エビデンスと海老男子って微妙に似てるよね。まあそれはどうでもいいとして。
女性間におけるエビデンスという概念はつまり、「そんなん嘘松やん」とか「対立煽り乙」とかそういう批判を喰らわない為に作り出された考えで、要するに、「世の中のアンチが何を言おうが現に私は現代社会において理不尽な経験をしてきたのであり、それが私の批判におけるエビデンス(根拠)になってるんです」ってな考え方のことである。まあこんなことは今更説明しなくても分かるだろうけど
で、問題はこれが主に女子だけに使用が許可され男性には使用が基本的に見送られている概念であるという点である。こう書くと、「いやいや、一部のどちらかと言えばホモソーシャルに参加していない男性陣の中からも、生きにくさを自分の体験に照らし合わせながら、つまりエビデンスに照らし合わせながら訴えている人もいますよ? 何言ってるんですか?」みたいなことを短絡的に書いてくる人間がいるんだろうけれど、いや違うんやと。
率直に言って、主にこのエビデンスと呼ばれる概念によって訴えられる事の内容は、「クソオスがいた!」ってものに限られているのに俺は疑問を感じる、ってことなんです。女子は言う。「クソオスがいた!」「セクハラするクソオスがいた!」「性犯罪に加担するクソオスがいた!」「パワハラするクソオスがいた!」「ホモソーシャルへの同調を押し付けてくるクソオスがいた!」「クソオスがいた!」ってな具合で、基本的にこのエビデンス、ってな考え方は「クソオスがいた!」という発言に終始しているんですね。少なくとも、エビデンスと銘打たれた発言、あるいは、エビデンスを自称する人間の、エビデンスと自称するに至った理由についての発言は、畢竟「クソオスがいた!」という発言に終止することが多いんです。そこが明らかな問題で、何でこれは主に女性から男性に対する「クソオスがいた!」って発言に大勢を占められなくちゃいかんのかな、ってことを率直に疑問に思うわけです。
こういうこと言うとよく飛んでくる詭弁なんですが、「全てがクソオス批判じゃないよ?」って批判でございます。今のうちにそのクソリプを封殺しておきたいんだけれど、いや「全てがクソオス批判」だなんて一言も言ってねえわ。それが大半だっつってるの。
こういうこと言うと「私の身の回りではクソオス批判に終始してるわけじゃないよ?」いやお前の身の回りとか知らんわ、可視化されるエビデンス関連の発言はクソオス批判に終始してるのは明らかだろうが。
「でもこれが私のエビデンスなんで」もうええわ。
みたいな感じの詭弁が飛んでくることとなるんですね、詭弁の見本市かな? お腹いっぱいになりそう。
それはそれとして、とにかくエビデンスというと「クソオス批判」に終始しがちです。勿論、世の中にクソオスがいることは否定しません。加えるに、クソオスに関しては僕だってクソオスだなあと思うし、僕の身の回りにもクソオスはちゃんといます。男性が女性より理性的だとも優れているとも言うつもりもないし、逆に女性が男性よりも優れているという意見を担保するつもりもないです。繰り返すように、世の中にはクソオスがちゃんといるし、そして僕の身の回りにだってそれはいる。つまりは僕だってエビデンスを共有しているし、そこを否定するつもりはないんです。つまり、僕の意見はごくフラットなものだということです。
だからこそ、もう一度言います。「可視化され周知されるエビデンス関連の発言は、クソオス批判が大半を占めている」まずこのテーゼを認めて下さい。イエス・ノーか。イエスだろうが。
(書いてる内にまた予想しうる詭弁的反論に対する反論を思いついてしまったのですが、流石にこれは後回しにします)
とにかく、エビデンスっつーのは固定されきってて――女性による男性に対する批判という形式に大体固着し過ぎていて――まあ早晩陳腐化するのが目に見えている概念なわけです。概念は固定化すると大体陳腐化します。その陳腐化の流れに介入しようとかそんな大それたことを考えているわけではないですが、とにかくこういう陳腐化が早晩発生するだろう概念(あるいは既に陳腐化しているところの概念)を見ているのは忍びないのに加え、純粋に「エビデンス」という概念に対して、それほど好意的な印象を持っているわけではない(クソオスにとかく終始しがちなため)のもあって、ちょっとこの辺りで一石を投じたくなったのです。
つまり、男版エビデンス。海老男子があってもいいんじゃね? ってことです。
いやね、クソオス、クソオス、と最近では盛んに囁かれていますが、クソメスはおるぞと。
そう、ここに男女の不均衡がある。女性が「クソオス!」と叫ぶと女性はそれに対して全面的に擁護し受け入れる体制を取る。いや分かるんですよ、仮にある女性の訴えるエビデンスが事実だったとして、その時ほかの女性がそのエビデンスを否定してしまったら、クソオスの禍に晒されてしまった女性の感情に持って行き場がなくなりますからね、そういう女性は保護しなくちゃいけない。それは分かります。
でもね。
不均衡。そう、つまりはこういうことです。男がネットの増田とかのスペースで、「クソメス!」って叫ぶと、女性はほぼそれを否定しようと掛かるってことです。
「は? お前が悪いねんそれは、責任転嫁するなボケ」みたいなこと平気で言いますよね女性は。同じこと女性に言えます? 言わないですよね?(言う人もいる、とかそういうのはいいです。)
(つーかここで仮に女性が女性に対して、「お前それ自分の責任ちゃうん? 自分が悪いの棚に上げてるだけちゃうん?」ってスタイルを取ることが恒常的になってしまうと、そもそもその時点で「エビデンス」が陳腐化してしまうんですよね。頭ごなしに他者の体験を否定しないことがエビデンスの理念なんですから)
(こんなことを言うと、「いやいやエビデンスって考えは誰かの訴えを無制限に認める立場を示しているものじゃないよ?」とか言われそうだけど、無制限ではないにしろ少なくとも、頭ごなしにすぐ相手の意見を否定する行為は、エビデンスの理念には背きますよね)
え? エビデンスはどこに行ったんですか? と言いたい。だって、例え世の中の不特定多数の人間の、「いやいや君は社会における女性の立場が適切に扱われていないって言うけれど、そんなの思い込みでしょ?笑」みたいな無神経な意見が存在していたとして、「でも!」と唱えることができる、っていうのがエビデンスの理念だったんじゃないんですか? 「でも! 現に私は被害に遭ってる! 私が理不尽な扱いを受けたのは事実だし、それは簡単に否定されていいことじゃない!」って訴えることのできる権利こそが、エビデンスじゃなかったんですか? 何で、ネットの苛烈に振る舞う女性たちは、そのような立場や権利を男性にも認めようとしないんですか?
