「読書メーター」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 読書メーターとは

2016-10-04

高杉さん家のお弁当10巻の感想サイトによって違いすぎる

amazon酷評の嵐

読書メーターは「まあ賛否両論あるかもだけど面白かったよ」的な感想が多い

プリキュア数字ブログの人がヤフコメはてブの違いとかテキストマイニング分析してたけど、

amazon読書メーターも同じようなことやったら面白そう

ユーザー層が違うから、とかあるのかな~

2015-09-11

ミステリ愛好家殺人事件(友人の実話に基づく)

わからんな」

「わかりませんか」

わからん犯人が『なぜ被害者の部屋にある本棚の本をすべて抜き取ったあと、また戻したか』についてはさっきの君の説明で納得いった。しかし、それでは肝心の犯人わからんじゃないか。だれにでも出来る殺人だ。被疑者が絞れん」

「それがですね、実はこの本棚こそ犯人ピンポイントで指し示す、最大の証拠品なのですよ」

「どういうことだ」

「それを今から説明します。まずはこのプリントをご覧ください。これは被害者読書履歴リスト化したものです。読書メーターからとってきました」

「なかなか残酷なことをする……。なるほど、ミステリ好きという話は嘘じゃなかったみたいだな。翻訳ミステリの有名作がならんでおる。だが、これで何がわかると?」

「注目すべきはこの本です。江戸川乱歩編『世界短編傑作選3』」

シリーズの三巻だけ読むのが奇妙だと? それはキミ、素人の浅はかだよ。アンソロは続き物じゃない。別に順を追って読む理由などないぞ」

「いいえ、警部。『三巻目であること』それ自体重要なんです。これが『傑作選2』や『4』だけなら単なる被害者の気まぐれですんだでしょう。しかし、『3』だけ、となるとそうはいかない」

「何が言いたい?」

「もう一度、リストを点ではなく線で眺めてみてください。被害者が読んだ順に」

「『モルグ街の殺人事件』、『白衣の女』、『シャーロック・ホームズの冒険』、『ブラウン神父童心』……傑作揃いだな。何の変哲もないミステリ読者だが……」

「"新潮文庫"の『モルグ街』、"岩波文庫"の『白衣の女』、"創元推理文庫"の『シャーロック・ホームズであることが重要なんです。それにしても、この並び、どこかでご覧になったことがありませんか?」

「ふむ、言われてみればどこかで……『お楽しみの埋葬』、『ジェゼベルの死』、『兄の殺人者』……『切断』? ああ、ポーターのか…………あ!!!

「お気づきになられたようですね」

「こ、これは……法月綸太郎の『ミステリー塾 海外編』のマストリードリストとまったくおなじ……!」

「いかにも。被害者は法月先生マストリードリストを律儀にも頭からなぞって読破していたのです。ほら、もっとリストをさかのぼってみて。妙に再読が多いでしょう。古典的名作ばかりなので最初はそれも然りと考えていましたが、種が明かされてみればなんてことない。

 『東西ベスト』、『ミステリハンドブック』、『海外マストリード100』……各所のマストリードオールタイム・ベスト本のリストを手当たり次第に読み漁っていただけなのです。それも、きちんと順番を守ってね。ベスト本のメンツは、特に上位や定番ともなると重複しがちです」

「そうか、やけにホームズポーチェスタトンばかり何度も読んでるわけだ。旧訳の『ブラウン神父童心』を短期間に繰り返し読むなんて、都筑道夫でなけりゃ修行僧くらいのもんだからな」

「もはやパラノイアの域に達していると言ってよいでしょう。ところで、おかしいとは思いませんか? こんな強迫症的な几帳面さを備えていた被害者なのに……この本棚統一性に欠けている」

「そうか……綺麗に整頓された部屋に、きっちりと収まった本棚だったか一見しただけでは気付きにくかったが……」

「同じ列にポケミスとハヤカワのトールサイズ講談社文芸文庫普通単行本をいっしょくたにぶちこむなんて、ぼくですら怖気をおぼえますよ」

「部屋に入ったとき違和感……背筋を伝った悪寒の正体はこれだったのか」

「まともな美意識をもつ読書家なら耐えられない蛮行だ。被害者性格を考えればなおさらです」

「となると犯人は、A.『被害者几帳面な整頓好きであることを知っていた』。B.『しかし、読書家の生態には疎い』人物――」

被害者の交友関係は属していた読書サークル関係に限られていました。本棚にむとんちゃくな読書はいくらでもいますが、被害者の生態を知ったうえであえてこういう現場を残しはしないでしょう……ただ一人を除いて」

「……恋人、か」

動機は容易に推察できます事件当夜に聞こえた罵り合い、あれはおそらく、本を捨てようとした恋人とそれを止めようとした被害者口論だったのでしょう」

「そうして揉み合ううちに……か。殺意はなかったんだろうな」

「ええ、事故です。恋人恋人で日頃から被害者アイドルオタ趣味揶揄されてストレスが溜まっていたのでしょう。自分世界に閉じ籠もって、本当の人間理解しようとしなかったカップル悲劇ですね」

やれやれ……本棚にはじまって本棚に終わる、か。嫌な事件だったな……なあ、思うんだが」

「もし、この部屋に本棚さえなかったら、ですか?」

「そうだ……紙の本……大量の書物を収納するための本棚……。なあ、なぜ人は積ん読を犯してしまうんだろうな? なぜ文字を、知識を物理的に重ねて誇ろうとするのだろうな。

 バベルの塔を知らぬわけでもあるまいに……」

「罪であるとわかっていても手をださずに入られない。それが人間の業です。アダムイヴを知らぬわけでもないでしょう?」

「そうだな……わかっている……わかっているが……くそっ! やりきれない……」

「ぼくも同じ気持です……もし彼らがアレさえ持っていればと思うと」

「アレ? なんのことだ?」

「フフフ、これのことですよ(バッ」

「あ、黒いシルエットを燦然と穿つ青白い光!!!それは、君、kindle voyage』じゃないか!」

「そうです! 『kindle voyage』は名機『paperwhite』の後継機かつ上位機種!!! この艶かしい小さなボディに数千冊を収納することが可能なんです!!!

 さらに300ppiの高解像度ディスプレイを搭載! 紙の本と遜色ないリーダビリティ!!」

「なんてこった! 被害者もそれを買っていれば本棚なんていらなかった……事件も起きずにすんだ」

「起こってしまったことはもう変えようがありません……。しかし、新たな悲劇を防ぐことはできるはずです」

「そうだな。本好きを名乗るものならみんな『kindle』を持つべきだ。わたしもさっそく、注文するよ」

「僕たちは前を向いて歩いていかねばいけません、それと、オススメwifi+3Gモデル。どこでもいつでもストアにアクセス&ダウンロードできて本体価格29180円と超お買い得です。充電アダプタは別売りなので注意してください!」

2015-08-03

響けユーフォニアム原作って3巻で最終巻

だよね?

