はてなキーワード: 聖職者とは
最近は新聞でも目にするようになった「空き寺」「兼務寺院」「後継者不足」が問題として取り上げられているけど、こんなの実はそんなに問題なんじゃないんです。
最も問題なのは、「空き寺」には誰が住職の籍を置いていて、「兼務寺院」は誰が兼務しているのかということと、「後継者不足」なんて実はしていないってことなんです。
宗門大学や大きな寺にはアルバイトの在家出身の僧侶なんて多くいるのに、なんで「後継者がいない」なんて言えるんでしょうか。
この場合の「後継者がいない」という場合の多くは「自分たちの子がいない」という意味だと思っています。
在家出身の僧侶はたくさんいるけど、そういう人たちに後継者として寺を任せたくないのが本音なんです。
というのも前述のように「寺」は「家」で、僧侶の財産になっているので血の繋がっていない知らない人に任せたくないんです。
何故こういうことが言えるかといえば、以下のようなケースが少なくないからです。
「寺なんてやりたくない」という子供が出ていった…バンドで食っていくとか、失敗したときの保険をかけて夢を追えるいい環境です。
だから「在家出身の僧侶」を養子として迎えて後継者として書類を残します。
バンドで食っていけないし、もうまともな職も就けないと悟った30歳児が保険を申請します、つまり「親父…俺が悪かった、俺…僧侶になるよ!」と寺に戻ってきます。
現住職は迎えた次期後継者に対して「養子縁組解消してください」…なんてはっきりと言わないで、寺に火を付けようとした、不真面目で浪費家だと言ったイジメによって追い出しにかかります。
自分から出ていってくれないと書類を残している分、不利だからです。
しかし、折角掴んだチャンスを在家出身の僧侶も安々と手放すこともなく、ほぼほぼ裁判沙汰になります。
回りの寺は在家出身の者より昔からの付き合いで住職の味方に付くので、次期後継者は環境的に出ていかざるを得なくなりますが。
こういう昼ドラの脚本家も恐れ慄くことが繰り広げられているケースは本当に少なくありません。
つまり「後継者不足」=「自分たちの血のつながりのある人がいない」という言葉に置き換えて問題がないと思います。
繰り返しますが、在家出身の僧侶は本当に多いですが、そういう人が幸せに寺に入るケースは極めて稀ですし、ましてや妻帯しないで寺に入るなんて、茅ヶ崎海岸でダイヤモンドを見るけるレベルの話です。
上述のような「子供がいる寺」は、なんとか後継者の問題を仏事ではなく民事的に解決します。
子供がいない寺の場合は、そもそも在家出身の僧侶が呼ばれることはなく、親類の寺が兼務することになります。
兼務なので常駐するわけではないので「空き寺」と呼ばれる状態になります。
さらに「空き寺」の寺宝(文化財という意識がない)を自分の寺に持ち帰って、本当に何もなくなる「廃寺」状態になります。
室町時代の仏画を自慢し始めたかと思えば「これ兼務してる寺のやつやけど、キレイでええやろ?」なんていうことが横行していまして、倫理が欠損しているのも大概なレベルです。
どんなに小さなお寺でもいいので、地方の過疎地域のお寺でも、アイデアで乗り切ろうと考える若手僧侶は存在します。
しかし「檀家」が10件でも、兼務寺院の住職にとっては「固定資産(檀家)」なので、そういう若手僧侶に住職の話はほぼほぼありません。
おかしいですね。本山にとっては「空き寺」が問題のはずなんですけどね。
3ヵ寺を兼務していて「忙しい」という割には、絶対に1ヵ寺も若手や在家出身者に住職権を渡すことはありません。
これを執着と言わずしてなんと言ったらいいのか分かりません。
それは何度も言われていることかもしれません。
言葉は悪いですが、団塊世代が年功序列的にトップになってからカウントダウンが加速したように思います。
権力の偏重が激しく、「寺」が相続されるべき「財産」になっていて、正直悔しい思いが一杯です。
真面目じゃダメなんですよ。世の中も、お寺の世界も。資本がないとスタートラインにも建てないんですよ、世の中も、お寺の世界も。
僕のような丁稚の弱小者は本山にとっては単なる搾取対象でしかありません。
これが仏教なのかと、経典や論書を読んでは枕を濡らす毎日です。
感傷に過ぎましたが、「空き寺」などの問題の根源は、世襲制に基づく寺の「私有財産化」にあると思っています。
追記
極論に過ぎている部分があるので補足しておきます。
もちろんイレギュラー(本来的にはレギュラー)な場合も多くあります。
そもそも「寺」は宗教法人法に則った「法人」なので、多くは代表役員(主に住職)と役員(檀家総代等)で構成されます。
イレギュラーケースとして、代表役員に在家者を置き、従業員として僧を置く場合があります。これは伝統仏教では少ない形態です。
法人運営は在家者が行い、仏事に関しては僧侶が行う、これで何か問題があるのか分かりません。
そもそも代表役員は事務を総理するのであって、僧侶や聖職者である必要はなく、住職という名称と代表役員はイコールではありません。
思うに、会社法のように株主の過半数で取締役などを解任するなどの方法が宗教法人法にはありません。
代表役員として不適格であれば、役員を寺から追い出すくらいの規則が法律によって決まっていてもいいように思います。
