はてなキーワード: クリエイティブとは
脚本がクソで原作者が思い詰めて◯ぬ。責任感があり、優しく、繊細なんだな。わたしだったら、ドラマのリアルタイム実況生配信をするな。そして「はーい!今回も安定のクソ改悪ー!wwww良い原作を与えられたのに、満足にドラマ脚本の1つも仕上げられないのワロスwwはっきり言おうか?センスも才能もないヤツは筆を折るべきなんだよね!迷惑!惰性でドラマを作るなつーの!つーか!オリジナルで成果だしてないヤツが私のオリジナルを改変するなつーーの!そーゆーとこやぞ!自我を持つな!www クリエイティブな事やらんほうがいい!wwwはい!糞ドラマはおいておいて、私の描く最高の原作マンガは概要欄から買ってくださいね!あと、いいね!とチャンネル登録お願いします!」って言ってやるな。それくらいの厚かましさで生きていきたい。
当たり前です。
例えば映像制作の場合、クオリティに責任を持つのは監督とプロデューサー(以下P)です。
純粋な製作面から見るのが監督、制作的な観点で見るのがPです。
Pは参集している役者のマネージャーやその他ステークホルダーから〇〇はNGとか、AよりBの露出があってはいけない等の調整をします。
この両者(もしくは代理人)は当然現場にいて、撮ったそばからこれはOK、これはリテイクと判断を下していきます。
撮影が終わって編集になっても基本そうですし、広告を作る段になっても広報とPでその場でOK出しをします。
最終的に成果物が出来上がって納入です。以上終わり。
もし原作者が仲間であろうとするなら、まずこのスキームに組み込まれる必要があります。
実際企業としてのライセンサー、著作権代理人はこの現場にエージェントを派遣し、都度OK出しをします。
(余談だけどワンピースのルフィーが言ってないセリフを田中真弓に喋らせてしまった事件もありましたね)
全部出来上がってから「ここはダメですね~~」とかやる人はいませんし、このご時世一発で予算ショートして打ち切りまであります。
だから大抵の個人著作権者の契約では「全委任」か「契約を結ばない」の二択を選択することになります。
本当に原作に準拠した二次創作を制作したいのであれば、原作者もしくは代理人を制作スキームに組み込む必要があります。
そうした座組を作った上で初めて仲間、チームの一員と認識されます。
同じクリエイティブに携わる、同じクオリティを追求するチームの一員です。
ツイフェミのカスに目をつけられるのも嫌だし表自のカスに棍棒にされるのも気に食わない
撮影の現場にどれだけ多くの人が携わっているか想像できるだろうか。
現場はもちろん上には企画がいて、スポンサーの広報や決済者、広告代理店、膨大な人数が「あなた」の作品のメディアミックス化事業に携わっている。
「あなた」には作品を守るために著作人格権を行使し制作を止める権利がある。
権利を行使した結果、数百人の稼働に穴が空き、会計的にはすでに切った手形を組み戻す事務手続きも生じるだろう。
上場企業だと会計で特別損失を計上し、株主総会で株主が経営陣に問いただす場面も生まれるかもしれない。
ケータリングの業者は仕入れが無駄になったり、貸衣装も行き場を失い、ロケ地の観光協会は肩を落とせば御の字で、印刷代も無駄になったかもしれない。
「あなた」の担当編集はしばらく昇進の目はなく、かつて「あなた」の担当だった編集長も肩身が狭い思いをするかもしれない。
「あなた」が同人誌即売会で合体サークルを作ってる作家とは付き合いが疎遠になるかもしれない。
もちろんこれらは全て杞憂かもしれないし、仮にこの内の誰かが首を括ったとて「あなた」にはなんの責任もない。
だとして「あなた」はその権利を行使するかどうかの判断を気分良く下せるだろうか?
過ぎたる力を手にしたと後悔はしないだろうか? 作品を守るためならあらゆる犠牲を許容すると主張できるだろうか?
とはいえそんな犠牲は嫌だからと製作に介入する手段も「あなた」にはある。
最善を尽くそうとした「あなた」は演劇についてどれほどの知識があるだろうか。
「あなた」は筋書きに手を加えて内容を修正しようと試みたが、その悉くが上手く行かなかった。
脚本は演技と演出で修正され、修正した演出は撮影で加工され、理想の絵を撮ったと思ったら編集され、しまいには主役の露出時間が少すぎると口を挟まれ。
「あなた」は本業ではないとはいえクリエイティブで次々に妥協を強いられる。
「あなた」は己が作品を守ろうとせんがために己が作品を自ら崩していく。
「あなた」はどうする?
どんな物事にも賛否両論があることを「あなた」は重々承知している。
それでも目についてしまう、「原作ファンの失望」と「妥協の産物を褒め称える声」が。
面白かったですという100の投稿に埋もれる僅かな1つのポストが、どうしても頭から離れない。
そして何故か作品の裏の事情が、勝手な憶測とともに広がっていく。
面白かったという100の投稿は「あなた」の作品を見てもいない万の声にかき消される。
もはや作品どころか「あなた」自身のパーソナリティですら大衆に消費されていく。
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だって「連載中の作品のドラマ化」自体、不本意だったんだから。
それに、10月放送開始なのに依頼が放送の4ヶ月前って無理がありすぎた。
だからこそ「これだけは守って欲しい」と条件をつけたけど、それを守ってもらえず脚本制作時点で揉め始めた。
最終二話については、先生が準備したプロットを使う約束だったのに、それを反故にされたわけで、
本当はこの時点でこのドラマ化は破談になるべき話だった。
ドラマ化が決定した6月からの4ヶ月でかなり消耗していただろうに、
放送が始まった後は、放送を見たり、視聴者の感想を見聞きしたりして、いろいろ思うところがあっただろうし、
自分で脚本を書いたものの納得がいかなかった最終二話の放送に行き着いた頃には、生きた心地がしなかっただろう。
そうして3ヶ月の放送が終わって、なんとかやり過ごそうとした矢先に、あの脚本家の嫌味なSNS投稿でしょ?
