はてなキーワード: テーゼとは
「ご恵贈頂きました」という類いの呟きに寄せた郡さんの「呟き」は、書物を出版するという行為を人脈作りのように扱うことへの反感をこめたものだ。その底流にあるのは、書物という存在に対する畏れ、敬意、尊重するという「しぐさ」であり、それが彼の出版人としてのスタンスの根本に関わる問題であることが伺える。
一方で「その呟きを批判することが自由な言論の流通を阻害する」と批判する小林さんの意見は、これも書物を狭い公共圏の所属物にしてしまうことへの嫌悪や彼女なりの書物の未来への希望に基づく批判だと考えられる。書物はもっと自由で開かれたものであるべきだ、という思想もまた、彼女の出版人としての根本に関わるテーゼなのだろう。
両者の意見を踏まえた上で、その対立について、それから、切り取られた「クッキーでも焼いて…」という言葉について意見を述べたい。
まず、両者の意見はまさに「意見表明すること」に対する価値観を異にしているため、おそらく折り合う点がない。郡さんは「世界に向けて意見を述べるとは、反論・批判を受けて立つ覚悟に基づくべきものであり、それは神聖な行為だ」と考えているのだろう。そういう覚悟のないおしゃべりによる人と人の繋がりを一段低いものと見て、Twitterなどの道具を使ってそれをすることを否定するほど狭量ではないものの、自分が心を込めて関わっているものをそんなことの道具に使う行為に対しては嫌悪感を覚える、というスタンスだ。たとえて言うなら、陶芸家が「いまプレゼントに最適なカップ」特集とか見て、苦虫をかみつぶしているような感覚だろう。
一方の小林さんは、おそらくそういうスタンスをもつ世代の「本」作りには未来がないと踏んでいる。彼女は彼女なりに出版の未来、書物の未来を憂えていて、むしろ前世代の人が気軽な交流の場に本を持ち出すことに苦言を呈すること自体が、書物の未来を奪うものとして気に入らないのだろう。たとえて言うなら、その陶芸家の息子が、自ブランドの社長として上手にブランディング戦略をして「プレゼントに最適なカップ」特集に○○印のカップを掲載してもらっているようなものだ。
……とまとめれば分かってもらえると思うが、こんな二人の話が折れ合う地点など最初からない。
私が問題だと思うのは、こんな折れ合わない二人が触れ合い対立してしまうことを、いまのTwitterの仕組みはプラスにできず(論争が深まる余地がないので)、足を引っ張り合うこと(炎上)にしか繋げられない点だ。SNSは人と人の距離をぐっと近づけたが、ブログvsブログならまだ存在した対話の余地を、Twitterは残さない。そしてそれを煽るのがtogetterのようなまとめサイトで、まさに郡さんの思うような「編集」という行為の恣意性や恐ろしさに気付かないまま、面白おかしく「炎上しやすそうなポイント」に絞ってページ作成者は対立を煽り、社会全体の生産性を下げている。私は、この二人はそれぞれのポジションで自己のお仕事に邁進していただいたい方が、なんぼか日本と世界の、そして書物の未来のためになると思う。
今回の対立は「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という郡さんの売り言葉に対して「性差別的な発言が感情的な口調」と小林さんが受けたところから本筋を逸脱した。郡さんの文脈でこの売り言葉を読めば、それはつまり「(書物の怖さを尊重せず交流の価値だけに可能性を見出すなら、書物という作るのも受け取るのも恐ろしいものに手を出さず、安全な)クッキーを焼いてフリマで売って(好きなだけ「素敵ー」とか言い合ってぬるい交流をす)ればいい」という意味であるのは明白だし、ブラック気味のジョークとして受け取れる範疇の揶揄であったと考えるが、小林さんはその文脈を外して「(自分が女性だからクッキー焼け、つまり社会に出てくるなという話になるのか、つまり)性差別」でありかつ「(性差別的な発言を不用意に侮辱的に投げかけるほどあなたは)感情的だ」というレッテル貼りを行って、話を泥沼化させた。あとは、Twitterに住む蝿がよってたかってブンブン言わせて、事態は無事小学校の学級会へと堕していった。
