はてなキーワード: カリキュラムとは
『艦コレに熱中している青年たちに告ぐ。君たちの情熱は、間違っていない』という表現にあると思う
有名人である以上、彼は(ざっくりいうと)成功者であって、おそらくそれ自体間違いではないのかもしれない
だけど 間違っている
青年たちは熱しやすく冷めやすい、氏が言う、情熱を深く掘り下げることはなかなか無い
日本の社会において、自由な学習から得られる個性を持った人間には面白い場所ではない
日本人の社会は、ビル・ゲイツやスティーブジョブスを生み出さない代わりに、ある一定の意味合いで平等だ
同じ情報を共有することによって、多くの人が、多くの人と楽しむことができる
自由な選択の中から選ばれたものではない、「これを遊べ」と言われているも同然だ
多くの人が艦コレを遊ぶことによって、平等になれるのだ
平等を望むオタクに、なぜ、ビル・ゲイツやスティーブジョブスの可能性を見出すのだろう。
現代の娯楽に熱中する若者をマイノリティだと思って書いているのだろうが
さて、一方で
あ、この先はあとで書こう
シリコンバレーで新卒採用でソフトウェアエンジニアとして働く先輩として,君たちにN○Tよりシリコンバレーで働くことを勧告したい.理由は大きく3つある.
一言でいうと,シリコンバレーでエンジニアとして働くことはとても幸せで充実しているからおすすめしたいということなのだが,何に幸せを見出すかは人それぞれ違うので,特に思いつく以上の3つのメリットをもう少し詳しく説明するので,一つでも興味が当てはまるのならいいから黙って話を最後まで聞いて欲しい.
大まかにいって,20万ドルから30万ドルの年収が期待できる.これは日本でサラリーマンとして働くことに比べると大変高給だと思う.
別に高給だから偉いというわけではないが,一日の多くの時間を費やして労働という形で給与を得る立場である以上,給料は最も大切な要因の一つであると思う.
それに,高給だと生活に余裕がでるし,贅沢も多くできるし,何より気持ちに余裕ができる.
それほど重要な要因である以上,誤魔化さず明確に数字を示すことが大切だと思うので包み隠さずいうと,僕の場合だいたい5年目までは以下のような給与カーブをとった.
1年目:15万ドル
3年目:21万ドル
5年目:26万ドル
6年目〜:僕も未知の領域なので詳しくはわからないが,30万ドル付近に一つの壁はあるように感じる.そこをいつ超えられるかどうかは完全に実力と出世次第.早い人なら5年目の時点で既に超えていると思う.
もちろんパフォーマンスによって変動する部分もあるし,昇進のタイミングによっても変わってくるが,君の給料もプラマイ10%から大きく見てプラマイ20%以内には収まるだろう.一時,某ゲーム会社で新卒年収最大1500万円というのが話題になったが,シリコンバレーでは皆が新卒で普通に貰える給料なのである.
僕のケースは大企業なので,ベンチャーとなるとまた話が変わってきて,僕の友人を見る限りでは,現金で貰える基本給・ボーナスが低い分,ストックオプションが貰えるようである.もし上場でもしようものなら,ストックオプションは大変な価値になるだろうから,より変動のある給料といえる.ただ基本給が低いとはいっても,新卒で10万ドル程度もらっていた.
税金は日本でフルタイムで働いたことがないので,詳しい比較はできないが,調べる限りではそう大きく差はないように思う.
よくシリコンバレーは家賃が高いという指摘があるが,実際その通りで,だいたい月の家賃は2000ドルから3000ドルのレンジである.独身でルームシェアを厭わないのであれば,もちろんもっと節約することは可能だし,ルームシェアも日本よりずっと多いが,20万ドルを超える給料を貰うと,正直なところ月2000ドル3000ドル程度の出費たいして痛くはなくなる.なぜなら平均した月の手取りが例えば11000ドルだとして,家賃に2500ドル払って,残りまだ8500ドル残る計算であるからだ.
なお,それ以外の生活費,例えば食費などは別段日本と変わらないか誤差の範囲内である.
日本人的感覚だと高給取り=過労 and/or 首切りというイメージがあるが,こちらでは全くそんなことはない.そもそもプログラミングのような集中力がいって頭も使う仕事そうそう何時間もぶっつづけでできるようなものじゃない.また仕事は極めて合理化されているので,この時間無駄だなと思う時間が全くない.実際僕の一日の実働時間は4〜5時間位だと思う.実働時間といったのは,リフレッシュのためにチームでテーブルサッカーをしたり,会社で用意される軽食やらお酒やらを楽しんだりする時間もあるからだ.それでもだいたい平均で一日会社にいる時間は7時間もないと思う.
また,働く時間と場所についても相当に柔軟である.いつ会社に来ても,いつ会社から帰っても,また家から働いても,カフェから働いても,最終的に仕事さえやっていれば基本的には誰にも文句は言われない.もちろん,何の申請もいらない.例えば,最近では,ワールドカップがあると,ワールドカップの時間だけ家に戻って家族で楽しんでまた会社に戻ってくるなんてのが普通に気兼ねなくできる.
この辺の正確な塩梅は会社やチームによって変わってくるが,ワールドカップ見に家に帰る,毎週金曜日はWFH (Work From Home) するという程度のことが許されないのはあまりない.さすがに,毎日WFHするのでそもそもアメリカにもいませんなんてのが許されるレベルになるとだいぶ少数派になると思うが.
有給も言うまでもなく自由に取れる.僕は今のこの就労環境を正直天国だと思っている.それくらいストレスを感じることなく自由に仕事ができる.
ちなみに念の為に言っておくと,リストラもない.数として0ではないが,よほど仕事しない限りない.
これもその通りである.日本で日本語で日本人と働いているだけでは,よほど君に突飛な才能がない限りグローバルな人材にはなれない.嘘だと思うなら,日本の会社で働いている数年上の先輩に,世界中どこへでも転職できると思うか聞いてみるといい.殆どの人がNoと答えるだろう.別にそれは彼らに世界中で働ける資格や能力がないというわけではない.単に世界で働けるか知らないし知らないから自信がないだけだ.シリコンバレーは世界中から有能なエンジニアが集まっており,当然英語で仕事をする.そこで実際に仕事をして身につくもっとも大切なことは,自分は世界で見ても一人前のエンジニアであるということを知れることである.別に僕は何も特別な存在ではない.心配しなくてもこれだけ高度な教育を受けられる日本で優秀な君たちは世界的に見ても優秀だ.しかし実際に身をもって体験しているかどうかという差は極めて大きい.実際に,僕はシリコンバレーで働いて世界のエンジニアのレベルは平均では思っているより低いと感じた.でも,それをいかに僕が説明しても恐らく君の自信には繋がらないだろう.なぜなら僕と君は当然違う人間だし,そもそも君はそれを実際に体験・体感していないからだ.シリコンバレーで実際に世界のエンジニアと働き,自分と比べ,その中で世界での自分のレベルを知れることは本当に有意義である.僕は,数年シリコンバレーで働いて,決して特別優秀ではないものの,一人前のエンジニアであると自信をもって言える.当然,英語も話せるようになった.もし,僕がアメリカでの生活に飽きたとしても,世界中ソフトウェアエンジニアの募集がある所なら,ロンドンでもチューリッヒでもドバイでもブラジルでも,どこででも働ける.
(一応,誤解なきよう言っておくと,あくまで平均の話であって,世界で超トップレベルのエンジニアは想像以上に凄い.本当に凄い.今でも空想上の生き物にしか見えない.)
