかなにかのインタビューで、とあるキャラクターのことを「いままでのキャラよりずっと偉い。はるかに高位の存在」みたいなことを言っていて、それが彼らの根拠となっているようだった。
だが私はそれは根拠にならないと思っていたので「作者の言ったことは公式設定ではない。あくまでゲームや公式書籍から読み取れることを根拠に議論すべきだ」と書き込んだ。
そうすると即座に「なにを馬鹿なこと言っているんだ。作者の言っていることは公式設定に決まっているだろう」という反論が多数寄せられた。
最初はレスバに勝ちたいからそう言っているのかと思ったけれど、どうもそんな感じでもない。
どうやら、彼らは本気で「作者の発言したことは公式設定」と信じ切っているようだった。
世の中には「作者の発言=公式発言」と思っている人間が、思った以上に多いということである。私はなによりもその事実に衝撃を受けた。
(しかし、そう思うのは勝手だけど、それを否定されたからといって自分が馬鹿にされたかのように怒るのは意味がわからん。なぜかこの私への反論レスはほかと比べても感情的になっている人が多かった)
私はそうは思わない。
作品の持つ価値とか主題とかいったものは作品自身から読み取るべきであり、作者の発言はそこに含まれない。
はっきり言えば、作者が作品外で発言したことは、一個人の発言と変わらないと思っている。参考資料ぐらいの扱いがせいぜいだろう。
仮に村上春樹が「『ノルウェイの森』は核兵器の廃絶をテーマにして書いた小説だ」と発言したら、その日から『ノルウェイの森』は核兵器廃絶がテーマの小説になるのか?
夏目漱石の日記が見つかって、そこに「『坊っちゃん』は自然保護をうったえる小説だ」ってあったら、坊っちゃんは環境保護小説になるのか?
いやいや、そうはならんでしょう。
作者は作品の中で自分の主張なり、美意識なり、好き嫌いなり、といったこと、要は全てを表現しないといけない。
作品内でそれが表現しきれていないのに、別の場所で「あれは実はこれこれでね~」とか言ってもしかたがないんじゃないか。
いや、別に言うこと自体はかまわないし、私もそういうの聞くの好きだけれど、それを作品の正当な解釈として扱うのは違う。
「作者の発言だから」とそれを絶対的なものと考えるんじゃなくて、「ふ~ん、この人はこういう解釈なんだ」と、あくまで解釈のひとつとして、相対的に扱うべきではないだろうか。
少なくとも私は、たとえ作者の発言であっても、それが作品内から読み取れないことであったらノイズとしか思えない。
無論、作品を産み出してくれた作者には敬意は払う。尊敬もするし、作品というのは作者のものだとも思う。しかし、それと「作者が作品外で発した発言を、その作品の一部とすること」は別問題である。
【追記】
公式資料集は個人的には重視しない。ああいうのってたいていむちゃくちゃだし。作者のチェックなんかほとんどなしで編集者が勝手に作ってるだけでしょ。
仮に作者ががっつり関わっているとしても、それが「作品から読み取れること」を補足するための資料足り得るのかどうかは物によるとしかいえない。
あくまで重要なのは「作品そのものから読み解く」という姿勢であって、別に作者の発言や公式資料集を否定しているわけじゃないのよ。「作者の意見は一個人の解釈にすぎない」という前提さえ理解してくれるのであれば。
作品を読み解くにあたり有用だと思えば作者の発言も(参考資料として)採用すればいい。ただ問題は、そういうレベルで作者の発言を捉えている人間は少なくて、彼らは「作者の発言>作品そのもの」って思っているってことなんよ。
賛同者の署名を集める行為ってリベラル思想として正当性の根拠になるのかな?
個別包装に賛成する人が同じ数だけ署名を集めてきたら数の根拠がなくなるよね。
環境保護なら環境保護につながるという科学的根拠と論理で主張を裏づければそれで良いのであって、100万人が不思議な力を信じたらオゾン層の穴が塞がったり石油が無限に湧いたりするようにならないよね。
それに数が多ければ多いほど良いって考えは、むしろ少数派の黙殺につながることもあるけど、整合性とれるのかな?
例えば悪魔のような差別主義者が選挙に立候補して数十万票を獲得したとき、それはいくらたくさんの人の支持を得たからといって、リベラル的には全く許容できる存在ではないはずだよね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/982b5fc84378dc3b8f921d86c93a88f547c09e56
しかしこのコロナが大方世間の予想通り悪化してきたにも関わらず、未だこの手の事を言い出すのだから、政府や官庁の環境関係の人達は余程脳内が幸せなお花畑の人達が多いのだろうなと思う。
どう見ても今はそんなことをしている場合ではないし、普通にレジ袋有料化以降より衛生面でも悪化したとみるのが感染者数の増加を見ても自然としか言いようがないのにね。
色々な意味で普段から思想や権利等とやらを前面に謳っている人達程、こう言う時にも空気が読めない人が多いと思う。
それに今もペットボトルだのプラだののコレ自体、大方の行政及び企業が回収できるシステムが構築出来ており、それでゴミ回収自体は問題はないのにわざわざ絡もうとする事自体、どうみても環境省や経産省が小銭稼ぎをしようとしているからだと言う事だよねとしか思えないんだけど。
そもそもそのプラやペットボトルのリサイクルとやら自体今やこの人達が嫌っていた中国が引き取ってくれなくなったから、国内で飽和状態になり、システムそのものが破綻し始めている訳だしね。
昨今この手のは温暖化では言い訳が出来なくなってきたからか、やたら海洋汚染を強調しだしたけど、これに関しても当時から周辺諸国と一緒になって行わないと意味がない事は散々指摘されてきたし、海洋汚染対策ならば、それこそ海岸沿いにゴミ箱の設置数を増やして、回収していく方が余程対策になるでしょ。
今も回収しているごみならばそれこそ埋め立てなり焼却なりリサイクルなりで処分できている訳だからね。
そう言えば最近エコバッグと言う単語よりもマイバッグとか言う単語を使い出したのもその辺が関係あるのかもね。
しかし関連記事を見てもこの手の似非環境活動家っぽい人達程、象だのペンギンだのの写真を使って、同情を飼いたがる手法を好むよなと思う。
地球の為と言うならば人類が絶滅する事が一番の環境対策だと言うのは当時から環境学者にも皮肉的に言われ続けている事なのに。
今は環境保護が先行しすぎて、経済活動の抑制や生活への弊害まで出ているのだから色々な意味で本末転倒な結果すら招いているよ。
しかも排出権とやら以降更に明後日な意味不明な方向に向いているのも事実だからね。
こう言うのを見ていても自民はよく経済だとか言っているのにこの手の経済抑制や減退しか招かない政策をしだしたりと本当に何がしたいのかが良く判らないよね。
はっきり言ってこの辺はまだ一貫性のあるトランプ大統領の方がマシだよ。
でも今なんて平時ですらない、病気が覆っている時期にも関わらず、計画で決まった事だからと言いこの手の政策を進め、融通が利かないのだから色々な意味で日本の政府ならず官庁も先がないだろうと十分に予測させてくれるよね。
政府は政府でgotoをどうにかして印象操作しようとしたけど、覆せず言い訳をし始めたり、キャンセル補償とか言い出す本末転倒な行動をし始めて面白い事になっているしね。