はてなキーワード: コンセンサスとは
自分の作品が不本意に利用されないっていうけどさ、何百万枚も学習されたうちの数十枚がお前の絵だったとして、いま俺が一枚AIイラストを出力したとして、お前の影響ってどの程度よ
そもそもAIイラストってコラージュのようなものではなくて、学習したAIがいちから書いてると認識してたんだけど、千歩譲ってコラージュのような仕組みだったとして、このAIイラストの中にお前の影響ってどのくらいあんの?
ほとんどないだろ。つまりお前の被害なんてない。あっ今i2iとかLOARの話してないから。それらが問題ならi2iとかLOARだけを叩けばいいよね?そうだとしても、もそもそも画風に著作権はないって話とかになるけどここでは置いておく
で、被害なんてないのにぎゃーぎゃー騒ぎまくってる一方で、自分はちゃっかり他人の著作物パクって同人誌描いて売って金銭得てるんでしょ?あっ全部の絵師が同人やってるわけじゃないとかいうまぜっかえしはどうでもいいから。同人やってるくせにAIイラストにキレてる絵師様(笑)は実在するから
LOARを叩けばいいって言ったみたいに同人やってる絵師様(笑)を叩けばいいとかいう話ではないから。被害ないのにぎゃーぎゃー騒いでるのは同じだから。ていうかそもそも絵師側でコンセンサス得ようって話してるんなら、まず絵師側で他人の著作権無視の同人文化を糾弾しろよw
AIイラストで自分の絵がパクられたわけじゃないのに大騒ぎしてるけど自分たちは同人誌で人の絵をパクりまーすw←醜悪だよね?
ていうか、絵師と言うかオタク側が「お気持ち」を重視するようになるとは思わなかったよね。お前らフェミのクレームに対して「お気持ちにすぎない」とかって退けてたんじゃねえのかよ
俺は表自だから、フェミのクレームに関してお気持ちに過ぎないとして退けたし、絵師様(笑)のAI絵師叩きも実際に被害もないのにぎゃーぎゃー騒いでるのはお気持ちに過ぎないとしてるので、一貫性はあるんだよね
でも、絵師本人とか絵師の肩を持つオタク共は「お気持ちは大事にすべきだ」とか言い出し始めてるよね?じゃあ改めてお前ら宇崎ポスターやらたわわ広告に噛みついてたフェミに対してどう思ってんだよ
「性交類似表現物ゾーニング展示販売の違法性不存在確認集団訴訟」
とかで最高裁までいって、警察の運用かえさせるしかない気がする
そもそも「わいせつ物」とは卑猥ともいうように、卑しい意図あるいは犯罪的意図で相手の体を使うことを指していた。
だから昭和中期だと小説でも不倫小説で下男に欲情する奥さんの描写が「わいせつ」とされ発禁とされた(チャタレイ夫人の恋人、四畳半ふすまの下張り)
ところが昭和から基準がふらふらになり、宮沢りえのサンタフェにわき毛が見えてる程度でわいせつとかいわれるわけ
おかげさまで乳首乳輪と万げ万すじのないビニール人形表現が主流になっちゃったし女は半そでの季節に腋毛それって親がうるさくしつけるようになった。中国人ぼっさぼさやぞ
おまえら無毛無乳首でタツのすごいおかしいから。イスラム圏でヒジャブかぶってない女の長い髪の毛みて即立って痴漢に及んだみたいな話を日本人は笑えないからね。
で、fc2の夫婦ビデオ投稿で億稼いで捕まったやつ(脱税の余罪逮捕)https://itest.5ch.net/asahi/test/read.cgi/newsplus/1586417287/とか
まんだらけ中野店の倉庫にあったお宝ビニ本(販売目的所持じゃないのに、中野界隈の住人にゾーニングしない店頭展示が迷惑ということで余罪逮捕)https://bunshun.jp/articles/-/54820とかゆがんだことになるわけ
成人夫婦が合意で中田氏したところで、成人にとってみればひわいなものか、むしろ崇高だろが。アメリカではがっつり局部映すやんけ。
でもまあわかるよ犯罪につながりやすい。まあそういうふうにわいせつ罪がアングラ化させたからね。
だからこそ「リベンジポルノとか児童ポルノ法とか青少年保護育成条例とか不同意性交罪」とか細かくできてきたわけじゃん。
ならもう「リベンジポルノとか児童ポルノ法とか青少年保護育成条例とか痴漢防止条例とかに反する表現、不同意性交表現(ゴム無しAV含む)」を除いたものはわいせつじゃないよね
たとえばありきたりでごくステディなご夫婦の性交はわいせつでないものとして、成人向けサイトで有料管理してみられるようにしようよ。
まあわざと未成年にみせたら児童虐待ってのもそこそこコンセンサスとれてきたやろ。
乱交パもこないだつかまってたけど唐笠連判状にサインしてご近所にご迷惑じゃないようにすれば別にわいせつじゃなくねとおもうわけ
(だって乱交パの通報理由、外部じゃなくて内部の三角関係で通報が相手を蹴落とすのに利用されてるだけだったというつまらない話なんだよ)http://tskeightkun.blog.fc2.com/blog-entry-17804.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20231024a.html
法律で禁止されてないから路上飲みしても良いだろ、みたいな論調がいっぱいでクラクラする
マジで言ってんの?
