はてなキーワード: 一般社会とは
なぜそうなるか、順を追って説明する。
これは誰もが想像つくだろう。今回なぜか厚労省から通達が出たが、そのうち他の省庁も同調してくるようになり、最終的に総務省も同調する。
「ガイドライン」なのに法律と同等の扱いをするのはどうなのかという声も一部で出るが、黙殺されるだろう。
病死の場合や事故死の場合は大々的に、詳細に報じされるが、自殺の場合は小さく「○○日に亡くなった」とだけ報道されるようになる。死因についても伏せられる。病死や事故死の場合は追悼番組も出てくるが、自殺の場合はそれすらも無くなる。ここまではガイドラインの狙った通りになるだろう。
ここからは想定外になると思われる事象。死因が伏せられた著名人に対して、「真実を追及する」という題目で死因を追いかけるメディアが出てくる。メジャー放送局や大手新聞社はそういうことをやるわけにはいかないので、バイラルメディアやタブロイド紙の出番になる。Youtuberもそれに乗っかってくる。
その結果、そっとしておいて欲しい遺族がどこの馬の骨と分からない連中から追いかけられるようになる。今はメジャー放送局や大手新聞社の記者という「どこの馬の骨なのか一応わかる連中」に追いかけられている分だけまだマシなのだが(抗議を受け付けてくれる場所があると言う意味で)、その要素すら消えてしまう。
STEP3の結果もたらされる事象としては、「そもそも亡くなったこと」が伏せられるということが考えられる。出演中の番組や舞台がある場合はその人が突然消えることになるので、表向きは「体調不良で当面休養のため降板」というプレスリリースが行われるだろうが、本人が死んでいるのでいろいろ不自然なものとなる。そしてSTEP3と同様バイラルメディアなどに追いかけられ、実は自殺していた・・・という報道が相次ぐようになる。
そしてこういう事象に繋がる。もはや本末転倒である。芸能界でNGワード化したのだから一般社会でもNGワード化してしまい、「休養」「休暇」などの言葉がつかえなくなってしまう。
そして、このような本末転倒なことが起きている根本原因は何だと言う声が日本全国から上がるようになり、元をたどれば自殺報道ガイドラインのせいということに(当然だが)なり、このガイドラインが撤廃される。
暗器使いさんに関しては、
性暴力を受けた男性被害者たちの苦悩「なかなか一般社会では認知されない」 - ライブドアニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/13970596/
とか
プロ小説家「今度いじめをテーマにした小説を出版します。ストーリーもキャラも私のオリジナルですが、貴方の話をモデルに書いたので、原稿を読んで了承を頂きたい」 - Togetter
https://togetter.com/li/865648
などを読むと、今回のことについてもどこか同情してしまうんだよな。
一方、とうふさんも、つらい境遇に置かれているし。
今回の件は、(お二人には申し訳ないレッテル貼りだが)弱者と弱者が行き違っただけであり、周囲がああだこうだ言うのは、二人をいじめていたやつらと同類なのかな、と。
「発言や差別意識は現実に人を傷つけ殺すことだってある」という観点がすっぽり抜け落ちてる。反社会的な行為がフィクションにとどまって他へ害を吐き散らさない段階なら目こぼしもされているだろうが、現実へ影響を及ぼし始めたらそんな猶予は一発で吹っ飛ぶ。ヤク決めて飛ぼうぜって歌うロッカーは顰蹙を買う程度で済んだとしても、彼が実際に麻薬をファンに売りさばいたら当然逮捕されるし、なんなら界隈のアーティスト全員に疑いの目が向けられる。快楽殺人者を描いた映画がもてはやされても見ない人は見ないで終わりかもしれないが、模倣犯が一人出ればそのジャンルの映画見に行く人はみんなそういう目線で見られるのを覚悟することになるしだいいちスポンサーがもう金を出さなくなる。別にそれらは「社会的に許容されてる」ってわけじゃない。実害がないならほっとく、実害があるなら取り締まる。そんな程度のさじ加減で、単にスルーされてるってことだよ。そして、「誰もが見られる動画サイトで、他者を傷つけるのでよくないとされる言動を広めてる」のは、すでに社会における明白な加害行為であり、ストップがかかるのは当たり前のことだ。
