はてなキーワード: 上履きとは
元増田だけど、学校や幼稚園が近いからその辺歩くだけで主婦めっちゃ話してるんだよね。
当然毎回オリンピックの話をしてる訳じゃないし、お稽古の話とか日曜夜に出してきやがった上履きの話とかの中のたまたまのワンシーンだよ。
夢の中で俺は高校生になっている。
ただし俺は高校生なので高校生であることは不思議なことではない、と思ったり思わなかったりする。
大抵自宅からスタートで、とりあえず学校に行かなければならないという強迫観念がある。
それでも高校には行かなければならない。
街にはだれもいない。信号はすべて青だ。
あっという間に到着。
廊下を適当に歩き回る。休み時間なのか楽し気な生徒らとすれ違う。
俺は楽しくない。俺の教室はどこだ。
知り合いは一人もいないが気にしてはいられない。
「なんだこいつ?」と言いたげな顔、顔、顔は、しかしすぐに談笑に戻る。
すでに授業が始まっている。俺は空いている席に勝手に座る。
英語の先生のようだ。席順に指名された生徒が、すらすらと答えていく。
何を答えているのか俺にはわからない。
どうすればいいのかわからない。
今答えているのはどこの席のやつだ、俺に順番は回ってくるのか、考えるのはそればかり。
ついに俺の番だ。
何も答えられない。
立たされる。
世界が暗転する。
気づくとだれもいない。
すぐ人がいなくなるな。
なぜ俺は一人なんだ。
そうだ、体育だ。今は体育の時間だ。
体操着など持っていない。学ランのまま校庭に急ぐ。
下駄箱はどこだ。
来た時に履いていたはずの靴はどこにいった。
仕方ないので上履きで外に出る。
ラグビーをやっているようだ。
でもどこのチームに入ればいい?
呆然と立ち尽くす。
時は俺を無視して進む。
俺が通った小学校は誰も彼もが、学年をこえていじめるいじめられるがある超荒れたところだった。
そしに赴任してきた、熱血教師ではないがいじめや偏見を許さないタイプの教師が隣のクラスの担任になって学級崩壊を止めようとあれこれ言ったり対策したところで、学年関係なくスクールカーストがあるような学校で通用する筈がなかった。
ある時学年の保護者向けの月報で、この学校には互いを認め合う力が弱いように感じます。人を認めるのは親と子が認め合うことから始まります。もう一度親子や家族の関係を考えてみて下さい。子は大人を見て成長します。と、今でいう多様性みたいなことを書いたら、PTAが
と激怒しちゃって、その先生を囲んでの話し合いと言う名の吊し上げをした。
子も子なら親も親だけど、今だって子の問題の根源には親の態度や振る舞いがあると指摘したら狂う親は沢山いると思う。
あと小さいネタ2つ。
俺を増田菌!呼んで、寄らない触らない、俺に暴力を振るうのには上履きや靴で蹴ったりボールを投げつけたりしてくるのが、コロナ対策にすごく几帳面なことに反映されてるなと去年感じた。
あと、入学式や転校生が来たりクラス替えがあった時とか俺がいじめられてることを知らない奴が出た時。
と呼びかけて、言われた側は最初はキョトンとしてるけど、呼んだ奴が親切とか優しくしていくにつれて俺に侮蔑するような目で見て最後には蹴り飛ばすようになるの、あれは完全にカルトの洗脳の手口だわ。
「男らしさ」とは具体的にどういう物なのか?未だに理解出来ていませんが、僕は自分がそれを持ち合わせていない事は理解しています。
男なら、強くなれ。男なら、我慢しろ。男たるもの、立派であれ。男なら、涙を見せるな。
こういう男なら、男だから、強くなれ、強くあれ。という生き方と、僕は正反対の存在でした。
僕は小学生の頃、同級生や上級生から揶揄われいじめられるような弱い子供でした。
運動神経が悪い上足も遅く、急に殴られたり目の前で自分の物を盗まれたりしても、その犯人を走って追いかける事も出来ないようなやられっぱなしの存在でした。