ってか、いちいち法律で禁止してやらないと、君らはマナー直そうって思わないの?
例えば男は上半身裸でいても別に法律には違反しないけど、だからってみんな暑い日に上半身裸で過ごすかな?
中国の田舎だとそうかも知れないけど、日本じゃみんなのコンセンサスとして、見苦しいからそれはやめとこうってなってるじゃん
そこらじゅうでみんなが酒盛りし始めたら嫌じゃん、だから避けようねって言うそれだけの話なのに、なんで分かんないのかな?
ましてや渋谷は実害が生じてるって話なのに
「言葉は変化する」
メガネをクィッと上げながら「幼稚な君たちはわかってないと思うけど」みたいな雰囲気を出してくる。
残念きわまりない。
みんなとっっっっっっっくにわかってるんだよねそんなことは。
わかった上で、「その乱れは変化として許容できるところまで来ているかどうか」とか「現時点で新しい語彙と認めてしまってもよいかどうか」を論じてるんだよね。
裁判にたとえると、みんなが「刑期はどのくらいがいいか、執行猶予をつけるべきか」と話し合ってるところに割り込んできて「有罪だぞ!」と騒いでる人。
言ってることが周回遅れなわけ。もうそのレイヤーの話は終わってるのにね。
きのうは「一番」を「1番」と書いてもよいかが話題になっていた。
いますね、何人か。変化するおじさん。
まったく相手にされず「はいはい(苦笑)」という雰囲気がほかのブコメから伝わってくる。
「言葉は変化する」という意見の背後には、「だから日本語の乱れは許容すべきだ」という価値観が隠れている。
だがよく考えてみてほしい。
あらゆる言葉の乱れを許容するということは、誰もが自分が好きな意味で言葉を使っていいということになる。
既存の単語の意味を捻じ曲げることだって変化には違いないわけだからね。
若手社員がお客さんに「こちらの資料を拝見してください」って言って差し出したらどうする?
叱るでしょ? 「これも日本語の変化だから」って笑って許容するの?
