「ペシミズム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ペシミズムとは

2017-06-19

誰も指摘しないけどさ、そこそこ知名度のあるアイドルって男ぐらい普通に警戒すると思うわけ。

それで、今回ばかりでなく今までを見ても普通に泊りに行ったりするわけじゃない?

ってことは、男に対する警戒心が希薄になるくらい日常的に男とお付き合いするっていうことが、普通にある環境ってことじゃない。接待だろうが打ち上げだろうが、打ち合わせだろうが。

それで恋愛禁止とかね、もういい加減信じてる奴馬鹿かと。

学校で考えてみ?体育会系部活マネージャーとかのレベルでこそこそ付き合ってるって。顧問先生に見つからないように。

あと、東浩紀だよ。やってる事はそりゃ立派かも知んないけど、ツイッター世間を知ったような口聞くな、と。みんな頭の中はめちゃくちゃな事考えてるかもしんないけど、普段は真面目に気使って生きてんだよ。

日本人を頭の中だけで考えるとおかし人達だよな。そりゃ多分100年前ぐらいかおかし人達って言われてんだよ。でもな、だからってそんな捨てたもんじゃないって。お前が一人で悲劇ヒーローになってるほど、悪くないよ。望めばキリないのはわかるよ。でもね、君が考える世界にもあんまり希望がない気がするよ。

頭の中とは別の居心地の良い世界があるんだよ。これからはわかんないけどね。

いつだってからないんだけど、日本人の良さは頭で考えてもよくわかんないと思うな。頭は大事だよ。でもそれは道具なの。大事な事は心で決めるんだよ。それが日本人の知性だと思う。君の知性は、正しいよ。正しいけど、嫌いだよ。安いペシミズムに見えてしまうよ。

あとな、太り過ぎだよ。死んじまうぞ?長生きしてくれよな。

みんなさ、なんで一記事に一つの話題なわけ?別に色んな話題があっても良いと思うな。

2015-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20150611170805

それは「いつか死ぬなら、今日自殺しても一緒でしょ」というペシミズムと同じ。

人が種の保存に意味付与するならば、そのために最善を尽くそうとする態度も良いものとして評価すべきだろう。

2014-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20140820015153

とても微妙問題を提起していると思った。

元増田の論点に乗れば、確かに、解釈(妄想)と実行のあいだには無限の距離があって、エロい妄想をするということ自体性犯罪の予備軍扱いするなら、共感は得られない。

だけど、今回のテーマは個人の解釈に留まるものではなくて、解釈する共同体(お笑い鑑賞)に矛先が向かっている。

自分どぶろっくというのは知らないから確信もって話せないけど、要約から察するかぎりは、たんに女性の振る舞いを性的解釈するだけでなく、その解釈をアイロニカルに提示することで笑いを誘っているのだろう。

これを鑑賞するひとはどういう考えを内面化するか? と言うと、ひとつには、この種の妄想家の愚かしさを相対的に眺めることができるようになるから男性妄想けん制する役割を果たすかもしれない。

しかアイロニー効果は、たんにその対象を相対化するだけじゃなくて、保存しもする。つまり、「こういうひとって馬鹿でしょ、でも世の中そういうもんなのよね」っていう。アイロニーメタ的な目線から

それだけじゃなくて、この笑いが描く女性は、対象としてしか登場しない。元増田性的主体として現れている(からこれを否定すると女性性的主体性のもの否定するんじゃないか)と書いてるけど、妄想のなかで男の性的欲望に照らして解釈されている女性が「主体的」だなんて(そしてそれを否定したら主体性のものが消えてしまうなんて)、まさか元増田も本気で書いているわけじゃないだろう。

ましてこの笑いにはその妄想嫌悪なり拒絶なりで反応する女性がお仕舞いに現れるわけでもない。自滅する振りをする男芸で閉じていると言っていい。

そういうわけで、自分としては、性差別的な状況を容認するような笑いだと思う。

でも、これが個人の妄想に過ぎないのなら、それはどうしようもない。

だけど、これは公共放送にのってて、その流通には社会メンバーひとりひとりが少なから責任を負ってると思う。

さっきも書いたように、解釈(妄想)と行為あいだには無限のへだたりがある。

問題は、両者を隔ててるものが何か、わからない、ってことだ。

けっきょくは、結果論的に「犯罪を犯したやつ」と「犯さなかったやつ」との区別しかできないかもしれないんだけど、それじゃ犯罪を予防することもできない。

メディアの影響はしばしば指摘されている。

今回のケースでは、どぶろっくお笑いが直接性犯罪を引き起こす、なんてことは言われなくて、そういうものを「ただのお笑い」として流通させようとする社会メディアのありかた全体が問題にされていると思う。

からといってもちろん、規制するための法律を……なんてことは、現状では受け容れられない。

表現の自由は大いに保証されるべき。

でも、そもそも法制度に頼るのって、社会の最終手段とまではいかないまでも、とりうる手段ひとつに過ぎないのでは?

