はてなキーワード: 教育学とは
横かもしれないが、大元の増田が教えたアホの子が急伸したのは、分からないなりに耳を通り過ぎていた学校の授業から得た断片の蓄積が、増田の与えたきっかけによって繋がって意味を持つ情報になったからなんじゃないかなーと思った。
なので、集団での教育vs少人数教育、ではなくて、集団座学+少人数制のフォローアップ体制、というのが、最近の公教育のトレンドかなと思っていた。このへんは教育学やってる増田が出てきてくれたら嬉しい。
今話題の前川前文科省次官は、たしかクビになったあと、落ちこぼれの子のフォローアップ塾みたいなことをやってるNPOに、素性を明かさずにボランティア申し込んだけど結局職員にばれてしまった、みたいな話をラジオで聞いたことがあって、文科省的にもそういうフォローアップの必要性には着目してたのかなーと思っていた。
なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。
まあ私の文章に煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。
あくまで自分の見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本の学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。
これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初の増田(anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本の外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。
理系では著書でオリジナルな発見や研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。
文系では違うのか。正直文系のガチの研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文の出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論の双方向性等に問題がないのだろうか?新規の研究成果なら第三者の査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学の証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。
そこからか。何のために研究雑誌にBook Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャーな学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評に査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分のオリジナリティについても言及するよな。
あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html(適当なUniversity PressのHPを開いて適当な新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。
駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりにマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合は学術雑誌の書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣な書評も見かける)、まともな研究書なら議論の典拠は明示してあるんだから議論の双方向性に問題はないでしょ。
三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いからタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究書であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学の一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者だけが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断したらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます。学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。
何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティが希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメだから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募で採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田の批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくまで形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女は学術業績としてカウントされるべき本を書いていますとしか言いようがない。
一般論からすると著書はオリジナルな研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。
「著書はオリジナルな研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナルの研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初の増田(anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナルの研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナルな研究を書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナルな研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。
後段、著書はオリジナルの学術業績とはみなされないという理系のローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャーな文系の研究分野ではだいたい研究書はオリジナルな研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナルな研究業績です)、文系からするとその常識が通用しない方が非常識ですよ。理系のローカルルールを勝手に学術界の一般ルールに敷衍するのやめてもらえます?
院生だろうが単著で論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授が論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系の慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者は自分の学生の論文に名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップは批判されるべきだけど、理系では自分が指導してる学生の論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。
その上で現在日本語の地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語の地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文を日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米の研究者が読まなければ学問の進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュアの研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学の研究者はプロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒としか言えない。
将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語、フランス語の凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米の科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中の学者のためになるし日本人が世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏の研究が中心だという知識は増田にもあって、反米主義だったり日本の世界覇権を夢見ていたりといった特殊な思想的背景があるわけでもない研究者が英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究の先進性の不足の誹りを免れないであろう。
これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系の研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語と英語以外の言語で書かれた日本学の論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人はポーランド語で日本学の論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人の外国研究者がその国の言葉で日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本のアカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与しポーランドのアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人の日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから。翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドのアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。
当たり前だけど西洋古代史の論文が日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度と研究が先進的である/先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というものが存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋の猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本のアカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。
で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージが貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版会から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本の研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。
根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語が英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たちの言語で研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語が大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたから英語や日本語にフランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。
私はここまで書いてきたような理由で日本語で論文を書くのも重要な営為だと思う(加えて、執筆言語が自国語であることは東アジアや欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本のアカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語の問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかわからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。
(一度思う所があって昨日消しましたが、また思う所があって再び投稿しました。ごめんなさい。)
あなたはとても優しくて頼りがいのある人だったよ。
大学の福祉ボランティアの児童館グループで、初めて会ったんだよね。幼児教育学科以外の人も取れる科目だったからかな、楽単狙いの人がほとんどで・・・・・・でも、あなたは図書館で関連する本を1人で読み込んでいたよね。所詮学生の付け焼き刃、と言う人もいるけど、1回きりのことに真剣に取り組んでいる姿には、はっとさせられたよ。
実際の実習でもあなたは、積極的に参加していて、子供の缶ジュースがズボンにこぼれた時も、なんでもないように笑って許していたよね。ロリコンだとか冷やかす人もいたけれど、私にはもっと何か大切なもののように感じられたんだ。
告白したときのことは、とても緊張してて今でもよく思い出せないけど、それから、お付き合いして色々なところに行ったよね。
春にはお店の窓越しにお花見をしたし、6月にはホタルも見に行ったけ。実際にホタルを直接見たのは、初めてで新鮮で「こんな世界があるんだ!」ってちょっと大げさに思えるかもしれないけど、そう思ったよ。夏には海に行ったよね。一番最初の彼氏のときには、夏まで付き合いが持たなかったから、男の人と2人で行く海は初めてで、ビキニを選ぶのにとても苦労したんだ。「大胆すぎるかな」と何度も友達と相談して、ちょっとお金を奮発したりして。海であなたに「かわいい」って言われた時には、とってもとっても嬉しかった。秋には読書の秋ということもあったし、あなたが図書館好きだったのもあって、随分と大きい図書館にも行ったよね。図書館なんて学校図書館しか行ったことがない私には、最近の図書館は綺麗で、カフェもあって・・・・・・びっくりしちゃったな。帰りには、レストランでお月見もできたね。
冬には・・・・・・と書き出そうとしたけど、涙が止まらないよ。
その1年だけではなくて、それからも私の世界を広く、豊かにしてくれたね。なんだか両親よりも信頼できちゃって、もうすっかり家族という気までして、うっかり「結婚楽しみだね」ってLINE送っちゃったんだ。
「結婚する気はないよ」って返信が来て、正直何が起きたのかわからなかった。
その後、私に詳しく説明してくれたよね。
・処女に比べて浮気確率は、婚前経験人数1-3人で4倍。4人以上で8.5倍。(加藤司 『離婚の心理学』)
・それに加えて、自己コントロール能力(自我消耗)が低く、結婚生活を運用する技術も持っていないし、そういった事態を改善させる努力もない。
・「知らなかったから」では、結婚には向かない。結婚に限らず人生はイベントや式典ごとに「お知らせ」や「チュートリアル」が提供されるものではない。
あなたが私の友達から過去の交際歴を聞いていたのを知らず、つい焦って「私は処女だよ」って返信して、墓穴も掘った。「大切な場面で嘘を言う人は、信頼できない」って返ってきた。
最後に確かこう言ってたね。
「あなたは結婚の適性はないけど、結婚願望はある。かわいそうな人。だから、私が破綻させておいた。これでもう、あなたは私を原因にすることで、結婚を諦めることができるんだよ」
それは違うよ。
私は見る目がなくて、軽率で、嘘つきで、すぐ不安になってスマホをいじる根性なしで、相手が何かしてくれて当たり前だと思って、その癖自分からは何もしない、他人の足を引っ張ることしかできない、生きていく適性のない人間だと気がついたから、結婚を諦めることができるんだよ。
チェーンの学習塾。
人が足りないのでF欄から東大までピンキリ。原則として生徒は先生を選ぶことができず、教室長が日程と相性を見て決めていく。
