はてなキーワード: 木下とは
http://anond.hatelabo.jp/20170602214735
別にこの記事の批判ではないです、むしろ(当方男だが)すごくわかる、8割くらい
ここがわからない…というかそれが分からない人間もいるんだねって話。
憧れはあるんだ、この前第一子が生まれたばかりの知人とか昔遊びに行った友達の家とかアニメのサザエさんとか片親だけどカードキャプターさくらの木下家とかみたいな家族に対して。
まぁでも同時に考えるのが、そもそも経験したことのない状況を実現するのは割と難易度が高いはずで、仮に結婚できた未来では結婚相手と子供が母親と自分の状況を容易に再現していそうで、面倒くさいB級ホラーの誰も望まない続編の出来上がりだ。
件の論文の著者のうち1名とは知り合いではあり、今回もご挨拶ぐらいはした関係である。
件の論文の話が大きくなり、文系研究者の方の記事も何件か出てきた。
https://srad.jp/~yasuoka/journal/612256/
http://mistclast.hatenablog.com/entry/2017/05/26/203043
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20170526/1495783027
前置きするが、件の論文を正当化する意図は毛頭ない。とにかく、件の論文が不適切であった事は確かだと思う。
私は、家族に文系研究者がいるので、ある程度文系領域についても分かっているつもりである。
文系研究者の皆さんが、大きく勘違いしていると思われる点がひとつだけあるので、指摘しておきたい。
文系では、テクストそのものを研究対象とすることが通例であるので、今回挙げられた小説を「分析対象」や「研究対象」と思ってしまう傾向があるようだ。
しかし、工学の観点からは、今回挙げられた小説は、分析対象でも研究対象でもない。
工学は手法を論じる方法論であるので、分析や研究、そして評価の対象となるのは、あくまで、手法である。
小説の内容自体は、研究・分析・評価の対象ではない。小説の内容については評価しない。
極端に言えば、小説を単なるデータとしてみて、データの中にある文字列が含まれている場合に、手法がどのような振る舞いをするのかを観察しているだけである。
研究対象・分析対象・評価対象は手法である。小説は単なるデータだ。小説の内容については評価しない。
ただし、世の中には色々なテキストがあるので、そのような小説に書かれている表現が入力として与えられる可能性はある。
そういう場合に、「手法が」どのような振る舞いをするのかを観察し、「手法を」評価するのが、工学研究だ。
このように言うと、おそらく、「しかし、有害、という言葉を使っている時点で、小説に対して評価を下しているではないか」という反論が返って来そうだ。
私が、今回の件で、非常に不適切であると思っているのは、まさに、このポイントだ。「有害」というような、内容を評価しているかのような表現は用いるべきではない。
例えば、「性的」といったような、内容に対する評価を含まない表現に置き換えるべきであったろう。
あるいは、有害図書の基準などの参考文献を引っ張ってきて、「その基準に照らせば有害に分類されるデータ」という体で小説を扱い、評価しているのは論文著者たちではないという事を明確にするべきであった。
繰り返しになるが、工学研究では、通常、研究対象は手法であり、今回の論文も、明らかにこのタイプの研究であると思う。
この論文は、「この小説がなぜ書かれたのか」「この小説が社会の中でどう位置づけられるか」といったような、小説自体を対象とする研究ではない。
追記:
「「わいせつ」といったような、内容に対する評価を含まない表現」に引っかかってる人が多いみたい。「わいせつ」自体が「有害」同様に、評価を含んだ言葉だという点は、確かにそうかもしれない。上記の論旨とズレていて申し訳なかった。
まぁ、件の表現が「わいせつではない」と判断するのは、社会通念上難しいと思うが…?