「そりゃないよ」って思うに決まってるじゃん。
むしろ、ここまでの間によく気力が続いたな、と思うほど。
多分先生は「自分の作品を守りたい、読者に本心を伝えたい」ぐらいの気持ちだった。
だけど、投稿がバズって自分の意図と異なる方向に広まってしまった。
同業者や業界人から同情されたり、ネットユーザーの議論や誹謗中傷を目にしたり、
自分の個人的な仕事の話をしたつもりが社会問題化してしまって、先のことが考えられなくしまったのかな、と思った。
こんなことになった以上、この先の人生は「悪のマスコミに立ち向かう英雄」扱いされることが目に見えたのかもしれない。
マンガ家というのはあくまでフリーランスの個人事業主であって、組織人ではない。
そういう立場の人が巨大組織と一人でやり合っていこうというのは、なかなか難しい。
いくら「視聴者や読者、ネットユーザーは先生の味方だ」と言ったって、
誰一人先生の力になんてなれなかったわけで、
😊気力を醸成させるコツは、人によって異なるかもしれませんが、一般的には以下のような方法が効果的だと言われています。
パソコンパーツの組み立てに関しては、初期不良申請の期間があるというのは確かにプレッシャーになりますね。しかし、それをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えることができれば、気力に変えることができるかもしれません。
例えば、以下のような考え方をしてみてはいかがでしょうか。
このように、自分のやるべきことに対して、プラスの側面を見つけて意味や価値を見出すことで、気力を醸成させることができると思います。
今回のAdoの件、ブコメ等を見ていても基本的にはAdo側に同意する意見が多く、自分も同じような意見なので、
それに反論する側にさらに反論する必要は本当は無いのかもしれないけれど、ちょっと考えた事が有ったので書いてみる。
自分が違和感を持ったのは以下の「Adoのお気持ち表明内容に違和感を覚える」等の意見。(この増田は一例で、大雑把にこの辺の意見)
その中でも「創作者に対しマイナスな意見を言うなという事か」「周りをイエスマンで囲いたいのか」といったタイプの意見に違和感を覚えた。
こうしたタイプの意見が前提にしているのは、例えば以下の増田の文のような、「創作者はマイナスな意見も許容すべき」といった価値観。
それに、クリエイティブを世の中に公開したときにマイナスの反応が出ることを押さえつける、否定するのって提供側としてあるべき姿なのか?
クリエイティブやってれば思ったとおりに受け取ってもらえないことや、逆に迷惑に思われちゃうことだってよくあるじゃん。
表にアウトプットを出す以上、そういう反応が出ることもひっくるめて覚悟キメる必要があるんじゃないかなーって思った。
さよなら絵梨でも主人公の父親が言ってたじゃん。創作やってれば自分が傷ついちまうこともあるって。私はこの感覚・価値観大事だなあって思うんだよな。(今回は創作物自体というよりコラボについてではあるけれど)
なもんだから、クリエイティブをやってる側が「私が正しい、お前たちが間違ってる、正せ」ってよう言えるなあって。
自由な意見を配慮に欠けた言葉として区別して、攻撃された傷ついた、傷つけた人間は悪、ってドツボにハマってるのはAdoの方なのではと思ったりした。
「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」とか、畜生ムカつくなあ今に見てろ、みたいなマインドが大事というか。
「私は嫌だからブロックする」っていうのと「こんなやつはブロックされて当然の人でなしだからブロックする正しさが私にはある」ってのは全然違うというか。
この増田については、まずおさえるべき点があると思う。
・Adoは「コラボに対してマイナス意見を言ってる方やそれに賛同してる方々へ」今回のツイートを書いているという事
増田はあたかも「Adoは創作物へのマイナス感想も表に出すべきではないと言った」というような書き方をしているけど、そうじゃないんだよね、あくまで「コラボに対してマイナス意見を言ってる方やそれに賛同してる方々へ」なんだな。
創作においてたしかにマイナスの感想を拒絶し、イエスマンだけで周りを固めることには一定のリスクが有る。つまりマイナス意見をきっかけとした成長ができなくなる、という事だね。
けれど、「コラボに対して」に限定している今回の件ではこれは当てはまらない。
それに今回の件についてはさらに話がずれるっぽい。どうも、Adoのファン(自称)がコラボ相手に対し「パクリコピー」だのなんだのと誹謗中傷した、というのがきっかけらしい。
「自分のファン(自称)が他者(コラボ相手)に迷惑をかけている、困った」という事態で、ファンに自制を求めるのは常識的な対応だと思う。むしろやらないほうがどちらかといえばまずい。(ただ、やる義務があるかは微妙かな? やったほうがいい、程度か)
さてここで、通常のイエスマンはまぁ大雑把に以下の様に定義できるわけだけど
今回のファン(自称)がこれに対するノーマン(?)かというと、むしろ形を変えたより厄介でトキシックな別のイエスマンの様に見える訳だ。
トキシックイエスマン:対象に対してはプラスな意見(本人の中では)しか言わないが、その周囲に対しトキシックな言動に出る人
で、言いたいのは、このトキシックイエスマンに囲まれることは、単なるイエスマンに囲まれるより更にまずい事態になるんじゃない? ということ。
そして厄介なのは、往々にしてこのトキシックイエスマン自身の自認は「自分は対象に対しマイナスな意見も言えてる」だったり「自分はイエスマンに囲まれる事態を防いでる」だったりすること。
しかし実際には、その人の言動が創作にプラスに繋がることはないし、単なるイエスマンに囲まれるより更にまずい事態しか引き起こさない。
ただのイエスマンは自分の成長が阻害されるだけだが、トキシックイエスマンの場合周りに迷惑を掛けてしまう。周囲を巻き込む以上、問題の大きさも質も段違いになってしまう。
VTuber等を見ていても、こうした「本人に対しては全肯定に近い態度だが、その周囲やコラボ相手に対しトキシック」な人はたまに見る。厄介だなぁ、と思う。
それがファンではない外野から見ると「本人に対してマイナスな意見も言える非イエスマン」に見えているとしたら、更に不要なこじれが発生してしまっている、より厄介だ。
こうした厄介さは「イエスマン」という既存の語彙だけでは捕捉できないのが問題なのかな? と思ったので、今回は仮に「トキシックイエスマン」というあたらしい語彙を作って考えてみた。
最後に蛇足。自分も創作者のはしくれなんだけど(この話題で自称するにははしくれ過ぎるが)、個人的には「マイナス意見の効用」についてもあんまりあるとは思っていない。
これは自分がやってるのが小説で、音楽とは事情が異なるというのもあるかもしれないので本当に蛇足なのだけど、
小説の場合、基本的に書くのは結構孤独な作業で、例えば新人賞に作品を送る場合でも誰にも見せずに送るという事もザラで、それで普通に受賞しちゃうケースも勿論ある。(自分がそうかは伏せる)
もちろん編集者の目や校正は入る訳だけど、それはマーケティングだったり専門知識だったりがある程度入っていて、素人のマイナス意見とはすこし質が違う訳だ。