何故僕がそういうからかいのターゲットに選ばれたのか、今でもよく分かりませんが、やられてもやり返す事も出来ないような弱い存在は格好の玩具だったのでしょう。
休み時間になる度に消しゴムや鉛筆を盗まれ、上履きは女子トイレに投げられ、階段では足を引っかけられ、とにかくその事が嫌で嫌でしょうがなかった事は覚えています。
それでも学校その物は嫌いではありませんでした。どうしても行きたくない日が多く定期的にズル休みをしたり、登校日もグループ登校ではなく遅刻寸前になって親に学校まで送ってもらう事が大半でしたが。やっぱり学校は嫌いでした。
ともかく1年生の頃に、僕は同じクラスの女子生徒の事を好きになりました。その子がどういう性格でどういう人柄なのかは全く知りませんでしたが、容姿が自分好みでとにかく一目惚れだったのだと思います。
ある日、体育館で全校集会をしている時に一緒に並んでいた女子と何故か「お互いの好きな人を言い合おう」という話になり、僕は馬鹿正直に「○○さんの事が好き」とその女子に打ち明けました。
その話を僕に振ってきた女子は、僕の好きな相手を聞き出した後に自分の好きな相手を打ち明けなかったので、ズルい、騙された、何て卑怯な奴だ、と非常に腹が立った事は今でも覚えています。
うっかり自分の好きな相手の事をその女子に話してしまったその日の内か、それとも次の日だったか、それは今となっては覚えていませんが、僕は学校の廊下で○○さんとすれ違った時にある事にすぐに気が付きました。
小学校1年生の、まだ6歳の子供でも、自分が強烈に嫌われている事を理解出来るのは不思議な事だとこの歳になっても思います。生まれて初めて好きになった異性に、僕は同じ学校に通う9年間ずっと嫌われ続けました。
○○さんに何か非があった訳ではなく、僕の性格も容姿が決して女性に好かれる物では無かった事が一番の原因だと、今ではよく理解しています。嫌いな相手に好意を寄せられる事が女性にとって非常に不快である事も知りました。
自分は女子に嫌われる男子である事を僕はその時理解出来ました。中学校を出れば流石に何かが変わるだろうと期待していましたが、結局高校での3年間もずっと女子からは嫌われていました。12年間、ずっと嫌われていました。
同じ登校班に家が近くで僕にも優しくしてくれる子が一人だけ居ましたが、僕がズル休み常習犯でグループ登校もしない自分勝手な子供だった事もあって、すぐ疎遠になりました。
学生時代女子からずっと嫌われていた事、自分が女子に好かれるような人間で無い事を学校で学べたお陰で、僕は今でも女性恐怖症です。親からは本当に分かりやすいなぁとその事について笑われます。
道を歩いていて向かいから女性が来ると、その人の年齢に関係なく大きく迂回して逃げるような動きをしてしまいます。自分の方が体格が良くても、背が高くても、情けない事に女性の事が怖くて怖くて仕方がありません。
通りすがり様に、「臭っ…」「キモッ…」と言われるんじゃないか、言われなかったとしてもそんな顔をされるんじゃないか、内心そう思われるんじゃないか、そう思うだけで怖くて血の気が引いて、とにかく女性から逃げてしまいます。
去年散歩帰りに、下校中のまだ低学年であろう女子小学生と狭い歩道ですれ違った時、「自分が向かいから歩くだけで不審者だと思われてこの子に防犯ブザーを鳴らされるんじゃないか!?」と本気で思い、垣根を飛び越えて車道に逃げたところ、着地の際にバランスを崩してずっこけて、右の肘あたりをアスファルトで擦り剥いてしまい、そのまま痛い、痛いと思いながら帰宅する事になりました。本当に何て自分は情けなくて馬鹿なんだろう、と悲しくなりました。
幾らキモくて女性に嫌われていようが男には男性同士の繋がり、「女性を共通の敵として見下し」「男性の友情を尊いと崇める」事で男の同士の絆を深めるホモソーシャルがあるじゃないかと思う人も居るでしょう。
