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はてなキーワード: テーゼとは

2021-08-05

書け書けと言われたので

これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。

引用されている増田テクスト位置づけについて

まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分増田で書いた文章子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。

パターナリズムについて

rag_enさんは以下のように、「『社会コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズム肯定」や(判断力が未熟な当事者保護する)「手段としてのパターナリズム自体を強く批判されています

未成年に対しては愚行権を含む自由権一定の制約を課すべきだという社会コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルパターナリズム保護者的統制主義当事者能力リソースの不足を社会保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない

いやもうこれ、『社会コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。

そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。


ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている判断力によって(ある問題についての当事者能力責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象自由権を(当人保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか? 

現行の日本法律が、年齢によってその人物判断能力推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法判断能力吟味裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います

憲法学世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年自身目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人判断能力の不十分さを補うために後見措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。

https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:0RwE-rfojV4J:https://core.ac.uk/download/97063334.pdf+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

そして、未成年や年齢が低い児童判断能力が不十分とみなされる理由は、法学世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスク懸念されているからです。[^1]

[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスク存在しているといえます10代の妊娠中絶経験者の68.1%妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報理解力の不足した判断)、③相手避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産育児不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的判断)など、当人判断能力の不足によって、望まない妊娠人工妊娠中絶に到っています

この前提において、当事者自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズム議論の中で整理されている話です。

ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。

1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、

2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、

3. 強要されて判断した場合(coerced)、または

4. その他、実質的自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。

http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html

そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家法制度に含まれています性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家議会立法などの民主主義手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会コンセンサス』の賜物でしょう。

から先ほどのrag_enさんの、「『社会コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念法制度に組み込んでいる全ての国家社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか

現在日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者主体的判断によるものであっても、相手強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。

私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。

あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなくペーパーテスト免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。

※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト免許制という提案は、パターナリズム的な観点判断力が未熟な当事者保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害リスクなどを鑑みて、本来無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者能力知識技術総合的に認証したうえで特別アクセス権を付与するもの、つまり自動車免許医師免許に相当するものであるからパターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います未成年児童が関わる性行為について、当事者不利益よりも他者危害リスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。

しかし、そのような制度---国家国民の性行為に関わる知識判断能力ペーパーテスト弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックス権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分国家による生-権力的介入・管理アプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順身体〉の構築」というフーコーテーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。

また、自動車免許社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えますセックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センター受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用イメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。

https://anond.hatelabo.jp/20210805095853 に続きます

2021-07-23

anond:20210723160626

増田は「釣り針には全力で食いつけ」がテーゼなので釣られたところで何の痛痒も感じないぞ

2021-06-03

anond:20210603001548

こうして相手から性的な目で見られたときに傷つかないようにするための防御だったのかもしれない

ここは胡散臭いなー

男性から性的な目で見られると傷付く」というテーゼだけ、自分体験に根ざしてない所から急に飛び出してきてる。

そんなのは嘘でしょ。

2021-02-14

日本共産党を支持することができない理由

・党名に共産党名称を含むこと

マルクス・レーニン主義(一名に「科学的社会主義」とも)が放棄されていないこと

・党の体制として、民主集中制採用し、及びそれが放棄されていないこと

高齢の実力者が、未だに重職を占め、重大な意思決定に関わっていると見なせること

1922年の22年テーゼ以降に採用又は確認された二段階革命論並びに暴力革命企図

及び選択肢放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと

1961年以降に採用されたいわゆる「敵の出方」論が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと

日本国憲法を廃棄する意図等が全く無いと見なすことが困難であること

(例えば、二段階革命論)

現在日本国採用する統治上の基本的方針としての、民主主義自由主義並びに立憲主義を廃棄する意図等が

全く無いと見なすことが困難であること

(例えば、二段階革命論)

基本的人権を、日本国憲法及び法律規定し、及び最高裁判例に判示される範囲から

更に制限する意図等が全く無いと見なすことが困難であること

国家統治等に関する具体的な構想を示していないか、又は示しているが何ら実際的ではなく或いは実際性に欠けること

政権を獲得できる見込みが全く無いか、又は政権獲得が極めて困難であると予想されること

2020-11-29

anond:20201129135230

お互いに反証不可能テーゼをぶつけ合ってる感はありますねえ

いずれにせよ、海外調査によると内乱は「起こる」、よって気候的に恵まれ状態でも「個体数は増えすぎない」(少なくとも気候淘汰に加え個体数を更に減少させ得る要素が存在している)。これらの事実はおよそ間違いないところなので、事実に対して不用意に述語を付加する行為は慎むべきでしょうね

anond:20201129123901

本文中にある通り「仮に気候条件が味方しても」スズメバチは滅びるというのがミソです。東南アジアやその他亜熱帯地域においてもスズメバチは大きく生態系を乱してはいませんよね。

