はてなキーワード: プラスイメージとは
子供の頃からなんとなく、私に才能がありさえすれば、他人は、その才能を自分のために使ってもらおうと、
私に対して頭を下げ、金品やら名誉やらを差し出すものだと思っていた。
しかしながら、実際にはそうではなかった。
私は、ある分野のスペシャリストの中堅どころとなることができ、ある意味では、才能を花開かせたとも言えるのだけれど、
芸術や音楽などの唯一無二の才能とは異なり、同程度の才能を持つ人間は多数居て、その競争に打ち勝つ必要があった。
その点では、才能なんてのは、昔思っていたような、あぐらをかかせるための打ち出の小槌なんかではなく、
戦場に駆り立たせるきっかけとなる多少強い武器のようなものなのだと思えるようになった。
才能を使って、斬った張ったの世界で戦わなくてはいけなくなった。
まあ、才能の本質がどちらであるにしろ、私はもはや、才能というもの無しに社会で生きていけなくなったわけだが、
子供の頃、私が才能に対して感じていた素朴なプラスイメージは完全に崩れ去った。
否。いまだにバカなどと言っているのは意識のアップデートを忘れたお年寄りだけだろう。
もう、バカバカと言って喜んでいられるような時代は終わったのだ。
「いい意味でバカ」のようにマイナスイメージからプラスイメージに転じたというのでもない。
未だにバカなんて言ってはしゃいでいるのは、よほど感覚の鈍いものだけだろう。
しかし感覚が鈍いにしてもバカが時代遅れだと薄々感づいてはいるはず、だのになぜ?
バカ以外になにも持たないから、この期に及んでなおバカに縋るざるを得ないのかもしれない。
恐らく、人々がバカという言葉に引きづられる無意味さに気づいたためだろう。
昔の牧歌的な人々は、バカという言葉が魔力を秘めていると思っていた。
世の中が悪くなるのはバカのせいだし、バカを取り除けば世の中が良くなるとも思っていた。
バカと宣告され、バカと承認されることは、バカにされたものの社会的な死をも意味した。
そしてバカと言う側も反撃されればタダでは済まないという緊張感を持っていた。
だが、そうした万能感が時代遅れであることは敢えて言うまでもない。
人様にバカなどと言う時代遅れな人間がいるなと思ってそれで終わりではないか?
もうバカを休ませてやれ。
フェミでもないし別にイラストは気にしないんだけど(かわいいな~って個人的に思ったイラストもあった)タイツ、ストッキングメーカー企業(購買層は女性が大半だと思われる)の広告としては向いてないと思った
もし仮に 男性向けのワイシャツの広告イラストで〇首透けてたものがあったとしたらなんで透けてんねん!!ってなるのと同じで(江口目線の例えでごめんなさい...)
今回の消されたイラスト(スカートたくし上げてるやつ)とかなぜかスカートの奥まで見えそうになってるやつとか
なんでスカートたくし上げたり下着見えそうになったりしてんねん!って思ったり...
