はてなキーワード: テーゼとは
これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。
まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分が増田で書いた文章「子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的・社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。
rag_enさんは以下のように、「『社会的コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズムの肯定」や(判断力が未熟な当事者を保護する)「手段としてのパターナリズム」自体を強く批判されています。
未成年に対しては愚行権を含む自由権に一定の制約を課すべきだという社会的コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルのパターナリズム(保護者的統制主義、当事者の能力やリソースの不足を社会が保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない
いやもうこれ、『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。
そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。
ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている「判断力によって(ある問題についての当事者能力や責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象の自由権を(当人の保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか?
現行の日本の法律が、年齢によってその人物の判断能力を推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童を保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法で判断能力を吟味・裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁の判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います。
憲法学の世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人の判断能力の不十分さを補うために後見的措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。
そして、未成年や年齢が低い児童の判断能力が不十分とみなされる理由は、法学の世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識や情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的な判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスクが懸念されているからです。[^1]
[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスクは存在しているといえます。10代の妊娠中絶経験者の68.1%は妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精や安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報や理解力の不足した判断)、③相手が避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産・育児は不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的な判断)など、当人の判断能力の不足によって、望まない妊娠と人工妊娠中絶に到っています。
この前提において、当事者の自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズムの議論の中で整理されている話です。
「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html
そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家の法制度に含まれています。性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童の人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家が議会立法などの民主主義的手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会的コンセンサス』の賜物でしょう。
だから先ほどのrag_enさんの、「『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念を法制度に組み込んでいる全ての国家や社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか。
現在の日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者の主体的判断によるものであっても、相手は強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断の不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。
私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。
あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在の法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許を付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなく、ペーパーテストと免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。
※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト+免許制という提案は、パターナリズム的な観点(判断力が未熟な当事者を保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害のリスクなどを鑑みて、本来は無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者の能力・知識・技術を総合的に認証したうえで特別にアクセス権を付与するもの、つまり自動車免許や医師免許に相当するものであるから、パターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います。未成年や児童が関わる性行為について、当事者の不利益よりも他者危害のリスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。
しかし、そのような制度---国家が国民の性行為に関わる知識や判断能力をペーパーテストで弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックスの権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分は国家による生-権力的介入・管理のアプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順な身体〉の構築」というフーコー的テーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。
また、自動車免許の社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えます。セックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センターで受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用をイメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム的保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的な提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会的コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。