議論において前提とされるテーゼ意図的かあるいは非意図的にか見落としていらっしゃるようにお見受けします。攻撃的な意図が先行し、ご自身文脈を展開することに執心なさり過ぎていらっしゃるのではないでしょうか。

我々人間も大いに「利己的な」傾向がありますよね、昆虫性向はたくさんのことを教えてくれます

2020-11-23

"残酷パンティーのテーゼ"との一致はありません。

そんな残酷

2020-11-15

けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノうまい子ども数学習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモード突入する。ランニング終了後トマトジュース摂取で活性酵素を除去し、バランスボール使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務形而上学的な根拠は、制度正義性を維持し促進するという自然的義務テーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。

2020-11-11

実を言うと、フェミニズムはもうだめです。

 突然こんなこと言ってごめんね。

 でも本当です。



   *



 フェミニズムは全ての女性を救うわけじゃない。


 すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割ピークを迎えようとしている。

 言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまりフェミニズムは数あるライフスタイル思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。

 結局のところ、フェミニズムは全ての女性対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである論点取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。


 考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないかである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性弱者男性のみならず、男性女性総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来理念であったのだ。

 とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地存在しない筈なのだ

 換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。


 いずれにせよ、全てを救う思想というもの現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。

 フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシー広告現実人間リスクを生むので自重すべき」、というシンプル命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。

広告セクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャル広告価値のみならず女性価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方評価したところでもしストッキングタイツを身に着けた一般的女子存在性的に眼差されたら貴方責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的女子」とされる存在の中から、「広告セクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性パージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニスト活動は、女性総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。

 でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。

 無理。

 無理だから

 例えば、ソマリアでレ○プされている少女フェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治役割である。とにかく、世界同時革命的に思想啓蒙を行うことは無理なのである逆襲のシャアを見ろ。

 そんなこんなで、フェミニズム役割限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。


 話を戻すと、結局のところフェミニズム限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たち救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。

 逆に言えば、フェミニズム自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである企業マーケティング一挙一動監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズム役割ではない。それは本来公共広告機構ジャロ役割だ。

 ソマリア女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である

 役割限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告バッシングされることで不利益を蒙る企業存在するのが現実だし、あるいは、広告バッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。

 全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。

 そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなである


 つまりここにおいてフェミニズム立場は相対化されることになる。

 フェミニズム自身擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。

 そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムけが特別というわけではないのだ。


まとめ


 警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というもの存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。

 それは恐らくフェミニズム限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。

 勿論、救う対象限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることな人間には所詮できないのだから

 とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身限界意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞うフェミニストフェミニズム傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。

 でも本当です。

2020-11-03

anond:20201103232622

それこそ男女平等若い人に浸透した証拠なんだよな。

アンチテーゼは結局テーゼにこだわってる。アナザーテーゼにならないとダメ

2020-11-02

努力矛盾である

 努力をする、という行為そもそも矛盾であって、人間努力をしないようにできている。更に言えば、人間努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。

 というのは、努力をする、という行為必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事からである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身マイナスしかならないということなである

 脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力必要期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間努力無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。

 例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為人間生存戦略上の矛盾なのである


 とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間生存戦略矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。

 繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである

 才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。

 とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。


 俺は凡人である。つまり努力をしている人間である期待値の低い試行を繰り返している人間である

 というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄リソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的判断能力はとっくの昔に欠落している。

 さて、そのような凡人にとって、基本的努力というもの期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率努力がある」というテーゼがそれに当たる。

 凡人――最も努力費用対効果コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というもの存在する。それは事実である。「努力矛盾である」という原初的命題テーゼ)を止揚アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。

制限された状態から効率の最大化を求める行為矛盾ではない」。

 これがジンテーゼだ。

 努力をしなければいけない人間は、能力制限限界リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力基本的効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というもの存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェス世界における現人類最強の人間ノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間相対的チェス能力制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり人間には万民において制限が、限界が、リミット存在している。

 となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいか効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空重力トレーニング想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。

 そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。

 そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるである

 ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力意味を見出すことができるのである。あるいは、重力のものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである


 テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。

 人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。


簡単にできることをする

 誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳から重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。

 例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。

 毎日あいうえお、と書いていると、殆ど人間は次のように思う。「『あいうえお簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。

 そうなったならば、相対的に難しいけれど比較簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである

 簡単なことから始めよう。しかもそれを毎日続けよう。

 そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。

 才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。

 すると矛盾は消える。

2020-10-29

男版エビデンス――海老男子

 エビデンス海老男子って微妙に似てるよね。まあそれはどうでもいいとして。

 女性間におけるエビデンスという概念はつまり、「そんなん嘘松やん」とか「対立煽り乙」とかそういう批判を喰らわない為に作り出された考えで、要するに、「世の中のアンチが何を言おうが現に私は現代社会において理不尽経験をしてきたのであり、それが私の批判におけるエビデンス根拠)になってるんです」ってな考え方のことである。まあこんなことは今更説明しなくても分かるだろうけど

 で、問題はこれが主に女子だけに使用許可され男性には使用基本的に見送られている概念であるという点である。こう書くと、「いやいや、一部のどちらかと言えばホモソーシャルに参加していない男性陣の中からも、生きにくさを自分体験に照らし合わせながら、つまりエビデンスに照らし合わせながら訴えている人もいますよ? 何言ってるんですか?」みたいなことを短絡的に書いてくる人間がいるんだろうけれど、いや違うんやと。

 率直に言って、主にこのエビデンスと呼ばれる概念によって訴えられる事の内容は、「クソオスがいた!」ってものに限られているのに俺は疑問を感じる、ってことなんです。女子は言う。「クソオスがいた!」「セクハラするクソオスがいた!」「性犯罪に加担するクソオスがいた!」「パワハラするクソオスがいた!」「ホモソーシャルへの同調押し付けてくるクソオスがいた!」「クソオスがいた!」ってな具合で、基本的にこのエビデンス、ってな考え方は「クソオスがいた!」という発言に終始しているんですね。少なくとも、エビデンスと銘打たれた発言、あるいは、エビデンス自称する人間の、エビデンス自称するに至った理由についての発言は、畢竟「クソオスがいた!」という発言に終止することが多いんです。そこが明らかな問題で、何でこれは主に女性から男性に対する「クソオスがいた!」って発言大勢を占められなくちゃいかんのかな、ってことを率直に疑問に思うわけです。

 こういうこと言うとよく飛んでくる詭弁なんですが、「全てがクソオス批判じゃないよ?」って批判でございます。今のうちにそのクソリプ封殺しておきたいんだけれど、いや「全てがクソオス批判」だなんて一言も言ってねえわ。それが大半だっつってるの。

 こういうこと言うと「私の身の回りではクソオス批判に終始してるわけじゃないよ?」いやお前の身の回りとか知らんわ、可視化されるエビデンス関連の発言はクソオス批判に終始してるのは明らかだろうが。

「でもこれが私のエビデンスなんで」もうええわ。

 みたいな感じの詭弁が飛んでくることとなるんですね、詭弁の見本市かな? お腹いっぱいになりそう。

 それはそれとして、とにかくエビデンスというと「クソオス批判」に終始しがちです。勿論、世の中にクソオスがいることは否定しません。加えるに、クソオスに関しては僕だってクソオスだなあと思うし、僕の身の回りにもクソオスはちゃんといます男性女性より理性的だとも優れているとも言うつもりもないし、逆に女性男性よりも優れているという意見担保するつもりもないです。繰り返すように、世の中にはクソオスがちゃんといるし、そして僕の身の回りだってそれはいる。つまりは僕だってエビデンスを共有しているし、そこを否定するつもりはないんです。つまり、僕の意見はごくフラットものだということです。

 だからこそ、もう一度言います。「可視化され周知されるエビデンス関連の発言は、クソオス批判が大半を占めている」まずこのテーゼを認めて下さい。イエス・ノーか。イエスだろうが。


(書いてる内にまた予想しうる詭弁反論に対する反論を思いついてしまったのですが、流石にこれは後回しにします)