つまりこれは、”自分らが社会的弱者であることに安住して一般社会ではとうてい許容されない行為を面白がっていたら、その結果コミュニティ全体が危機に晒され、本来無害であったものまで延焼する”…という、例のあのよくある歴史が、いまゲームコミュニティに訪れてるってことなんだよ。そういう状況で「あれぐらい許せ」なんて発言が界隈から出たら、それがどういう結果をもたらすか想像できないか? 「なるほど、あれぐらい許さなくちゃな」ってなると思う? 反対だよ。ホント馬鹿だな。
ちなみに猥褻な文書・図画・電磁的記録に係る記録媒体は刑法175条で頒布や陳列を禁じられてるわけですが、ここでいう猥褻とは
いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの(最判昭26・5・10)
一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」(略)かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである(最大判昭32・3・13)
ですよ。
既に法に書かれた内容ですら、突き詰めれば何かを言っているようで何も言っていないに等しい、結局裁判官がそう思えばそうなんだぞってだけのラインなのに「規制に然るべき理由とそのライン」を一体誰が明確に引けるというのだろうか
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
これって別に男女の話じゃなくて、権力者からやりたくないことを強要されるとなかなか断れませんよって話であって、一般社会ではかなり淘汰された権力者によるハラスメントが芸能業界ではまだ全然生きてるって問題なのに、男女論として捉えるのはよくないよ。男性性被害者に対する風当たりの強さって完全にそれに起因してるよね。
結局、男から女への被害ばかりが取り沙汰されるのは、現時点で男のほうが女より権力を持ってるパターンが多いからでしょ。権力は人を腐らせがちだから、社会的に強い立場の女が増えたら女だって同じようなことやると思う、というか、現在進行形でやってる女や被害にあってる男も絶対いるのに、あまり告発する事例が出てこないのは、世間に増田みたいな思い込みがあるからだと思うんだけど。
3年前くらいから在宅勤務のお供にVtuber見るようになった。
事務所としての印象なのでタレントそれぞれは違うとかいうのは大いにあると思うし、所詮私の感想です。
VTuber界隈のお作法?のようなRPだの魂だの数字だのに言及するのは忌避感ある人いるだろうけど、そこ含めて楽しむ系なのでご容赦。
・少数精鋭。登録者/同接/スパチャ額が全体として抜けてる感。
・Vtuberで(事務所として)儲かる手法をしているんだろうなと思う。
・タレントのどうのこうのより一部ファンのスパチャやらコメントが目立つ。
・スパチャ額がすごい。ただ少額を多くの人からというよりコアなファン層が一人で2桁3桁万というような構成でドルオタがこっちに来たのかなという印象がある。
・アイドル売りに対して処女信仰の人たちが集まり、それらが組み合わさった結果として男性と関わらないムーブしてるタレントが多くて大変そう。
・中の人たちもゲーマーというよりニコ生/ニコ動/ツイキャス/声優/アイドルとかみたいだから、横のつながりが女性同士のいざこざ多そうで大変そうだなーと。(結局自分がスポットライト浴びたい人多そう)
・ぺこーらがぺこーら構文をもって外部コラボしまくっていったらストリーマー界隈全て持っていきそう。
・活動内容もアイドル売りしてる人もいれば、ゲーマーもいれば、おじさんもいる。