以上を踏まえて,ここまで興味を持って読んでくれた人は是が非でもシリコンバレーで働くべきである.タイトルは学生だけに限っているが,当然既に日本で社会人としてプログラマとして働いている人も対象である.日本の学生や社会人として会って話してよく聞くのは,もう少し日本で鍛えてから来たいとか,英語ができないからまず英語を勉強してから来たいとかだが,はっきり言って両方とも馬鹿げている.日本で働けば働くほど,世界で働くエンジニアとは差が付くし,当然英語の成長も遅い.自分が働きたい環境にそえるようになってから働くのではまったくもって遅いし効率も悪い.働きたい環境に自分を投げ込んで,自分を成長させるほうが遥かに効率がいいし正しい方法である.目標が人を成長させるのではなく,環境が人を成長させるのだ.折角,大学を出たばっかりの君はまだ優秀なんだから,無為に時間を過ごすのではなく,黙ってシリコンバレーに身を投げ込めば,嫌でも仕事して生きていかないといけないのだから,何でもできるようになる.
僕自身,英語の勉強が大嫌いでアメリカで働きでもしない限り英語を話せるようにならないだろうというふざけた理由でアメリカに来た.当然,最初はろくに意思疎通すらできず,苦労したが,所詮僕らの仕事はプログラミング.何も外に物を売りに行くわけでもない.自分がやらないといけないことさえ分かれば後は黙ってコードを書いておけば最初はなんとかなる.半年も経てば意思疎通はできるようになる.一年も経てば業務上問題無い程度に話せるようになる.
アメリカのCSの学生は普通に卒業してシリコンバレーで働いているのである.シリコンバレーには星の数ほどIT企業が存在して,全くソフトウェアエンジニアは足りていない.そうすると良くも悪くも必要とされるレベルも下がる.率直に言って,こんなレベルでよく採用されたななんて学生がアメリカの大学を出ているというだけで山ほどいるのである.日本でプログラマで待遇のいいところなんて,某検索エンジンの会社とか一部の外資系に限られていて,採用も限られているので,ほとんどの人はああいうソフトウェアエンジニアとしての生き方は優秀なひとにぎりの学生のためにだけ存在すると考えているかも知れないが,それは大きな間違いである.某検索エンジン社は日本では指折りの待遇だと思うが,それでもなおシリコンバレーの給与水準から見ると低いし,何もそんな狭き門をくぐらなくても,十分シリコンバレーでは働いていけるのである.凄く大雑把で主観的な意見だが,君が東大や京大の情報系で上位半分にいるなら,まあ問題なく働けるだろう.プログラミングができない?アメリカのCSの学生も日本と結局は似たようなカリキュラムで勉強しているのだから,心配しなくても彼らも同程度にできない.だいたいプログラミングなんて働いてから勉強しても遅くない.CSの基礎ができているなら,すぐ書けるようになる.むしろ大切な能力は未知のことを学び,物にし,アウトプットするというサイクルがどれだけ速く多くできるかということなのだが,本題から外れるのでここでは話さない.とにかく,敬遠せずにどんどん挑戦して欲しい.ただ,人手不足ではあるものの,基本的にこちらの面接は保守的であるように思え,つまり,この人は確実に役に立つ,やっていけると思った人しかとらないように見える.また,会社によって積極的に採用している時期もあればそうでない時期もある.だから,仮に面接に落ちてもそれは全くもってそこでやっていけないことを意味しないし,実際面接も一定の期間をおいて何度でも挑戦可能であるし,知り合いにも3回目の挑戦で受かった人がいるので,仮に落ちたとしても何度も見なおして挑戦して欲しい.
繰り返しになるが,こんなに楽しく自由な環境で,こんなに高い給料がもらえて,こんなに成長できる環境は世の中のあらゆる仕事を探してもそうはないと思う.せっかく情報系に入ってソフトウェアエンジニアになれるチャンスと資格があるのだから,ぜひそれを活かしてほしい.健闘を祈る.
P.S. 匿名にて投稿してありますが,本文書は僕個人の意見を表明したものであり,所属する或いは所属した組織や団体の意見を表すものではありません.
だって、会話の重要性は読み書きに比べて断然低かったんだから。バブル以前は外国人と話をする機会なんか、そうそうありゃしません。社会全体がそれで困る状況じゃなかったし。
逆に読み書きはそれなりに必要な可能性があったわけです。少なくとも大学まで行けば最低減、辞書を片手に読める必要はあっただろうし、電話よりも文書でのコミュニケーションがメインだっただろうし。
でも、ここ4半世紀ぐらいで世界の方が大きく変わっちゃいました。直接会ってコミュニケーションするばあい、筆談じゃさすがにまずい。でも、そもそものカリキュラムが読み書きに極振りなので、会話できないのはしょうがないわけです。
以前の英語の授業に対する不満は「使う機会なんかないやん」
目標設定ってむつかしい。
PCでインターネットを使える時点で日本全体の上位集団なのかもしれないが、
都会だと周りの秀才というのは中学に上がる時点で既にまわりから居なくなっている。
私立中高一貫校のほうが東大京大国公立大医学部に行きやすい環境が整っているんだから仕方がない。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3858.html
公立中学はDQN世帯からヤンキーが流入して学校で暴れて授業を止め、カリキュラムが網羅できず
公立高校の入試なのに中学の授業で説明を受けなかった分野から出題されて解けないなんて事態もあったりする。
だから公立中学の授業は内申点稼ぎに徹して勉強は塾でやるというシステムになるんだが
塾に資金を突っ込んで勉強できるかどうかは子供の学力じゃなく親の財力に左右される。
もっと言うと、「どこの地域に生まれるか」の時点で競争に差がついているんだけどな。
http://kishibaru.cocolog-nifty.com/blog/gakureki_shutoken_mr.html
http://kishibaru.cocolog-nifty.com/blog/gakureki_kinki_mr.html
いくら遺伝子が良かろうとパチンコ、車、セックスの話だらけだとか生活習慣が糞な集団に囲まれたら台無し。
高専生はそのカリキュラム上「自分で身の振り方を選択する」「コミュニケーション能力を磨く」という行為をほとんど行わずに卒業するので
そんなことを学んでる大学生も皆無だと思うが。
それともイシキタカクハックハックって言ってるのが一番優秀だ、ということ?
Web開発などをやっており,文系で修士を出てから就職,最近放送大学に在籍しています.
実際その状況で学位が役に立つのかはわからないので,実践面でコメントします.
基本的には,各技術を支えるメカニズムや,根本にある理論,数学などが大学で学べる特有の内容だと思います.
例えば,離散数学,計算論,アルゴリズムとデータ構造,プログラミング言語論,オペレーティング・システム,リレーショナル・データベースなど.
これらは,具体的に役に立つかというと,例えば深いレベルのチューニングなどでは必要になると思います.内部の構造が影響してくるので.
また,技術,特に新しく出てきたものを素早く理解するためには,体系的に例えば「データベース技術とはこういうものだ」という概念があると非常に役に立ちます.
なので
>トレンド技術を習得しにくくなることは、デメリットが大きいのではと感じる。
また,ソフトウェア工学に関する科目は,意外に大学特有の知識が多いです.
具体的に何が学べるかは,カリキュラムやシラバスが参考になります.逆に見ないと何もわかりません.
基本的には通信制の大学では,時間割はありません.スクーリングは別ですが.
なので,「毎週時間を作って〜〜する」というのは,最終的にはかなりモチベーションを減らしてしまうと思います.