本来は宗団内でそれくらいの「律」があれば法律的に定める必要のない問題のない話なんですが、法律にそんなことが決まっていないという主張によって不祥事をしても代表役員に居座ることができるという算段です。
仮に法改正されれば、葬儀や墓地の年間使用料などで私服を肥やしてばかりの代表役員を解任でき、少欲知足でやる気あふれる若手を迎えられる可能性だって出てきます。
在家の人も抑圧された僧侶なども多くの人が助かるwin-winになりそうな気がするんですけど、そもそもそれくらいの自浄作用を宗団が持っていないのが問題なんですよね。
仏法に明るく、自分をよく戒め、よく人に施し、人とともに悩み、人に慕われる僧侶が住職や門跡、管長あるいは長老なんじゃないのか…。
現代の僧侶間の不条理、在家と出家者との軋轢を解消できないのだから仏教は間違っているのかもしれない。
しかし日本文化を地下水脈のように育んできた仏教を疑うよりも、それにあぐらをかいて運用している人こそを先ずは疑うべきではないのかと思い直したって。
通知表も終わってないんですよね、まだ。
肉屋のがらのわるいおっさんがクレームにきて対応させられるわ、
もう火に油を注ぐからって、新任の代わりに家庭訪問させられてんですよ。
変なやる気出して「おれ、行きます」じゃねーよ。逆に時間かかるんだよ。
まだ、通知表おわってねーつーの。
で、なんで、おれは給食費を子供の家まで訪問して集めてんですかね。
「いま、油モノしてるから、またあとで」じゃねーし。
回収の仕組み作れっつーの。まだ、全部集め終わっないのよね。
行ったら、どうせ「意識が足りない、こんな教師に教えてもらいたくない」だろ?
大体、こういうこと言ってくるのは、
「おれなんか」って誰も聞いてないし、
なんで無いんだろね。
でも、それでもいいや。
だって、高給取りになったら、私怨まで込めてクレームしてくるでしょ。
そんなんだから、地域の平均所得に合わせて、数百円ほど減らさせたんだよね。
楽して安泰、定職ウハウハって思ってんのかな。
お前が選んだ道?給食費回収まで選んでねーよ。
嫌なら、辞めろ?
なんで学校まで巻き添えくうんだっつーの。
ランドセルに傷が付いた?つくよ、ばか。
まだ、通知表おわってねーつーの。
物を言う資格のあるなしとか、匿名日記帳で何言ってんだ?このバカ
お前みたいに他害の意思を垂れ流しにしてていいバカと違って、普通の社会人は仕事中は仕事モードに意識を切り替えて働いてんだよゴミ。
仕事中はお前みたいに好きな事言ったりやったりできないから、その為に匿名日記帳が存在して、みんな愚痴を書いてるんだけど?
お前これまでに愚痴とか一度でも言った事ないの?
それとも聖職者が四六時中聖人面ぶら下げてないと気に食わないっていう天然記念物級のふざけた世間知らず?
もしかして、社会に出なくていいから現実の辛さも感じなくていいし、四六時中正直に思った事言ってられる、自宅警備のお仕事なのかなぁ?
みなさんはあの「今のご時世日曜夜9時に流しちゃいけないだろ!」と言われまくったであろう去年の超面白いドラマを覚えているだろうか。
個人的に面白かったのもあるけれど、脚本家の新境地で、録画率が高く若い子が超見てたし出演者どんどん売れてる、という評価もあるドラマだ。
あんなに大事件が起きないのに、続きが気になりまくるドラマもなかなか無い。
初回の冒頭の「男子高校生の下ネタ」で切った人はもったいない。あのあと「男子高校生の下ネタは女子に害悪だ悔い改めろ」という話に展開していくのだ。
1話だけを最後まで見た人は「このまま女子と男子のバトルが始まるのか」と思うのかもしれない。
しかし3話にはそのバトルはほぼ終結し、仲良しこよしの楽園学園生活が始まるのだ。
甘酸っぱく切ない生徒の青春と、青春を失った大人たちの「ごめんね」と謝りたくなるようなストーリーが始まる。
視聴者としては大体笑い泣いていた。
その3話。
唐突に、女子高付近に不審者が現れる。この唐突具合こそ宮藤官九郎の脚本の面白さなのだが、まぁ唐突だ。
いきなりその不審者は自転車を押す錦戸亮(役柄では超弱い、ヘタレ、でも憎めないカッコいい)にタックル的なものを決め倒すも、
走ってきた満島ひかり(超怖い強い、キチガイ、でもなんかどんどん超可愛い)に追い払われる。
満島ひかりは言う。この辺で有名な女子高校生ばかりを狙う変質者「三島のザビエル」だと(舞台は静岡の三島なのだ)。
補足だが何故ザビエルかといえば、何故か聖職者の格好をしているからだ。
3話の最後、男女合併の方向がゆらぎそうなとき、これもまた唐突に三島のザビエルが試験的男女合併クラスに乗り込んでくる。
ザビエルは男女合併のことを知らず、女子高だと思って舐めて学校に潜入しにきたのだ。
またもや簡単に錦戸亮は倒されてしまうのだが、すぐに容易く男子たち全員の手によって捕まえられるのだ。
それを見た校長が「男子、悪くないかも…」と思うという3話である。
12/26、年の瀬。ああ、あのドラマ最終回が選挙で延期になって去年の今頃終わったなぁ。
なんて思い出してたころニュースが飛び込んだ。
「ん?だれだ?えーあの人?マジかぁ………………あれ、そういえばこの人の、相方って」
イエスは律法学者とガチバトルして抹殺されたが、イエスの信徒たちの作った教団にも、聖職者階級が出来て、彼らのものになった。