 とにかく、エビデンスっつーのは固定されきってて――女性による男性に対する批判という形式に大体固着し過ぎていて――まあ早晩陳腐化するのが目に見えている概念なわけです。概念固定化すると大体陳腐します。その陳腐化の流れに介入しようとかそんな大それたことを考えているわけではないですが、とにかくこういう陳腐化が早晩発生するだろう概念(あるいは既に陳腐化しているところの概念)を見ているのは忍びないのに加え、純粋に「エビデンス」という概念に対して、それほど好意的な印象を持っているわけではない(クソオスにとかく終始しがちなため)のもあって、ちょっとこの辺りで一石を投じたくなったのです。

 つまり、男版エビデンス海老男子があってもいいんじゃね? ってことです。

 いやね、クソオス、クソオス、と最近では盛んに囁かれていますが、クソメスはおるぞと。

 そう、ここに男女の不均衡がある。女性が「クソオス!」と叫ぶと女性はそれに対して全面的擁護し受け入れる体制を取る。いや分かるんですよ、仮にある女性の訴えるエビデンス事実だったとして、その時ほかの女性がそのエビデンス否定してしまったら、クソオスの禍に晒されてしまった女性感情に持って行き場がなくなりますからね、そういう女性保護しなくちゃいけない。それは分かります

 でもね。

 不均衡。そう、つまりはこういうことです。男がネット増田とかのスペースで、「クソメス!」って叫ぶと、女性はほぼそれを否定しようと掛かるってことです。

「は? お前が悪いねんそれは、責任転嫁するなボケ」みたいなこと平気で言いますよね女性は。同じこと女性に言えます? 言わないですよね?(言う人もいる、とかそういうのはいいです。)

(つーかここで仮に女性女性に対して、「お前それ自分責任ちゃうん? 自分が悪いの棚に上げてるだけちゃうん?」ってスタイルを取ることが恒常的になってしまうと、そもそもその時点で「エビデンス」が陳腐化してしまうんですよね。頭ごなしに他者体験否定しないことがエビデンス理念なんですから

(こんなことを言うと、「いやいやエビデンスって考えは誰かの訴えを無制限に認める立場を示しているものじゃないよ?」とか言われそうだけど、無制限ではないにしろ少なくとも、頭ごなしにすぐ相手意見否定する行為は、エビデンス理念には背きますよね)

 え? エビデンスはどこに行ったんですか? と言いたい。だって、例え世の中の不特定多数人間の、「いやいや君は社会における女性立場が適切に扱われていないって言うけれど、そんなの思い込みでしょ?笑」みたいな無神経な意見存在していたとして、「でも!」と唱えることができる、っていうのがエビデンス理念だったんじゃないんですか? 「でも! 現に私は被害に遭ってる! 私が理不尽な扱いを受けたのは事実だし、それは簡単否定されていいことじゃない!」って訴えることのできる権利こそが、エビデンスじゃなかったんですか? 何で、ネット苛烈振る舞う女性たちは、そのような立場権利男性にも認めようとしないんですか?


 言うたら悪いんですけど、クソオスと同じくらいクソメスはいますよ?

 クソオスが多いことは僕も分かっています。どっちかと言うと、僕もホモソーシャルから脱落する側のオスだったので、オス特有倫理とか価値観とかそういうものについては当然触れてきたし、それらについてはかなり深く熟知しています。勿論、そのようなホモソーシャルにおける固定化された倫理女性に対して時に苛烈に、時に理不尽に襲いかかることがあることも承知しています。でもね、と僕は言いたい。

 クソメスもかなりいる。

 クソメスもホモソーシャル原理で動いてクソな行動を取ってるし、それは男性におけるクソオスの絶対数に劣るものでもない。

 それが僕のエビデンスなんですよ

 海老男子なんですよ。

 ね? 僕の意見を認めることが、普段苛烈発言をして、女性エビデンス発言に対して最大限の擁護担保を行うネット論壇の女性の皆様には可能ですか? 本当に平等で公平な、男女同権的な振る舞いというものが、貴女達には可能ですか? と私は問いたい。

 いやあ、こんなことを言うと反論が来るんでしょうね。「お前のエビデンスなんか知るかボケ」を精一杯オブラートに包んで、僕の確固たる現実あの手この手否定しようとする意見が来るんでしょうね、と僕は予感する次第です。「ホモソーシャルからあぶれてるとか言いつつも、お前は男性なんだし既得権益側で普段から女性に対して加害的に振る舞うことが『可能な』立場だろ? だったら自分女性と同列に語って擁護を求めるような真似をするんじゃねえよ」とか、「お前の人間性の劣悪さがお前の現実に反映されてるだけだよ、多分お前の普段コミュニケーション問題があるのがそもそもの原因だろ? まずは自分のあり方を矯正するところから始めろよ」とかね。