まぁ、「わいせつ」という言葉が問題なのだとしても、論旨は同じ。私の言いたいことは、件の表現をクラス分けする工学的手法が主たる関心なのだから、別に、「表現001」でも何でも、クラスにテキトーな名前をつけて、クラス分けすることが主たる関心であると分かるように書くべきであったということ。
どういう名前でクラス分けしようと、自動的にクラス分けしたい場合がある事そのものは否定できないと思いますよ。
「自動的にクラス分けしたい場合があると著者たちが思っていること」そのものが意見である、という見方もできるとは思いますが、今回のケースについては、類似研究がたくさんあるので、自動的にクラス分けしたいニーズの存在は否定することが難しいのでは。
とりあえず、当該表現は「わいせつ」ではなく、ブコメにあった「性的」としておきますね。小説に出てきたような表現が性的であることは明らかだと思いますので(そうではないという反論もあると思いますけど)。
あと、これ。 id:aoi-sora 「人工知能研究者は、事実と意見の区別すらできないのか。」まぁ、当該小説の表現が「わいせつ」には該当するだろうと思ってしまったのは私の落ち度だったけど、それ1つを持って、人工知能研究者全体を語られるのは困るなぁ。あなたこそ、そんな過度な一般化をして、事実と意見の峻別が出来ないのか…と思います。木下是雄の当該本も読んでいますよ。
id:type-100 環境の話とは話が違うんじゃないですかね。そもそも、今回の論文は、pixivという環境については何も直接の介入は行っていないわけですし。これが、研究のために、例えば、「意図的にpixivに作品を批判するようなコメントを書いて作者の様子を見た」みたいな話だったら、おっしゃるような問題と類似するケースになると思いますけど。
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
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1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
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1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
http://anond.hatelabo.jp/20170510115836
http://qtamaki.hatenablog.com/entry/2016/12/09/060000
クリアー社長の石田さん @yuki1y1m at #HiveShibuya pic.twitter.com/IIySuxSxbw— 木下 慶彦 (Max) (@kinoshitay) 2016年11月24日
法人設立して「クリアー」という法人の社長になれたか、よかったよかった。
もったいなくね?とか、思ったので、法人を調べてみた。
http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=4180301029799
電話帳サイトで検索してみると、やはり石田某さんというお方のおうちのようだ。
おそらくご尊父なのかなと思われる。
『泣いた』なんて表現は安っぽさというかミーハー感があって好きじゃないから、多分おそらくきっと『泣いた』は、この22年間で一度も使ったことのない言葉なんだけど、今日は初めて使うことになりそうだ。
大学4年生の僕は、だいたいの人と同じように年明けくらいから就職活動を始めていて、だからそろそろ半年を迎えようとしている。リクルートスーツもそれなりに様になってきたし、おかげで春服も夏服も、もしかすると秋服まで買い足さなくて良さそう。
こんなはずではなかったというのが本音で、3月末にはそれなりに大きなIT企業の最終面接にいくつか呼ばれていたから、わりとすんなり内定は取れそうだしGWはどこに行こうかなんて考えていたんだけど、その慢心というかもともとの人間性が正当に評価された結果だろうか、結局ことごとくお祈りを喰らい今に至っている。
はっきりいってヤバい。5月の大型連休は明け、依然として『無い内定』だ。
就活解禁の3月に余裕をかましすぎて学内説明会を始めとした企業研究を一切やってこなかったし、自分なんか一生かけても見つからないだろうというどこかで聞きかじったような知識で自己分析を疎かにしているから自己PRなんてできないし、そもそも中学校受験ぶりのテスト勉強(SPI)に四苦八苦している。
なんとなく東京のキレイなオフィスでなんとなくカッコいい仕事をなんとなくするんだろうなあと漠然に描いていた人生設計は早くも崩れそうで、ときたま深夜に『みん就』を見ていると将来の不安と、将来の不安と、将来の不安で本当に切なくなってくる。
そんなときに見つけたのが、マガジンハウスという出版社の新卒採用ページ。
各部署の所属長たちが未来の新入社員に向けてメッセージを送っていて、僕は毎月欠かさず買っている雑誌『POPEYE』の編集長である木下孝浩さんの言葉に文字通り『泣いた』。