建て前では出家在家の区別はなく、聖職者という存在はないことになっているが、イスラム法学者が幅をきかせている。
教皇もカリフも、代理人という微妙な位置付けから始まっているが、権威であることは皆が知る通り。
教皇やカリフがいなかったら、組織として成り立たずに歴史の中に消えていっただろうし、リーダーを持つ組織をつくれば、その下に側近、その部下という階級が出来上がり、信徒の平等は実現できない。
イエスはムハンマドの教えは、精神面では教義に原点回帰しつつ(あるいはしたつもり)でも、当時なりに当時の社会情勢にチューニングしていた。
「律法とローマ法でダブスタのところは、ローマ法を優先したっていいよん」
とイエス
「ダブスタがないように世俗の法も宗教の戒律も擦り合わせて一本化しとけ」
とムハンマド。
現代だと問題はアリアリでも、当時はそれなりに柔軟な解釈で改革したつもりだったわけで。
ISも当然だが、S県の顕正会、まじヤバ。
こないだ勧誘を受けたのだが。
日蓮の教えは一語一句正しい!
中国(元)が攻めてくるから天皇を帰依させて国立戒壇をつくって国を守れ。
政教一致は必達!
ちなみに、
日蓮宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが日蓮正宗。
日蓮正宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが創価学会と立正佼成会。
この両会は在家たちの、つまり下からの宗教改革だったが、知っての通り王国を作ってる。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
例年思うが社の奥でふんぞり返ってりゃ黙ってても金持って来てくれんだから結構な話だわ。特に、企業参拝の連中とか礼儀正しいから扱いも楽だし。
しかし、企業参拝の連中が持ってくるその大金ってのは、下っ端雇われ社畜どもがこの不況の中で必死こいて会社の為に稼いできたものを経営者が無造作に社外に持っていくものなわけだし、加えて仕事初めから神社参拝だの何だのの名目で午前中丸々潰して昼には社の経費で美味いもん食って「仕事したで!お札貰ってきたで!」みたいなドヤ顔して午後から会社に戻ってくるわけなんだから、つくづく会社の雇われ社畜連中からしてみれば、正月の企業参拝なんざ馬っ鹿馬鹿しい話だよなぁ。日本は経営者天国という言葉の意味がとてもよくわかりますね><
ま、とはいえ。
偉い奴ほど腰が低いってのは事実ではある。これは偉そうな連中大勢見てきて確かにそう思う。
より厳密には、“自らに対し上位者・監視者を持っている最高責任者は、強い”と表現した方が正確かも知れない。
ビジネスで油断しねえから強いんだろうな、とは思うけど、だがわざわざ最高責任者になってまで気を張っていたくないのも人情だろう。
自分の上位者・監視者として神を位置づけておきたいから、わざわざ正月に神社来て大金がっぽがっぽ納めていくんだろうなこいつら、とは思う。
そんな不器用で非効率でハイコストな方法取らなくても自らを戒める方法なんていくらでもありそうなものだがとは思うが。まあ日本国の日本人のやってる日本企業だからね、しょうがないね。
今年の初笑いはこれ。
聖職者様「(…保線?こんな単語が例えで出てくるとか、JR関係の仕事でもしてんのかね)美しいに、保線の保ですね」
参拝者母「ホセンのホです」
参拝者母「あの、フネの」
_人人 人人_
> ほせん <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄
さあって、一日で一年分稼ぐ日が近づいて参りましたよっと。
例によって例のごとく迷信深い原始信仰者の日本人連中から今年もガッポリお賽銭頂くわけなんだけど、ところでこいつら本当に神なんて居るとでも思ってんのかねえ。
別に居ないと思ってるけどお賽銭は投げるのかねえ。 皆がそうしてるからなんとなく流れで大切な大切なお金を捨ててるのかねえ。
それって狂気の沙汰じゃないのかねえ。
『狂気とは集団が定義する常識から大きく外れる行動倫理に対して与えられる呼称であるから、必ずしも狂気=まともな価値観の喪失とは限らない』とでも言い訳すんのかねえ。正常性バイアスかねえ。
4~5時間かけて熱心に通ってくる狂信者連中とか見てると、どうも自分の精神の中に神もしくは神社でも飼ってて、そいつの内在イメージを維持する為に足しげく神社へ来ている(来て更新している)ような印象を受けるんだがねえ。
程度は違えどまあ、大体の日本人はそういう奴らと同じだって事なのかねえ。
まあ、まずわからん感覚だな。飯食う為になら虚空に向かって頭も下げられるし道化の真似事もしてやるが、仕事以外で頭を下げる気になるのはお金様だけだな。断じて神様ではない。
ん? これは逆に金を信仰しているという事になるのか? さらに言えば、その金を無から生み出す信仰形態にして優れた集金システムであるところの神社を信奉しているようなものなのか? もっと言えば、神に集まるお金様のお陰で現実に飯が食えているという現世利益を享受している以上、神の熱烈な信奉者にして狂信者にして理想的な神道生活の体現者なのか? 単に金が好きなだけで、迷信深いバカどもから金を巻き上げるのにたまらない快感を覚えるだけなのに、なぜこういう事になるんだ?