たとえば、隣人がうるさいからという理由で、即警察通報するのって、近隣住民とのコミュニケーションが不在だからこそ起きることだと思う。苦情を直接言う、ということがなくなっている。

同様に、いま、何か世の中でまずいことが起こってると考えたときに、頼れるもの法律しかない、って事態になってるんじゃないか。

ほんとは道徳とか倫理とか、そういうことが語られてもいいと思うんだよね。

表現行為ポルノお笑い加虐性問題にしたいからって、即規制だ、とかそういうことにならずに。

話し合いじゃなにも変わらない、個人では社会を変えられない、そういうペシミズムが、すぐに法や規制行為に頼ろうとする振る舞いに繋がってくるんだと思う。

記事だって元増田だって、これが社会の考え方を変えるとまで信じるのは、ちょっと楽観的すぎるかもしんないけど、でもこういう提案を受けて、規制とまではいかないでも、自分がそれを変えるひとりなんだって意識することは大事なのではないかな。

移動中なんで支離滅裂でごめん。元増田の疑問にちょっとは応答したつもりです。

2014-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20140708153106

「正さなきゃいけない」って考えをまず捨ててみそ。

お前の余暇の使い方は、手持ちの金と社会道徳が許す限りはお前が自由にしていいんだ。

変な喩えになるが、お前が買った無数のショートケーキがここにあったとして、それを一個ずつ味わって食べていくのも、

頭のイチゴクリームだけかたっぱしかつまみ食いしてくのもお前の自由だ。お前の人生の使い方は本当にお前の自由なんだ。

効率を追求している内に本当の楽しさを見失った気になってペシミズムに暮れる生き方をお前が心の底で望んでるなら、

それをあえて正す必要なんてない。

お前の本質が赴くままに生きろ、お前自身何となくでとっちまう行動はお前が思っている何十倍もお前の本質に直結している。

2014-06-11

男だけどボーイズラブ映画(「どうしても触れたくない」)を見てきた

(一応映画を既に見た方に向けて書いているのですが、当方腐男子でもなくBLの文法も知らず原作も未読なので、腐女子の方から見たら噴飯物文章なのかもしれません)

物語の序盤に映った嶋の後ろ姿があまりにもゲイっぽかったため、演技指導が優秀だなと感動したのもつかの間、外川の「そういう流れだろ」に始まる不可解な描写の数々に腹筋が決壊寸前なのであった。なぜ嶋は萌え袖なのか。ジャストサイズの服を買わないのか。なのになぜ外川の家でのセックスの後に渡された着替えのパーカーはその身長差にも関わらずジャストサイズなのか。誰の服なのか。そもそもなぜ外川上半身露出シーンを設けたのか。腹が緩すぎじゃないのか。一方なぜ嶋は片乳首露出で終了なのか。あの乳首は実はスタントインではないのか。という疑問の数々に加え、二人の恋愛に関わらない描写の一切を省略する少女マンガ的切り口といったさまざまな緩さに正直なところ辟易していたのである。(ちなみに嶋役の方は身長163cm体重58kgだそうなので下手すると外川よりガタイが良い)

はいえ、外川と嶋の関係がきしみ出すようになると、制作サイドがどこまで自覚的なのか判然としないものの、徐々に物語の動きがスクリーン上の描写微妙なずれを見せるようになってくる。幾度となく挿入されるフラッシュバックは嶋の元彼の姿を外川と対比させるように想起させるのだが、小野田外川に漏らした嶋の不安を思い起こしてみるとその不安の根源は決して元彼との関係のみに還元され得ない。嶋が見る亡霊の正体はその元彼ではなくて、劇中には全く描かれないもの過去に嶋の上を通り過ぎていった全ての男たちであったことだろうと思う。

過去に多くの男が嶋の外見に惹かれ、身体を求め、そして飽きて別れるというサイクルを繰り返す中で嶋のニヒリズム一歩寸前のペシミズム自分には外見以外に何もないという自己卑下の心理は醸成されていったのだろうし、そして嶋にとっては外川も彼らと全く同じように見えたのだろう。この物語描写されるのが、恋愛情熱のただ中にいる人間と、その情熱の果てにある絶望を知る人間との戦いであったことを思えば、外川の劣勢も推して知るべきであり、外川によって明かされる自身の悲惨過去も嶋のバイアスを増強する方向にしか機能せず、さらには別れの場面における嶋のかたくなな態度も、外川のためを思っているふりをしながらも実際は単に外川を責める構図となっている。あなたと僕の間にはセックスしかなかったじゃないか、あなたと他の男たちはいったい何が違うのか、この関係からセックスを取り除いたら残るものは何なのか、と。外川はここで嶋にセックスを求めることによって、逆説的に嶋のペシミズムにひびを入れる。もし本当に、お前の言うとおりなのだとしたら、と嶋に想像を迫るこのシーンは、前半の緩さから想像もつかないほどドラマ性にあふれている。