少しだけ引用させていただく。
“大切なのは、学生時代、何かをして満足するのではなく、それを経て、今何がしたいかだと思う。人生のピークはハタチじゃない、これからもっと楽しい事が待ってるよ。”
かっこいいなよなあ、ほんと。
はあ、就活がんばろ。
行々林(おどろばやし)
飯山満(はさま)
幸田(こうで)
三ケ月(みこぜ)
三矢小台(みやこだい)
北方町(ぼっけまち)
松崎(まんざき)
安食(あじき)
都部(いちぶ)
中峠(なかびょう)
中尾余町(なかびょうまち)
日秀(ひびり)
高野山(こうのやま)
草深(そうふけ)
発作(ほっさく)
武西(むざい)
将監(しょうげん)
安食ト杭(あじきぼっくい)
酒直卜杭(さかなおぼっくい)
北風原(ならいはら)
猿楽場(さかくば)
香取(かんどり)
奉免町(ほうめまち)
国府台(こうのだい)
求名(ぐみょう)
砂(いさご)
砂古瀬(いさごぜ)
大豆谷(まめざく)
海士有木(あまありき)
飯給(いたぶ)
不入斗(いりやまず)
不入(ふにゅう)
廿五里(ついへいじ)
櫃狭(ひつば)
武士(たけし)
百目木(どうめき)
真砂(まさご)
小食土町(やさしどちょう)
生実町(おゆみちょう)
神門(ごうど)
臼作(うすくり)
馬乗里(まじょうり)
滑川(なめがわ)
墨名(とな)
欠真間(かけまま)
真間(まま)
神々廻(ししば)
狢野(むじなの)
登戸(のぶと)
園生町(そんのうちょう)
行川(なめがわ)
木内虫幡上小堀入会地大平(きのうちむしはたかみこぼりいりあいちおおだいら)
新(しむら)
城下(ねごや)
習志野(ならしの)
南波佐間(なばさま)
大谷流(おおやる)
小谷流(こやる)
勢田(せた)
実籾(みもみ)
生谷(おぶかい)
呼塚(よばつか)
篠籠田(しこだ)
船戸山高野(ふなとやまごうや)
平田(ひらった)
雪降里(ぶどうじ)
東芝町(ひがししばまち)
笠上町(かさがみちょう)
神余(かなまり)
部原(へばら)
丁子(ようろご)
新宿(にいじゅく)
羽計(はばかり)
滑谷(ぬかりや)
横渚(よこすか)
これ全部千葉県な。
旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。
だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。
だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってなったりするし、ミラバケッソとかヒノノニトンとか意味関係なく音として気持ちよくて頭に残っちゃうことって結構あると思うの(卑怯なCM多いでしょ)。写真でも、単純にきれいなものが写ってたら誰がいつどこで撮ったか以前に「わーきれい!」ってなるでしょ、文字だってうつくしい言葉がきれいに並んでたらそう思えるかもしれない。写真だとモチーフが左右対称に並んで写ってたらそれだけで気持ちいいように、定型句でも575の音数に合ってたらそれだけで気持ちいいとか。この辺が、作品それ自体の内側へと入り込んでいく楽しみ方の例。
逆に作品の外側に目を向けると楽しいこともある。写真なら、たとえば撮った人や撮った場所に注目してみるとか。普通の写真でも、自分の知ってる人、好きな人が撮った写真だって聞いたらそれだけで「どんな気持ちで撮ったんだろう」って想像したくなってこない? あとさ、ライオンが大口あけてる写真とかだと「この人どうやって撮ったんだよ、撮った直後に殺されたりしてないだろうな」とか想像して怖くなったりもしそうでしょ? 他にも、京都タワーを手で支えてるような構図だったりしたら「ピサの斜塔かよww 京都タワーじゃかっこつかないでしょうがwww」なんて元ネタと比べて楽しむとか、それ自体では補えない情報量が実はそこかしこに見つかったりするものなの。
そうやって自分で必要な情報量を探していく、補っていくっていう探偵じみたプロセスも詩歌の楽しみだと思うし、これって実は小説でも他の芸術分野でもおんなじだよね。さらに言うと、いろんな作品(詩歌や小説に限らず)を見ていくと、自分を泣かせる笑わせるために必要な情報量ってじつはそれほど多くない、このツボさえ抑えてれば自分は大体泣けるっていうポイントが抽出できたりする。物語全体じゃなくって特定の要素があれば人間は勝手に想像できちゃうし、人からもらうより自分で作った方が味付けも変えられておいしいのは料理と一緒。でもそうやってツボを探していくと、面白いことに、その自分だけのツボって実は他の人も泣かせてしまったりする。自分のためだけに作ったものが何故か他の誰かまで撃ち抜いてしまったりする。
究極的に個人的なものは、実は最大限に普遍的でもあるんだ。その普遍性だけを切り取って残そうとする挑戦が、詩歌を作る苦しみであり楽しみなのだと、わたしは思う。
あとは渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』って新書がすげーオススメなので一読されたし。自分も詩歌詳しくないけど、わからないなりに楽しくなるよ!