そんな慨嘆はさておきと。
12月末
祈願者「お正月は混むから年末に来ちゃいましたー☆ やっぱすいてますね!(ミャハ)」
受付者「ええ…。そうですね…。皆様やはり年が明けてから来られますから…。(死んだ目)」
よし帰れ。このそびえ立つクソ野郎。
お正月に他でもないお前らクソ野郎が何百億千万人も押しかけてくるから年末はその準備作業をしてるんだよ。
なのにフライングして年末に押しかけてきて正月準備を邪魔してるんじゃねえんだよこのクソ野郎。
年末にお前らの祈願を延々とやってたら神社はいつ正月準備するんだよ。そんくらい考えて正月に来るか12月中旬くらいまでに来い暇人野郎が。
年末暇だからって年始の行事を先片付けるんじゃねえ。大人しく部屋の大掃除でもしてろ。ホラ障紙の桟に埃が溜まってんだろうが!
1月松の内
祈願者「お昼は混むから夜に来ちゃいましたー☆ やっぱすいてますね!(ミャハミウフ)」
受付者「ええ…。そうですね…。皆様やはりお昼の内に来られますから…。(白目)」
よし帰れ。この口からクソを吐く前と後にサーを付けないクソ野郎。
お正月に他でもないお前らクソ野郎が死ぬほど祈願に押し寄せるから神主様は聖職者様はお疲れなんだよ。
早く帰って風呂入って疲れを落として翌日の仕事に備えてさっさと寝てえんだよ。明日もお前らクソ野郎の相手がたっぷり残ってんだから。
それをお昼が混んでるからって夜に祈願依頼に来やがったりなんかした日には神主様は一体いつ寝るって言うんだよ。
それと早朝にドンドコドンドコ押し寄せてきてドンドコドンドコ施錠した扉を叩いて破魔矢くれとか言うのやめろ。ゾンビかお前らは。
睡眠くらいさせろ。神主が白目剥いて受付に座ってたら大人しく祈願は諦めて本殿前で静かにお祈りして帰るくらいの優しさを持て。
あー言いたい事言ってスッキリした。本年の煤払いはこれにて終了と。
①自分たちが不滅で不可欠だという感覚 「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」
③心が石のように頑固になること 「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。人間的な繊細さを失うのは危ない」
④計画しすぎること 「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」
⑤調和なく動くこと 「和が乱れれば、雑音が混じる楽団のようになる」
⑥妄執や誤った考えにとらわれること
⑦張り合ったり虚飾に走ったりすること
⑧現実に向き合わないこと 「聖職者の役割を放棄して官僚主義的な仕事に収まり、自分たちだけの別世界を作る」
⑨陰口を言うこと 「はっきり物の言えない臆病者の病気だ。『陰口というテロ』に警戒を」
⑪他者への無関心
⑫お葬式のような深刻な顔 「伝道者は喜びを伝えなければならない」
⑬物欲
⑭閉じられた「内輪」を優先すること
告解は続く。
己の異常性を自覚しながらも、他者に矯正して欲しいと願い続ける人間が、このような形での告解を望む。
“自ら正す”という決意を持たない限り、他者への依存が続くばかりで精神的自立にはつながらず、告解が終わる事などない。
やり取りの大元で既に断定は済んでいたが。
改めて断言しよう。これはもはや、異常性を隠しもしない、明確な異常者だ。
そこまで言うならもう少し遊ぶことにするよw
お前の行為は既に遊びの範囲を逸脱して久しい、というのは既に書いた。
他の増田と比べてもわかるように、第三者から見てもそうだ。明らかな異常者だ。
弁解にならない弁解を免罪符のように掲げ続けていても、周囲から見れば滑稽の限りだし、また自らの歪みを正す事はできない。
「増田への書き込み」と言う「行為」に限って言えば、悪意からの書き込みであっても相手の状態とやらに責なんか負わないよw何言ってんの?