・すげー配信時間の人もいれば数年間活動してない人もいるし、どっちもそういうもんだよなってファンの中でも受け入れられてる感。
・にじさんじを体現してるのが委員長というのはとても理解できる。
・個人個人で目立つタレントはいるけど、774=ねるちゃんってなる。ASMR聞く人は別の印象だろうけど。
・FPSゲーマーの女性の集まり。運営会社がPUBGの大会(スクリム)の運営とかしてるから、そっち方面からスカウトしたんだろうな。
・ネットでファンがつくような経験者がVtuberになったというより、ゲームが上手い女性がVtuberになった感。オタクに理解のあるゲーマー女子。
・普通に揉めたエピソードの経緯や仲直りしたこととか笑いながら話してて仲良さそう。一方で本気のいざこざ起きたらスパッといきそう。
・結局なずちゃんがいるからまとまってるんだろうなみたいな印象。なずNEWS待ってます。
・対談コラボ面白いけど、テンプレ感があって犬山たまきの視聴者に対してコラボ相手のことを紹介している感。もっと台本抜きでやってほしいな。
・前はやばかった
色んな理由で卒業なり契約解除なりあったりするけど、一般社会だと仕事辞める人が一定数いるからVTuberだから目立つだけなんだろうなと思いつつ、そのあともネットで活動して動向がわかるのがもうネットで生きていくんだなって感じでおもろい。
はてブの方でも人気記事になっている、漫画家の赤松氏が自民党入りすることについてのインタビュー記事。
この記事のブクマ見てると「目的を達成しようと思ったら自民が正解」というコメントは少なくなかった。
別にこの話に限らず、きっと色んなイシューに関して昔からこういう風に「政治の場で目的を達成しようと思い、その内容が自民が受け入れ得るものなら、票田や勢力といった手土産を持って自民と協力体制を築くのが最良」みたいな勝ち馬に乗っかる流れがあるんだろうな。
最近だと、国民民主党がトリガー条項の凍結解除を目的として自民の予算案に賛成した話とかも似たようなもんか?
もちろん、それぞれが自民党の力を利用するという選択に至ったのには他にも様々な理由があってのものだろうけど。
でも、こういう風に「勢力があることがさらなる勢力を呼び込む」から自民は強いんだろうなっていうのを感じずにはいられない。
別に俺は自民支持者ではないし、はてサ的な強めの自民アンチでもないけど(選挙権持ってから自民に投票したのは山田太郎議員が出馬した時だけのオタクだ)、こういう勝ってるヤツがさらに勝てるって構図はあまり好ましいものではないんだろうなとは思う。
少なくとも俺は、目的達成のために自民にすり寄る勢力やそれを支持する有権者が悪だとは思わない。
一強体制が良くないというのは一般的な事実だと思うけど、だからと言ってそれを選挙の投票基準で最優先しなきゃいけないかと言ったらそんなことはないし、政治家も有権者もどのようなイシューを優先するかは自分の好きに決めるべきだと思う。
上記の赤松氏の記事のブコメで言えば「エロのために自民党のケツ舐めてんじゃねーよ」という旨の酷いコメントも散見されたが、他人の重要視しているイシューを馬鹿にしてもっと重要なイシューがあると押し付けるのは、傲慢で差別的である種全体主義的だと思うので賛成できない。
これが例えばLGBTとか、社会的により繊細なテーマだったら「そんなくだらないことではなくもっと社会全体のためになように投票しろ」と言った瞬間、はてなでも一般社会でも大炎上だろう。
沖縄でやんちゃな少年たちの一般社会への再接続をサポートをする仕事をしているのだけれど、沖縄の若者文化というか何と言うか、端的に言えば不良少年たちは沖縄の独立を望んでいない場合が大半だ。
現在沖縄の若者は米軍基地が非常に身近なためかファッションから音楽までアメリカ由来のHIPHOPスタイルを非常に好み、沖縄の米軍関係者を親に持つアメリカ籍少年たちとコミュニケーションを取って生活をしている(ここで言うコミュニケーションは血を伴うものも含む)。
つまり、アメリカのバッドボーイズ/バッドガールズスタイルを日本の不良スタイルへと集合させた本土とはちょっと違う不良スタイルへと昇華させている。