いわゆる一流大学を出た人でも,大学では試験前のみ勉強するなど,気を抜いています.
ちゃんと勉強したいものはいくら勉強しても足りませんが(だから研究というものがあります),
下手に気負いしないで楽にやれば,そんなに大きな負担にはならないと思います.
例えば仕事で半年忙しいことが確定したなら,履修をしなければ良い話です.
基本的には「論理的にものを考えられる」ようにとられがちですが,
専門分野以外のことについては一気に瓦解する人も多いです.
敢えて言うなら,大学を出た後の環境の違いも大きいと思います.
大学を出てストレートに上場企業に入った方は,ずっと頭をつかう立場に配属される場合があります.
そのため,頭を使うこと自体に経験があり,慣れています.そうでない場合ももちろん多いのですが.
今の状況を活かして頭を使っていけば,大学を出なくても十分知性のある人間として尊敬されると思います.
恐らく,私の見立てでは大学を出てもあまり変わらないと思います.
しかし,今そういう思いがあるなら,やってみてはいかがでしょうか.
若く無いと大学に入れないということはないので.
医学は科学じゃない.というと勿論極論だけど,少なくとも医学部に来て学ぶことは科学じゃない.
医学,っていうと最近 iPS はじめどちらかというと基礎的な(as opposed to clinical)分野が注目されがちだから錯覚してしまいがちだけど,
医学部は医学部,医師免許を(ほぼ)全員がとり,まずはそれを目標にカリキュラムが組まれてる学部であって,生命科学をやれるすごい学部,ではない.
基礎研究を頑張って欲しいといううちの教授たちでさえ,医学部は職業専門学校だ,といってしまうような,そういう環境だ.
研究科は勿論違うと思うし,そこへの橋渡しも,少なくとも大学によってはけっこうしっかりしてるから,
ここで勝手にやりづらさを抱えてても意味はないかもしれないけれど.
みんな驚くほど数学ができない.ごくごく単純な漸化式を「スウシキ」といって特別扱いして,わざわざわかりにくい遠回りをしながら式を変形する.
ある言説の陰には大量の見えない仮定が省略されていて,断定の多くは経験則に過ぎない.
たまに理由めいたものが説明されてもそれはすべて定性的で,本当にそれが妥当な解釈なのかを自分で判断することができない.
「なぜ」なんてあんまり気にしない.全部気にするには時間が足りないのだろうし,そんなことを考える暇にまず病気とその治療法を覚えるのが医者には大事なんだろう.
僕には向いていない.
君が物理や数学の透明さが好きで,市販の単語帳なんかに頼った場当たり的に点をとれるような'勉強'の仕方を軽蔑していて,
公式を当てはめて,というような数学の解答にかすかな嫌悪感を覚える―それは本来考えて導き出せるものだから―タイプの人間で,
勉強が好きで,人体かあるいは医師や医系技官といった職業にそれほど強い興味があるわけでないなら,
考え直せ.君の居場所はここにはないかもしれない.
まず、多くの人が「教師が入学式を欠席するなんて!」と呆れたことの理由を考えてみたい。
そして、自分自身が反感を抱いた理由を考えてみたい。
よく、国民皆教育評論家というけれど、実際には一人一人異なる教育を受けてきていても、同じような教科書を使って決められたカリキュラムで教育を受けたという幻想があるので、報道されない個別、具体的なさまざまの事情をついつい無視して、自分の個人的な体験に置き換えて、善し悪しならぬ悪し悪しを語ってしまうんだろうね。
今回の件で教師を責める理由に、公務員なのに、という理由があったけれど、少し考えればそれは理由になってない。
私立の担任教師なら入学式を欠席してもよいと思っているのだろうか?そうは思えなかった。
呆れた多くの人たちの中には、自分の子供の入学式のために仕事を休んだ経験がある人も多いと思う。
それは、担任教師に抱いている「当然の期待」のハードルが、とてつもなく高いからだと思う。
そして、担任教師への期待のハードルが高すぎる理由は、親から見て学校が、我慢して子供を通わせざるをえないところであるからではないか、と思う。
私が思う「学校が親に課す高いハードル」とは次のようなものだ。
学校はこんな高いハードルを親に求めるのだから、親も担任教師に対して過大な自己犠牲を求めるのではないか。
(この高いハードルを「親は学校/先生に子供を人質にとられている」と感じる人もいるかもしれない)
家族のために計画的な休みを取ることについて、これほど反対が出る職業は、たとえばシーズン中のプロスポーツ選手くらいしか思いつかない(緊急時に出動する公務員はまた別の話だ)。
たとえば医師は患者の死に際して「我々も手をつくした」と言わなければならない。
気をもむ乗客が「予定どおりに到着しますか?」と訊いたら、乗務員は「はい、大丈夫です」と言わなければならない。
実際には、手を尽くしたと言えない場合もあるだろうし、乗り物が定時に着くかどうかはやってみないと分からない。
でも、正直な回答をすると、相手は「ないがしろにされた」と感じる。
「たまたまこの日は、一刻を争う急患の方が多かったので……」
「今のところは定刻ですが、この先で故障が起きないとは言い切れませんので……」
このように「論理的には正しくないことを、言明させる/させられる風潮」が日本特有かどうかは知らない。
担任教師の家族が危篤の場合、急に学校を休んだとしても、我が子をないがしろにされたと憤る親は少ないだろう。突発事項だし、教師だって人間だもの。
でも、自分の子供の入学式に出るために計画的に学校を休まれると、受け持ちの生徒は二の次です、と行動でハッキリ示されたような気持ちになる人もいるだろう。
「誠意がない」と感じるのではないか。
「誠意」を重視する、というと、日本特有のものにも思えてくる。
最優先の仕事が同時にやってきたときに、人間なので、順序を付けないといけない。
でも、あからさまに誰かを後回しにすることはできない。
なので、遅くなった人から苦情が来た時は「今出ました」と言う。本当はまだ出ていなくてもウソをつく。
これまではウソも方便で良かったのだ。医者は患者に優先順位をつけ、優先度:低の患者が死んだら「全力を…」と言い、家族はそれで納得してくれた。
だが、世の中段々厳密になった。世知辛くなった。すべて記録で残すようになった。
そうすると、真面目ぶって「トリアージ」などと、優先順位の付け方を議論しなくてはいけなくなる。
ルールをつくって、あからさまに後回しにする人をつくることになる。
今回の件が、どのようにして報道される程の大事になったのかは知らないが、かつてなら誰かが担任の不在に気づいても、校長が「ちょっと貧血になって休んでいました」とか言えば済んだのかも知れない。
今はもちろんそれはできない。
後回しにされると分かって後回しにされるのと、後回しにされたとは分からないままに後回しにされるのと、どちらがよいのか。
「知らぬが仏」という言葉もある。
さて、では自分自身はどうなのか。
通常、この手の話では労働者側に立つことが多いと自分では思っているのに、この件に関しては自分も担任教師に高いハードルを課していて、我ながら驚いた。
自分の子供の入学式に出たいのは親として当然のことだし、親だって担任教師の子育てを尊重すべきだ、という意見があった。
担任教師が休むことそのものが、子供の教育にとって良いことだ、という意見もあった。
行動を通じて労働者の権利、ワークライフバランスの大切さを教えることにもなる、というものだ。
とても論理的だ。そして、わたしは割と論理的な話が好きな方だ。
友人とも対話した。
友人「公務員だって平時は私用で有給取得できるだろう。労働基準法を現場で無視してよいのか」
自分「担任教師の職務は特別で、子どもたちにとって唯一無二だ」
友人「家族の不幸とそれ以外の境目は?」
自分「計画的な休みかどうか。他人の子供を預かるという仕事の性質上、計画的に私用を優先することはふさわしくない」