・マルクス・レーニン主義(一名に「科学的社会主義」とも)が放棄されていないこと
・党の体制として、民主集中制を採用し、及びそれが放棄されていないこと
・高齢の実力者が、未だに重職を占め、重大な意思決定に関わっていると見なせること
・1922年の22年テーゼ以降に採用又は確認された二段階革命論並びに暴力革命の企図
及び選択肢が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・1961年以降に採用されたいわゆる「敵の出方」論が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・日本国憲法を廃棄する意図等が全く無いと見なすことが困難であること
(例えば、二段階革命論)
・現在、日本国が採用する統治上の基本的方針としての、民主主義、自由主義並びに立憲主義を廃棄する意図等が
(例えば、二段階革命論)
・基本的人権を、日本国憲法及び法律に規定し、及び最高裁判例に判示される範囲から
けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬に誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報を海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノのうまい子どもは数学を習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出を効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモードに突入する。ランニング終了後トマトジュースの摂取で活性酵素を除去し、バランスボールを使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務の形而上学的な根拠は、制度の正義性を維持し促進するという自然的義務のテーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
*
すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
努力をする、という行為はそもそも矛盾であって、人間は努力をしないようにできている。更に言えば、人間は努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。
というのは、努力をする、という行為が必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事だからである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義で効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト(努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身のマイナスにしかならないということなのである。
脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力が必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力が必要=期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間の努力は無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。
例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体(努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間の生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為は人間の生存戦略上の矛盾なのである。
とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間が期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間の生存戦略に矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。
繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである。
才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽は期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力は努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。
とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。
俺は凡人である。つまり、努力をしている人間である。期待値の低い試行を繰り返している人間である。
というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄にリソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的な判断能力はとっくの昔に欠落している。
さて、そのような凡人にとって、基本的に努力というものは期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率の努力がある」というテーゼがそれに当たる。
凡人――最も努力の費用対効果(コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というものが存在する。それは事実である。「努力は矛盾である」という原初的命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。
「制限された状態から効率の最大化を求める行為は矛盾ではない」。
これがジンテーゼだ。
努力をしなければいけない人間は、能力に制限と限界(リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力は基本的に効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というものが存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェスの世界における現人類最強の人間はノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間は相対的にチェスの能力に制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり、人間には万民において制限が、限界が、リミットが存在している。
となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいかに効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為が可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為は可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空の重力トレーニングを想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。
そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種の制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空が重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種の重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。
そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるのである。
ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである。重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力の対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力に意味を見出すことができるのである。あるいは、重力そのものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである。
テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。
人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。
誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳からの重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。
例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章の練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。
毎日あいうえお、と書いていると、殆どの人間は次のように思う。「『あいうえお』簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。
そうなったならば、相対的に難しいけれど比較的簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事は簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである。
そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。
才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。
すると矛盾は消える。
エビデンスと海老男子って微妙に似てるよね。まあそれはどうでもいいとして。
女性間におけるエビデンスという概念はつまり、「そんなん嘘松やん」とか「対立煽り乙」とかそういう批判を喰らわない為に作り出された考えで、要するに、「世の中のアンチが何を言おうが現に私は現代社会において理不尽な経験をしてきたのであり、それが私の批判におけるエビデンス(根拠)になってるんです」ってな考え方のことである。まあこんなことは今更説明しなくても分かるだろうけど
で、問題はこれが主に女子だけに使用が許可され男性には使用が基本的に見送られている概念であるという点である。こう書くと、「いやいや、一部のどちらかと言えばホモソーシャルに参加していない男性陣の中からも、生きにくさを自分の体験に照らし合わせながら、つまりエビデンスに照らし合わせながら訴えている人もいますよ? 何言ってるんですか?」みたいなことを短絡的に書いてくる人間がいるんだろうけれど、いや違うんやと。
率直に言って、主にこのエビデンスと呼ばれる概念によって訴えられる事の内容は、「クソオスがいた!」ってものに限られているのに俺は疑問を感じる、ってことなんです。女子は言う。「クソオスがいた!」「セクハラするクソオスがいた!」「性犯罪に加担するクソオスがいた!」「パワハラするクソオスがいた!」「ホモソーシャルへの同調を押し付けてくるクソオスがいた!」「クソオスがいた!」ってな具合で、基本的にこのエビデンス、ってな考え方は「クソオスがいた!」という発言に終始しているんですね。少なくとも、エビデンスと銘打たれた発言、あるいは、エビデンスを自称する人間の、エビデンスと自称するに至った理由についての発言は、畢竟「クソオスがいた!」という発言に終止することが多いんです。そこが明らかな問題で、何でこれは主に女性から男性に対する「クソオスがいた!」って発言に大勢を占められなくちゃいかんのかな、ってことを率直に疑問に思うわけです。
こういうこと言うとよく飛んでくる詭弁なんですが、「全てがクソオス批判じゃないよ?」って批判でございます。今のうちにそのクソリプを封殺しておきたいんだけれど、いや「全てがクソオス批判」だなんて一言も言ってねえわ。それが大半だっつってるの。
こういうこと言うと「私の身の回りではクソオス批判に終始してるわけじゃないよ?」いやお前の身の回りとか知らんわ、可視化されるエビデンス関連の発言はクソオス批判に終始してるのは明らかだろうが。
「でもこれが私のエビデンスなんで」もうええわ。
みたいな感じの詭弁が飛んでくることとなるんですね、詭弁の見本市かな? お腹いっぱいになりそう。
それはそれとして、とにかくエビデンスというと「クソオス批判」に終始しがちです。勿論、世の中にクソオスがいることは否定しません。加えるに、クソオスに関しては僕だってクソオスだなあと思うし、僕の身の回りにもクソオスはちゃんといます。男性が女性より理性的だとも優れているとも言うつもりもないし、逆に女性が男性よりも優れているという意見を担保するつもりもないです。繰り返すように、世の中にはクソオスがちゃんといるし、そして僕の身の回りにだってそれはいる。つまりは僕だってエビデンスを共有しているし、そこを否定するつもりはないんです。つまり、僕の意見はごくフラットなものだということです。
だからこそ、もう一度言います。「可視化され周知されるエビデンス関連の発言は、クソオス批判が大半を占めている」まずこのテーゼを認めて下さい。イエス・ノーか。イエスだろうが。
(書いてる内にまた予想しうる詭弁的反論に対する反論を思いついてしまったのですが、流石にこれは後回しにします)
とにかく、エビデンスっつーのは固定されきってて――女性による男性に対する批判という形式に大体固着し過ぎていて――まあ早晩陳腐化するのが目に見えている概念なわけです。概念は固定化すると大体陳腐化します。その陳腐化の流れに介入しようとかそんな大それたことを考えているわけではないですが、とにかくこういう陳腐化が早晩発生するだろう概念(あるいは既に陳腐化しているところの概念)を見ているのは忍びないのに加え、純粋に「エビデンス」という概念に対して、それほど好意的な印象を持っているわけではない(クソオスにとかく終始しがちなため)のもあって、ちょっとこの辺りで一石を投じたくなったのです。
つまり、男版エビデンス。海老男子があってもいいんじゃね? ってことです。
いやね、クソオス、クソオス、と最近では盛んに囁かれていますが、クソメスはおるぞと。
そう、ここに男女の不均衡がある。女性が「クソオス!」と叫ぶと女性はそれに対して全面的に擁護し受け入れる体制を取る。いや分かるんですよ、仮にある女性の訴えるエビデンスが事実だったとして、その時ほかの女性がそのエビデンスを否定してしまったら、クソオスの禍に晒されてしまった女性の感情に持って行き場がなくなりますからね、そういう女性は保護しなくちゃいけない。それは分かります。
でもね。
不均衡。そう、つまりはこういうことです。男がネットの増田とかのスペースで、「クソメス!」って叫ぶと、女性はほぼそれを否定しようと掛かるってことです。
「は? お前が悪いねんそれは、責任転嫁するなボケ」みたいなこと平気で言いますよね女性は。同じこと女性に言えます? 言わないですよね?(言う人もいる、とかそういうのはいいです。)
(つーかここで仮に女性が女性に対して、「お前それ自分の責任ちゃうん? 自分が悪いの棚に上げてるだけちゃうん?」ってスタイルを取ることが恒常的になってしまうと、そもそもその時点で「エビデンス」が陳腐化してしまうんですよね。頭ごなしに他者の体験を否定しないことがエビデンスの理念なんですから)
(こんなことを言うと、「いやいやエビデンスって考えは誰かの訴えを無制限に認める立場を示しているものじゃないよ?」とか言われそうだけど、無制限ではないにしろ少なくとも、頭ごなしにすぐ相手の意見を否定する行為は、エビデンスの理念には背きますよね)
え? エビデンスはどこに行ったんですか? と言いたい。だって、例え世の中の不特定多数の人間の、「いやいや君は社会における女性の立場が適切に扱われていないって言うけれど、そんなの思い込みでしょ?笑」みたいな無神経な意見が存在していたとして、「でも!」と唱えることができる、っていうのがエビデンスの理念だったんじゃないんですか? 「でも! 現に私は被害に遭ってる! 私が理不尽な扱いを受けたのは事実だし、それは簡単に否定されていいことじゃない!」って訴えることのできる権利こそが、エビデンスじゃなかったんですか? 何で、ネットの苛烈に振る舞う女性たちは、そのような立場や権利を男性にも認めようとしないんですか?
言うたら悪いんですけど、クソオスと同じくらいクソメスはいますよ?