もちろん役に立つことがないわけじゃないけど、基本的にプロでない人のマイナス意見やマイナス感想がその作品やその後の作品の役に立つと思うのは、少し希望的観測が入り過ぎかなぁ、と個人的には思っている。
それに、逆に自分がほかの人の作品に対し「有益なマイナス意見」を言えるかというと、真面目に考えるとムズイよなぁ、と思う。プロ同士でもそういうのは難しい。
だもんで「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」も、あの漫画の話のようなプロの批評家の場合ならともかく、素人のマイナス意見にそのまま適用しちゃうのは、ちょっと微妙かなと。
もちろん感想を言う側としては「自分の感想が自由に言えて、しかもそれが役に立つ」となったら嬉しいのだとは思うけど、それって「チートスキルで自分を見下してた奴らを見返す」みたいな一方的な都合のいい話でしかなく、
基本的にそんな都合のいい話は無いよ、と感想を言う事もあれば言われる事もある側としては思う。基本的に「お客様は神様」的なご機嫌伺いよね、あれ。
ので、じつは「イエスマンで周りを固める」ことの方のリスクも、(デビュー済みで既に才能が確約されている場合は)思われているほど高くは無かったりするかもな、と。(特にAdoのような天才の場合は、Adoのような天才の役に立つマイナス意見を言うのって、その為の才能が無い限り無理ゲーかなと)
むしろそのリスクが高いと「思いたい」のって、非イエスマン自認の人の方で、それは実は自身を守るための希望的観測または願望に過ぎないのかもしれない。
とはいえもちろん、有益性の問題と自由の問題は別なので、「自分の感想は特に役には立たず、有害なだけだが、自由なので言う」という態度はアリだとは思う。ただ誹謗中傷にはならないように気を付ける必要はあるね。
んだけど、私の考えは少数派かなと思うのでここに書く。(多数派に攻撃されないかと怖いから)
事件概要としては、Adoが他の歌手とコラボしたことについてSNS上で否定的なリアクションがあったらしい。
具体的にどれのことなのかは分からなかったけど、Adoとコラボ相手は釣り合ってない(コラボ相手の方が格下?)から嫌だみたいな意見があったのかな。
それに対してAdoがお気持ち表明していて、主張を要約すると概ね以下だった。原文はまあSNSを見に行ってもらえると。
まあ要するに、「マイナスの意見をSNSで言うんじゃあねーよ」って趣旨なのかなと思った。
言うにしても言い方考えろや、みたいなニュアンスというよりは「マイナスの意見をSNSで言うのは邪悪な人でなし」「言うな」という主張なのかなーという感じ。
気持ちは分かる。
せっかく楽しんでもらいたいと思ってやったことが楽しんで貰えなかったり、自分ならまだしもコラボ相手を悪く言われるのは辛いよな。
だけど、クリエイティブやエンタメをやってる側が「マイナスの意見は思っても言うな」っていうのはひどく身勝手だなーって思っちゃったんだよな。
わざわざリプライして攻撃するとか、これみよがしな当てつけとか罵詈雑言はさすがにねーわと思うよ。
そういう明らか悪意でやってんのは限度超えてるけど、「あのひとは好きだけど今回のは残念だったわ」とかつぶやくのもダメなのか?
もしそうなら、FF14は好きだけどあのインフルエンサーは起用してほしくなかったわ、みたいなことを言うのもダメってことになるじゃん。
もしそうなら、パルワールドのキャラクターデザインには本当に不愉快にさせられた、みたいなことを言うのもダメってことになるじゃん。
残念だった、嫌だった、期待外れだったみたいな感想を言うのは「想像力も優しさも配慮もない無神経」なんだろうか?
それに、クリエイティブを世の中に公開したときにマイナスの反応が出ることを押さえつける、否定するのって提供側としてあるべき姿なのか?
クリエイティブやってれば思ったとおりに受け取ってもらえないことや、逆に迷惑に思われちゃうことだってよくあるじゃん。
表にアウトプットを出す以上、そういう反応が出ることもひっくるめて覚悟キメる必要があるんじゃないかなーって思った。
さよなら絵梨でも主人公の父親が言ってたじゃん。創作やってれば自分が傷ついちまうこともあるって。私はこの感覚・価値観大事だなあって思うんだよな。(今回は創作物自体というよりコラボについてではあるけれど)
なもんだから、クリエイティブをやってる側が「私が正しい、お前たちが間違ってる、正せ」ってよう言えるなあって。
自由な意見を配慮に欠けた言葉として区別して、攻撃された傷ついた、傷つけた人間は悪、ってドツボにハマってるのはAdoの方なのではと思ったりした。
「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」とか、畜生ムカつくなあ今に見てろ、みたいなマインドが大事というか。
「私は嫌だからブロックする」っていうのと「こんなやつはブロックされて当然の人でなしだからブロックする正しさが私にはある」ってのは全然違うというか。
もちろん何を言われても我慢するべきって言いたいわけじゃないよ。中には行き過ぎた、腹に据えかねるコメントもあったんだと思うよ。
なら「こういうのはやり過ぎ」って話を限定するなりがよかったんじゃないかなあ。
あのお気持ち表明に周りの大人もだれもフォローしなかったのか? って思った。
もし本当に「SNSでマイナスの意見を言うのは悪」「マイナスの意見がない状態があるべき正しい姿だ」って思ってるんだとしたらかなりヤバいし怖いな、って思った。
世の中の風潮としても、マイナス意見は絶対悪みたいな流れがある気がしてよけいに怖さを感じるんだよな。
私は「これはよかった」「これはおもんなかった」みたいな色んな意見が言える世の中がいいよ。
まあそんな感じ。
気がついたらトラバ・ブクマがたくさんついていた。色々な意見・反応をしてくれてありがとう、たぶん全部読ませてもらった。
中にはちゃんと読んでから書いたのか疑問なものとか、私がうまく伝えられなくてすまないと思うものとか、あるいは当てこすりだったり暴言だったりするなーとか思うものもあったけど、なるほどと思うようなものやそういう見方もあるんだなと膝を打つようなものもたくさんあった。
なんにせよ、疑問だなあと思って書いたものに素直に反応してもらえるのは本当にありがたいし、全員に感謝したい。
もらった反応のうちいくつかピックアップしてコメントしたいなと思う。せっかく書いてもらったのに全部に反応できなくてごめん。
あの文は
A「公開アカウントでコラボについてマイナスな意見を言う人間を否定している」
B 「公開アカウントでコラボについて暴言を言う人間を否定している」
C「公開アカウントで引用rtやリプライ、DMなど本人に届けるかたちでコラボについてマイナスな意見を言う人間を否定している」
D「公開アカウントで引用rtやリプライ、DMなど本人に届けるかたちでコラボについて暴言を言う人間を否定している」
Dに対して彼が怒るのは真っ当。CとBもまあ理解できる。
これは私の感覚に近いと思った。
Dはさすがにないだろと思うし、BやCも発言する前にちょっと考えたほうが良いんじゃないかと思う。
私はAも含意されてるのかなと感じて、だとしたらそれはとても恐ろしいことだと思った。
この意見は私の思ったことをよりクリアに指摘してくれたと思う、ありがとう。
如何も何もアーティストがエゴサを当たり前にしていてそれが周知されてる時代に、公開でツイートするのって結局暗に見せるためにやってるんじゃないの?