なんかいまいちだったなーって思ってamaonみたら絶賛の嵐。

読書メーターでもあらかた好評価・・

斜め読みたからかなあ・・

結局予定調和しか感じられなかったんだけどなー

あと終始気になったのはクミコおっさんくさい視線

同性を見るときの嫌らしい視線というか。

色気よりも下品さを感じた。

逆に言うとこんだけおっさんくさい視線を書けるのはすごいと思うけど。

作者は女性名で書いてるおっさんなのかなー実はーとか勘ぐってしまう。

とりあえずなつきとゆうこゆうこ→かおり→あすか関係はよかった。

掘り下げ不足なところがちらほらあったけど、まあ読んで損はしなかったかなーと思う。

これを京アニ最期まで料理したアニメを見たい。

1巻の内容をあの演出アニメ化した京アニなら、たぶんこの消化不良もちゃんと解消してくれると信じてる。

2015-03-16

ラノベの(動|導)線

レーベルアクセス数ラノベの杜のそれより多いのだろうか。ぼーっとラノベの杜の発売予定を見る。タイトルを見て気になるのをクリックする。その次にレーベルサイトで詳しく見る。ラノベの杜経由でアクセスする場合が多い。自分がこれなのだけれど、他の人はどうやってるんだろう。それともインターネットで見たり触れたりはしないのだろうか。デザイナとイラストレータラノベの杜のサムネサイズ訴求力があるカバーにしたほうがいい(俺カメラ)。

あと読書メーターラノベの杜がひっついてくれると非常に楽だ。ツールチップナイスの多いレビューが出てくれるとなおよい。次に作者、イラストレータ個人サイトやらSNSアカウントアクセスできればもっといい。「ジャスコ」以来、売れるかどうかは情報流通量で決まると言っていい状況だ。「なろう」発が売れる、選ばれるのは情報量がケタ違いに多いからだ。200ページ立ち読み可能、なんてのはダメなんだよ。一気に200ページを公開しても好きな奴しか読まない。それより作家の納品を10枚単位にして、公開していくべきだ。あとから「加筆訂正」すればいい。なんなら「完全版」でもいい。継続的に5分で読み終わる量を公開し続けることが重要なんだ。公開の価値は低い。公開「し続ける」ことに価値がある。

とにかく流通している情報量を期間を最大限にしなければ、俺が選ばない。

俺ガイル、楽しみです(暗喩)。

2015-02-02

ラノベを読まずにバカにするのはアニメ化に際してアンチスレを立てないといけないから

私がラノベバカにしている唯一の理由 - 360万パワー

http://360.hatenadiary.jp/entry/2015/02/01/182227

2ちゃんねるアニメ板に於いてラノベ原作アニメ放送始まっても一向にアンチスレが立たないことがある。

自分は読んでいなくても誰かがアンチスレを立てないといけない。

そういう時はそのラノベAmazonレビュー読書メーター、各種感想blogなどを参考にスレタイと本文の投稿内容を考えないといけない。

まさに「批評追随者」「二次批判者」だ。

そんな二次批判者でも時々

「的確すぎるスレタイだ。」

わずか三行でこの作品本質を見事に表現している。」

とか褒められることがある。

これは中々気持ちいい。

読まずにバカにする人の気持ちも理解出来る。

2014-07-07

池上永一テンペスト感想

ネットで探すと面白い

amazonだと軒並み酷評

読書メーターだと好評。

個人ブログでもおおむね好評。

これらから想像できたのは、「個人的な記録として残すときには、自分の選"本"眼が間違っていたことを認めたくないから、いいことだけを書き残したい。でも他人に見せることが一番の趣旨場所ではそんな事気にせずにさんざんにけなしたい」というねじくれた人間感性

かくいう自分酷評側。amazon関係なく。素直に認める。

そんな御託がこのエントリ趣旨じゃない。

自身感想が本題だ。

基本的風車祭ですごい面白い印象があって、それ以来の久しぶりの池上永一めっちゃ期待してたのに、これはひどかった。

ハズレだった。

重厚カバーデザインに騙されて一時期敬遠してたのが馬鹿らしい。

一言で言えば、雑

キャラストーリー、途中の展開が全体的に雑。

歴史的琉球についての描写はあるけど、ストーリー関係ないただのうんちく垂れ流しの文章水増しでしかないし。

会話だけ拾い読みしても十分だった。

劇かなんかの脚本読んでるような感じ。

散々amazonでも叩かれてるけど、主人公の浮き沈みが激しくて危機感がない。

落ちるところまで落ちてもどうせ復活するんだろうなっていうのが透けてみるからまったくおもしろくない。

キャラクター人間味がない

主人公を始めとして。信念がないからストーリーも流されるままという感じで終始だらだらしている。

尚氏第一王朝復古を目指してクーデターをするのかと思ったら全然そんなことないし。

周りの天才美男美女どもも人間味がなくてロボット見てるみたい。

唯一よかったのは聞得大君の真牛か。

~じゃっていう言葉遣いで、なんとなくホロとか忍野忍的な萌えキャラ脳内変換されてた。

それに確固たる信念でしぶとく輝き続けた(特に後半)から、こいつが一番愛すべきキャラだった。

著者の言葉選びが雑

メロメロだとかハートがどうだとか、安っぽい横文字が頻繁に入る。

別に使うなとは言わないが、荘厳な世界観を著者自ら台無しにしているようで非常に興ざめ。

あと話しことばがふざけててラノベよりひどく感じられることも多々。

2014-05-04

読書メーターがいい本探すのに使える

読書量の記録とか興味ないから使ってなかったんだけど、最近「相性」という機能がある事を知って使うようになった。

読んだ本すべてを登録するんじゃなくて、特に気に入った本だけを登録してから相性のよい読書家をチェックしたらいい本探すのに使える

2014-04-21

円城塔もっと楽しむためのノンフィクションはこれだ!

SFもっと楽しむための科学ノンフィクションはこれだ! http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20140417/1397744529 を受けて10冊選んでみました。

「『現実とはなにか』という認識が変わっていく」ような本はありません。

言語

ヨーロッパにおける完全言語を求める歴史を扱った『完全言語の探求』と多くのプログラミング言語設計者へのインタビューをまとめた『言語設計者たちが考えること』は、あまり読者が重なっていない気がしますが、円城塔きっかけにして両方読んでみるのもいいのではないでしょうか。

つぎの著者につづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)の冒頭で語られるエピソードが『完全言語の探求』から引いたものであることは単行本収録時に追加された注で明示されていますし、「道化師の蝶」に出てくる無活用ラテン語についても『探求』で触れられています

一方『言語設計者たちが考えること』については、読書メーターで「小説を書く人も読むと良い」(2010年12月10日)とコメントしていて、『本の雑誌』の連載でも取り上げています(2011年11月言葉を作る人たち」)。また『本の雑誌』の連載では『言語設計者たち』以外にも時々プログラミング言語言語処理についての本が取り上げられています

最近連載のはじまった「プロローグ」(『文學界掲載)も今のところ、より望ましい文字の扱いや処理についての話をしているので、いささか強引な解釈ですが『完全言語の探求』『言語設計者たちが考えること』と繋がっている小説です。

翻訳

ロシア語作家として出発しアメリカ亡命後に英語作家に転身したナボコフは、自分自身の書いた文章を別の言語翻訳する「自己翻訳」を相当数おこなっていますが、それを主題とした評論書です。

円城塔本人も語っていますが、「道化師の蝶」ではナボコフモチーフとして使われています。友幸友幸が「希代の多言語作家であることもナボコフへの参照のひとつでしょう(若島正は『乱視読者の新冒険』のなかでナボコフを「稀代の多言語作家」と形容しています)。その希代の多言語作家の「わたし」とそれを翻訳する「わたし」が重なるようで重ならない「道化師の蝶」の筋立てにも、同じ作品について作者と翻訳者の両方の役割を演じたナボコフの影が見出せます。また「道化師の蝶」の姉妹編といえる「松ノ枝の記」での、相互翻訳相互創作する2人の作家という設定も「自己翻訳」の変奏と見ることができるでしょう。こうした創作翻訳交錯する2編を再読する上でも、この評論書が良い補助線になるのでは。