アメリカのスクールカーストが稀に話題となるけれども、バッド少年たちはスクールカーストへ組み込まれていない例外層であり、何故かと言えばバッド少年層と喧嘩になれば拳銃が出てきたりして子供同士の喧嘩とはまったく言えなくなってしまうからである。
だから最上位であるジョッグやクイーンであってもバッド少年層とは距離を起く。ジョッグやクイーンが最終的に求め憧れるパワーとはヒーローのパワーであり、バッド少年が求める文字通り何にも縛られない自由になるためのパワーなので求めるパワーの質が違うのだ。
そうアメリカ籍の少年から聞いた。
はてなで話題になる沖縄の話と言えば、米軍基地と沖縄独立を絡めたものであるが、はてなで取り上げられスターが付くブコメにはかなりの偏りがあるし、おそらく・・・というよりはほぼ確信的に沖縄の大部分の若者から支持が得られないものだったりする。
少なくとも沖縄の若者からすると米軍基地へ直接雇用されれば安定職だし、出入り業者へ就職してもそこそこ良い待遇を得られることが確定する。
それ以外の就職口の大半が沖縄は3次産業ばかりが発展してしまった土地柄なので観光のための施設店舗を作り整備する土建業か、観光飲食そのものを扱うサービス業なので低賃金なのだ。
つまり、沖縄の若者からすると割の良い就職口である米軍関係を沖縄の外へ出すなんてのは害悪以外なにものでもなく、口々にその手の話にはほぼ間違いなく一笑に付してしまう。
はてなの一部の人には微妙な感情を持つことになるだろうが現代の沖縄で「少年から大人になる≒就職口として米軍関係を検討する」ということを意味する。
それでも米軍関係者による暴力事件がという考えが巡ってしまう人も居るだろうけど忘れないで欲しい。沖縄のやんちゃな少年たちの存在を。
今さら沖縄在住の人に説明するまでもないことだが、知らない人へ説明するならば「不良というものへどういうイメージを持っているか?」をまず考えて頂きたい。
私は不良のイメージの一部に「不良は大人に迷惑を掛けるもの」というのがあるし、多くの人もそうだろう。そして「沖縄では迷惑を掛ける大人の対象に米軍関係者すら含まれている」としたら察しはじめる人も出てくるのではないか。
沖縄発の犯罪事件の報道には偏りがあるのはご存知だと思うし、米軍関係者による無意識なアジアへの差別思想ももちろんあるだろうが、あれだけ成人式で騒ぐ沖縄のやんちゃな少年たちがなぜ普段から報道されず、警察により行き過ぎた取り締まりなどセンセーショナルなことがないと取り上げられないのは不自然だと思わないだろうか?そう偏っているのである。
一部の沖縄県警や一部の米軍関係者が沖縄の若者へ当たりが強いのは、そういったやんちゃな少年たちの存在が少なからず関係していると言って良いし、米軍関係者が暴力事件を起こしたとき何故か喧嘩相手の詳細がわからないのはその喧嘩相手は実はそういうことなのだ(少年法の絡みや報道慣習・自主規制もあるだろうけど)。
ほかにも米軍の治外法権の絡みから、何らかの事件を沖縄内で米軍関係者が起こしたとき捜査権は事実上早い者勝ちになっちゃってるというのもある。
本土の人からすると意味がわからないだろうが、米軍関係車両が交通事故を起こしたとき捜査するのは先に事故現場へ到着した警察もしくは米軍関係者がするという運用が事実上されているのだ。
まぁだからこそ責任割合で1:9みたいな感じで米軍関係車両が悪いとなってしまっても米軍関係者が先に事故現場へ到着してしまうと責任割合の概念が吹き飛んでしまい損してしまった経験のある沖縄県民が少なからず居るのだ。
逆パターンももちろんあるわけで米軍関係者からすると治外法権はなんとしてでも手放すわけにはいかないってのが現状だろう。
そんな様な状態であっても沖縄の若者、特にやんちゃな少年たちにとって米軍基地は大事な存在だ。
やんちゃな少年たちの沖縄流HIPHOP文化の根拠は米軍基地にあるわけで彼らの青春そのものだし、何よりも大人になると大事なパートナーとなるからである。