 いやいや待てや、と私は言いたい。

 結構典型的男性側のエビデンス発言に対する反論として、「お前の方に問題があるからお前のあり方を矯正しろ」って多いんですけど、いや、周囲の圧力によって理不尽自分のあり方を変更させられることって、フェミニストフェミニズムが最も警戒しなきゃいけないことなんじゃないんですか? と言いたい。

 つーかぶっちゃけ↑に書いた予想反論は、単純な予想ではなくて実際にはてブ界隈を見てれば無数、とまでは言わなくともしばしば見かける女性から苛烈意見なんですね。実際に、そういうことを言われている男性側の人間がたくさんいることを、僕はこの目でしっかり見てるんですね。そして、僕はそういう客観性公平性と熟慮を欠いた意見を見る度に、「彼女たちに議論というものは無理なんだろうな」ってことを思うんです。恐らくは、苛烈さと理知を混同している彼女たちには、根本的に議論をすることは不可能なんだな、ってなことを思ってしまうんです。要は彼女たちは、世間の(ネットの)女性たちが訴えるクソオスの対義語であるところの、クソメスなんですよ直截に言ってしまえば。

 ただ、あくまで「議論は無理なんだ」と思ってしまうような女性ネットには「散見される」、ってなだけで。勿論理知的客観性公平性を兼ね揃えていて、男性が切々と訴える自己の傷にまみれた体験を頭ごなしに否定したり否定こそしなくとも嘲りまじりの対応をしたりとか、そんなことをしない女性だって、たくさんいるでしょう。そういう女性存在否定しているわけではないんです。

 ただ、マジでクソオスがこの世の中に溢れているように、クソメスも同等の数いるんですよ。勿論僕は自分人生において、公平で客観的でまともな女性だってそれなりに出会ってきたんですけれど、実際には男性しろ女性しろ、まともな人間って結構少ないんすよ。

 僕自身にしたところで、本当にまともな人間なのかと問われると、正直狼狽えてしまう。まともであろうとしているのは事実なんですけどね。

 だからね、女性に対して言いたいのは、「まともじゃない女性がいる」って男性発言した時に、その発言を頭ごなしに否定したり、あるいは否定しなくとも嘲笑ったりしないで欲しい、ってことなんです。否定されても嘲笑われようと、それは僕らの現実であって、否定しようのないエビデンス。つまり海老男子なんですから

2020-09-19

anond:20200919051832

マスクをしたら死ぬ病気というのは、本当にありえる。

というか、マスク医学効果、すくなくとも熱中症を引き起こすというのはすでに周知されており、

すくなくとも熱中症で人が死ぬ確率は0%とは医者はいえないから、

マスクをしたら死ぬ可能性があるから、つけたくない。というのは、これは主張として認める。

この部分については、これはあからさまに、医療器具にたいする飛行機会社対応誤りを認めえる。

マスクというと簡単に聞こえるが

ようするに

医療器具を身に付けろと言ったのであるからアレルギーなど自分身体健康管理について、問題がある場合は、抗弁する権利があり、これが正当な場合飛行機会社謝罪する必要が出る。

あきらかに、登場前に解決すべき問題である

 

が、マスクしたことにより死ぬケース

マスクをしたか一命を取り留めるケースというのは、これはあり得る。そりゃ死ぬことがあるほどの効果があるなら、命が助かるほどの効果もあるだろう

というテーゼ提供したといういみでは社会的な貢献は大きい

2020-08-23

女嫌いが治らない

 「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質女性であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)

 とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理自分肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。

 そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。

 

 匿名ダイアリーからこそ自分語り(なる女性行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子サッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人メチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈平等を許さない。

 アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分身体憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。

 

 マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかたかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま女の子には難しかたかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。

 

 しかフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージ吐き気を催す前近代的である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。

2020-08-15

小説評論から実用文にシフトする国語教育」というデマについて

 こういう内容の記事への反応ツイートされ続けている。

 「高校文学勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。

「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン

 あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事修正されている。ありがとうありがとう。)