読書メーターコメントは「素晴らしい」(2011年4月28日)。

数学 全般

最初期に書かれた『Self-Reference ENGINE』や「オブ・ザ・ベースボール」「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」(『虚構機関』収録)などに顕著ですが、円城塔小説には、掌編の積み重ね(積み重ならず?)によって全体の物語が作られるという構造がよく現れます。これは辞典を順番に読んでいく感覚ちょっと似ているかもしれません。『数学入門辞典』を読んでいると、たとえあまり数学に詳しくなくても、円城塔小説に対してしばしば言われる「よく分からないけど面白い」という感覚を味わえると思います。ただし、円城塔小説に出てくる数学用語がこの辞書に出てくるなどと期待してはいけません。

一家に一冊」だそうです。 https://twitter.com/rikoushonotana/status/402707462370758656/photo/1

数学 数学者

円城塔小説には数学者やそれに準ずる人が多く登場しますが、『史談』は数学者を語った本として真っ先に名前のあがる定番の名著です。著者は類体論確立したことあるいは解析概論の著者として知られる高木貞治。かの谷山豊はこの本を読んで数学者を志したそうです。

数学部分については河田敬義『ガウスの楕円関数高木貞治先生著"近世数学史談"より』という講義録があるくらいには難しいので適当飛ばしましょう。

考える人2009年夏号 特集日本科学者100人100冊」で円城塔が選んでいたのが高木貞治とこの本でした。

数学 モンスタームーンシャイン

ムーンシャイン現象は、『超弦領域』収録の「ムーンシャイン」の題材で、他に「ガーベジコレクション」(『後藤さんのこと』収録)にも単語だけですがモンスター群とコンウェイが出てきます(コンウェイは「烏有此譚」の注にも言及あり)。作品内に数学的ホラ話といった雰囲気がしばしばあらわれる円城塔にとって「怪物的戯言(モンスタラスムーンシャイン)」はいかにもな題材かもしれません。

ムーンシャインを扱った一般向けの本というとたぶん最初に『シンメトリーモンスター』が挙がるのですが翻訳が読みにくいし『シンメトリー地図帳』にはあまり説明がなかった気がするので、この『群論』を挙げます

数学の専門書ですが、第4章「有限単純群の分類/Monsterとmoonshine」は読み物風の書き方になっています。ただし詳しい説明なしでどんどん話が進んでいくところも多く、きちんと理解するのは無理です(無理でした)。

第4章を書いている原田耕一郎はモンスター群の誕生にも関わりが深い人で、多くの文章モンスタームーンシャインについて触れているので、雑誌などを探せば難度的にもっと易しい文章が見つかるかもしれません。

数学 確率

円城塔小説には「オブ・ザ・ベースボール」のように確率についての言及もよく見られます。『数学セミナー』『数学のたのしみ』『科学』等で高橋陽一郎が書いた確率論についての諸入門解説記事、は探すのが面倒だと思われるので、もっと入手しやすいこの本を。

確率微分方程式で有名な伊藤清エッセイ集です。「確率」より「数学者」の項に置くのがふさわしい本ですが確率の本として挙げます

読書メーターコメントは「素晴らしい」(2010年10月24日)。

数学 力学系

やはり専門が力学系ということもあり、力学系関連もしばしば登場します。

本のタイトルを見て「力学系力学は違う」と指摘されそうですが、副題は「カオスと安定性をめぐる人物史」。力学系歴史に関する本です。実のところどんな内容だったか覚えていないのですが、「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」(単行本未収録)で引用文献に挙がっているか大丈夫でしょう。

数学 ロジック

Nova 1』収録の「Beaver Weaver」をはじめ、ロジック(数学基礎論)関連も円城塔小説に頻出する素材です。

とりわけ計算可能性、ランダム性、busy beaver、コルモゴロフ複雑性……とあげてみると、まずはチャイティンの諸作が思い浮かびますが、あれはむやみに勧めていいタイプの本なのかちょっと疑問なので避けます読書メーターでは、最近出た『ダーウィン数学証明する』に対して「 チャイティンチャイティンによるチャイティンのためのいつものチャイティン」(2014年3月20日)とコメントしています

これという本が思い浮かばなかったので、いくらかためらいながらもこの本を挙げました。『メタマジックゲーム』か、あるいはヒネリも何もなく『ゲーデルエッシャーバッハ』でよかったのかもしれません。ただ『ゲーデルエッシャーバッハ』だけを読んでもほぼまちがいなく不完全性定理理解できないということはもっと周知されるべきじゃないかと思います

円城塔はこの本について「すごかった。(但し、かなりハード。)」(2011年3月27日)とコメントし、『本の雑誌』でも取り上げています(2012年10月ゲーデルさんごめんなさい」)。

初心者向きの本ではありませんが、不完全性定理について一席ぶつ前に読んでおくといいでしょう。


天体力学パイオニアたち』が上下巻なので、以上で10冊になります

別にノンフィクションを読まなくてもフィクションを楽しむことはできますが、ノンフィクションを読むことによって得られるフィクションの楽しみというのもまた楽しいんじゃないでしょうか。

追記: 小谷元子編『数学者が読んでいる本ってどんな本』に寄稿している13人のうちのひとりが円城塔なので、そちらも参照してみるとよいと思いますリストに挙げられている約50冊の本のうち半分くらいがノンフィクションです。上に挙げた本とかぶっていたのは『数学入門辞典』『天体力学パイオニアたち』『ゲーデル定理 利用と誤用の不完全ガイド』でした。また、はてブコメント言及のあったイエイツ『記憶術』もリストに入ってました。

2013-12-21

ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部シリーズの類似点

はじめに

中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』は星海社ウェブサイトで無期限全文公開されている(http://sai-zen-sen.jp/works/awards/logic-lock-festival/01/01.html)ので読んでみた。その結果『天帝のはしたなき果実』だけでなく、米澤穂信の諸作品との類似点が見られたので検証したい。ちなみに現時点で私は『天帝のはしたなき果実』を未読であるが、これから読んでみる予定である

以前から米澤穂信作品との類似は指摘されていた

読書メーター12月4日投稿されたjinさんのレビューhttp://book.akahoshitakuya.com/cmt/33836748)。

読んだ印象としては、米澤穂信西尾維新になったつもりで古典部シリーズを書いたらこうなるんだろうなと思った文学部員が書いた同人誌と言った感じ。

読書メーター12月11日投稿された×(旧らっきーからー。)さんのレビューhttp://book.akahoshitakuya.com/cmt/34001390)。

米澤穂信とかを目指した結果、残念ながらそこに至らず。そんな印象。

物語構成

まず『ロジック・ロック・フェスティバル』の物語の流れを説明する。以下が『ロジック・ロック・フェスティバル』の章タイトルだ。

  1. 四人の申し分なき閑人
  2. 実行補佐
  3. 回想と回送
  4. モバイルコード
  5. 葉桜の季節
  6. 大脱出
  7. バス班室写真消失事件 前編
  8. バス班室写真消失事件 後編
  9. そして、時は来たれり
  10. フェスティバルフリーク
  11. 健康と対策
  12. アイの告白
  13. それは清き学び舎を妖しく濡らして
  14. さよならコージー
  15. 現場検証
  16. 見捨ていくプリコンディション
  17. 星のお告げと逆転密室(万亀千鶴告発
  18. 失われた血の絆(成宮鳴海告発
  19. 浪漫秘密の抜け穴(衿井雪の告発
  20. 犯人探偵中村あきの告白
  21. 名探偵』の復権(鋸りり子の告発
  22. 顚末
  23. 探偵の動機