今回の企画って結局のところ商品及び企業のイメージアップと販促に繋がったの??って疑問。(絵に罪はないしもちろん考えは人それぞれなので今回プラスイメージを持った人がいるのは否定、批判するつもりはないです)
表現者たちが、その手足を拘束する「表現規制」を全力尽くして拒まないことに憤りを感じていたが、そう考えたら腑に落ちた。
「表現規制」に対し、プロの表現者が実は好意的なのは、それが「参入障壁」になりうるからだと思うのだ。本人が意識していないにしろ。
なぜなら、既にプロになっている作家なり絵師なりは、「表現規制」に関する助言を関係者(編集者など)から体系的に教授されうるのに対し、
素人はそれを「空気」としてしか理解することができない。炎上する可能性を、網羅的に理解することができない。
結果として、素人は商業的な表現の場に参入できなくなる。クライアントにしたら、そんな炎上対策もできない表現など扱いたくないもんね。
素人がどんな良い作品を作ろうと、「表現規制」に合致してないとなれば、炎上する可能性を見過ごしたという意味で、クライアント側も責められうるからね。
CtoCの割合が増えつつある世の中で、特に表現の世界においては、表現供給者がプロである必要が低くなっている。だから、素人に対する参入障壁は有意義に働く。
つまり、「表現規制」に沿った表現ができること及びそのノウハウは、既存権益の一つであるわけだ。
だから、既存権益側の表現者も「表現規制」に好意的になる。規制下の表現の難しさをSNSなりで愚痴りながらも、実はある意味で喜んでいるのだ。
そして、その「既存権益」という方向で考えるならば、「表現規制」は「放送禁止曲」のようにジャーゴン化していくと思う。
「表現規制」は存在するということだけ世の中に理解されれば、その具体的な中身は、素人にそのルールを理解されないよう、秘密にしておいた方がよい。
既得権益側は、その素人に対し、私たちの規定する「表現規制」に従っていないことだけ指摘すれば十分なのだ。
それが事実であろうとなかろうと、クライアント側はその発言に萎縮して、素人との契約を辞めるという算段だ。
そうやって、「放送禁止曲」が放送する人間しか知らず、その被害を受けるとされる人間を向いていないのと同様、「表現規制」も自分たちの権益を守るためのものになっていく。
さらには、マナー講師が仕事を増やすために新たな「マナー」を作り出すように、表現者とその関係者は、自ら「表現規制」を作り出していくことになる思う。
被害者とされる人々とは全く関係なしに。メールでクレームがあったから、偉い人がそう言ったから、みたいな素朴なきっかけで。
それによって、表現者には、自らの手足を縛る「表現規制」と闘う社会派なプラスイメージが付与されるなんてオマケまでついてくるだろう。
性差別がどうのこうのうるさいからね。僕みたいな変なヤツが湧いても仕方ないね。
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いつも怒られている上司や先生の言うことを聞こうと思わないように、印象というものは大事だ。
マイナスイメージを持っている相手をいきなりプラスにさせる方法など存在しないので、
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いつも笑顔。目を見てしゃべる。キホンだな。鏡見てるか?
芸能人は、好印象持たれるために当たり前のように実践してる。毒舌系だろうがニコニコしながら喋ってるぞ。
目を見るのは、言葉を使わずに「あなたのことが好き」と言ってるようなもんだ!どんどん使え!
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いつも暗い話題ばっかり喋ってると、お前が暗い人間だと思われるから、明るい話題だけ出せ!
人間、笑うと気持ちよくなるようにできてる。気持ちいい会話に人がよってくるのは当たり前だろ?
「ない」「悪い」「嫌い」も「ある」「良い」「好き」にすり替えて使うんだ!
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無言にはなるなよ。日本人の大半は無言に恐怖しているからな。相手の話を聞け、という意味だ。
返答はイエス縛りな。相手に「この人合うな」と錯覚させろ。ついでに好みの調査もしろ。
言いたいことを吐き出し、相手は気持ちよくなる。もっと深いことも喋りたくなる。
こっちは喋ること考えなくて良い。ヌルゲーだなぁ?
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これだけのことが実践できたら、二人きりの時間を作ったり、飯やデートに誘ったりすればいいんじゃね?