そして、その文脈と同じ様に沖縄独立は沖縄の若者、やんちゃな少年たちにとってありえないのだ。
HIPHOPと言えばやはり立身出世なストーリーだ。地元の多くの人たちからそのスタイルが独自のものと認められ評価され人気になって行き、都会で全世界で成功者として大金を稼ぐ。
沖縄のやんちゃな若者にとってのニューヨークとは本土の東京であり、決して那覇市ではない。
本土で沖縄芸能人が過去に人気となったことがあるけれども、沖縄の若者からすると沖縄芸能人はシイジャア(先輩)である。
その当時のスタイルはHIPHOPではなかったけれども、沖縄の若者、特にやんちゃな少年たちはシイジャアに憧れて東京を目指している。自分のリリック・フロウが世の中を席巻することを夢見ている。
それをすることが難しくなる沖縄独立を沖縄の若者が支持するか?と言えば支持するわけがない。
なので沖縄の若者は「沖縄独立は老害の世迷いごと」「アイツら中国から金貰ってる」「共産主義はダサい」と口々に言って意見がほぼ一致している。
ちなみに沖縄の多くの若者は学術的に沖縄独立や共産主義を理解していないがスタイルとして沖縄独立や共産主義をダサいと言っている。
生活へ密着する文化がアメリカ志向、大人になっての就職もアメリカ志向なのが今の沖縄の若者であり、そんな沖縄の若者の事情を無視して今の大人たちの思想信条や都合によって沖縄独立論を語ると、今の大人が引退した数十年後は逆に取り返しの付かないことになっているだろうと私は予測している。
補足情報として今の日本の音楽シーンでは徐々にHIPHOPが興隆しているけれども、本場アメリカの影響を強く受けた沖縄流HIPHOPの東京進出志向もあると思っている。
それがどういうことかと言えばHIPHOPの派生系「TRAPスタイル」の流入も東京で起きているということを意味している。
TRAPスタイルについては「TRAP 歴史」などでググって貰えればわかるだろうけど、ググるのが面倒な人へ端的にイメージだけ伝えると「違法薬物がかなり強く影響しているHIPHOP」だ。
このように端的なイメージだけ伝えると悪い印象しか与えないだろうが実際に悪い。どれくらい悪いかと言えばトランスやサイケデリックなどと肩を並べられる、もしかしたらそれよりも悪いほど悪い。
このような音楽を聴くなと言っているわけではないが、その文化へ濃密に自身の子供たちが浸かっているような気配があれば親は警戒したほうが良いとは思う。
違法薬物がなくともトランスやサイケデリックのスタイルは踏めるようにトラップもまた踏めるはずなのでトラップやドリルに傾倒する若い子たちは今すぐに違法薬物が伴っているコミュニティと縁を切るように強く言おう。
キミのスタイルは魂の選りすぐりのスタイル キミの魂よりクスリ クスリのスタイル 騙しのスタイル クスリより魂 楽しいスタイル キミのスタイル 騙しのクスリより楽しい選りすぐりの魂のスタイル
視点死刑とは心の中に植え付けられた観念が視点へと変質し、常に内面を除かれ内側から支配さる状態を指すがこのような気味の悪い病にも社会性があると思われる。
例えば松本人志の「遺書」がそうである。この松本人志の「遺書」が日本のお笑い会に多大な影響を与えたことに異論はないだろうが、お笑い会のみならず一般社会にも多大な影響力をもったのもまた事実であろう。
一般人が「俺はどちらかと言うと突っ込みタイプ」とか「俺はどちらかと言えばボケ」だなとか言い出したのはどう考えても「遺書」以降であるし、当時はみんな松本人志の真似をしていた。
「遺書」の中にちりばめられたさまざまな言葉、哲学、思想がテレビ会を良くも悪くも「汚染」したのも事実であろう。
「遺書」以降日本のテレビ番組がつまらなくなってしまったのは疑いの余地の無いところである。
で、その理由として松本人志の言葉が観念化し、テレビ会を凝視する視点へと変質してしまったと考えることは出来ないだろうか。
このボケや突っ込みをしたら松本人志につまらないと思われるの恐ろしく、笑いの質を変えざるを得なくなってしまった可能性はないだろうか?