つか逆に君は負うのかい?君の書き込みを読んだ相手の状態について、何の「責」を負うの?
責めを負う負わないではなく、お前の中から完全に欠如している視点について指摘した。
その視点が欠如している限りは、増田に限らず、お前の言動はすべて悪意から発せられるものと誤解され得る。
そこが危うい。
そして最後の一行を訳すのならば、「もっとボクに優しくして!」だろうか。
しかしこちらはお前のママではなく、お前が相対しているのは教説を旨とする聖職者だ。
受け入れようとしない異常者の相手をする場合であれば、言葉を選ぶ理由は一切ない。
何だい?「俺にもっと思いやりを持って接してくれ!」っていう心の叫びかい?w
「俺に思いやりを持って接しろ!受け手である俺の視点を考えろ!俺の方は馬鹿とかクズとか好きにお前を罵倒するけどな!」ってこと?w
そもそもの認識が逆だ。お前は、相手と自分との立場を逆に捉えている。
やはりお前は今まで、家庭では親に対して、学校では教師に対して、会社では教育役に対して、すべてそんな態度で接してきたという事だろうか。
あくまでもお前の告解を聞き届けているのはこちらであり、その立場から投げかけられる言葉がどういうものかは推して知るべきだ。
それに対して無理矢理に曲解を向けたとしても、その解釈は非常に苦しいものとなるし、またお前自身が得るところも一つもない。
言える事は一つのみ。自身の異常性と対峙し、自覚して正す事だ。
「返答を考えたりして、中途半端な空き時間とかの暇がつぶせる」のが「益」だよ。
つかさぁ、「常識と禁忌との境界線を越える行為」てw俺ただ増田に書き込んでるだけですけどw
「禁忌」がどーとか、そんな大それたことしてるつもりないんですけどww
単純な事だ。ただ増田に書き込むだけならばここまで執拗に特定個人に対しトラバはつけない。
他の増田達のやり取りを見ていてもわかるだろう。
他の増田達がここまではしないような事を延々とやり続け、またそれを指摘されても尚やめない。
話題も過ぎ去り、他の増田も去り、これといった用もなく、たったひとりで執拗にトラバを返し続ける、お前の行動は既にただの遊びの範囲を逸脱している。そう既に書いた。
どう誤魔化そうとも、弁解しようとも、そこには異常行動を取るだけの異常な行動理由があり、ひいてはお前の根源的な異常性に繋がっている。
より具体的な例を挙げるならば、自身の行為が他者の目にとってどう映っているのか、考えて見た事はあるだろうか?
“気にしない、俺は俺が面白いから人にちょっかいを出し続けるんだ”
もしそう思っているのであれば、それもまた、警察の厄介になるストーカーなどがよく口にする論理である、と告げておこう。
妄想激しすぎw
執拗にトラバを返し続けるお前の異常行動と、その源となる異常性。
既に第三者の目から見ても遊びの範囲を逸脱して久しい、お前の“遊び”とやら。
既に飽きていると自分で言っていながらも続ける、お前のその矛盾した行動理由。
これらに通った解釈を当てるならば、前述の背景が浮かび上がってくる。
そしてお前は、これらに通った説明を当てることもなく、既に成立していない言い訳を通そうとしている。
その答えはひとつ。
その在り方は、第三者の目から見てもなお、はっきりと解るほどの異常性を示している。
お前がこだわってるんだ!いやお前だ!いやそういうお前がこだわってるんだ!いやそういうお前こそ!
…って、ガキの喧嘩みたいだねw
じゃあそこはもうどっちでもいーやw
そもそもお前には、“他人の言行一致の遂行”に対し病的なまでに拘泥・固執するだけの理由も、権利も、正当性もない。
拘る筋ではない事に対して明らかに拘っている、そのお前の行動こそが、正常の枠から外れている事に気付くべきだ。
また“他の増田が一切言及しなかった事柄について、きわめて執拗に自身が口を出し続けた”という点については、よく自覚しておくべきだろう。
他の増田と比較しても必ず真っ先に現れ出る、自身の異常性として。
つか、キャラがすっかり変わったねwというか今のが素なのかな?
それは別にいいけど、「オウフww」とか「アフィがゴフンゴフン」とか、あの変な口調あれ何だったの?