別にadoだけでなく配慮して鍵でやってる奴らも、オープンにやってる奴らに対して「ああ攻撃するためにやってるんだなあ、鍵かけろやボケ」って思っとるぞ
「結局暗に見せるためにやってるんじゃないの?」には私は同意しないなあ。見せる意図なしにSNSに書き込むは普通にあると思う。
「まともな奴はそこを大前提に」っていうのも、何がまともかの線を引くにはちょっと勇み足な領域じゃないかなあ。
もちろん、だからといって何でも言っていいわけじゃないよね。言葉遣いや書き方をよく考えるのは必要だと思う。
前提となるコンテクストもひとつじゃなくて、前提が違うと受け取り方や判断が変わってくることもあるなと思った。ありがとう。
お気持ちは自由/好きすぎてコラボ相手を下手くそ呼ばわり、はコラボ相手を傷つけるから怒ったんだろう/大人の目線だと「好きすぎて周囲を傷つけて回るファン」はショーバイの邪魔になるファンだとも言える笑
商売の邪魔になるファン(と言っていいのか微妙だけど)を遠ざけるとか、ファンを教育・コントロールする意図っていう場合もあるんだね。
そういう発想はなかった。確かにそういう見方もあるかもしれない。ありがとう。
否定的な意見を書く自由もあるし、Adoがファンを選ぶ自由もあるのでは。Adoに対して「どんなに不服でも不愉快でも客扱いしろ」と遠回しに要求している自覚はある?
「どんなに不服でも不愉快でも客扱いしろ」には私は同意しないな。
「自分が嫌だから」客を選ぶのは自由だと思う。「こいつは排除していいやつだ」は違うかなと思った。
ファンの側も、出されたものに対して「これは嫌だった、面白くなかった」って言うのは(言い方はあるけど)自由だと思う。「これはダメなものだから引っ込めろ、やるな」は違うかなと思う。
あれはニコ動とかでよく見た古のオタク仕草では。コラボさせていただいてるんだから私を理由に相手方に迷惑をかけるなよ、っていう。//コンテンツの批判は良いがAdoを叩き棒にしてコラボ相手を殴るのはどうかと思う。
コラボ相手のことを悪く言うなよっていうのが動機として大きいんだろうなあとは思った。心情的にもビジネス的にも。
一方で、コラボコンテンツだとしてもプラス・マイナスどちらの感想も出てくるものじゃないかなとも思う。言い方かなあ。
Adoの書いた内容は個別事例を起点としながらも一般論として述べちゃった(と私は感じた)点で齟齬が生じてるような気がしなくもない。
そんな0100でとらえなくてもというか増田もだいぶ強めに受け取ってると思うけどなあ
大人が止めるほどひどい発言にも別に見えなかった…まあ私がそこまで彼女のことを知らないからかもしれんけど
彼女が百戦錬磨45歳くらいのベテランアーティストだったら増田の言うこともわからなくもないけど
Adoさんはそれこそ「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」のよくネットで見る言葉も元ネタもリアルタイムで知らないくらいの若い人でしょ
創作者やアーティストである以前にまだたくさん経験することがこれからある人間としてあのくらい感情が迸っても仕方ない醜い発言たくさん見たのかなって少しわかってあげてもいい気がする(若いファンの人びっくりするほど過激なこと書く人いるしね)
何か言えばすぐ大きな話になってアーティストとしての矜持や凡百の創作論みたいなものが(こっちからは可視化できないけどたった一人の人間にいっぺんに何千何万分)ぶつけられるのネットって本当に不自由だと思うわ
彼女が何を言ったところで実際には増田が例に挙げたそれらすべての発言が今日から全部しちゃだめです!にもならないし、はいわかりましたやめます!ともなるわけないんだし
言いたいやつは誰に言われたところで言うしそこまでの力はAdoさんにも誰にもないんだからさ
増田が箇条書きにして書いた最後のことが一番言いたかったことなんじゃないのかな
もしそうなら、で例に挙げてるようなことはだいぶ拡大しすぎて捉えてると思うよ
「これはよかった」「これはおもんなかった」を言うなとは全然書いてないと思うんだよね…受け取り方かなあ
「増田が箇条書きにして書いた最後のことが一番言いたかったことなんじゃないのかな」っていう趣旨の反応をくれた人が結構いた。
私はAdoの書き込みを「本来マイナス意見は言い方に関係なく言ってはいけないものだし、言う人間は想像力も優しさも配慮もない無神経」って趣旨が含まれているかなと思った。