誰が言ったかは知りませんが、同性にさえ好かれない人間が異性に好かれる訳が無い、という言葉を聞いた事があります。キモイ奴として女子に嫌われていた僕は、同じように男子からもキモい奴として嫌われていました。
子供の頃、皆に人気のある男子はどういう人だったか。友達になりたくなるような明るくて面白い子や、運動がよく出来て体育の時間に大活躍するような子は間違いなくクラスや学年の中で人気があったと思います。
前述したとおり僕は運動音痴で足も遅かったので、体育の時間は活躍どころか同じグループに迷惑をかける完全な足手まといでした。性格も、自分が嫌われてる事に自覚が無いタイプの空気が読めないおかしい奴でした。
ボールを遠くに投げられない、捕る事が出来ない、速く走る事が出来ない、長く動く事が出来ない。僕は体育の時間の間完全に単なる数合わせで、もっと言えば僕の入った側が不利になるババ抜きのババのような存在でした。
当然、体育の時間に活躍するような運動がよく出来る男子や、クラスの中心的存在で先生からの評判も良いいじめの主導者からも嫌われていました。同じ男子からも嫌われホモソーシャルから疎外された子供が僕です。
それでも僕には休み時間に落書きを見せ合える友達が居ました。年齢の割に体が小さくいじめのターゲットになっていた子と、母子家庭で鍵っ子である事を理由にやっぱり男子の中から浮いていた子が友達になってくれました。
ある日、いじめのターゲットになっていた友達が転校しました。ひょっとしたら親御さんの転勤などが理由だったのかもしれませんが、クラスメイトからのいじめも大きな原因だったのではないか、と僕は思っています。
その子は何も悪い事をしていないのに、体がクラスで一番小さいというだけで、物をぶつけたり、馬鹿にしたり、○○菌が付いた!と貶して良い存在のように扱われていました。昔の事ですが、僕もされたという事は覚えています。
僕はキモくて役立たずだったので、ホモソーシャルに入る事はありませんでした。僕のようなキモくて役立たずの男子を皆でいじめるあのノリがホモソーシャルなら、僕は昔からそれが嫌いだったし仲間とも認めて貰えてなかったと思います。
男性は男性というだけで女性を見下して上から目線で接する「マンスプレイニング」という差別意識があると聞きました。男性というだけで女性より優れているという思い込みから来る「有害な男らしさ」の一つであるらしいです。
女子に嫌な思い出があるなら、女子なんて、と割り切って見下せたら楽だったのかもしれませんが、僕は自分の能力が他人に勝った記憶が小学校1年生の小テスト以降全くありません。
体育の遠投ではわざとらしくやる気なく投げた女子以外に飛距離で勝てた覚えがありませんし、シャトルランで性別関係なく僕より早く脱落した同学年の生徒は一人も居ませんでした。その事が、今でも忘れられません。
なら勉強はどうかというと、女子は安定して成績が良く、僕は5教科の合計点が150点台という事がありました。自分は本当に馬鹿なんだ、この学年で自分以上に頭が悪い奴は居ないんだとその時強く頭に刻み込まれました。
両親は自宅から近い学校に通って欲しかったらしいですが、結局そんな成績では自分の名前さえ書けば無条件で入学出来る遠くの私立くらいしか行ける高校がありませんでした。僕が馬鹿なせいで、余計なお金がかかりました。
頭が悪いのは僕が一切努力を行わず遊んでばかりの馬鹿だった事が大きいと思います。ドリルは後ろの答えを写すだけ、夏休みの宿題は家族に泣きついて答えを全部教えてもらうという他力本願だけでそれまで生きていました。
結局その私立高校でも男子の仲間に入る事も出来ず、小中学校の時のように女子から嫌われ、勉強もろくにしないでズル休みを繰り返しました。高校を卒業しても、自分がそこで努力して得た物なんて何にもなかったと感じました。
高校受験さえしなかった者が大学受験なんて出来る筈もなく、大学受験さえ出来ない者が就職活動なんてする筈もなく、僕は高校を卒業してから今現在までずーーっと親の脛を齧って何の努力もせずに家に引き籠っています。