全部で23章で構成されている。『ロジック・ロック・フェスティバル』のメインとなる事件は文化祭開催期間中に起きた密室殺人事件だが、文化祭が始まるのは「9.そして、時は来たれり」からだ。ではそれ以前はというと小さな謎解きが2,3あるという構成になっている。具体的には「4. モバイルコード」で携帯メール暗号の謎解き、「6. 大脱出」で閉じ込められた蔵から脱出、「7. 女バス班室写真消失事件 前編」「8. 女バス班室写真消失事件 前編」で写真盗難事件の謎解きが行われる。

次に米澤穂信デビュー作『氷菓』の物語の流れを説明する。以下が『氷菓』の章タイトルだ。

  1. ベナレスから手紙
  2. 伝統ある古典部再生
  3. 名誉ある古典部の活動
  4. 事情ある古典部末裔
  5. 由緒ある古典部封印
  6. 栄光ある古典部の昔日
  7. 歴史ある古典部真実
  8. 未来ある古典部の日々
  9. サラエヴォへの手紙

この章タイトルだけではどんな物語かわからない。『氷菓』のメインの物語ヒロインである千反田えるの叔父、関谷純が関わったと思われる33年前の事件を解明することであるしかし、その謎がはっきりするのは「4. 事情ある古典部末裔からであり、「2. 伝統ある古典部再生」では千反田える地学講義室に閉じ込められた謎解き、「3. 名誉ある古典部の活動」では、ある本が毎週借りられている「愛なき愛読者」の謎解きが行われる。

はじめに小さな謎解きがいくつかあり、中盤からメインの大きな謎解きになるという物語構成は特定作家専売特許ではない。であるが『ロジック・ロック・フェスティバル』と『氷菓』の物語構成が類似していると指摘するのは間違いではないだろう。

ヒロインのお屋敷にはじめて行くシーン

ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」では、主人公中村あき)がヒロイン(鋸りり子)の家をはじめて訪れるシーンが描かれる。これを『氷菓』の「6. 栄光ある古典部の昔日」で、主人公折木奉太郎)がヒロイン千反田える)の家をはじめて訪れるシーンと比較したい。

 目に飛び込んできたのは圧巻の庭園だった。手入れの行き届いた刈り込まれた木々。配置を整えられた岩。雨粒を受けてなお静謐を湛える。その中を悠然と泳ぐ色とりどりの錦鯉。そしてそれらを統べるかのように鎮座する絵に描いたような日本家屋。その向こうには立派な蔵も見えた。

 道なりに設置された飛び石を歩きながら息を呑む。家柄でここまで住む世界が違うものなのか。自身の境遇比較すると、少しばかり悲しい気持ちになってしまう。

(中略)

 唖然としているうちに僕は言われるがまま三和土で靴を脱ぎ板張りの廊下彼女に説明された通りにんでいた。


ロジック・ロック・フェスティバル

 広大な田圃の中に建つ千反田家は、なるほどお屋敷と呼ぶに相応しかった。日本家屋らしい平屋建てが、生垣に囲まれている。水音がするところを見ると庭にはがあるらしいが、外からは綺麗に刈り込まれたしか見えない。大きく開かれた門の前には、水打ちがしてあった。

(中略)

 無視する。門をくぐり飛び石を飛んで、玄関先のベルを鳴らす。

(中略)

 石造りの三和土で靴を脱ぎ、千反田に先導されて板張りの廊下を進む。


氷菓角川文庫版、135~136頁

太字で示したのが二つの作品で完全に一致した箇所である。いくつか単語が一致しているが、文節単位での剽窃は行われていない。単語の一致も同じ「日本家屋を初めて訪れたシーン」を描いたのだからあって当然だ。むしろ庭園に入ってから周りを描写している『ロジック・ロック・フェスティバル』、生け垣の外から庭をうかがっている『氷菓』という点が大きく異なる。

そもそも、高校一年生のヒロイン日本家屋の豪邸に住んでいるという設定がめずらしいが、かといってこの設定が特定作家専売特許というわけでもない。

氷菓』において、千反田える日本家屋の豪邸に住んでいるのは、千反田家が桁上がりの四名家といわれる名家からだ。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、鋸りり子が日本家屋の豪邸に住んでいる理由は説明されない。家柄は明らかにされていないし、両親も学者だ。一般的学者であれば豪邸を建てるほど高給とも思えない。シリーズ化されこれからの作品で明らかにされるのかもしれないが、現時点では主人公たちが閉じ込められる蔵を登場させるためぐらいしか物語必然性がない。背景が説明されないので、どうしても取ってつけたような印象を受けてしまう。

主人公ヒロインが閉じ込められるシーン

ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」で描かれる主人公ヒロインが閉じ込められるシーンは、〈古典部シリーズの4作目『遠回りする雛』に収録されている短編「あきましておめでとう」と類似点が多い。例えば、どちらも冒頭に閉じ込められている主人公述懐を置き、時間を巻き戻す形でなぜ閉じ込められることになったのかを記述する形式をとっている。

あらすじはひとことでまとめると以下のようになる。

具体的に『ロジック・ロック・フェスティバル』では、

具体的に「あきましておめでとう」では、

となっている。

以下、『ロジック・ロック・フェスティバル』におい主人公中村あき)とヒロイン(鋸りり子)が小屋(蔵)に閉じ込められるシーンと、「あきましておめでとう」におい主人公折木奉太郎)とヒロイン千反田える)が小屋納屋)に閉じ込められるシーンを比較したい。

 目が慣れてくると、そこは本当に本の山だった。本しかないといってもいいくらい。備え付けの本棚に、そこらに積まれたボール箱に、ぎっしりと詰められた本、本、本――今すぐ古本屋が何件だって始められそうだ。

 りり子に案内され、その後ろに付いていく形で奥の方に歩いていく。中はそれほどの広さでもないようだったが、薄暗さと障害物のように設置された本棚のせいで、なんだか迷路に迷い込んだような眩暈感があった。

推理ものは確か……」

 一応分類されているのだろうか。背表紙を見流す限りでは全く統一感がないような気がするぞ。

 と、その時。

 ぎぎぎ、と何か引きずるような音がして、室内の明度が明らかに落ちた

 なんだろう?

 りり子も一度こっちに振り返り、異変があったことを確かめ合う。

 そして二人同時に思い当たった。

 扉が閉まったのだ。そんな当たり前の結論に到達するのにいやに時間がかかった。

 慌てて扉の方に引き返す僕ら。見るとやはり扉はぴっちりと閉められていた。風やなんかであの重い扉が閉まるだろうか。疑問に思いながらも、とりあえず僕は扉に近づいて手を掛けてみる。

「……あれ?」

 開かない。まさか

 がちゃがちゃがちゃがちゃ。

 扉の外側から響く、金属が打ち付けられるような硬質な音。

 いやいや、冗談でしょ?