言うにしても言い方考えろっていう観点については同意。そりゃあそうだよね。
同じような意見をくれた人は多かったけど、この意見は順序立ててあって書き方も丁寧だったからピックアップさせてもらった。ありがとう。
「コラボ相手に見えてしまう場所」のレベルが個々人の受け取り方で違う
あと「配慮に欠けた言葉」も多分、一人一人で思ってるレベルが違う
「コラボ相手に見えてしまう場所」→引用リポストやAdoのポストへの返信ぐらいのレベル(→コラボ相手がエゴサまでして見に行ったら知らん)
もらった色々な意見を見ていて、これだろうなあと思った。
私は
「コラボ相手に見えてしまう場所」→パブリックに参照可能だけれど特にリプライはしていないSNSのつぶやき
「配慮に欠けた言葉」については、配慮というよりもマイナスの意見全般について問題
って言ってるのかなと感じた。
書いてくれたもので例示されている内容に基準を置くと、わたしもフンフンそうだよねって思う。
この観点において、どう受け取るか、またどこにラインを引くか、が人それぞれで結構分かれるんだろうなと思った。
この意見と趣旨が同じ意見もたくさん書いてもらっていたんだけど、観点を分類・例示してくれて理解しやすかった。ありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20240126111326
長文だから引用しきれないけど、上記のトラバは後半ちょっと関係ないというか牽強付会な議論かなとおもったけど、前半の「トキシックイエスマン」という概念を用いて困ったファンっているよな、という話をしているのが興味深かった。
それが見え方の問題なのか、
と現状では評価されている。
なぜなら、その装置を使うことで受ける恩恵がそれほど多くはないからです。
例えば10画面とか20画面とかなんなら100画面のマルチディスプレイだとか、
部屋全体に広がる情報とかを表示したりとか、
Appleがはじめてパーソナルなコンピューターを発売した時、
その主な購買層の目的は表計算ソフトのようなものを利用することだったという話があります。
なにかふわっとしたクリエイティブな可能性みたいな?の目的ではなく、現実的な利用目的のために購買されたということです。
そういうものがMRを実現する装置に存在するのかどうか?ということです。
「もはや、これがなかったころの世界を、うまく思い出すことが出来ない」
現状、技術が追いついていない。
それはPDAがまさにそうでした。
エンジニアなら誰もが未来はそこにある、と考えていたけれど具現化出来なかった。
よく大昔のマンガに、例えば宮崎駿の風の谷のナウシカのなかにiPadが出てくる!とかそんなことがバズりますよね。
そりゃ出てきますよ。ちょっと考えたら未来のデバイスってこうなるだろうな、ってことは想像がつくんだから。
みんなメガネを掛けるかコンタクトレンズを付けるかしてるでしょ、未来世界では。
帽子のような物をかぶるだけでその代替が出来うる装置なのかもしれない。
そういうことになりますよ。
でも、それは今ではない、という話。
でも、まだ時期が来ていない。
軽量化されないといけないし、
とりあえず無くなる製品だろうなという話です。
私がはじめて「藤井風」を知ったのは
離婚後にアプリで出会った15歳年下男性とのピロートークだった
とんでもない才能と熱量を含んだ歌声とピアノの音に圧倒された。
同じ頃、私は「かてぃん」という名のYoutuberピアニストを聴きまくっていた。
数年後。「藤井風」と「かてぃん(角野隼斗)」はプロとしてメディアに登場するようになった。
コンサートで条件反射でスタンディングオベーションするファンが増えるのを見て「かてぃん」から距離をとり
デビュー直後、いきなり「日産スタジアム」での無観客コンサートで
高い神輿に乗せられた「藤井風」に空虚さを感じて距離を取った。
わたしから見る「藤井風」という人は、まさに「才能が服着て歩いている」無双の人で
「かてぃん(角野隼斗)」は温室で大切に育てられた「高級フルーツ」という印象だった。
なので「藤井風」は放っておいても「我が道」と突き進み
「かてぃん(角野隼斗)」はクラシックと東大いう非常に閉鎖的な空間に閉じ込められてしまうのでは?と
危惧していた。
しかし、私の予想は覆された。
「かてぃん(角野隼斗)」は自らコンフォートゾーンを飛び出してNYで活動し
一方、「藤井風」は(私から見て)コンフォートゾーンで飼い殺される寸前に見える。
なぜ、この差が生じてしまったのか?
