あの日、目覚まし時計が鳴らなかったせいでツクヒは寝坊してしまう。
「は? 何で鳴らないんだ? いや、鳴っていたのに起きれなかった?」
セットするのを忘れていたわけでも、壊れていたわけでもない。
いつも忙しない自分の子を気にして、親がわざとタイマーを切っていたからだ。
いざとなったら起こしてやって、車で送ってやれば十分間に合う。
朝の時間でもゆとりをもつこと、そして家族と過ごすことの大切さを知らせようとしたのだろう。
だが親の心、子知らず。
いや、分かれという方が無理のある話だ。
鳴らなかった目覚まし時計の分まで大きな声を上げ、ツクヒは家を飛びだす。
その声を聴いた両親は、車で拾うために慌てて追いかけた。
「ほら、乗りなさい」
「やなこった。車で登校とかイキった真似できるかよ」
だが思春期の子供にとって、周りが徒歩なのに自分は車だなんて嫌なのさ。
ツクヒの場合、「そういうことを親にやってもらうのは恥ずかしい」と普段から公言しているから尚更だ。
その点では“子の心、親知らず”だけど、それを理解するのも彼らには難しいのだろう。
「このままじゃ遅刻するぞ」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「だから、その分の面倒を受け持つと言ってるんだ」
「だから、その受け持ちがクソだっつってんだよ!」
そうして、小走りで急ぐツクヒと、車で平行しつつ説得を続ける親という構図がしばらく続いた。
で、人も車も滅多に通らない“あの運命の場所”あたりで、それは起きた。
「ああ、もう、ついてくんな!」
ウザったい親を振りぬこうとツクヒは全速力で走り出した。
「あ、待ちなさい!」
彼の親もそれに追随しようとする。
彼の前を遮るように車を停めて、有無を言わさず乗せるつもりだったらしい。
だけどツクヒは学校一の俊足。
「ぐえっ」
「ああっ!?」
ツクヒの最高速到達と、ハンドルを切った瞬間が重なり、結果ドッキングしたってわけ。
「俺はてっきり、遅刻の言い訳でわざと事故ったのかと思った……」
「遅刻を誤魔化すために、そこまでするわけねえだろ」
「僕は世論をなんやかんや賑やかすために、わざと事故ったのかと思ってた……」
「無駄に賑やかしてどうすんだよ」
「私も思ってたんだけど、あそこに信号機をつけるためでしょ?」
「あの場所に信号機とか意味ないだろ。こんなバカな出来事でもない限りは事故らねーんだから」
「オレはその程度じゃ怪我しないぞ!」
いや、ツクヒの親こそが犯人といえなくもないけど、そんな大層なものですらない。
強いてそれっぽいことを言うなら“行き違いの衝突”だ。
「な、ななん、何で、今まで黙ってたの?」
「逆にこっちが聞きたいんだが、言えると思ってんのか? 周りに何か深刻なことが起きたと思われてる状況で、『家族の間で起きた、ちょっとした事故です』って言えるか? 児童虐待だとかいって好き勝手に騒がれるのがオチだ」
それまで真相を明かさなかった理由も蓋を開けば大したことはなく、この町の人々の“傾向”を顧みるなら自然な行動ともいえた。
「私、気持ちは分かるけど、やっぱり嘘をついたままなのは不誠実じゃない? 信号機がつけられる事態にまでなったのに」
「あれは、もう“こっち”の問題じゃなくて、“あっち”の問題になってるんだよ。信号機つけてくれって誰が頼んだ?」
“あっち”が勝手にコトを荒立てたのに、その分まで“こっち”が受け持つのは御免こうむる。
ツクヒはそう言い放った。
やや身勝手な物言いだけど、実際この事故と周りの対応には繋がりがあるようで、ない。
あいつら家族にとっては、“そっち”のほうが遥かに深刻な“もらい事故”なんだろう。
「てめーらも、これ以上“こっち”をダシにして探偵ごっこすんじゃねーぞ」
そう吐き捨てると、ツクヒは足早に下校した。
「……どうする、マスダ? 皆にもこのことを伝えた方がいいかな?」
「いや……やめとこう。誰も得しないし、たぶん“無駄”だ」
今さら真実を公にしたところで、騒いでいる人たちは意固地になって、それぞれ主張を押し通すだろう。
そんなわけで、この信号機が出来たんだ。
「そ、そうか……」
その話を聞いていたオッサンは、終始ビミョーな表情をしていた。
「まあ……意味がないことを、意味がないって理解する。それ自体は意味があるのかもな」
「は? オッサンなに言ってんの?」
ちなみに、信号機が必要ない場所だと判断されれば撤去されることもあるらしい。
いずれ、この信号機もなくなるだろう。
「おい、みんな! これカチカチしなくても青になるぞ! タッチセンサー式だ!」
「通らないのに押ボタン箱をいじるなよシロクロ」
でも、それはもう少し先の話になるだろうな。
虚しく点滅するランプを見ながら、俺たちはそう思った。
「あの二人、すごい剣幕だったね。最初の穏やかさが嘘のようだ」
「ああいうところは、やっぱりツクヒの親なんだなあ」
ただ、あの態度は少し気になる。
子を思うあまり感情的になったと考えることもできるけど、何だかそれとは違う必死さがあったような。
「お前ら……」
そして長い廊下を抜けて玄関へたどり着いたとき、ツクヒとばったり出会った。
今さら出てきたってことは、タオナケの怒号に釣られたのだろう。
「じゃあな、ツクヒ! 学校でな!」
こいつにも聞きたいことはあるが、今はそれどころじゃない。
俺たちは靴を踏みつけるように履き、にべもなくツクヒの横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、あいつは呟くようにそう告げた。
随分と意味深だ。
こうして翌日、俺たちはツクヒと共に後者裏にいた。
「で、ツクヒ。話ってのは何だ?」
「分かってるだろ。お前らが嗅ぎまわってることについてだ」
何となくそんな気はしたけど、やっぱりそれか。
まあ、普段は訪ねない人の家に押しかけたんだから、そりゃあ勘付くよな。
「え……か、嗅ぎまわってるって……」
「今ここで、とぼけることに何か意味があるのか? そういう無意味なやり取りをしたいなら、このまま解散でも構わんぞ」
「いやいや、ごめんごめん。お前の交通事故についてだろ?」
これまで大した成果も得られなかったのに、まさか一気に進展するとは。
というより、今までの俺たちが無駄な遠回りをしていただけのような気もする。
「急がば回れ」とはよく言うけど、あれは「慣れないルートで近道するくらいなら、慣れたルートの方が結果として早い」って意味らしい。
そのことを俺はしばらく後になってから知って、国語の授業をもう少し真面目に受けておくべきだったと反省した。
つまり俺たちは「そっちの方がスマートっぽいから」って理由で、慣れないルートで回り道をしていたわけだ。
道には迷うし、結局は時間もかかるしで、グダグダになるのは当然。
我ながら、そんな単純で簡単なことにも気づかず、無理やり複雑にしようとしていた。
「それにしても意外だな。そっちから話を持ちかけてくるとは思わなかった」
「こっちだって話したくない。だが今の状況、周りの反応にはウンザリしているんだ。その上、お前らにまで纏わりつかれたのは鬱陶しい。車に轢かれるよりも、たまったもんじゃない」
普段どおりの調子から、ツクヒがこれから語ることは本心であることが窺えた。
「断っておくが、お前らが期待しているような隠された陰謀だとか、深い事情だとかいったものは何一つないぞ。むしろ表面的に見えている事実よりも、遥かにクダらない真実だ」
「……君ら、本当にツクヒの見舞いで来たのかい?」
さっきまで穏やかだった二人も、さすがに表情を強張らせている。
まあ無理もない。
指摘自体は間違ってなくても、友達を心配している人間が投げかける言葉としては健全じゃあない。
「確かに客観的に見て不注意ではあったと思うし、こちらに落ち度がないといったら嘘になるけど、そういうことって誰にでも起こりうることだ」
「そう、それを踏まえて対策しない、この国の交通管理にも問題がある!」
とはいえ、この人たちも言ってることが少し変な感じだ。
一理なくはないけれど、何かズレているような気がする。
「生身の人間と車なら、車の方が危険なんだ! そのことを君たちも“自覚”すべきだ!」
タオナケの言葉で冷静さを失ったのか、分かりきったことをやたらと強調してくる。
車が危ないってことくらい分かった上で、みんな今回の件はバカげてると思っているんだけど。
思わずツッコミそうになるが、こんな状況でそんなこと言っても仕方がない。
俺はこの場を静めようと、それっぽいことを言うことにした。
「すいません、タオナケはどうも“PTSD”ってやつらしくて、心にもないことを言っちゃう日なんですよ」
「私、女だけど、“PTSD”じゃないわ! 仮にそうだとしても、そういうデリカシーのない発言はやめて!」
「はあ? お前にデリカシーとか言われたくねえよ!」
だけど慣れない言葉を使って慣れないフォローをするもんだから、余計に収拾がつかなくなった。
タオナケはこちらに怒り出し、俺も売り言葉に買い言葉の商戦に乗っかってしまう。
「ふ、二人とも落ち着いて……あと“PTSD”じゃなくて、“PMS”だと思う」
そんな俺たちをドッペルは何とか仲裁しようとする。
「あー、もう、なんでこんなにノイズばかりになるんだ……」
「なんだ、さっきから“PTSD”とか“PMSって。新しいプレイステーションが出るのか?」
「マジ? オレ一人で食っちまうからな?」
そしてシロクロは茶菓子に夢中。
「うちの子が現に怪我したんだ! 今後そうならないよう、何らかの対策を望むのは親として当然だろう!」
「いや、そもそもツクヒ本人はどう思ってるの? 自分の不注意が原因だって思ってないの?」