言うたら悪いんですけど、クソオスと同じくらいクソメスはいますよ?
クソオスが多いことは僕も分かっています。どっちかと言うと、僕もホモソーシャルから脱落する側のオスだったので、オス特有の倫理とか価値観とかそういうものについては当然触れてきたし、それらについてはかなり深く熟知しています。勿論、そのようなホモソーシャルにおける固定化された倫理が女性に対して時に苛烈に、時に理不尽に襲いかかることがあることも承知しています。でもね、と僕は言いたい。
クソメスもかなりいる。
クソメスもホモソーシャルの原理で動いてクソな行動を取ってるし、それは男性におけるクソオスの絶対数に劣るものでもない。
それが僕のエビデンスなんですよ
ね? 僕の意見を認めることが、普段苛烈に発言をして、女性のエビデンス的発言に対して最大限の擁護と担保を行うネット論壇の女性の皆様には可能ですか? 本当に平等で公平な、男女同権的な振る舞いというものが、貴女達には可能ですか? と私は問いたい。
いやあ、こんなことを言うと反論が来るんでしょうね。「お前のエビデンスなんか知るかボケ」を精一杯オブラートに包んで、僕の確固たる現実をあの手この手で否定しようとする意見が来るんでしょうね、と僕は予感する次第です。「ホモソーシャルからあぶれてるとか言いつつも、お前は男性なんだし既得権益側で普段から女性に対して加害的に振る舞うことが『可能な』立場だろ? だったら自分を女性と同列に語って擁護を求めるような真似をするんじゃねえよ」とか、「お前の人間性の劣悪さがお前の現実に反映されてるだけだよ、多分お前の普段のコミュニケーションに問題があるのがそもそもの原因だろ? まずは自分のあり方を矯正するところから始めろよ」とかね。
いやいや待てや、と私は言いたい。
結構典型的な男性側のエビデンス発言に対する反論として、「お前の方に問題があるからお前のあり方を矯正しろ」って多いんですけど、いや、周囲の圧力によって理不尽に自分のあり方を変更させられることって、フェミニストやフェミニズムが最も警戒しなきゃいけないことなんじゃないんですか? と言いたい。
つーかぶっちゃけ↑に書いた予想反論は、単純な予想ではなくて実際にはてブ界隈を見てれば無数、とまでは言わなくともしばしば見かける女性側からの苛烈な意見なんですね。実際に、そういうことを言われている男性側の人間がたくさんいることを、僕はこの目でしっかり見てるんですね。そして、僕はそういう客観性と公平性と熟慮を欠いた意見を見る度に、「彼女たちに議論というものは無理なんだろうな」ってことを思うんです。恐らくは、苛烈さと理知を混同している彼女たちには、根本的に議論をすることは不可能なんだな、ってなことを思ってしまうんです。要は彼女たちは、世間の(ネットの)女性たちが訴えるクソオスの対義語であるところの、クソメスなんですよ直截に言ってしまえば。
ただ、あくまで「議論は無理なんだ」と思ってしまうような女性がネットには「散見される」、ってなだけで。勿論理知的で客観性と公平性を兼ね揃えていて、男性が切々と訴える自己の傷にまみれた体験を頭ごなしに否定したり否定こそしなくとも嘲りまじりの対応をしたりとか、そんなことをしない女性だって、たくさんいるでしょう。そういう女性の存在を否定しているわけではないんです。
ただ、マジでクソオスがこの世の中に溢れているように、クソメスも同等の数いるんですよ。勿論僕は自分に人生において、公平で客観的でまともな女性にだってそれなりに出会ってきたんですけれど、実際には男性にしろ女性にしろ、まともな人間って結構少ないんすよ。
僕自身にしたところで、本当にまともな人間なのかと問われると、正直狼狽えてしまう。まともであろうとしているのは事実なんですけどね。
だからね、女性に対して言いたいのは、「まともじゃない女性がいる」って男性が発言した時に、その発言を頭ごなしに否定したり、あるいは否定しなくとも嘲笑ったりしないで欲しい、ってことなんです。否定されても嘲笑われようと、それは僕らの現実であって、否定しようのないエビデンス。つまりは海老男子なんですから。