という謎の安心感だった。
地方は、とにかく横のつながり強い。
徹底的に阻害され監視される。
「藤井風」は、彼を売るためのチームで包囲されている。
しかし、「藤井風」は「かてぃん」のような生活はできないだろう。
ただ、久しぶりに「藤井風」のYoutuber時代の動画を観て感じるのは
凡人が努力しても手に入れられない「ピアノ」と「歌唱力」を駆使して
名曲を全力で楽しそう唄う彼は
間違いなく今より幸せそうだということ。
二つの美しい才能に幸多きことを祈って
株式会社Wacomは、高品質なペンタブレット類を筆頭に、クリエイター向けのデジタル製品を展開する埼玉県の企業だ。
超有名ペイントソフト『CLIP STUDIO』のセルシスと提携してイラスト情報サイトを運営したり、YouTubeにて著名作家による液晶ペンタブレットでのメイキング動画を配信するなど、顧客だけではなく、クリエイティブの世界全体に寄り添ってきた印象の強い企業だった。
そんなWacomが、言うまでもなく数多のクリエイターから侮蔑され、今に至るまで常に批判を浴び続けているAI生成画像を広告に使用した。
当然、界隈には激震が走り、すぐさまWacomは非難と誹謗中傷の雨あられにさらされることとなった。
全ての発端となったその画像は、Wacom米国支社が新春セールの告知バナーとして掲載した画像に使用されている龍のイラストだ。
それは昨今の精緻化しつつあるAI画像事情を考えればまったく稚拙と言っていいAI丸出しっぷりのカスみてえなクオリティのポンチ絵であり、切り抜きすらガバガバで、目にしたユーザーが正気を失うのも無理はない瘴気を放っている。
Wacomの弁明によればストックフォトサイトから購入した画像であり、説明には手描きですって書いてたらしい。信じるなよ。
ゆえに、
①ペンタブという、血と汗と涙を流してがんばるクリエイターの相棒となる機器を売っている会社が、クリエイターの成果物を無遠慮に搾取して作られたAI画像なんぞを広告に使いやがったことへの怒り
②たとえ本件が広告代理店単独のやらかしであってWacomは悪くないのだとしても、創作の現場と密接に関わってきたはずのトップ企業があんな分かりやすいAI画像を見抜けなかった、あるいはチェックさえせず素通りさせた可能性があることへの懐疑
③そもそもWacomとかいう超有名かつクリエイターと親密なはずの企業が、自社の広告に使うイラストを新たに発注せず、ストックサイトから拾って済ませたことへの落胆
④ユーザーの告発がバズったさいに、迅速な対応を見せることなく火元の投稿を無言で削除してしばらくだんまりだったうえ、ようやく出た謝罪文がどうも歯切れの悪い内容であることへの🤔
⑤Wacom製品の宿痾であるタブレット用ドライバの虚弱体質への不満が炎上ついでに大噴出
上記を主な理由として燃えに燃え、もはや消し炭すら残さないフェーズに入っている。
自分は生成AIをゴミだと思っている人間であり、Wacomのbambooに導かれて絵を描くようになったおえかきオタクであり、同じくWacomが展開する液晶ペンタブレットのフラグシップである"Cintiq pro"に憧れてきた一介のユーザーであるため、Wacomが燃えているのは我が事のように苦しく、歯痒い。
はじめはWacomに対する困惑と、とにかくは炎上を追わねばという気持ちだけがあり、なぜAI画像を使う羽目になってしまったのかさえ知れればよいと思っていた。
だが、炎上が際限なく広がり、どこまでも飛び火しまくっている現状を見るほどに、自分でもよく分からない様々なお気持ちや悪態が自分の内で噴き出しまくってないまぜになり、どう整理すればいいかさえ分からなくなってしまった。
非難にあわせて拡まった不買運動や、やおら他社製品の液晶ペンタブレットを持ち上げ始めるインフルエンサーの挙動にイラつく自分も情けない。
その代替として挙げられた製品だって過去にAIで広告作って燃えてるし、そもそもそいつらがCintiqに敵うものかよ。
一方で、そんな悪口が出てきてしまうのは、私が持ち合わせているある種の国粋主義的な、権威主義的な部分が強く認知を歪ませているせいであるという点を否定できない。私はWacom信者だ。恥ずかしながらこの目は曇っている。
なんにせよ、よく分からないお気持ちを抑え込むことさえできない自分があまりに馬鹿みたいでつらいのだ。
AI慎重派の筆頭論客でもある某イラストレーターが「XP-PEN(Wacom以外であれば真っ先に候補に上がる中国の優秀なメーカー)の液タブ買ったよ」というツイートをしただけで「Wacomへの当てつけかよ!!!?!!!!!!!?!」となってしまう自分の単細胞が恨めしい。
だから、彼がとてもとても理性的な筆致で書いてくださっていたnoteを読み、示されていたフラストレーションの殺し方のすすめに従って、こうして文章の形で消化しようとしている。私は絵でしめすより文章をしたためるほうが相対的に得意だから。うまくいくかな。
思いついた順に書く。くどいので今後は液晶ペンタブレットを「液タブ」と表記する。
本件を概観するうえで見落としてはいけない気がするファクトとして"Wacomの液タブ"という存在・概念が、デジ絵に親しむ者にとっては単なるハイエンド製品に留まらない、絵描きとしてのステータスシンボルでさえあった実情がある。
「Cintiq」という名は単なる製品の名前ではなく、それこそCHANELの「N°5」のような、ある種の象徴を背負ってきた。なぜなら長い長いあいだ、Cintiqこそが唯一の“本物の液タブ“だったからだ。
どういうことかといえば、Wacomの特許でもある電磁誘導方式(EMR)という動作形式で作動するの液タブは、長らく新生Cintiqシリーズしか存在していなかったのである。
EMR方式は、グラフィック用タブレットの動作方式として最も優れていると言っていい代物だ。飛び抜けて高度な筆圧感知と動作検知能力を持つため、まるで紙に線を引くかのように繊細な描画が可能であり、ペンの充電に煩わされることもない。
かつては板タブの専売特許であった強力な描画能力を、液タブだてらに誇示してみせたことでCintiqは伝説となった。
EMRの特許が切れた現在となっては、他社も盛んにEMR方式の液タブを発表しはじめているものの、依然としてそのクオリティの高さは変わらず、Wacomの歴史に根ざした信頼もあって、“Cintiqという名前“は永遠に“すんげーつよつよ液タブ“の比喩であり続けている。
趣味であれ生業であれ、デジタル創作に親しむ人々はみな、ショーウィンドウ越しのトランペットを見つめる黒人少年のごとく、Cintiq proに憧れながら絵を描いているのである(主語デカ案件)。