僕は自分の能力が他人より優れていると思った事が小学校1年生以来ありません。ずっと引き籠っているので、家族以外の女性と接した事も学生時代以来何かのお店で店員さんとして働いてる女性以外とは殆どありません。
中学校時代からの友達とは話が合わないという理由でずっと疎遠です。彼らともゲームやアニメなど娯楽の話題で盛り上がっていたくらいで、ミソジニーで絆を深めた事なんて一度も無いと思います。何せ女性の話題が出ません。
僕は良い歳して未だに童貞で、所謂専門店の女性とも関係を持った事がありません。中学校時代の友達達はそんな僕に気を遣ってか、僕でも話題に混じれるゲームなどの話題しか僕の前ではしないようにしていてくれました。
僕の男性器は極めて小さく、友達や家族など親しい間側の人とも決して一緒にトイレに行ったりお風呂に入りたいとは思えません。女性が言う所の「ポークビッツ」サイズで、その事に子供の頃から非常に強い劣等感を持っています。
昔から自分の意見や嗜好が人と合わない事が多く、現実より自由な場所であるインターネットでも他人と上手く付き合えた事がありません。自分の好きな物が多数派の意見に叩かれる、という経験は嫌というほどしてきました。
僕はこれまでの人生で親や兄弟に守られるだけで、自分が誰かを庇護したという事はこれまで一度も無かったと思います。我が家という共同体で一番の弱者は僕であったため、家族は弱者であった僕を外から守ってくれました。
「男らしさ」という言葉が全く当てはまらない男だと自分で思いますし、男性同士の繋がりからも完全に省かれています。現状のままで男らしくなりたいとは思っていませんし、男性同士の付き合いに入って嫌な思いをしたくもありません。
貧弱で、競争から逃げ、庇護される側で、何一つ優れている所が無い僕は全く「男らしく」ないと思います。男らしさから降りるまでもなく、初めから男らしかった事なんて一度も無かった、生物学上は男だっただけの存在だと思います。
小学生の頃からずーっと現実がつまらなかったので、漫画やゲームなどの空想に逃げていました。今でもその頃から変わらず逃げ続けています。
結論から言えば全くそんな事は無いと思います。ここまで長々と自分は違う、加害者ではない、ノットオールメンと言い訳をしているだけなのですから。
「男らしさを降りる」というのは現在の「男らしさ」を否定して新たな「男性としての生き方」を広めるために努力し戦う事で、ただ自分が現在の「男らしさ」から逃げる事では無いだろうと思うからです。
結局僕は男らしくなれず、男同士の繋がりの中に入れず、かといって現在の「男らしさ」を変えるための「ジェンダー強者」としての努力も一切しなかった、ただの負け犬でした。
魅力的な男性が男らしさから降りれば「男らしさから降りた魅力的な男性」になるでしょうが、男らしさから降りているだけの男が魅力的ではない、が答えじゃないかな…と僕は思います。ここまでお疲れ様でした。
元増田です。投稿して1日経って自分の記事を見返すと、賛否両論の反応が多数あり驚いている。いただいた否定的な反応で正直意外だったのが『動物園』という言葉自体に対する抵抗感がこんなにも強いのかと言うことだ。公立中学校全体に動物園というレッテルを貼るのは確かによろしくない軽率な言い方だなとは思う。
だが、差別心の表れと言われればその通りなんだろうが、俺は正直に言うと最初に『動物園』という言葉を聞いて、上手いこと言うなぁと思ったのだった。なにせ俺が経験した公立中学校の荒れている生徒は言葉も道理も通じない連中で、まさに動物としか言いようがなかったのだから。