ひとりになった後、外川から預けられたままになっていた煙草を嶋が見つけたとき、今まで見ないふりをしていたもの存在に改めて気付き、彼は決壊する。外川に与えられていた気遣いの数々。彼の気持ちを今まで考えようともせず、自分が傷つきたくないあまりに彼を振り回し、結果として彼を傷つけていたのは単に自分わがままに他ならなかったという事実煙草と嗚咽のみによって端正に状況を切り出す手さばきは非常に自分の好みで、このシーンだけで前半の雑な描写を不問にしようと心に決めたのだけど、とはいえこれが映画制作真摯に向き合った結果として生まれたのかというとそうだとも思えず、単に観客層の文脈把握力を信頼した結果として発生した奇跡なのではないかという気がしている。

最終的に外川と嶋は再び結ばれるとはいえ、結局物語最後までセックスの向こう側に何が存在するかが描かれなかったことを考えると、外川との逢瀬の先こそが、たとえば「アデル、ブルーは熱い色」におけるアデル彷徨のように、嶋にとっては本当の地獄巡りの始まりなのだろうし、少なくともこれがハッピーエンド一言で済ませられるほど爽やかな物語には見えないのだけれど、もしかしたら残酷童話なのかもしれないとしてもそれはそれとしてこの映画を心に留め置こうと決めた次第である。とりあえず原作を読んで例の「そういう流れだろ」が本当にそういう流れだったのかを確認したいと思う。

余談だが、ノンケ外川の家にコンドームはまだしも潤滑油的なものがあるとも思えず、そうすると彼らは一体どうやってセックスをしたのだろうか、と訝しく思っている。3次元にもいわゆるやおい穴存在するのか。関係ない話で恐縮なのですが僕は「何もなかったかオクラを刻んだ」という話を拝聴したことがあります

2013-11-20

日本の tech 業界蔓延ペシミズムをなんとかしたい

http://hardware.slashdot.jp/story/13/11/19/0426238/

始まる前からスキミング技術と紙一重なので、あっという間にクラックされるような気もする。』とか『店頭で利用が拒否されそうな予感も 部門より』とか、こんなんだから何も新しいことが始まらないんだよ…

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

2008-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20080806215940

綺麗なまとめありがとうございます。そう、キモいのは変化のスピードと、それを支える思想の淡白さ。そしてどこに連れてかれようとしているのかよくわかんないところ。恐ろしいと思うのは、「あ、これはまずいぞ」とみんなが思ってももう引き返せなくなるポイントを越えてしまっているような気がするところ(こんきょのないペシミズム

グーグルが強固な信念に則り、確信犯的に創造破壊活動を行っているのはわかる。が、「さすがグーグルッ!(中略)そこに惹かれる憧れる!」とは思えない。自分にはグーグルのやり方は性急で荒っぽく見えるし、技術に対する無邪気すぎる信仰も傲慢すぎていやだ。ま、これはもう完全に好みの問題かも。グーグルが駆逐しようとしている「旧勢力」を弁護したいわけじゃない。その点ついては面白いからもっとやれ、と応援している。でもだからといってグーグルが導く未来がバラ色とはこれまた思えない。急激すぎる変化のしわ寄せもきっつのがくるんじゃなかろうかと思っている。まあネットリテラシーに長けていらっしゃる勝ち組の皆様なら大丈夫でしょうけど。

最後のは「いまどきネットもしてないやつは滅んで当然」みたいなことを平気でいう人への皮肉です。ごめんなさい。

2008-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20080612235233

ペシミズムというのは自己責任批判でのほうが当てはまると思う。努力しても解決しないとかよく聞くがこれってどう見ても悲観的だろ。

あと自己責任強調するのは強者のレッテル貼られてなんでもかんでも責任転嫁されるのがいやってのもある。

2007-03-12

意志の介在

「ただ在る」ということはそれはそうなんだけど、

流れに身を任せればいいということではなく、

ペシミズムに陥らない「生きる意志の介在」は重要

どう生きるべきか、或いはどう「生きたい」か。

自分の人生神の手から取り戻すための

青年期の人生の選択に直結するのだよ。

2007-03-11

人は何故これほどまでに悲しいことを伝えたがるのだろう。

優秀なペシミズム量産機械のように。

2007-02-18

永劫回帰

http://anond.hatelabo.jp/20070218144839

増田ペシミズムを超克する。

増田は無数におり、話題は有限である」という前提に立ち、無数の増田が思いつく有限の話題を組み合わせたものがはてな匿名ダイアリーであるならば、現在の議論と似たような議論が過去存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、このはてな匿名ダイアリーの円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。すなわち、永劫回帰はしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、同じような議論が何度めぐり来ても、いまここにあるエントリーがかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生の苦悩を超出している超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来されるはてな匿名ダイアリーの根源的なありようなのである。

(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0

 
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