「鍵が……閉められてる……?」

強く揺さぶってみると扉はほんの薄くだけ開いた。その間から無慈悲にも完全に閉じられた錠が覗けて。


ロジック・ロック・フェスティバル

 闇の中に手を突き出し摺り足で進んでいく。目が慣れればもう少しマシになるのだろうが、いまはこうしないと危ない。そろそろと奥に進み、手に酒粕が当たらないかと気をつけてみるが、どうも手ごたえがない。

「簡単なお使いかと思ったら、なんだか面倒なことになってきたな」

「あの、折木さん」

 いつの間に近づいてていたのか、千反田が俺のすぐ後ろで名前を呼んだ。背後でアルミドアが風に吹かれて閉まってしまい、納屋の中はいっそう光が入らなくなった


『遠回りする雛』角川文庫版、218~219頁

「おう、開いてるぞ」

 そして、なにやら不吉な、がこんという音。

「え? いまのは……」

 とピンと来ていない千反田。俺はすぐさまドアに、暗くてよくわからないので正確にはドアがあったと思しき場所に飛びついた。アルミノブの、冷たい感触はすぐに探り当てられた。

 しかし。

 がたがたと揺れるだけのドア。オレは千反田を振り返る。千反田の輪郭もはっきりしないけれど、なぜか、心配そうに小首をかしげるやつの顔が見えたように思う。

「どうしました?」

 どうせ見えないだろうけれど、肩をすくめてみせる。

「閉じ込められた」


『遠回りする雛』角川文庫版、221頁

 まず、このドアが閉められている構造をもう一度考える。このドア自体には鍵はない。だから強く押せば、ほんの少しだけ開く。それ以上開かないのは閂のためだ。


『遠回りする雛』角川文庫版、228頁

今度は先程と違い完全に一致する箇所ではなく、同じ事象を別の表現にしている箇所を太字にした(そもそも完全に一致する単語ほとんどない)。非常に似通ったシーンを描いているので、一致している箇所がいくつかあるが、文節単位での剽窃はおこなわれていない。

違和感があるとすれば『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「扉はほんの薄くだけ開いた」という点だろう。「あきましておめでとう」では脱出が困難なことを示すために閂がどのようにかけられているか仔細に描写されており、「強く押せば、ほんの少しだけ開く」というのも話の流れから違和感がない。一方の『ロジック・ロック・フェスティバル』においては、どのような扉なのか、どのように錠がかけられているかは具体的に示されておらず、一般的な扉と錠であれば扉が薄く開き外の錠が覗けるというのはおかしい。

「あきましておめでとう」では、折木奉太郎脱出するために様々な方法を試す。そこにはどうやって脱出するのかというハウダニットの愉しみがあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』では、早い段階で窓から脱出できることがわかっている。謎解きの興味はほとんどなく、むしろそれまで葉桜仮名先輩一筋だった主人公中村あき)がヒロイン(鋸りり子)を女性として意識するシーンとして描かれている。

私感

ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部シリーズ両方を読んでいる私としては、影響は受けていると感じた。しかし、文章の剽窃など著作権法違反に問われるような箇所はないと判断していいだろう。他にも中学時代探偵していたが、とあることをきっかけに探偵することをやめたという鋸りり子の設定が、〈小市民シリーズの小鳩常悟朗の設定と類似するなど気になるところがあるが、それはまたの機会に検証したい。

2013-12-06

読書好きの女子のファッショ

 世間一般様から読書家」とひとくりりにされ、一束十円のブックオフ価格流通している今日このごろの読書ファッションクソ野郎どもであるけれど、その内実はピンキリで、とりあえずジャンルや内容や分量に関わらず月に三冊以上読んでいれば全国平均的に照らして「かなり読んでいる」ほうの部類に入る。

 数を誇りがちなのは男だ。

 数をこなしたからといって偉いわけではないと口ではうそぶきつつ、「いやあ、今年は千冊も読めなかったよ」だとか「一日頑張れば十冊は行けるね」だとか「○○の必読本リストは○冊しか読めてないな」だとかなんでもかんでも数字還元する。

 別に速読はクソだとか熟読こそ至高だとかいう議論をしたいわけじゃない。ヴォルターベンヤミンは生涯で1700冊しか本を読まず、一方でレヴィ=ストロースは一冊書くために7000冊を読み、イケダハヤトは年速500冊を読破し、ボルヘスは「1000冊も読める人間など存在しない」と主張した。この四人の言う「読む」はおそらくそれぞれ意味が大いに異なる。だが今はそんなことは関係ない。「本を読む、とはどういうことか」じゃない。傾向の話だ。重要なのはベンヤミンレヴィ=ストロースイケダハヤトボルヘス松岡正剛佐藤優もそのへんのラノベ評論家ブログやってるビジネスマンもみな男だという事実だ。

 男は自分についてであれ他人についてであれ、読書について言及するときに数の話をしたがる傾向にある。

 数が多い方が偉くて強い。そういう世界は微笑ましい。人によっては浅薄で醜いと断じるかもしれない。けれど、浅い分理解しやすくはある。

 そこに現れているのは一種体育会系的な価値観だ。どんなメガネモヤシとて鬱屈したヲタとて、オスである以上は筋肉量に憧れるのだ。私の読書冊数は十三万です。

 強い。わかりやすい。

 読書メーターが珍重される理由もそこに関係している。RPGみたいに、読書家のステータス可視化してくれるのだ。今までの読書冊数がHPなら、月あたりの読書冊数がすばやさ、コメントがパワー。

 既読冊数も数なら、読んだ本の内容も数だ。実のところ「読んだ本の数より、どれだけ内容を理解しているかのほうが重要だろ」と、男が言うときに使う「理解」という単語はそのまま「記憶」に置き換えうる。つまり、本の筋や要点をどれだけ他人の前でそのまま垂れ流せるか、どれだけ脳にストックしてある別の本と(それぞれの文脈を無視した上で)リンクさせられるかが男の言うところの「理解」となる。ぷよぷよとかミスタードリラーとか、そのへんの連鎖パズルゲームをやってるのとあまりかわらない。


 ひるがえって、女は数の話をしない。そもそも数えない。目の前を流れてゆく本にただ好きか嫌いかのスタンプを流れ作業で押していく。

 小説についての話をすると、まず自分がある登場人物をいか好きか/嫌いかを述べだす。本気で。ぼんくら男子同士が「ビッチ」だと「処女」だのとぼんくら慣れ合いのための属性を貼り付けて表面的に消費するのとわけが違う。彼女らは本気でキャラを憎み、愛している。

 そして、いきなり自分語りを始める。マミさんによく似たバイト先の先輩の話を始める。そんな先輩がいらっしゃるならぜひ紹介していただきたい、というこちらの懇願無視して、いかにその先輩とそりがあわないか、先輩がクズかをとうとうと語り、最終的にバイト先がかつてマルクス予言し憂慮した末期資本主義的状況下にあり私はとてもつらいんです大変なんです疎外されてるんですだからマミさんは最低な女だと思います、という実に革命前夜なティロ・フィナーレに行き着く。

 よくわからない。よくわからないと言えないまま、また別の本と別の現実の話題にうつる

 マミさんが嫌いな女子とは別の知り合いで、村上春樹を嫌いな女子がいる。その子村上春樹がそりゃあもう大っ嫌いだ。春樹に関係するものすべてを憎悪していて、村上春樹本人も嫌いなら、ファンも勿論大嫌いで、村上春樹フェアをやってる書店も嫌いで、『色彩を持たない多崎つくる』が大ヒットしている現代日本社会も嫌っている。読まず嫌いというわけでなく少なくとも数冊は読んでいるはずのその子本質的村上の何が嫌いかはよくわからなくて、理由を訊いても「キザっぽくて嫌だ」とか「セックスだけじゃん」とか、いまいち要領をえない。だって、おまえ、バタイユとかサドとかロブ=グリエとか喜々として読んでるじゃん。

 男子にも村上春樹とそのファンとその社会を嫌うやつはそれなりにいて、でもそういうやつらはなぜか「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だけは好きだね」などと妙に言い訳地味た予防線を忘れない。続いて、聞いてもないのに春樹論について語りだす。「俺は基本的に春樹嫌いだけど、文学性や価値は理解できるし、いいところがあれば認める度量もあるよ」と言いたいわけだ。春樹以外の気に食わない作家陣に対しても似たような態度しかとれない。嫌うのに社会的にコレクトな理屈を探そうとする。それを見つけたあとでも、けなしはしても全面的な攻撃はしかけない。そんな度胸はないんだよ。俺もお前も。