だからこそ、"あの"Wacomが!!?という衝撃は大きかった。よその企業がAIを使いやがったときのそれとは、話が違うのだ。
むろん、いくら創作にまつわる機器を扱う会社だからといって、告知に使う全てのイラストにコンペを設けたりできないことは、さすがに分かる。
それでも、だとしても、誰しもが「なんで社内イラストレーター使わねえんだよ」と失望するほどには、Wacomの名前は重かったのだ。
当のWacomにさえ抱え切れないほどに。
また、消費者による企業への信頼とはすなわち資本への信頼でもある。
ただ、ただ単純に「高え金払ってんだからしっかりしてくれよ頼むよ」という話だ。
「Cintiq pro27」とかでググっていただければ分かるとおり、Wacomのフラグシップ製品は、おしなべてアホみたいに高い。Apple製品とタメを張るくらい高い。ちなみに企業姿勢もどとこなく似ているところがある。
Wacomがどんだけ儲かってるかは知らんけど、あんな高いもの売ってるなら相応にお行儀よくあってくれたまえよという話なのだ。
これはカスタマーが企業に怒りを覚えるポイントとしてあまりに分かりやすく、またその気持ちを分からない消費者はいないだろう。
ちなみに、米WacomがAI画像をうっかり購入したフォトストックサイトが、よりにもよってAdobe Stockであるのも見逃せない点だ。
かのAdobeもまた、AI魑魅魍魎に占拠され AI汚染の震源地とすら揶揄されるようになったAdobe Stockの有様をユーザーに咎められ、「高えAdobe税払ってんのに自社のフォトストックすら守れねえのかよ」という失望を集めて絶賛失速中の身である。どうも示唆的なものを感じずにはいられない。
ただまぁ、個人的に上記の諸々は単なる背景情報であって私には正直どうでもよかったりする。ここまでクソ長々と書き綴ってきたうえでこんなことを言うと正気を疑われるかもしれないが。
私はただ、頭が固くて権威主義で旧弊なオタクであり、Wacomを埼玉の誇りだと思ってる埼玉県民ゆえ、ただただ、たった1回の過ちでWacom製品を投げ捨て、""有象無象"“の""中華""製品に手を伸ばせるみんなのフットワークが信じられないのだ。
そして今回の傷が重篤な致命傷なのは否定できないとはいえ、なにもWacomが主体的にAIを推進したわけでもないのにここまで炎上が広がっていることに引いているのだ。
なんかこう…例えばCintiqの次世代モデルにAI積みますとか言い出したわけでもなく、ただAI画像をなんとなく手にとってしまっただけなのに、叩かれすぎじゃないかと思うのだ。確かに迂闊で許される範囲じゃないとは思うけどさ。
とくに、まるでWacomが生成AIを大歓迎し、諸手を挙げてユーザーに押し付けようとしている企業であるかのように罵っている一部のAI慎重派の言動はあさましく思えて仕方がない。
むしろWacomは絵柄を署名のように扱える技術を研究し、「AIでAIをぶちのめす」道を探ろうとしている途上にあるというのに、というかその話題が出た当時はみんなしてさすワコしていたというのに……。
……長い長い冬を抜けて、ようやく著名なイラストレーターの方たちでさえ腹を括ってAIの被害を訴えてくださるようになり、ここ最近にきて生成AIに関する議論が持ち直したように感じられる場面が増えたように思う。
一方で、その暗い冬のあいだに摩耗した精神を顧みぬまま、あれもAIこれもAIAIAIと呪詛の言葉を撒き散らすようになってしまったインフルエンサーの方が何人か思い浮かぶ。
特に、最近になって「2023年8〜10月以降にいきなり生えてきためちゃうま絵師は基本AIだと思え」というド失礼な認識が自然発生し、ぽつぽつと苦言が出ることがあっても、とくに大きな反発もないままその認識が界隈に定着したのを見たとき、私は「底が抜けてしまった」と思った。
そこに畳み掛けるようにして、絵描きの最良の友であったWacomへの過剰な警戒がドバドバドバドバ噴出しているのだ。しっちゃかめっちゃかだよもう。
AIbroが吐き捨てていった「AI規制派はフェミ!」というお里が知れる鳴き声を、彼の意図した形ではないとはいえ、私は捨て置くことができない。
今の「AIカスどもVS絵師とかの連合」の泥沼バトルは、慄然とするほど「"フェミニズム"VS表現の自由」の界隈が辿った道筋に似すぎているのだ。
あの人たちはどうなった?
ギャグみてえな炎上の渦中にあっても気高く振る舞ってきた、"フェミ"と蔑称されるいわれなき本物のフェミニストたる女性達は、数回の炎上ですぐさまインターネッツ・レスバの無意味さを悟り、彼女らがまだ"まなざし村"という懐かしい名で呼ばれていた時代の終わりと共に雲隠れしてしまった。
こうして萌えコンテンツをひたすら理不尽に憎み、ダブルスタンダードな思想を振り回しながらLGBTに迷惑をかけまくる、だいぶ苛烈な女性だけが鼻息荒くリングに残ることとなった。
一方の"オタク"の側も、愛するコンテンツを守りたい一心で不器用にも声を張り上げていた層が、本当はそんなふうに怯えなくてもいいことを知り、安心して去った。オタクコンテンツを傷付けやがる連中の正体見たり枯れ尾花。好きなものを愛でる時間のほうがよほど大切なことに気づいたのだ。
そうして気持ち悪くて不謹慎な処女厨の童貞が一番カッコいいという化石じみた価値観のまま、アニメやゲームに言うほど思い入れがないにも関わらず、現実の女性を逆恨みする原動力として自分をオタクだと思い込まねばならない可哀想な男性だけがオタクのバトンを勝手に引き継いだ。
そんなこんなで、かの界隈は"炎上のための炎上"の火の手が毎日どこかしらで上がり続ける、オタク嫌いとミソジニストがこの世の終わりみたいなナワバリバトルをやるだけの地獄と化してしまった。
他人事とは思えない。
「絵が描けるだけで好きなだけイキれてvtuberにフォローしてもらえるキモオタどもが羨ましい」という凄惨な嫉妬が胸の内で渦巻いていることにさえ気づけないまま、自分は最先端技術を理解しているすてきなテックギークだと心から信じて、満たされることなく価値のない画像を貪り続ける“彼ら“の壮絶さを思えば、相対する我々はたしかに、さすがに、今のところは同じ場所まで堕ちてはいないと言っていいだろう。
今のところは。
だが、その尊い正気が首の皮一枚でつながっているに過ぎないことを、前線にいる多くのひとが忘れてしまっているように思う。
自分がすぐにでも怪物に成り果ててしまうほど疲れ切っていることに気づかず、このまま怒りと悲しみを免罪符にして諍うだけの日々を送っていれば、すぐにでも炎上の熱狂と、レスバのライブ感に飲まれてしまうことだろう。
これは自戒でもある。
この戦いはコップの中の嵐ではない。
議論の場としては最悪なインターネットが唯一のフィールドというのも逆風だが、それでも。