イケメンの元気がいい男子大学生はカーストが上の方の女子が多く、オタクぽい男子大学生は女子生徒をなるべく担当させない印象。
学力が低い生徒が多いこともあり、塾のマニュアルがあれば一応は教えることはできるらしいけど、中学生の古文や国語の文法、英語の関係代名詞なんかだと、きちんと理解してない学生バイトも多い。それでも、自信満々に国語や英語を受け持つ。
下手すると生徒のほうが頭いいかもしれない。「サインコサインタンジェント」を「シンコスタン」、「アイランド」を「アイスランド」と読む学生もいた。
それなのに、生徒の成績がのびると、名講師扱い。(勉強の習慣がない低学歴層の生徒が多いので少しやれば伸びる)
保護者が可哀想だなって思い、詐欺に協力してるようで苦しくて、1年くらい勤めてバイトを辞めた。当時、自分は教育大学で教育学を学んでいる立場だったけど、親になった時に塾選びは気をつけようと思った。
加藤秀俊(社会学者):社会学はインチキで大学では不要ではないか。
ttps://twitter.com/hikaru_sth/status/645132749817319424
最近、某(自称)社会学者がテレビで差別発言をしたとか話題になっているが、あれは社会学者とはいえない。
少なくとも私は、デュルケームとウェーバー以外の「社会学者」から学問的に重要なことを学んだ記憶がない。
http://agora-web.jp/archives/1665734.html
「社会学者」が奨学金や学費について不満を述べるほど、奨学金を拡充したり学費を下げたりすることへの
支持が下がっていくとしか思えないので、黙ってた方がいいよね。
学生がああいう人たちの講義を受けたり、彼らに給与を払うために税金を投入したいと思う人いないでしょ。
ttps://twitter.com/rionaoki/status/698348305382658048
学生支援機構の奨学金に対する批判の相当部分は、同機構のウエブサイトすら見ていないレベルのものなのだが、
まともな同業者がそのレベルの議論を相手にするインセンティブは小さいかもしれん。
ttps://twitter.com/mana613/status/697763623633035265
日本の社会学者は3600人、世界の10パーセントと推測されるが、
研究の重要性の指標とされる引用率(ほかの論文で研究が引用される率)は1%をはるかに割っているという。
http://japan-indepth.jp/?p=30462
1. 社会学 2. 芸術系 3. 教育学 4. 神学 5. 観光 6. 栄養学 7. 心理学 8. コミュニケーション
http://www.professorshouse.com/the-most-useless-college-degrees/
ボランティアでゲイカップルの子供を産んでる女性なら、子供と良好な関係を築けているでしょ。
少なくとも子供に「幸せに育ってほしい」という気持ちがあって生命をかけて子供を生むわけだから。
どうも同性カップルに子供をもたせたくない論者は「生まれても社会的不適合になるから不幸になる」説をどうしても押し通したいようだけど、
世の偉人のほとんどは幼少期に何らかの社会的否定は経験してるんで。
それより大切なのは両親からの肯定感であるなんてちょっと教育学を学んだ人なら誰でも知ってるのに、なんで「ゲイカップルはヘテロカップルのような愛情は注げない」という前提を担ぎ出すのかね。
The Most Useless College Degrees – Sociology, Psychology and the Arts
http://www.professorshouse.com/the-most-useless-college-degrees/
The Top 8, most worthless college degrees based on earnable lifetime income are as follows:
1 社会学
Sociology.Based on a poor return of investment, and with the market flooded with so many people seeking sociology degrees to do a white variety of jobs, this degree can make you virtually un-hirable. And the average income rests around $32,000 per year.
2 芸術
Fine arts. No matter how much the arts are revered, unless you can put your art to work for you – chances are it won’t pay off in the end.
3 教育学
Education. Nearly 2 out of every 3 degrees earned in 2010, according to Fox news was an education-based degree. This means the market if flooded with people hoping to engage in the world’s noblest profession. Worse, teachers pay is not that great. On the flip side, if family in the future is important to you – then teaching can be a great job where you can still remain with your family.
以下 リンク先にて
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https://twitter.com/noiehoie/status/835788749896232960
塚本幼稚園の運動会や音楽会は、保護者による撮影は厳禁。だから保護者は持ってない。その代わり、園が作成したDVDを3万円ぐらいで売りつける。普通の幼稚園と違うんやて。
保護者は撮影禁止じゃないし、行事のDVDが3,500円だったって反論してるツィートみて気になった。
塚本幼稚園自体は真っ黒なんだろうけど、「行事のDVD3万円」のソースって、ノイホイがハーバービジネスオンラインに上げてる文章しかない。
んで、その記事も
とか書かれてて「それ卒業アルバムか?」と。
いやもちろん、3万円の卒業アルバムは高額だよ。
ちょっと幼稚園の卒業アルバムのググると、6,000円ぐらいで高いって書き込み、1万超えの書き込み。3万はもれなく法外。
なんか真偽不明感あるなあ。
運動会のみ撮影禁止でその動画の入った卒アルのみ強制購入・3万円っていうのと、色んな行事が撮影禁止かつ強制購入でDVD3万円って話は微妙な違いではあるが、どうも反応を集まるために盛った感があって嫌なんだよな。
noiehoie on tumblr • サヨクって本当にダメだなぁと思った件。
この件、是々非々を許さないカルト的怖さがあるんだが、分からん人には分からん。
教育勅語の件、「園児が教育勅語」ってバカにしてるが、この事件ってほっといたら 幼稚園→小学校→中学校〜と進む話だったんだぞ。
そうすると、カルトお墨付きの進学コースで人の上に立つ人材には、教育勅語を教義としてたたき込んでおかなければならないという意図が読み取れる。
【戦前教育を幼児に強制する塚本幼稚園】教育勅語の犯罪性について考える。 – お役立ち情報の杜(もり)
ちなみに御真影は、戦前の宗教弾圧では神道と毛ほども関係ないキリスト教会・仏寺に御真影が祀られ礼拝されていたわけだが、これは上の件と合わせると
それはそれとして、塚本幼稚園が
1. 紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(同、天皇誕生日)などの祝祭日に、校長、教員、児童は学校に集まり、儀式を行わなければならない(以下、式次第)。
2. 式場中央に奉掲した天皇皇后のお写真の覆いを撤する。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。お写真を拝戴していない学校では、宮城遥拝を行う。
3. 国歌を歌う。
4. 校長が「教育勅語」を奉読する。参列者は奉読開始とともに上体を前に傾けて拝聴し、奉読終了後に敬礼してもとの姿勢に復する。
5. 校長が訓話を行う。
のような扱いをしていないから、たんなる戦後二次創作と嗤っていいものだろうか?ちょっと軽すぎない?