友人「妊娠はどうか?」
自分「妊娠は計画的なものではないと個人的には思っている。不幸や入院と同じ」
友人「教師のなり手が減るぞ」
自分「有能でも信念がないのはだめだ」
このような私の意見は偏っていると思う。それは喜んで認める。
そしてその理由は、高校時代に受けた教育が、親にとっても教師にとっても非常にハードルが高いものだったことによるのだと思う。
昨日はたまたま高校(県立)の同期会だった。そこに集まったメンバーは、自分の出身校に誇りを持っている。
同時に、入学直後に受けた指導が、一種狂気じみたものだったことも認めている。
(このサイトを見つけてメンバー一同大笑い。ヤフー知恵袋 ★過激な校歌指導の現状★ ~埼玉県と福岡県の高校受験生へ~ http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n224682)
受験できる範囲内の県立高校としては一応トップの学校に入学して3日目から、まぁ右翼かヤクザのような指導を受けるわけです。
高校一年生が男女問わず軍歌のような応援歌を大声で歌わされるわけですよ。
「○せ」みたいな内容の。
親の中には子供から学校の模様を聞いて憤った人もいたかもしれない。
課外の補習授業に自主的に参加しなければならず、毎朝6時半には子供を送り出さなくてはいけない。
一方で体育祭ともなれば、放課後に強制的に応援練習に駆り出される。期間中は塾通いもできない。
それでも親としては、子供によい大学に進学して欲しいから、学校の先生が「ウチは文武両道なんです。協力してください」と言えば、なかなか否とは言い難かったと思う。
その代わり先生も、毎朝休まず7時40分から授業をするし、当然ながら行事は全て出席するし、3年生ともなると元旦返上で模試をやる。
公務員としての高校教師の職分をはるかに超えて熱心に生徒指導をしていた。だから親も納得していたのではないか。
こういう環境で育ったから、担任教師が入学式を欠席、と聞いた瞬間に、反射的に自分の受けた教育と結びつけて、否定的な反応を示してしまったのではないか、と思う。
おっさんと同世代の国立医学科志望の再受験生で大学受験生の子もいる俺が来ました。
現役時のスペックはおっさんより落ちる(筑波、立教、学習院に合格)。
田舎出身は一緒だが、参考書使っているやつなんて見たことなかった。
同志社立命館の赤本見た(MARCHは見ていない)がセンターよりぶっちゃけ易しい。
英語なんてなんでこんな単語に訳注ついているのかって単語がいっぱいある。
国立の筆記は昔とそんなに変わらん気がする。
昔との違いで思うのは、このくらい。
・参考書の充実(易から難までいろいろ)。どの教科はどのレベルだったらどの参考書使ってどの程度まわして、って情報も、勉強本なり2chのスレなりである程度確立している。
・東進や受験サプリといった、田舎民でもアクセスしやすい予備校コンテンツ
あと現在の高3からカリキュラムは変わっているんで、ここ何年かの受験生は赤本やりこんでも、本番で「ナニソレ」になるかと思われ。
おっさんがこうこう勉強すればかなりの大学に行けると理解することと、子供がそれを実行するかは別問題。
そこを無理強いすると悲惨なことになる。
ようは職業訓練校なんだけど、保険払ってないひとでも受けられるようになったもの
給付金制度も併設されてて、月10万円もらえる。(前年度の所得とか扶養関係とかでもらえないこともある)
結論から言うとすごくいいと思う
金いらないってのもいいけど
なによりおれが言いたいのは、身になる感半端ないってこと
というのも毎日同じ科目を続けて教えてくれるんだよ
HTMLなら一週間ずっとHTML、そのあとCSSをずっとみたいな
これがすごくいい
記憶に定着するし、体でも覚える感じ
習うより慣れろみたいな話あるけど
この学校のカリキュラムだと、習うし、慣れるし、ほんと素晴らしいと思う・
実は、一昨年WEBデザイナーになりたくて専門学校に行ってたんだよ。結局嫌になって中退したんだけど
基本教養みたいな、直接WEBデザイナーに関係なさそうなものばかり
WEBデザイナーに関係してそうな授業が一日に1コマか2コマなんだよね。
しかも毎日違う科目(月曜はHTML火曜はC言語、水曜はデザイン論みたいな)
予習復習が前提だった
すごく苦痛で、俺には才能ないなと思ってやめたんだよ
それでいろいろあって、ハロワで訓練の案内見つけてタダだしだめ元で行ってみたんだけど
これが大当たり
今の学校じゃ、毎日5コマですよ。余計な授業はしない。ただひたすらWEBデザイナーになるためのカリュラム
このあとphotoshopとillustratorとjqueryとphpとwordpressと、あとSEOもやるらしい
気になったところも、次の時間すぐ解決。なぜなら毎日5コマあるから!
あーこれだ!俺が求めてた授業形態はこれだったんだって思った。
大学とかだと教養とかそういうのも大事なんだろうから、一見関係ないものもやることに意味がありそうだけど
専門学校は訓練校みたいな形にするべきだとおもうな(すでになってるならごめん)
複式学級を知らない人も多いかもしれない。
たとえば三年生と四年生が同じ教室で、三年生に授業をしている間は四年生が自習、四年生に授業をしている間は三年生が自習といった具合に。
文科省の定めでは、1学年が16人未満の場合に必要に応じてとられる措置らしい。
僕の学年は10人未満で、僕の上の学年も、下の学年もやはり10人未満で、2学年が同じ教室に入っても15~18人だった。
僕の学年の、学習到達度は通常学級に比べると低かったと思う。
(規模の順にA~F小学校としよう。一番大きな小学校がA小学校で、僕の小学校がF小学校だ)
当時の中学校では定期テストのたびに上位半分は壁に点数の順に出席番号を張り出す習慣があって、名前こそ貼りだされないまでも、誰が何点で何番かというのは調べようとすれば簡単だった。
アルファベットさえ憶えればなんてことがない内容だった。
中間テスト後、補習に残される生徒は明らかにD~F小学校の出身者が多かったと思う。
デッドラインは30点くらいだったと思う。
小学校の国語の授業でローマ字について習う時間が、よその学校の半分だったからだと思う。
2学年あわせても15人だった小学校時代、授業は最低辺の子に合わせ、ちんたらと進み教科書が最後まで終わらなかった。
40人クラスとなった中学では、最低辺に合わせて授業をするなんてことはなく、多少の配慮はするもののカリキュラムは粛々と進んでいき、当然のように置いてきぼりとなった。
さらに悪いことに、僕らは、競争しようという気持ちがなかった。
小学校時代、勉強の成績を競うという習慣がなかったし、中学に入った時点では、スタートラインから落ちこぼれだったからだ。
塾というビジネスも過疎の町にはなかったし、進研ゼミという通信講座も無力だった。
何故かと言うと小学校時代、複式学級で授業が半分とは言っても、それでも教師の監視の目はたった15人ばかりの教室には行き届いていたからだと思う。
子供同士の秘密とか、いたずらとか、カッコつけたり、ふざけてみたりということが極端に少なかった。
「西側が冷戦に勝利した一因は、西側エリアが交易に海上ルート・水運を利用できて効率的だったのに対して、
東側は大陸国家の集合体で、陸路しか使えずに物流効率が非効率だから」と看破していた。
そう考えると、西洋においてイギリスが、東洋において日本が、域内でもいち早く経済発展した一因に、
「周囲を海に囲まれ、海上輸送に有利だったから」という理由もありそうな気がする。
また、江戸時代において、各藩の「公式の石高」と比較して、西日本の諸藩は「実質的にはもっと豊か」だったらしい。
これは、瀬戸内海という内海海運を利用できた西日本の方が、外洋海運しか使えない東日本より、当時の海運技術の制約下では
(あと西日本諸藩は二毛作ができたから豊かだった、という説もあるが)