公立中学校に通っていた20年前のあの町にいた頭のおかしなやつがどんな感じだったかと言うと、人の消しゴムを盗んでカッターで切り刻んで「増田の消しゴムを芸術作品にしてあげた。バイト代よこせ」と言ってきたり、(派生パターンでいつのまにか上履きにナイキのスウォッシュを落書きしてきて(略)とかもあった)、合唱コンクールの練習中にひな壇の上の段からキックかましてきて「ダサい歌なんか歌うより後ろからどついた方がバラエティ番組みたいで面白いだろ!」と言う状況で、まさに『動物』としか言いようが無いなと言うのが正直な感想だったのだ。
で、地元に残って教師をしている友人から最近の公立中学校の様子はどうよと聞くと、まぁ似たり寄ったりという状況で、当時からあまり改善はされてないようである。そんなわけで差別と叩かれても俺が再度主張したい事は公立校も問題行動を切り離して大多数の真面目な生徒を守れるようにしろと言う事である。私立だと、問題行動を起こせる生徒は退学処分にできる。だが公立高、それも義務教育の中学校はそう行かない。で、学校の選択肢のない地方だと、同級生ガチャにミスって問題行動を起こす生徒と同じクラスに当たると学生生活がメチャクチャにされてしまう。どんな生徒でも分け隔てなく扱うべきと言う理想そのものは否定しないけれども、10人の問題児の権利のために残り数百人の権利が侵害されている現状を俺は残念ながら肯定できない。ちなみに、進学に対して不利な状況にある我が街の大学進学率は20%代と全国平均の5割超に比べて大幅に低い。
俺が言いたいのは、こういう状況はフェアでないのでどうにかすべきだと言ってるのだけれど、なかなかわかってもらえないものなのだなぁ。
俺は中学時代そこそこいじめられてて、カバンや上履きを女子トイレに蹴り込まれたりシンプルに殴られたり女子に仰々しい演技で公開告白させられたりしてたんだけど、逆に言うとその程度だった
・机やノートなどに「ブス きもい 学校やめろ」などと書き込みがしてある
全部物的証拠が残るし大ごとになりやすいって点でリアリティがないように思うんだけど、実際にこれらの行為が行われることってあるんだろうか?
俺はせいぜいカバンが汚れるくらいだったから我慢できてたし、いじめっ子連中とも和解した感じになってるんだが、画鋲で怪我したり水かけられたりしてたら我慢できなかったかもしれない
どうですか?増田って陰キャのつどいだし、いじめられっ子も多かろう
誰か経験ない?
昨日は洗濯三回して合間に土曜に池に落ちた靴を親子三人三足と上履き一足洗って、布団干して、廊下階段寝室を掃除機かけて、クーラーの効いたLDに水分補給しに入ると邪魔にされながら朝昼ご飯作って、外出の送り迎えの合間に二軒まわって買い物して、洗濯など片付け夕食を作ったあと子供の本を返却と新たに借りるため20分で図書館と家を往復して座らずに、寛いだ家人を避けながら配膳して品数が多いとしかめっ面で言われ、子供がご飯を食べるように50分励まし、食べられるわけないと言われ残ったご飯を片付けしたら宿題を一時間見て、お風呂は子供を早く寝かせるために髪も洗わず出て、絵本読んでおしゃべりきいて寝かせて、一緒に寝たのに三時間で目覚めたらクーラーが21度にされてて子供は体が冷えてるから慌てて対処したら寝られなくなり、なんとか弁当つくり部屋に散乱するおもちゃを拾いら子供を起こして朝ごはん用意して食べさせ横断歩道まで見送り、今日は寝不足で体が動かなかった。
言い訳に過ぎない。
働いてる人は仕事してこなしてる。
だらしなさ過ぎる。
楽器しまっておく倉庫みたいな準備室のオルガンの向こうが男子の領域になってた。
そこで休憩したり、漫画を持ち寄って交換したり。
んで、男子には当たり前のエロ本じゃなくて、アニオタだから成人漫画ももってくる。
ペギミンクラブから始まって、レモンピープルからハーフリータ。
女子にバレると先生にチクられるし、中学生は「エッチは犯罪扱い」だったので、
見えないようにはしてたけど、女子はそこにはこないから隠してもなかった。
中学生男子。午後からの部活の時、午前中に先乗りして、音楽室でオナニーしよう!