「皇室グラビア」と「御真影」 : 戦前期新聞雑誌における皇室写真の通時的分析 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192611/1/kjs_009_093.pdf
に目を通せば、そんな単純な物ではないと思うよ。
イギリスのタイムズより取材を受けました。|新着情報|塚本幼稚園幼児教育学園
笑顔で丁寧な先生、2~5歳の制服を来た子供達は、他の幼稚園と同様愛らしい。しばらくした後、園児たちの“おじぎ”をする光景に気付く。それはお互いにするのではなく、壁の写真に対してである。
子供の頃、”男の子が泣くなんて女々しい””女の子なんだからもう少しお淑やかにしなさい”簡単に言うとこういうことが問題らしい
同じ人間なのに性別で色々分けるのはジェンダー問題だと言っていた。
学校で男を君、女をちゃんで呼ぶのも問題らしく一律さんじゃないとダメらしい。
ソースはわからないけど、日本人は小学校中学校の生徒会長は男にやって欲しい人が多いらしいそして副会長は女にやって欲しい人が多いらしい
これもジェンダー問題で学校教育が男はこうあるべきで女はこうあるべきという思想を教育しているらしい。だから問題だと。
日本の国会議員の女性の数は世界の190ある国の中で161位と言われた、これも問題らしい
大学の教授の数も70%が男らしい、これも問題らしく大学はジェンダーに非常に過敏になってるから女性の教授を増やしてる最中だとか
そして同じ能力なのに女性だからといって管理職に無理矢理挙げられたりするのもジェンダーの問題らしい
欧米諸国はジェンダーが凄い進んでいて女性の社会進出もめまぐるしいらしい。特にスウェーデンについて語ってた。
そして講師も、旦那と結婚したかったが名字が変わるのが嫌だ、変わったら今までの私は何だったの?と思いずっと籍をいれてなかったらしい。
しかし両親、義両親からのお願いで数年前に籍を入れたらしい。そして大学は旧姓を名乗ることを認めてくれたらしい。
夫婦別姓ってのは別にいいと思うけど名字が変わったくらいでそんな今までの人生否定されるような事ではないと思うんだけどな。
価値観は人それぞれだから難しい問題ではあるね、いずれは別性認められるだろうし。
覚えてるのはこれぐらいだった。
女性の社会進出については、女性だし結婚してやめて行ったり子供産んだりとかあるだろうから
それを考えて採用しない現状はジェンダー問題だと思うけど、男だから、女だからって言うのは何が問題なんだろうか
社会進出についてのジェンダー問題に関してはそうなればいいねとは思うけど
O大学の哲学出身には結構ぴったり当てはまる(増田も?)。大学自体の校風(真面目で従順で偏差値はある程度あるけど社会であまり評価されていない)にプラスして、社会との接点に欠けているカリキュラム。社会全体がどういう風に動いているのかを考える発想がないということだと思う。個人的には進学者を減らして教員も減らしていいと思う。実際就職に困っているようだし。(哲学自体を否定はしていない、文系のいろいろな分野に間接的に貢献しているから。)ただ文系でも政治学、経済学、法学はもっと社会全体のことを考えているし、学際系やフィールドワークをするところも社会でもまれる。教育学も実践を重視するところが多いから、ある程度社会性のある人が多い。理系もひたすら研究室にこもって先生の推薦で就職するような所だと、社会の変化を理解していなくて、ひたすら先生に従順なだけで個人としての社会性も?な学生、教員がたくさんいるところもある。
小学校の円の面積の計算の問題でバズっているのを見かけたので便乗してみる。
初増田なのでなんかおかしなことがあったらごめんと先に誤っておく。
そして、わたしは計算が嫌いで物理と数学から逃げ続けた生物系研究者で、特に円周率に対して深い知識があるわけではないことも付け加えておく。
簡単に経緯を説明する。
「半径11センチの円の面積を円周率を3.14として計算した時の答えは、11*11*3.14=379.94は厳密には誤りで、
有効数字3桁で380の方が正しいのではないか?」
(ちなみに、半径11の円の面積を5桁の有効数字で表すと、正確には380.13である。)