松本人志的なあるいはダウンタウン的な笑いが日本中を席巻し芸人も一般人もパクってたし、はっきし言ってそれはつまらぬものでしかなかった。
日本のテレビ番組は「遺書」以降どんどんつまらなくなっていった。
たとえばビートたけしが昔に比べてつまらなくなったのも、素直に笑いたいけど笑えなくあの、ビートたけし特有の「ニヤリ」とした笑いかたも「遺書」以降によく見られる現象である。
私はビートたけしのバイク事故も「遺書」に敗北感を感じたビートたけしの自殺だったという説を持っているがどうであろうか?
最近のお笑い芸人は何でもかんでも突っ込み、しつこいし、これは浜田雅功のパクりとしか思えないし、ワイプに映るタレントの笑い顔も「笑わなきゃならず笑ってる」という感じで素直な笑いではない。
最近の笑いはボケから突っ込みまで全てが予定調和でつまらないし、そこにはやはり松本人志の「つまらない」という視点があり「つまらない」と思われるのが怖いからではなかろうか。
どう考えても松本人志の「遺書」以降日本のテレビ番組は変質してしまった。(そんななかお笑いの質が遺書以降も全くぶれなかった島田紳助は流石と言わざるを得ず引退が非常に惜しまれる)
笑いコンビは別にどちらがボケでどちらが突っ込みという決まり事なんかないのはたとえば、とんねるずやウッチャンナンチャンを見ればあきらかで、
その時々の状況に応じてどちらが突っ込んだりボケたりすれば言い訳で別にお笑い形態としては、必ずしもどちらがボケでどちらが突っ込みといった役割分担が必須というわけではない。
ウッチャンナンチャン的、とんねるず的なお笑いコンビがもっといてもいいわけである。
ダウンタウン以降、ほとんど全ての笑いコンビがボケと突っ込みの役割分担がはっきりしており、今は昔ほど酷くないが少しでもダウンタウン的な要素があるとつまらなく感じるのであった。
兎に角松本人志の視点がテレビ会に内在化されてしまったことは疑いようのない事実である。
明石家さんまですら、松本人志の視点を感じながら番組に挑んでるのも全く事実であろう。
ダウンタウンも歳をとりもうすぐ還暦である。流石に昔程の輝きはないが、ダウンタウンがどんどんつまらなくなっていくのと日本のテレビ番組がつまらなくなっていくのは軸を一にしており、繋がっているとは言えないか。
番組制作スタッフも本音を言えば正直松本人志の視点が邪魔で重苦しく感じているのではなかろうか?
私に視点死刑の刑が執行されたのも、「遺書」の発売年とほぼ被るし、私を自分の支配下に置こうとした彼は松本人志の芸風をよくパクっていた。
気味が悪く絶対に誰も同じ目にあいたくない視点死刑という刑罰も実は彼のオリジナルではなく社会性があったのであり、私を支配下に置こうとした彼も時代の手のひらの上で踊らされてたのである。
アニオタの大嘘にアニメは世界的に認められている。でもアニメーターは貧困でこのままだと国益に損失だから保護しろという主張
これを20年以上近くアニオタは言ってきてるがまったくの欺瞞だね
アニオタはアニメーターが貧困なのは製作費を電通なんやらが中抜きしているからだという大嘘を言ってきた。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1706/18/news001.html
しかしこの記事にある通りそれはまったくの大嘘であるというのが数年前にバレている。
君の名は。がヒットだの鬼滅がヒットだの呪術廻戦がヒットしているのになんでアニメーターが報われないのはなぜだみたいな疑問を呈しいるが
その答えは記事にも書かれてる通り10本つくって9本外れで1本のヒットで他の赤字をカバーしているからという単純な話だった。
要は出版不況と同じでアニメ会社が増え過ぎてアニメをつくり過ぎた結果が今の悲惨な現状なわけでありアニメ業界の自業自得であるわけだ
それをアニオタは完全スルーして中抜きされてるだの不当だと騒いでいるわけだ。
挙句、アニメーターを国で保護しなきゃ国益に損なうだの中国に乗っ取られるだの騒いでいる。