非常に緩慢なテンポで、ときに腹立たしい揺り戻しに見舞われながらも、世界は確実に、ゆっくりとまともな方向に舵を切ろうとしている。
それもこれも、生成AIという忌子の産声に迅速に反応し、大衆がことの重大さに気づく前から、狼少年のような扱いを受けながらも折れることなく声を上げ続けてくれた人々がいたおかげである。
あなたたちが戦ってくれたからこそ、ようやくたくさんの人々が目を覚ましはじめている。
だから、我々はその目を裏切ることなく戦い続けなければならない。
だから、少しでいいから、休んでほしいのだ。ふと立ち止まるだけでもいいから。
この局面にあって、些細なことから「やっぱ反AIって頭おかしいわ」と思われるような事態があってはならないのだ。
私は恥ずかしながら、かつて表現の自由戦士と揶揄される感じのあのへんの活動に片足を突っ込んでいた。
そしてその日々の中で、素晴らしく聡明で、洞察力があって、敵を糾弾する時も優しさを忘れない、人間としても尊敬を集めていたオピニオンリーダーがある日突然ぶっ壊れてよくわからないことを言い出し、クソほど炎上するのを何度か目にしてきた。敵にも味方にもそんな人が出ていた。彼らはそのまま、“炎上のための炎上”をやるためのゾンビと化していった。
思い返せば彼らはいつも最前線に立って、独りで戦っていた。“界隈の人間ではない“人間がそばにいて、エコーチェンバーの反響を適度に遠ざけることさえできていれば、ガス抜きさえできていれば、何かが変わっていたかもしれない。
怪物と戦うものが怪物にならない方法は、ひとつだけ。連帯することだけだ。
あなたたちの仕事は言うまでもなく私が、そしてなによりあなたたちが呼び覚ました無数のビジランテが引き継いでいく。
だから、少しでいいから息をついて、AIbroどもにもみくちゃにされる中で削ぎ落とされてしまった何かを取り戻してほしい。我々にとってあなたたちが必要だからこそ、壊れないでほしいからこそ、私はこんなことを言っているのだ。
Wacomを許せるなら我々はまだ引き返せるはずだ。
このエントリがあなたたちの目に入ったら、お前は手ぬるいだの悲惨な現実を理解できてないだのの有難いお言葉が飛び出してくることだろう。
確かに前半のWacom擁護は、贔屓にしている会社かわいさゆえの妄言ではあると思う。正直。
でも、後半で言っていることを取り下げるつもりは絶対にない。
現実がまじくそだとしても、だからこそ、意地汚くAIを押し付けてくる連中とこれからも戦っていくためにもここで少し立ち止まり、あたりを見回して我が身を振り返らねばならない時期にきていると私は強弁する。
友人としての贔屓目はあるが、それでも良いMVに仕上がっていると思う。
もし将来そのバンドが売れたら俺が100%出資者だったんだぜと自慢ができる、楽しみだ。
友人であるAとは中学の頃からの付き合いで、そろそろ15年くらいになる。
正直、俺とAは中学ではパッとしない人間で、同じ野球部に入っていたが大して活躍することはなく、顔もそこまで良くはなく、当然モテるなんてこともなくて、まぁスクールカースト最底辺一歩手前ってところの立ち位置だった。
中学3年の夏を都大会2回戦敗退とかで特に感慨もなく終わり、さぁ高校はどこに行こうかと考えていたところ、Aが高校でバンドやろうぜと俺を誘ってくれた。
Aがバンドに興味を持っていたなんてことを全く知らなかった俺は、なんでバンドやるんだ?とAに聞いたところ、Aは「バンドやってたら格好いいから。俺は格好よくなりたいんだ」と答えてきた。
よくある話だが、あの時俺は、Aを格好良いやつだなと思った。
当時、格好良く・可愛くなるための努力をするやつはダサい、という風潮があった。高校デビューは馬鹿にされていて、最初からダサいやつはずっとダサいままでいることが求められていたと思う。そんな中でAは臆面もなく自分の理想を俺に語っていて、主人公みたいで、Aに付いていったら面白くなるかもと期待して付いていくことを決めた。
高校では俺がベースでAがギターボーカル、他にドラムとキーボードを捕まえてフジファブリックのコピーバンドを始めた。狭いが安いスタジオに男4人でこもり、脳に直に響くようなAのギターソロを聴く瞬間が俺は大好きだった。男臭い3年間だったが良い青春を過ごせたと思う。
結局俺は高校卒業とともに軽音をやめてしまい、Aとも大学を別れてしまったが、Aが告知するライブを時折見に行き、一年に一度飲みに行く付き合いを続けた。俺が大学院に進学してもAはバンドを続けていて、時折オリジナル曲のサンプルを聞いて感想を伝える、なんてことを続けていた。これまでは言葉と態度で応援するだけだった。正直今までのバンドでお金を出す気になることは一度もなかった。
去年の春にAから新しいバンドを組んだと聞かされ、送られてきたサンプルを聴いてみたところ、かなり出来がよかった。どこで見つけてきたのか、Aは華のある女子ボーカルを捕まえてきた。キーボードもセンスを感じる。曲も良い。Aのギターリフも相変わらず格好良くて耳に残る。中毒性がある。これはもしかしたら売れるかもしれない。
俺にクリエイティブなセンスは一切なかったが、自分の好きなものを見る目には結構自信があった。これが外に出るならお金を出してみたい。秋に送られてきたMVのクオリティも高く、人のふんどしでバズってみたい欲求に駆られた俺はAに出資したい旨を伝えた。
正直10万円なんて広告費用としてはたかが知れているだろうということは想像に難くなかったが、Aはとても有難がってくれた。俺が本気であることを真摯に受け取ってくれたことが嬉しかった。Aと相談してYouTubeの広告費用に充てることに決まった。
10万は貧乏学生の自分には少し高いが、これからの数年間でAの夢を一緒に楽しませてもらえると思うと安いと感じる良い買い物だったと思う。売れるといいな。頑張ってほしい。
【1/9 16:00 追記】
はてなの皆が優しくて嬉しい
何名かの人がリンクを貼ったら良いのにと仰ってくれたので貼らせていただきます
PompadollS - 日の東、月の西
https://www.youtube.com/watch?v=v6Bd19sNiWc
もし聴いてみて良かったらTwitterも拡散してくれたら嬉しい、俺はTwitterバズの力を信じたい
https://x.com/pompadolls/status/1744209877092995103?s=46&t=fd_CP2JE1EzFet__41Mjlg
(結構伸び始めてそろそろ怖くなったので実名は消しました、でもバンドメンバーの中の人じゃないよ!)
【1/9 19:00 追記】
この記事のコメント欄とかも全部見て喜んでくれてる、本当にありがとう