円周率3.14は、実際には3.141592…という割り切れない値を3桁で表した概数である。
有効数字3桁で算出された計算結果は、やはり有効数字3桁であるから、正しくは小数点以下一桁目の9を四捨五入して380が正しい。
なお、379.94と回答した場合は、実際の円の面積とは異なる値となる。これをあたかも真の円の面積のように誤解してしまう可能性があるので、
小学生に有効数字の概念を教えるのは難しいので、設問に「上から三桁の概数で答えなさい」と入れれば万事解決
設問に「円周率は3.14とする」と書いてあるので、「円周率は3.1400000…」を仮定して解けば良いのではないか
あるいは、もう円じゃなくて円周率3.14000のなんかの局面を仮定すれば良いのではないか。
そもそも3.14だろうが3.141592(以下略)だろうが大して結果は変わらない(0.19なんて誤差)。これくらいの誤差は無視していい。
なんで理系はこういう細かいことを指摘してドヤ顔しているのか。こういうことをするから小学生は算数を嫌いになる。
私自身は「379.94は誤り」派です。おそらく理系の人の多くはそうだと思いますが。
「379.94でいいじゃん」派の意見もざっとまとめてみましたが、もし足りない点等ありましたら後で追記するので
教えて下さい。
以下に、「379.94は誤り」という意見を支持する理由を書きます。
円周率はπです。いつの時代も、どの世界線でも、関孝和が計算しようがアルキメデスが計算しようがライプニッツが計算しようがオイラーが計算しようが
そろばんで計算しようがスパコンで計算しようが円周率は割り切れません。
アルキメデスは古代ギリシア時代にあって、おそらく円に内接、外接する正96角形の周の長さを求める式から既に円周率が3.14の概数で表せることを導いていました。
しかし、古代から円周率の計算に取り組んできた誰もが、円周率を割り切れる数として扱った人はいないのです。
人類が何百年もの時間をかけて漸く得ることに成功したこの円周率を、「あ。3.140000でいいっすね」とか、たかだか小学校教諭の分際で勝手に変えることはできないのです。
ぶっちゃけ、言語は変わっても、数字の意味は不変です。これは自然界の法則だからです。
仮定はあくまで仮定です。それを元にした結果が解になることはありえません。
例えば、私は生物学者なのですが、「STAP細胞があると仮定して」実験を行って得られた結論は、信用に足るものになるでしょうか?
答えはわかりきっていますよね。
ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です。
あと、比較として用いられていた「摩擦係数を0として」というのは仮定ではなくて想定です。地球上では作るのが困難ではありますが、
摩擦係数を0.00に近似できるくらいの環境なら作れるでしょ?その環境を想定してるんです。
それをあろうことかそのまま解にするなど、あってはならないことです。
結論から言うと、私は、小学生が「どれくらいの精度で円の面積を求められるか?」を、
誤解してしまうという点が、「円周率を3.14として有効桁数5桁まで求めてしまう」ことの
最大の欠点だと思うのです。
「んー、円周率3.14。半径11の円なら面積は121×3で363。
これよりちょっと大きいくらいだからまぁ、370くらいかなー?(正確には380です。)」
これくらいの精度で良い人間にとって、0.19(380.13と379.92の差)の違いなんて
もう誤差でしょ。そこに異論は無いのです。
しかし、小学生にとって、小数点以下二桁ってそりゃもうすごい精度ですよ。
半径の長さ11.0 cmと!魔法の数字円周率3.14さえ用いれば!
なんとなんと、数十平方マイクロメートル単位で円の面積が求まってしまう!
→実際には世の中そんなに甘くないわけですよ。
では次に、半径1111 cmの円の面積を円周率3.14で求めてみよう。
すごいですね~、どれだけ桁が増えても小数点以下二桁まで求まります。
ってんなわけあるか!!!!
1111*1111*3.141592654=3877733.79
これが正解。 ね?だいぶ違うでしょ?