すてきな紹介記事→ http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130531/1369926781
自分の文章読み返したら「ツボ」の例を泣ける笑えるに限定しすぎたのが失敗だった。「泣ける」が分かりやすい例だっただけで“面白い”のツボって千差万別だからね。
でも自分なりのツボはすべての書き手が持ってるだろうし、それを分かってくれる人も必ずいるんだよ、なぜか。・・・いや、よき受け手と出会えるかどうか、そもそも作り手がそのツボを自分の表現で押さえることができるかどうかは別として。
青木淳悟でも木下古栗でも岡田利規や小笠原鳥類や橘上でも誰でもいいんだけど、たとえ共感を得やすいツボに反感を持ってたとしても、その人には別のツボがあるし、人間の表現である限り普遍性を完全に排することもできない・・・とわたしは思う。
だってすべての表現はコミュニケーションだから。読者としての自分自身とすらコミュニケーションしない表現なんて、ヘンリー・ダーガーでも無理なんじゃない?
わーいやったー! ありがとうございます、せっかくなのでその先の本もいちおう置いときますね!
入り口としては『今を~』がすばらしいけれど、もしそれで現代詩自体に興味がわいたら新書館から刊行されてる『現代詩の鑑賞101』がとってもいいです。やさしい解説つきで101篇も読めばだれか一人くらいは推し詩人も見つかりそうでしょう? つまんないのはどんどん飛ばそう。
歴史の流れが知りたければ野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』がなかなか手っ取り早いけど、ごめんなさい、なんかスノッブくさくて個人的にはちょっと・・・。
もっと深く勉強したい人は現代詩手帖の特集版『戦後60年“詩と批評”総展望』などをどうぞ。谷川俊太郎が「やっぱ売れ専をバカにしないで売れる詩をちゃんと作んなきゃダメだろ、ジャック・プレヴェール見習えよおまえら」とか言っててわろた。
ちなみにわたしの推しは入沢康夫と渋沢孝輔です。入沢翁、ツイッターはじめててびっくりした。俳句や短歌の話は、ごめんなさいぜんぜん分かりません。だれかオススメおしえて。
https://www.youtube.com/embed/QICTjFU7-KY
豊中市の国有地売却問題についての質疑。異例な契約内容に周辺地域でどんな懸念が出ているかを中心に話しています。
20170223_木下智彦_日本維新の会_衆議院_予算委員会_分科会
カリキュラムに問題があるのであれば、それは別個に論じるべき。
→その通りである。
総理大臣夫人が名誉校長を務めるに値する小学校が設立されるのかどうか、
しっかりと検証してほしい。
■森友学園には国が知恵を絞ってとにかく売却できる、買ってもらえる方法を編み出している一方、
同じ土地を購入しようとした大阪音大にはそのような提案はしなかった、と指摘。
地域の活性化のためには大阪音大にこそ、そのような知恵を絞ってほしかった、とも。
→私のような浅はかな人間は、すぐに
「では、なぜ森友学園にのみなぜそのような特別な(しかし法的には問題がない)方法が編み出されたのか?」
怪しい、という印象だけで声高に「追求」を行いはしない冷静な態度が素晴らしい。
大阪音大にはなされなかった行為が、森友学園にはなされていたという事実を明らかにした木下議員の功績は大きい。
ぜひ、このまま「なぜ、地域活性化につながるより広く充実した大阪音大という存在を、地元は得られなかったのか」について、
原因の究明を行なって頂きたい。
去年の夏頃、大学時代の友達に「SHIROBAKOめっちゃ面白いわ! 見てみ!」と言われた。
いつもだったら「後で見てみるわ」と言ってお茶を濁すんだけど、その時は本当に何となく気が向いたので見ることに。
就活面倒でダラダラしてたらいつの間にか実家でニートしてた俺にとってSHIROBAKOは輝かしい世界であり、
人に合わず毎日親の作った飯を食べて惰眠をむさぼる生活を続けてきて初めて「俺も働いてみたい」と思わせた。
多忙でかったるい日々が待ってた。俺は一ヶ月もしないうちに辞めた。
そのうちまた大学時代の友達が「花咲くいろは面白いで!見てみ!」と。