「……子供には責任能力がない! だから大人が気持ちを汲み取り、代わりに導いてあげなくては」
それでもツクヒの両親は主張を押し通し続けているし、カオス極まりない状況だ。
「あと、その『私、○○だけど~』って言うのやめろ! 自意識つよ子さんかよ!」
俺の近くにあったコーヒーカップが、ひとりでにパリンと割れた。
「え?……なんだ?」
さっきまでのが嘘のように、室内は静まり返る。
逆に俺たちはそれで我を取り戻した。
ミミセンがすぐさま退散を号令し、俺たちは阿吽の呼吸で頷く。
「おじゃましました~!」
「ほら、シロクロも帰ろう!」
「まだ菓子残ってるのに……」
ツクヒの両親たちは、その様子をただ呆然と眺めていた。
「な、なんなんだ、あの子達は……」
「ごめんくださーい」
俺たちは見舞でツクヒの自宅を訪ねた。
第一発見者なら、ツクヒを轢いた車を見ている可能性も高いだろう。
「来てくれて、ありがとうねえ」
「おカマいな~く、おナベな~く」
それにしても、意外といいとこ住んでんだなあツクヒのやつ。
部屋の中も小奇麗というか、品がある。
マメに掃除しているのか、それともハウスキーパーってやつがいるんだろうか。
他人の家を訪ねたときの独特な臭いもしなくて、するのは消臭剤の匂いだけだ。
出てくる茶菓子も気取っているというか、突然やってきた俺たちにポンと出せるレベルじゃない。
仲間のシロクロが、目的も忘れて菓子を食べるのに夢中になっている。
だけど親御さんたちは、そんな不躾な態度を気にせず接してきた。
「あの子を呼んでくるから、もう少し待っててね。怪我はもう大丈夫なんだけど、恥ずかしがってるみたいで」
「いやあ、学校で上手くやれているか心配だったけど、見舞いに来てくれる友達がいてホッとしたよ。あの子、学校のことは全く話してくれないからね」
あいつの親とは思えないほど物腰が柔らかくて、子供思いのマトモな人たちだ。
その意外性も気になるところだけど、今はそんな場合じゃない。
ツクヒがくると面倒そうだから、そろそろ本題に入ろう。
「そういえば、まだ見つかってないんですよね。ツクヒを轢いた車と、運転手」
単刀直入に質問するんじゃなく、話題に紛れ込ませるようにしていく。
「そう、なんだよね……」
被害者の親にとってはセンチメンタルな話だから、あまりズケズケと聞くものじゃない。
ガキの俺たちにだって、それくらいのことは分かる。
それで心象を悪くしてしまうと、聞き出しにくくなるしな。
「うん……今も何食わぬ顔で、どこかで車を走らせているかと思うと気が気でないよ」
「そう、ね……警察には早く見つけ出して欲しい、ね」
言葉を選んでいるのか、それとも出てこないのか、ところどころ詰まらせたテンポで喋っている。
それほどにツラい出来事だったのだろう。
「あの子が遅刻する~って言いながら忙しなく出て行ったから、車で送ってあげようと後から追いかけたら……」
そうしてやり取りを数分続けていくと、いよいよ聞きたかった部分を話し始める。
俺は前のめりになって尋ねた。
「轢いた車を見たんですか!?」
しかし、返ってきた答えは他の人と同じだった。
ここまで色々動き回って、何の成果も得られないのは初めてだ。
この人たちすら知らないんだったら、もうツクヒに期待するしかない。
ただ、あいつがここで喋ってくれるような気はしないから学校で聞こう。
それでも喋ってくれるとは思えないが。
俺たちは肩を落としつつ、この場はひとまず適当な理由をつけて退散しようとした。
「私、思うんだけど、運転手が見つかったところで大して意味ないわよね。ツクヒの不注意が原因なんだし」
「え?……」
得られた情報が肩透かしだったものだから、気が緩んでしまっていたらしい。
元々、思ったことが口に出やすいタイプだが、この期に及んでそれ言っちまうのかよ。
「おい、タオナケ!」
タオナケも失言にはすぐに気づいたが、取り繕うのが面倒くさくなって開き直った。
「危険を顧みず車道に突っ込んで、それで案の定ぶつかっただけ。それで“こっちが傷ついたので、悪いのはそっちだ”なんて当たり屋のゴロツキでしょ」
「よすんだ、タオナケ!」
「挙句、信号機がないのがダメなんだってことになったんだけど、あんな場所で轢かれるなんて普通ありえないし。あったところでって話よ」
俺たちは慌ててタオナケを止めようとする。
確かに俺たちも内心思っていたことだけど、ツクヒの両親がいる前でそれを言ってしまうのはマズいだろ。
こうして俺たちは、この言い知れない謎を解明するため捜査に乗り出した。
ツクヒを轢いた犯人はどこの誰なのか。
いや、本当に車に轢かれて怪我をしたのか。
そうじゃなかったとして、なぜあそこで轢かれたことになったのか。
そして、何かを隠していたとして、その理由とは何か。
あそこに信号機をつけることが目的なのか、それとも他に隠された意図があるのか。
俺たちから湧き出てくる疑惑の数々は、実際のところ確かなものなんて一つもない。
今回の件に納得しきれないという想いが、取るに足らないことを強い違和感にさせているだけなのかも。
現実でそんなことをアテにする刑事がいたら汚職もいいとこだろう。
だけど俺たちは警察じゃない。
だから出てくる答えが何であるにしろ、知るための労を惜しむわけにはいかない。
それに俺たちから言わせれば、気になったことを気になったままにして、悪意と一緒に放っておく方が良くないと思うね。
好き勝手に邪推した以上、それを明らかにする使命が冒険家にはあるのさ。
まず俺たちは周りの住人から聞き込みを始めた。
「なるほど。曲がる途中で減速していたから、ぶつかっても軽傷で済んだってことか……」
「辻褄は合うね」
直接ツクヒに聞けばいいって思うだろうけど、こういうのは第三者から情報を集めてからじゃないとダメなんだ。
何か隠していたとしても、今のままじゃ白状してくれないだろう。
下手に詰め寄ったせいで警戒されてしまい、口がより堅くなってしまう可能性もある。
だから決定的な証拠が必要だけど、そんなものがあれば既に揉み消されているだろう。
一通り揃ったら、それらを憶測に基づいて組み立てていくんだ。
そうして真実への道筋を作り、最終的にはツクヒが白状するよう誘導するってわけ。
まあ、憶測ありきの状況証拠で追及するだなんて、芸人をスパイに仕立てる位に無茶な方法だとは思う。
「あなたが現場を見に行ったときには、ツクヒを轢いた車は既にいなくなっていた、と……」
こうして地道に聞き込みを続けていったんだけど、予想以上に捜査は難航した。
事故が起きた瞬間は誰も見ておらず、駆けつけた時には怪我をしたツクヒと、それを心配する親がいただけ。
みんな大体同じことしか言わない。
それだけ確かな情報ってことなんだろうけれど、これだけじゃあ真実には程遠い。
もう近隣の住人には一通り聞いてしまったが、このザマ。
「ん、ちょっと待って……」
「近隣の人たちが現場を見に行ったときの状況は、事故に遭ったツクヒと、それを心配するご両親……」
「ああ、そうらしいな」
「ツクヒの親御さんは、近所の人たちよりも早く現場に居合わせたわけだ」
「……あ、そうか!」
ミミセンに説明されて、俺たちもやっと気がついた。
「信号機の設置……ですか」
「ええ、交通事故が最近あったでしょう。そこに設置しようってことで」
「ああ、あれですか」
そして、その設置にも様々なことが考慮されるらしい。
具体的な条件は知らないけれど、少なくとも事故が一回起きただけでは有り得ないようだ。
「じゃあ……まあ、承認、で」
だけど「子供が轢かれた」というニュースは、大人が轢かれた場合よりも比重が大きくなりやすい。
「何か気がかりなことでも?」
「え、いや、朝食のホウレンソウが奥歯に挟まってるようで……」
魔法少女などの自警活動を行う者や、超能力者やロボットといった強力な“個”。
そういった注目を集める存在に、警察は後手に回ることが多かった。
常日頃から、組織としての必要性を世間に疑問視されていたんだ。
立場上、「子供が轢かれた事件ひとつで信号機つける必要ある?」と言うのは難しかったわけだ。
「信号機って結構お金かかるんですよねえ……いや、でも、まあ仕方ないですよね、はい」
こうして信号機の設置は決まり、俺たちはそれが取り付けられる様子を遠巻きに眺めていた。
「つける意味あるのかなあ」
「私、あそこよく通るけど、ないと思うわ」
実際にあの道路を利用する人間にとって、あそこに信号機をつけるのは煩わしいだけだ。
事故に遭ったツクヒに同情する気が起きない俺たちは、割と冷めていた。
まあ、もはや決まったことだし、とやかく言ってどうこうなるもんじゃない。
発端となった交通事故の当事者は子供だけど、その是非を決めるのは最終的に大人の役目だからだ。
「いくら急いでいたからって、この場所で事故なんて起きるのかなあ?」
「それにつけても、随分とトントン拍子に決まったよな。なんだか予定調和感がある」
それでもこの場にいたのは、排気ガスの匂いに紛れて妙な“クサさ”を感じたからだった。
陰謀論だなんて言うつもりはないけれど、今回の件は自分たちが知らない、何か変な力が働いている気がしたんだ。
それくらい、ここに信号機がつけられるなんてことは、俺たちにとって異常事態だったわけ。
「あ……つ、ツクヒだ」
そんなことを考えていると、仲間のドッペルがツクヒがいるのを見つけた。
「む……」
ツクヒもこちらに気づいたようだ。
軽傷とは聞いていたけれど、所々に貼り付けられた大き目の湿布や、そこから覗かせる打撲の跡が痛々しい。
正直、疑っていたんだけど、怪我からして車に轢かれたことは本当のようだ。
「ふん……お前らも来てたのか」
ツクヒは、なんだか居心地が悪そうだった。
「そうだな……授業においていかれるのは面倒だしな」
しかも、どうも喋りの歯切れが悪い。
車に轢かれて怪我したんだから、ツクヒならもっと怒っているはず。
いちゃもんだろうが、自分に落ち度があると内心思っていようが、それでも主張を憚らない奴だ。
なのに、いつもより覇気のない態度。
俺たちは確信した。
これは間違いなく“何か”がある。
そして、その理由はすぐに分かった。
「先ほどツクヒ君のご両親から連絡がありまして……登校中に車に轢かれたようです」
突如、担任の口から告げられた出来事に、俺たちまで交通事故に遭ったような衝撃を受けた。
両親によると、その日ツクヒは寝坊してしまったらしく、慌てていたらしい。
しかも車が滅多にこない場所なのもあって、油断していたのだろう。
そのせいで車道を横断するときに確認を怠り、良くない結果に繋がったというわけだ。
それでも軽い打撲と捻挫だけで済んだのは、不幸中の幸いというべきか。
「運転手側は逃げたようで、まだ判明していません」
担任はそう言っていたが、「逃げる」と表現するのも変な話だと思った。
話を聞く限り、運転手側に非はない。
寝坊したせいで急ぐ必要があったのも、歩道もない場所に突っ込むなんていう危険な行為を選択したのもツクヒだ。
俺も仲間も、いや、クラスの皆がそう思っていた。
だけど大人の世界では、そういうことを複雑にするのが流行っているらしい。
「今回、事故が起きてしまったわけですが……何か改善案があれば意見をどうぞ」
この交通事故は町の人々に瞬く間に広がり、ここ最近のトレンドになった。
そして数日後、この町にいる色んな市民団体が一同に介し、今回の件について議論することになる。
「こういった事故が起きた際、迅速に対応できるよう窓口を用意しましょう」
曰く「意味があるようで、実際は大して意味のないやり取りばかりしていた」だったという。
「その子供が急いでいたせいで起きたことを考慮するなら、登校時間をもっと余裕のあるよう設定すべきでは?」
「いや、それよりも通学路に配備する役員を増やすべき。そのためにも公費を増やしましょ」
「ボランティアに無償って決まりはありません。働く人間には相応の賃金を与えるべきでしょ」
「少しはあるでしょ!」
各々の、そんな思惑が見え隠れしていた。
「そもそも学校側が通学路をしっかりと定めるなり、スクールバスなり用意すれば、こんなことにならなかったのでは?」
「あと、未だ犯人を捕まえてない警察の無能っぷりも問題ですよね。やっぱり自警団を作りましょう」
そうして各々が言いたいことを一通り言い終わると、いよいよ交差した意見の中心点を決める段階に入った。
「それで、よさそうかな」
「そう、ですね」
「一応、君の意見も聞きたい。確か弟さん、事故に遭った子と同じくらいの歳でしょ」
「うーん、そうですね……」
調べた交通量を見る限り、信号機をつける意味はないと兄貴は内心感じていた。
だけど現に事故が起き、雇ってる側に詰問されている手前、下手なことは言えない。
「まあ、信号機があることで事故の可能性が減るなら、あるに越したことはないと思いますけど」
小銭稼ぎでやっていただけの兄貴は、無難な答えを返すしかなかった。
「よし、彼もこう言ってるし、この方向で進めていきます」
「そうですね。折衷案といきましょう」
何をどう折衷した案なのかは分からないが、ひとまず反対意見がでてこなかったので善しとなった。
「これが……?」
最近になって設置されたから小奇麗で、歴史なんてものも感じない。
「見た目で判断しちゃいけない。これには深~いオモムキってやつがあるんだから」
文化的だったり芸術的なものってのは、一般人には基本的に理解できない。
「はあ?」
「はあ?」
ふざけているわけじゃくて、大真面目だ。
それでも俺たちの心に刻み込み、語り継ぎたい“意味”があるんだ。
いや、そもそも車なんて滅多に通らないので、それすら必要ないかもしれない。
「じゃあ、なんでここに信号機が設置されたのか」
そう、そこが重要なんだ。
発端は今から数ヶ月前。
その日の俺もいつも通り登校して、いつも通りクラスの仲間たちと何気ない会話を交わしていた。
だけど一つだけ違っていたのは、ツクヒの憎まれ口が聞こえてこなかったってこと。
「ツクヒまだ来てないのか」
近所に店があるんだけど、入ったことがないし、入る気もないところってあるだろ?
通りがかった時、その店が開いてなかったら「あれ?」ってなるじゃん。
そんな感じさ。
「私も気になってたんだけど、また手強い風邪にでもやられたのかしら」
「ぶり返したのか? 完全に治ったとか言ってたのに」
ズル休みなんてのもしない。
そんなことをする位なら、無理にでも登校して「ああ~学校行きたくねえ~」ってグチグチ言ってくる奴だ。
だから、HRも迫ってるのにあいつがいないってのは、思っている以上に特殊な状況だった。
俺の住む町は田舎ってわけじゃないけれど、控えめに言ってマイナー、はっきり言えば中途半端なところだ。
観光街ってことにはなってるけど、それ目的の人なんて滅多にこない。
それでも年に1回くらいのペースで、ガイドブックの流れに逆らって上陸してくる人間もいる。
如何にも「色んなところを長いこと旅してます」って見た目のオッサンだった。
背中のリュックは大きく膨らんでいて、後ろから見ると上半身が隠れるほどだ。
何をそんなに詰める必要があるのかと何気なく眺めていたら、本体と目が合ってしまったのが運の尽き。
観光客向けの名所は無いに等しい町なので、正直なところ「ない」と言ってしまいたい。
それでも俺と仲間たちは“おもてなしの精神”ってのと、地元に住むプライトでもって案内してやることにした。
例えば、ここ「アルブス・オーク」っていう大きいビル。
名前だけ聞くとファンタジーな香りが漂ってきそうだが、実際は樹の香りがする。
ここでいう「オーク」ってのは植物のことで、「アルブス」はラテン語で“白”って意味。
難点は一般人が利用できるのは三階までで、上は賃貸オフィスとかで使われていること。
そのあたりを気にしなければ良い場所だ。
通路上には、オークらしき木が一定間隔で陣取っていてバランスがいい。
どこかの芸術家が作った意味不明なオブジェもあり、ポイントは押さえてある。
二階のショッピングモールには、駅から直通でいけるエリアが設けられていて移動が楽だ。
その他にもスーパー銭湯、ボーリング、ゲーセンなどが一通り揃っている。
個人的によく利用するのは「初めての調理場」っていうファストフード店かな。
多分あのテナント、呪われてるんだと思う。
後は、無駄にオシャレな見た目の火力発電所、風が吹かない地域なのに建てられた風力発電所。
新興宗教の教祖がよく演説している広場、変な奴らが住んでいる廃墟みたいな家。
そんな調子で、俺たちなりの名所ってのを思いつく限り紹介していったんだ。
「こういうのじゃなくて、もっと文化的に、歴史的に意義のあるものが見たい」と言ってくる。
俺は、こんなところにいきなりやって来て、そんな意識の高いことを求めてくんなよと思った。
それを言葉にしなかったのは、ここまで案内してきたからには途中で放棄するのは嫌だったからだ。
「俺が物心ついたくらいの頃に、車の博物館とかはあったけどなあ」
その博物館はドラマの撮影とかでも使われて有名で、俺たちが名所と断言できる唯一の場所だった。
俺ですら数えられる程度しか行ったことないから、推して知るべしって奴だ。
だけど車繋がりで、ふと思い出したんだ。
「僕が?」
「あの文章が書かれた場所は、この家だってのが分かった。つまり、書いたのもタイナイだろ」
まるで自分が書いていないかのように語っていた時、一体どういう気持ちだったんだ。
こうなってくると、俺に説明していたことも本気だったかすら怪しいし。
「それがどうやって分かったのかはともかく、しらばっくれても誤魔化せない雰囲気だね……じゃあ、白状しよう」
その時の俺は、失望とか徒労とか懐疑とかでグチャグチャだった。
タイナイの返答次第で、それをどう発散するか決めるつもりだったんだ。
「僕が“M”ってのは半分正解だ。いや、1割正解と言うべきか」
だけど返ってきた答え合わせは、俺が思っているよりも肩透かしなものだった。
1割って……それだとほぼ不正解じゃんか。
「なんだよ、それ」
「正解といえなくもないってことさ。“M”を名乗り、あの文書を拡散させたのは僕だしね」
「……いや、だから、お前が“M”なんだろ?」
ここにきて、まだ他人事みたいな言い方をしてくる。
なんで、そんな回りくどい表現をするんだ。
「厳密には違うね。“M”ってのは個人を指していないのさ。不特定多数の集合体というべきか」
「はあ!? どういうことだよ」
そうして語られた真実が、俺が想像していたよりも底が知れない、と同時にくだらないものだった。
今から数週間前、タイナイがいつも通りネットの海を漂っていた時。
ひょんなことから、『Mの告白』の原文を見つけところから始まった。
それは取るに足らない、ただの愚痴みたいな内容だったらしい。
「告発系の怪文書ではあったけれど、自意識が前のめり過ぎてね。論旨もとっ散らかってて、真面目に読むような内容じゃなかった」
でも、その時タイナイは思ったらしい。
これをもっと人目につく場所で、もう少しコンパクトにして拡散すれば話題になるんじゃないかと。
「まずは、パッと見で分かるような問題点をまとめて羅列した。そして無関係な各論を繋ぎ合わせ、一つの大きな問題のように仕立てるのさ。ところどころ事実や、尤もらしい主張を織り交ぜつつ、全体的な印象に引っ張られるよう誘導するわけだ」
後は放っておいても大盛り上がりになるようだ。
「数珠繋ぎの自然現象さ。誰かがどこかで話題にすれば、それを聞いた誰かが別のところで話題にする。それが大規模に起これば、もう止められない」
「じゃあ、タイナイは軽く添削しただけで、自分が書いたものですらなかったってこと?」
「“M”だと名乗って、何かの関係者だと自称すれば、ほとんどの人間は本当か嘘かなんて分からない。代表者のように語るとウケがいいんだ。ダイエット法を語るなら、デブより痩せてる人の方が説得力はある」
「書かれた内容を鵜呑みにしてもらう必要はない。情緒的で関心を引くものに対して、人は“何かを語りたい”って衝動が沸き起こるからね。虚実の按配なんて、赤の他人にとっては瑣末な部分なんだよ」
つまり“M”ってのは、そういう文章を書く人間、それに影響を受けた人間全てを指しているわけだ。
少し前、「リテラシーで大事なのは“嘘か本当か分からない場合の対応”だ」と言っていたけど、その意味が分かった。
大半の奴らはリテラシーなんてないって、タイナイは言いたいわけだ。
「タイナイは何がしたいのさ。何が望みで、こんなことに加担したんだ。リテラシーのない奴らを、陰で笑いたいとか?」
「別に大した理由じゃない。強いて言うなら“気になったから”。些細で不健全な動機だけど、ほとんどの人間はそんなもんだろ」
本当に大した理由じゃなかった。
ここまで大騒ぎになっている出来事が、蓋を開けてみればこんなことがきっかけだなんて。
「じゃあさ、本当の、最初の“M”ってのは、どこの誰なのさ」
あっけらかんと返すタイナイに、俺は「そうだね」と言うしかなかった。
結局のところ“M”の存在は、まるで掴み所のないまま。
たぶん“M”は、これからもどこかで、何かを告白し続ける“関係者”でい続けるのだろう。
今回の件で走り続けて俺が得られたのは、しこりのように残る感覚だけだった。
もっと大掛かりかと思っていたけど、パソコンとほぼ同じやり方なんだな。
「これが“M”とやらの文書か……ではセキュリティを突破する」
「早いね」
「ここまでは序の口。第二関門は脇道から攻めていかなくては……」
今の状況を俺なりに解釈するなら、転校生だと偽って別の学校に入り込んでいる感じだ。
で、今度は裏口を探して、職員用の部屋に潜り込もうとしている。
実際はもっと複雑なことをやっているとは思うけど、傍から見たら絵面が地味なのは同じだ。
「ふんっ……ぬっぐ!」
手強いセキュリティに阻まれたのか、ムカイさんが凄まじい唸り声を上げている。
よく分からないけど、かなりの荒技で突破しようしているっぽい。
こういうのって、もっとクールに、スマートにやるもんだと思ってた。
「……よし、“M”の居場所が分かったぞ」
ムカイさんの唸り声が家の中に響き続けて十数分。
いつまでかかるのか不安になっていた頃だったので丁度よかった。
「すごい! 本当に出来たんだ!」
「待ってろ。今、地図に印をつけてやる」
そう言って、近くにあった引き出しから、ペンと地図を取り出した。
そこはアナログなんだな。
「ほら、ここだ」
「意外と近いんだね」
“M”の居場所が地球の裏側とかだったら、どう連絡しようかなんて考えていたけれど、その手間は省けそうだ。
「ん? というか、ここって……」
そこは俺の知っている場所だった。
「……よし、早速ここへ向かうよ」
「ワレも同行すべきなのだが、充電せねばならん。太陽光だけでは賄うえん。」
ムカイさんはエネルギーをかなり消耗してしまったようで、今にも止まりそうなくらい動きがぎこちない。
正直、“M”の正体が分かった今となっては、むしろ俺一人のほうが都合が良かった。
俺は報告のため、タイナイの家をまた訪ねた。
「あれ、また来たんだ。忘れ物?」
「“M”の正体が分かった」
「えー、本当に?」
随分と無駄な遠回りをした。
もうこれ以上、面倒なプロセスはごめんだ。
走り疲れていた俺は、勿体つけずにその名を告げた。
「……タイナイが“M”なんだろ」
「それに現代のテクノロジーだったら、未来のボクじゃなくても解決できるだろう。そういうことに精通していて、かつキミの要求を快く受けてくれる人に心当たりはないのかい?」
そういえば一人いた。
いや、“一人”と言っていいかはビミョーだけど、俺的には一人の内だ
「ガイド、今回のは“貸し”だ。覚えとくから、そっちも覚えとけ」
「なに言ってんだ。お前が返す側だぞ」
「えー!?」
「さっき『悪いけど』って言って断っただろ。その分の貸しだよ」
「ザッツライト、その通りだ! 悪いと思ってるのなら、別の形で報いるべきだ! そうするべきだ!」
家主のシロクロにこう言われては、居候のガイドも反故には出来ない。
さて、こうしてはいられない。
俺は自分の家がある方角へ走り出した。
「はあっ……はっ」
我ながら、今日はよく走る日だ。
近い場所だからと、自転車を使わなかったのは結果的に失敗だった。
何はともあれ、俺は自分の家にたどり着いた。
そこに住んでいる、ムカイさんこそが俺の心当たり。
実はかなりの高性能ロボットなんだ。
父さんは「ロボットじゃなくてアンドロイドだ」って訂正したがるけど、正直どっちでもいいと思う。
「ぜえっ……ふう」
息を切らしながら、ムカイさん宅の玄関のドアを叩く。
気持ちが逸ってそうしたわけではなく、インターホンが壊れているからだ。
「チャイムに使われていたメロディに敵意を感じた」とかで、ムカイさんが壊してしまって、そのままだ。
「ごめんくださーい……ムカイさーん、いる-?」
そう呼びかけて数秒後、家の中からドタドタとした音が聞こえた。
そして、その音がどんどん近づいてくる。
「どうした小さきマスダ」
勢いよく開けられたドアは壁とぶつかり、大砲のような音を打ち出す。
もし外開きだったら、ふっとばされてたな、俺。
「さっきまで走ってただけさ」
「つまり、急ぎの用というわけか」
ついさっきまで、俺にムカイさんを頼るって発想がなかったのは、この豪快な言動が原因だ。
でも、よくよく考えてみればムカイさん自身が強い機械といえる。
これ以上なく適役だろう。
「……というわけでさ、ネットにアクセスして、その“M”の居場所を知りたいんだ」
「うむ……レベルによるが、多少のセキュリティなら突破可能だ……それを書いた人間の居場所も割り出せるだろう」
俺が事情を説明してから、ムカイさんがやや言葉を詰まらせるようになった。
「ううむ、“複雑な心境”とは、こういう状態を言うのだろうか」
その原因は、たぶん『ラボハテ』について思うところがあるからだ。
ムカイさんは、秘密結社『シックスティーン×シックスティーン』によって作られた戦闘用ロボットだった。
一昔前までは、『ラボハテ』や俺の母さんと激闘を繰り広げていたとか。
「大丈夫? ムカイさん」
「問題ない。あの戦いの日々は過去の履歴。元より『ラボハテ』自体に執着などないのだ」
ムカイさんはそう返すけれど、演算処理の遅れは正直だ。
今でこそ敵対していないものの、因縁の相手であり、ルーツとも言える存在であることに変わりはない。
そんな『ラボハテ』の名前をこんな形で聞いたんだから、そりゃまあ戸惑うよな。
「それで……頼んでもいい?」
「むう、それならオマエの母もサイボーグだから出来るんじゃないか」
「お母さん、機械にそこまで強くないんだよ。ネットとかも全然ダメ」
「“機械に強くない”……あいつ、ワレに何度も勝ってきたくせに……うごごご」
ムカイさんは頭を抱えだした。
何か重い処理に引っかかったらしい。
「……よかろう、オマエの母にすら不可能なものを攻略してやる」
だけど十数秒後、その処理を何とか終えたようだ。
ムカイさん、“M”の捜査協力を力強く引き受けてくれた。
「プライバシーポリシーなど、ワレの力の前では無力と知れ」
そうして俺が目的地へ走っている時、兄貴は乗り物で優雅に移動していた。
「それで弟は、『“M”の話を鵜呑みにする人間が多いのは奴が“インフルエンザ”だから』って言ったんですよ」
乗り合わせたセンセイとバスに揺られながら、なんだかユラユラっとした会話を交わしている。
「どうしてあんなものを信じるんでしょうね。知識や読解力がなくても、そもそも匿名の文章って時点で疑ってかかるもんですが」
「恐らく、そこはどうでもいいのだよ。彼らにとって信用できるか、情報が確かであるかなんて重要なことじゃない」
「ええ? 最も重要な点だと思うんですが」
「彼らにとって重要なのは、興味深いかどうかだよ。その情報に対して自分が何を語りたいか、他人がどう語っているかだ」
「大衆は愚かではあっても馬鹿ではないということさ。あれを本気で、何の根拠もなく鵜呑みにしている人は少ないだろう」
「ああ……そういえば、クラスメートも『本当だったら何か言いたくなるし、嘘だったらそれはそれで何か言いたくなる』とか話してました」
「まあ、場末のネットに限ったことでもないがな。マスメディアで情報をこねくり回したり、コメンテーターが適当なことを言うのも同じさ」
「それにつけても“M”がインフルエンサーだってのは変な話ですけどね。どこの誰かも分からない人間の言葉に権威があるなんて。ましてや一般社会から隔離された状態で、社会の意見だとかを吹聴するなんて馬鹿げている」
「マスダの指摘は興味深いが、案外“M”当人に崇高な理念や目的はないかもしれないぞ」
「では何のために? 他人にどう受け取られるかといった意図や期待も希薄なまま、わざわざ目につく場所で主張することを憚らない。一体どういった心理なんですか」
「要は独白、“呟き”なんじゃないかな。自己顕示欲、承認欲求といったものすら漠然としている。自分の中にある鬱屈とした想いを、ただ発露したかっただけなのかもしれない。ネットにはそういうタイプが結構いる」
「それじゃあ、まるでガムを道端に吐き捨てるようなものじゃないですか。噛み終わったのなら、紙に包んでゴミ箱に捨てるべきだ」
「ネット社会はそういうのに大らかなのさ。現実の公道とは違う。だから、彼らは自分の口の中にある“ガム”を吐き出すんだよ。それがどういう結果に繋がるかを深く考えないまま、ね」
「うーん……理解に苦しみますが、辻褄は合いますね。ネットだからこそ“M”には権威があり、それに便乗して語りたがる奴も多くいるわけですか」
「実際のところは分からないがな」
そんな感じで兄貴たちは今回の件に関わろうとせず、ただ俯瞰して見ているつもりのようだった。
でも憶測をあれこれ立てたり、自分の物差しで思うまま語っている時点で、騒いでいるだけの連中と大して変わらない気もするけれど。
兄貴がそんな悠長な話をしていた時、俺はシロクロの住み家にたどり着いた。
「ウェルカム! 遊びに来たのか? それともオレの力が必要か?」
「え、ボクに?」
この家に居候しているガイドって奴は、遥か未来からやってきたらしい。
テクノロジーも進んでいるから、きっと未来のアイテムとかで“M”を見つけ出せるはず。
「へえー、この時代の人たちは随分と純粋なんだね。情報に関するインフラストラクチャーが整ってなくても、教養や意志が薄弱なままでも、非論理的なものに身をやつせるだなんて。少しだけ羨ましいよ」
いつも通りウザいポジショントークをしてくるけど、今はそんなことで不機嫌になっている時間はない。
「やろうと思えばできるけど……やるわけにはいかないかな、それは」
しかしアテが外れた。
いや、俺のアテそのものは外れていない。
こいつにやる気がないってだけだ。
「なんでだよ、人が死ぬかもしれないんだぞ」
「だからこそだよ。人の生死が左右されるレベルの過干渉は避けたいんだ。修正力で直せないほど未来が変わるかもしれないからね」
「不甲斐ないぞ、ガイド! お前は何のために未来から来たんだ!」
「少なくとも、こんなことのためではないよシロクロ」
じゃあ何のために来たのかというと、それも守秘義務だとかで答えない。
なんだか、実は出来ないことを誤魔化しているだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。
「悪いけど他をあたってくれよ、マスダの弟」
何が「悪いけど」だ。
悪いだなんて全然思ってないくせに。
「ネットにある怪文書の9割は内実そんなもんだよ。結果、真実に近かったとしても、それは賽の目を当てただけ」
それを知った途端、目に映る『Mの告白』の文章が上滑りしていくようだった。
俺はもう、これをマトモに読むことは出来ない。
「ただの愚痴でこんな……」
「各論を切り取って考える分には、真っ当な箇所もあるからね。頷きやすい部分が少しでもあると、リテラシーの低い人間は当てられやすい」
まさに俺じゃないか。
何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。
騙されたとまではいかないけど、ほとんど騙されたようなもんだ。
俺は「騙された方が悪い」ってのを、大した理屈だとは思ってない。
だけど、騙されたことによる恥ずかしさは否定しようがなかった。
「ああ、ちくしょう、俺はこんなのを、なんで本気に……」
恥をかかせた人間が、どこの誰かも分からないから余計に虚しい。
「ま、まあ、そこまで気落ちする必要もないよ。『Mの告白』はエモーショナルでセンセーショナルだ。情緒的で関心を引く要素が強いと、リテラシーは分が悪い」
落ち込みっぷりがよっぽどだったのか、タイナイが特有の言葉選びで慰めてくる。
理屈はイマイチ分からなかったけど、俺みたいな奴ってことだけは伝わった。
「……確かに、俺だけリテラシーがないってわけじゃない。多くの人が、嘘か本当かを見分けられてないんだ」
俺は、そう自分に言い聞かせるように答えた。
すると、タイナイはまた妙なことを言いだす。
「僕が思うに、リテラシーで大事なのは“嘘か本当かを見分ける”ことよりも、“嘘か本当か分からない場合の対応”だよ。その点で、“リテラシーがある”といえる人間は少ない」
そもそもリテラシーって言葉自体、まだ俺はちゃんと理解できてないんだ。
「え? どういう意味?」
「いや、もういい。お腹いっぱい」
「それにしても……」
改めて思う。
「……結局“M”は何者なんだろう」
「さあね。だけど“M”が賢明な人間ならば、少なくとも名乗り出るようなことは絶対しないだろうね」
「なんで?」
曖昧な表現ばかり使うタイナイが、『絶対』という強い言葉を使うのは珍しかった。
「“M”について快く思わない者は多い。大半は有象無象だけど、中には報復してやろうと血眼になっている人もいるようだ」
「報復……」
「殺害予告とかも、よく見るね」
「そこまで!?」
俺も“M”に対してはちょっと怒ってるけど、殺してやろうとまで思ってる奴がいるのか。
「あることないこと、個人のフィルターにかけて語られるわけだからね。立場や性格次第では、たまったもんじゃないだろう」
なんてこった。
なぜかタイナイはのほほんと言っているが、これは大事件の前ぶりだ。
もし迂闊に“M”が正体をバラしたら……そいつらに殺されるかもしれないってことだろ。
何とかして未然に防がないと。
「伝えるって、どうやって……」
もちろんアテはある。
だけどそれを説明している暇はない。
俺はすぐさま部屋を飛び出した。
「それに、ネットがきっかけで起きた事件もあるにはあるけど、怪文書と同じで殺害予告も鵜呑みにし過ぎるのは……ああ、行っちゃった」
俺は兄貴の言っていたことが気になって、翌日タイナイのところを訪ねた。
兄貴の友達だし、ネットに別荘もってる人らしいから、今回の件についても詳しそうだと思ったからだ。
「だからといって、それだけでデマ扱いするのもどうかと思うぞ」
「今回の騒ぎを面白がっている身で言うのもなんだけど、あの『Mの告白』は眉唾だよ。あれを本気で読んでる人が身内にいたら、そりゃ呆れもするさ」
「マスダの弟くんは、もう少しリテラシーを身につけたほうがいいかもね」
出たよ「リテラシー」。
ミミセンとかもたまに言ってるけど、俺にはそれもイマイチ分からない。
こっちが知らない単語を使って、見下してくるような感じがして気に食わなかった。
「なんだよリテラシーって。『Mの告白』は、あれだけなら本当だと判断してもおかしくないはずだ。だったら後はもう、信じるかどうかの違いしかないだろ」
そう返す俺に対して、タイナイはやれやれと言いたげな表情をしていた。
そう言って手元の小さいパソコンを操作すると、数秒とかからず『Mの告白』を画面に出した。
それはさすがに分かる。
俺が聞きたいのは、もっと他の部分だ。
「で、次が“M”の自己紹介。『ラボハテ』の関係者であると言っているけど、具体的に“どういった関係者”か曖昧なんだ」
詳しく書くと誰が書いたか分かってしまうから、それを避けたくて匿名にしてるんだろうし。
「“関係者”と一口に言っても、色々あるだろ。それ次第で、知ってることにも違いが出る。配膳係が『自分は有名料理店で働いている』と言って、美味い料理の作り方とか語ったら信じるわけ?」
ああ、なんとなく分かる。
「それもキナ臭いんだよね。挙げられていることの事実関係が怪しい。事実だと仮定しても、論旨との繋がりが希薄なんだよ。挙げられていることが本当に問題かってのも疑わしいし」
そうしてタイナイの説明を聞いていたんだけど、正直ちゃんと半分以上は理解できなかった。
なんというか、同じ国の言葉を喋っているというのは分かるんだけど、スッと頭に入ってこない感じなんだ。
「例えば、この箇所。責任の所在について、誰が、何を、誰に対して、どの程度するべきかって部分を抽象的に書いている。企業の問題なのか、個別の問題なのかが明確じゃない」
今になって、兄貴が俺に説明したがらない理由が分かった気がする。
これは説明する方も、聞く方もかったるい。
「更には感情的に書かれている部分も多くて、この書き手の価値観や解釈の違い、知識面での誤解の可能性も高い。仮に出来事そのものはあったとしても、どこまで客観的な事実として書かれているかも疑わしい」
「ごめん、結論だけ聞かせて」
「『Mの告白』は個人的な不平不満を、無関係な各問題と継ぎ接ぎしているだけ」
えーと、それってつまり……
「ただの愚痴ってこと?」
「まあ、ほぼ愚痴だね」
「えー……」
それを聞いて、どんどん体の力が抜けていくの感じた。
俺、そんなのにマジになってたのかよ。
そうして放課後。
俺は足早に家に帰ると、すぐさま自分の部屋に向かった。
パソコンで“M”について調べるためだ。
「……ギリシャ文字?」
ひらがな、カタカナ、アルファベットなど、色々と変えて検索してみたけどカスりもしなかった。
なんだよ、最近の検索機能はすごいって話を聞くけど、全然そんなことないじゃないか。
それどころか段々と脇道に逸れていき、求めていない知識ばかり増えていく。
「へえー、M表記ってこんなにたくさんあるんだなあ」
同時に、俺の中で“M”に対する興味も薄まっていくようだった。
なるほど、誰も足取りをつかめないわけだ。
正直、“M”がネットにいるのかすら怪しいと思えてくる。
「珍しいな、お前がパソコンで調べ物とは」
俺はそれに気づかないほど熱中していたらしい。
「1024×1024……算数の予習か?」
「違うよ。“M”っていうインフルエンザのこと調べてるんだ」
我ながら意味不明なことを言っていたと思う。
「インフルエンザって、そんな型があったのか? というか、それで何で算数の計算……はーん、なるほどな」
それでもさすが兄弟というべきか、すぐに状況を察したようだった。
「代われ。こういうのを調べる時はコツがあるんだ」
兄貴がパソコンを使い始めると、たちまち画面にそれらしい情報が並ぶ。
俺が1時間近くやっても出なかったのに、人が違えば1分もかからないのか。
「おおー、すげえ」
「いや、関連するキーワードを複数検索しただけだぞ。パソコンの授業とかで習わなかったのか?」
「トランプゲームしかやらねえもん。テストも宿題もないような科目を真面目にやる気しないし」
まあ、こういうことになるなら、ちゃんと勉強すべきだったと思わなくもないけど。
「とりあえず、そうだな……騒ぎの発端になった、『Mの告白』とやらを読んでみるか」
『Mの告白』はざっくりといえば、こんな感じだ。
“M”は『ラボハテ』の関係者であることを自称し、社内での事情を色々と羅列している。
とにかく『ラボハテ』には様々な問題がある、ということが伝わってくる内容だ。
「お前、マジで言ってんのか。こんな怪文書をよく鵜呑みにできるな」
「え? かいぶんしょ?」
「お前には説明する気も起きない。餅を食べない人間に、餅が危険な食べ物だと分からせるために原材料から解説するようなものだ」
「はあ?」
その日は結局、兄貴が意味不明な例えをして“M”の話は終わりとなった。
「ますます分からん。こんな内容で、何であそこまで騒ぎになってんだ」
「……“インフルエンザ”じゃなくて、“インフルエンサー”な」
ところかわって兄貴の学校でも、“M”についての話がクラスで繰り広げられていた。
「『ラボハテ』のゴタゴタ知ってるっすか? いやー、結構ショックっすね~」
気になるものには何でも関わりたがるカジマ。
「僕はネットで追っていたからずっと知ってるよ。“M”の告白も、ここまで影響力を持つようになったかって感じだよね」
「いち小市民の声なき声も、やっと実を結ぶ機会が出来たというべきだな」
「お前ら、よくそんなに熱をあげられるな。最近、暑くなってきたってのに、余計に温度が上がるぞ」
そこに澄まし顔の兄貴がいるという構図だった。
「逆に、マスダだけが冷めすぎなんじゃないっすか?」
「俺には関係のない話だし」
「そんなことないだろ。マスダの母さんって、確か『ラボハテ』製のパーツ使ってただろ」
「俺の中ではそれを“関係がある”とは言わない。今回の騒動って、製品に問題があったからじゃないし」
実際、母さんの手足はラボハテ製になっている。
弟の俺は“M”の存在が気になる年頃だし、兄貴はちょっとやそっとのことで物事を俯瞰するのをやめない。
「というか、その“M”ってどこの誰かも分からないんだろ。そんな奴の言うことを信じて、踊らされるなんてバカみたいじゃないか」
「確かに本当かどうかなんて確証はない。だが、もし本当だったら何か言及せざるを得ないだろう」
「そうっすよ。“M”が誰かなんて分からないし、告白の内容が真実かも怪しいけど、もし本当だったら気になるじゃないっすか」
「そうだよ。本当だったら何か言いたくなるし、嘘だったらそれはそれで何か言いたくなる。どちらにしろ僕らは何か言わなきゃならないんだよ」
むしろ、全く関係がない人が周りで囃し立てるものだから、兄貴は余計に冷めていた。
「俺にどうしろってんだ。結局、やることは騒ぎに乗っかるだけだろ。それで何か解決になるのか?」
「いやいや、こういう騒ぎって案外バカにできないもんだよ」
「むしろ国とか法が裁かないから、オイラたちが“騒いで、問題にしてあげている”と言ってもいいっす」
「待て、カジマ。その言い方だと、無理やり問題化させた騒ぎに、我々が軽い気持ちで便乗しているみたいに聞こえるではないか」
「言い方変えても、ほぼ同じだと思うんだが」
兄貴も、この騒ぎに対して何も思うところがないわけじゃなかった。
どちらかというと、今この状況に対する煩わしさの方を強く感じていた。
「なんだよ“M”って……何がこいつらをそうさせるんだ」
そして、この煩わしさを少しでも解消するには、“M”について知るべきだと兄貴は考えた。
こうして動機こそ違うものの、俺たちはほぼ同じ時間に、ほぼ同じ目的を見出していたんだ。
俺は教材の入ったカバンを机に置いたまま、その輪に勢いよく跳び込んだ。
「そんなに気になるニュースがあったのか?」
だけど、その勢いはすぐに止まった。
何かと思えば、くっだらねえ。
「でも、かなり騒ぎになってるよ」
どこでだよ。
せいぜい、お前らが勝手に騒いでる位だろ。
「少なくとも、子供がハシャげる話じゃないな」
面白みのない話をするくらいなら、授業の準備をしておいたマシだ。
そうして自分の席に戻ろうとした時、タオナケの強烈なワードが俺を引き戻した。
「私も普段ならそう思うけど、ここまでの騒ぎになったのは、あの“M”という人間が裏で関係しているからなのよ」
「“M”……って誰だ?」
「な、な謎の人物なんだ」
俺は“M”の存在を知ったのは、その時が初めてだ。
だけど「謎の存在が裏で関係している」なんてシチュエーションを聞かされたら、さすがに澄ました顔じゃいられない。
「“M”はね。ネットで色んなことを告白をしている有名人なんだよ」
「え、“M”はすごいんだ。ひひ、一言呟くだけで、関係するものは大なり小なり影響を受ける」
「つまり、そいつが『ラボハテ』について喋った結果、ニュースになるほどの出来事になったのか」
すごい力を持っているんだな。
「私、詳しくないけど、いわゆる“インフルエンサー”ってやつね」
「インフルエンザ?」
“M”は人じゃないのか。
「“インフルエンザ”じゃなくて、“インフルエンサー”だよ。世間に大きな影響力を与える人のことをそう言うの」
なんだ、ウィルスじゃないのか。
ややこしい名前つけやがって。
「で、その“インフルエンザ”は……」
「……“インフルエンザー”は」
「混ざってる、混ざってる」
ミミセンがいちいち訂正してくる。
「……で、そのインフルエンサーは」
この時に話の腰を折られたことで、俺の“M”に対する知的好奇心はより強くなってしまう。
ああ、気になる。
何者なんだ、“M”って。
どこで生まれて、どこに住んでいるんだ。
年齢はいくつで、経歴はどんなだ。
性別は男か女か、それともどっちでもないのか、はたまた両方か?
算数の授業中、俺はそんなことばかり考えていた。
自ずと答えの分かる数字の計算よりも、いくら考えても分からない“M”が気になってしょうがない。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」なんて、マリー・アントワネットは言っていなかったらしい。
なんで彼女のセリフとして広まったかというと、“あいつなら言いかねない”からだ。
俺たちはそんなフンワリとしたイメージだけで信じてしまえるわけ。
冷静に考えてみれば、そもそも本人に確認を取っていない情報を信じるなって話ではあるけれど、そんなこと言い出したら歴史上の人物はほとんどがそうだろ?
いや、今でも似たようなものかも。
俺たちは信じたいものを好きなように信じて、気をつけて使うべき階段を踏み外して怪我をする。
階段を使うことを決めたのも、気をつけなかったせいで怪我をしたのも自分のせいだけど、そのことについて反省しない。
その日の俺も深く考えないまま、学校の階段を一段とばして上っていた。
朝のチャイムが鳴る前に教室に入っとかなきゃいけないから急いでたんだ。
登校だとかの面倒くさい日課はギリギリまでやらないことがモットーなのさ。
「よっ、ほっ、はっ」
階段を上るたび、背負っている鞄がユサユサと揺れる。
その振動で体のバランスは不安定になりやすく、ちょっと危なっかしい。
さっきの例え話とかけるなら、俺はここで階段から転げ落ちるんだろう。
けど、あくまで例え話は例え話で、フィクションのフラグなんて存在しない。
こんな余裕のないことをしておいてナンだけど、俺だって遅刻したいわけじゃない。
焦るものは焦る。
実際、それで遅刻しかけたこともあるので、ここで走るのは危険を伴う。
急いで歩くことが求められる。
「急げ、急げ、急げぇ~」
そう呟きながら自分を鼓舞しつつ、競歩選手並にクネクネしながら教室へ向かう。
スピード的には走っているようなものだったけど、常に足のどちらかは地面に接しているので問題ない。
だけど、それでも残り数秒あるかどうか。
頼む、間に合ってくれ。
朝のチャイムが鳴り響く。
これまでにないほどバッチリのタイミングだったので、思わずガッツポーズをした。
「客観的に見れば、ただ遅刻しかけただけなのに。よくそんなに喜べるな」
「偉そうなこと言うなよツクヒ。遅刻しなかったのも、遅刻しかけたのも同じ。つまり俺とお前に何の違いもないんだ」
取るに足らないやり取りだ。
むしろ俺が気になっていたのは、仲間のタオナケ達が珍しいネタで盛り上がっていたことだった。
「う、うん……みた、き、きいた」
俺たちガキにとって、ニュースは占いとかミニコーナー目当てに観るものだ。
だってニュースの話で朝から盛り上がるなんて、イキってるみたいじゃん。
だから話題になっているということは、よっぽど気になるネタがあったってことの裏返しでもある。
元からあってないような気力で来たものの、俺と弟は少し憂鬱になっていた。
とはいえ、うっすら分かっていたことだし、大して気落ちはしない。
それに、ここに来た理由はもう一つある。
なんなら、こっちがメインといってもいい。
そう、あの駄菓子屋だ。
「あ、マスダも来たんだ」
「もう来ないかと思ったぞ」
「ワイは来ると思っとったで」
「カン先輩も来てたんですか」
「引越し手伝いの“ついで”や」
なんとなく察しがついた。
今の俺たちにとって、この駄菓子屋は“わざわざ”行かなければ辿り着けない場所だ。
かといって、わざわざ行くようなものでもない。
かくいう俺たちもそうだったから分かる。
「ふん、どっちが“ついで”なんだか」
「お互い様やろウサク。それに、自分らも“これ”が気がかりで来たクチやんか」
しかも普通のタコせんではなく、タコ焼きの入った「真・タコせん」だ。
どうやら、みんな考えることは同じらしい。
早速、俺たちも頼むことにした。
オバチャンが慣れた手つきでせんべいを取り出し、ソースを塗りたくっていく。
ガキの頃に見た光景と同じだ。
違うのは、その過程にタコ焼きを乗せ、もう一枚のせんべいで挟み込むという工程が入っていること。
「ほい、200円。こぼさないよう気をつけな」
弟は小躍りしながら真・タコせんを受け取った。
欲しくても手が出せなかったが、今じゃその安さに驚くほどだ。
世の中はモノの値段が全体的に上がっていると聞くが、それでもなお安いと感じる。
「これが真のタコせんかあ」
俺も食べ物を前に、ここ数年で最も気持ちが高揚していた気がする。
「いただきます」なんて省略だ。
俺たちはすぐさまタコせんを頬張った。
「……うん」
「まあ、美味い……」
しかし、俺たちの憧れは儚かった。
美味いのは間違いない。
少なくとも不味くないのは確かだ。
問題は味のクドさであり、半分も食べたあたりになると少し飽きてくる。
あと、サンドしているにも関わらず、思っていたより食べにくい。
せんべいが割れないようにしつつ、揚げ玉などがこぼれないよう食べるのに気を使う。
それに、タコ焼きを抜きにしても気になることはもう一つあった。
「あー、それワイも思た」
どうやらカン先輩たちも同じことを感じていたらしい。
なんだか以前と味が変わっている。
せんべいなのか、ソースなのか、マヨネーズなのか、揚げ玉なのかは分からないが、とにかく何かが違う気がしたんだ。
「ずっと同じだよ。せんべいもトッピングも全部市販のやつだし、ここ数年で味を変えたって話も聞かない」
「本当に? 実はこっそり変えたとかじゃなく?」
「仮にちょっと変わったとして、それが分かるほどアンタらの舌は繊細なのかい。ましてや久々に来たくせに」
つまり、俺たちの記憶違いか、味覚が変わったってことなのだろう。
昔の記憶にすがるほどの思い入れはないが、そのギャップ差に軽くショックを受けた。
「ま、ちっちゃいの頃の憧れなんて、そんなモンなんやろうな」
あの、当たりつきの奴だ。
「カン先輩、それって……」
「知っとるか、マスダ。駄菓子の当たる確率は、全て数パーセント以内と決まっとるらしい」
「はあ、そうなんですか」
「つまり週一でこの菓子を数個買ったとしても、当たりにはまず巡りあえないわけや。巡りあえたとして、その程度の確率では総合的なコスパはイマイチ。あの頃のワイは、この菓子にまんまと踊らされてたっちゅうこっちゃ」
こちらの言いたいことを知ってか知らずか、カン先輩は流暢に語りだす。
まさか、わざわざ調べたのだろうか。
それほどまでに当たらなかったの根に持っていたのか。
「そこまで分かっているのに、また買うんですね」
「言いたいのはな、こういうのは当たるとかハズレるとか前提で買うもんちゃうってことや……ちっ」
そう達観したようなこと言いながら、先輩は微かに舌を鳴らした。
どうやらハズレだったらしい。
「『無欲になれば当たりやすくなる』って本に書いとったのに」
「それ、ロクな本じゃないですよ」
『ハテナ学童』と書かれたトタンの看板が、今まさに取り外されようとしている。
あの駄菓子屋も、そう遠くないうちにこうなるのだろうか。
「“終わりの始まり”……か」
ウサクが言うには、学童での決まりも近年で色々と変わったらしい。
「正直、こうやって看板が降ろされるのを見ても、なんだかあまり感慨深くないんだ。上手く言えないけど」
タイナイはそう呟く。
答えこそしないが、俺も同じだ。
この時の気持ちをありきたりな是非で語るのは陳腐で的外れに思えた。
酷い思い出があったってわけでも、良い思い出がなかったってわけでもない。
宙ぶらりんのような状態だ。
ちゅーぶらりん……チュー……。
「そういえばタイナイ、せっかく来たのにあれは食わないのか。『チューチュー』とかいうの」
「ああ、あれね……僕がいつも食べてたメーカーのは、もうないらしいんだ」
「そうなのか、それは……残念だな」
「似たような商品はあるし、それほど残念でもないよ。売ってないのを知った時も“あ~、そうなんだあ”って感じだったし」
ハテナ学童がなくなるのと同じで、案外そういうものなのかもしれない。
結局のところ俺たちができるのは、漫然と“そういうものがあった”って覚えておく位だ。
弟はというと、ボロボロに崩れたタコせんをどう食べるかで未だ苦戦していた。
そして話を現代に戻そう。
ある日、弟が帰ってくるや否や手紙を見せてきた。
「あの学童所が引っ越すんだって。名前も『ハテナ学童』から、なんかよく分かんないのに変えるとか」
むしろ、あのボロい住処でつい最近まではやっていたことに驚きだ。
それにしても、引っ越すだけではなく名前も変えるのか。
「で、引っ越す時に手伝って欲しいって。ボランティアで」
「ボランティアねえ……」
恐らく、タダ働きってことだろう。
「で、兄貴は行くの?」
「まさか。俺たちはあの施設に金を払って、不本意にも預けられていただけだぞ。引越しの手伝いなんてする義理はない。経済回すためにも業者に頼めってんだ」
「大した理屈だけど……兄貴にだって、義理はなくても人情はあるでしょ。形がどうあれ、それでも世話になったと言えなくもないんだし」
署名活動の時やたらと泣き喚いていた弟が、随分と健気なことを言ってくる。
俺よりもロクな思い出がなかった場所だろうに。
「他の子もくるだろうし、皆で久しぶりに何かやるのもいいんじゃない。少しでも思い入れがあるならさ」
「にゃー」
膝に乗っていたキトゥンが、弟と呼応するように鳴き声をあげた。
そういえば、キトゥンと出会ったのも学童時代の出来事が遠因か。
いや、キトゥンだけじゃない。
ウサク、タイナイ、カン先輩、今でもよろしくやっている友人もいる。
その点では無下にもしにくい、思い出の場所といえた。
まあ、それでも俺の意志は揺らがないが。
「いずれにしろ、その日の俺はバイトだ。ボランティアと比ぶべくもないな」
実際のところ、都合悪くバイトの予定はない。
建前上、そう断っただけだ。
「はあ、分かったよ。じゃあ俺は、父さんと母さんにも聞いてくるよ」
弟がそう言って部屋から出ようとした時、俺は慌てて扉を遮った。
「待て弟よ。分かった、俺も行く」
「え、急にどうしたんだよ」
もし両親が手伝いにいけば、他の保護者や学童の子とも話すに違いない。
ティーンエイジャーにとって、そんな状況は想像するだけでキツかった。
親というフィルターにかけられた子供の話ほど聞くに堪えないものはない。
「俺が行く以上、人手は足りている。だからこの件は他言無用だ。もし聞かれたら『学童の子だけでやることだから』と答えろ」
「思い出の場所に別れを告げるんだ。バイトとは比ぶべくもない」
まあ、なんだかんだで“思うところ”もある。
建物は当時からボロかったが、久々に見たら更に酷くなっている。
「おう、マスダ。来てくれたのか」
久々に会ったハリセンも“ザ・中年”みたいな見た目になっていた。
「きてくれて悪いが、もうほぼ片付いているんだ」
確かに俺たちがやることは残ってなさそうだ。
それ以外はほとんどダンボールに入れられ、ほとんど車に押し込まれていた。
面倒な仕事は避けたくて遅めに来たものの、意外にも多くの人が手伝いに来ていたらしい。
「せっかく来たんだし、中でみんなと話したらどうだ」
手持ち無沙汰な俺たちに、ハリセンは気を利かしてそう言った。
促されて家の中を覗くと、元学童らしき人たちが談笑しているのが見える。
しかし、その中に俺たちの知っている人は少ない。
俺たちは踵を返して外に出る。
「……俺と弟は外で待つよ。まだやることがあったら呼んでくれ」
知り合いもいるにはいたが、今では疎遠になってしまっている相手。
話せることも話したいことも特になく、同窓会ってムードじゃない。
俺たちには、あの空間は居心地が悪い。
そのために、かなりアウトローなやり方に手を染める者もいる。
「なんか最近、砂糖の減りが早い気がする……お前ら、こっそり舐めたりしてないだろうな?」
「さすがに、そこまで意地汚い真似はしないよ」
「クチャクチャ……せやせや、虫に食われてんちゃう?……クチャ」
特にカン先輩のやっていた方法はえげつなかったので、今でも記憶に強く残っている。
「カン先輩、さっきからずっとガム噛んでますね。もう味しないでしょうに」
「いやいや、まだするよ。甘い甘い」
「“甘い”?……カン先輩の噛んでるのって、甘さがそこまでない奴だったんじゃ……」
「あ……いや、ちゃうねん。アレや、『お前の考えが甘い』って意味の“甘い”や」
なんと、学童にある砂糖をガムにまぶして、味の延命を図っていたんだ。
そんな感じで、俺たちは思いの思いのやり方でオヤツを楽しんだ。
「オバチャン、タコせん頂戴」
そのせんべいにソースを塗りたくり、マヨネーズをかけ、最後に揚げ玉をふりかけて提供される。
いま思うと、「タコのせんべい」だからじゃなく「タコ焼きみたいなトッピングのせんべい」だから「タコせん」って呼ばれていたのかもしれない。
「ソースは二度塗り、三度塗りやろ! 串カツちゃうんやぞ。マヨネーズと天かすも、もっとかけーな! ケチくさいなあ」
カン先輩の態度はちょっとアレだが、トッピング増しの要求は学童全員やっていた。
なにせこれ一つで手持ちがなくなるんだから、ちょっと図々しくなっても仕方ない。
「あ~、やっぱ天かす多い方がええな」
「その点は同意ですが、『天かす』じゃなくて『揚げ玉』って呼んだ方がよくないです? “かす”って言葉じゃあ響きが悪い」
「なにがアカンねん。『駄菓子』って言葉にも駄目の“駄”が入ってるやん。上品ぶらんと、ちょっと下品なくらいがちょーどええねん」
“下品なくらいがちょーどいい”
俺たちが食べる、トッピング増し増しのタコせんは見た目も味も下品だった。
本来のせんべいの味なんてしない、上品なんて言葉とは無縁の代物だ。
だが、それに比例して満足感も上がる。
俺たちはそれでよかったし、それがよかったと言ってもいい。
「それに、言葉の響きとか言うたら『揚げ玉』も金玉の“玉”やん」
「えー……、その理屈はともかく、だったら揚げ玉って呼ぶのも良くないですか?」
「なんでや、“天かす”やぞ? “天のかす”やぞ? 『腐っても鯛』と同じってことや」
「違うと思います。それに、先輩の最初の言い分から少しズレていっている気が……」
しかし下品だとしても、俺たちにとってタコせんは贅沢品だった。
飴玉ひとつを勿体ぶって舐めている間に、せんべいはなくなってしまう。
買うには多少の思い切りが必要なんだ。
だから食べる時は自然と口数が多くなり、どうでもいい話をして、コスパだとかいったものから目をそらすようにしていた。
だが、それでも“情念”は頭をもたげてくる。
「あ~あ、“このタコせん”でこの美味さだったら、“あのタコせん”はどれほどなんだろ」
通常のタコせんに更にタコ焼きが加えられている、憧れの存在だ。
「マスダ弟ぉ、その話はすんなって前に言うたやろ」
「でも気になるんだもん」
「それは皆同じなんだよ。でも気にしたってどうしようもないだろ」
挟んで食べるなんて夢のまた夢だった。
結局、俺たちはあの「真・タコせん」を食べないままティーンエイジャーになった。
今だったら、食べようと思えば食べられる。
だが、未だ手つかずだった。
あの時の憧れは嘘じゃないが、なぜか今は食べたいと思えなかったからだ。
ウサクは渋いというか、俺たちから見るとビミョーなものをよく食べていた。
パッケージのデザインが一世代前みたいな、俺たちが第一印象で候補から外すような、子供ウケの悪い駄菓子だ。
「その『ミソッカス』って駄菓子、よく食えるな。明らかに不味そうじゃん」
「食べてみなくては分からん」
「なんで、そんなの食べるんだ? 好きなのか?」
「店に並んでいる以上、何らかの需要があるはずだ。企業の陰謀か、或いは食べた者を中毒にさせる成分が入っているのかもしれぬ」
「で、実際に口に入れてみて、『ミソッカス』はどうだった?」
「名は体をあらわすというが……まさにその通りらしい」
「というか、店のオバチャンに聞けば、売ってる理由が分かるんじゃないか?」
「むぅ、一理あるな。店主、つかぬことを伺うが、この『ミソッカス』はなぜ売っている?」
「……なるほど」
カン先輩は直情的だった。
「くそっ、ハズレや。なあオバチャン、当たりだけ抜いたりしてへんやろな?」
「そんなこと出切るわけないだろ」
とにかく「当たればもう一個は断然お得」という理由で、当たりつきの駄菓子をよく食べる。
一度だけ当たったことがあるらしく、その時の快感が忘れられないらしい。
また当たりが出るのではと、その菓子がそこまで好きでもないのに買い続けた。
「これもハズレ!?」
「ほんまに当たり入っとんのか?」
「あ、『当たりが出たのでもう一個』きた」
「あ~! タイナイ、お前なんやねん。ワイの方が買っとんのにぃ!」
カン先輩の熱中ぶりは凄まじく、特にタイナイが一発で当ててしまった時の拗ね方は酷かった。
「タイナイぃ! ワイの持ってる未開封のと、その“当たり”と書かれた蓋を交換や!」
「いや……というか意味ないだろ」
その日を境にカン先輩は当たりつきの菓子を買うことはなくなり、俺たちの間では“あの菓子”の名前を呼んではいけないほどタブーとなった。
カン先輩は刹那的な欲求に忠実なタイプだけど、それはこの頃から変わっていない。
そんな風に、俺たちは自由オヤツの時間を様々な工夫で楽しんだ。
「ミルせんにパチキャン、更にのびーるグミ! これで『パチグミサンド』の完成!」
複数の駄菓子を組み合わせて、新たな菓子を作るのも一時期流行った。
「着物ガムに、金チョコ、更におっちゃんイカを入れる! これぞワイの完全オリジナル『KKO団子』や!」
「確かにオリジナリティはありますけど、それ本当に食べるんですか?」
ただ食べ合わせは良くないことが多く、複数買った菓子を一つにまとめて食べると勿体無く感じてすぐに廃れたが。
「あ~……金チョコの甘味とおっちゃんイカの酸味が絡み合い、それを着物ガムが口の中で留め続ける……まあ、失敗に限りなく近い成功やな」
「それを成功とは呼ばないのでは?」
その日に手渡されるのは菓子ではなく小銭。
それでも俺たちは普段とは違う「自分の意志でモノを買う」という行為に一種の楽しみを覚えたし、駄菓子の下品なフレーバーに舌鼓を打った。
俺たちは小銭を貰うと、足早に最寄の駄菓子屋へ向かう。
学童所の近くにある公園を抜け、その向かいをちょっと進めばあるというアクセスの良さだ。
「さて、どうしたもんか……」
「そう急かすなよオバチャン」
その菓子屋はオバチャンが一人で切り盛りしていた。
俺たちは週末にそこを利用しては、彼女のせわしない声を聞くことになる。
「どれ選んだって、どうせ後で『ああすればよかった』って思うんだから、ズバッと選べばいいじゃないか」
オバチャンの圧力は凄かったが、店内で焼かれるタコ焼きの音、そしてソースの香りは独自の魅力があった。
俺たちはタコ焼きを買うにしろ買わないにしろ、その辺りに漂う独特な“駄菓子屋っぽさ”を好んだ。
「やはりアメ玉……アメ玉でいいのか、本当に?」
そんなオバチャンを尻目に、俺はいつも何を買うかで悩んでいた。
先ほども言ったが、使える額は少ない。
本当に少ないんだよ。
それ故、「如何にコストパフォーマンスを上げるか」は、学校の課題よりも大事なテーマであった。
「ああ、くそ……噛み砕いちまった。油断すると、どうしてもやっちまう」
例えば、俺の場合は基本アメ玉。
時には違うものを選ぼうとするが、結局はそこに終着することが多い。
だから如何に噛み砕かず、口の中に含み続けるかはちょっとした戦いだった。
「兄貴、またそのアメなの? アメにしたって、もっと他にあるじゃん。パチパチするヤツとか」
「あれは量が少ないだろ」
「あ、見てよアニキ。『金運』に花丸!」
「こんなの食ってる時点で、金運なんてないと思うがな」
「うーん、ちょっと暑くなってきたし、チューチューにしようかな」
「お前、寒い時もそれじゃん」
特に『チューチュー』という、棒状の柔らかい容器に入った飲み物をよく買っていた。
駄菓子屋では凍らせて売っており、食べる時は二つに割り切って食べる。
俺も食べたことがあるが、本当に凍らせただけって感じのチャチな味だった。
それでも冷たいってだけで、ちょっとした贅沢感を得られたものである。
「ほーい、みんな皿持ってって~」
ハリセンが人数分の皿を用意し、その中に市販の菓子を数種入れていく。
種類はその時々で違うが、基本的には甘いものと塩味のあるものが半々。
2~3時間後には自宅での夕食を控えている時間帯、ということもあり菓子の量は少ない。
「いや、慶応」
「それは元号の話やろ」
業務スーパーとかで仕入れているのか、よく分からないメーカーの菓子ばかりなのは気がかりだったが。
まあ味は悪くなかったし、ありがたいことにチョイスも普通だ。
フレーバーも変に奇をてらっていない。
まあ、とはいっても、実際そこまで安心できる時間でもなかったが。
「マスダ、ワイの皿と交換や」
「え、なぜ?」
だからこそ「最大限、可能な限り楽しみたい」と考える学童も多い。
「でも枚数的にはカン先輩の方が多いですよ。そんなに変わりませんって」
しかし、その“ほぼ”が厄介だった。
「そんなに変わらないんやったら交換してくれや」
「そんなに変わらないんだったら交換しなくていいでしょ」
食べたところで、胃袋はその差を感じ取れないにも関わらず。
「マスダぁ、ワイが上級生の権限を行使する前に、“大人しく”言うことを聞いとった方がええで~?」
「なら俺も下級生の権限を行使しますよ。そうなったら、“大人しく”するのはそっちじゃないですか?」
「いつまでやってんだ、お前ら! さっさと『いただきます』しろ!」
実際問題、違いがあったとして、食べた時の感覚は同じと言ってしまっていいだろう。
だけど菓子を目の前にした子供に、そんな理屈は大して意味がないんだ。
「今回も渡されたわけじゃないんだが……」
「ねえ、兄貴」
「ん? どうした?」
「俺の皿と交換して」
「おいおい、お前までカン先輩に触発されたのか? だから、どの皿も同じだっての」
「いや、そっちの皿の方が綺麗だもん」
「尚更どうでもいい」
不味い菓子が出てきたこともないし、全体的に美味かったと思う。
だけど、“面白味”という意味で味気なかったのは否定できない。
オヤツだろうがなんだろうが、「決まった時間に、誰かが決めたものを食べる」という状況は、俺たちに多少の閉塞感を与えたからだ。
いや、もちろん分かってる。
我ながら細かい不平不満だ。
ただ、こんな細かい文句が出てくるのは“相対的評価”だからである。
つまり、オヤツの時間よりも“楽しみな時間”があったってこと。