むろん、相手に応じて態度は変えている。
告解を望む者へは聖職者としての態度、そして、異常者には異常者へと相対する為の態度、と。
異常者であると認定された相手に対しては、原則、異常である点をひとつひとつ列記し繰り返し指摘し続ける方法がよく採用されている。
ゆえに。
予め書いておくが、以後の回答は「お前は異常である」の繰り返しとなる。
話題が去っても尚ここまでトラバを続けるような変わった増田であるからには、きっと何か、抱えきれない鬱積した物があるのだろう。
それもまた聖職者の務めだ。
神父や牧師や教会主ではないが、可能な限り、告解を聞き届けよう。
俺の口調を紳士的だとか言いだしたのは君でしょw
“純粋な善意から発生する己の行為であれば、受け手の相手の状態に関わらず、責められる責を負うべき一切の非などない”
と本当に思っているらしい。
よく報道番組などで、ストーカーの行為を擁護側が極力好意的に解釈した場合、“善意の押し付け”という表現がしばしば用いられる。
受け手に対する視点というものが完全に抜け落ちた言動は、「思いやりの無い人」という認識をすでに超え、もはや“人間性の喪失”として受け取られる。
なぜ、益も無く敢えてそのような言動を繰り返しているのか? 常識と禁忌との境界線を越える行為が、楽しいからだろうか?
もう一度自問した方がいい。
君にとって「悪い事」があるかどうかだって、俺にそんなこと分からないよw
つか何か「悪い事」があるなら遠慮なく言ってごらん?w
今のお前の姿勢・態度から受け取れるのは、諧謔半分、ネット越しに人をからかう“上級遊戯”とやらを楽しむ自分への陶酔が半分、といったところか。
増田ではよく見られるごくありふれた態度であり、悪意と認定するには至らないので、安心していい。
「俺が悪意だと思ったんだから悪意なんだ!」って言ってるだけだよね、それ。
その態度こそが、実に危うい。
お前の言動時における視点には、受け手に対する視点というものが完全に欠如しており、また不要だとすら考えている。
その自論を自覚し、また自論として押し通したい意志があるからこそ、この部分だけはどうしても看過できないのだろう。
他の言葉同様に、ハイハイとスルーをしても良さそうなポイントなのに、いつまで経ってもそれをしない。
理由は、推して知るべきだろう。
いったいどこからそんな思いがw
変わった感性してるねw
という事は、Siriがiphone以外にも対応すると、その望みは果たされるのだろう。
早くそうなるといいな。
君が君の「全レス主義」とやらを履行しない時どうなるのかなんか俺は関知しないよw
どうやら気付いていないようだが、他人の全レス主義を一番気にしているのは、他でもないお前自身だ。
普通のごく一般的な増田であれば他人の全レスなど気にしない。本当に、心の底からどうでもいい事だからだ。
今までいくつものエントリを書いてきたが、これまでも、そして今も、他の増田達が、その主義の履行に関して一切絡んで来ていない事が、その証左となる。
そしてお前の言動には、“他人に全レスを貫いて欲しい”という、ひどく奇妙な願いが散見できる。
ひょっとして、自らの増田経験の中で、トラバを返さずに放置し、後悔してしまった過去でもあるのだろうか?
だからこそ、既に他の増田達も去ったツリーでひとり、トラバを付け続け、トラバが返されなくなる日を待っている。
むしろお前の言動からは、返答されずに放置される事を望んでいる気配すら感じられる。
自分と同じように後悔して欲しい、でもトラバは返して欲しい、という、ひどく矛盾した思いでも抱えているのかも知れない。
どちらにせよ、人はそれぞれ、その個人の行いをするだけだ。
結局のところ、お前自身が解決するべき問題であり、他人にやってもらう事はできない類の課題であり、つまりお前個人がいつまでも抱えている宿題だ。
俺が拘ってるんじゃなくて、君が君自身の「全レス主義」とやらに拘ってるんでしょw
こっちはそういう君の拘りを茶化して遊んでるだけだよ。暇な時に。
いつまで自分の「全レス主義」とやらに拘って反応し続けるんだろこの人、ってね。Siriだのおもちゃだの言われてまでw
まぁ、さすがにそろそろ飽きてきてるけどねw
繰り返すが、他人の全レス主義に拘っているのは、他でもないお前自身だ。
また、その関係ない他人の全レス主義の履行について偏執的なまでに完全なる達成を求めているのも、他でもないお前自身だ。
一体何がお前をそこまで駆り立てるのだろうか?
これもまた、気付いていないのかも知れないが。
茶化して遊んでいるだけ、と弁解のごとく繰り返しているが、既に、そう定義され得るだけの行為の範囲は逸脱して久しい。
「ここまで言われたら流石に反応し続けないだろう」と思考しながらも言葉を投げかけるのをやめられないその姿勢は、明らかに異常だ。
なぜやめられないのか? なぜ飽きても続けるのか? 本当に自分は楽しんでいるのか? それを“遊び”と定義し続ける事ができるのか?
恐らく、その答えは一つだろう。
心に抱えた鬱積したものこそが、“ただの遊び”と弁解しつつ、そのような矛盾した行為に走らせているものと推察する。
どうして自分はこんな奇矯な言動を相手に対して取り続けているのか。
改めて、自分の中で行動理由をよく整理し、見直すべきだろう。
己の中に抱えきれないものがあるのなら、顔を隠して吐き出しても良い。
やべぇ眠い
>相手に悪意がないのに悪意に解釈して反応すればリアルでも過剰反応とか被害妄想とかって言われたり思われたりするよね?w
それはつまり、「過剰反応とか被害妄想とか思われたら嫌だなあ」という思いが抑止力になるだろうが、という事かな?