この時も何となく見ることに、多分前回のSHIROBAKOが凄い面白かったのからだと思う。
いざ見てみて「ああ、こいつ俺を働かせたいんだろうな」と。
2回連続で働く系の話が来たらそう思うって。
また働いてみたいと影響されたが、前回のコンビニバイトを通じて「どうせ働いても面白くはない」と思った。
だから今度は違う働き方をしようと思って、妄想を膨らませてることに。
その結果、SHIROBAKOのように何かを制作する職業が良いなー、と。
しかし、アニメ業界はやばいって話を嫌になるほど聞いていたので「じゃあ茶沢先生ポジションになればいいじゃん」と短絡思考。
それで何となく書いた作品を新人賞に投稿した。凄いハードだったが資料集めたり、キャラクターがどう動くのかとか考えるのは楽しかった、物語の作り方はSHIROBAKOに登場する木下監督の真似。
結果は2次落ち。
凄いショックで3日ぐらい寝込んだ。人生の中であれだけ思いを込めて過ごした日々はなく、他の作品に負けたことに悔しかった。
それからは次こそはと思って、地力をつけるべく短編小説を作って修行。
ネット上には酔狂な奴も多く、評価を依頼する場所には困らなかった。
結局のところ結果だけ見れば俺はまだニートだけど、昔とは比べ物にならないぐらい毎日が充実してる。
何のために生きてるんだか分からない日々から脱却させてくれたSHIROBAKOと花咲くいろはには感謝してもしきれない。
親のすねかじりながらラノベ書いて人生充実! 何て普通の人からすれば「馬鹿にしてんのか!」って感じだろうけど穀潰しニートの俺からしたらすごい進歩だと勝手に思ってる。
現状に不満もあるみたいだけどたまに創作論的な本を買ってきてくれるから応援してくれてるんじゃないかな。
書き始めた当時は友人らに「影響されただけ」と「お前じゃ無理だやめとけ」しか言われなかったけど今は諦めたのか何も言わない。
多分俺は世の中大半の人間からすれば負け組に分けられるだろうけど、個人的には幸せだし現状に満足してる。
何かに影響されて始めた当初は何故か馬鹿にされるけど、長く続けりゃ何も言われなくなる。
御法度で中3のときに衆道映画で激烈デビューした松田龍平が狂わせた男たちをリスト化する。
親父と口論してたらブチ切れた兄龍平に親父を殺される。そして強くたくましく生きていたが畜生だったため兄に殺される。
転生し今度は純朴な人になるが、優しく面倒みてくれた龍平が死に、狂った後人殺しになる。
その後転生し、過去に指をちょんぎってしまったことを龍平に脅され、居候され、なんだかんだでブチ切れて人を殺しかける。
指摘からの追記
炎上アフィは目立つので解りやすく、手馴れているとプロだと勘違いしやすい。
解説ができるような釣りは「素人」の仕事であり、それ故に大量参入が予想される。
だからこそ、「荒らしに関わるのもまた荒らし」という規律が重要になる。
これはプロの仕事であり、「ゆるふわ炎上アフィ」もしくは「おバカ詐欺」とでも呼ぶべき新ジャンルの釣り師が、互助会・メディアクリエイターに続いて、はてなブログに爆誕したようだ。
「天然」に対して、狙っていることを「プロ」と呼んでいるのだろうが、
レッテルは貼り方を間違えると間違ったミームとして泳ぎだして意味付けが変わっていく。
正確に言えば既に汎化された手法であり、稼げなくなったから広まりだしただけだ。
2013年にはてなブログが一般オープンして、目ざとい連中が試しに使ってみてからおおよそ1年。
以来、はてなブログは検索流入の狙える美味しいブログプラットフォームとして使われてきた。
主にGoogleがスパムを避けるのにSNS方面に力を入れていることもあるんだろうが、
平たく言えば、実際に人が読みに来るサイトが検索結果に上がるようになってる。
はてなブログのPVにはおおよそ5種類あって、これが他に無い美味しさの源泉になってる。
1,2はTwitterやGoogleで、他所でも変わらない。
問題は、3のはてブにさらされると、1,2の検索からが増えるようになる。
解りやすく言えば、SNSからのリンクが太くなると、サイトのポイントが上がると思えば良い。
これは、「はてなブログを書く人同士が読み合いやすくなる」読者という仕組みや、
週刊はてなブログや新着やブログのお題といった仕掛けが、PVを増やしている。