普段から会話が続かなくて、飯食いに行っても楽しくなる想像ができないなら、時期尚早だな。
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男は都合のいい女を好きになるって、聞いたことあるだろ?その通りなんだよ。
せっかくプラスイメージ持たせたんだから、都合のいい女にはされたくないだろうけど。
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玉の輿には乗りたいだろうが、相手の収入チェックは隠れてしなきゃダメだぞ。
メシに行くときも、割り勘だろうが嫌な顔はするな。
奢ってもらいたかったら先に奢れ。「元気出して欲しかったから」とかなんとか言ってな。
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うまいレストランを教えてもらって、一緒に行って、メシがうまかったとしよう。
だが、褒めるのは相手だ。うまいレストランを知っている相手がすごいのである。
男はすごいと思ってもらえるところに寄ってくるからな。
それだけ気をつければ、あとはほっぺた落としながらニコニコしていればよい。
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「楽しいですね」
この一言が言えれば十分だろう。ただし、何度も繰り返すこと。
徹底的に、お前は自分の人生を楽しくさせる存在なのだと刷り込むのだ。
男は、自信を持つと化けるからな。
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それと、書き忘れていたが連絡しすぎでうざがられるのはNGだぞ。
逆に記念日なんかには積極的に行け。いい日に一緒にいる女になるんだ。
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女の気持ちなんてわからないと思うだろ?その時点で負けなんだよ。
女に取り入るには、共感することが大事だ。むしろそれだけでいい。
何せ女は善悪で判断して欲しいんじゃなく、味方になって欲しいんだからな。
会計は、通すべき芯があるときに強い、と思わせるいいタイミングだ。
会計を持つという姿勢を崩さない!ということが重要で、相手が奢りたいときはその限りではない。
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同じ話題でも、相手にとって汲み取って欲しい気持ちが違うこともある。
それを察知しろ。「そういうことじゃなくて…」というサインを見逃すな。
どういう気持ちをわかって欲しがっているのか、常に考え続けろ。
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楽しいねと言ったり、楽しそうな顔してると言ったりするんだ。
褒めることもとても効果的だ。半分嘘でもいい。
楽しんでる時のあなた、などと限定的にすればいいし、楽しんでいる上に褒めたら、相乗効果が出る。
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ちなみに、誘いをかけるのも自分からガンガン行ったほうがいいぞ。
楽しい予定を立てないのはなんで?などと思わせないように。
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さようならー。
よく「自意識過剰」だとあまり人間性が合わない人に言われることがあるけど、「自意識過剰」とはどういうことなのか。
他人の気持ちを勝手に決めつけて自分の気持ちが正しいと思い込んでいる事を「自意識過剰」と表現されたが、ほとんどの人がそうなのではないだろうか?
例えば
明日は、何年もファンをしているアーティストのLIVEに行ってきます。(解散LIVEでこれで見れるのが最後だけど)と、()部分は心の中の声だとして、表情の見えないSNS上でのやり取りだった場合
何年もファンをしているアーティストのLIVEなのだから、さぞ楽しみだろう。と、受取手が思うのは自意識過剰なのだろうか?
昔の話。
中学2年生だった頃の話。
思い返せば、最も異性と交流があった時期だ。
それから1年後、俺は女性恐怖症になり、高校、大学と、女性との関わりを避けて生きてきた。
中2のあの頃の自分にそんなことを言っても、きっと信じてもらえない。
季節は夏だった。
当時、学年の過半数はもう自分の携帯電話を持っていて、当時の主な連絡手段はメールだった。
俺の電話帳には、無数の男女の名前とともに、電話番号とメールアドレスが登録されていた。
いつもと変わらない学校生活を送った、ある日の夜のことだ。
知らないアドレスから、知った名前とともにメールが送られてきた。
ニュアンス的にはこんな内容だったように思う。
送られてきた名前は、一緒のクラスになったこともなければ、一度も喋ったことのない女子のものだった。そういう名前の女子がいるということだけは知っていた。