 デマ対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。

大学入試で「実用文」だけが出題されるようになるわけではない

 「2021年から大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校国語改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会規約自治体広報駐車場契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。

 しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんモデル問題のものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文漢文も出る。

論理国語」は「実用文中心」ではない

必修科目と選択科目のこと

 ここからが少しややこしい。高校国語には「必修科目」と「選択科目」がある。

 必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代国語評論文や実用文)」「言語文化小説古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。

 記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。

 「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ

 「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ

 「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ

 「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典現代言葉比較して変遷を調べたりもする

 中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。

 で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。

 いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。

 そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代現代文学大事だ、という主張ならばできる)。

論理国語」は実用文だけを学ぶ科目じゃない

 さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場契約書、レポート統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。

 対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。

 記事に書いてある「実用しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事ミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。

 今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報議論したところで得るものは少ない。

 とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。

追記

 ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。

 とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXP経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10単位教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに高校は変化がにぶい。だが、小学校中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。

 現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているか意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。

追記2

 こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう

myogab

 反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。

 藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。

 で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって

 今日町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートリツイートしてる。

hhasegawa

 文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会規約自治体広報駐車場契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?

 小説文芸評論ではないテクストがすなわち規約広報契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章一般ではないか

 https://twitter.com/hhasegawa/status/1293668438880038912

 「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。

 一応、「論理国語」教材に「新書新聞社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。

 その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。

 このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。

2020-07-05

底辺絵師は神絵師を乗り越えられるのか?

底辺絵師お気持ち表明です。

最近、なにかと話題のおけけパワー中島ですが、あの作中に出てくるキャラクターの実力は中堅以降クラスで私みたいな底辺から見ればクラスカーストの奴らの内輪話じゃん、というような感想しかなりませんでした。

勿論、主人公の七瀬、そして先日出てきた新キャラの友川においても最初底辺だったのかもしれないですけど結局(努力もありますが)実力をメキメキと身につけ、ある一定の評価基準まで到達しています

この真田さんの漫画において提示されているのは、『神に到達するなら自分も神同等の実力を身につける』という手法で、底辺は神へ接近・接触できるということです。同人界隈は特にこの傾向が強いと言ってもいいでしょう。

ですが、現実ではどうでしょうか。ここで、ジェームズフレーザーの金枝篇より王殺しを引用してみます

森の王と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷けがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である

このように、実際に神との原始的宗教的体験というものを考えると、寧ろ神殺し底辺な者にこそ与えられていたパワーでしょう。

しかし、同人界隈というのは、いいねRTといった数的なものが良さに変換するプロテスタンティズム的な考えが主流であり、例のようなカトリック的な神それ自体神聖から神聖であるというような考えとは異なります。すると、ここで二つに考えが分裂します。

一つは、神絵師はいいねRTが多い人間であるというテーゼです。これはツイッターpixivにおいても閲覧数が多い方が神(結局上手なのだから見られる)というような考えであり、主流なものです。しかし、(閲覧数が高いから・売れているから)素晴らしいというのは、権威主義ともはや同じです。

そして二つ目に、その絵それ自体神聖であり作者は尊いのだという考えです。こちらもある程度支持する人はいるかもしれないですが、いいね1の絵を神なんだと言ったところでその当人にとってしか神でないというような話になってしまます。それでは、神としての効力というのは非常に弱いです。

では底辺絵師持っている力とはなんでしょう。それは数字神聖さもないということです。このようなペシミズムが、サド遺言のように誰にも作品を見せずこのまま消えてしまいたいというような感情へと移行することができれば、その時ついぞ神絵師を殺すことができるでしょう。

ここでなぜ神絵師神聖さを持つのかを理解することができます。すなわち神絵師とは、絵が上手い・閲覧数あるといったことではなく、多くの人間創作活動へと導いてきた人間であるから絵師なのです。

ですから底辺絵師は神絵師を殺す時がなければいけません。それは数的なものでなく神絵師思想を乗り越えるといった形式において考えられるべきでしょう。

友川は毒マロという形式を用いましたが悪手でしょう。本来ならば創作という土俵で、つまりA×Bの作品で表すべきだったはずです。

そして神絵師が神である以上、神は気まぐれであり何をしても許されるからあなたが信じた神だったのです。それをもう許せないのならあなたにとってはもう神は死んだ状態であります