 女は退かない、媚びない、顧みない。嫌った相手には容赦しない。同時に自分正当性正義も疑わない。よって言い訳をしない。理屈を探さない。よその基準など関係ない。私の人生が伊坂はクソだと告げている。

 虚構と現実境界線をきちんと引き、作品世界をきっちり読み込み把握したうえで、手前の価値観物差しのみを武器に全身全霊をもって襲い掛かってくる。彼女たちは数を数えない。だから物差しで切り捨てた数もおぼえていない。


 あなたがもし男であるならば、女と本についてトークするのはオススメしない。なぜなら、あなたは弱い。あなたはその本について、内容を記憶しているだけで実は何も独自の見解を有していない。その場でとっさにひねりだした解釈に、あなた確信を持てない。それでは耐えられない。あなた読書を通じてコミュニケートする、ということがどんなに恐ろしいことか、リアルオリジナル見解を持っている人間狂気がどんなに鋭利か、わかっていない。年間三千百冊を読了できたとしても、それらの内容を一字一句違わず暗誦できたとしても、絶対に辿りつけない彼岸がこの世界には存在するのだ。そこでは数や引用など意味を持たない。愛情感情がすべてだ。あなた死ぬ。死にたくないなら他人と金輪際本の話をするな。外に出ろ。ゲーセンにいけ。三鷹駅裏のゲーセンではまだ『ぷよぷよ通』が現役で稼働している。あなたの居場所はまだそこに残されている。生きて欲しい。生き延びてほしい。


http://unimochi.hatenablog.com/entry/2013/12/05/174304

2013-11-05

勧められて読んだ本が糞だったので、バズワードで褒めてる奴を前に糞味噌にけなすと大抵「人それぞれですよね」とニコニコされる。

こっちはこういう本が増えること・売れること・売れ続けることによるジャンルのクソ化を鑑みて

その存在を許せないほどはらわたが煮えくり返っているのにあっちはニコニコしてる。

んで詳しく聞いてみると

「確かにつまらない点は多いけどネットで本は褒めるのが普通じゃないですか」

「そもそも書評って褒めるために書くものでしょ」

読書メーターの○○さん(知らん)も褒めてたし文句つけるなんて出来ない」

お前にとって読書はその程度のものか。死ね

2013-09-21

インタレストグラフサービスは、なぜ成功しないのか

また、新しいインタレストグラフ系のサービスが登場したらしい。

グラフィー(Graphy)マイベストでつながる、趣味が同じひと限定SNS http://graphy.me/

しかし、趣味や興味のカテゴリでつながるSNSでは、国内外での大成功事例はひとつもない。

 

国内で、ギリギリ成功事例なら、かつてのmixiコミュか、2ちゃんねるか、今ならLINE cafeとかになるのかね。

どれも、パソコン通信時代フォーラムとかの延長線で、まったく進化してない。

はてなハイクはてなモノリスはてなスペースなんかは、頑張って色々作ってみたけど見るも無残だ。

海外では、Get Glueとかなのかな。とてもじゃないが大きく成功しているようには見えない。

Facebookインタレストグラフ系の機能を拡充しようとしてるけど、使いこなしてる人を見たことがない。

 

インタレストグラフ系の総合プラットフォームは、なぜ成立しないんだろうか。

ブクログとか読書メーターみたいに、個々の趣味ごとにサービスがあればいいから?

最初に紹介したグラフィーは、まだβテスト開始前らしいけど、カテゴリを4つに絞ってスタートするというのは良さげ。

ユーザーがまだ少ないのにカテゴリが多すぎて分散してるのは最悪で、ピエリ守山みたいな廃墟SNSになるから

レコメンドじゃなくて、強制的相互フォローする仕組みというのも、わりと面白い

カテゴリ別のフォローは、ピンタレストTABSumallyに似た機能があったけど、どうなんだろうか。

結局のところ、趣味別のTwitterって、だったらTwitterでいいや、ってことになるんじゃないのかね。

2013-09-06

炎上時とTwitter

ここ最近、いろいろな炎上が起こっているけど、関係者の火消しの仕方って大事だなって思った。

The Startup

顛末は、いろいろなサイトで書いてるんだけど。元切込隊長のところで書いてるんでみてほしいんだけど、自分とかかわりあるクラウドソーシングサービスをあげて、競合を落とした記事をアップした事例。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/08/the-startup-033.html

最終的に、お詫びをだして終結。

http://thestartup.jp/?p=8322

ただし、運営のUmekiさんはTwitterは鍵付にしてるんだけど。それはそれでどうだって思う部分もあるけど、ひとまずちゃんとお詫びを出して改めるってスタンスを出してるので、ちゃんとしていますよね。

読書メーター

MARUZEN&JUNKUDOのサイトで、事前告知なく読書メーターレビュー表示のAPIを出してユーザからの反感を買った事例。

http://book.akahoshitakuya.com/sorry.php

http://www.junkudo.co.jp/mj/user_data/read_meter_notice.php

で、これが運営者の赤星という人がお詫びを出したタイミングで、お詫びページで申し訳ないとしながらも、「集団心理すぎる・・。思考が浅すぎるぜ。。」とか問題を指摘するユーザに対して文句をつぶやいているんですよね。

山本太郎

しょっちゅう炎上しているイメージなんですが、Twitterはとくに普段どおりだったり。

この人は突き抜けていますね。

家入一真

この人もしょっちゅう炎上していますよね。

この人も特に悪びれることなく、むしろ増長しているというか。突き抜けていますね。

総合すると

炎上したときTwitterはしないか、鍵かけるか、つきぬけたほうがいいなって思いました。

2013-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20130812101917

なにか形に残るものがあればいいってことかな?

じゃあスケッチブック風景でも描けばいいんじゃないかなー

発想そのもの安易なんだろうけど、もとの頭が賢いよね

本当はこういう子にはもう少し「なにか」を誰かが与えてあげて欲しいんだけど

 

本を読んで記録を残してもそこそこコレクター魂は満たされる

ラノベでも別にいい、1冊ずつちゃんと記録残す

コレクション的には読書メーターが「今何冊」と煩いからお勧め

2013-07-07

ヨハネスブルグの読者たち

うあああ自称SF読みども超気持ちわりーーーーーーーー。

(13.7.11追記) うわああああ気持ちわりーブクマいっぱいついてるううううー。

伊藤計劃幻視したヴィジョンをJ・G・バラード手法で描く、というが読後に感じたのはバラード的なものを読んだというよりは、90年代に読んだいくつかのサイバーパンク小説に通徹していた一種の非情無常をはらんだ物語たちのことであった。バラードテクノロジー3部作や『ウォー・フィーバー』に近いものがあることも確かだがそれらと比較するのは野暮であろう。これは21世紀に生きる我々の問題を扱った「今」を生きる小説なのだから


政情不安内戦グローバリズムの暗部、といった人類の憂鬱現在未来。そこで生きる人々の日常とともに、「未来ガジェット」をも魅力的に描き出す。現代日本SFにとって亡霊のような存在になってしまっている伊藤計劃が、代表作『虐殺器官』で実現したこのスタイルを、宮内悠介はこの『ヨハネスブルグの天使たち』で踏襲しています


テロが頻発し、持つ者と持たざる者が極端に現れつつある現代社会の延長線上に待つものは何か?それを問うているのが本書である。(略)どのような宗教民族イデオロギーといった価値観は対立するものと表裏一体であることを、強く意識させられる。

「今を生きるための小説」「グローバリズムの暗部」「イデオロギーの対立」「民族紛争」「考えさせられた」…。

いつからSF読者こんなに気持ち悪くなったの?