人からアドレスを聞いてメールをするというのは別によくあることで、それは男女間でも同様だった。
適当に返信した。よろしく。
「昨日は突然メールしてごめんね。驚いたでしょ」
なんだ、こいつ。
面と向かって話しているんだから、今、直接言えばいいのに。
釈然としなかった。頭の片隅には恋愛沙汰的な予感も、なくはなかったかもしれないが、直接は結びつかなかった。
その日の夜、昨日とさほど変わらない時間に彼女からのメールは届いた。
どうでも良すぎてほとんど忘れてしまったけれど、確か、違うクラスの女子についての話題だったと思う。
適当に返した。正直面倒くさかったけれど、何通かメールのやり取りはした。
ほぼ初対面であったことには代わりはなかったし、彼女と仲のいい友人もいたため、あまりにそっけないと申し訳ないと思ったからだ。
何回かに分けて「1 + 1 = 2」という内容のメールを送られているようだった。
俺はそのメールに対していちいち「そうなんだ」みたいに相槌を打っていた。俺がどう反応しても、話の終着点ははっきりと「2」と決められていた。
彼女はそれでも喜々としてメールを送ってきた。何がそんなに楽しいのか分からなかった。
そんなやり取りを続けていくうちに、少しずつ、彼女は自分に好意を抱いているということを俺は理解し始めた。
学校ではたまに会う程度だった。しかも、仲のいい友人とグループで話す程度。2人だけの会話はメールでのやり取りに留まっていた。
この状態が1ヶ月以上続いた。
携帯の画面を眺めて夜を過ごすことが、一種の習慣になっていた。
そんなある日の夜、次のメールが送られてきた。
『お祭り、一緒に行かない?』
幾度となく他愛のない話題でメールを交わしていた彼女からの突然の誘いのメールに、俺は少し戸惑った。
しかし、断った。友達と周る予定だから、ごめん。とメールを送った。それは事実だった。
『明日、話があるんだけど、いい?』
すると、こう返ってきた。ああ、これは多分そういうことなんだろうと察した。
これに関してはどうやっても断れそうになかった。承諾した。
今思うと、彼女は、どちらかというと人気のある方だった。
常に笑顔で過ごしていたし、人と衝突するのを嫌っていたように思う。
加えて、ルックスは良かった。
美人というよりは可愛い系で、小動物、という形容が似合っていた。
背は低かったが、それがプラスイメージの個性として成り立っていた。
彼女のことを想う男子は少なくはなかったが、彼女はどちらかというと平等で、友人といることを好んでいた。それ故に、その類の話は(自分を除いて)卒業まで聞かなかった。
彼女の周りには、マイナスの因子はひとかけらも存在していなかった。
俺は断った。
理由は言わなかった。
俺は怖かったのだ。
それを承諾してしまうと、途端に何かとてつもなく重い責任が自分にのしかかってきそうな気がして、怯えてしまったのだ。
その重荷に自分は耐えられる気がしないと、はっきりとわかった。
ビビって逃げたんだ。
知り合う前までは、それこそなんとも思っていなかった。
けれど、突然のメール、そして初対面で突然声をかけられた時から、その心境は少しずつ変化した。
最初は投げやりだったメールのやり取りも、いつしか楽しみになっていた。
それなのに、俺は断ったのだ。
俺に失恋させられた彼女は、涙目になって、その場から立ち去った。
去り際に、何か言っていたような気がするが、俺も気が気じゃなくて、聞き返す余裕なんて無かった。
直後、ものすごい後悔に襲われた。
死にそうになりながら俺は帰った。飯も食わずに寝た。
翌日、廊下で見かけた彼女は、外見からはいつもどおりのように見えた。
それだけで安心した。
途端に、昨晩の出来事はもうとっくに終わってしまったことで、遠い記憶のように思えた。
それでも、お祭りには行かなかった。行けなかった。
彼女と出会う以前の生活を現在まで続けてきたように自分を偽った。
そうして、心の奥底に強引に蓋をして閉じ込めた。
女性は童貞を気持ち悪がり憎んでいるというのは大きな勘違いで、むしろ童貞という記号ならプラスイメージだ。
ただ女性の思う童貞のイメージと実際の童貞には当然乖離があって、女性が「童貞は可愛くて好き」と言ったとき、
女性が童貞萌えをするとき、女性慣れしていないからこその照れの強さであるとか、大したこと無いことに喜んだりという、可愛い態度に萌えるのだと思う。
でもリアルの童貞は無表情で、何を考えているか全然わからないことが多い。「つまらなそう」とか「不機嫌」「怖い」という印象を与えている。
だからリアルな童貞よりも「女性の考える"可愛い童貞"っぽい態度」を作るのが上手い、演技派の非童貞の方が、よっぽど女性を童貞萌えさせられるんじゃないかと思う。
「男性の考える処女」が、エロマンガやAVに出てくる「初体験から感度抜群のファンタジー処女」なのと同じで、作り物のほうが異性から見ると萌えるのだ。
既婚のおっさんが「昔は俺もあんな風だったな」と懐かしんで愛でる対象としての若い童貞のイメージですら、演技派の非童貞のような可愛げを持っている気がする。
主体としての童貞と、客体としての童貞が全然違うんだよ。言ってること伝わってますかね!?