春休みも終わりに近づいてきたため応用理工で過ごした一年間雑感を。 文体が統一されていないと思いますがその辺は勘弁を。
評価といいますか率直な意見・感想ですので在籍している一学生が書いているであるという前提で読んでいただきたいです。
(なお私自身、第一志望で入学したわけではないため不快に感じる表現があるかもしれませんがご了承ください。)
まずはどうして筑波にいるのか ということですが、センターでおそらくマークミスであろう大事故を起こし、志望校受験すらできなかったためです。
それでも第2、第3志望校はどうにかなりそうな感触を持っていたのでそちらに出願予定でした。
しかしながら、家庭の事情により関東圏以外の大学への進学が厳しくなってしまい、安全圏かつ関東圏であった筑波大学の応用理工学類に出願することになったため現在に至ります。
(私学は金銭面の問題で候補にありませんでした。)
志望校ではないとはいえ、周囲の人たちはほめてくれましたし、良いところだと言っていましたので、色々ありましたが私自身コンプレックスなどを抱くことなく入学しました。
ここで話が若干前後しますが、入学前に応用理工学類に対して持っていたイメージと志望理由を書いておきます。
まず志望理由
私の中でのイメージとして 大学院は当然行くもの というのがあったため、興味のある分野の研究ができるかどうか という点で選び、研究室、院ともに合致するものがあったから。
私にとってはこれが最も重要でした。 ついでアカデミックな環境が整っていたから というのも理由です。
ではイメージを。
①幅広い分野を学び身につけられる
③ある程度名の通る大学なので、学生の質を含めてばらつきが少ない
④真面目な人が多い
⑤応用理工自体筑波大学のなかでも、厳しい学類なので、それを分かったうえでも入学してくる学生はしっかりと目標を持っているだろう
⑥ずば抜けた人たちと出会う機会は少ないのではないか
⑦学類が閉鎖的なのではないか
⑨応用理工は縦、横ともにつながりが薄いと聞くがどうなのだろう
⑩居住環境は悪くないだろうか(イバヤンというものがいると聞いていたので。
4月に応用理工学概論という授業内で、 応用理工(130人弱)のうち2割は留年する 上位5人くらいはどこでもやっていけるような人 毎年同じだから今年もたぶんそうなる
という話があり、やはり若干厳しめな学類なんだなと実感しました。 一方で優秀な方も毎年確実にいるということだったので、少しでも近づけるように励もうとも思いました。
しかし間もなくして、非常に驚くとともに、私にとっては落胆せざるをえないことが判明しました。
それは、 入学してきた半分以上の生徒が、目標がないどころか、何を学ぶ学類かすら理解せずに入学していたということです。
どんな研究をするのか という段階ではなく、そもそもどんな基礎学習をするのか という段階から理解していないのです。
応用理工学類ですから、当然理工系の学類なので、数学 物理中心に基礎を積み上げていくことはカリキュラムを見るまでもなく想像できると思います。
(パンフレットやHPにもカリキュラムや基本理念、研究について割と丁寧に書いてあります)
それにも関わらず、 「化学ができると思ったのに、ほとんどできなくてがっかりしました。」 とか「物理はもうやらなくて済むと思ったに、なんでまだあるんだ」といった
ことを言う人までありさまでした。(これはもっともひどい例ですが)
そこまでいかなくても、やりたいことが明らかに情報科学や工学システムや生物資源が扱う分野の人もかなりいて(しかも筑波第一志望の人も多々いるのです)正直これには信じられない思いでした。
次に授業のほうへ。
留年率が2割と聞いて、さぞ難しいものなのだろうと思ってのぞんだのですが、この一言に尽きる授業でした。 遅い&浅い
よく言えば工学部的なのかもしれませんが、使えればいい そんな授業でした。 小テストも教科書ベース 自学用の問題集やっておけばなお万全 といったところ。
解析のテストに至っては教科書の例題がそのまま並ぶ有様。 数値改変もなし
それでも単位ヤバイ という人もいましたし、途中から必修の授業に来なくなる人すらいました。
不思議なものですね 全然わからないと言いながら授業中にゲームやらスマホやらをずっといじって全く授業を聞かない。 改善する気がないのでしょうか。
私も確かに授業中に、別のことをしていることも多々ありましたが、わからなそうな部分はメモしましたし、それでテストも問題ありませんでした。
結局春の力学Aという講義では3割ほどの人が単位を落としたそうです。 落とした人は皆先生が悪いといっていたので他のクラスの講義に一度お邪魔しましたが、いうほどひどくない。
少なくとも先生が原因で単位が取れないほどでは絶対にない。 ただ逃げているだけにしか聞こえませんでした。
他の授業もおおむね同様で、終始スマホをいじる人がものすごく多かったように思います。 ツイッターがメインだったのではないでしょうか。
テスト前と後には、お互いに傷のなめあい状態 個人的にはツイッターはあまりお勧めしませんね。 互いに足を引っ張り合っている人が大量にいますから。 そうでない人も当然いるというのもまた事実だとは思いますが。
基本的にはテスト自体難しくなかったので、対策は容易でした。 私にとってはむしろ情報系の講義が鬼門でした(こちらに関しては本当にからっきしでやれどもやれども身につかず)
結局必修よりもそれ以外で足を引っ張られた形になり、GPAはあまり芳しくありませんでした。(一応必修のおかげで最低限は確保できましたが)
それでも先輩方の話を聞く限り、幅広い知識を身につけられることや研究関連の設備が整っていることは事実のようです。
学ぶ気になればどんどん学んでいける そういうシステムは出来ていると思います。(たしか3年生以下で研究ができるプログラムもあったはずです。)
(がこのシステムが満足に活用されていないのではないかと感じざるを得ません。)
ところで話は変わりますが、
学類の縦、横のつながりはあります。 ただしできるものではなく作るものだと思います。
そういう雰囲気の学類です。 あとは横のつながりは、絡む人によってかなり生活に影響しているように思えたので注意してください。 目標と違う方向に引っ張られる可能性もあるということです。
乗り慣れていないのか、あまり上手ではないうえに、傘さし運転 スマホしながら 並列 などなど当たり前にしています。 私自身笠さし運転の自転車が急によろけてきて危うく傘の骨が目に入るところでした。 かなり危ないです。
駐輪マナーは、場所の関係もあって少しは大目に見てもいいかな という感じです。 いいわけではないです。
居住環境ですが、私の住んでいる場所に関しては割といいです。 特に騒音もなく、盗難などの事件も起きていないようでした。
まとめさせていただくと、
私の中の想像とはかなりずれたものが実態だった(私的には良いと感じない方向に)
プラスイメージの③~⑤のずれはひどい。特に⑤に関しては信じられないほど違っていた。
一方①と②については事実であるといっていいと思う。(加えて体育 芸術系も学べるのはかなり珍しいのではないか)
マイナスイメージの⑥は本人次第だと思う。 自ら探していけば必ず出会える。
⑧は事実 かなりひどい。
⑨も本人次第だろう。 私はそれほど薄いとは感じなかった。
⑩は取り越し苦労。 居住環境はむしろいいほうだと思う。 東京まで50分あれば出れるし、大学周辺だけでも大体のものはそろう。自然も多い。
といったところである。
このような記事を書くと、確実に お前もそこにいるのに何言ってんだ という声が届くだろう。
暴論。
早生まれ・遅生まれの発達差は小学1年生レベルでは大きすぎる。
4~9月生まれにとっては、小学校1年の授業は退屈/体育だと体格差が大きい。
⇒児童数が多いエリアでは、4~9月生まれを10月に進学させ、半年早く義務教育をスタートさせては?