コーディングしたプログラムをコンパイルして実行ファイルを作ることを「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットを作る」と言ったっていいわけだ。
言葉の意味や使い方には互いの中である程度の共通認識が必要で、コミュニケーションはコンセンサスの上で成り立っている。
つまり、野放図に言葉の意味が変化してしまったらコミュニケーションが阻害されるわけ。
だから義務教育には国語という教科があって、言葉の意味や使い方について統一した見解を子供のうちから学ぶわけよ。
バベルの塔の建立に腹を立てた神は人々から共通言語を奪い、バラバラな言語を与えた。
人々は意思の疎通が難しくなり、バベルの塔の建設をやめて世界に散り散りになってしまった。
言葉は変化するおじさんのやっていることもこれだ。秩序の破壊だ。
「言葉は変化する」と言いたくなったらまずやってほしいことがある。
自分が小学校か中学校の先生になったつもりで、生徒がテストに書いてきたらマルをつけるかバツをつけるか考えてみてほしい。
あるいは、小学校か中学校の子を持つ親になったつもりで、子が宿題に書いていたらどう言うか考えてみてほしい。
「言いたいことはわかるが、それでは点数をやれない/もらえない」
そう思うんだったら、まだその日本語の乱れは変化として許容するには時期尚早だということだ。
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
性加害モンスターの名前を冠した芸能事務所なんてもうどう考えても未来がないので終わったものとしてさ。それでも今、長年の付き合いからジャニーズに連帯を表明したいんだとしたら、唯一ありうるのは「一緒に性加害の十字架を背負います」という意思表明しかないんだよね。長年ジャニーズを楽しんでいた私たちにも責任はあります。全ての被害者に謝罪するとともに、ファン一同によるクラウドファンディングをスタートさせて賠償の一端を背負います……みたいなことやってみ? かなり事務所は助かるよ。
なのに、擁護なんて言わずもがな、ましてや被害者を攻撃するセカンドレイプなんてさ、被害拡大して事務所の賠償責任を増やすだけで、まあ事務所に更なるダメージ与えて潰したいならともかく、少しでも事務所のためになりたいなら一番やっちゃいけないことだよ。たとえばいじめ加害者の側の親が、いじめた明白な証拠を突き付けられてもなお「うちの子は悪くないザマス!いじめられた側の人間性に問題があるザンス!キー!」とかやって被害者側の心証をむちゃくちゃ悪くする、ってのと大して変わらない。愚かさの極み。まあその程度の理性すら期待できない人の群れなんだなあとは思うけどさ。ホント馬鹿だよね。
一局外者として見ていると、暴れまわるジャニヲタのせいで「社会全体として見れば、ジャニーズは潰した方がいいわ」……ってコンセンサスが日々広がっているのが目に見える。「無能な味方は最大の敵」とよく言うが、今ジャニーズの社会的評価を破壊する一番先頭に立っているのって、被害者の会とかではなくたぶんジャニヲタ自体だと思う。次点は、いまだに態度を決めかねてグズグズしているメディア。事務所が多少謝ったところで、その辺がどうにかならない限り、部外者から見ると全く改善する感じがないんだよね。まあ、謝罪と賠償だけきっちり終えたなら、芸能事務所が一個潰れるくらい個人的にはどうでもいい。ただ、少しは後に続く芸能界のためにマシな教訓を残してほしいなとは思う。
Not Financial Advice。個人的メモ、現状の文字起こしと雑な未来予想。自分もWeb3ヤーとして整理したかった。
根源的にビットコインは規制で禁止することはできないので、できるところから規制されるトレンドは今後も続くだろう。目下、短期のナラティブはETF承認である。AML/CFT観点でビットコイン現物の流通はなるべく制限したい規制当局側と、ビットコインのエクスポージャーが欲しいだけの大多数の投資家の思惑の両方が、現物ETF承認という形で結実するのである。その後、ビットコインETFが高い流動性を持つようになれば、既存金融機関はビットコインETFを担保にした金融サービスや派生金融商品を展開できるようになる。
また、大手マイニングプールと、(すでにマイニングプールの株主となっている)ETF取扱金融機関が提携する未来もありえるだろう。例えばマイニング収益はプール参加者のウォレットアドレスに引き出されることはなくなり、プール参加者の証券口座にETF残高として入金されるようになる。これはプール参加者と規制当局どちらにも利点がある。プール参加者にとっては、ブロックチェーン手数料や秘密鍵保管といったブロックチェーン特有のリスクを負わなくて済むし、ビットコインETFを通して既存金融の多種多様な流動性へ容易にアクセスできるようになることも喜ばしい。規制当局にとっても、本質的に規制できないマイナーとBTC現物が切り離されることは喜ばしく、win-winなのだ。すでに大手マイニングプールはマイナーにKYCを求めているので、マイナーは分散思想よりも規制された安定を選んでいる。マイナーが投資家保護環境の整ったETFに乗り換えるのは合理的な選択なのだ。