女性や、遠い昔に童貞を捨てた既婚のおっさんは、童貞=女に餓えていて食いつきがいい、みたいなイメージで童貞を語る。
でも実際、リアルな童貞の理想が低いかっていったら、非童貞よりも現実の女性を知らない分、格段にハードルが高い。
アダルトコンテンツが流通していない時代だったら、童貞は女に餓えていて食いつきがいいものだったのかもしれない。
でも現代童貞はアダルトコンテンツを見まくって目が肥えているので、思われているほど安い存在ってわけでもない。
「私はブス/おばさんだけど、童貞なら相手にできるかも」みたいなのは違うというか。
むしろ非童貞よりも身の程知らずで、言っちゃいけないことを女性にズケズケ言いかねないのがリアルな童貞だと思う。
女性ウケを気にして服装をあれこれ選んだり、髪にワックスを使ってみたり、格好をつけてみる童貞の姿が女性には可愛く映るようだが、
異性の目を気にする気持ちが実際の行動に結びつく童貞は少数派で、その層はさっさと童貞を捨てていく。
童貞暦が長期化しやすい「童貞らしい童貞」は、異性の目を気にしつつも、それが行動には反映されない。
だから女性の目から見て、女性の目を気にしているようには見えない。
「女性に好かれたいなら容姿は整えるのが当たり前だよね?」という感覚が女性にはある。モテたい女性は容姿を磨くのが当たり前だから。
そのため「容姿に無頓着」=「女性に興味が無さそう」「女性を敵視してそう」に見えるのがリアルな童貞だと思う。
まとめると、イメージ上の童貞は可愛いし萌えるが、リアルな童貞は可愛くないし萌えない。
プラスに働く要素は実際の性経験の有無より、他人の目に見える「ウブな可愛さ」だ。
童貞であることに深刻なコンプレックスを持っていると、絶対にそこをバカにされてたくなくて、可愛くない、攻撃的な、自己防衛的な態度を取る。
それは腫れ物扱いを招く。同性から見ても付き合いづらい、魅力に欠ける奴と思われかねない。
昨日、10年間つづけていたサクラの仕事をやめたという記事を書いたところ、ノウハウについてトラバ頂いたのでこれにお答えしたいと思う。
再就職についてのアドバイス、お叱りもいただければ、と思いつつ(といっても復帰は少なくとも3年後で、アルバイトでいいっかなと思ってもいるのだけど)。
ノウハウはずばり、人集めてイベント毎に割り振って並ばせるだけ。まぁ、トラバについたトラバのお答え通りなんですよね。
ただ、少し工夫しなければいけないのは、「無難な」人を集めて、イベント毎に「違う人を」割り振って並ばせるって点。
これが多少ややこしい。
例えば、プレステ3の発売日騒動とか見てもらえれば、いかに無難な人に並んでもらえるかが大事ってレベルじゃないことが
お分かりいただけるかと思う。企業がサクラを雇うニーズって、宣伝目的もあるけど、明らかに並ぶことが予想される場合、
それがマイナスな方向にいかないようにするというのもある(大企業ほど気にする)。
というわけだから、何よりもサクラ稼業は人選なんだけど、問題は毎回、ほぼ違う人を雇わなければならないから、
そうも言っていられないという矛盾を解決しなければならないことにある。
人選び問題の解決策は、求人を分けることだ。というと、もうノウハウはここで尽きる気すらする。
求人を2タイプ、サクラをやるんだなと分かる募集と、イベントリーダーというあいまいな求人募集にわけて行う。
すると、サクラをやるんだなという募集は時給850円~950円くらいで済み、イベントリーダーの募集では
面接ができるためプラス150円ほどになっても明らかにおかしい人を排除することが出来る。
あとは簡単で、イベントリーダーをサクラ募集会社から派遣されたという体にして、当日集まったサクラ達を率いてもらう。
やることは、ちゃんと並んでるか、変な人がまじっていたら、会社に連絡するようにするかすればいいなのでよほどじゃない限り問題は起こらない。
他のノウハウは、時々くる一番目に並んで企業のプラスイメージになるコメントをテレビに向けて発信してほしいというお願いは原則断る位だろうか。
これは、社長が昔やって、痛い目にあった経験にも裏打ちされているらしい。というのも、サクラってある程度並んだことある人からすればバレバレだから、