我々底辺ペシミズムが神絵師を揺さぶる時、初めて神絵師との合一ができるのです。そしてそれを乗り越えて神を超越することができるというのが、底辺の強みです。神絵師になってしまったら神同士の馴れ合いしかありません。

結論として、底辺努力絵師天才絵師古典的王殺しレズが次の話として来るのではないかという予想です。

2020-05-28

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00849/00024/

ゲイツテーゼ」の言葉に惹かれて開いたら期待したのと違った。

 

残酷ゲイツテーゼ

 

久々に観たくなったが、どこにあるのだろう。

2020-05-06

anond:20200506042312

障害者から健常者への暴力問題にするのは一種タブーだよね。

健常者には障害者ニーズに従う義務があるとする障害者運動テーゼとも衝突しかねない。

2020-04-24

現代社会が「働かざる者食うべからず」をテーゼにしている以上

どんな無能でもどんな障害者でも

働かざるをえないし雇わざるをえないわけで

それを職場から追い出そうと言うなら

ベーシックインカム的な「迷惑料」を払う仕組みは必須だよね

2020-02-16

野口武彦鳥羽伏見の戦い』を読んで

野口武彦鳥羽伏見の戦い幕府の命運を決した四日間』(中公新書2010年)読了あとがき以外は面白いね。

あとがきの「閉ざされてしまった回路」(=あったかも知れないイフ)は興味深いが、この書名や慶喜に負わせる問題じゃない。そして一つ目の公議政体はともかく、二つ目の「天皇制ぬきの近代日本」は荒唐無稽。このような反論に著者は「こう考えることを妄想だとする向きは、話があまり大きすぎて歴史的想像力がついてゆけないかである」と予防線を張るが、それはそうじゃない。

歴史にはたくさんのイフがあり、それぞれの実現可能性にとってプラスに働く因子とマイナスに働く因子とがある。それら諸因子の大小強弱は定量的に計測できるようなものではないが、ある程度の序列はつけれられる(というよりつけなければならない)。野口さんの言ってるのは、「マイナス因子をすべて無視すれば別のイフもあり得た」というに過ぎない。

彼は慶喜よりもはるかに大きな他の因子、例えば思想史的要因を全く無視している。列強ひしめく国際社会へ出て行ったときに、来たるべき「日本人」のアイデンティティはどこに求められるのか。それは「皇国」以外にないだろう。それは鳥羽伏見のずっと以前から使われている言葉で、すでに相当な浸透力をもっていた(松陰を想起せよ)。たとえ慶喜が逃亡せず新政府首班に座る(=徳川勢力が温存される)としても、天皇権威を前面に押し出さなければ新たな公議政体での意思統一はできなかっただろう。となれば、それが天皇神格化神聖付与へ向かうのは自然な流れ。(来たるべき憲法の条文がどうなるかはともかく)

天皇制を32テーゼではなく著者のように定義するなら、慶喜が逃亡しようとしまいと、かなりそれに近い状態に達したと考えられる。

要するに「天皇制ぬきの近代日本」というイフにとって、慶喜逃亡はきわめて小さい因子に過ぎない。他にもっと強力なマイナス因子があるのに、それらを全部無視してイフを手柄顔で語られてもねえ…。

天皇制ぬきの近代日本はあり得ただろうか?」という問題提起は興味深いし意味があるが、慶喜逃亡が決定的な因子であったという主張は愚かしい。その意味で「この書名や慶喜に負わせる問題じゃない」と書いた。アルキメデス支点に立ってるように見えるのは、著者が戊辰戦争ばかり見てるだけのことじゃないの。

から、ここに至って、なんでこの著者と気が合わないのかもはっきりする。この人の本は面白いけど、同時に「面白い話を一発吹いて目立ってやろう」という助平根性も感じるんだよね。勿論この人はれっきとした学者であって、歴史作家のくせに歴史学者のふりして商売してる人種とは違う。だから猶更その根性が気になる。我々はワトソンより寧ろロザリンド・フランクリンであるべき。ワトソン剽窃者として謗りたいのでははなく、帰納的に考えることをおろそかにしてはならないということだ。

2020-02-04

anond:20200204111100

そりゃあ個々の作品はいろいろあるだろう。

90年代は「主人公個性を薄くして没入させよう」みたいな堀井雄二テーゼが強かったしな。

(それにどれほどの効果があるのかが疑問視されて主人公個性が強まっていったわけだが)

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