郡さんのそのブラック口調が不用意だったのか、あるいは(かねてから似たような目に遭ってきたと想像される)小林さんの受け取り方がよくなかったのか、そこは今更問うまい。両者がその間の事情をそれぞれ忖度すべきだったというほど、両者に重い責任を負わせようとも思わない。ただ、いずれにせよ、両者はTwitterなどという軽い軽い場で議論じみた交流をすべきでなく、ただお互いの仕事に努めた方がずっとよい。陶芸家とその息子、ハッキリ言えば話すだけ無駄だと思う。
これまで何度も繰り返されたこういう出来事(出会うべきでない二人をお節介にも出会わせて無益な対立を生み、あまつさえそれを見世物にする!)をシステム上で防ぐ仕組みができない限り、いずれTwitterは信頼も人心も失っていくだろうと思う。
便宜上https://anond.hatelabo.jp/20180802123936にぶらさがる
https://anond.hatelabo.jp/20180802123936のブコメで「医師の数を制限してるのがいけないんじゃね?」とかいろんな意見があがってるが、なぜ医師の数が制限されているか、という背景を理解しないと真の問題は理解できない。
「Cost, access, quality. Pick any two(コストとアクセスと医療の質。このうち,2つまでなら選んでもよい)」
クオリティ高い医療を、誰でも利用できるようにする(access)にはコストがかかる
クオリティ高い医療を、できるだけ安く提供するためには(cost)、アクセスが制限される
誰でも利用できるように(access)、できるだけ安く提供しようとすると(cost)、質が保証できなくなる
日本の医療の問題は、この3つのうちどれを選ばないか、その選択ができないままに問題を現場に押しつけてきたということにつきる。
1983年、有名な「医療費亡国論」が発表されて以降、医療費総額の伸びを抑制することは絶対的なテーゼと化した。
そこを全く決断できないまま、ただ「質のよい医療の提供」「誰でも自由にどんな病院を選んでいいってもよい」状況が続けられ、しかし予算は増えず、人は増やせず、医療の質の要求はどんどんあがり、ただ医師の労働状況が悪くなっていった。
医師を増やすということは、医療費の増額を許容するということである(ここで財源が保険料か税金かは議論しない)
医療費の増額を許容しないということは、医療の質か、誰でも自由に好きな病院にいける、どちらかをあきらめないといけない。
ほとんどの国はまず地域の総合診断医にかかるという地域医制になり、高度な医療へのアクセスは制限されている(地域医にかかるのも予約制で時間がかかる)。
あの一時期は「がんの手術を受けられることが決まっても待機中に死ぬ(最悪の時は待ち時間が2年を越えた)」という感じだったイギリスですら医療システムに対する評価は85%が「満足している」(大変満足しているからどちらかといえば満足をまとめた数字)であるhttps://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2014_11/20141104.pdf
ちなみに日本は71%である。医療体制の評価では日本の方が上である(参考https://www.huffingtonpost.jp/mamoru-ichikawa/japanese-medical-no1_b_17327920.html(日本11位イギリス30位)
俺はパンセクシャル寄りのバイで、おまけに社会不安障害を抱えていてあまり人と仲良くなれない。なので女性と満足にセックスできたためしがない。風俗店に行ったこともあるがいたずらに時間が過ぎるだけだった。
しかしそれでいて「生産性」発言で非難轟々の某議員をあけすけに叩くことがどうしてもできない。
セクシャルマイノリティの内訳ではLGBTはマジョリティであると俺は思う。小児性愛やケモナーよりは確実にポピュラーな存在だろう、LGBTは。多様化のスローガンを掲げてホモフォビア的態度を封殺しようとすれば、LGBT以外のセクシャルマイノリティにも寛容にならなければいけない。人間のイマジネーションは奥が深い。俺らが思いもよらないものや行為に恋愛感情や性的関心を寄せる人は幾重にも存在する。