ちゃんと並んだ人のご褒美的なものをサクラが獲ってしまうと大きなトラブルの種になってしまうからだ。
なので、サクラはちゃんと並んだ人の美味しいところを獲らない位置にいることになる。つまり、限定発売とかにはめったにいないし、
並ぶ場合は先頭集団の少し後ろにいて、しかも、ドーナツなら一個しか買わないというように、すぐはけるようになっている。
さて、ここまで見てくださった方で、こんなのでよく仕事がまわるなと思った人は圧倒的多数じゃないかと思う。
実はいうと、書いている私もだ。なぜ、うちの会社だけ個人経営、中小企業、大企業ひっきりなくサクラ仕事があったのかは皆目見当がつかない。
きっと社長が優秀だったのだろう。だから、サクラ稼業の決定的なノウハウは、まず、何をやっても儲けられる人を用意するところから始まるのかもしれない。
春休みも終わりに近づいてきたため応用理工で過ごした一年間雑感を。 文体が統一されていないと思いますがその辺は勘弁を。
評価といいますか率直な意見・感想ですので在籍している一学生が書いているであるという前提で読んでいただきたいです。
(なお私自身、第一志望で入学したわけではないため不快に感じる表現があるかもしれませんがご了承ください。)
まずはどうして筑波にいるのか ということですが、センターでおそらくマークミスであろう大事故を起こし、志望校受験すらできなかったためです。
それでも第2、第3志望校はどうにかなりそうな感触を持っていたのでそちらに出願予定でした。
しかしながら、家庭の事情により関東圏以外の大学への進学が厳しくなってしまい、安全圏かつ関東圏であった筑波大学の応用理工学類に出願することになったため現在に至ります。
(私学は金銭面の問題で候補にありませんでした。)
志望校ではないとはいえ、周囲の人たちはほめてくれましたし、良いところだと言っていましたので、色々ありましたが私自身コンプレックスなどを抱くことなく入学しました。
ここで話が若干前後しますが、入学前に応用理工学類に対して持っていたイメージと志望理由を書いておきます。
まず志望理由
私の中でのイメージとして 大学院は当然行くもの というのがあったため、興味のある分野の研究ができるかどうか という点で選び、研究室、院ともに合致するものがあったから。
私にとってはこれが最も重要でした。 ついでアカデミックな環境が整っていたから というのも理由です。
ではイメージを。
①幅広い分野を学び身につけられる
③ある程度名の通る大学なので、学生の質を含めてばらつきが少ない
④真面目な人が多い
⑤応用理工自体筑波大学のなかでも、厳しい学類なので、それを分かったうえでも入学してくる学生はしっかりと目標を持っているだろう
⑥ずば抜けた人たちと出会う機会は少ないのではないか
⑦学類が閉鎖的なのではないか
⑨応用理工は縦、横ともにつながりが薄いと聞くがどうなのだろう
⑩居住環境は悪くないだろうか(イバヤンというものがいると聞いていたので。
4月に応用理工学概論という授業内で、 応用理工(130人弱)のうち2割は留年する 上位5人くらいはどこでもやっていけるような人 毎年同じだから今年もたぶんそうなる
という話があり、やはり若干厳しめな学類なんだなと実感しました。 一方で優秀な方も毎年確実にいるということだったので、少しでも近づけるように励もうとも思いました。
しかし間もなくして、非常に驚くとともに、私にとっては落胆せざるをえないことが判明しました。
それは、 入学してきた半分以上の生徒が、目標がないどころか、何を学ぶ学類かすら理解せずに入学していたということです。
どんな研究をするのか という段階ではなく、そもそもどんな基礎学習をするのか という段階から理解していないのです。
応用理工学類ですから、当然理工系の学類なので、数学 物理中心に基礎を積み上げていくことはカリキュラムを見るまでもなく想像できると思います。
(パンフレットやHPにもカリキュラムや基本理念、研究について割と丁寧に書いてあります)
それにも関わらず、 「化学ができると思ったのに、ほとんどできなくてがっかりしました。」 とか「物理はもうやらなくて済むと思ったに、なんでまだあるんだ」といった
ことを言う人までありさまでした。(これはもっともひどい例ですが)