SF小説それ自体が社会を語るものであることは否定しないけど、

「とにかく作品を通じて社会を語らなければならない」という強迫観念が、同調意識として

ここ最近増しに増してるのはなんなんだよ。あー気持ち悪い気持ち悪い。

伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、

あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。

虐殺文庫版が10万部を超えるベストセラーになり、SF野郎のみならず意識高い学生たちもここぞとばかりに殺到し、ぼくのわたしの社会評を発表する最高にダルい場所ができあがった。あー気持ち悪い。

しかしその死後気鋭の作家ポンポン表れるはずもなくて、ラノベ作家による駄作JA・Jコレの連発にガッカリしながらも

いかに救いようのないゴミを褒めちぎるかとか、イヤミスブームに乗っかったどうしようもない駄作コミュニケーションを図ったりといったあたらしい遊びで時間を潰したり新時代体現する新人作家を探していたのは読者も恐らく出版社も同じこと。

そこにようやく以後を書けそうな作家が現れた。それが「盤上の夜」で創元SF短編賞山田正紀賞を受賞した宮内悠介

小説の腕それ自体は処女作がいきなり直木賞候補にノミネートされたことで折り紙つき

そんな奴が地域紛争911テーマ連作短編集を出したもんだから既存社会語りたいおじさんはもちろん、伊藤ウェーブに乗り遅れたぼくも社会を語りたいぼくがわたしが殺到して、結果こんなんになるよねーって感じ。

おまけにそのムーブメントを煽るような帯。”伊藤計劃幻視したヴィジョンをJ・G・バラード手法で描いた”。

何が言いたいのかさっぱりわからないが社会語りたいマンにはこれが何かの免罪符に見えるんでしょうかね。

やるせない。そういう思いが読後、胸の中を占め尽くす。登場する高層建築物言語宗教の問題はバベルの塔彷彿とさせて。間違いなく、9.11後、世界の在り様は変わってしまったのだろう。作中で言うところの分岐点だったのかもしれない。DX9はそのままLARsの運用問題を問うているように思える。DXに人格コピーすることは果たしてその一つの解になり得るのか・・・考えさせられる良作だった

こういう輩は「意識させられました」「考えさせられました」をいくら繰り返したところでなんの意味もないことを社会科見学で学ばなかったんだろうか。

んなもん「あなた恋人が突然死んでしまったら、どうしますか?」系クソ映画感想にでも垂れ流しとけばいい。

お前は著者が丁寧に羅列してる参考文献の一冊にでも手を伸ばしたのか?

せめてタイトル検索をかけるくらいのことはしてるんだろうな?

最後に賢そうなことを言おうとして一番アホっぽく見える、最大公約数感想引用して終わる。あーイラつく全員死ね

まず舞台がねー、ヨハネスブルグニューヨーク、ジャララバード(アフガニスタン都市)、ハドラマウト(南アラビアの一地域)、それから西東京バリエーションに飛んでいるがそのいずれもがアフリカやら中東あたりのなんかとっても危なそうな地域と絡んでいる(すげー知能の感じられない把握の仕方だが)まずこの舞台設定が珍しいよね。

追記。

補足で言いたいことはだいたいブクマで書いてもらってると思うんで、

twitterに書かれてたこれにだけ返事しときます

ところで他人の感想をこき下ろした本人は”ヨハネスブルグの天使たち”を読んでるのかね?そしてなぜ自分感想を書いて勝負しないの?作者である宮内先生にではなく、近親憎悪的に他の読者に当り散らすのはなぜ?つまり一番語りたがってるのは自分なのに、口に出すのが怖いの?やり返されるから

A1.読んでます

A2.えっ…感想で勝負?wwwwしょwwwか、かか、かんそうで、しょ、しょうぶ?

  感想ってあの?か、かんそうでww??しょうぶwwwwか、感想でしょwwww勝負www

  ブハーッwwwwプッ…クハッ…ゲェェェェーッwwwww

  褒めちぎり野郎が互いのレビューを舐め合うためのセルフプロデュース会場での相互オナニー作法なんざ知るか。

  小説はてめえの装身具でも承認欲を満たすためのツールでもねえんだよ。本から出てけ。

A3.俺が気持ち悪いと思っているのは作者でも作品でもなく読者だからです。

  ブクマで「SF小説はそもそも社会を語るものから~」とかいってるバカ共もそれくらい読み取ってください。

  「お前は本当に気持ち悪い」という文章からSFは昔からそうなんだ」とか「お前はどうなんだ」を導きだして「感想で勝負しろ!!!」とか抜かしちゃう人すごいなー。ボーグバトルじゃねえんだぞ。

  あー気持ち悪い。

2012-01-07

日本メディア間の隔絶について 続き

元記事

http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html

9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そら社会理想希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果であるといえる。

その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピー日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。

ネット上の無料コピーによる、著作権侵害違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民意識に応じて法を変えれば良い。

そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。

(終わり)

日本メディア間の隔絶について

日本メディア間の隔絶について 日本のおけるネットオールメディアの最適な関係の構築方法模索

この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高い

この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、 Permalink | 記事への反応(0) | 04:44

2011-08-31

はてな読書メーター」を作って欲しい

はてな版の読書記録サービス

で、もちろん他の人も記録を見れる。

お気に入りidや気になるアンチクショウが今月どんな本を読んだのかな?ってわかる。

もちろん人に見られることを意識して見栄張る人もいるかもしれないけどそこは駆け引きブクマと一緒。


そしてある書籍クリックすれば

その本を読んでるidがズラーっと出たり、感想一言コメント、それを取り上げてるダイアリー

等などが見られるようになってるの。


どうでしょうか。

はてな人達はお互いの読んでる本を盗み見たり自慢したりして喜ぶようなとこがきっとあると思う。

これは文盲や低学歴ゆとり巣窟に過ぎない他のネットコミュニティでは実装しても意味ない、

永遠の書生気質どもが集うはてなからこそ価値のあるサービスだと思う。


是非ご検討いただきたい。

2011-01-17

Twitterを辞めた。

二年近くやっていたTwitterを辞めた。

原因は色々あるが、いちばん大きいのはとあるフォロワー存在だった。その人は一回り以上違う中年男性だったが何故か私をとても好いているらしく、普段からとにかくリプライの頻度が半端なかった。もともと彼や彼の周りは毎日ほぼ決まった時間に「起きた、おはよう」「出社なう」「帰宅なう」と呟き「おはよう」「おつかれ」「おかえり」というリプライを貰い、そしてそれに対して「おはあり」「おつあり」「おかあり」を返すような社会人クラスタ。私は学生だし、朝も夜もないような生活をしている。Twitter挨拶は殆どしないし非公式RTで繰り広げられるそういう会話を寧ろ目障りにも思っていたので、同じノリでリプライを飛ばされることに違和感を覚えていた。

ただそれは私の志向というか、Twitterに於けるテンションが彼らと違うというだけだ。非難するつもりも否定するつもりもさらさらない。不快だったのは、彼のリプライにはそのテンションの違いに気づかず自分たちのそれを押し付けてくる感じがあったからだ。自意識過剰と言われればそれまでだが、私がリア友フォロワー(彼はその子にフォローされていない)に送ったほぼ内輪ネタのリプライがふぁぼられていたりするのもなんとなく良い気持ちはしなかった。