閑話休題。
要は、2,3回、数百程度ブコメが付けば、検索流入がどっと増える。
「ある人にとって価値のあるページ」は、世の中にはたくさんある。
つまり、ほんのチョット下駄を履けば頭一つ抜けることが出来るということだ。
上っ面をなでたのが増えると、セミナーで誰か適当なこと言い出したなとすぐ判る。
アフィの基本はたったの2つ。
件のサイトも、「水素水」を売るためのサイトを作って、欲しがる相手に届くようにサイトのポイントを上げてるだけだ。
Googleで「水素水」を検索してみると良い。きっと2,3日の間は上の方に出るから。
ニューストピックにも上がってるように「見えるかもしれない」。
(実態は違うけど。本筋じゃないので省略)
例えば、「テレビで単語が流れると、それ関連の検索流入がどっと増える」
この文章は嘘ではないけど、「世界一受けたい授業」と「水素水」というワードを入れてブログを書けば良いかというと違う。
なんだが、多分そういう伝え方をしてるセミナーが結構あって、ゴミサイト量産の一歩手前の状況にある。
アフィとしては素人の仕事なんだが、素人ほど熱心に力を入れてゴミを増やす。
儲からないのは努力が足りないからの人はどこにでもすごい数いる。
例えば、木下 是雄の「理科系の作文技術」は名著だが、Amazonで1000冊売っても報酬は2万円だ。
だから、漫画や本を紹介するブログをアフィアフィ言って叩いてもあんまり意味は無い。
どうせ儲からないことをしてるブログなのだし、無視するかそこから本を買えば良い。
はてな村に今求められているのは、正しくマサカリを投げることだ。
「アフィアフィウザい」とか「カネカネウザい」とか「互助会は村(?)へ帰れ」とかじゃない。
(一応言っとくが、メタブにしても意味ないぞ。ちゃんと検索経由で流入増えるから)
うっすいランキングが上がってきた時に「うっすいな」って言うのは荒らし。
何がどう薄く、ランキングの何をどうすべきなのかをキッチリマジレスするのがマサカリだろう。
半端に煽ったり叩いたりするのをマサカリだと思ってるのは本当に嘆かわしい。
とか書くと、最近は「じゃあお前の思ってるマサカリはなんなの?」みたいなコメントが付くのが
小鳥の雛みたいに口を開けて待っていて餌が入らないのが悪いって風潮で良くないと思うのだが、
要は、この差だよ。
批判になってない荒らし→はてなブックマーク - 取材に対してウソをつく組織「Yahoo! JAPAN」が信頼と品質など担保できるわけがない(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュース
マジレス→相手をウソつき呼ばわりする前に、本当のジャーナリストならやるべきことがあるのでは?(徳力基彦) - 個人 - Yahoo!ニュース
必要なのはマサカリを投げることであって、うんこ投げ合うことじゃないから。
ちゃんと高知のトマトの人みたいな触り方できるんだから、そういう風にしてくれ。
これ読んで思ったんですけどね。
この人の同僚が「俺だって鬱病言って家でぬくぬくしたいわっ」と言った時、俺がその場にいたら拍手してただろうな。
この人に突撃してアカウント凍結に追い込んだ「自称心の優しい病人(笑)」の奴らはマジで糞だわ。
あれって身動き取れないぐらいガチの病人と、ただ甘えて怠けてるだけの自己憐憫野郎が混在しているから、平行線のままだと思うんだよね。
まぁ論争なんて大体そんなもんだけどさ。
そして、「何も悪いことはしてないのに鬱になってしまった人」には配慮してあげるべきだし、じっくり休んで治療してほしいと思う。
きちんと歩道を歩いていたのに交通事故に遭って半身不随になったようなもんだ。
気の毒だわ。
ただ、単なる怠けとか不摂生がこじれて鬱になった奴には同情しない。
というか、かなり見下している。
こいつらは馬鹿以下だろ。
俺が勤めている職場にも鬱病の奴がいるんだよ(同じ職場といっても別会社だし、職種も違うが)。
一緒に仕事をしていると、こいつがクビになってきた理由がよくわかる。
まず、ロクに返事をしない。
こちらが用件を伝えているのにちっちゃい声で「ふぁん」って言うんだぜ?
なんだよ「ふぁん」って。
それ返事なの?何語?それともオリジナル擬音?もしかして「はい」のつもり?