ビットコイナーの思想とは相反するものの、市場原理とは相反しない力が優勢となって働くことで、ビットコインはATHを迎えるのである。
マイニングプールが結託して51%攻撃を起こすことは、マイニングプールにとっても合理的ではないので、少数マイナーの寡占状態が直接的にビットコインを破壊に導くとは考えにくい。しかし、大きな金額を動かさないといけない巨大プールは既存金融に保護されざるを得ず、規制の圧力に対しては脆い。同じ51%でも1 ✕ 51よりも25+26の方がCensorship ResistanceやOpennessといったブロックチェーンの本源的な価値は損なわれやすい。なのでマイナーに寡占が起こることを問題視しないのも間違いである。
https://x.com/nook_ethereum/status/1696476655475171759
仮の話だが、完全に当局の規制を受けてコーポレートが牛耳る、本源的な価値を失ったビットコインが、too big to failな状態でゾンビ化した時どう振る舞うのだろうか?そのタイミングで古参クジラは離脱して一時的に売り圧が発生する気もするが、そのままトリクルダウンとなるほどのトリガーかというと分からない。これはビットコインに使われる暗号の危殆化などのリスクと一緒で、起こるまで想像ができない。そのフェーズはP2P電子決済システムビットコインという壮大な社会実験の重要なハイライトになるに違いない。
ビットコインのブロックスペースを使って、レイヤー2上で好きなブロックチェーンを誰でも立てられるようにする新機能。まだ提案段階の機能だが、賛否両論を招き、界隈を真っ二つにしている。
ちょっと前に流行ったStacksの仕組みと異なり、BTCを子チェーンにオプトインするような仕組みも備える。もちろんオプトアウトもできる。
ただし、Drivechainが認められると、ビットコインのスケーラビリティを向上させるソリューションとしてのLightningネットワークの意義がかなり失われる。Lightningは”P2Pで”高速決済したい人が使うための機能という、かなり思想が強い人向けの錆びついた技術になり得る。
Drivechainの提案自体は昔からあったが、最近になって流行り出したのは単なるナラティブ作りであろう。ordinalsやStacksもそうだが、新しい技術はそれだけで盛り上がりやすい。ordinalsの場合だと、昔から追っていた人は、自分が優位でいられる情報が非対称的な時期に、短期で出口流動性(イナゴ、養分)をたくさん集めて、たんまり儲けて売り抜けることができた。
ちょうどBitcoin, not Cryptoな時期で、Drivechainのような特大アップデートがあればナラティブとしては強力だ。しかし、だからこそ、どうしてもDrivechain利権の存在を勘繰ってしまう。Lightning利権とも対立しそうだ。
Lightningはビットコインにマルチシグだけあればできる機能だが、Drivechainはソフトフォークとは言え、これだけのために新規のオプコードやメッセージの追加など、開発リソースをかなり費やす大幅なアップデートなので非常に図々しい。ソフトフォークをexcuseにすればなんでもありだと言うわけではない。
今更dAppsが走るサイドチェーンを作っても、Ethereumで起きているようなゴタゴタをビットコインに持ち込むだけで、Bitcoin, not Crypto神話を汚すだけになるだろう。
実質管理者のいるDeFiも規制の煽りを受けて存続は難しくなっていくだろう。ハッキングやインサイダー、スキャム(詐欺)、ラグプル(持ち逃げ)から投資家を保護できないファイナンスは、たとえゲイリー・ゲンスラーがSEC長官を退任したとしても長期的には必ず規制対象になる。また、そうはならなくとも投資家の方から勝手に離脱していく。
しかしながら、オフショアで規制の及ばないチェーンを舞台に、リスクを恐れない投機家の間でDaFi(Dark Finance、闇金融)に転じたDeFiがしぶとく生き残るのはどうしようもない。
ただ、そのようなDeFiはもう社会生活の金融インフラになることはないだろう。結果的に今のDeFiはDaFiかCeFiに分岐していく。
CeFiという語彙は以下のツイートから使わせてもらった。ブロックチェーンを使っているが、規制もされている金融サービスくらいの意味だ。