すでにこうして匿名の場で自由に発言している匿名聖職者には、そのような思いも無ければそのような抑止力も働くわけがない。
それができずに周囲にいいように振り回されて都合よく袋叩きにされて辞めていく候補生とか大勢見たからねえ。
>…というか、最初の頃の方がむしろ「悪意」はなかったよ。純粋に意見を言ったり誤読を指摘したりしてた。
>ここんとこの書き込みの方が、君の「全レス主義」とやらを茶化しにかかってるので、ハタからみたら悪意に見えるんじゃないかな?どっちかって言うと。
そうかぁ? 今の態度の方がよほど訊き方とかに配慮があると思うがなあ。まあ、タイミングって奴かねえ。
>だいぶ前からそう思い始めてるよw
>だって「全レス主義」なんて標榜するってことは、つまりそういうことじゃんw
>「全レス主義」って、「いつでも相手の暇つぶしのおもちゃになります宣言」じゃん、ある意味。君が自分から言い出したんだよw
ああなるほど、来る頻度とか知らないのか。
いや、アフィブログの更新後に自由な発言がてらアクセス集めに来るだけだから、そもそも増田へは月に一度くらいしか来ないんだが…。
そもそも毎日ネット見れるわけじゃないし、今日みたいに2~3日続けて来たってのは本当に珍しい事。
>ということは、俺の書き込みが何か尋ねる形式を取っている限り、君は俺のちょっと口の悪いSiriになっててくれるってことでいいのかな?w
全レスはするが、月に一度だぞ?w
それに訊かれた事には答えるし全レスもするが、こちらはあくまでも好きな事を書くために増田に来ているんであってお前らの質問に答える為じゃないから、これまでも訊かれた事にはまともに答えてないし、全レスも罵倒に罵倒を返していったその結果ついでに達成されているだけだぞ?
七夕が終わってちょうど一ヶ月と一日。
先月初旬に竹を処分したが、吊された短冊は毎年、一枚残らず熟読している。
愚かな凡俗どもが愚かな願いを書き連ねた短冊が、見ていて面白く無いはずがないよね!
というか、ケータイ変換のせいかゆとり教育のせいか知らないが、やたら漢字の間違いやら送り仮名の間違いやらが近年とみに増えてきたように思う。
人に見られるところに吊すんだから短冊書く時くらい気合い入れて間違えないように書け。
今年笑った短冊。
“仕事が美味く行き、今年中に彼氏がでるきますうに ○○○○(女性名)”
美味くて。東西新聞社にでも勤めてんのかお前は。
……うん、順調も漢字で書けなかった上に彼氏にどうして欲しいのかもうまく表現しきれないようでは、願いはかなわないと思うよ。
“俺と4匹の犬達が、健康に天命を全うできますように ○○○○(男性名)”
うん、言いたいことはわかる。
無事に健康に怪我無く一生を終えられますように、って言いたいんだよね?
残念。
「天寿」なんだ。
天命て。どんな使命だよと。
「俺と4匹の犬」は、一体どんな天命を背負わされているのですか?
一体どんな天命を全うしなければいけませんか?
もし仮にできなければファルシのルシにされてコクーンでパージですか?
俺「——行くぞ」
犬1「えぇ、いよいよですわね…」
犬2「遂に…か」
犬3「腕が鳴るわね…」
犬4「あ、虫だ!ねぇ見て虫がカナブン運んでる!」
追記:
はいはいー馬鹿なブコメ共に有難くも聖職者様がご返信を下さるお時間だよー!
>maturi
>増田地獄|キティちゃん七夕短冊かと思ったら違った 2014/08/09CommentsAdd Star不適切なブックマークを通報する
ハイハイ、三下のキャンキャン吠える声は本当にやかましいねえ。
お前ら糞ブックマーカーごときが聖職者様に物を言うこそおこがましい。
批判論評しかできないゴミは無価値なんだから無生産者らしく立場をわきまえて大人しくしていないとね!神主さんとの約束だぞ!
>mobile_neko
>寿命の意味で天命って使うよな。と思ったらトラバで指摘されて顔真っ赤にながら反論していて吹
A:ハイハイお馬鹿さん、ツリーの下の方もよく読んでから糞ブコメは付けましょうねー。
強調と伏せ。書く事と書かないで置くべき事。
人様のエントリを偉そうに大上段から批判するだけなら誰にでもできるけど、文章力が伴わないと大変ですねー。
文章の書き方をもっとお勉強しましょうねー。無生産者なら無生産者らしく謙虚に大人しくしていないと、それこそ天命が来ちゃうよぉ?