施設警備の仕事なんて、こういっちゃ悪いけど「受付と巡回と点検と報告」ぐらいのもんなんだよ。
誰でもできる。
木下の仕事ぶりは、ま~びっくりするぐらいミスが多いし、ミスした後も言い訳してごまかすんだよ。
と言ってる小学生と変わらんわ。
救いようがないことに、木下は自分じゃ何にもできないくせに、他人に対して態度が横柄なんだよ。
「アイツら仕事おせーっすよねwww使えねーなぁwww」
と言って俺に同意を求めてきたり。
お偉いさんが来た時は、さりげなく後ろに回ってカンチョーポーズしたり。
落し物を受け取りに来た人に
「アンタ、ぼーっとしてるから物落とすんだよ。気をつけなよ」
と偉そうに注意したり。
と誰も意見求めていないのに地域差別しはじめたり(ちなみにその場には名古屋出身の人がいた、木下は気がついてなかったようだが)。
年上と喋ってるとき基本的にタメ語混じりだし、どうしようもねぇわ。
木下のミスを俺達がフォロー(別会社なのに・・・)した時なんか、特に最悪だったな。
普通は「私のせいで仕事を増やしてしまい、申し訳ありません」とか言うじゃん?
「みなさん、働き者ですねぇ(しみじみ)」
だとよ。
こちとらお前の尻拭いしてやってんだよ、このボケが!
で、そんな出来事が積もり積もって、木下の上司である警備隊長がとうとうブチ切れた。
隊長のほうが三才も年下だから、普段はある程度加減した説教してるんだけど、その時ばかりはマジで殺す勢いで怒ってたな。
勤務態度も人格もそれまでの生き方も将来も何もかも否定していた。
まぁそりゃそうだ、糞の役にも立たないどころか、他会社の俺たちにまで迷惑かけてんだから、徹底的に怒らないと示しがつかない。
さすがのアホ木下もこたえたらしく、下を向き、両拳を握り、真っ赤な顔をして、小刻みにプルプル震えていた。
そして一言こう漏らしたんだ。
「俺、うつ病なんですよ」
衝撃の告白の後、木下は隊長に反論した。奴の言い分はこんな感じ。(⇒は俺の心の中の反論)
『木下の主張1』
自分は基本的な業務と言葉遣いはできているからそこまで怒られる筋合いは無い。
⇒実際はできていない。
『木下の主張2』
某警備会社は残業月100時間超えが当たり前のブラック企業だから、こきつかわれて寝不足でフラフラしている。だからミスするのは仕方ない。
⇒たしかに某社は糞ブラックだが、お前は残業時間が無い研修中の時からミスしてただろ。態度が横柄なのは残業関係ないし。他の社員はこなせているんだから木下だけできないのはおかしい。そもそも防犯の仕事でミスは許されない。能力的に無理なら辞めるしかない。誰もこいつに続けてほしいと思ってないし、辞表を出せば代わりの人間が派遣されるからすぐにやめられる。
『木下の主張3』
鬱病になったのは違法レベルの残業と、隊長のパワハラのせいだ。あと高血圧も会社のせいだ。
⇒その会社を選んだのはお前自身だし、注意されてるのもお前が無能だからだろ。そもそも周りの人間がどれだけお前に耐えているのかわかってんのか?なんで被害者面してんだ?残業が嫌ならとっととやめろ。そもそも警備の仕事は精神病の人間がやっちゃいけないという法律あるだろ。そして木下の血管よ、破裂しろ!
少しでも注意すると、自殺をほのめかしたり、これ見よがしに精神安定剤を飲むからだ。
ミスをカバーし続ける隊長は、それこそ鬱になるぐらい疲れを溜め込んでいった。
それからしばらく日々は過ぎ、奴のそんな態度を見るに見かねた俺は
「木下さん、お仕事辛いんでしたら、うちの会社に転職されたらどうですか?うちの会社は残業もありませんし、いくつか資格を取れば入社は容易ですよ」
と木下に言った。
隊長も「よくぞ言ってくれた」という顔で俺を見た。
俺はマッドマックス怒りのデスロードのあのシーンのように、隊長に親指を立てた。
ところが木下は
「いや、俺は鬱だし、資格勉強とかできないんすよ。今、欝で記憶力が低下してるから学習障害だし。そもそも鬱だから何かやろうという気にならないんすよ。転職どころか会社やめるのも無理。ホントにしんどいんすよ、まぁ健常者にはわからないでしょうけど、ふぁん」
と言ったのだ。
は?