と夏の冒険ときめき大作戦考えて、職員室に鍵を取りに行ったら、無かった。
誰か先にいるのかー。と音楽室に行くと、誰かいる時は開けっぱのドアが閉めてあって、
上履きを脱いで入るカーペット敷きの音楽室、手前の下駄箱に一足の上履きがあって、
話しを略そう。Kさんは夏休みの宿題を学校でやろうと来ていて、
エロ本はなんとなく知ってるけど、エロ漫画は絵だけど表現が直接的で、
まあ読んでたの。あ、おなにーなんかしてないよ。
そのあと話すんだけど、こっちが弱みを握ると思いきや、
あなたも読んでたやんけ!
模様でも生理でもなくて。いまなら「ショーツ濡れてるよ」みたいな口調だけど、
ジャングルの王者ターちゃんから「パンツにシミが見えたよ」とか言ったわけ。ワイすごかったなあ。
Kさんさいしょ意味がわからなくて、「シミ?…今日生理じゃないし」と。
トイレに確認しに行って「透明なおりものかな」って、言い訳みたいに報告してくれた。
ワイはまだ精通する前、エロ漫画を読んでおちんちんがずっとびんびんで、
読み終わっておちんちんが小さくなった時、おちんちんの先とかブリーフがぬるぬるなのを、
精液だと思ってたよ。
初めて投稿する。
誰かに読んでいただくことを意識しながら書こうとすると、どうもちぐはぐな文章になってしまう。
そこで、いつもの紙の日記に書くかのように、独り言を発するかのように、書いていくこととする。
***
いや、今もまだ、受け入れ度合いは7割くらいで、
残り3割くらいは、「制服好きなんてキモい」「人に言えない趣味」「むっつりスケベ」なんて思ってしまう。
しかし、もしも将来、自分が娘を授かったら、これは懸念ではないか。
まさか我が娘に対して、いやらしい目線を向けてしまうのではないか。
まだ結婚もしていないというのに、杞憂に終わるかもしれないことを、気にしている自分がいる。
何を言いたいのかというと、
私はごく自然な人生を送ることを難しく感じるときがあるのである。
そんな目線を向けたくもないのだが、どうやら私の脳は、
女子高生の制服が、性的興奮の起動スイッチになっているようなのだ。
この10年の間に、ありとあらゆる角度から、自分のこの性質について、
私は、女子高生の制服そのものに性的興奮を覚える、ということが分かった。
だから、私服姿や体操着姿、ジャージ姿の女子高生では、あまり反応しない。
実は中身が男でも、高校の女子制服を着ていれば、ドキドキする気持ちがあることを確認した。
でも、だからといって、イメクラに行くとか、ブルセラ買うとか、メルカリで注文するとか、
そういうことはしない。
そういう人生には、したくないのだ。
いそいそと夜中に、女子高生とかjkとかを検索ワードに入れて、
「女子高生の制服が好き」という自分を認められていないと、虚無感に襲われる。
いわゆる街撮りという、女子高生の制服そのものに焦点を当てた画像サイトも好きだ。
不覚にも見てしまうと同じく興奮するのは悔しいのだが、
もし実際に駅のエスカレーターなどで盗撮しようとしている輩を発見した時には、
女子高生の制服フェチと、脚フェチ(靴フェチ、においフェチ含む)である。
女子高生の制服フェチは、おそらく私の生い立ちが関係している。
接点を作る努力を怠った、とも言えるが、
中高を共学で過ごした人は、女子との接点を作る努力など、そもそもする必要がない。
なぜ私は、一度きりの人生の中で、共学高校生活を経験すらさせてもらえなかったのか、と。
もう1つ、脚フェチについて。
女子の素足のにおいを嗅ぐのが好きだった。机の下に入って、女子の脚を見るのが好きだった。
小学校に上がってからも、女子のちょっと汚れた感じの上履きが好きだった。
ここに、女子高生の制服フェチが重なると、紺ソとローファーに強烈な性的興奮を覚えるのは頷ける。
紺ソ、ローファースタイルにスーツを着て、普通に仕事をしているときもあった。