結論から言うとアニメに税金を1円たりとも使う必要はない 中国に乗っ取られるのならくれてやればいい。
そもそもアニメやアニメーターを助けたければ円盤を買えばいいことそれが一番
ところがネットに蹂躙跋扈しているアニオタはソシャゲや薄い本に金は出すけど円盤にまでに金を出していない
結局のところは自分らの懐は痛めたくないけどアニメはみたいので税金で支援お願いしまーすって言ってるわけだ
もちろんこんなふざけた主張に耳を貸す必要はない税金を1円足りも使う必要もない
そもそもこんな現状を招いたのはアニメーターの自業自得だし、やつらとリアルで会う機会もあったけどアニメのことしか知らないような世間知らずが多い
こんな連中が上行けばそれはダメになるってのがよくわかる。
一般社会のメーカー会社が物だけつくってればいいなんてのはとっくに過去の話で広告やマーケティング、販売販路の確保、営業etc それぞれをきちんとこなしていかなければ成り立たないのは常識のことなのに
アニメ業界はただTV局の言うままに製作したり、漫画原作のアニメ化してきただけ こんなことしてれば時代についていけず苦しくなるのは当然なんだよ
俺も、現状の男性Vの人気は「お笑い芸人」的な人気だっていうのはよくわかる。逆に女性は「ガチ恋」や「推し」っていうアイドル概念での人気って感覚があるな。
ジャニオタやスノーマンが好きな女友達は、メンバー同士の絡みを見て楽しんでいる感じは確かにする。実際、友達と話していると「認知してくれることももちろん嬉しいけど、そこまで必要じゃない。とにかく推しが活躍したり、楽しんだりしている方が嬉しい」って言われたわ。男オタだとこうはならんやろなぁって聴いてた。
「メンバーの中だけの世界」ってのもよくわかるわ。推しは一人だけど、そこには必ずカップリング的な相手がいるっていう特徴は確かに周りにあった。
増田も「ハコ」概念は男性Vが活躍するうえでは必要なことやと思う。
ただ、増田が聞いた中で最も男性Vにハマれない障壁になっているのが、「魂」の問題だった。
今だとどこもかしこも、Vの中身として元配信者とか求めているけど、大抵そういう人たちって倫理観がどこか狂ってたり一般社会的にアウトなことやっていたりする。(偏見も含むが、引退した大手ニコニコの配信者に聞いた話もあるのでそう間違いではないと思う)
そしてこれってVの炎上とかですごく一般的な論として定着しているきらいがある。
そういう前提があるうえでの会話なんだけど、一番言われて男性Vは今のままだと無理だろうなって感じたのは「中身がクソの可能性が高すぎて純粋に推せない」って言葉。増田もまぁわからんでもないって感じたわ。
だから、増田的には「ハコ」概念ももちろん必要だと思うが、女性に向けた男性Vは「清廉潔白」で「品行方正」であることも重要なように感じた。少なくともそう感じさせる程度のマネジメントは必要だなぁと。
なので、増田的には意見に全面賛成。それに加えて「魂」の素性を詮索しても出てこないよう(出てきても倫理的なアウトがないよう)にする必要があると思う。
元増田のお母様は、集団ストーカーと呼ばれる犯罪の被害者です。
日本全国に大勢の被害者がいますが、まだ社会一般に周知が進んでいません。
説明が非常に難しい手口であることと、証拠を確保することが困難なため、警察に訴え出ても取り合ってもらうことが難しい状況です。
また、全国の被害者がこの犯罪について声を挙げ始めていますがマスメディアはいっこうに取り上げません。
このような現状を打破するため世論に訴えかけようと、当事者である被害者が自ら草の根で周知活動を行っています。
普段ニュースで報道される事件の中には、一見理由が曖昧でその後どのような理由で当該事件が発生したのか判明しないまま社会から忘れ去られるケースが散見されます。
職場においては都合の悪い社員を辞職に追いやるため陰湿ないやがらせが行われているケースがあると聞きますし、学校においてはいじめが原因と考えられる理由で自ら命を絶つ子供が後を絶たないばかりか、