小児性愛者やケモナー、はたまた四肢切断に関心を抱く人等、これから出会うかもしれないセクシャルマイノリティの全てを受け入れろというのは個人のキャパシティを超えている。人にはどうしても認められない価値観があって、当人の持つテーゼからあまりにかけ離れているがために今はその存在すら想像だにしていないのだ。
こうやって判断の難しいレアケースにどうやって対処するのかと言うことを唱えると「小児への性的接触や獣姦は判断能力が低く意思表示が難しい者を弄ぶ暴力行為であり、そういった行為に走る可能性がある人間を容認することはできない」というような反論が聞こえてくるだろう。しかしそれは僕からすると間違いで、性的欲求を暴走させ周囲を傷つける判断能力の欠落とセクシャルマイノリティであるかどうかは何の因果もないと思う。同世代を対象としたヘテロセクシャルやLGBTにもレイパーは存在するわけで、猥褻な事件の要因をセクシャリティに絡めてはいけない。
リベラリストの立場でLGBTの権利拡大に賛同する人のどれだけが、明示化されるかもしれないレアケースに向き合う覚悟があるんだろうと、どうしても俺は冷ややかな態度になってしまう。突き詰めていけばみんな結局自分の信心に従った勝手のいい「倫理」を持ち出して、自分が嫌悪するものを「例外」として門前払いしようとし始めるのではないのかと考えてしまう。結局僕らは女性蔑視の酷いイスラム原理主義者や中絶を認めないカトリック信者のように、自分の持つテーゼを一方的に盲信しているだけかもしれない。
「生産性のない者に施しはいらない」という言葉をもってして考慮すると騒動はセクシャリティに限った話ではない。
カルト教団や統合失調症患者、アルコールや麻薬依存症、医療大麻支持者、ニート、生活保護受給者、パチンコ店経営者、ブラックワンマン社長、ゴシップ誌記者、うなぎ養殖業者、原子力発電業者…世間から存在意義を問われ時には社会を卑しめる悪とすら呼ばれる人たちは枚挙にいとまがない。彼ら全てを肯定しようといえば、どこからともなくそれは違うという人が現れて、彼らの短所を挙げ尤もらしく彼らの排除を訴える。世界は単純ではなく、何にだ短所はあるというのに。
俺は別に認められないものがあってもいいと思うんだよ。神じゃないんだから個人的にNGってものは絶対あるし、逆にこれは守りたいってものもあっていい。でもそれを「社会の多様化」だとか大義名分掲げて、さも公益のため人の尊厳のために滅茶苦茶正しいことやってるですよって正当化していくの、なんか卑怯だなって思っちゃう時があるんだよ。結局根っこは私信だと思うのね。「ゲイがオープンリーになったらなんか良さげじゃん」みたいな気持ちに色々肉付けして説得力あげようとしてるだけなんじゃないのかなってたまに思ってしまう。
みんなが「ゲイが虐められてるの見ると気分悪いからホモフォビア嫌いです」ぐらいの意思表示にとどめたほうが、かえって問題がわかりやすくなるんじゃないかなとか考えちゃう。
それから今回の炎上でやるべきなのは議員や自民党を叩いて潰そうとすることじゃなくて、カウンターになりうるLGBTに理解ある議員の応援だと思った。気に入らないものを潰せというのではなくて、自分の意見を反映してくれる人を送り込むというアプローチのほうが社会の多様性という点では好ましいんじゃないかな。
まとまりがなく幼稚な内容かもしれないけど、あの議員に迷いなく憤りをぶつけることがどうしてもできなくて、その理由を探るために書き記しておきます。
じゃあ2000年前と現代で、「人間」がどれくらい「変化」したのか言ってみろよ。
理屈じゃねーんだ。何が「浮気」か、っていうのは人間の「感情」の問題で、これはちょっとやそっとの社会の変化で変わるもんじゃねえ。たとえば一夫多妻制が認められた社会でパートナーが他の人と過ごしているとき「まあ一夫多妻制だから普通だわ」って平然としてられると思うか? そんなわけねーんだよ。「源氏物語」や「蜻蛉日記」くらい高校で読んだだろ?