ふざけ半分ではなく、真面目に捉えて、悩んでいる男性は、
私の、10年間の考察結果を、この日記で(これ、増田って言うんですね!)、
共有していきたいと思っている。
あのポスターも、「もっと先輩(献血者)を蔑むような目つきで」書かれていたはずが、リテイクで書き直され、嘲笑う程度の目つきになったんでしょう。
普通の場所に掲示するのを考えて、あえて普通の表情にしたのが間違いでしたね。
可能ならばもっと上から見下ろすような構図で、踏まれている先輩に対して汚物を見るような表情で、少年誌なので鞭とか蝋燭は不可でも、△定規とか丁定規とか黒板消しとか上履きとか靴下とか……
セリフとしては「さあ、今すぐお前の汚らしいマゾブタの血を献血しなさい、ブタッ!、犬っ!」「ブヒーブヒー」「キャインキャイン」なども必要ですね。
献血センターでは、「さあお飲み、わたくしの黄金水(ドクター秩父山)」ならケロタンが獣貫路通ってトラックで買い付けに来て、秋葉原でやってたみたいに、女性の等身大ポスターの股間からレモンジュースが出て、検尿コップで飲める上級者なら、献血コーナーに行列ができて「ただいま1時間待ち」プレイでも、よく調教されたM奴隷なら放置プレイも楽々こなせたでしょう。
ちなみに私の友人は40歳超えのお局様と結婚して、毎朝ご主人様のために朝食をご用意して、買い物や炊事洗濯掃除もしてご奉仕しています。
私がご自宅にお邪魔した時は、お使いを命じられていたレシートを一瞥して、特売100円のパンを買うはずが、山高の138円のパンを買ってしまったのを詰られ、公開プレイとして、ご主人様は椅子に座って背もたれ握って詰問。下僕と私は床板に正座したまま説教を拝聴しておりました。
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
ウケ狙いで奥さんに手編みのマフラーをプレゼントして以来、元々手先を使うことが得意だった事もあり、編み物を経て今では裁縫にめちゃくちゃハマっている。
初めは体操服のゼッケン貼りくらいだったが、幼稚園に通う娘の手提げやら上履き入れなんかを作ってるうちに、元々凝り性な性格もあって徐々にお遊戯会の衣装や娘のブラウスやスカートまで作れるようになった。カミさんに「あなたにそんな才能があったなんてホント助かるわあ」と言ってもらえたり、娘に目をキラキラさせながら「パパだいすき」と愛を打ち明けられたり、可愛い幼稚園の先生に「ステキなお父さんですねウフフ」なんて微笑んでもらえたり、大人の魅力溢れるユザワヤのお姉さま方に「今度は何作ってあげるんですか〜?」なんて囲まれたりなんかして、人生初のちょっとしたモテ絶頂期を迎えている。
ちょっと前についにハロウィンに向けた超大作、娘デザイン/パパ制作によるキラキラのプリンセスドレスが完成したことを受け、娘もママも発狂してチューいっぱいしてくるだけでなく、最近では近所の奥様方までもトロ目で「ステキな旦那様、、、」と言ってくださるので、モテたかったら筋トレもいいけど男の裁縫マジおすすめ。
ツイッターを眺めていると、世のコミュ障で人生ハードモードなオタク達は結構ネガティブな傾向がありそうに思う。そこには人間や社会を嫌い呪う声が蔓延している。それは別にいいと思う。インナントカグラムとかナァーントカブックみたいに自分を繕わず、弱い所をさらけ出して良い環境は本当に大事だ。
だが私はなるべく性善説に基づいてこの世と人々を愛し、ハッピー☆ポジティブでいたいので、あまり頻繁にネガティブツイをしないよう心掛けている。闇オタク達の辛い過去現在を嘆く声を見ると、もう少し無理矢理でもポジティブにした方が気楽では?と思うこともあるが、個人の勝手だ。どちらが良い悪いではない。
しかし、世の中にはもっとずっと超々光属性の、目を細めてしまうくらい眩しい人達がいるのだ。
