2019-05-30

無敵の人になったことがある

25年ほど前、私が小学校6年生のころ陰湿いじめにあっていた。

上履きしょっちゅう無くなり、机には毎日のようにゴミを入れられた。

男子は私の側を通るたびに臭いと言い、

女子には基本的空気のように無視された。

体育の授業で私と組になると、嫌すぎて泣いた子もいた。

当時の私は酷いアレルギー持ちで、鼻水はずっとぐすぐすしていて、

日中なんども鼻をかんでいた。

その噛んだ鼻紙を爆弾のようにして、投げ合い押し付け合い遊ばれていた。

当時は今よりもまだ、いじめ問題対処がしっかりしていなくて、

先生は虐める方も苛められる方も問題だ。

仲良くしなさいという方針指導をしていた。

親はあんたが怒るから楽しがって、またからかうんだから無視しなさいといった。

毎日毎日毎日毎日毎日死ぬことばかりを考えていた。

なんでこんなに醜く生まれしまったのだろうか、

なんでこんなに酷い目に毎日合うのだろうか。

なんで、なんで、なんで。

そのうち、自分の中の自殺願望が苛めた奴らを殺してから私も死のうと

決意するまでに時間はかからなかった。

苛めた人間の下校ルートを調べ、

なんどもなんども殺すシミュレーションをしていた。

しかし一人殺して捕まったのでは自殺する意味がない。

全員を殺すにはどうしたらいいか毎日考えていた。

ある雨の日、クラスに入るところを男子に後ろから飛び蹴りをされた。

私は前にふっとび転んだ。

その瞬間、頭の中の何かがプチんと切れる音がして、

起き上がり、手に持っていたビニール傘をその蹴った男子に向けて突進した。

相手男子を押し倒すような形で、私は馬乗りになり傘を使って滅多刺しにした。

3〜4回刺したところで回りの人に止められ、私は動けなくなった。

男子は痛い痛いと大泣きしていた。

すぐに先生がかけつけてきて、男子保健室に連れて行き、

私は職員室の隣の応接室に入れられた。

とにかく、やってやったという爽快感

あー、このあとどうなるんだろうという漠然とした感覚だったように思う。

親が呼ばれ事態説明をうけると、母親は真っ青な顔で泣いていた。

私が傘で刺した男子は軽傷で、数針縫ったもの後遺症も残らなかった。

私はその事件の後、自宅待機になり小学校最後の2ヶ月は

学校に行かないまま卒業になった。

しかし、区立の中学にそのまま上がれば、また彼らに会う。

事態を深刻に受け止めた親は隣の中学校の学区に引越しをした。

新しい中学校では、たまたま隣の席だった子と仲良くなった。

新しい学校は嘘のように平和で、誰も私を汚物あつかいしなかった。

また、二次性徴の影響なのかアレルギーの鼻炎もなくなり、

普通中学生活を過ごすことができた。

今は結婚もして中学生の娘もいて、大切な夫と仲良く過ごせている。

それでも未だにあの日の傘を刺した感覚

世界を憎み死ぬくらいなら殺してから死ぬという感覚は、

おそらく一生忘れることがないだろう。

  • 無敵の人ってそう言うことじゃないよ もう後がない人のこと

  • うんち

  • 無敵の人って無職で社会的信用が皆無で逮捕がリスクにならない人。 少なくとも義務教育中の子供は指さないよ。

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