でも、有効数字3けたなら、3880000。これならまぁだいたいこんくらいかーってのがわかる。
④−3で、「うわぁ、こいつめっちゃ細かいコト言ってるよ、これだから理系は。。。」
緑色の背景に、なんか動物っぽい白いものが写り込んでいますが、何の動物だかよくわかりません。
円周率3.14を使って半径11の円の面積を379.92と主張することは、この白い物体を「絶対馬だ!」って言っているようなものなんです。
有りもしないもの、本当にそうなのかよくわからないものを「絶対そうなんだから!私見たんだから!」と言っているどこかのOさんのようなものなのです。
私は最初、このツイート見た時、「まぁそんな細かいコト言わなくても。。。」
って思っていました。「379.94でいいじゃん」派的な考えだったわけですね。
その一番の理由は、
「3.14の次の値が1である」ということを知っているからです。
通常の概数だと、「概数で3.14」と言うのは、「3.135から3.144」までを想定してるんだけど、
まぁ大体3.14ってのはあってるんですよね。
でも、読んでいるうちに考えが変わりました。何故かと言うと、
「結構多くの人間が、円周率、有効数字の概念とその問題点を全く理解していない」
ことに気づいたからなんです。
挙句の果てには円周率を「3.140000」と「仮定」すればいいじゃん。
という人まで出てくる始末。
それでこの問題についてよくよく考えてみた結果、
「これはやっぱり、小学校であっても379.94を正解とするのはよくないな。。。」
と思ったんです。
このエントリーを読んでよくわからなかった人も、これだけは覚えていってください。
I. 数学とは、科学とは、世の中の真理を追求する学問であり、
人間に都合よく結果や値を変えることはできない。
πは3にも3.14にもならない。
II. 仮説は検証とセット。検証できない仮説を設定しては行けない。
仮説に基づいた結果を解にしてはいけない。
逆に役に立てるかと思い、書かせていただきました。
オモシロイと思って読んでいただければ幸いです。
こういう議論ができるのって、素敵ですよね。
たくさん反応があって驚きました。読んでくださった方々、ありがとうございます。
いろいろご指摘があり、自分自身勉強不足を痛感した点もありますが、
反論できるところは反論しようと思います。スター多めなブコメ中心に記していきます。
『ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です』ここが違う。勝手に行間を埋めるのは科学者たる態度ではない。
違わないです。なぜなら「円周率」と書いてあるからです。そして、小学生は、「円周率」が割り切れない数であることを知っているからです。
もし、「円周率を3.14として」というのが「円周率を3.14と(近似)して」という意味ではなかった場合、
勝手に人間様が円周率を3.14ぴったりであると定義しなおしていることになり、それこそ数学への冒涜です。
そうですね。この表記をさせるのは流石に難しいです。
私は、「4桁目を四捨五入して3桁の整数で答えなさい」と、問題文に入れるのが良いと思います。
円の面積を求める問題ではなく、「11*11*3.14を計算せよ」というなら答えは379.94です。
でも、円の面積の求め方は、残念ながら小学校の先生が定義を勝手に変えられるものではありません。
真実は、この場合はたったひとつで、小学校の先生のほうが間違っています。
一辺の長さ3.14 cmの長方形を想定することはできますが、円周率3.14ぴったりの円を想定することはできません。
なぜならそれは円では無いからです。
じゃぁ円じゃなくて周率3.14ぴったりの変な局面を求めよといえばいい、と思うかもですが、
なんで小学生がそんなわけわからんものの面積を求めなければいけないのでしょうか?
私は、小学校で扱う整数は純数学的には整数だと考えていたので、11.00000…を想定していました。
もちろん11が有効桁数二桁の概数なら、380の3桁目を四捨五入することになります。
九九で扱う数は整数ですので、純数学で表すと、2.0000*6.0000…=12.0000…です。
「仮定」の結果得られたものが「解」になることはありえない→僕の好きな背理法を否定しないで。 理系といいつつ知識不足。中学生から勉強し直すべき。
私も背理法大好き。もちろん背理法も考慮に入れたうえでこの文章を書いた。
背理法では、仮定の結果得られたものが矛盾する→だからこの仮定は間違っているというプロセスをたどる。
仮定の結果をそのまま解としていないことに注意してほしい。
ルート2が既約分数p/qだと仮定して、結果的にはpとqが共通の約数を持つことで矛盾を証明する。
私は、例えば、
このまま「(2n+1)*(2n+1)=4n^2+4n+1 なので、奇数の二乗は必ず奇数。つまり4^2=16は奇数である」
この場合、間違った仮定から間違った結果が導かれているのがわかると思う。4も16も2で割り切れる偶数だ。
スターは少なかったがこれについてはぐうの音も出ない。
公理と仮定について理解が足りなかった。正直すまん。でも、やっぱりπを3.1400000と仮定するのはダメだと思う。
なぜなら観測的にもありえない上に、後から検証もされないから。
ただ、有効桁数3桁で算出される結果に5桁を求めるのは無意味だし間違っているという主張です。
「3.14と仮定して」とあるんだから、「3.14」の次の桁など問題文中の世界には存在しない。「3.14000」なんてどこから出てきた?