「鬱だから何もできないけど、ゲームやったりアニメ見たりすることはできる」、こんなこと言ってる自称鬱の甘ったれはネットにも掃いて捨てるほどいるよな。
奴が言うには、鬱で飯を作るのも面倒だからチキンラーメンとかジャンクフードしか食べる気がしないのだという。
おいおい、インスタント食品はどう考えても体と脳に悪いだろ。
インスタント食品みたいに手軽に食える健康食品だってあるだろ。
なんでそういうの食わないでチキンラーメンなの?
例え俺が日清の社員だったとしても、お前にチキンラーメン食われたら腹立つわ、ボケ!
というわけでもうお気づきでしょうが、木下は「鬱」を免罪符にしているだけなんですよ。
無能な自分を正当化するために「鬱」を振りかざしているんです。
奴にとって鬱とは水戸黄門の印籠なのです。
木下の頭の中の木下像は、「心が優しくて繊細、限界ギリギリまでがんばる真面目で責任感が強い人間」なのでしょう。
実際はただの「せんとくん」だけどな。
まぁ奴から見た他の人間は「鬱を甘えだと思ってる偏見厨」といった感じですか。
「うつは甘えではなく、病気なんだ。感受性豊かな心の優しい人間がかかる病気なんだ!」
とか言って元気にレスバトルしてるわけだ。
ちゃんとした人間だったら、もし自分が窮地に立たされた場合、最低限の努力をすると思うんです。
仕事でミスをしたら素直に謝って次から同じミスをしないようにするし、他人から信頼されてなければ態度を改めて誠意を見せるし、仕事がきつすぎたり向いてないと思ったら病気になる前に辞めるようにするし、転職したいと思ったら資格勉強したり職業訓練受けたりするし、血圧とか尿に異常が出たら食事に気をつけたりする。
俺だって糞みたいな能力しかもってないが、そういう最低限の努力ぐらいはするよ。
そういった努力をなんもせず、人のせいにして甘ったれて生きてきた奴が鬱病になり、今度は鬱を理由に甘え始めるわけです。
そんなにかわいそうだと思われたいのか?
馬鹿丸出しだな!
えーと、長々と書いてしまいましたが、冒頭に戻りまして。
おそらく、会社を休んだ人は木下みたいな奴だったんじゃないかな。
あーそうそう、木下の近況ですが、あいつ最近ますます鬱が悪化したようで、青ざめた顔でいつもうつむいてますよ。
もう言い訳する気力もないみたい。
まぁそろそろアレするんでしょうね。ハハハ。
私の考えでは日本の学校における作文教育は文学に偏向している。
遠足についての作文は「どこに行って何をし、何を見たか」をどれほど正確に、簡潔に書けているかではなく、
書いた子供の、またはその仲間の心情の動きがどれだけ生き生きと描かれているかによって評価される。
<<中略>>
こういう作文教育もあって良いと思う。しかし私はその他に、正確に情報を伝え、筋道を立てて意見を述べる事を目的とする
作文の教育——つまり仕事の文書の文章表現の基礎となる教育——に学校がもっと力を入れるようにならなければならないと考える。
<<中略>>
実はこの種の作文教育は、欧米諸国は小学校段階から始まり、コミュニケーションの道具としての言葉の使い方を教える
米国で小学校用に編集された Patterns of Language (A~H) という8冊の言語技術の教科書がある。
10年程前、その中の一冊(E, 小学5年生用)を手にした私は、たまたま開いたページに
という二つの文がならび、その下に
と尋ねてあるのを見て衝撃を受けた。
その後に調べてみると、事実と意見の区別は米国の言語技術教育では繰り返して登場するもののようである。
Patterns of Language のD、小学4年用の巻には次の形ででている。
次に書いている事をお読みなさい。
どちらが事実の記述ですか。 事実とは何でしょう。事実と意見はどう違いますか。
事実と意見の例をあげてごらんなさい。次に書いてあるのはどれが事実でどれが意見ですか。
この種の見解、例えば1と5は問題を起こすことがあります。なぜでしょう。・・・
そして、このページのわきには