そういえばあまり書いてこなかったと思ったので、今回はなるべくドロドロした事を書いてみたい。
さて、“人間ヒマで余裕があるとロクな事をしない”というのは、歴史的かつ普遍的な事実である。
市役所とかの歴史がそのまま、ドロドロした人間関係の歴史であるように。
まあ大体この辺りが古い大きな神社の職員構成層であると考えてもらっていいし、おおよそ左から順に尊重される。
この序列はコネ順として捉えるとわかりやすい。神社界で物を言うのは人間様のお口ではなくて、コネと金がすべてである。
年功序列、上位下達をこそ金科玉条とする神社界においては当然、職務命令に対する理解よりも遂行よりも服従そのものが求められる。
「伝統を堅く守る」という事 = 「自分の頭で考える余地がない」という事であり、アレンジャーやアドバイザーは不要である。自分の意見を言わずにはいられないタイプの不具者は、転任だの何だの理由をつけていずれ追い出される。経歴に転任の多い奴はこの不具者であるとすぐわかる。
以上の背景を前提として、神社内にも暗闘が存在するわけであるが。
まあこの暗闘てのは一般的には俗界において“社内政治”と言われているものに類する。
より具体的には、世襲経営者もしくは実質的な経営者層に対し、代々職員や兼業神職が、まるで反抗期のガキのように反旗を翻すものが多い。
ただし、待遇改善や職場環境向上を求める声はほとんど上がらず、神社運営における主導権争いがメインになってくるのが特徴的な点と言える。
とは言え、大体の神社において経営者層というのは大体決まっている。どのあたりが宮司になるとかは大体決まっているし、また世襲のところもある。
となれば雇用主と被雇用主は明確に分化されていると言えるし、また、飼い主が誰かわかっていない飼い犬などただの狂犬である。
なのになぜ、経営者の座はどうせ何代経とうが小揺るぎもしないのになぜ、このような主導権争いの暗闘がわざわざ発生するのかというと。
「ウチは代々この神社に勤めてるから」という、自宅感覚で職場に意見する、代々職員。
また、自分の家系で代々ちっぽけな神社の宮司を勤めているというだけなのに“神社界に重きをなしている”と勘違いし、また生活費が稼げないからよその神社様にお勤めして食わせてもらっているのに自宅感覚で職場にて宮司の如く振舞う、兼業神職。
まあカンタンに言えば、でかい会社において、そこに勤めているよそのちっぽけな会社の社長やそこの後継ぎが、偉そうに振舞っているのと同じ感覚である。
経営者としては、こいつらはタダの被雇用者なのだが、先祖代々のコネがあるから無下にはできないし、地縁血縁もある事だから粗略には扱えない。
で、こいつらがしがない雇われとしての自分の立場を自覚しているならいいのだが、神社に入ってくる段階で既に、コネで楽して資格とったりコネで楽に就職決めたりして入ってくるだけに、当然のごとく選民思想に満ち溢れており、強く出れない経営者の立場を逆手に取り、職場においても我が物顔で振舞う。
なので止める者もなく、こいつらは職場の腫れ物と化してゆく。
で、すっかり腫れ物と化したこいつらが必ず何をするのかというと、神社運営における主導権争いである。
自分達だけでやるなら好きにすりゃあいい話なのだが、迷惑な事に職員全体を巻き込んで争いをおっ始める。
宗教家が政治に興味を持ったところで碌な結果には結びつかないし、社内政治においても同様である。
金や権勢や社内政治に興味のない人間でも務まるのが聖職者のはずなのだが、否応なしに巻き込まれる。
まあ嫌そうな顔をして正論を吐く程度の自由は与えられるのが、一般企業とは違うところか。
「ここはお前ん家の神社じゃねえんだよ、そういうワガママなら家に帰ってパパ宮司に言えや」みたいな事をオブラートに包んで言っても、
「そういう事を言い出したら意見なんてできない」みたいな一般論を返すだけでまったく内省の気配すらない。
この辺は一般企業と何も変わらないのだが、もちろん神職の養成機関においても、年功序列、上位下達を重視した教育が施される。
伝統を堅持する神社界に、新しい意見はいらない。その考えにはただ単に飯食う為に神主をやってる私も同意する。てかどうでもいい。
しかし、飼い主が誰かをわきまえていない飼い犬は明らかに不要である。
そこんところはキッチリわきまえ、誰におまんま食わせてもらってるのか自覚し、飼い主に尻尾をきちんと振らない限りは、代々続く家の子孫だろうが何だろうがただの狂犬の群れである。
職場に対して偉そうに意見するのならまずは、テメエん家の神社一本で食ってけない、情けない我が身を省みて大いに恥じるべきである。
やり方次第ではどれだけ小さい神社だろうが、一社の故実を破壊せずに神社一本で食ってく方法なんていくらだってある。でもそれをしない。思わない調べない実行しない。
まずその己の怠慢に対し、親や祖先や神社に対してごめんなさいと言うべきである。
自分ちの神社だけで食ってけないなら、食い扶持を稼がせてくれるヨソの神社に対して偉そうな事は言わない。
何年勤めていようが、何代勤めていようが一緒。雇われは雇われ。
てかそもそも、そういう偉そうな事を言える立場じゃない。