だからこれは、人間の本質に関する哲学的省察と膨大な時の流れや文化を超えた試行によってテストされ磨かれたテーゼに拠るくらいしか、説得力のある回答なんざ出来ねぇ問題なのよ。過去の知恵を学ぶときってのは、こういうときだよ。
フェミニストが乳製品を摂ることは矛盾か、という議論が喧しい。
https://togetter.com/li/1194767
http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/01/29/162209
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2018/01/30/152800
はじめに言っておくと、わたしはヴィーガニズムやアニマルライツには明白に反対である。しかし、それらを一部のバカによる寝言だとは思わない。むしろヴィーガニズムは正しいと思っている。いや、より正確に言うならば、ヴィーガニズムは正しすぎるがゆえに問題なのだ。
ヴィーガニズムへの反対に理屈をつけようとすると、かなり高い精度でブーメランとなって戻ってくる。人間と動物は違う! 白人と黒人、男と女を代入して同じことが言えるだろうか? 人間は他の動物より賢い! 男が力強いことを男性が優越していることにしたい性差別主義者は、古今東西どこにでもいる。人間が動物と違うのは社会の常識だ! アメリカ南部の奴隷主たちも、同じことを思っていただろう。
10年ほど前、はてなで「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というフレーズが話題になった。まったくその通りだ。「同じ人間を差別してはいけない」にも理由はない。理由はないが、道徳律とはそういうものだ。差別はいけない、なぜならそれは差別だからだ、という主張は空虚だが、しかしその正しさを疑う人はいないだろう。差別は正しくない、これは自明です。
ところで、「同じ動物を差別してはいけない」という主張は、「同じ人間を差別してはいけない」と論理的に同型である。空虚である。空虚であるが、ではそれゆえに正しくないと主張することは可能だろうか?
人類の平等への闘いは、「同じ○○」の範囲を広げてゆくことだった。「同じキリスト教徒を差別してはいけない」という議論に対して異教徒が声を上げることは必要だった。「同じ成人男性を差別してはいけない」という主張では、無産階級の男性のことは救えても婦人参政権は実現できなかった。ようやく今、人種差別や性差別が「同じ人間を差別してはいけない」として斥けられる時代になったのだ。
しかし牛や豚からすれば、その「人間の平等」は、「白人のなかでの平等」や「男性のあいだでの平等」と寸毫変わらぬであろう。
それがヴィーガンやアニマルライツの訴えの核心である。これを安易に「人間と動物は違うんです。以上」で切り捨てることは、安易に「だって男と女は違うじゃん」と切り捨てることと、いったいどこが違うというのだろうか? このふたつの主張をまったく別物だと切り分けること、それ自体が彼らの批判する種差別なのだ。
何でフェミニストにばかりそういう要求や追及がなされるのか? と疑問を呈する人もいる。断言するが、それは最悪の戦略である。
第一に、ヴィーガン界隈を見ればわかるが、彼らは一般人に対しても肉を食ってさえいれば無差別にマサカリを投げつけている。それが今回たまたま件のフェミニスト氏に向けられただけであり、構図としてはセクシーな萌えキャラの出てくるポスターをフェミニストから批判されたオタクが「何でオタクばっかり叩くんだ?」と過去の女性運動の蓄積も知らずに愚痴っているのと寸分違わない。やめておいたほうがいい。