クソオスが多いことは僕も分かっています。どっちかと言うと、僕もホモソーシャルから脱落する側のオスだったので、オス特有の倫理とか価値観とかそういうものについては当然触れてきたし、それらについてはかなり深く熟知しています。勿論、そのようなホモソーシャルにおける固定化された倫理が女性に対して時に苛烈に、時に理不尽に襲いかかることがあることも承知しています。でもね、と僕は言いたい。
クソメスもかなりいる。
クソメスもホモソーシャルの原理で動いてクソな行動を取ってるし、それは男性におけるクソオスの絶対数に劣るものでもない。
それが僕のエビデンスなんですよ
ね? 僕の意見を認めることが、普段苛烈に発言をして、女性のエビデンス的発言に対して最大限の擁護と担保を行うネット論壇の女性の皆様には可能ですか? 本当に平等で公平な、男女同権的な振る舞いというものが、貴女達には可能ですか? と私は問いたい。
いやあ、こんなことを言うと反論が来るんでしょうね。「お前のエビデンスなんか知るかボケ」を精一杯オブラートに包んで、僕の確固たる現実をあの手この手で否定しようとする意見が来るんでしょうね、と僕は予感する次第です。「ホモソーシャルからあぶれてるとか言いつつも、お前は男性なんだし既得権益側で普段から女性に対して加害的に振る舞うことが『可能な』立場だろ? だったら自分を女性と同列に語って擁護を求めるような真似をするんじゃねえよ」とか、「お前の人間性の劣悪さがお前の現実に反映されてるだけだよ、多分お前の普段のコミュニケーションに問題があるのがそもそもの原因だろ? まずは自分のあり方を矯正するところから始めろよ」とかね。
いやいや待てや、と私は言いたい。
結構典型的な男性側のエビデンス発言に対する反論として、「お前の方に問題があるからお前のあり方を矯正しろ」って多いんですけど、いや、周囲の圧力によって理不尽に自分のあり方を変更させられることって、フェミニストやフェミニズムが最も警戒しなきゃいけないことなんじゃないんですか? と言いたい。
つーかぶっちゃけ↑に書いた予想反論は、単純な予想ではなくて実際にはてブ界隈を見てれば無数、とまでは言わなくともしばしば見かける女性側からの苛烈な意見なんですね。実際に、そういうことを言われている男性側の人間がたくさんいることを、僕はこの目でしっかり見てるんですね。そして、僕はそういう客観性と公平性と熟慮を欠いた意見を見る度に、「彼女たちに議論というものは無理なんだろうな」ってことを思うんです。恐らくは、苛烈さと理知を混同している彼女たちには、根本的に議論をすることは不可能なんだな、ってなことを思ってしまうんです。要は彼女たちは、世間の(ネットの)女性たちが訴えるクソオスの対義語であるところの、クソメスなんですよ直截に言ってしまえば。
ただ、あくまで「議論は無理なんだ」と思ってしまうような女性がネットには「散見される」、ってなだけで。勿論理知的で客観性と公平性を兼ね揃えていて、男性が切々と訴える自己の傷にまみれた体験を頭ごなしに否定したり否定こそしなくとも嘲りまじりの対応をしたりとか、そんなことをしない女性だって、たくさんいるでしょう。そういう女性の存在を否定しているわけではないんです。
ただ、マジでクソオスがこの世の中に溢れているように、クソメスも同等の数いるんですよ。勿論僕は自分に人生において、公平で客観的でまともな女性にだってそれなりに出会ってきたんですけれど、実際には男性にしろ女性にしろ、まともな人間って結構少ないんすよ。
僕自身にしたところで、本当にまともな人間なのかと問われると、正直狼狽えてしまう。まともであろうとしているのは事実なんですけどね。
だからね、女性に対して言いたいのは、「まともじゃない女性がいる」って男性が発言した時に、その発言を頭ごなしに否定したり、あるいは否定しなくとも嘲笑ったりしないで欲しい、ってことなんです。否定されても嘲笑われようと、それは僕らの現実であって、否定しようのないエビデンス。つまりは海老男子なんですから。
というか、マスクに医学的効果、すくなくとも熱中症を引き起こすというのはすでに周知されており、
すくなくとも熱中症で人が死ぬ確率は0%とは医者はいえないから、
マスクをしたら死ぬ可能性があるから、つけたくない。というのは、これは主張として認める。
この部分については、これはあからさまに、医療器具にたいする飛行機会社の対応誤りを認めえる。
ようするに
医療器具を身に付けろと言ったのであるから、アレルギーなど自分の身体健康管理について、問題がある場合は、抗弁する権利があり、これが正当な場合、飛行機会社が謝罪する必要が出る。
マスクをしたから一命を取り留めるケースというのは、これはあり得る。そりゃ死ぬことがあるほどの効果があるなら、命が助かるほどの効果もあるだろう
「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体は別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質が女性的であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)
とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理を自分を肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。
そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差の特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。
匿名ダイアリーだからこそ自分語り(なる女性的行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子とサッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人がメチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰は問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重な屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈は平等を許さない。
アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性的性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分の身体を憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。
マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかったかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品な冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま「女の子には難しかったかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。
しかしフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージは吐き気を催す前近代的女である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代も前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。
「高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。
「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン
あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事が修正されている。ありがとうありがとう。)
デマに対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂の方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。
「2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。
しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんとモデル問題そのものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。
「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文も漢文も出る。
ここからが少しややこしい。高校の国語には「必修科目」と「選択科目」がある。
必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代の国語(評論文や実用文)」「言語文化(小説や古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。
記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。
「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ
「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ
「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ
「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典と現代の言葉を比較して変遷を調べたりもする
中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。
で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。
いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。
そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学の勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代や現代文学が大事だ、という主張ならばできる)。
さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。
対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章(法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。
記事に書いてある「実用文しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事にミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章を批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。
今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報で議論したところで得るものは少ない。
とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本が崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。
ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。
とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXPの経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10年単位で教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに、高校は変化がにぶい。だが、小学校や中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。
現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているかを意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。
こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう。
myogab
反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。
藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。
で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書の小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって。
今日は町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事を引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートをリツイートしてる。
hhasegawa
文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?
小説や文芸評論ではないテクストがすなわち規約や広報や契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章」一般ではないか。
「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。
一応、「論理国語」教材に「新書や新聞の社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用」志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。
その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険を教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史が証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。
このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。
最近、なにかと話題のおけけパワー中島ですが、あの作中に出てくるキャラクターの実力は中堅以降クラスで私みたいな底辺から見ればクラス高カーストの奴らの内輪話じゃん、というような感想にしかなりませんでした。
勿論、主人公の七瀬、そして先日出てきた新キャラの友川においても最初は底辺だったのかもしれないですけど結局(努力もありますが)実力をメキメキと身につけ、ある一定の評価基準まで到達しています。
この真田さんの漫画において提示されているのは、『神に到達するなら自分も神同等の実力を身につける』という手法で、底辺は神へ接近・接触できるということです。同人界隈は特にこの傾向が強いと言ってもいいでしょう。
ですが、現実ではどうでしょうか。ここで、ジェームズ・フレーザーの金枝篇より王殺しを引用してみます。
森の王と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。
このように、実際に神との原始的な宗教的体験というものを考えると、寧ろ神殺しは底辺な者にこそ与えられていたパワーでしょう。
しかし、同人界隈というのは、いいねやRTといった数的なものが良さに変換するプロテスタンティズム的な考えが主流であり、例のようなカトリック的な神それ自体が神聖だから神聖であるというような考えとは異なります。すると、ここで二つに考えが分裂します。
一つは、神絵師とはいいね・RTが多い人間であるというテーゼです。これはツイッター・pixivにおいても閲覧数が多い方が神(結局上手なのだから見られる)というような考えであり、主流なものです。しかし、(閲覧数が高いから・売れているから)素晴らしいというのは、権威主義ともはや同じです。
そして二つ目に、その絵それ自体が神聖であり作者は尊いのだという考えです。こちらもある程度支持する人はいるかもしれないですが、いいね1の絵を神なんだと言ったところでその当人にとってしか神でないというような話になってしまいます。それでは、神としての効力というのは非常に弱いです。
では底辺絵師持っている力とはなんでしょう。それは数字も神聖さもないということです。このようなペシミズムが、サドの遺言のように誰にも作品を見せずこのまま消えてしまいたいというような感情へと移行することができれば、その時ついぞ神絵師を殺すことができるでしょう。
ここでなぜ神絵師が神聖さを持つのかを理解することができます。すなわち神絵師とは、絵が上手い・閲覧数あるといったことではなく、多くの人間を創作活動へと導いてきた人間であるから神絵師なのです。
ですから底辺絵師は神絵師を殺す時がなければいけません。それは数的なものでなく神絵師の思想を乗り越えるといった形式において考えられるべきでしょう。
友川は毒マロという形式を用いましたが悪手でしょう。本来ならば創作という土俵で、つまりA×Bの作品で表すべきだったはずです。
そして神絵師が神である以上、神は気まぐれであり何をしても許されるからあなたが信じた神だったのです。それをもう許せないのならあなたにとってはもう神は死んだ状態であります。
我々底辺のペシミズムが神絵師を揺さぶる時、初めて神絵師との合一ができるのです。そしてそれを乗り越えて神を超越することができるというのが、底辺の強みです。神絵師になってしまったら神同士の馴れ合いでしかありません。
野口武彦『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』(中公新書、2010年)読了。あとがき以外は面白いね。
あとがきの「閉ざされてしまった回路」(=あったかも知れないイフ)は興味深いが、この書名や慶喜に負わせる問題じゃない。そして一つ目の公議政体はともかく、二つ目の「天皇制ぬきの近代日本」は荒唐無稽。このような反論に著者は「こう考えることを妄想だとする向きは、話があまり大きすぎて歴史的な想像力がついてゆけないからである」と予防線を張るが、それはそうじゃない。
歴史にはたくさんのイフがあり、それぞれの実現可能性にとってプラスに働く因子とマイナスに働く因子とがある。それら諸因子の大小強弱は定量的に計測できるようなものではないが、ある程度の序列はつけれられる(というよりつけなければならない)。野口さんの言ってるのは、「マイナス因子をすべて無視すれば別のイフもあり得た」というに過ぎない。
彼は慶喜よりもはるかに大きな他の因子、例えば思想史的要因を全く無視している。列強ひしめく国際社会へ出て行ったときに、来たるべき「日本人」のアイデンティティはどこに求められるのか。それは「皇国」以外にないだろう。それは鳥羽伏見のずっと以前から使われている言葉で、すでに相当な浸透力をもっていた(松陰を想起せよ)。たとえ慶喜が逃亡せず新政府の首班に座る(=徳川勢力が温存される)としても、天皇の権威を前面に押し出さなければ新たな公議政体での意思統一はできなかっただろう。となれば、それが天皇の神格化・神聖性付与へ向かうのは自然な流れ。(来たるべき憲法の条文がどうなるかはともかく)
天皇制を32テーゼではなく著者のように定義するなら、慶喜が逃亡しようとしまいと、かなりそれに近い状態に達したと考えられる。
要するに「天皇制ぬきの近代日本」というイフにとって、慶喜逃亡はきわめて小さい因子に過ぎない。他にもっと強力なマイナス因子があるのに、それらを全部無視してイフを手柄顔で語られてもねえ…。
「天皇制ぬきの近代日本はあり得ただろうか?」という問題提起は興味深いし意味があるが、慶喜逃亡が決定的な因子であったという主張は愚かしい。その意味で「この書名や慶喜に負わせる問題じゃない」と書いた。アルキメデス的支点に立ってるように見えるのは、著者が戊辰戦争ばかり見てるだけのことじゃないの。
だから、ここに至って、なんでこの著者と気が合わないのかもはっきりする。この人の本は面白いけど、同時に「面白い話を一発吹いて目立ってやろう」という助平根性も感じるんだよね。勿論この人はれっきとした学者であって、歴史作家のくせに歴史学者のふりして商売してる人種とは違う。だから猶更その根性が気になる。我々はワトソンより寧ろロザリンド・フランクリンであるべき。ワトソンを剽窃者として謗りたいのでははなく、帰納的に考えることをおろそかにしてはならないということだ。