先日、たまたま初対面の同年代数人としばらく行動を共にすることとなった。
彼等はめちゃくちゃいい人達だった。初対面の相手とも明るく親しげに話し、当然のように他者を何でも肯定、尊重する。他者の親切心を最大値に想定しないと出ないようなアイディアを提案し、実行してしまう。
人を疑ったり、拒んだりすることを知らないかのようなその人達はあまりに眩しすぎて私はクラクラした。
余暇で交わされる会話も他愛のない内容だけども、それは穴場のグルメとか海外旅行の話とかスポーツとかで、どことなくハイソな印象を受けた。挙句「美味しいお酒とお茶を買ったから今度家で友達と飲むんだけど来ない?」と誘われてしまった。彼らは高学歴のエリートで、それなりにお金持ちなのだろう。たぶん。
え?私?私のことと言えば、話の流れでLINEスタンプを作った件を出したら彼らは「可愛い!すごい!」と褒めた上に即購入してくれた…うん。
ともかく偶然そういう人が集まっただけかもしれないが、私は彼らがあまりにいい人なので少し途中で辛くなってしまった。
一体どんな育ち方をしたらこんな何ルクスか検討もつかないくらい眩しくなるんだろう。
どんなご家庭なのだろうか。
どういう人間関係を経験すればこんなに他者に親切寛容になるのだろうか。
彼らは学校の下駄箱から自分の上履きが消えてるみたいな経験をしたことがないのではないか。
しかしそこで私は気づいた。この疑りと妬みは、闇オタク達の見慣れたあの振舞いそのものであると。
ああ、光あるところに影あり。じめっとした日陰で隣の苔とキノコを見比べて、自分は違うと高を括っていただけで、私も結局は同じ穴のむじなであった。TLにこだまする怨嗟には私の声も混じっていたのに気づかなかっただけだ。私は「トラウマは一生消えないんだよ!!!」とかTLで叫ぶ暗い声に、前より少しだけ共感が持てるようになった。
今日も、絶えぬ愚痴と体調不良と映えない食べ物画像と推しへの偏愛とポリコレとリア充への怨嗟を煮込んだTLの地獄の釜は、42℃くらいで冷え性の私には丁度いいのだ。この薄暗闇で、私はポジティブ(笑)を続けているくらいでいい。
25年ほど前、私が小学校6年生のころ陰湿ないじめにあっていた。
上履きはしょっちゅう無くなり、机には毎日のようにゴミを入れられた。
体育の授業で私と組になると、嫌すぎて泣いた子もいた。
当時の私は酷いアレルギー持ちで、鼻水はずっとぐすぐすしていて、
一日中なんども鼻をかんでいた。
その噛んだ鼻紙を爆弾のようにして、投げ合い押し付け合い遊ばれていた。
当時は今よりもまだ、いじめ問題の対処がしっかりしていなくて、
親はあんたが怒るから楽しがって、またからかうんだから無視しなさいといった。
なんでこんなに酷い目に毎日合うのだろうか。
なんで、なんで、なんで。
そのうち、自分の中の自殺願望が苛めた奴らを殺してから私も死のうと
なんどもなんども殺すシミュレーションをしていた。
ある雨の日、クラスに入るところを男子に後ろから飛び蹴りをされた。
私は前にふっとび転んだ。
その瞬間、頭の中の何かがプチんと切れる音がして、
起き上がり、手に持っていたビニール傘をその蹴った男子に向けて突進した。
相手の男子を押し倒すような形で、私は馬乗りになり傘を使って滅多刺しにした。
3〜4回刺したところで回りの人に止められ、私は動けなくなった。
男子は痛い痛いと大泣きしていた。
私は職員室の隣の応接室に入れられた。
とにかく、やってやったという爽快感と
あー、このあとどうなるんだろうという漠然とした感覚だったように思う。
親が呼ばれ事態の説明をうけると、母親は真っ青な顔で泣いていた。
私が傘で刺した男子は軽傷で、数針縫ったものの後遺症も残らなかった。
新しい学校は嘘のように平和で、誰も私を汚物あつかいしなかった。
今は結婚もして中学生の娘もいて、大切な夫と仲良く過ごせている。
おそらく一生忘れることがないだろう。