そうすると、児童の半数が半年早く教育をスタートさせることになり、教育レベルの引き上げ効果が大きい
比喩的表現をすれば「0.5年生/1.5年生」を創設するイメージ
ただ、交通整理の意味で、「●.5年生」制度は小学校期間までに止め、中学からは4~3月生まれが一斉に入学するようにする。
4~9月生まれが6年生カリキュラムを9月に終えて以降は、「自由時間」とする。学校に行くもよし、自由研究するもよし。
で、私立中学受験は4~9月生まれ組は8月に実施、10~3月生まれ組は2月に(従来通り)実施。定員は半々とする
STAP細胞の騒動を見ていて、自分の大学時代を色々と思い出して死にたくなったからここに吐き出す。
個人的なろくでもない思い出話なので、騒動の新たな情報を得たいとか、アホな人間の話にイライラする人はそっ閉じしてください。
私は小保方さんとほぼ同世代で、あの頃はバイオ系学科が雨後のタケノコのようにポコポコ新設されていて、私もそのひとつに入学した。私の入った大学では1・2年が基礎課程で、それが終わると研究室に配属される。大学院に進学しなければ、3・4年の2年間、研究に取り組むことになる。
配属された研究室の指導教官は合理的な人だった。入室後の面談でまず、進学と就職のどちらを希望するのかを聞かれた。公務員志望だと答えると曰く、2年じゃ大した研究はできない、まして就活が忙しい時期はほとんど学校に来られないだろう、だから、あなたにはまぁ厳しくしないよ、とおっしゃる。事実、2年間で叱られた記憶はほとんどない(何度か呆れた顔はされた)。一方で、進学する同級生は、かなり厳しくしごかれていたように思う。
「どうせ2年でいなくなる学生」の扱いに困ったのは教官だけではなかった。研究室に教員は1人しかおらず(もちろん研究員もテクニシャンもいない)、学生の指導は上級生が行った。私を指導してくれた先輩は、とりあえず実験をさせておこうと思ったようだ。私は、毎日言われるがままにPCRしまくり、ゲルを作りまくり、電気泳動しまくっていた。特技はチップ詰めだった。
研究とはなんぞや、実験の意義とはなんぞや、データとは、統計とはなんぞや。アホで怠惰で意欲のない私は、そういったことに自ら興味を持つことはなかった。したがって、「質問には答えるけど、聞かれなければ教えない」というスタンスだった指導教官や先輩との相性はすこぶる悪かった。疑問も持たずにひたすらPCRをしまくり、気がつけば4年生になった。
4年生になると、教官にはっきりと「公務員試験が終わるまで、週1回の論文ゼミ以外は来なくていい」と言われた。どこまでもアホな私は、その言葉を額面どおりに受け取って、本当に週1回しか研究室に行かなくなった(就職希望の同級生でも、もう少しは行っていたように思う)。夏も終わり頃、公務員試験に全て落ちた私は研究室に戻った。その頃には、私は立派なお荷物学生となっていた。
復帰後は進学希望の同級生の下に付くことになった。相も変わらず実験の意義を理解していない私は、リクルートスーツに白衣を羽織り、ひたすら培地を作り、細胞の世話をし、あとPCRをした。
指導教官は就職希望の学生に対し、最終的に学科の卒業研究発表会だけ出ればよく、卒論を書かなくてよいと言っていた(カリキュラム上、提出は必須でなかったらしい)。が、4年生の初冬、全員提出するよう方針転換された。まあ当然だろう。私は大慌てで論文を書いた、というよりも、でっちあげた。先輩の修論をコピペし、よく撮れた泳動画像を使い、細胞の蛍光画像からは都合のいい部分を切り抜いた。私は、論文の書き方どころか、データの取扱いすら学んでいなかった。
こんな私でも卒業が認められ、なんとか就職も決まった。もちろん研究職ではない。その後いろいろあって、今は大学で学んだこととは一切関係のない職場に勤めている。
今でも、科学の話は好きだ。科学に関する本やテレビ番組は好んで見るし、科学館のようなところも行く。自分で言うのもなんだけど、これでも学業の成績は良い方だったのだ。要は、教科書的な「おべんきょう」は好きでも、自分で何かに疑問を持ち、それを追求することの適性はまったくなかったのだろう。
小保方さんの華々しい(今となっては物悲しい)会見の後、にわかに「リケジョ」という言葉がクローズアップされた。文系出身の同僚に「増田さんもリケジョだよね!」と笑顔で言われると、違うんだ、やめてくれ、と居たたまれない気持ちになった。私はただ理系学部を卒業しただけで、科学の作法も何も身に付けていない、ただのアホな女だ。
今回の騒動は残念だけど、これで「リケジョ」という言葉が巷で取り沙汰されなくなると思うと、少しだけホッとしている。
(念のため、この話は私というアホな女の一例であり、立派な女子学生・女性研究者は大勢おられます。どうか「これだから女は」と一般化しないでくださいね。)
(追記)
筆記は通ったんです(言い訳)
(追記2)
rosaline やりたい事もないのに何故その学部を選んだのか、なんてツッコんじゃいけないのかな(後略)
高校の生物IIで教わった内容をもっと知りたい、勉強したいと思ったのでバイオ系を選びました。
今から思うと、専門の教科書に基づく授業を受けて、どんどん新しい知識を吸収できた基礎課程が一番楽しかったです。
「やりたい事」が「研究」ではなかったということなんでしょうね。
今でも生物系の話は興味あります、ニュースになれば色々調べながら見てますよー。
(追記3)
話題になっている↓この記事に共感できる箇所があったので追記します。
研究室は基本的に1人しか教授がおらず、そこに多いときは1学年12人配属になる。つまり、学部4年・修士課程1年、修士課程2年だけだとしても学生は30人強いる。そんなにたくさんの学生がいて、教授の目が行き届くはずがない。
早大ではない某私大でしたが、この人数比はおおよそ似たようなものでした。全体にもうちょい少なめ。旧帝大出身の人から、研究室あたりの学生数が2~3人/年だったと聞いて驚いたのを覚えています(向こうも驚いていた)。
今となっては、そりゃ圧倒的にリソースが足りないんだから、先生だって進学/就職でスクリーニングするわな…としか思えません(ちなみに、進学はさらに内部進学/外部進学でスクリーニングされます。これも仕方ない)。
ブクマたくさんありがとうございます。同意くださる方がいらして少しホッとしました。
同時に、じゃあ私たち(と言ってしまいます)のような「理系のテーマの『お勉強』がしたい」高校生は、どんな大学の、どんな学部を目指せばいいんでしょうね? 放送大学ぐらいしか思いつきません。
が話題になっているようです。書いてあることそのものには賛成ですが、だからといって、ちきりんのいうことに意味がないとは思えません。
院卒で地方都市の高校というと、トップクラスの高校で教えてるんじゃないでしょうか?自分も理系院卒です。他の院生は高校教育に関わったとしても、トップクラスの塾・高校で教えている人間が多かったのですが、自分は、普通の高校に通えない生徒が通う通信制高校サポート校のスタッフなどをしていました。現在は文系・理系ともにある中堅総合大学で教員をしながら、研究プロジェクトで高校教育の現場にも顔を出しています(ただし、教育そのものは専門ではありません)。偏差値で言うと学部によって50を超えるところと下回るところがある程度です。その世代の高校卒業者の平均に近いのではないかと思います。
その立場から言わせてもらうと、「ちきりんの言っていることには、たしかに間違いが含まれていて、突っ込みたくなる気持ちは分かるが、全体としてはちきりんに賛成」です。
今の高校の理科教育ははっきり言って機能していなません。大学の理系の授業で、必須科目、「理科総合A」の内容を前提にすることはできません。中学理科もかなり微妙ですが、キーワードくらいなら覚えていることが多いです。授業なんか聞いてないか、聞いていても覚えていない。自分は高校の教育課程を把握しているので「この内容は、高校の必須なんだけど、覚えているかな?」などと良く振るのですが、「え?なにそれ、名前すら覚えていない」という反応が多いです。彼らは、教えれば少なくともその場では理解できて、小テストに正しい答えを書く程度の理解力を持っているし、受験で使った科目や、中学理科の内容であれば、覚えていることが多いです。だけど、高校の授業について全く覚えていない。おそらく聞いていないか、かりに聞いていたとしても、小学校・中学校の理科の比べてずっと定着率が低いようなのです。
「技術立国のために科学教育が大事」とかいうけど、あたしにいくら科学教育を与えても、技術立国には一歩たりとも近づきません。
ただし、理科教育といっても、物理と生物は大きく違うし、物理の中の分野でも「この分野は得意だけど、他は興味ない」という人もいるだろうから、「生物だけは特進クラスで学ぶ」みたいに細かく分野で分ければいいと思います。
そういう現状から言うと、ちきりんの上の意見には賛成するしかありません。たしかに、そうではない「理想の理科教育」を語るの自由です。でも、文句あるなら、そうじゃないような理科教育を実現してから言えよ。現状の理科教育では、ちきりんの言うことを受け入れるしかないじゃん。っていうのが、自分の意見です。
残りの 7割の人には、今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)「生活するために必要な科学知識」を教えてほしいです。
そこで批判されていた上の部分ですが。たしかに、批判する意見ももっともで、それに対しては何一つ再反論するつもりはありません。つまり、「生活するために必要な科学知識」と理論教育は矛盾するものではないという反論には全面的に賛成です。何より、自分が大学でやっている授業の大部分(1、2年次の基礎教育に関係するもの)は、まさに、「生活するために必要な科学知識」としての理論科学を教えるものであり、自分もそれを実践しているという自負があります。
でも、ちきりんの上の文章にはものすごくうなずいてしまいます。命題としての正しさとは関係なく、「そのように多くの人が考えてしまうような現状がある」と思うからです。
自分の授業では、しゃべっていて、反応が悪いと、その場で別の資料を出してきて、良い反応が返ってくるまで、同じ内容を繰り返し説明し続けます。カリキュラムを大幅に変更することも珍しくありません。それこそ、ちきりんが例に出したような日常の話、ニュース、芸能・・・話の引き出しをいろいろ引き出しとして持っていて、興味をもたせられるように話すわけです。ライブパフォーマンスとして授業をするように心がけています。だけど、自分が学生のときの感覚で言うと、きちんと学生の反応を見ている先生とそうじゃない先生は半々くらいかなというきがします。そして、多くの人は同意してくれると思いますが、実際問題大部分の授業は受ける側に立ってみるとつまらないです。自分だっていろいろ努力はしていますが、つまらないと思っている学生もいると思います。
科学教育に関して言うと、「聞き手の興味を持たせる」ことは、「生活するために必要な科学知識」を教えることとかなり一致します。しかし、これは一筋縄ではいかない難しいことだし、今の日本の教員には、これが得意ではない人間が多いというのは、紛うことがなき現実ではないかと思います。この現状で、
って言うのは当然の反応です。
自分はこれとほぼ同じことを塾の生徒、高校の生徒、大学の学生・・・に何度も言われました。なので、これはちきりんの特殊な意見として見るのではなく、学生・生徒たちの率直な意見として受け止めてほしいというのが、科学教育に携わってきた自分からの切実なお願いします。
もちろん、だからといって、「今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)」を教える必要はありません。今教えている内容を、「生活するために必要な科学知識」でもあることを強調するする形に変えるべきということです。これは、科学教育に携わる人間が常に取り組んでいかないといけない課題です。そして、これは今まで自分が教員としてやってきたことだし、ちきりんに対して反論していたバッタさんの意見とも一致すると思います。
他の人も言っていましたが、自分はちきりんの意見とそれに対する反論を見ていて、「これはないな」と思いました。議論が噛み合っていない。ブログに書いたことに、論理上の粗があるのは当然です。そういったことについては、作者にメールするなり、コメントするなり、あるいは別エントリーを立てるなりして、ブラッシュアップしていけば良いことです。こういうのは、普通の社会人、あるいは研究者なら普段、仕事上行っていることと同じだと思います。でも、ネットだと「議論をより良いものにするために意見を言う」ということができない人が多い。
科学を愛する者、科学に生涯を捧げた者が古今東西多数いることを知らないわけでもなかろうに、科学に対する冒涜と取られかねないような表現を用いるのは、売文屋、自己啓発屋として作戦ミスだと思います。いわゆる「炎上商法」「釣り」のつもりなのかも知れませんが。
アクセスを稼ぐためなのか、小さな問題でも、相手の議論の全部を否定したり、場合によっては、人格まで否定するようなことを書く人が多いです。そして、そのために、ネット上の議論の多くが、無駄なものになってしまっていることは、大変残念なことだと思います。
「また、あいつか、叩いてやろう」と思ってエントリーを書いたときは、「もしかして、このエントリーがネットの言論空間をダメにしているかもしれない」ということに想像力を働かせてもらえると幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140225
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20140225/1393341659
http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/02/27/234905
上の三つが目に留まりました。
この記事を書く理由はこれらの議論を見てイライラしたからです。
学生時代は塾講師で中学生に理科国語数学を教えてました。(6年)
ということですべての意見に対して反論することはできるのが
肩書しか見ないで意見を信用するかしないか決める人にもわかると思います
結論から書くと、私はちきりんさんとコウモリさんに反対でバッタさんに賛成です。
以下の四つに関して適当に書きなぐってみました。
結論から言えば私はそこそこ良いものだと思います。よく考えられて作られたのが分かる。個人的に言いたいことは山ほどありますが。
きちんと基本について抑えられているし、応用が利くような項目について教えられているはず。
これを全員がきちんと学べばこんな議論もなくなるのではないでしょうか。
基本的な知識を学んだうえでの応用のほうが適応範囲も広がるし、柔軟な思考もできます。その柔軟な思考が空想、妄想にならないためには論理的思考能力が必要です。
ただ問題なのは、応用について十分な紙面を割いていないこと。そこに関しては確かに問題であると思います。
だから、現実世界に学んだことを応用できない人が多いのです。学んだことを生かそうとする意識を養わないといけません。
では、どう生かせばいいのか。具体的に書くと割と時間がかかるので、ある程度適当に。
・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ
数ⅡBを学んでいればわかるはず。特に指数計算と数列を学んでいれば。
保健体育でやったでしょ?セカンドオピニオンとか。そしてその治療方法の妥当性を学ぶためには生物が必要である。
同上
・副作用も指摘されてるワクチンを勧められたんだけど、摂取すべきかどうか、どう考えて決めればいいのか?