学校や教育委員会がいじめの存在を否定し、教師が子供の心を傷つけるような行為を行っているケースまで報道されています。
これらのニュースの多くは真実が判然としないまま他のニュースにかき消されていきます。
集団ストーカー被害者の地域生活においては、誰かに都合のよくない発言や行動をとったことがきっかけでまるで「村八分」のような扱いを受け始めたという報告があり、
日常生活の中で見ず知らずの不特定多数の人たちから不自然に不愉快な思いをさせられることがあるようです。
これらの不愉快な出来事は偶然とは考えられない確率と頻度で経験させられており、驚くべきは被害者の個人情報が前記のような行為に使用されています。
このような現状を鑑みれば、報道される一部のニュースの裏で声を上げられずに苦しむ人々が存在し、決して表面に現れない真実が隠されているのではないかと憶測せざるをえません。
現在多くの被害者がインターネットを通じて情報を公開していますので、議員や報道を業とする方々の一部はこの事実を把握しているはずです。
多くの被害者によれば、加害行為を実行している者たちは、公務員をはじめ様々な業種に携わる職業人や一般社会人とみられる方々まで、
高齢者から学童まで幅広い年齢の人々が加担している様子が報告されています。
更には、この犯罪には非常に高度な技術が用いられている様子がうかがえることが大きな特徴です。
お母様が盗撮被害に遭われているように、刃物や拳銃など常識的に想像ができるような凶器ではなく、ヒトの視覚や嗅覚で知覚することができない技術を応用して被害者に苦痛を与える手段を持ち合わせているようです。
携帯電話や人感センサー、GPSなどはすべてヒトの目に見えないもののはたらきによって作動していることを考えれば、決してありえない手段でないことはご理解いただけるのではないでしょうか。
しかしこのようなことを訴えても、一般の方々にはにわかに信じていただけません。
私たちのように取るに足らない一般庶民に対して、なぜこのような大掛かりな加害を実行するのか何一つ理由が見あたらないからです。
加害の手口が常識から遠くかけ離れているため、家族や友人などの身近な人たちに現状を訴えても被害者の身に起こっている事実を信じてもらうことが非常に困難です。
被害者の中にはご自身の被害の実態から加害実行者を特定している方々もおられますが、個々の被害状況も様々であるため不明な点が多いのも事実です。
確実にいえることは、加害の手法には一定のパターンがあることから、加害者側は非常によく統制されたシステムで成り立っており、
専門知識を持ち合わせた人物を含む信じがたいほど多数の加担者を利用して、加害の実行も厳格な取決めのもとに行われる様子がうかがえることです。
いったん被害が開始されると短期間で止むことはなく、長い方々では何十年と苦しんでおられます。
被害者は、それまで持ち合わせていた常識からかけ離れた状況に追い込まれてパニックを起こし、残念ながら精神科への入院を勧められたり、最悪の場合自ら命を絶つ方もおられます。
幸いインターネットの普及により「集団ストーカー」と呼ばれている事実について、被害者がおびただしい数のブログ、ホームページやSNSを利用して情報を公開しています。
一方で非常に残念なことに、被害者を執拗に揶揄する者が存在し、この事実を隠ぺいするがために偽りの情報を拡散することで一般社会に誤解を与えるような記事が多数公開されています。
しかしながら昨今、冷静な視点をもって、デモや街宣をはじめ周知用のチラシを配布するなど、身近な方法でこつこつと周知を行動に移しておられる被害者が全国で増え始めています。
中にはこの犯罪の事実を地方議員や国会議員に直接訴えかけている方々もおられますが、解決に乗り出す動きがみられません。
被害者の多くはこの被害により生活や職を追われたり社会的に孤立に追い込まれています。
深刻な社会問題ですが、第三者による介入はいまだかつて行われていません。