そう、リプライの多さもさることながら、ほとんどすべてのツイートが彼にふぁぼられていたりすることが、はっきり言って気持ち悪かった。ふぁぼられることは嬉しい。ただ(傲慢な言い分だと自覚の上で言うが)明らかに意味がわかってないだろうと思われる内容のツイートもふぁぼってきていてなんで?と思うことも多かった。例えば、私が好きなとあるジャンル音楽の話をする。何回か連続ツイートしたその呟き群を彼はことごとくふぁぼる。しかし、後日自分ツイートで、そのジャンル音楽なんて馬鹿にしていて聴いたことがないみたいなことを平気で言うのだ。そんな人にふぁぼりを貰ったって嬉しい訳がない。ふぁぼられをチェックしても彼のアイコンばかり目についてイライラしてしまうので煩わしさを避けてついには鍵をかけた。

そもそも私のツイートをちゃんと読んでいるかも怪しかった。(本人は全部読んでいるし読むのが楽しみだと言っていたが) 送られてくる挨拶以外のリプライは大体いつも的が外れていて、いや今言ったのはそういう意味じゃない…と困惑することがしばしば。そもそも私が知らない・興味のない作家や作品の話を引用してリプライを飛ばされても反応しようがない。しかも私が知らないということを承知のうえで振ってくるのだ。他の人とのリプライに割り込んできたり、Tumblerや読書メーターブログに現れことごとく足跡をつけていったり、とにかくもう、うんざりだった。ブロックしてもよかったが、共通のフォロワーがいる以上それも憚られ、私にできることはリプライに気づかない振りをして無視することぐらいだった。

それでもしばらくは彼の存在を含めてTwitterを楽しんでいたが、最近彼だけに限らず、TL上で「この人たちなんか気持ち悪い」と思うことがちょくちょくでてきて、もういいや、と思った。馴れ合いという妥協はSNSを使うにあたって避けては通れない。相互フォロワーと仲が良い人にフォローされると、ちょっと合わないかな?と思いながらもフォローを返す。でもやはりあまり合わなくて、彼らのツイートノイズのように感じるようになってくる。でもでも相互フォロワーの手前リムーブはできない…というジレンマに悩まされることになり、それに気づいた時ああ完全に使い方を誤ってきてるな、と感じた。

私はコミュ障なので馴れ合いに耐えることができない。

この典型的Twitter疲れが治るまでしばらくアカウント放置、というのも考えたが、呟いていないと件のおっさんフォロワーから「お元気ですかーどうしてますかー」的なリプライが定期的に送られてきてウザいこと極まりないので辞めることにした。抵抗はなかった。Twitterと連動させていたほとんどのSNSアカウントも削除した。勿論Twitterを辞めることで失いたくないつながりをも失ってしまったが、ネット上の関係なんて所詮そんなものだと割り切っている。何年も通いつめていたサイトが閉鎖され、作者の動向が知れなくなることな日常茶飯事だ。

いつかまたTwitterを再開することがあったとしても、今まで交流のあった人たちをフォローすることはないと思う。フォロワーとの交流を始めてしばらくの頃はとても楽しかったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。自分コミュ力のなさと、対人関係の築けなさが悲しい

あと、おっさんフォロワーウザいからもう二度と現れないでしい

2010-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20100818212523

そもそもエンタメ本を大量に仕入れられる図書館予算も棚も余裕のある大きな図書館だけだし、

そういう所だと予約待ちの人数もとんでもない事になってるから固定ファンなら待ちきれずに買ってると思うが。

ああいうの予約してるのは読めても読めなくてもどうでもいいくらいの感覚の人だけだろ。

読書メーター見たら図書館に予約してようやく読めました!みたいな事言ってる熱心なファン多いぜ

本に金を払う感覚を持たない読者が、図書館のおかげで動画より先に発生してるんだろう

2010-07-25

読書メーター

おれは本を読むのは好きだが、感想を書くのは苦手だ。

つまりおれにとって読書純粋現実逃避の手段であって、それによって何かを表現しようという気分にはならないんだな。

このことがわかっただけでも読書メーターを試してみた価値はあった、ということにしておきたい。

しかしまさか読み終えた本を「読んだ本に追加」するのがこんなに面倒になるとは。

もしかして監視妄想があるのか。

2010-04-07

過去の遺物

読書メター、ブログtwitter 他にもアカウントを多数持っているが

そういう日々更新していく様なWebサービスが多すぎると思う。

自分は特に読書は好きだから、読書メーター更新頻度高いし、

コメントも結構考えて書く。読んで終わりにしない為に利用している。

その割にお気に入られは少ない。同じぐらいお気に入りも少ない。

でもそれでいい。なんと言うか他人のコメントを読むぐらいなら、

その時間をもっと他の本を読むのに費やしたいと思ってしまう。

中には自分のように下手な文章を長くだらだら書いてしまうのではなく、

短く簡潔でも的を射ていたり、要点を押さえていて感心する人もいる。

でも、大多数は何も書いていないか、書いても一言感想だけの人や

amazon の評価宜しく星やアルファベットで評価するだけの人、等など。

使い方は個人の自由だから、その点をとやかく言うつもりはないけれど

そういう人でお気に入り数十人から、100人以上いる人も結構いる。

この人たちはお気に入りしている人のコメント全部見ているのだろうか?

お気に入りしてくれたから、お気に入りにするという人が多いのだろうが

(というのは、その2つのユーザの並びがほぼ一致しているから。

個人的に2つをまったく別物にしたいと思うが前述の理由でうまくいかない)、

その人たちのコメントを読むだけでも相当な手間なのではと思ってしまう。

コメントに星をつけるのも、真面目に読んでそうしてくれれば嬉しいが

自分が読んだ本の読友のコメントに手当たり次第に星をつけている人や、

自分お気に入りしてくれている人が星をつけてくれても

その人がその本を読んでいないと、何故つけたのか首を傾げてしまう。

読書メーターだけで、こんな具合だからその他、色々アカウント持っていても

とても全部のサービスの本当に生かして利用しきれなくなってきた。

なんだか疲れる。こういうサービスの特徴は「繋がり」なのだけれど

大勢の人と大した交わりもなしに、ただ繋がっている気分になってくる。

適当言葉が思い浮かばない。言いたいことが伝わるか不安だ。

文章書いていると、自分の語彙や表現の乏しさに毎度うんざりする)

サービスも利用している人は、どう使いこなしているのか非常に気になる。

これほど個人が情報発信しやすい状況はないけど、自分はほぼ垂れ流しだ。

元来、新しい物には疎く、どちらかと言えば古典的なものの方に

魅せられることが多い人間だが、皆がそれらをを使いこなしているなら

とても付いて行けないな。それこそまるで過去の遺物のようだ。

2009-03-19

Amazonから取得した「書籍の表紙画像」でブログパーツを作ることは規約違反

質問してみた。

要は取得した画像書籍の表紙など)を直接弄くったりすることが出来るのかということと、

取得した画像URLを使ってブログパーツなどを作ることが出来るのかと言うこと、を質問した。

既にやっているサイト読書メーターブクログなど)はあったものの規約違反してるのか判断がつかないので質問した。

あわよくば自分も同じようなサービスを提供したかった。

そして回答。

「各事例は規約違反である可能性が非常に高い」と書いてあったものの、

見落とされたのかよくわからないけど後者については特に言及されているようには見えなかった。

外部に提供することの可否について言及は特にされていない。

画像自体の格納は禁止」と書いてあったので前者はアウトっぽいけど、画像メモリ上で編集して動的に提供した場合どうなるのかは分からなかった。

そんな感じ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん