2014-04-20

入学式を欠席する担任教師に呆れてしまう理由を考えてみた

担任が「息子の入学式」で欠席、どう思う?

http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/domestic/11262/result

まず、多くの人が「教師が入学式を欠席するなんて!」と呆れたことの理由を考えてみたい。

そして、自分自身が反感を抱いた理由を考えてみたい。

 

よく、国民教育評論家というけれど、実際には一人一人異なる教育を受けてきていても、同じような教科書を使って決められたカリキュラム教育を受けたという幻想があるので、報道されない個別、具体的なさまざまの事情をついつい無視して、自分の個人的な体験に置き換えて、善し悪しならぬ悪し悪しを語ってしまうんだろうね。

公務員から職業人だから

今回の件で教師を責める理由に、公務員なのに、という理由があったけれど、少し考えればそれは理由になってない。

私立の担任教師なら入学式を欠席してもよいと思っているのだろうか?そうは思えなかった。

 

日本人一般にある仕事優先論というのも、ちょっと違いそうだ。

批判している人は「担任なのだから」と言っている人が多い。

担任教師への高いハードル

呆れた多くの人たちの中には、自分の子供の入学式のために仕事を休んだ経験がある人も多いと思う。

なのに担任教師に呆れるとはどういうことなのか。

それは、担任教師に抱いている「当然の期待」のハードルが、とてつもなく高いからだと思う。

 

そして、担任教師への期待のハードルが高すぎる理由は、親から見て学校が、我慢して子供を通わせざるをえないところであるからではないか、と思う。

学校が親に課すハードルも高いのである

 

私が思う「学校が親に課す高いハードル」とは次のようなものだ。

 

学校はこんな高いハードルを親に求めるのだから、親も担任教師に対して過大な自己犠牲を求めるのではないか。

(この高いハードルを「親は学校/先生子供人質にとられている」と感じる人もいるかもしれない)

 

家族のために計画的休みを取ることについて、これほど反対が出る職業は、たとえばシーズン中のプロスポーツ選手くらいしか思いつかない(緊急時に出動する公務員はまた別の話だ)。

からさまに生徒を二の次にすることへの反感

たとえば医師患者の死に際して「我々も手をつくした」と言わなければならない。

気をもむ乗客が「予定どおりに到着しますか?」と訊いたら、乗務員は「はい大丈夫です」と言わなければならない。

実際には、手を尽くしたと言えない場合もあるだろうし、乗り物が定時に着くかどうかはやってみないと分からない。

 

でも、正直な回答をすると、相手は「ないがしろにされた」と感じる。

たまたまこの日は、一刻を争う急患の方が多かったので……」

「今のところは定刻ですが、この先で故障が起きないとは言い切れませんので……」

 

このように「論理的には正しくないことを、言明させる/させられる風潮」が日本特有かどうかは知らない。

 

担任教師の家族危篤場合、急に学校を休んだとしても、我が子をないがしろにされたと憤る親は少ないだろう。突発事項だし、教師だって人間だもの

でも、自分の子供の入学式に出るために計画的学校を休まれると、受け持ちの生徒は二の次です、と行動でハッキリ示されたような気持ちになる人もいるだろう。

「誠意がない」と感じるのではないか。

 

「誠意」を重視する、というと、日本特有のものにも思えてくる。

 

蕎麦屋の出前」という言葉がある。

最優先の仕事が同時にやってきたときに、人間なので、順序を付けないといけない。

でも、あからさまに誰かを後回しにすることはできない。

なので、遅くなった人から苦情が来た時は「今出ました」と言う。本当はまだ出ていなくてもウソをつく。

 

そう、ウソをつくのだ。ウソ方便

ウソ方便ではなく、ただのウソに。

これまではウソ方便で良かったのだ。医者患者優先順位をつけ、優先度:低の患者が死んだら「全力を…」と言い、家族はそれで納得してくれた。

 

だが、世の中段々厳密になった。世知辛くなった。すべて記録で残すようになった。

 

そうすると、真面目ぶって「トリアージ」などと、優先順位の付け方を議論しなくてはいけなくなる。

ルールをつくって、あからさまに後回しにする人をつくることになる。

 

今回の件が、どのようにして報道される程の大事になったのかは知らないが、かつてなら誰かが担任の不在に気づいても、校長が「ちょっと貧血になって休んでいました」とか言えば済んだのかも知れない。

今はもちろんそれはできない。

ウソはもはやただのウソ、悪なのである

 

後回しにされると分かって後回しにされるのと、後回しにされたとは分からないままに後回しにされるのと、どちらがよいのか。

 

「知らぬが仏」という言葉もある。

自分自身はどうなのか。

さて、では自分自身はどうなのか。

通常、この手の話では労働者側に立つことが多いと自分では思っているのに、この件に関しては自分担任教師に高いハードルを課していて、我ながら驚いた。

 

自分の子供の入学式に出たいのは親として当然のことだし、親だって担任教師の子育てを尊重すべきだ、という意見があった。

 

担任教師が休むことそのものが、子供教育にとって良いことだ、という意見もあった。

行動を通じて労働者権利ワークライフバランスの大切さを教えることにもなる、というものだ。

 

とても論理的だ。そして、わたしは割と論理的な話が好きな方だ。

でもこの話ではなぜか感情が先に立つのだ。

 

友人とも対話した。

 

友人「公務員だって平時は私用で有給取得できるだろう。労働基準法現場無視してよいのか」

自分担任教師の職務は特別で、子どもたちにとって唯一無二だ」

 

友人「副担任や教務主任での代行ではだめなのか?」

自分体調不良家族の不幸以外は、認めがたい」

 

友人「家族の不幸とそれ以外の境目は?」

自分計画的休みかどうか。他人の子供を預かるという仕事性質上、計画的に私用を優先することはふさわしくない」

 

友人「妊娠はどうか?」

自分妊娠計画的ものではないと個人的には思っている。不幸や入院と同じ」

 

友人「教師のなり手が減るぞ」

自分「有能でも信念がないのはだめだ」

 

このような私の意見は偏っていると思う。それは喜んで認める。

そしてその理由は、高校時代に受けた教育が、親にとっても教師にとっても非常にハードルが高いものだったことによるのだと思う。

 

昨日はたまたま高校(県立)の同期会だった。そこに集まったメンバーは、自分出身校に誇りを持っている。

(誇りがあるメンバーけが集まったのかもしれない)

同時に、入学直後に受けた指導が、一種狂気じみたものだったことも認めている。

(このサイトを見つけてメンバー同大笑い。ヤフー知恵袋 ★過激な校歌指導の現状★ ~埼玉県福岡県高校受験生へ~ http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n224682

 

受験できる範囲内の県立高校としては一応トップ学校入学して3日目から、まぁ右翼ヤクザのような指導を受けるわけです。

高校一年生が男女問わず軍歌のような応援歌を大声で歌わされるわけですよ。

「○せ」みたいな内容の。

希望者が入る部活でもなんでもなく、全員が。

 

親の中には子供から学校の模様を聞いて憤った人もいたかもしれない。

その後の学校から親への態度も、基本的には一方通行だった。

課外の補習授業に自主的に参加しなければならず、毎朝6時半には子供を送り出さなくてはいけない。

夏休み冬休みも補習授業がある。

一方で体育祭ともなれば、放課後強制的に応援練習に駆り出される。期間中は塾通いもできない。

 

それでも親としては、子供によい大学に進学して欲しいから学校先生が「ウチは文武両道なんです。協力してください」と言えば、なかなか否とは言い難かったと思う。

その代わり先生も、毎朝休まず7時40分から授業をするし、当然ながら行事は全て出席するし、3年生ともなると元旦返上で模試をやる。

公務員としての高校教師の職分をはるかに超えて熱心に生徒指導をしていた。だから親も納得していたのではないか。

 

こういう環境で育ったから、担任教師が入学式を欠席、と聞いた瞬間に、反射的に自分の受けた教育と結びつけて、否定的な反応を示してしまったのではないか、と思う。

そう、最初に書いたように「自分の個人的な体験に置き換えて語ってしまいました」ということなのだ。

  • 呆れた多くの人たちの中には、自分の子供の入学式のために仕事を休んだ経験がある人も多いと思う。 と言う前提がそもそも間違っているのでは。 自分の子供の入学式でも仕事が休め...

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