第二に、差別に反対する運動の中で別の差別が行われていたとき、それを厳しく追及してきたのはフェミニストたちだったではないか。人種差別に反対する運動の中で性差別が起きたとき、人種差別だけでなく性差別にも反対すべきだ、そうでなければ真の反差別とはいえない、という主張はそれなりの説得力をもって受容されてきたように記憶している。であるとすれば、性差別だけではなく種差別にも、という主張が向けられることは自然な話であろう。
つまり、既存の反差別運動の側は、迂闊にヴィーガニズムを揶揄しているとブーメランが帰ってくるわけだ。反差別、正確には、反人種差別および反性差別を支持する者として、味方がブーメランに撃ち抜かれて斃れていくのを見るのはやるせない。
ではどうするか? わたしはまず、敵対関係を認識すべきだと主張したい。
フェミニストは男性優位社会の敵である。奴隷解放論者は南部社会の敵であり公民権運動の闘士は白人中心主義社会の敵である。それと同様に、ヴィーガンは人類社会の敵である。
このことは、現在のヴィーガニズムの支持者が全員人類であることと何ら矛盾しない.家父長制と闘う人びとの中には男もいた。奴隷を逃がしたり黒人とともに座り込みに参加した白人もいた。そして彼らは、男でありながら男性中心主義の敵であり、白人でありながら白人至上主義の敵だった。ゆえにヴィーガンが、人類でありながら人類社会と敵対するのは何ら矛盾ではない。
わたしたちにはふたつの選択肢がある。ひとつめの選択肢は、敵が提示する平等のテーゼを受け入れることであり、つまりはジャイナ教徒のように虫の一匹も殺さぬようマスクをし箒で道を掃きながら歩く生活を選び取ることだ。もうひとつが、平等と敵対することである。種差別の何が悪い、人間は動物とは違うんだ、人間の都合で動物を搾取することは当然だ、と傲然と言い放つことである。
最悪なのは、この敵対性に対して目を瞑ることだ。敵を「なんか頭のおかしい人たち」として片付けることだ。そうではない。彼らは正しいのだ。彼らは正当な抗議者として、つまりはわれわれの敵として扱われるべきなのだ。
この敵対性を隠蔽してしまったら、他の敵対性が隠蔽されることに抗えなくなる。それは平等への闘いの自滅だ。敵対性がそこにあることを明るみに出すことは、常に闘いの出発点なのであるから。
なのでわたしは宣言する。肉うめぇ。これはヴィーガニズムが提示する平等への敵対だ。朕はたらふく食ってるぞ、汝畜生食われてろ。数百年後、あの世代は動物差別と動物大虐殺を何とも思っていなかった民度の低い連中だ、人類の進歩を阻害してきた、と糾弾されるかもしれない。それでもわたしは、種差別を正しいと信じる。人間は動物とは違っており、この差別は当然だと主張する。未来の子供は、わたしのこの言明を醜悪なスピーシシストの声明として読むかもしれない。ユダヤ人は劣等だと言い放ったちょび髭の指導者や、女は男よりも劣った生き物なのだと公言してきた家父長たちが扱われるように、動物を殺して恥じなかった我々現代人も扱われるかもしれない。ひょっとすると数十年後に革命が起きて、人道に対する罪で訴追されるかもしれない。自己批判を強要されるかもしれない。それでもわたしはヴィーガニズムに敵対する。この差別は正しい差別だからだ。
さあ、みんなもそう叫ぼうじゃないか。種差別は必要だ! 種差別は正しい! 今ここで種差別を! 明日も種差別を! 永遠に種差別を!