「a=3.14と仮定して11*11*aの解を求めよ。」だったらこんな議論にならないのよ。
円周率だから、3.14ぴったりじゃだめなの。ちなみに、3.14の次の桁は、あなたの頭のなかには存在しなくても、この世界には存在するのだ。残念ながら。
半径11の円の面積は12100だと主張するのか? 私は、あまり自身が無いけど、間違っているのはあなたなんじゃないかと思うな。
でも、円周率が100の世界を仮定して検証するとしたら、それはそれで数学への扉を開いているのかも。
もちろんそう。問で聞かれているのは公式を覚えているかどうか?
だけど、3桁目までしか信頼できなくて、残りの桁は全部意味がないことを、おとなになっても理解できない人がたくさんいることが分かったので、
問題だなと思ったわけ。
実際求められるよりも遥かに細かい精度で円の面積が求まると誤解するのが恐ろしい。
実際、多くの人が半径11の円の面積は?って聞いたら379.94と答えると思う。間違ってるのに。
おわりー!
結論としては、「3桁の概数で表わせ」と問題文に付け加えるのが一番しっくり来る。
これを小学生のうちに叩き込んでおけば、
中1の有効数字の概念もすんなり受け入れられるのではないかな?
以下おまけ
半径2、または1をピッタリ2.000、または1.000と答えるなら、
半径2の面積は12.56の6を四捨五入して12.6。半径1なら3.14と記すべき。
1とか2を一桁の概数として表すなら、
半径2の円の面積は10。半径1の円の面積は3と記すべきだとおもう。
知りませんでした。もっと知りたいのに検索かけても出てこなかったので、
ソースいただけると嬉しいです。
「事後報告は嫌、何をしているか逐一報告して」「平日は必ず電話して」「朝は私よりも早く起きておはようって言って」「仕事に行く時間にはいってらっしゃいって言って」「おはようといってらっしゃい言うまで二度寝しないで」「休日は必ず一緒に過ごして」「仕事以外の時間は私のことにあてて」「他の女性と連絡を取らないで」「外に出る時は指輪つけて」「私だけを見て」「私を一番に考えて」
彼女の要求は、世間でよく聞くようなものばかりだ。要求を満たさなかった場合には、嵐がやってくる。
僕が体調を崩したため「ごめん、今日は休ませてもらうね」と会えなかった休日の夜には「つまらない1日だった。こんな日過ごすなら死んだ方がまし」といったメッセージが来たり、平日の夜に僕が疲れて早くに寝てしまった時には「あなたは私の声が聞きたくないんだ、そっかそっか。疲れてるのか知らないけど、私は疲れてても起きてられるのに。私の事どうでもいいから寝れるんだろうね。一生寝てろよ」といったメッセージが来たりする。これらはほんの一例で、まだやさしい。言葉だけを見ると本当にキツいものを浴びていると感じている。
多くの人が身を引くだろう状況にあってもなお僕が彼女と交際を続けるのは、僕が彼女のことを愛しているからというのはもちろんのこと、彼女がそうしたくて数々の要求や嵐をもたらしているのではないと気付いているからだ。人の考え方や発言・行動は全て幼い頃(少なくとも自分で感情を処理できない頃)の養育環境に由来しており、意識的に過去の事実や感情と折り合いをつけない限り、人は過去の養育環境に縛られる生き物である、というのが僕の考え方である。彼女の言動や行動も、彼女の過去がそうさせているのだと感じている。現に、彼女は機能不全家庭で育っていて、彼女の感情の表し方はこれまでに彼女から聞いた彼女の母親のそれと非常に似ている。
彼女と交際を始めてから、僕は気付かれないようにたくさんの心理学や社会学・教育学に関する書籍を読み進めた。これまでの背景を知るために、遠回りに質問するなどもした。さまざまな点で確信を得た。それから、今後どのように僕は接していくべきか、彼女にとっての課題は何かということを考えた。
しかし、ここにきて葛藤が生じた。振り返ると、僕は僕との関係について彼女がどう思っているかということを訊いたことがなかった。もし、彼女が自分自身の言動に疑問を感じていなかったら、現状のままで良いと感じているのなら、彼女が彼女自身の課題に気付くように僕が行動することは、結局のところ僕のエゴでしかない。僕は迷惑を被らないために彼女を都合良くコントロールしようとしているのではないか。単なる僕の主観で、彼女の今の状況が良くないと判断しているではないか。彼女が変化を望まない限り、それらは全て押し付けでしかなく、エゴなのだ。いつか彼女が疑問を抱き、今の関係を改善したいと言ってきたときには、全面的にサポートしたい。だけどそうでない限りは、僕は今のまま勉強を続け、今のまま彼女との関係に身を委ねようと思う。