これはリスクマネジメントの話であるが、実際に病気にかかるリスクと副作用のリスクを勘案すればよし。
中学校の理科で、血液は全身を循環していると学んだはず。施術中に、脂肪細胞が血液中に入れば血管詰まるリスクがあるのはわかるよね?
高校の化学でやる酸塩基反応、酸化還元反応をしっかり理解していればわかるはず。
・ガスファンヒーターの前にヘアスプレーのカンがあったら、どれほど危ないのか
空気はあったかくなることを膨張することを知っていればいい。中学の理科で空気の力はたいていどの教科書にも写真つきで載っている。
空気は膨張すると上昇すること、冷えてくると空気より重い気体(エアロゾル?)は下がってくることが分かればいい。
・天ぷら油から火がでたら、水をかけるのとマヨネーズをかけるのはどっちがいいのか。なければケチャップでもいいのか?
油の温度と水の三態、そんで水と油どっちが上に行くかということを知っていればいい。ここから水分が多いほど危ないと分かり、できればマヨがいいとわかるはず。
まずイオンを知ろう。その後に、科学的に実証されているものかどうかを調べてみよう。ここで論理的思考能力が必要になる。
・放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?
最近の高校の教科書には放射能とかも載っているので問題ない。ただ、ラジウム温泉でダイエットはできるのだろうか?
ということでちきりんさんの教えられたい項目は高校までにだいたい教えられていたのです。それをしっかり学んでいたかどうかが問題なんです。
大学へ行くと知識が力になる体験というものをする。主に研究生活でだが。
そういった実感を持つ人にとって、”「生活するために必要な科学知識」を習得する上での一番の近道は普通に理科を勉強することだと思います。”という考えを持つことは当然である。
ただ、わからない人も多くいるので最初に言ったように応用面の記載を増やしてもいいと思うが。
他の基本的な大意についても一番上に書いたことと同様なので基本的には賛成です。
さて、この人が一番問題です。ぶっちゃけて言えばこんなあほな議論を見たためこの記事を書いたといってもいいでしょう。
対象者によって教育内容を変えるという点は同意できます。ただ、それはより経済的、社会的なトレードオフの問題になりますが。
世の中にはできない子がいるという点にも同意できます。それをできるように変えていくのがすべての教育者の仕事であると思いますが。
教育論では素人がなぜか力を持つというのは教育者の間では割と昔から言われてることで、これも特に異論はありませんが、どのように破綻しているのかということを示す義務が、わかっている人にはあると思います。
さて、以下はすべて反論である。
彼らが話しているのはちきりん氏の記事には論理的破綻(つまり科学的基礎は重要である)があるということを指摘しているのである。
レベルという言葉をプログラミング言語における低級高級のような意味で使っているというのならともかく、そうとはどうしても文脈的に読み取れません。
それと、相手に対しては敬意をもった言い回しをしましょう。とてもじゃないがバイアスがかかり過ぎてて読みづらいです。
“バッタさん、やまもとさん「理数の学問的基礎は大事だよ、みんないつか使うかもしんないじゃん <`ヘ´>」”
こんなこと読み取れません。国語能力がよっぽど低いか、バイアスがかかっているのでは?
みんないつか使うから基礎を重視しているのではなく、基礎がなければ応用が成り立たないからと書いてありませんでした?
この言葉の裏にあるのは基礎を教えてそれを応用したほうが短時間でより多くの事が学べ、使えるようになるため、記事で書かれているような時間のトレードオフ的に有利だからです。
“現代では、「情報を網羅して知っていること」以上に、「知らなかった情報を使いこなすこと」こそが重要だからです。その技能を習得してもらうためにこそ、経験学習(問題解決学習)は有効だと言えそうです。”
何を言っているかわからない。系統学習の有用性は上記しました。情報の取捨選択の面からみても基礎的な情報を知っていることが大切です。
また、多くの知識を知っていればいるほど、知らなかった情報をうまく使いこなせると思いませんか?
問題解決だけしていても断片的な情報だたまるだけで、系統的な知識として身につかないので応用が利きません。
応用が利かないということはより余分に学ぶ必要があるということです。これは時間のトレードオフ的に無駄ですよね?
”台形の面積の計算方法から、数学的思考法なんか学ばねーよ。”
そうではありません。単純にあなたの考えが至ってないだけでは?
さらに、台形の面積の計算方法はは図形の面積の計算方法の一部であり、図形の面積の計算方法を見れば十分に数学的な、論理的な思考法のひな型なのではないでしょうか?
たとえば、同じ三角形を二つつなげれば平行四辺形の問題に帰着でき、それを半分にすれば三角形の面積だよね、ということ自体が数学的な思考法であり、それを証明するためには論理的な思考法が不可欠になりますよね?
台形にも同じことが言えて、上辺と底辺が並行であるならば二つつなげれば平行四辺形になる、ということに数学的で論理的な思考法が必要になることはわかっていただけると思います。
それと、塾講師をしていたという割には大枠で教科全体をとらえるという思考がないような気がします。教材の作成や、指導法について悩んでこなかったのでしょうか?
”台形公式を「知識」と捉えてしまう「さんすう苦手」層に向けては、もっと実用的な計算を教えた方が良いし、それを「理解」して使いこなせる「さんすう得意」層に向けては、もっと本質的な理数教育を施した方が良い。”
本当に塾講師をしていたのでしょうか?教えられていた生徒たちが哀れに思えて来ます。
算数苦手な生徒たちをいかに理解させるか、ということが教師としての仕事なのではないでしょうか?
彼が言っていることはバカはバカのままでいい。ということに他ならないと思うのですが。
最終的にこの記事の結論としては“経験学習vs系統学習への新しい答えの1つとして、「対象者によって分けてみたらどうだろう?」というちきりんさんの提案がある”ということを確認するために書かれたのではないかと考えています。
私は流石にそこまでは、この議論からは読み取れないのではないかと思いますが。
むしろ重要なのは現在の科学教育の妥当性という何度も提案されてきたいわば古い話であってちきりん氏を擁護するためにそこまでしなくてもいいと思います。
また、生活的知識と科学的知識は背反するようなものではないということは上に書いたのでわかっていただけると思います。
私が言いたいのはこの問題は系統学習VS経験学習という対立軸を持ち出す必要もなく、
基本的な知識をしっかりと身につけ、無理解を少なくすれば、ちきりん氏の言っているような実用的な概念を身につけることは現在の教育で十分にできている。ということです。
これはバッタさんも指摘していることですが…
一応誤解がないよう書いておくと、私は系統学習を主にしてそれを応用できるような経験学習をさせるのが最も定着力よく、応用力も利き、かける時間も少なく済むと思っています。
それは私がいろいろと教育について思考錯誤した結果であって論理的な裏付けがあるわけではありません。だからこそ、私は今回、そのことで批判していないと思います。それは教育者一人一人であっていいと思うので。
それ以前の問題、論理の破綻や無理解な部分について的を絞って話していました。それでもこんなに多くなってしまいましたが。
嘘や適当なことを言って自分の意見を補強してはいけません。それはただの害悪な文章であり、知らない人をただ煽るだけなのですから。