そこまでいかなくても、やりたいことが明らかに情報科学や工学システムや生物資源が扱う分野の人もかなりいて(しかも筑波第一志望の人も多々いるのです)正直これには信じられない思いでした。
次に授業のほうへ。
留年率が2割と聞いて、さぞ難しいものなのだろうと思ってのぞんだのですが、この一言に尽きる授業でした。 遅い&浅い
よく言えば工学部的なのかもしれませんが、使えればいい そんな授業でした。 小テストも教科書ベース 自学用の問題集やっておけばなお万全 といったところ。
解析のテストに至っては教科書の例題がそのまま並ぶ有様。 数値改変もなし
それでも単位ヤバイ という人もいましたし、途中から必修の授業に来なくなる人すらいました。
不思議なものですね 全然わからないと言いながら授業中にゲームやらスマホやらをずっといじって全く授業を聞かない。 改善する気がないのでしょうか。
私も確かに授業中に、別のことをしていることも多々ありましたが、わからなそうな部分はメモしましたし、それでテストも問題ありませんでした。
結局春の力学Aという講義では3割ほどの人が単位を落としたそうです。 落とした人は皆先生が悪いといっていたので他のクラスの講義に一度お邪魔しましたが、いうほどひどくない。
少なくとも先生が原因で単位が取れないほどでは絶対にない。 ただ逃げているだけにしか聞こえませんでした。
他の授業もおおむね同様で、終始スマホをいじる人がものすごく多かったように思います。 ツイッターがメインだったのではないでしょうか。
テスト前と後には、お互いに傷のなめあい状態 個人的にはツイッターはあまりお勧めしませんね。 互いに足を引っ張り合っている人が大量にいますから。 そうでない人も当然いるというのもまた事実だとは思いますが。
基本的にはテスト自体難しくなかったので、対策は容易でした。 私にとってはむしろ情報系の講義が鬼門でした(こちらに関しては本当にからっきしでやれどもやれども身につかず)
結局必修よりもそれ以外で足を引っ張られた形になり、GPAはあまり芳しくありませんでした。(一応必修のおかげで最低限は確保できましたが)
それでも先輩方の話を聞く限り、幅広い知識を身につけられることや研究関連の設備が整っていることは事実のようです。
学ぶ気になればどんどん学んでいける そういうシステムは出来ていると思います。(たしか3年生以下で研究ができるプログラムもあったはずです。)
(がこのシステムが満足に活用されていないのではないかと感じざるを得ません。)
ところで話は変わりますが、
学類の縦、横のつながりはあります。 ただしできるものではなく作るものだと思います。
そういう雰囲気の学類です。 あとは横のつながりは、絡む人によってかなり生活に影響しているように思えたので注意してください。 目標と違う方向に引っ張られる可能性もあるということです。
乗り慣れていないのか、あまり上手ではないうえに、傘さし運転 スマホしながら 並列 などなど当たり前にしています。 私自身笠さし運転の自転車が急によろけてきて危うく傘の骨が目に入るところでした。 かなり危ないです。
駐輪マナーは、場所の関係もあって少しは大目に見てもいいかな という感じです。 いいわけではないです。
居住環境ですが、私の住んでいる場所に関しては割といいです。 特に騒音もなく、盗難などの事件も起きていないようでした。
まとめさせていただくと、
私の中の想像とはかなりずれたものが実態だった(私的には良いと感じない方向に)
プラスイメージの③~⑤のずれはひどい。特に⑤に関しては信じられないほど違っていた。
一方①と②については事実であるといっていいと思う。(加えて体育 芸術系も学べるのはかなり珍しいのではないか)
マイナスイメージの⑥は本人次第だと思う。 自ら探していけば必ず出会える。
⑧は事実 かなりひどい。
⑨も本人次第だろう。 私はそれほど薄いとは感じなかった。
⑩は取り越し苦労。 居住環境はむしろいいほうだと思う。 東京まで50分あれば出れるし、大学周辺だけでも大体のものはそろう。自然も多い。
といったところである。
このような記事を書くと、確実に お前もそこにいるのに何言ってんだ という声が届くだろう。