その構成を具体的に示すと次のようになる。
導入部の後には、まずテーゼ(命題)としてある説・論・主張を略記する。
そしてテーゼに含まれる美点、たしかにと首肯できるところを挙げる。
続いてアンチテーゼ、つまりテーゼの汚点、賛同できない点を挙げる。
最後にジンテーゼ、つまりテーゼの美点は継承しつつも、アンチテーゼとして掲げられた汚点は克服されている、素敵な第三案を提示する。
以上だ。
具体例の挿入とか論拠の提示とかの肉付けは残っているが、論の骨子としてはこの4つが揃っていれば、必須要件を満たしていると言える。
裏を返して逆に見ると、つまり対偶をとると、論の骨子が必須要件を満たしていないという時は、必ず4つのうちのいずれかを欠いていると言える。
ここからが本題なのだが、同時にここからは単なる主観でもある。
経験則で言うと、この4つのうちでもっとも欠きやすいのが「テーゼの美点」だ。
しかし、テーゼの美点を踏まえていないジンテーゼは、美点の継承 + 汚点の克服という要件の前者を欠いたものとなるために、単なるアンチテーゼの焼き直しになる。
そのような論には進歩も深化もなく、ただ話者の言いたいこと投げっぱなしジャーマンの痕跡があるだけだ。
とはいえ、一般人が何かを私的に論ずる時、常にヘーゲル流弁証法的な構成や手続きを踏むのは現実的ではない。
議論の目的が必ずしも進歩や深化を求めるものばかりではないからだ。
議員とは、主権者の幸福度をより効果的に維持・向上するよう、行政と司法をコントロールするための立法に、(少なくとも形式上は)議会での議論を通じて取り組む労働者を指す言葉だと思う。
果たして現実の議員がそのような定義に沿った実態を伴っているかについてはさて置くとして、定義からすれば彼らに求められる必須技能は以下の3つになる。
すなわち、
■ 1. 正しい目的意識
■ 2. 適切な統治能力
= 現況の中での目的への最適解を適切に見出し、行政と司法を最適解に向かうよう制御できる能力
だ。
選挙演説や討論番組を観ていると、どうも耳目にする議員(候補)のほとんどすべてが、その論説に「テーゼ(ここでは議員と対立する意見や政策)の美点」の提示・継承を欠いている。
自分には資質があるから票をくれと訴えるプレゼンテーションたる演説ですら、アンチテーゼとその焼き直したるジンテーゼもどきを延々垂れ流す人たちが、どうして議会で対立意見を持つ別の議員たちと健全な議論を繰り広げられるのだろうか。
これは別に「右派は」とか「左派は」とか、枝野氏風に言うなら「上からの人は」とか「草の根からの人は」とか、そういう話ではない。
むしろ、そのいずれに属していたとしても、揃いも揃って議論のお作法が出来ていないという話なのだ。
自公について言うならば、民主党政権には本当に何も功績や合理的取り組みがなかった暗黒時代なのか、あるいは安保・改憲反対派の言うことにはまったく理解できるところはないのか、ぜひ顧みて欲しい。いや、どうせ顧みられないだろうけど。
立憲や共産党・社民について言うならば、アベノミクスは本当にすべてまやかしで格差を拡大しただけの何ら益ないものだったのか、あるいは安全保障上で米国の協力を引き出そうとみっともなくもがくことを本当に完全に無意味と断じられる客観的根拠があるのか、ぜひ顧みて欲しい。どうせ顧みられないだろうけど。
希望の党について言うならば、いや、希望の党はそもそも何をテーゼとしているのか理解が難しいので、何も言うまい。
ともあれ、テーゼの美点を継承しつつ汚点を克服する、真のジンテーゼを提示する不断の努力を見せて欲しい。
そうでなければ、対立するアンチテーゼ同士のどちらが好きかを選択するだけの、単なる人気投票に堕してしまうだろうというか、もうずいぶん長いことずっと堕したままだ。
こんな状況を見れば、プラトン先生も「ああ、やっぱ民主制ってダメだった」とニンマリ笑うだろうし、子どもは政治活動ってのは耳を塞いで言いたいこと言い合うだけのお祭りだと思うし、はてサに彼女はできないし、ネトウヨに財産はできないし、俺はオナニーして死ぬ。