彼女は、今後も急降下または急上昇する僕への評価を強い言葉に換えて僕に浴びせるだろう。だけど、今となっては僕は僕が彼女にどう扱われたっていいと思ってる。全てを受け止めたい。言葉に秘められた感情に気付きたい。どんな行動も言動も全て愛情との葛藤として抱きしめてやる。最終的にわかってくれれば、とか能天気なことは思わない。変わってくれとも思わない。ただ、彼女に幸せになってほしい。それが僕の手によってでなくてもいい。彼女が満ちた気持ちで日々を過ごせること、それが僕の望むことだ。受け止められなくなったら、それは単に僕の力不足だったんだと思って潔く身を引こう。ただ今は、僕の手で大きな愛で彼女を包みたい。痛々しいほどに、僕は彼女の事を愛してるんだよ。
私は、子ども向けの演劇の役者を志望していたり、大学で教育学を学んでいた。
家が、学歴偏重だったし、親も高学歴だったので、やはり偏差値が取れないと生きている意味がない、
結局、こんな生き方をしてしまったので、自分は一体なんのために生きているのか、
大学にいきたい人はどうやら、そういったことは深く考えないらしい。
ただ、生き残るために進学し、就職活動をしていくのだ、ということに疑問を持たず、
目の前のことをただこなすだけの人間、社会の一員としてその機能を果たしていきたい、と、
無意識に思っているのだろうか。
私は、勉強ができないと、家族という社会には認めてもらえなかったが、
だからすごく救われていたと思う。
しかし、家族という社会にだけ認めてもらおう、と努力したことは、
学校という社会でどうしたらいいのかを、理解していくのが人より遅かったと思う。
***
勉強は、理性を鍛えるもの、していない人はその分、感性が非常に発達していることがある。
演劇の研究所で、周りの人間が、初めて出会う高卒や中卒、フリーターの人だらけで、
ああ、みんな学歴がなくても普通に生きるだけならできるじゃないか、と思った。
高卒は高卒のコミュニティ、中卒はそれに見合ったコミュニティで、生き残るしかないのである。
でも、その社会の中で普通にお金が稼げて、仕事をしていればいいのではないだろうか。
別にだれしもが、広くてきれいなワンルームに住まなきゃいけないわけじゃない。
本人がかまわないなら、何も問題がないじゃないかと。
仕事だって、やるからには社会のどこかで役になっているのだろう。
私が、すごい思うのは、「社会的に認められる」という言葉の曖昧さである。
社会ってなんだ?と。
人が2人以上いればそれは社会だという。
Aさんに認められてれば、Bさんに嫌われたってかまわないのと同じように、
何事も、主観の方がいいのではないだろうか。
そりゃ、学校のクラスだとか、会社の部署、とか、そういうのも社会である。
でも、この学校のクラスと会社の部署はそれぞれなんの関係もない。
その所属している場での、ふるまいとかを考えればいいだけなのに、
何故か、「社会人として世の中、世界全体共通で自分は認められるようにしなければならない」
という錯覚に陥ってはないだろうか。
挨拶をする、時間を守る、マナーを守る、というのは、単に無用な争いを避けるための
形式なのであって、
その人とコミュニケーションをしていくというのは、
お互いに外面だけよくしてれば、そりゃお互いにそれくらいの興味なんだから、
距離感は取れてるだろう。
しかし、上司と部下、友達関係、といった、長く続けていかなければならないもので、
外面だけで耐えられる人は、本当にすごいのだろうか。
そういうのは、休みの日に自分自身を出して認めてもらえているから、なんとかなるのだろうか。
でも、心をないがしろにし続けている人は、どこかで不具合や病気を起こしている。
ある意味、この増田みたいなネットの付き合いというのは、外面気にしなくてよいから、
外面だけで、付き合いを続けている人よりは、ケンカをしたり意見を言い合う方が、関係性としては仲が良いような雰囲気があるw
***
とかいうのは、つまり人間は、外面も内面も多層的な存在であるということの表れだと思う。
だから、みんな同じiPhoneを持っていたって、ケースのデザインは違うし、入れてるアプリが全て一緒なんてことはない。
共有できるものは共有し、自分の好きな物、オリジナルにしたいものだってあるのだ。
「あんた、そんなんじゃ社会的に認められる人にならないよ!!」
「人に好かれる人になれ!!」
という、人で、私は周りの人に嫌われてない人を見たことがない。
皆、あいつって、我がままで自分のことしか見えてないよね、って言っている。
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。