https://x.com/kimurayu45z/status/1695988782871498898?s=46
ブロックチェーン上の金融サービスに規制をかける場合、どのようなものになるだろう。まずCeFi事業者に対する当局による管轄、投資家のKYCは必須になる。そうなってくるとブロックチェーンでやる必要はあるのかいよいよ分からなくなってくる。かの有名なWhy Blockchain?の声がまた聞こえてくるのだ。
少なくとも、トークンでガバナンスするような機能をプロトコルに組み込む必然性はなくなり、ガバナンストークンは株や証券に近いものになっていく。また、仮にアプリケーションどころかL1チェーン自体が規制されれば、PoSなどのトークンベースのコンセンサスアルゴリズムはもはや茶番になる。
ユーザー目線でも、KYC済みのアドレスをスマートコントラクトに登録してまで、入札や取引したい投資家がどれくらいいるのか今のところ分からない。
もしもかつてのDeFiバブルが違法事業者の非合法的な取引で盛り上がっていただけの幻想だった場合、KYC後のクリーンなCeFiにどのような実需があるのだろうか。
MEVというのは、ブロック生成者が承認前のブロック内の取引を盗み見れることをいいことに、他人の取引を先取りしたり、順序を利己的に入れ替えることが可能である性質から生じる、ブロック生成者が独占できる収益源泉のことである。
https://keccak255.substack.com/p/mev
MEVがあるせいで、ブロック生成行為が中央集権化しやすくなったり、ユーザーのサービス体験が低下したりするため、dAppsが動くブロックチェーンにおいては重要な課題だ。
もちろん技術的に解決するSuaveのようなソリューションが提案されているのだが、分散化にメドがたっているわけではない。また、問題が外部化するだけで本質的な解決にはなっていないのではと思う。
Suaveについて参考までに
https://writings.flashbots.net/mevm-suave-centauri-and-beyond
また、MEV利権がすでに巨大化している政治的な事情もあり、問題はかなり複雑化している。このように込み入った問題を、さまざまなステークホルダーの思惑が入り混じる、非効率的な分散ガバナンスで解決するのは前途多難と言わざるを得ない。
チェーンのTVLが巨大化し、RWA(real world assets)などのMEVファクターがチェーンのエコシステムの隅々まで組み込まれれば、MEVがもたらすマイナス・サムの影響はユーザーにも感じ取れるくらい甚大なものとなるだろう。さらに、可視化できないリスクを嫌う大手投資家の参入を阻むことにもつながる。
そうなったとき、パブリックブロックチェーンの夢は雲散霧消するか、中央集権が正当化された世界でregulatedなブロックチェーンが生き残っていくかのどちらかになる。
一旦DaFiやCeFi、MEVのことは忘れて、全てが解決して、DeFiがそのままメインストリームになった社会を想定してみる。そこで注目したいのは、チェーンに閉じたDeFiでは信用創造ができず、分散型ステーブルコインなどの場合は常にover-collateralized(過剰担保)させなければならない点だ。つまりロックされた資本以上の価値が市場に再投資されない。原資本は再投資のたびに指数関数的に薄まっていく構造になってしまうのだ。
そのような先細りの金融インフラの上に展開される資本主義及び自由市場経済社会が、規制された金融に基づいた現状の社会よりも、高い資本効率と経済成長率を達成できるのかは甚だ疑問である。
一昨年のDeFiバブルの正体が、USDTなどの法定通貨担保型のステーブルコインがチェーン外から流入することで起こったに過ぎなかったのだとすれば、DeFiの世界はCe要素なしには拡大できないということになる。実際、USDT、USDCなどの法定通貨担保型のステーブルコインの時価総額は無視できないほどに巨大だ。そういった規制アセットの流入なしにはリターンが期待できない構造的欠陥がある限り、DeFiは規制を拒んで信用収縮の道を選ぶか、信用創造のために規制を受け入れてCeFi化していくしかない。
分散や自己主権といったブロックチェーンの思想を全く気にしない大多数のユーザー目線で見ても、国際送金や金融取引が瞬時に透明性高く行えるブロックチェーンが便利なのは間違いない。しかし、それは既存の金融サービスが規制というかなり重いハンデを付けられた状態で戦ってくれているからそう見えるだけで、ブロックチェーンという技術自体がイノベーションだからではないのではないか?つまり、仮に規制の側が妥協して、金融業界がリバタリアン並みの自由化を勝ち取った時、ブロックチェーンは、例えばApple銀行のような大規模なWebインフラを使った金融サービスに技術として勝てるのだろうか?
もしも、ポンジスキームやスキャムであることが明らかなミームトークン、発行主体を名指しできるXRPや、ガバナンストークン全般が、規制されない(もしくは証券ではない)と判決された場合、Apple銀行がプログラマブル・トークン発行プラットフォームを立ち上げればブロックチェーンは競争に負けてしまうのではないか?秒間取引処理数が少なくて、手数料も高く、ウォレットも使いにくいブロックチェーンの優位性はどこにあるのだろう?
とはいえ実際に既存金融が完全自由化することはありえない。あり得るのは、既存金融業界とブロックチェーン業界が融合していく中で、その両極からの声を取り入れながら、長期的には両者の境界線が最も曖昧となるような規制環境が整備されていくシナリオだ。それはトークンの証券化かもしれないし、証券という概念が古くなるような全く違う新しい法概念や規制のフレームワークの誕生かもしれない。そうなったとき、果たしてブロックチェーン技術が市場で競争力を持つのかは、改めて問われなければならない。使いやすさより分散思想を優先するユーザーなんて殆どいないはずだ。
日本のWeb3界隈は、昔から霞ヶ関を巡回する界隈と海外組の界隈に二分されていたが、最近は海外からの出戻り組が増えてきたように思える。かつてJapan色がなかったAstarが最近はJapanを押し出すことが増えてきたので、これも出戻り組と言えるだろう。京都で開催されたIVS Cryptoでは、かつての海外組が、今後は日本にもコミットしていくしたたかな姿勢も見せていた。
Astarが政府機関やJTCと手を取り合って、提携関係や共同研究関係を結び始めたときは、何をしているんだと正直思っていた。しかし、当時から規制側に歩み寄らなければブロックチェーンは存続できないと読んでいたのか、単なる嘘から出た誠なのか、こうなった今では一定の妥当性が理解できる。
とはいえ規制と近づきすぎるとパブリック・ブロックチェーンの特性が邪魔するはずなので、その擦り合わせは茨の道だろう。Why Blockchainの最前線で闘う姿勢は評価したい。
渡辺氏も、もしAstarがダメになっても、日本は偉い人と仲良くしておけば何とかなる国なので、かつてのホリエモンのような毒を出さなければ、どこかしらの利権に入れてくれるだろう。そこら辺を踏んでいるのか、彼のポジショニングは上手いなと思う一方で、FTXのサムが破滅直前まで政府と蜜月関係を結ぶのに奔走していたことを思い出させるから少々怖くもある。当局に近づくと不透明性が増すので、個人的にはまだASTRに買いを入れる勇気が持てない。
さて、クリプト・コミュニティ一般の話だが、これも昔よりは成熟してきたと思う。悪しき通貨が自然淘汰される市場原理が働いたというのもあるが、個人の中にも、かつては歯に衣着せぬ物言いでオピニオンリーダーになったインフルエンサーが、今ではバランスの良いコメンテーターになったりと、心境の変化なのかポジショントークなのか、変化を感じざるを得ない。日本人垢にも外国人垢にもそんな人は多い。
例えばVitalik氏は、かつては大衆向けに過激なことを吐いていたが、最近は難解な理論の提示にとどまり、過激な使い道を見つけるかどうかは受け手の自由ですよ、という我関せずな態度に改まった。
むしろ危ないのは、陰謀論界隈や極右派をバックにした米国会議員をはじめとするすでに過激なコミュニティが、ビットコインやWeb3に活路を見出そうとしていることだろう。余計なポリコレリスクを抱えると面倒である。
このタイトルは煽っているように聞こえるかもしれないが、流行りに乗っただけで煽ること自体は本意ではない。ジブリのあの映画を見た頃、こんなこと考えてたんだなぁと後でエモくなるための筆者なりのギミックなのだ。もし不快な思いをしたクリプトに携わる人や投資家の方がいれば、そこは大目に見ていただきたい。